ハルモニア Cafe Lunatique (No.0022)

寮美千子の掲示板

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いとてつ  ありがとうございました 2003年04月27日(日)23時57分10秒
どちらかといえば、ぼくも…。 へのコメント

本日の研究会、多少遅刻しましたが、参加してきました。
ここでの事前の意見交換が生かされていたこともあってか、話していた人の中では、寮さんの意見が素晴らしかったです。

私は今日は会場で、プラネタリウムにはもっと科学を伝える事に力を入れて欲しい、旨の発言をしました。これには反論も受けましたが、科学ばかりが大切と思っているわけではありません。下の書き込みで寮さんがおっしゃるように、共感を呼ぶのは、「わたしと星との関係」を実感できたとき、なのですね。まったくそう思います。私が15年前の野辺山の特別公開で森本先生のお話を聞いたときに感じたのもそういうことだったのだと思います。「わたしと星との関係」を感じさせてくれる投影が増えてくれたら、と思います。

研究会の後の懇親会では、この掲示板に加納朋子「ななつのこ」を紹介してくださった、Eliさんにもお会いできました。プラネを扱った文学作品についてお話できて楽しかったです。また、会場では「虹の天象儀」のサイン本や「天象儀の星」も手に入れることが出来て喜んでいます。(「天象儀の星」の最初にかかれている、ドイツのカールツアイスでプラネが作成された経緯はよくまとまっていていいですね。)

この研究会の内容はどこかのページにまとめられる事と思いますし、また議論を続けていけたらと思います。今後ともよろしくお願いします。


DORONKO  どちらかといえば、ぼくも…。 2003年04月27日(日)09時28分01秒
プラネタリウム/神話の星と科学の星 へのコメント

プラネの研究会、いよいよ今日になってしまいましたね。
で、とにかくやらねばならないことなどがあって、じっくりと
考えて書くということはしかねるのですが、ちょっとだけ、
思うところを書きます。

>それは「多くの常連客」の要望であり「すべての観客にあてはまるという
>わけではない」と。わたしは、そのあてはまらない方の観客なのでした。 by寮さん

……星座解説をやめるのか続けるのかということは、それこそ個々のプラネや
館員の方たちが自主的に判断されるべきことでしょうから、ぼくは「やめて
しまえ!」などというつもりはさらさらありませんが、ぼくも、どちらかと
いえば、星座解説は「いらないんじゃないかなあ?」と思う人間の一人です。

だからといって、プラネは無味乾燥な「教育」のための道具に徹すればいい
――などと思っているのではありませんが、ギリシャ―ヘレニズム時代の
プトレマイオスの宇宙観から、コペルニクスやガリレイの時代、そして
ケブラーの法則の発見といった宇宙観の変遷の歴史を、様々な映像とともに
見せてくれるような番組があってもいいし、そのへんがプラネの基本じゃ
ないのだろうか?と思ったりします。

ただ、人間、「基本」だけでは物足りなくなるものですよね。ぼく自身、
以上のような番組を見てみたいとは思うけれども、その同じものだけを
何度もくり返して見たいかというと、それはないだろうな――と思います。
そのへんは、ハットリさんのように、現場での豊富な経験をお持ちの方の
意見をお聞きしながら、「今後のプラネはどうあればいいのか」を考えて
行けたらいいなと思っています。

>「宇宙像を得る」ということは、とりも直さず「自分のいる世界を知ること」
>「そのなかでの自分の位置を知ること」「自分の来歴を、そして未来を知ること」
>に他なりません。
>わたしは「心の納得」の鍵は、ここにあるのではないか、と思っています。 by寮さん
                               
これはもう、パチパチ!ですよね。実作者にしか言えない言葉だと思います。
今日のシンポジウム、本当に楽しみです!


ハツトリ  さすが寮さん! 2003年04月27日(日)00時38分14秒
プラネタリウム/神話と科学の二面性に関する論考 へのコメント

私のあの分かりにくい文章を、これほど深い処まで分かっていただけて、感激しております。

残念ながら、同業者の中でも、私のような立場・考え方でプラネタリウムをやっている人間は、
ごく少数派なのが実情です。
#真理子さんは、数少ない同志の一人なのです。(笑)
明日は、私は出席できませんが、プラネタリウムの将来のためにも、ぜひ良いお話をお願い
いたします。

今回アップした2編、あれからHTMLのスタイルをいじって、読みやすくしました。
んで、しつこいですが、ついでにもう一つアップしました。
ご参考になれば幸いです。(やっと、コメントボタンが押せました。)

http://homepage1.nifty.com/nagareboshi/300/fuukei.html

寮美千子  プラネタリウム/神話と科学の二面性に関する論考 2003年04月26日(土)23時40分05秒
神話と科学 へのコメント

▼「神話」と「科学」という二面性
服部さんの論考「プラネタリウムにおける『天文』と『文化』」大変興味深く読ませていただきました。
プラネタリウムというところは、考えてみれば不思議な場所である。ここでは人工の星空を媒介として、最新の天文学の理論が解説されるとともに、ギリシア時代の神々の物語もあわせて語られる。多くの常連客は、最新の科学的宇宙像で知的好奇心を充足させると同時に、既に過去に何度も聞かされた筈の、ゼウスが美しい女性を手籠にするといった荒唐無稽な作り話を、もう一度聞かないうちは満足しないのである。全ての観客にあてはまるというわけではないが、総体的な傾向であることは間違いない。by服部氏
まったく、わたしはそこのところが「謎」でした。プラネタリウムでは、延々と星のギリシャ神話が語られてきている。そして、観客もそれを自明のこととして受けとめ、よしと思っているらしい。それが、わからなかった。

わたしは、星にも、そして神話にも人一倍興味があるはずなのに、なぜかプラネタリウムの星座解説には興味が抱けない。それなのに、みんなはどうしてそんなに星座解説が好きなんだろう?

というわけで、服部さんの文章をよく読んでみれば、こう書いてありました。それは「多くの常連客」の要望であり「すべての観客にあてはまるというわけではない」と。わたしは、そのあてはまらない方の観客なのでした。

ならば常連はなぜ「星座解説」を求めるか? 服部さんも、ここを大切な点と考え、すばらしい論考をしてくださっています。
なぜ「科学的な知識」を求める人が、同時にそのような非科学的な「理不尽な作り話」をも求めるのか。この一見不可解な「二面性」が存在するという事実は、プラネタリウムの意義を議論していく上での重要なファクターではないだろうか。

「神話的真実」と「科学的認識」は、人の心の中で、常に平行して存在している。世界観の形成においては、「太陽が昇る」という心理的真実も「地球が回転して太陽が昇るように見える」という科学的真実も、どちらも対等に正しい認識なのである。この二面性は、「心理的認識」と「科学的認識」、あるいは「主観的認識」と「客観的認識」とも換言できるものである。 by服部氏
服部さんはその「二面性」こそが、人が世界を理解しようとする二つの根源的なやり方ではないか、と示唆されています。

このふたつを「心での納得」と「頭での理解」と言い換えてもいいかもしれません。なるほど、と思いました。そのふたつがふたつ揃ってこそ、人は、頭と心とでしっかりと世界を把握したと感じられるのかもしれません。

▼神話と科学の融合とは?
それではどうすべきか。認識の分裂を内に含みつつも人は一個人であり、人類の築き上げた文化もまた同様の二面性をはらんでいるということであるのならば、担当者は「古代ギリシア教」と「自然科学教」の二つの顔を持つ伝導師ではなく、それらが融合した結果である「文化」の伝導師であるべきではないか。 by服部氏
わたしも、まったくその通りだと思います。しかし、その「心理的認識=神話的真実」と「科学的認識」をどう融合させるか、が実際むずかしい問題です。服部さんも、そこに腐心なさっていらっしゃることと思います。
「理不尽な作り話(神話)」は興味づけに役立つといった程度に扱われることが普通で、両者を対等に扱った議論はほとんどなされていない。(中略)小生は、以前からプラネタリウムの解説においては、自然科学と哲学(あるいは神話学、民俗学、心理学など)を全く対等に扱うようにしています。 by服部氏
服部さんのこの方法に、強く共感を覚えます。

▼「古代神話」は「宇宙の果て」よりも遠い?
わたしのもやもやした気持ちというのは、まさしくそこだったのではないか、と思うのです。天文科学への「動機づけ」「興味づけ」「入り口」としてしか、神話が扱われない。神話の表層をなぞる通り一遍の話しか聞かせてもらえない。しかし、それで果たして「神話」を語ったことになるだろうか。

古事記についてすばらしい論考を記した西郷信綱という学者は、古代の文学を理解するためには、ただその文字面を理解するだけでは足りないといっています。電気もガスもない。社会の在り方も生活も、すべてが違う。もちろん、地球が太陽の周りを巡っているなんて、知る由もない。そんな人々が、太陽に、月に、何を見たのか。何を感じたのか。星を見上げ、何を思ったのか。それを知るためには、古代社会をよく知り、そこに生きる人々の心情をシミュレーションし、そこから理解しなければならない。でなければ、ほんとうの理解にならない、という趣旨のことをいっています。

つまり「神話」とは、いまのわたしたちとはかくも遠い存在なのです。物語の輪郭をなぞることは、簡単かもしれません。しかし、そこで古代人が見た宇宙を「実感的に感じる」ことは、実は、空のかなたにある星のことを「科学的に理解する」よりも、いまのわたしたちからは、さらに遠いことなのかもしれません。

そのような神話を語ろうとするとき、語る者は、ほんとうにそのことを理解しているでしょうか。古代人の心の形を、感じているでしょうか。その上での「星座解説」でしょうか。わたしは、そこを問いたい。

「神話」の物語の概要を語れば「神話」を語ったことになる、というのは、誤解だとわたしは思います。真剣に相対峙しなければ、到底伝えきれない。それが「神話」の真の姿だと思うのです。

だからといって、神話を語ることを恐れる必要はありません。神話がそのようなものであることを認識し、精一杯の努力をし、その上での解説であれば、心も伝わると思います。しかし、安易に「神話は親しみやすいものだから、天文科学への話の動機づけや導入に便利」というのは、認識不足ではないでしょうか。

服部さんのように、神話とも真剣に相対峙してほしい。そこからしか、伝わらないものがある。と思うのです。

▼「神話」はほんとうに親しみやすいか?
「神話を聞きたい」「プラネタリウムで神話を聞くとほっとする」という人が多いのも事実だと思います。

しかし、ほんとうにそうでしょうか。服部さんもお書きになっていらっしゃるようにそれは実は「常連客」の声ではないでしょうか。つまり、それは「プラネタリウムでは星座解説がある」ということに充分慣らされた人々の習慣や、それによって育った人の郷愁ではないか。いわば「プラネタリウム・エリート」の気持ちではないか、とわたしは思うのです。

コマーシャルでも、繰り返されると、その商品に馴染みます。どんなにいい商品をつくっても、圧倒的な宣伝をする商品に負けてしまうのは、そのためです。見慣れない女優の顔も、テレビに頻出するうちに馴染みになり、なんだか知っている人のような気がして、安心してドラマを見ることができるようになります。「プラネタリウム=星座解説」は、実はそのようなものではないか、とわたしは思っています。

前述したように、星座にまつわる物語は、わたしたちから遠いものです。服部さんもお書きになっていらっしゃるように「荒唐無稽」「理不尽な作り話」と思う人がほとんどでしょう。それをある種の「真実」と受けとめることができた古代人の心情には、なかなか近づけるものではありません。しかも、ギリシャ神話は異国のものです。「星座の話は親しみやすい」「わかりやすい」「導入に最適」といったことは、もう一度見直されるべきではないでしょうか。

▼「わたし自身」との関連から宇宙を理解する
「神話」がかくも人々から遠いように、科学もまた、ある意味で人々の日常の感性からは遠いものかもしれません。事実の羅列として知らされた客観的な宇宙像に、そのまま感情移入し、感動できる人は、少ないかもしれません。それには、どのような工夫が必要なのか。いとてつ氏が、こんなことを書いてくれました。
 以前、寮さんが、山梨での番組投影の後、会場でおばあさんが、「自分が星のかけらだなんてこれまで考えた事もなかった」といってくれた事に感動した、という話をいつだか書いていらっしゃいました。私も教育実習に行ったときに同じような感動を感じた事があります。私のそのときの担当は化学分野で中学生に分子、原子の話をするというものでした。そこで、原子は高々100種類程度しかなく、その存在は恒星の中か超新星爆発、または原子炉など特殊な環境でしか変えることができない。そのために、私たちの体を構成している原子のほとんどすべては50億年前には宇宙を漂っていたし、数千万年前には恐竜の体を作っていたかもしれない、という話(まあ、天文教育業界の人には目新しくもない「星の子」論ですが)をしました。その時の生徒の目の輝きが今も忘れられません。このことが私にとって思いで深いのは、生徒が私の話に共感してくれたことを私も感じ取る事ができたためだ、と思っています。
ここで、おばあさんや子どもの共感を呼んだものは、何だったのか。それは「星座の神話」ではありませんでした。「わたしと星との関係」です。自分自身と宇宙の彼方が、どんなふうにつながっているのか、それを実感できたから、おばあさんも子どもも感動したのだと思います。そして、それが宇宙科学が明らかにした客観的宇宙像を、自分の心の中にしまうことのできる主観的宇宙像に変換することができたのではないでしょうか。

服部さんもおっしゃっていますが、子どもたちは「死んだらどうなるの」「ぼくはどこからきたの」「雨はどうして空から降るの」といった、親を惑わせる宇宙論的な疑問を発し続ける存在です。口には出さないものの、大人もまた「わたしはどこから来て、どこへ行くのか。わたしは何者なのか」といった究極の問いを心の底に秘めている存在です。

「宇宙像を得る」ということは、とりも直さず「自分のいる世界を知ること」「そのなかでの自分の位置を知ること」「自分の来歴を、そして未来を知ること」に他なりません。

わたしは「心の納得」の鍵は、ここにあるのではないか、と思っています。わたしと宇宙との関係を知る。「わたし」という地点をつねに軸にして考えながら、科学が得た宇宙像を語る。そこにあるのは、単なる「事実の羅列」ではなくて「わたしと宇宙の関係」という「物語」です。それは宇宙の「心理的認識」です。わたしは星の子である、という事実を知ることはまた、敷衍すれば古代のアニミズム的感覚「神話的真実」に通底していくものだと確信します。

▼「ラジオスターレストラン」でやろうとしたこと
わたしが「ラジオスターレストラン」でやりたかったことは、まさにそのようなことでした。「食べる」ということで、さっきまで林檎だったものが「わたし」になる。他者が自己になる。そこに世界との関係が生まれる。その関係の網の目をたぐっていくと、自分が過去に、恐竜であり、流れ星であり、宇宙を漂う塵であり、いまは失われた星であることを知る。さらに、宇宙のはじめに、すべてとひとつだったことを知る。そうやって「物語」のなかで、宇宙科学と心の世界を結びつけようとたくらんだのでした。

そして、その「物語」は、否応なしにアニミズムや仏教哲学に通底していくものだったのです。

物語が「神話と科学の二面性」を具現する「プラネタリウム」を舞台に展開されているということも、いまにして思えば、偶然ではないようにも思えます。そして、それがプラネタリウム番組として制作され上映されたということも、とても象徴的出来事のように感じます。

▼完全なる半球プラネタリウム
服部さんは、プラネタリウムという空間を、プラトンのいうところの「宇宙=完全な球体である完璧な生物」に例えられました。そこには「理」と「情」が、「知性」と「心」とが、不可分に結びついて存在しています。

科学がテクノロジーを生みだし、テクノロジーが制御不能な巨大怪物となって暴走している。それが、現在の人類の姿かもしれません。しかし、そのテクノロジーを制御しているのは人間です。こうすれば原子爆弾を作れるという事実がある。それは、単なる客観的事実に過ぎません。科学が生みだしたそのテクノロジーを、どう使うかは、その事実をどう主観的に認識するかという心の領域に関連していることだと思います。人間の心さえ成熟すれば、人は、テクノロジーを正しく使うこともできるようになるはずです。

最先端科学と、人類が培ってきた叡智(=神話的世界観・哲学)を結びつけることが可能な場所。祝福された聖なる半球。プラネタリウムは、もしかしたらそんな場所なのかもしれない、と考えました。

プラネタリウムを単に「理科教育の拠点」と考えたり、また「さまざまな可能性のある特殊な形状のイベント空間」と考えるだけではなく、「神話的真実」と「科学的認識」を結びつけることのできる聖なる空間であると位置づけること。そこから発想すると、プラネタリウムは、未来へとさらに大きく寄与できるのではないかと考えました。

アーティストは現代のシャーマンである――と、「神話の力」を書いたジョセフ・キャンベルはいっています。聖なる場所を舞台に「科学的認識」を「神話的真実」に変換する物語や詩や音楽、そして映像をつくる。それがプラネタリウムに必要とされている「表現」であると思います。

人がそれぞれ本来心の奥に持っている神性に光をあて、世界の在り方に対して深い納得を得るための「物語=神話」を提供すること。わたしは、それがわたしの仕事の一つであり、わたし自身の表現の一つであると強く感じています。

大長老  うん 2003年04月26日(土)21時36分49秒
一票! へのコメント

明石隼汰に1票。

本多信介  すまん 2003年04月26日(土)20時25分46秒
写真の星座 へのコメント

勇崎どの、、なにを怒ってたんだか、、

相当酔ってたなーー、

あごは、、@@なんかうまいもんでも食おう

寮美千子  ケアを日本語に言い換えると? 2003年04月26日(土)17時28分24秒

4月25日の朝日新聞夕刊によると、国立国語研究所による外来語言い換え最終案が、発表されました。これは、外来語をわかりやすい日本語に言い換えましょうという提案。そのなかで、特に「ケアケア」に関わりのありそうな言葉をあげてみると、こんなものが。

ケア:手当て、介護
ディサービス:日帰り介護
バリアフリー:障壁なし
メンタルヘルス:心の健康
ノンステップバス:無段差バス

確かにわかりやすくなるという反面、意味が限定されてしまうなあと気になったものもありました。ケア、という言葉は、とくにそうでした。

「朗読」を通じて、奈良の「たんぽぽの家」森口さんや、大阪で福祉関連のお仕事をなさっている鳥海さんたちと交流していくうちに、わたしは、「ケア」とは、単に「介護」ではないなあと感じるようになりました。

体の不自由な人や、老人をケアすることだけがケアじゃない。関わり合いのあるすべての人たちのことを、さまざまに思いやり、気にかけて暮らすこと。引いては自分自身をケアすること。結局は、生きていることすべてが、他者への、そして自分自身への「ケア」であるといえるほど、大きな概念を含んでいるように思いました。

確かに「ケア」という言葉には本来「気づかう」「心配する」「お世話する」「注意する」「気にする」「管理する」「保護する」「介護する」「関心を持つ」など、様々な意味があるのです。

互いが互いを気づかいながら生きていく。そのなかの一つに、老人のケアや障碍者のケアもある。

その大前提を踏まえた上で「ケア」を考えるのと、単に「介護」としてその部分だけを切り離して考えるのとでは、ずいぶん違ってくるような気もします。

わたしは、無闇に外来語を振り回すことには反対ですが、言い換えにより狭義なところに「ケア」を押し込めてしまうのももったいないなあと感じています。

国立国語研究会によると、今回あげられた62語のうち、インパクト、デイサービス、ケアの3つの言葉は、4人に3人が理解した認知度75%以上の言葉であったということ。しかし、60歳以上の方々になると、ぐっと認知度が落ちるので、あえて言い換えを提案したとのことです。

確かに、ケア問題に深く関わる高年齢の方々のことを思えば、その言い換えも場合によっては必要であるとは思いますが、広義な意味を持つケアという言葉を、やせた狭義な言葉に置き換えてしまうのも残念。せっかく75%の認知度を得ていることでもあるし「ケア」という言葉を今後もいろいろな形で大切にできたらいいなあと思っています。

それとも「ケア」に匹敵するすばらしい日本語、あるかなあ。考えてみます。だれか、いいアイデアあったら、ぜひお教えください。

関連記事:
毎日新聞 http://www.mainichi.co.jp/news/selection/archive/200304/25/20030425k0000e040047000c.html

国立国語研究所:
「外来語言い換え」のリリースが載っています。意見も募集しているので、みんなもぜひ意見を出そう!

http://www.kokken.go.jp/public/gairaigo/

DORONKO  「海蛇座」のご報告。 2003年04月26日(土)16時28分37秒
だからね へのコメント

昨日、初台のDOORSであったあがた森魚さんたちのライブ「海蛇座」、
プラネじゃなくてステージの背後の平面スクリーンでしたけど、
“音楽と映像のコラボレーションライブ”というだけあって、
映像、なかなかオモシロかったです。あがたさんによれば、準備の
時間にも限りがあったので、曲とのシンクロ等に関しては、かなり
“やっつけ”のままのところも多かったそうですが、素材が面白い
ものを使ってましたので、飽きるようなことはありませんでした。
そのへんは、センスの問題かなーと思いますけどね。

歌の方も、あがたさん、出だしはちょっと「故意にアバンギャルド
してるんだろうか?」とゆー感じもありましたが、時とともに
パワーアップして、終わってみれば大満足のライブでした。

皆様、次回に、乞ご期待!!
信介さんも、今度、一度ご覧になってみては?

(いずれ、東京以外でもぜひ実現しますように!)

http://www.246.ne.jp/‾apricot/seika/topics.html

明石隼汰  一票! 2003年04月26日(土)14時03分35秒 http://www.holopla.com/akashic/
だからね へのコメント

そう表現力。
ついでに、表現者はあまり他人の批評するべきでないと思う。
する権利とかとは別の次元で。
批評してるひまあったら批評されることしないとね。

いとてつ  「共感」の問題 2003年04月26日(土)04時16分14秒
やっとわかった へのコメント

 ハットリさんのご意見、大変興味深く拝読させていただきました。
私は名古屋の科学館には一度しかお邪魔した事がないですが、大変素晴らしい科学館で思わずまる1日使ってしまいました。プラネタリウムも拝見しました。私が聞いたのは確か、野田さんの解説でした。しかも、季節に1回(?)の聴覚障害者用字幕投影つき、という回で、私にとっては初めての経験であり、先進的な試みに大変びっくりした記憶があります。次の機会にはぜひ、ハットリさんや、先月朝日新聞に紹介されていた北原さんの解説も聞いてみたいものだと思っております。

さて、寮さんやハットリさんのかかれていた星座神話と科学の話、私も少し考えてみました。星座の話がいつまでも使われるのは私が思うに、結局、最新の天文学の話だけでは説得力がないせいかな、という気がします。
 以前、寮さんが、山梨での番組投影の後、会場でおばあさんが、「自分が星のかけらだなんてこれまで考えた事もなかった」といってくれた事に感動した、という話をいつだか書いていらっしゃいました。私も教育実習に行ったときに同じような感動を感じた事があります。私のそのときの担当は化学分野で中学生に分子、原子の話をするというものでした。そこで、原子は高々100種類程度しかなく、その存在は恒星の中か超新星爆発、または原子炉など特殊な環境でしか変えることができない。そのために、私たちの体を構成している原子のほとんどすべては50億年前には宇宙を漂っていたし、数千万年前には恐竜の体を作っていたかもしれない、という話(まあ、天文教育業界の人には目新しくもない「星の子」論ですが)をしました。その時の生徒の目の輝きが今も忘れられません。このことが私にとって思いで深いのは、生徒が私の話に共感してくれたことを私も感じ取る事ができたためだ、と思っています。
 さて、プラネタリウムでも共感をよぶような投影というのはいろいろな方法があることと思います。解説員ごとの独特の語り口、というのもそのひとつでしょう。(私は五島プラネの木村かおるさんや村松さんの解説のファンでした。)映像や音楽も共感を呼ぶための方法のひとつだと思います。たとえば、高橋さん制作の「オーロラストーリー」では星野道夫さんの写真と撮影行の話、アラスカのセスナからの眺めやオーロラの大型映像、フィリッパ・ジョルダーノの音楽などの組み合わせの中で語られる、エスキモーの神話とオーロラの科学は、私にとって共感できるものでした。しかし、たぶん、単にオーロラの科学的な仕組みを解説するだけでは、一部の人間にしか面白くないものになってしまうでしょう。
 同じように、多くのプラネ番組が星座神話の話を持ってくるのも結局は現代の天文学の話だけでは共感を呼びえないせいではないかと思います。新しい情報はよく知っている情報とともに与えられないと、理解度が落ちるという話を心理学で学んだ気がします。私たちは結局、ほとんどの毎日、いまだに天動説の世界の中で生きています。ですから、プラネタリウムではいきなり宇宙空間に飛び出すのではなく、まず日の入りから見たいと思うのでしょう。また、長いこと聞かされてきた神話(この場合、残念ながら主にギリシャ神話)を聞いて安心したい、ということなのでしょう。そしてそうやって知っている話で安心した上で最新の科学の話も半分くらいにすると、やっと共感してもらえるのではないかと思います。
 最近は様々な天体の画像が紹介されています。ボイジャーが木星と土星の姿を送ってきて以来のことと思いますが、望遠鏡を覗いて失望をあらわにする人たちをたくさん見てきました。最近ではハッブルやすばるなどが多くの素晴らしい映像を提供してくれています。また、以前も書いたようにCGの出来も素晴らしいものがあります。(日本でも月の生成に間する国立天文台と理研の共同研究によるCGなど、見ごたえがあります。)これらが多くの人にあたりまえの見慣れたものとなっていけば、まさに21世紀の神話として、これまでのギリシャ神話の代わりとなるのではないかと思います。また、そうなれば、共感してもらうための方法として科学的成果が導かれた過程を詳細に辿る、というのもやはりひとつのあり方となるだろう、といってしまうのはあまりに楽観的にすぎるでしょうか。
 

本多信介  なにを 2003年04月26日(土)01時37分45秒
写真の星座 へのコメント

あほなことばっか言ってるね

写真だってなんだって個人だーー

ここが明るいのは寮がいるからだろ

そうとう(酔)だけど君とは一回あわなきゃならんね

あごきたえとけよーーってか!!

高橋真理子  やっとわかった 2003年04月26日(土)01時28分38秒
だからね へのコメント

>信介さま
今まで何度も「お金をとってみるものじゃない」「映像がなっとらん」「つまらん」と言われつつ、どうレスポンスすればいいのか困っていたのだけど、
−そんな安い仕事しちゃあかん、、とってつけたようなかりもんの映像じゃ
というので、やっと「そうか」と思いました。遅すぎる〜とまた叱られそうですが。「とってつけたかりもん」。そうなんですよね。ほんとに。全体を流れる「表現」じゃないといけないのですね。(それでもラジオスターは、小林さんのおかげで、他のよりずっと一本、流れるものがあったのですが)
でも勇崎さんがおっしゃるように、たしかにお金がかかる。お金がかからないところでのやりようはどうするか・・・そのあたり、もうちょっとみなさんにアイディアをいただきたいところです。
豪華CGではなくても、スチール写真でも十分に表現できることはたくさんありますよね・・あとは表現、なのかなあ。

>勇崎さま
−いろいろなひとが、全天に描く自分が新しい星座を、
 プラネタリウムで展覧会する。
 毎月毎月、アーティストが代わって、
 いろいろな全天星座が観られると楽しいね。
毎回脱帽します。
21世紀の神話をつくらなきゃ、って星野道夫も言っていたように思うけどそれをプラネタリウムから発信できればなあ。

>寮さん
神話と科学の融合については、自分自身の大きい大きい課題のように思っています。今回、これに踏み込んでいただいたので、(それまでちょっと避けて通ろうかと思っていたのですが)あさっての議論にも入れたいなあ、と。

ハットリさんや寮さんが書かれているものに加え、中沢新一「人類最古の哲学」の中からも以下のものを・・・

ーしかし、現代物理学の最先端でおこなわれている理論的な研究のいくつかを、ずっと昔の神話作者たちのよく知っている神話の一種とみなすに違いありません。これらの理論はいまのところは実験の手段がありませんから、現実との正確な照応関係を持っていません。そこではいわば科学に「特化」された領域の外のことについて語っているために、おなじように分類的思考の外に触れながら生み出されている神話と、奇妙な共通性をもつころになっているのです。(中略)
神話も科学も、同じホモサピエンス・サピエンスの不変の脳が生み出したものとして、兄弟の関係を持っています。

勇崎  写真の星座 2003年04月26日(土)01時02分29秒
しつれい  だからー へのコメント

信介どん>
音響よっか映像のほうが金かかるからね。
実は、東川町の写真フェスティバルで10年以上続いている名物プログラムは
「写真の星座」といいます。
写真家の作品をスライドにして、ミュージシャンがライブでオマージュするというプログラムです。
今年のミュージシャンは板橋文夫という即興ピアニストにお願いしちゃったけど、
いつか信介どんにお願いしようかな。
こういうのって、興味ある?
写真の世界は、プラネには及ばないほど、暗いよ。

本多信介  しつれい  だからー 2003年04月26日(土)00時35分48秒
だからね へのコメント

前の文章見られるようにってできないのーー

ようすけーー、はやくやれーーCGIなんだろー

ん?javaけー

本多信介  だからね 2003年04月26日(土)00時14分38秒
新しい星座 へのコメント

そういうあほなことをあのシステムでどうするなかんじゃよ

どうにでもできるとは思うけど、音はクリアしたから、映像だね

ソフトがパソコンレベルであろうわけないし、、

表現力なんじゃよ、、いやーまたぶりかえして真理子ちゃんにも悪いけど

そんな安い仕事しちゃあかん、、とってつけたようなかりもんの映像じゃ

、、だから今度は雪にしようって言ったじゃん、「雪」を「プラネタリウム」で

見せられるように、

勇崎  新しい星座 2003年04月25日(金)23時06分00秒
プラネタリウム/神話の星と科学の星 へのコメント

プラネタリウムが、神話から科学までカバーできるのは、
とても素晴らしいことだと思います。
問題は構想力やイマジネーションのなさを、
神話に逃げたり、
説得しようとして、
科学でごまかしたりすることかな?

そのような点ではMARIKOさんがつくられた
「オーロラストーリー」は、
ワタリガラスの神話的伝説の意味を
今日的、科学的に解明しようとした、
態度が堂々とした意欲的秀作でしたね。

星座をイメージし、なぞりながら星をながめたとき、
古代の人々のイマジネーションと
そのスケールの巨大さに圧倒されますね。
しかも、星座は天空の地図にもなっていますしね。

でもそれらの星座を僕たちは、
与えられたものとして、甘んじてはいけいだろうか。
僕らも古代の人たちにチャレンジして、
星をなぞりながら、新しい星座を描いてみましょう。
古代の人たちのイマジネーションのように、
千年後の人々にも通用するようなやつね。

<Contemporary Constellations>
いろいろなひとが、全天に描く自分が新しい星座を、
プラネタリウムで展覧会する。
毎月毎月、アーティストが代わって、
いろいろな全天星座が観られると楽しいね。

僕の世代で考えると、杉浦康平、横尾忠則らが
描く全く新しい星座がみたいなあ。
それこそ、松本零二や宮崎駿らに頼むと、
どんな全天星座図を描くのかなあ。

イマジネーションの貧困な僕は、
きっと、ゴジラ座とかモスラ座、ポケモン座、ネコバス座
あるいは便座(否、カゼにはベンザの誤り)とか、、、

将来的には、
神話VS科学論争ではなくて、
いつかどこかで、
怪獣&アニメVS科学とか、おやじギャグVS科学とかで、
こうかくあわをとばしプラネタリウムを語ってたりしてね。

本多信介  しろうとから 2003年04月25日(金)20時47分24秒
プラネタリウム/神話の星と科学の星 へのコメント

えー、以前「ラジオスターレストラン」は金とれるもんじゃないと言いました。

みなさん内輪では、いけませんぞー。あのシステムを期待して私は行きましたよ、

サウンドも5.1チャンネルにしてさ、な、野川くん、、で、映像は??なにやってんの

ミキシングルームでえらそうに座ってたあのおっちゃんはなにもんだーー、、

もう、憤りでございます。ま、あのスクリーンにスピルバーグまでもいかないだろうけど

そこそこ見せてくれるんじゃないかと、素人ながら期待してました、、

ま、あのハードをこなすにはたいへんでしょう、、けどもっとたいへんなのは人だな

と思いました、スーパースターかな、システムを使い切れる。

 あがたくんもコンサートをやってるけど、ま、その仲間?の駒沢くんも飛騨の

プラネタリウムで毎年やってます。おれのボサノバも三重?の番組でテーマで

ながされてるし、、プラネタリウムなんて語感もよくないかもねー。

可能性はいっぱいあるじゃん、

http://www.web-rain.com/koma/

ハツトリ  神話と科学 2003年04月25日(金)18時34分43秒

どういうわけか、私のブラウザではコメントボタンが使えませんので、
新規投稿とさせていただきます。
下の寮さんへのレスです。

> つまり「科学」と「神話」の間の距離に関する認識をはっきりとさせないまま、科学畑の学芸員によって、
> 「神話」と「科学」が、同一平面上でないまぜに語られてるのが、現在のプラネタリウムではないでしょうか。

この件に関して、以前私が書いた文章をもうひとつアップしました。
急いでアップしましたので読みにくいかと思いますが、ご参考までに。

http://homepage1.nifty.com/nagareboshi/300/bunka.html

寮美千子  プラネタリウム/神話の星と科学の星 2003年04月25日(金)15時39分45秒
プラネタリウム/わたしの提案 へのコメント

実は、わたしのなかでもやもやとして整理しきれないでいる問題があります。それは「星座紹介」と「科学解説」の関連性です。

▼「星座解説を撤廃せよ!」という極論
旧科学技術庁の宇宙開発委員会で「(宇宙開発への)理解増進に関する懇談会」という会議に参加させていただいたことがありました。この時、漫画家の松本零士氏が「プラネタリウムでは、星座なんて非科学的なことをいうのはもう全部やめにして、すべて科学の話をしたほうがよい」というご意見を提案されたことがありました。

その時、わたしは「星座の物語は、人類が培ってきた文化である。古代人が心に映した宇宙の物語だ。それが非科学的だからと切り捨て捨てようというのは、文化への冒涜ではないか」と反論しました。

松本零士氏は、その次の会議でご自身の前言を撤回。「よく考えたら、確かに先人の文化を大切にするべきだと思った。わたしの誤りでした」とおっしゃいました。衆人の前ですなおに謝る松本零士氏の姿に、さすが、と感動を覚えました。

▼「星=星座」「星=宇宙科学」がないまぜに?
残念ながら、その会議では、そこから先へと話を展開することができませんでした。しかし、この件については、いまもわたしの気持ちのなかでもやもやとしています。

確かに、わたしは松本零士氏に反論しましたが、しかし、松本氏の気持ちもよくわかります。もしも、プラネタリウムを「科学施設」ととらえるならば、なぜいまもそこで「神話」が語られているのか。それも「西洋の神話」なのか。「神話的宇宙観」と「科学的宇宙観」というのは、どのように関連づけられているのか、その点が不明瞭であることを感じないではいられません。

恐らくは、星について語るとき、科学の世界でも星の位置や名前を示すために「西洋式星座」を便宜的に利用。そのため、自然と「星=星座」のような図式ができあがったものと思われます。

しかし、よく考えてみれば、星座の話は「民族学」「神話学」に属するものであり、そこにあるものは「神話的宇宙観」です。一方、プラネタリウムで子どもたちに伝えたいと思っている主なアイテムは「科学的宇宙観」。このふたつは、まったく違うジャンルのものです。

しかし、プラネタリウムヘ行くと「今晩の星空」の解説のなかで、星座やその物語が語られ、それからいきなり「さて、このオリオン座にあるオリオン大星雲では、いま、新しい星が生まれているのです」といった科学的な話にジャンプします。さっきまで、古代の狩人の話をしていたのに、その飛距離の大きさに、わたしなど、かなり戸惑ってしまうというのが、本音です。

つまり「科学」と「神話」の間の距離に関する認識をはっきりとさせないまま、科学畑の学芸員によって、「神話」と「科学」が、同一平面上でないまぜに語られてるのが、現在のプラネタリウムではないでしょうか。

▼素人の誤解
もちろん、ないまぜにして語っている方はないと思います。星座は星座、あくまでも物語であり想像の産物、科学は別、といった認識を持って解説していらっしゃることは当然だと思います。

しかし、受け取る側はド素人。星座と神話と科学とがいっぺんに押し寄せてきた、という「印象」があるのではないでしょうか。「星座」と「科学」がイメージのなかで合体した結果、「星座」を語ることが、そのまま「星占い」に横滑りしていって「星占いって、科学的なんですって」といわれてしまうようなことが起こっているようにも感じられます。

▼「神話」と「科学」を融合させるために
では、どうしたらいいか? そこのところがもやもやとして整理できていないのですが、民族学・神話学としての「星座」の話、宇宙科学としての「星」の話を峻別し、その位置づけをもう一度きちんと見直したらいいのではないか、と思います。

たとえば、「科学」ではなくて「星座」という文化に焦点を当てれば、異なるアプローチも可能です。古今東西の星に関する神話の図像を大量に投影して、文化的理解を深めるといった手法も、「民族学」からなら考えられます。「星座」の背後には、驚くべき豊饒な民族の世界が広がっています。通り一遍の星座解説ではなく、そのような世界へと深く足を踏み込むような企画も可能だと思います。例えば、和光大学のイメージ文化学科の前田耕作氏(この春に退職。バーミヤン遺跡の専門家)、松枝到氏などに、プラネタリウムを使って「古代文明と星」に関する講演を、と持ちかけたなら、どのようなイベントになるか、楽しみです。

さらには、「神話」「科学」それぞれの位置をはっきりとさせたうえで、いかにその両者を関連づけた、有機的な語りが可能かを考えたらいいのではないか、ということを考え直しても面白いかと思います。

「星占い」に興味を持つ人々の数は「宇宙科学」に興味を持つ人に比べると、桁違いに多いと思います。この人々をプラネタリウムにおびき寄せ?さらには「宇宙科学」へと結びつけることはできないものか。そのためにも「民族学としての星座の物語」の位置づけをきちんとして、どうやって科学と結びつけていくか、その工夫があったらいいなあと思います。

DORONKO  カユイところに……。 2003年04月25日(金)07時51分09秒
プラネタリウム/わたしの提案 へのコメント

どうやら、ぼくでもお役に立てそう――というか、立たねばならない
局面でもあるようですが、多忙のため、今、プラネについての考えを
まとめたいという気持にはなれません。ぼくはやはり、27日に、まず
関係者の皆さんからのご報告などを聞いて、それから、ぼくなりに
さらに「どうあって欲しいか」を考えたいと思っています。

ただし、だからといって、27日まで、ここでプラネに関する一切の
議論をやめようとか中止しよう――などということを言ったおぼえは
ありません。意見は意見として、言いたい方にはどんどん言っていただく
ことに、ぼくは何ら反対しようなどと思ってはいません。ただぼくは、
27日のシンポを閉鎖系のように考えるのではなく、事前にも事後にも
続く一つの<開放系>として考えた方がよいのでは?と言いたかったの
です。そこは、わかっていただきたいものです。

ともあれ、再度の黒田先生と真理子さんの書き込みにより、問題点は
かなり整理されてきたと思いますので、ぼくが屋上屋を架する必要は、
もうないのでは?とも思います。お二人の書き込みは何ともコマヤカ
かつ周到で、まさに「カユイところに手が届く」ものだなあ!と、
またしても感服しております。

ただ、せっかくですから、お二人のお力も借りて、先にぼくが述べた
ことを、少しだけパラフレーズしてみたいと思います。

まずぼくは、「プラネタリウムは、図書館ととてもよく似ている」と
思う、と書きましたが、ひとくちに「図書館」といっても実に様々です。
一方に大英博物館の図書室や国会図書館や大学の図書館のような大規模な
図書館があるかと思えば、他方には、規模はかなり小さめで、地域に
とけ込むことこそが使命であるような、「コミュニティ型」の図書館も
あります。そして、「この両者を同列に論じようという人間は、ほとんど
いないだろう」とぼくは思うのですが、どうでしょうか?

ただ、問題はここからですね。実は、規模や位置付けも実に様々な
図書館ですが、書籍そのものの貸借にはかなりの制限があるとしても、
<書籍に関する情報>は、全国レベルで、ほぼネットワーク化されて
いるといってよいと思うのです。「書誌学」などという、そのための
専門の学問だってあるぐらいですからね。――実際のところは、上記の
「コミュニティ型」の図書館の場合は、専門的な知識や能力のある館員も
いないところも多くて、そのネットワークから疎外されているところが
多いと思いますけれども。

で、ここで、問題はもう一段展開させねばなりません。最近のネットの
普及により、ぼくは、多少“ネットワーク幻想”というものが生じて
いるのではないかと危惧しています。上記の「図書館のネットワーク」
ということに関しても、現実に、まがりなりにも達成されているのは、
「書誌学的情報のネットワーク」にすぎないと思います(上記のように、
それだって不完全でしかありませんが)。しかしこれは、ぼくがイメージ
する本来の“ネットワーク化”にとっては、まだ初歩の初歩でしかないと
思います。――ぼくは、図書館というものは、もっと人や組織の相互交流を
はかり、(共同の)行動プログラムで連帯するなどして、現状よりも一段と
魅力のある情報発信のステーションになりうる可能性をもった社会的装置だ
と思っています。で、そうしたことは、プラネタリウムについても言える
のではないか?ということを、先に、申し上げたつもりでした。ただ、
プラネタリウムにおいては、以下の寮さんの言葉を忘れるべきではないと
思いますが。

>その底流に、脈々と「科学」が流れていてほしいのです。

……ただ、ここで寮さんが言う「科学」は、決して無味乾燥なものでいい
というわけではないことは、ここをご覧の皆さんには、申し上げるまでも
ないと思いますが――。

――息切れしてきましたので、ひとまずこのへんまでにさせていただき
ますが、以上のようなすべての“望ましい将来像”を実現するためにも、
まず必要なのは、より多くの人たちに、図書館やプラネタリウムに対して、
もっと関心を持ってもらうということでしょう。――この国の政治は、
人里離れたところに必要性が多いに疑わしいダムを作ろうとしたりすることを
相も変わらずやめていませんけれども、そのようにして自然を破壊し、
ただ浪費されるだけの莫大な予算を、図書館やプラネタリウムのために
使うことを可能にするのも、結局、利用者の力なのじゃないかな、と
ぼくは思いますし。

27日のシンポジウムが、より多くの人たちの目をプラネタリウムに
向けさせるための、またとない機会になることをぼくは祈っていますし、
きっとそうなるに違いないと信じています。

――あがた森魚さんのプラネタリウムでのライブについては、ぼくにも
仕事がありますので、またの機会にさせてもらいたいと思います。ただ、
今日ですが、初台のDOORSというライブハウスであがたさんのライブが
ありますので、ご都合のつく方は、聴きにおいでになられてはいかがか
と思います(「遊星たちの消息」に案内を書きます)。


高橋真理子  宇宙生物のイデア 2003年04月23日(水)22時39分01秒
はじめまして へのコメント

だんだん恥ずかしくなってきたので、漢字で名前を書くことにしました。

ハットリさんの解説は、まさしく「名生解説」です。私はハットリさんの解説で、はじめて星が自分の中に降りてくる感覚をいただきました。あれが、ハットリさんの言葉を借りれば「宇宙生物のイデアと対峙する瞬間」だったのかもしれません。寮さんもぜひご体験あれ。

寮さんの意見をはじめ、ほんとにいろいろと勉強させてもらっています。ありがとうございます。これまでのご意見に、いくつかレスポンスさせてください。

▼ 番組
すでに、複数館で(決まった館同士で)10何年間?共同制作番組をつくられている館もあります。1年に一館1本ずつ創って相互交換していると聞いていますが、担当の館がすべて責任を負うというよりは、毎回メンバー館の意見を聞きつつ創っていらっしゃるようです。残念ながら、私はそれらの館で作られたものを見たことがないので、内容についてコメントすることはできないのですが… 
その例とは別ですが、「共同制作」というと、何かと「共同出資」が先にきて、お互いのスペックの違いなどがさまざまあると、結局、公約数的な演出しかしなかったり、当たり障りのない内容になりがち、という例はこれまで目にしてきました。
なので、「共同制作」という形式ではなく、寮さんが提案しているように、どこかで創った番組をまた別の館に配給する、場合によっては交換する、という形式のほうが、よりよい方向に思っています。
一方、私は、2年前、幼児向けの番組を他の館の人達と共同研究という形で、「幼児はいったい天体をどう見ているのか」という調査から始まって、幼児をひきつける絵柄は何かとかストーリーは、とか、そういうことを散々議論しながら、番組を制作したことがありました。その番組は現在、そのメンバーが属している5館で投影されています。お互いが意見を出し合ってそれが相乗されていく喜びが、この番組制作のときにはありましたが、そうとう時間と労力を割く作業で、よしこの次も、という段階までなかなかきていません。

競争という意味では、以前、勇崎さんが提案していた「プラネタリウムグランプリ」はぜひ実現したいものの一つですね。

−わたしたちは、子どものころからそれを聞かされてきたので、いまでは
 「ギリシャ神話の星空解説」は、ノスタルジーの対象にすらなっている。
  わたしは、この偏重を嫌います。「和人の星」「アイヌの星」「沖縄の星」
 そして「東洋の星」の話を、もっともっとしてほしい。わたしたちの文化の
 ルーツをたどりなおすような「星空解説」をしてほしい。

これはうーん、おっしゃるとおり。とはいえ、自分は実践しているか、というとそうではないのですけど…
でも、こういったこともそれぞれにやっていらっしゃる方もいますよね。そうはいっても、世界で統一されて決まっている星座を紹介して、「中国星座では〜」「この星の和名は〜」というような2段階目の話になってしまっているかもしれませんが。

▼ 生解説
プラネタリウムの仕事に携わり始めて間もないころ、この道何十年の解説員の方に、「解説は結局、人格です。そのままでちゃうんです。」といわれました。が〜ん、と思うと同時に、なんてすごい仕事なんだ、と思いました。 目の前にいる初対面の、不特定多数の、しかも幼児から高齢者までいるその場で、人格をさらけだす…解説者が人格をさらけだすことによって、見ている人達が星・宇宙を鏡にして、自らを投影する。
(ああ、そんな解説、生きている間に行き着けるのだろうか(;_;)

生解説フェスティバルというのも素晴らしいですね。だいぶ昔?は、プラネ関係者同士の会合でも、お互いの解説をしてそれを批判しあっていた空気もあったようですが。
プラネタリウムではないですが、日立の科学館では、全国の科学館から「サイエンスショー」をやっている担当者が集い、次々にショーを行い、地元の一般の方々もたくさん見に来る。お互いのネタ交換にもなるし、パフォーマンスを競うことにもなっている活気の場を作り出しているそうです。
番組フェスティバルは、ハードの問題がかなりありますが、生解説フェスティバルだったら、すぐに(?)実現可能ですね。

▼ 黒田さんの2人でかけあい解説
黒田さんの解説、っていつか一度聞いてみたいなあ・・賢治やみすずの朗読なんて。
2人でのかけあい解説って、葛飾にある「りょうちゃんプラネタリウム」でやられています(やられていた?)。 お寺にある個人のプラネタリウムで、広々豪華ないすにゆったり座ってみられる実に贅沢なプラネタリウム。5年前ぐらいにおじゃましたきりなので、最近はどんなことやられているのかな。

▼勇崎さんの学校でのワークショップ成果をプラネへ
このアイディアに脱帽しました。せいぜい私が考えられる程度は、番組制作をしたい人達を募ってつくっちゃう、というもの。それを一気に、多くの人達を巻き込んでしまうしかけづくり・・・見ているモノが違うなあ、とつくづく感じました。


いろーんなことが出てきていますが、ほんとにいろんなものを並行して見せられるようになるといいなあ、と思っています。1日のうち、毎回プログラムが変わって、見たり、参加したり…というのを体験できる。
しかし、これだけ幅の広いことごとを一つの館でやっていくことはとても難しい。
ので、全国に数あるプラネタリウムがもっとそれぞれの役割を明確にして、それを認め合って、有機的に連携する、ということも大事なんだろうなあ、と思っています。
たとえば、すごいたくさんの映像システム持っているところと、小さいドームでプラネタリウムのみがあるところを、ひとくくりにしてはいけないんだろう、と。それぞれの役割が明らかに違うはず。それがなんとなく中途半端なまま、もったいないことをしているのだろうなあ、という気もしています。

ハツトリ  はじめまして 2003年04月23日(水)18時56分29秒

名古屋のプラネタリウムで解説の仕事をしております服部と申します。
ここはよくROMさせていただいておりますが、書き込むのは初めてです。

>黒田さま、marikoさま
ご無沙汰しております。

>寮さま
いつぞやは某サイトの件でいろいろお世話になり、ありがとうございました。
最終的には残念な結果に終わってしまったようですね。。。

最近の、ここでのプラネ論議、業界人として大変参考になります。
いろいろ、考えさせられてしまいますね。
参考までに、昔、私が当館の友の会の会誌に書いた文章を以下にアップしました。
プラネ業界内部では、たぶん少数派の立場だと思っているのですが…。
みなさまのご意見・ご感想をお聞かせいただければ幸いです。

http://homepage1.nifty.com/nagareboshi/300/plane.html

黒田武彦  私の考えたプラネ解説 2003年04月23日(水)13時34分24秒
プラネタリウム/わたしの提案 へのコメント

寮さん、改めて尊敬です。
プラネタリウムの可能性をあらゆる角度からアプローチしようとなさっている。
これが携わっている人間にはなかなかできない、というかやはりお役所的体質
がそれらを陰に陽に拒否しているということがあったと思います。

私はちょっと狭義で書いてしまったような気がしますが、本来「教育」と「エ
ンターテイメント」は対比的なものではなく、教育の中にエンターテイメント
は必要ですし、教育を意識しないエンターテイメントもきっちり教育になって
いるはずなのです。遊びそのものが「教育」であるように。

ちょっと本題からそれるかもしれませんが、「教育」という呼び方はあまり好
きではありません。「教え育む」、上から下へのイメージです。自主的なイメ
ージのある「学習」、少なくともガチガチの「学校教育」以外はそうありたい
と思っています。

さて、昔、私がプラネタリウムに携わっていた頃、全手動ではありましたが、
それなりにいろいろと工夫をしました。もちろん生解説です。単に天体を解説
するだけではなく、宮沢賢治や金子みすずの詩を自分で朗読したり、さだまさ
しの音楽をかけて、彼と一緒に番組に出たときのエピソードをしゃべったりと
可能な限りチャレンジしました。ラジオのディスクジョッキー調にやることが
一つの目標でした。このパターンを完成させる前に新しい科学館の準備室で右
往左往する日々が続くようになり、完成すると同時にいまの天文台準備室に移
ったのでした。

やりたくてできなかったのはプラネのコンソールボックスの中で、2人で対話
形式の解説を試みることでした。これもやはりラジオがヒントでした。かけ合
いの面白さをプラネタリウムにも導入したいと考えたのです。
プラネでは実現できませんでしたが、テレホンサービスではこの2人かけ合い
を実践しました。やはり斬新で面白かったらしくNTTから賞をもらったこと
もあります。
どこかプラネでやってほしいなあ。コンソールは一人って相場が決まっている
わけじゃないので、メーカーも大き目に作ってほしいと思っています。そこの
専門職員と寮さんがかけ合いで星空にいざなう、そんな特別企画があるとおも
しろいと思いませんか? もちろん普段は地域の方を登場させて、いろんな形
のかけ合い解説を試みるっていうのもやってみたいですね。お金をたくさんか
けずとも可能な方法はあると思います。

寮さんの素晴らしいアイデアに加えて、私の経験と、やりのこしたアイデアを
披露させていただきました。

科学は究極の遊びです。もっとも楽しい遊びです。それをうまく伝えさえでき
れば自然に利用者も増えるのですが・・・・
もちろんプラネは科学だけを扱う必要もありません。裃を脱いで、構えずにプ
ラネのあり方を考えていくのも大切なんでしょうね。

27日、みなさんぜひ集まりましょう!

寮美千子  プラネタリウム/わたしの提案 2003年04月22日(火)16時26分12秒
プラネタリウムって幸せだね へのコメント

▼黒田武彦さま
お忙しいなか、プラネタリウムに関するご意見いただき、ありがとうございます。こんなに忙しい黒田さんが書いてくださっているのに、暇人であるはずのわたしがなかなか書かないでいてごめんなさい。マダガスカル旋風にしてやられている、ということもありますが、どうも、頭の中がはっきりしない(いつものこと?)。考えがまとまらない。まとめる必要もないのだろうけれど、それにしてもぼんやりしている。どうしてか?と思うに、プラネタリウムというものの「本質」がいまひとつわからない。自分の中にどう位置づけていいのか、世界の中にどう位置づけることが正しいのか、それがはっきりしなかったのです。

しかし、黒田さんのご指摘で、かなり明瞭になりました。さすが黒田さん! ドロンコ氏も引用していた以下の部分、なるほどと膝を打つ思いでした。
教育の場としても不十分な部分がある、エンターテイメントの場としても一定の限界はある。
これを補うのが「人」であるという黒田さんのご意見、なるほどと思いました。そして、その「人」ができることの可能性を探るのが、今度の会のひとつのテーマになるかもしれないとも思いました。

▼プラネタリウム番組について
恐らくいずれは全国一斉封切りという時代が来るのではないかと憂えました。良いソフトの相互利用は大いにあって良いと思いますが、現在でも起こり始めている安易な一斉封切り的な投影は、施設の独自性を失わせるばかりか、単なる電動紙芝居的な安直な内容になり勝ちなのです(安上がりを旨としているため)。by黒田さん
「全国一斉封切りプラネタリウム番組」みたいなものが大手をふるようになるのは、さみしい。施設の独自性を失わせる可能性がある。という黒田さんのご意見、なるほどと思いました。

先日、黒田さんとお話しする機会があったとき、話題がその事になりました。わたしは、山梨県立科学館の高橋真理子さんが制作された「オーロラ・ストーリー」や、やはり真理子さんの製作で、わたし自身がシナリオを書かせていただいた「ラジオスター・レストランへようこそ」などのプラネタリウム番組が、その館だけの上映で終わってしまうことをとても残念に思っていました。せっかく労力をかけ、お金も時間も注いで作ったものが、それ以上に利用されない状況を嘆いたのでした。「良いソフトの相互利用は大いにあって良いと思いますが」と黒田さんもお書きになっていらっしゃるように、このようなソフトは互いに交換しあって、有効に生かせたらいいと思うのです。

そこで、提案なのですが、ソフトを相互利用できるハードを持った館が連携して、互いのソフトを交換しあうというのはどうでしょうか。例えば、四館がそれぞれ、年に一作制作する。そして、三カ月ずつ上映する。それを互いに回せば、一年で一周します。各館で、四つの番組を見ることができるようになるわけです。六館合同なら、二カ月で交換になり、一年に六本の番組を見ることができる。

そうやって、自分の館の作品が他館で上映されるとなれば、いい加減なものはつくれません。みんなで知恵を絞って「これ!」という作品を出そうと気合いが入るでしょう。自分の館で、他館が制作した作品を見れば、刺激も受けるでしょう。自分が負けていると感じたら、来年度の制作には、その反省を生かして闘志を燃やすこともできるでしょう。

だいたいが、教育業界というのは、そのような競争がないところがいけないんじゃないかとも思うのです。刺激を受けあい、よりよきものを作るために、そのような相互交換システムをつくることは、とても大事だと思います。

▼エンターティメントvs教育
では、そこでどんな作品がつくられたらいいだろうか?

競争原理の行きつく先は「エンターティメント」。どれだけ集客できたか、話題になったかが評価される傾向があります。資本主義社会の利潤追求原理からいけば、どうしてもそうなるでしょう。

もちろん「ただのエンターティメント」があってもいい。例えば「千と千尋」のプラネタリウム版、などというものがあったとしたら、みんな見に来ると思います。技法的にいろいろむずかしいところはあるかもしれないけれど、あの半球いっぱいに、宮崎駿の脳内ワンダーランドがつくりだした摩訶不思議異世界が投影されたら、すごい迫力だと思う。二次元の映像を「見ている」のとはまた違う、「映像に包まれている」感覚があります。その感覚を生かしたエンターティメント作品があっても、いい。プラネタリウムを、「教育の場」だけに規定していしまっては、もったいない。

けれど、(ここからが重要なんだけど)Eliちゃんや他のみんなもいってくれているように「面白ければいい」「人が集まって利益をあげられればいい」という方向にだけ流れてはつまらない。そうじゃない「質のいいもの」をきちんと大切にしていかなければならない。

そういうことを大切にできるのが「公共」「教育」といったジャンルだと思うのです。例えば、和光大学の図書館には、すばらしい資料的価値のある学術書が揃っている。それは、部数も少なく、高価で、売れない本です。けれども、その内容を評価して学校が購入してくれるおかげで、わたしは大変な恩恵を被っています。もし、図書館が「利用率の高い本」を中心に揃えるといって、ベストセラーばかり購入するようになったら、大学図書館の機能を果たさなくなってしまいます。

プラネタリウムは、私営のところもありますが、多くが公営であるということ、教育とわかちがたく結びついているということは「単なる利潤追求」ではない、別の価値基準を与える事のできる場所であるということだと思います。

「科学への興味をかきたてる」「世界を理解したいという根源的な欲望を刺激してくれる」「科学的なものの見方を教えてくれる」「科学的な理解を助ける」などなど、さまざまな教育的価値を評価できるのも、プラネタリウムの後ろ盾に「教育」「公共福祉」などがあるからだと思います。

しかし、だからといって、そこにあぐらをかかれても困る。「教育目的」だからつまらないてもいい、といことにはならない。教育業界に癒着した業者にまかせておけばいい、ということにはならない。

そのためにも、プラネタリウム館が「独自に」制作した作品を、相互交換し、相互評価できるようなシステムがあったらいいと思うのです。そこで評価されるのは、単に「エンターティメント的要素」だけではない。「科学への興味をかきたてる」「科学的な理解」などの「教育的要素」です。番組の相互交換システムのなかで、互いに表現方法や技術を磨きあいながら、「面白くてためになる」「ためになってかつ面白い」「世界を理解したいという根源的な欲望を刺激してくれる」ような番組づくりができたらいいなあと思うのです。

▼「科学教育」以外での利用
ここで、もうひとつ枠を拡げて考えてみると、プラネタリウムという空間が、実は科学教育以外でもっと使用されてもいいのではないか、ということです。

先にあげた「千と千尋」を、半球状の画面に投影したすごい臨場感(吐くかもしれない)。そういったエンターティメント作品の上映に使われてもいい。「人寄せパンダ」じゃないけれど、足を運んでもらうきっかけとして、そのような作品が機能してもいい。

また、あがた森魚さんがやっていらっしゃいますが、コンサート空間としても面白い。わたしは、残念ながらこのコンサートには行ったことがないので、行った人、ぜひどんなものか、どのように会場を使用するのか、星空はどのように生かされるのか、など、レポートください。ドロンコさん、よろしくお願いします。

さらには、現代美術作品、現代音楽の発表の場としても、面白い効果があると思います。知人で元水戸芸術館学芸員の鈴木朋幸氏などに相談すれば、またいろいろな可能性を示唆してくれるでしょう。プラネタリウム関係の人々が、このような異ジャンルの人々と交流する機会は少ないと思います。芸術関係者も、プラネタリウム関係者と交流する機会が少ない。このような会をきっかけに、異ジャンル交流への道を拓いて、新たな可能性を探ることも面白いと思っています。

わたし自身でいえば、先日山梨科学館プラネタリウムのイベントで、詩の朗読をさせてもらったのが面白かった。星空という独特の空間に包まれて「詩」を語る=聞く、というのは、とても興味深い体験だと思います。

現在「詩の朗読」「短歌の朗読」が盛んになりつつあります。プラネタリウムがその会場として提供されても面白い。もう一歩進んで、例えば毎週金曜日の夜、と決めて「オープンマイク」をしてもいい。参加希望者がだれでも自作の詩を朗読できる空間をつくるのです。そうやって「科学」だけではなく「文学」「芸術」関係者も巻き込んだ文化サロンとなっていたら楽しい。どう? いい感じでしょ。

▼異ジャンルをつなぐ「星空解説」
しかし、「娯楽」「科学」「文学」「芸術」分野が、同じプラネタリウムを足場としながらも、分断されていたんじゃ、つまらない。あくまでもここは「プラネタリウム」。その底流に、脈々と「科学」が流れていてほしいのです。

その異ジャンルをつなぐものが生の「星空解説」じゃないか、と思うのです。さまざまなイベントの前後どちらかに、プロローグかエピローグのように「星空解説」があったらどうだろう。もちろん「生」です。そして、生であればこそ、その日の演目にふさわしい話題を提供できる。何もギリシャ神話ばかりが星の話じゃない。生活のさまざまなところで、
人は星と結びついているはずです。その日の演目にふさわしい内容を探しだし、そこから科学へとつなげていく。そんな努力がなされたら、星空と演目とのすばらしいコラボレーションが生まれると思うのです。

▼なぜ「ギリシャ神話」か? 「持ち前」の復権を!
星空解説で、当然のように「ギリシャ神話」が語られることを、わたしは長らく疑問に思ってきました。たしかに、世界標準の星の名がそこに設定されているのでしょうが、それは「星空のグローバル化」に他なりません。その地域には地域の、独特の呼び名や伝説があったはずです。しかし、いま、それを語ることは「特殊なこと」「エスニックな話題」にされてしまっている。星空の世界が、どれだけ西洋一色に塗りつぶされてきたのかの証明です。

わたしたちは、子どものころからそれを聞かされてきたので、いまでは「ギリシャ神話の星空解説」は、ノスタルジーの対象にすらなっている。わたしは、この偏重を嫌います。「和人の星」「アイヌの星」「沖縄の星」そして「東洋の星」の話を、もっともっとしてほしい。わたしたちの文化のルーツをたどりなおすような「星空解説」をしてほしい。

でなければ、プラネタリウムは西洋人が世界各地につくった「教会」と同じ役割を果たすことになってしまいます。地元の宗教、地元の世界観を抹殺して、キリスト教一色に塗りつぶす本拠地として機能した教会と同じ事になってしまう。それは悲しいし、悔しい。

プラネタリウムを、わたしたちが、わたしたちの古い文化を再生し、新しく作り直していく場所として機能させられるはずです。グローバル化の弊害があからさまに現われてきた二十一世紀、プラネタリウムは、ローカルの復権にもぜひ一役買ってほしい。

地元の郷土史家、民俗学者などとの交流も含めて、幅広い学際的な交流ができるようになったらいいなあと思います。

▼情報並列的な生解説から、有機的解説へ
さて「生解説」ですが、Eliちゃんが、こんなことを書いてくれました。
ただ私は、現在のプラネの主流でもある、ふっと場内が暗くなり「今日の日没です・・・」から始まる流れも好きです。現実でありながら現実ではない感じ。一瞬にして異界に連れてこられたような感じが心地よいので。
わたしも、同感。あの感じ、とてもすてきです。そして、人間の「生の声」がいい。安らぎを与えてくれる。

けれど、その先にある「星座解説」になると、わたしはどうも興味が持てない。最初は一生懸命見てるけど、すぐにオーバーフローしちゃう。情報が多すぎるのです。そんなに覚えられない。もし、星座解説をやるんだったら、一回に、ひとつの星座を覚える。絶対にそれだけは覚えられるような解説をして欲しい。そして、その星座のなかの星を科学的に解説してくれたらうれしい。それくらいに凝縮してほしいと思っています。

つまり、わたしは昔から「暗記」が苦手。つらつらと並列されたものには興味が持てない。有機的なつながりのなかで、物事を理解したい。だから、学校の勉強は苦手。ひとりで勉強する。という集団学習障害児でした。だから、上記のような方法を望むわけだけど、これはわたしだけの特殊事情だろうか? どう思う?

▼生解説フェスティバル
世には、星空の名生解説というのもがあると聞きました。名人がいて、その方の解説ききたさに、人が集ってくることもあるとも。わたしに解説してくれた人には申し訳ないけれど、いまのところ、そのような名解説には、出会ったことがありません。

でも、すごいのはほんとうにすごいと、黒田さんもおっしゃっていました。

そこで、提案です。星空生解説フェスティバルを開いたらどうでしょう。年四回。全国のプラネタリウムを持ち回りでやる。そこに、全国から「星空解説者」が集ってきて、競い合うのです。必要なら、人気投票をやってもいいし、コンテスト形式にしてもいい。お祭りにして、楽しむだけでも充分効果があると思います。

というのも、みんな、他人の解説を聞く機会が少ない。現状では、勉強する機会が少ないわけです。互いの解説を聞いて、影響を受け合い、切磋琢磨し、よりよい解説を模索する機会として、こんな催しはとてもすてきだと思います。

そこで「人気解説者」が生まれ、有名になったら、こんどはわざわざその人の解説を聞きに行くために旅行する、なんていうケースも出てくるかもしれない。人気声優のような、人気解説者が生まれないとも限りません。そうなるといいな。


以上、思いつくままランダムに書きました。後でもうちょっとまとめます。誤字脱字多数かもしれないけれど、とりあえずと投稿します。長くてゴメン。ご意見ください。

寮美千子  プラネタリウム/事前議論歓迎! 2003年04月22日(火)16時16分40秒
感激! へのコメント

――なお、27日もいよいよ近づいてきましたし、ぼくは基本的に、プラネタリウムに関するすべての問題を、ここであらかじめ議論しておく必要はないんじゃないかな?と思っています。映画だって、事前に詳細なストーリーを知ってしまっていたら、見る楽しみが半減はおろか、すっかり失せてしまうことだってありえますよね? だから、お楽しみは当日まで取っておかせてほしい――というのが、現在のぼくの率直な気持です。by ドロンコさん
ドロンコさんのお楽しみを奪うようで恐縮だけれど、わたしはそうは思いません。「プラネタリウムに関するすべての問題を、ここであらかじめ議論」することなど、とてもできません。できるはすがない。プラネタリウムは、それだけ大きな問題です。

27日の「プラネタリウムの役割と使命を考える」は三時間。長丁場ではありますが、そこで議論しつくせる話でもないと思う。ましてや、出演者が当初の予定より大幅に増えた今、「船頭多くして、船、山に登る」ということにもなりかねない。だいたいが、それぞれが基調発言するだけで。三時間なんて過ぎてしまいそう。できる議論はなるべく事前にして、焦点を定め、当日のシンポジウムを実りあるものにする努力が必要だと感じています。

この研究会は「娯楽映画」ではありません。こんな議論くらいですっかり興味が失せるぐらいなら、来なくていいよ。

黒田武彦  プラネタリウム論議 2003年04月22日(火)11時30分20秒
感激! へのコメント

DORONKOさん、さっそくのコメントありがとうございました。
お書きになっているように
「――なお、27日もいよいよ近づいてきましたし、ぼくは基本的に、
 プラネタリウムに関するすべての問題を、ここであらかじめ議論
 しておく必要はないんじゃないかな?と思っています。」
私もそう思います。
また、MARIKOさんも別MLでお書きになっていましたが、突き詰めて
いくと「金と人」になってしまいます。
これを言い放つだけでは今をより良くすることができません。本質
的な問題意識を持ちつつ、現実的な対応をせざるを得ないと思いま
す。
27日は『貧困?な中でも対応可能な有効な方策』を考える場と位置
付けると叱られるでしょうか。

DORONKO  感激! 2003年04月22日(火)10時26分15秒
プラネタリウムって幸せだね へのコメント

ぼくが、実情はよく知らないながらも、プラネタリウムの現状や
将来について何となく気になっていたモロモロの点について、
どうやら黒田先生から直々にご教示いただいてしまったようですね。

この先生のご教示で、頭の中のモヤモヤのかなりの部分が、
すっきりと晴れてきたように思います。――今すぐに細かく
お返事はしかねるのですが、すっかり感激しています。

ともかく、

>教育の場としても不十分な部分がある、エンターテイメントの
>場としても一定の限界はある。そういったことを斟酌しても
>余りある成果を生み出す投影を工夫する、それにはやはり
>「人」が要ると思うのです。

というご主旨に、まったく同感です。

ぼくは、たとえば、学校の生徒たちが、クラス単位で全員が揃って
同じものを見るということも過渡期の形態として「まだ」あっても
よいと思いますが、いずれは、望遠鏡で自由に宙を見るように、
興味のある生徒だけの自由参加で、先生のおっしゃる「人」に
サポートしてもらいながら、様々な天体の事象を自由にシミュレーション
してみるというような“準パーソナルな”使い方が、もっと
プラネタリウムでできるようになればいいのだがな、と思っています。
ちょうど、図書館で借りる本が全員同じものではありえず、一人ひとり
別のものであるのと同じように――。
そこまでは、とてもとても、ちょっとやそっとでは行き着けない
だろうとは、重々承知しているつもりですが。
(以上は、主として「教育利用」に関してのことです。
エンターテインメントのプログラムに関しては、別の視角から
論じる必要があると思いますが、それは他の方におまかせしたいと
思います。)

――なお、27日もいよいよ近づいてきましたし、ぼくは基本的に、
プラネタリウムに関するすべての問題を、ここであらかじめ議論
しておく必要はないんじゃないかな?と思っています。映画だって、
事前に詳細なストーリーを知ってしまっていたら、見る楽しみが
半減はおろか、すっかり失せてしまうことだってありえますよね?
だから、お楽しみは当日まで取っておかせてほしい――というのが、
現在のぼくの率直な気持です。
で、プラネタリウムの問題というのは長期にわたって考えて
行くべき問題であるのは確実なのですから(とぼくは思います)、
27日のシンポジウムが済んでから、「事後的に」ここで論じて行く
ということでよいのではないでしょうか?

なお、黒田先生がお持ちの手塚さんの原稿、まだ一度も出版物に
載ったことがないのであれば、以下のいずれかの編集部に知らせて
あげて、どちらかでも、増補版を出すつもりがあるようであれば、
その際に入れてもらうとよいかと思います。どちらも、手塚さんの
講演の記録などをもとに構成した本であるようですから。

・「ガラスの地球を救え―二十一世紀の君たちへ」光文社文庫

・「ぼくのマンガ人生」岩波新書

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