ハルモニア 隕石標本:ならまち暮らし

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■オニアザミの襲来 ならまち暮らし(42)/毎日新聞奈良版 2012年7月4日

寮 美千子

 はじまりは「ツイッター」。友人が「猿沢池のほとりの野アザミが元気元気。立派なトゲが凶器みたい」と写真付きで投稿。数日前にわたしも見たので「アザミは、スコットランドの国花。おや、奈良の都に」と返事を。
 すると、見ず知らずの方から「それはアメリカオニアザミという外来種。外来生物法により、要注意外来生物に指定されている危険な植物です」とコメントがあった。
 びっくりして調べたら、まさにその通り。牧草の種に混じって北海道に移入され、日本列島に広まりつつある。繁殖力が強く、在来種を駆逐、棘が大きくて痛いので駆除が困難、しかも牛も鹿も食べないので、繁り放題で、手を焼いているという。6〜8月には花を咲かせ、綿毛を飛ばして拡散する。
 これはいけないと、さっそくスコップと植木ばさみを持って猿沢池へ。道ばたに数輪だけと思っていたが、よく見れば、奥で群生している。すでに綿毛になったものも。棘だらけの藪には、人間どころか鹿だって足を踏み入れられない。友人たちと4人がかりで1時間の作業。抜いたオニアザミで大きな山が2山もできた。とても自力で運べない分量なので、市役所に通報し処理を頼んだ。
 手の届くところはなんとか駆除したが、根までは掘りつくせなかった。しかも、まだ川岸に生えている。市内の住宅地で見たという声も聞く。奈良公園に広まったら、たいへんなことになる。被害を受けるのは、在来植物だけではない。在来植物と共生している虫、虫を食べる鳥にも及び、生態系が乱れる。たおやかな奈良の野山が、アザミの荒れ地に一変する可能性も。
 奈良県庁自然環境課に通報すると、アメリカオニアザミの報告例は、はじめてとのこと。はびこる前に徹底駆除すべきだが、県では駆除作業はしていない。せめて広報を、と懇願した。関東ではすでに埼玉県八潮市などが昨年から広報し、駆除ボランティアもいる。景観は奈良の宝、守りたい。アメリカオニアザミ、見つけた人はぜひ自主的に鬼退治を!
(作家・詩人)


アメリカオニアザミ。棘が大きく毒々しい風貌で、在来種の可憐なアザミとの違いは一目瞭然。棘は手袋も通すので、ゴミばさみが必要。花だけでも摘めば、種子の拡散を防げる

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■ねこ祭りの仕掛け人 ならまち暮らし(41)/毎日新聞奈良版 2012年6月20日

寮 美千子

 ならまちの6月は猫一色。あちこちに猫雑貨や猫作品が展示され、猫メイクをした人間猫が和服姿でしゃなりしゃなりと歩いている。「にゃらまちねこ祭り」開催中だからだ。
 この祭り、今年で2回目。仕掛け人はならまちの料理屋「うと・うと」のご主人、野村修司さん(58)。山添村のお生まれで、10年ほど前、ならまち出身の奥さまと二人で、十輪院町にお店を開いた。
 この店がおもしろい。十輪院の向かいの路地の突き当たりにある隠れ家のような町家。現代美術の作家の作品から食玩まで、風変わりなオブジェが所狭しと並べられ、まるでおもちゃ箱。お料理は、昼と夜、各一組の限定。といってもお高くとまった懐石料理ではなく、温かみのある田舎料理。「昔は町中に人が溜まれる場所があった。そんな場所を復活したかった」と野村さん。仕出しもしている。
 ならまちの手書きの地図を作って印刷発行したのも、「ならまち愛」ゆえだ。「ガイドブックにある有名寺院やお店だけをかけ足で見るのではなく、屋根瓦の模様などをじっくり楽しみながら、ゆったり散策してほしい」という。町の人も気づいていない楽しいポイントを書きこんだ地図は、地元民にとっても「ならまち再発見」として新鮮だ。
 ご夫婦ともに猫好き。猫に因んだ作品を作る作家たちと知りあいになり、8年前、ならまちで、猫作品の展示即売会をはじめた。マージンを一切取らないボランティア事業だ。
 それが支持されて拡大し、昨年からは町を挙げての「にゃらまちねこ祭り」になった。今年は35店舗が参加し、猫に因んだイベントも多数開かれている。
 行政からの補助金を一切受けず、町の人々のつながりのなかで独自に盛りあがる「にゃらまちねこ祭り」。これぞまさしく町おこしの王道。仕掛け人の野村さんに、大感謝だ。
 最終日の6月30日夜7時からは、下御門のカフェSankakuで、猫に因んだ詩の朗読会を開催する。誰でも参加して猫の詩を朗読できるオープンマイクだ。ぜひ、ご参加を!
(作家・詩人)


野村修司さん。自作の猫イラストと木彫の招き猫のほんわかぶりが、ご本人に似ている

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■東西融合の建築美 ならまち暮らし(40)/毎日新聞奈良版 2012年6月6日

寮 美千子

 春日大社の「一之鳥居」から、緑豊かな表参道を歩いていくと、左手に美しくもふしぎな雰囲気をたたえた木造の建物が現れる。堂々とした黒い瓦と目にしみる白壁だが、丸い窓の意匠がなんとも異国風だ。
 この「旧奈良県物産陳列所」は、実は明治の名建築。明治35年竣工で、当時は県下の物産の展示販売を行っていたという。
 単に和風ではなく、けれど西洋に媚びるわけでもなく、しかもイスラム風の曲線美の丸窓まで取りこみ、かといって寄せ集めのモザイク建築ではさらさらない。破綻なく溶けあって見事な調和を見せ、ほれぼれするほど美しい。そして、何より奈良らしい。天平の昔、アジアの文物を採りいれながらも、独自の天平文化を築いたこの都にぴったりの建物だ。
 こんなすばらしい建物、どんな人が設計したのだろうと調べてみて、驚いた。設計者は、関野貞(1867−1935)。建築史学者だが、とても一口で説明できるような人物ではない。帝国大学時代に辰野金吾に西洋建築を学び、皇居造営の建築家から日本建築を学ぶ。卒業後、奈良県に技師として赴任。古い寺院建築をくまなく調査して80余棟の文化財候補建築のリストを作成。大極殿跡を発見し、これが平城宮跡保存のきっかけとなった。その後、朝鮮、中国でも調査を重ね、膨大な資料を残し、日本の文化財学の基礎を築いた人だ。
 それほどパワフルなのに「温厚」「懇切丁寧」で「子どもの教育に熱心」な「子どもと遊ぶ模範的家庭人」だったという。
 建物は改装され、昨年、奈良国立博物館の仏教美術資料研究センターとしてオープンした。門はいつも閉まっているが、水曜と金曜には、一般の閲覧も受けつけている。博物館所蔵品カードの閲覧ができるし、一般図書館では見られない貴重な美術書も充実している。
 わたしは、印刷物に収録されていない絵巻の複写を見るために訪れた。美しい建物のなか、古い絵巻の資料をじっくりと見る至福の時間。しかも、閲覧だけなら無料。奈良って、なんてぜいたくな町だろう。
(作家・詩人)


和風建築にイスラム風の窓がよく似合う「仏教美術資料研究センター」。水曜と金曜には、門の脇のインターホンで入館申請できる

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■当麻寺の練供養 ならまち暮らし(39)/毎日新聞奈良版 2012年5月23日

寮 美千子

 風薫る5月14日、念願の「当麻寺練供養」に、やっと参拝することができた。
 このお寺は中将姫の伝説で知られている。幼くして母に死に別れた姫は、継母にいじめ抜かれてもなお、継母の幸いを祈り続ける。まさに、東洋の白雪姫伝説。けなげで薄幸な姫は、やがて出家し、仏さまのご加護により蓮の糸で「当麻曼陀羅」を織りあげる。
 曼陀羅は、アニメも映画もなかった時代、「浄土」を描いた一大パノラマ。「絵説き師」たちが、節をつけて歌いながら解説と説法をした。当麻寺にも、昭和30年ごろまでは、5〜6人の絵説き師がいたそうだ。
 一時は途絶えてしまった絵説きを、当麻寺中之坊の長老・松村實秀師(74)が復活。練供養の日には、平成になって完成した曼陀羅の写しを前に「絵説き」をしてくださる。
 壁に掛けられた「当麻曼荼羅」の絢爛豪華なことにまず目を奪われた。松村師は、独特の節回しで浄土の様子を歌うように説かれる。
 聞いているうちに陶然としてきた。派手な映像に慣れている21世紀のわたしでさえ、こうなのだ。遠い昔に説法を聞いた素朴な民は、どれほど強く心を奪われたことか。
 その後行われた練供養は、この世のものとも思えないすばらしさ。なだらかな坂道の上にある曼陀羅堂は、この日だけは極楽堂と呼ばれ、そこから長い長い渡り廊下が渡されて、金の菩薩面を被った菩薩さまたちが列を成し、娑婆堂の姫を迎えにいらっしゃる。3D映画など目ではないご来迎の風景が眼前で展開。
 室町の頃から使われてきた菩薩たちのお面28面は、7年前にすべて新調された。制作したのはならまち在住の能面師・丸尾万次郎さん(73)。ならまちは、実は中将姫と縁が深く、ゆかりのお寺が4つもある。中将姫誕生の誕生寺、姫が成人した高林寺、姫の父の屋敷跡の徳融寺、姫が開基と伝わる安養寺だ。
 何気なく歩いていた町角に、こんな伝説があったとは! 町歩きがますます楽しくなる。
(作家・詩人)


蓮華台を手に中将姫を迎えに行く観音菩薩。このお面、練供養の前に公開され、お坊さまの「南無阿弥陀仏」の声とともに、顔に付けさせていただける

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■国宝絵巻 絵本に ならまち暮らし(38)/毎日新聞奈良版 2012年5月9日

寮 美千子

 以前からあたためていた「国宝の絵巻の絵をそのまま使って絵本にする」という大それた企画が、ようやく実現。全国発売の運びとなった。『空とぶ鉢 国宝信貴山縁起絵巻より』(長崎出版)
 そもそものはじまりは「奈良にUFO伝説があるのを知ってる?」と、聞かれたこと。伝説とは、信貴山の高僧・命蓮さんにまつわる物語。命蓮さん、大変な神通力の持ち主で、空中に鉄の鉢を飛ばして托鉢に行かせたという。鉢をわずらわしく思った村の長者が、鉢を米倉に閉じこめたところが、さあたいへん。倉から鉢が勝手に転がりだして空を飛び、倉もいっしょに飛んでいってしまう。あわてた長者が追いかけると…という奇想天外なお話。
 この空飛ぶ鉢の形が、いわゆる「アダムスキー型UFO」を髣髴とさせる。いつの時代も、人は天空に、同じ幻を見るのだろうか。
 その絵が、平安時代に描かれた「信貴山縁起絵巻」にいきいきと描かれている。あわてふためく人々、騒ぐ小坊主やのんびりした従者、びっくりして空を見あげる鹿にいたるまで、実に表情豊かに描かれ、「アニメの元祖」とまでいわれている。
 いまでは博物館のガラスケースに鎮座している絵巻だが、当時は庶民の娯楽でもあった。お寺の寄付を集めるため、紙芝居さながらに絵巻を広げて語ったという。
 このおもしろさ、楽しさを、ぜひそのまま現代の人に伝えたい。そう思って、絵巻の絵本化を思いたった。
 信貴山をはじめ、多くの方のお力添えで絵本が完成。5月13日には、信貴山朝護孫子寺のその名も「飛倉」で、完成記念朗読会を開催する。午後2時からで先着70名さま。無料。
 広報したところ、大和郡山の老人福祉施設に住むおばあさんから「うちに信貴山の絵巻があるから、もらってほしい」と連絡があって、びっくり。かけつけてみると、印刷されたかわいらしいミニ絵巻と絵葉書。そのお気持ちがありがたい。朗読会で、子どもたちに存分に触ってもらおう。
(作家・詩人)


山根繁子さんは大正5年生まれの95歳。10年前まで現役の看護婦さんだった。信貴山の事務長を務めたご主人の形見のミニ絵巻をプレゼントしてくださり、感謝!

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■吉野の桜と絵本 ならまち暮らし(37)/毎日新聞奈良版 2012年4月25日

寮 美千子

 奈良に移住して五回目の春、ようやく花の吉野へ。聞きしにまさる人の多さだ。吉野に向かう列車はぎゅう詰め、やっと到着した近鉄吉野駅も人でぎっしり。駅前からロープウェイで山に上る手段もあるが、ここも長蛇の列。相棒のすすめに従い、列には並ばず、七曲坂を歩いて登った。
 足元にはスミレやネジバナなど可憐な春の野草。頭上には満開の桜。ゆるやかな坂道を上っていくと、谷をはさんだ向こうに、徐々に桜の山が見えてくる。そのみごとなこと!
 一本一本の木が、独自に光の粒子を集めた、とでもいうように、ぼうっと丸く淡い光を放っている。白いもの、桜色のもの、小さな赤い葉が見え隠れするもの、まるで印象派の絵、やわらかな光のモザイクだ。
 聞けば、ヤマザクラ系を中心に吉野には二百種を越える桜があるという。そのため、一本一本、開花の時期や色が異なり、こんなみごとなモザイク模様を見せてくれるそうだ。
 吉野の桜には、こんな起源伝説がある。「修験道の祖である役行者(飛鳥〜奈良時代)が、吉野の地で蔵王権現を感得、桜の木にそのお姿を彫りご本尊にした」。以来、桜の木は神聖なものとされ、お参りに来た人々が山に桜の木を植えて奉納した。自分たちが愛でるためではなく、神さま仏さまに捧げた桜なのだ。そう思って見ると、なおさら感慨深い。
 しかし「蔵王権現を感得」とはどういうことか? と思っていたら、いい本を見つけた。絵本『蔵王さまと行者さま』。著者は吉野のお山の金峯山寺。役行者の出自から、金峯山寺に、なぜ青くて巨大な蔵王権現が三体も祀られているのか、その由来を子どもにもわかるように、やさしく描いている。
 桜も、単なる観光として消費されてしまっては本望ではないだろう。神仏の力の満ちる聖地である奈良。訪れる人々には、祈りの心に満ちた旅を、「光を観じる」ための本来の「観光」をしてほしい。そんな「観光」の手引きとなるすばらしい絵本だ。大人にも、子どもにも、ぜひ読んでほしい。
(作家・詩人)


『蔵王さまと行者さま』(著・総本山金峯山寺、絵・松田大児 コミニケ出版) この4月に発売になったばかりの大型絵本

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■チェルノブイリの絵 ならまち暮らし(36)/毎日新聞奈良版 2012年4月11日

寮 美千子

 「サマショーロと呼ばれている人達がいます。行政の指導に従わないで、立ち入り禁止に指定された村に戻ってきたり、出てゆこうとしない『わがまゝな人』という意味です」
 そんな言葉でこの大絵巻は始まる。橿原市昆虫館で開催中の『人と自然へのまなざし 絵描き貝原浩の仕事〜チェルノブイリスケッチ・風しもの村』。画家の貝原浩氏は、1947年、岡山県倉敷市生まれ。子どものころから、ともかく絵が好きで、家の周囲の道路は、ローセキで描いた彼の絵で埋めつくされていたという。高校時代は大原美術館に入り浸り、東京芸大へと進んだ。卒業後は画家として、また造本デザイナーとして活躍。貝原氏がイラストや装丁を手がけた本は、わかっているだけで七百冊もある。実際には千冊は越えるだろうといわれている。
 チェルノブイリの原発事故から6年後、貝原氏はベラルーシを訪れた。原発事故現場の風下で、放射線量が高いため立ち入り禁止になっている村に行くと、驚いたことに、そこで暮らしている人々がいた。「サマショーロ」だ。持ち前の明るさと人なつこさで、貝原氏は村人と友だちになる。畑のトマト、森のキノコ、川の魚…。村人の食卓を彩るのは、地元で採れた食材ばかり。貝原氏は、ともにそれを食べた。高い放射線量だと知りながら。
 日本に戻ると、彼は憑かれたように巨大な絵巻を描きだした。ふすまほどもある和紙に10枚。未来の日本への命がけの警告だった。
 貝原氏は9回もベラルーシを訪れ、やがてガンを発症し、2005年、帰らぬ人となった。享年57歳。絵巻が大判の画集として刊行されたのは死の5年後。そのわずか8カ月後の福島の原発事故だった。かつて橿原市昆虫館のポスターを描いたことがご縁で今回の作品展となった。
 美しい森と畑、けれど、すべてが放射能汚染されている。底知れぬ哀しさが、圧倒的な画力で迫ってくる。いまの日本の風景と、すべてが重なる。涙が止まらない。
 豪胆で繊細な人だった。生前、いっしょに絵本を作る約束をしていたが、果たせなかったのが残念。一人でも多くの人に見てほしい。
(作家・詩人)


『チェルノブイリスケッチ・風しもの村』より。その画力と大きさに圧倒される。ぜひ実物を見てほしい。15日まで

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■ギャラリー巡り ならまち暮らし(35)/毎日新聞奈良版 2012年3月28日

寮 美千子

 ならまちは歩いて楽しい町。小さな路地を入ると、思いがけずおしゃれなカフェや雑貨屋さんに出会う。何より、ギャラリーが多いのが楽しい。専業のギャラリーもあるが、お店と兼用のところも多く、肩の凝らない気楽なギャラリー巡りができる。
 そんな兼業ギャラリーで、本紙連載中の童話「ならまち大冒険 赤の巻」の挿絵の原画展を開催中だ。それも3カ所、同時開催!
 第1会場は、西寺林商店街の「ならまちの駅」。ここは、松原米穀店の松原秀典さん(58)が町おこしの一助にと作った私設の観光案内所。ふらりと立ち寄って見ていく人も多い。ベニヤをペンキで白く塗った手作り感いっぱいの壁面がギャラリー。店の前の巨大な木彫りの招き猫は「ならまち大冒険」のキャラクターとして登場。ならまちの猫の大将「ウトウトさま」という役どころだ。
 第2会場は、下御門商店街の「藝育カフェSankaku」。オーナーは、元お菓子職人の山本綾子さん(38)。芸術で人と人を繋ぎ、育てていこうというのがテーマのお店で、奈良の若きアーティストたちの拠点となっている。原画展は、二階へあがる長い階段の壁で開催中。お店は、元ダンスホール。ミラーボールきらめくカフェの壁面や、昔の電話ボックスも、ギャラリーになっている。
 第3会場は、ならまちのはずれ、北京終の「町屋ゲストハウスならまち」。シャープを定年退職した安西俊樹さん(62)が、若い人や外国人バックパッカーたちが気軽に泊まれる安宿を作ろうと一念発起して作ったお宿。古い町家の風情がすばらしい。「田舎のおじいちゃんちに遊びに行く気分で来てほしい」という温かい気持ちがあふれる宿だ。
 連載は今月いっぱいだが、「藝育カフェSankaku」では4月4日、「町屋ゲストハウスならまち」では4月末日、「ならまちの駅」では5月末日まで原画展を開催する。ぜひ、ギャラリー巡りを! 巡るうちに、自然とならまち散策になる。途中にもギャラリー多数。きっと新たな発見があるはずだ。
(作家・詩人)


「ならまちの駅」のマスコットの招き猫と松原さん

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■昼の「お水取り」 ならまち暮らし(34)/毎日新聞奈良版 2012年3月7日

寮 美千子

 東大寺・二月堂の「修二会」、通称「お水取り」の本行が、3月1日から始まっている。14日まで、毎晩、巨大な松明が燃やされて、多くの人が訪れる。ニュースでも、この「お松明」のことばかり報道するから、「お水取り」といえば「松明のお祭り」と勘違いしている人も多いが、行の心髄はそこから先だ。
 二月堂に上った練行衆のお坊さまたちが、未明まで内陣で声明や五体投地を行う。著名な音楽評論家が「お水取りは、音楽典礼だ」と語っていたが、確かにその通りだ。リズムを取って床を踏む音、鐘や鈴、錫杖の音色、ほら貝の響き、そして歌うようなお経の声の重なり、まるで音楽劇を見ているようだ。
 女性は内陣には入れないが「局」と呼ばれる周囲の部屋にあがらせていただき、音を聞くことはできる。格子戸の向こう、灯明のほの暗い光に照らされるなか、繰り広げられる古代の香り漂う儀式に、遠い遠い時の果てに誘われ、敬虔な心持ちになる。
 これを聞きたいと思うが、なにしろ夜だし、深夜に及ぶので、なかなか行けない。ところが、昼間でもこれを聞けるということに、いまごろになって、やっと気がついた。練行衆は、昼も上堂して行をしていらっしゃるのだ。
 食堂作法と呼ばれる、日に一度だけの食事の後、午後1時ぐらいから、二月堂に上って行をなさる。あの「南無観自在菩薩」の声明も、聞かせていただくことができる。
 昼間に行くと、さまざまなことに出会える。3日に参詣した折には、童子の方々が「達陀」の行に使う松明の部品を作られていた。内陣で灯すもので、小振りで繊細な美しい松明だ。湯屋では、お供えするお餅「壇供」を作るために、お米を研いでいた。上七日と下七日、壇供を入れ替えるので、明日8日の昼に行くと、その様子を拝見することができる。
 2週間に渡る本行をつつがなく行うためには、膨大な下準備が必要だ。14名の童子の方々が、休む間もなく様々な仕事をしていらっしゃる。それも含めて、すべてがこの行なのだと、昼のお水取りを見て、改めて実感した。
(作家・詩人)


「達陀」の松明の部品を作る童子の方々。最終の組み上げは9日の午前中に行われる

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■名勝 大乗院庭園文化館 ならまち暮らし(33)/毎日新聞奈良版 2012年2月22日

寮 美千子

 奈良には無料で入場できるすてきな名所がいっぱいある。東大寺の国宝・二月堂や、鷺池に浮かぶ浮見堂は、24時間、出入り自由。真夜中の名月を楽しむこともできれば、夜明けの光を満喫することもできる。
 「名勝大乗院庭園文化館」もそんな場所のひとつ。庭園散策には入場料100円が必要だが、窓からの鑑賞なら無料。特大の窓ガラス越しに、復興した大乗院庭園を一望できる。雨も、暑さ寒さも関係なく、快適な環境でゆったりと時を過ごせて好都合。飲み物の販売機もあるから、散歩のひと休みには最適だ。
 庭園には、宝石のようなカワセミをはじめ、カイツブリ、カモ、サギなど、さまざまな鳥が水辺を求めてやってくる。室内にいながらにしてバード・ウォッチングができる。
 朱色の太鼓橋のかかる池の向こうに見える奈良ホテルは、築百年を越える明治の名建築。その借景も、まるで一幅の絵のように美しい。
 この大乗院庭園、2年前に指定管理者が「ならまち振興財団」から「奈良ホテル」になった。
 その時に赴任してきたのが、いまの館長の植田光政さん(66)。植田さんは、大阪の大学で土木工学を学んだのだが、卒論のテーマが「庭園の水理学」という変わり種。学生時代、故郷の木曽から単身都会に出てきたさみしさを慰めてくれたのが、京都で出会った里山風の庭園。以来、庭園一筋だという。卒業後は最大手の造園会社に就職、日本全国で造園に関わってきた。
 定年後「設計や現場管理だけでなく、自分の手で庭を作りたい」と、奈良の職業訓練校で半年間剪定などを学び、その技術を生かして奈良ホテルに再就職。3年間ホテルの庭作りに携わり、大乗院庭園文化館の館長になった。
 ともかく庭が好き。庭への愛は、溢れるばかりだ。こういう場所、とかく天下り人事になりがちだが、ほんとうに必要で適切な人材を配してくれた奈良ホテルの見識に感謝する。
 館長さんは自分でも剪定するし、庭園の歴史も深く学んで、その魅力を語らせると尽きない。明日からは「描かれた旧大乗院庭園資料展」も開催される。ぜひ足を運んでほしい。
(作家・詩人)


館長の植田光政さん。大好きな庭一筋のしあわせな人生。大乗院に行けば、この笑顔に会える

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■生命の起源 ならまち暮らし(32)/毎日新聞奈良版 2012年2月8日

寮 美千子

 命の始まりのことを考えると、ふしぎな気持ちになる。父と母がいて、わたしが生まれた。その父と母にも両親がいて、その人々にも両親がいて……と、連綿と続く命。
 どんどんさかのぼっていくと、いつしか人間ではない生き物になる。ホモサピエンスが地上に登場したのは約20万年前。つまり、1万代もさかのぼれば、わたしのご先祖は猿になってしまう。さらにさかのぼれば、陸上の生き物でさえなくなり、やがて海の中でまどろんでいた単細胞生物にまで行きつく。
 生命誕生から40億年、一度も途切れることなく、ずっと命がバトンされ、このわたしにつながっている。途中たった1個体でも欠けていたら「いまのわたし」はない。わたしの体の中には、生物進化40億年の記憶がぎっしり詰まっているのだ。
 地球の誕生は46億年前だから、6億年の間、地球にはひとかけらの命もなかった。そこにどうやって最初の生命が誕生したのか。
 その謎に挑戦している学者が、奈良にいる。奈良女子大名誉教授の池原健二先生(67)。「GADV仮説」という、最も新しい生命起源説を提唱、世界中から注目を集めている。既存の説は、遺伝子であるDNAやRNAを起源とするものが主だが、素人考えでも、始めからそんな複雑な遺伝子ができるわけがないと直感する。それ以前にもっと単純な4つのアミノ酸の結合による仕組みがあったのではないか、というのが「GADV仮説」だ。
 2014年には、なんと奈良を舞台に「国際生命の起源学会」が開催されることになった。海外から250名、国内から150名の科学者が奈良に集結する。その前哨戦としてこの2月初めに「生命の起源研究会」が奈良で開催され、気鋭の学者が集って熱い議論を交わした。
 古い宗教がいまも息づく古都奈良で語られる生命の起源。一般の人が参加できる公開講座も予定しているという。「せっかく奈良で開催するのだから、仏教や神道の『生命観』を語る分科会も開いてください!」と池原先生にお願いした。実現するといいな。
(作家・詩人)

池原健二
「GADV仮説」を奈良で発表中の池原健二先生。「この理論でいつの日かノーベル賞を!」と、周囲の期待も盛りあがる。

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■塀の中の成人式 ならまち暮らし(31)/毎日新聞奈良版 2012年1月25日

寮 美千子

 奈良少年刑務所の受刑者向けの授業「物語の教室」を受け持って5年目。今年初めて、塀の中の成人式に招かれた。
 明治の名煉瓦建築である刑務所の講堂は、古めかしく威厳に満ちている。正面の舞台には、厚紙を切り抜いてつくった白い鳩。翼を広げ、いままさに飛びたとうとしている。みな、刑務所の教官たちの手作りだ。
 手許には、画用紙に印刷されたプログラム。広げると、ここにも鳩が、ぴょこんと顔を出す。これも教官たちの手作り。込められた思いの深さが、胸にしみた。
 講堂の後ろは家族席。刑務所で成人式を迎えることになったわが子や兄弟を見守ろうと、みな、緊張した面持ちで座っている。
 やがて、新成人13名の入場。紺のブレザーにグレーのズボン。えんじ色のネクタイを締めている。足並み揃えて入場するその姿に、早くも涙するご家族の姿がある。
 所長は祝辞で、130年間作り続けているサグラダ・ファミリア教会で働く日本人の言葉を紹介した。「生きている間に完成しなくても、いま作り続けることに意味がある」と、少年たちに勇気を与えてくれる言葉だった。
 新成人たちは一人一人、自分で作文した「二十歳の決意」をみんなの前で朗読。驚いたことに、生ピアノの伴奏つきだ。この日のために音楽療法士の先生が、彼ら一人一人の「好きな曲」をアレンジし、弾いてくださっていたのだ。こんなにも大切にされる新成人が、ほかにどこにいるだろう。
 自らの罪を深く悔い、こみあげる涙をこらえながら、明日への決意を述べる少年たち。重い罪を背負いながら、これからどう償うか、どう生きるかを真剣に思い悩む姿が、そこにはあった。こちらも涙が止まらない。
 こんなに愛に満ち、思いやりに満ち、厳粛な雰囲気に満ちた成人式を、わたしはほかに知らない。それはまさに「責任ある大人への一歩」を踏みだすための神聖な儀式だった。
 形だけの成人式、暴れる新成人もいるが、ここにはほんとうの成人式があると思った。
(作家・詩人)


成人式の式次第のプログラムを広げると、まっ白な鳩が飛びだした

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■生まれ変わり ならまち暮らし(30)/毎日新聞奈良版 2012年1月11日

寮 美千子

 愛称は「カオリン」。空き缶アーティストとして名の知られた彼女を、ならまちの仲間はみな、親しみを込めてそう呼んでいた。「カオリンでーす」と、はつらつと登場する明るい声が、いまも忘れられない。
 赤坂かおりさんの訃報が届いたのは、年の瀬のこと。あまりの急なことに、耳を疑った。まだ34歳という若さ。聞けば、心不全による突然死だったという。
 奈良で生まれ育ち、大学で美術を専攻し、その後もずっと芸術から離れたことがなかった。その画力を買われ、新聞社の法廷画家をしていたこともある。
 世間を騒がせた大きな事件を担当したとき、彼女は被害者を深く悼むと同時に、裁判の過程で明らかになった加害者の心の傷にも同情を禁じ得なかった。そのために悩みもする、そんなやさしさを持ちあわせた人だった。
 「空き缶」という素材に出会ったのは、10年前。なんの未練もなく捨てられてしまうものに心を寄せたのが、いかにも彼女らしい。
 「空き缶でいろいろ作っているんです」
 初めて会ってそう聞いたとき、わたしはインドなどで売られている素朴な空き缶アートを想像した。ところが、実物を見て仰天した。その繊細さ、美しさ。とても空き缶から作ったとは思えなかった。
 彼女の手を通じて、空き缶は芸術作品という宝物に生まれ変わったのだ。小さなキャンドルスタンドから、翼を広げた大きな鳳凰まで、作品は多岐に渡った。
 展覧会の新企画もあったという。彼女の急逝が残念でならない。けれど、お棺のなかの彼女を見たとき、もしかしたら、彼女は彼女の人生を充分に生ききって旅立ったのかもしれない、と感じた。それほどまでに、穏やかで満ち足りた表情をしていた。本当のところは、彼女に聞かなければわからない。
 確かなのは、わたしたちならまちの友人はみな、もっともっといっしょに歩いていきたかったということ。いまごろカオリンは、透明な天の孔雀に生まれ変わって、わたしたちを見守っていてくれるだろうか。
(作家・詩人)


赤坂かおりさんの作品。空き缶で作ったキャンドルスタンド。炎に揺らぐ影が美しい

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■奈良漆の輿 ならまち暮らし(29)/毎日新聞奈良版 2011年12月14日

寮 美千子

 奈良漆の塗師の樽井禧酔師(67)に初めてお目にかかったのは、2003年のこと。これがきっかけで、師に惹かれ、わたしたち夫婦は、奈良に越してきたといっても過言ではない。
 当時、樽井師は、薬師寺大講堂再建の漆工の責任者として三人のお弟子さんとともに、須弥壇の勾欄、論議台、高座などの大仕事を仕上げた直後だった。初対面のわたしたちに、師は熱弁をふるって奈良漆と螺鈿の魅力を語り、惜しげもなく実物を見せてくださった。
 感動のままに薬師寺大講堂を訪れ、師の手による論議台を見て、その美しさに驚いた。反射する光に少しの歪みもない。こんな大物なのに何という精妙な仕上がり。しかも「最低保証300年」という堅牢な塗りだという。
 漆というものは、ヤワで傷つきやすいもの、というわたしの先入観は見事に覆された。奈良では、正倉院宝物と変わらぬ下地技法を使い、漆に余分な油を混ぜずに塗っては研ぎ、磨きあげ、大変な手間をかけて、驚くほど堅牢で美しい漆製品を作っているのだ。
 掌に入る繊細な螺鈿の香合から、自動車ほどの大きさのものまで、樽井師の作品はどれもが息が飲むような美しさだった。
 樽井師の家は代々漆の塗師。江戸時代の刀の鞘塗りの見本もある。そんなお家柄だから、社寺の仕事も代々受け継いでいるのだとばかり思っていたら、そうではなくて自力で開拓したと聞いて、さらに驚いた。
 昭和の半ば、問屋制度をとり分業制だった奈良の漆工の業界に反旗を翻し、自身の手で一貫して制作する方法に切り替えたのが若き樽井師だった。だからこそ可能な仕事があった。28歳で国宝である唐招提寺の講堂の仕事に関わったのを皮切りに、法華寺、春日大社など、有名寺社の仕事を数多く手がけている。
 今年、春日大社がおん祭りのために、巫女の輿を4台新調、樽井師が製作した。下がり藤の紋が螺鈿で埋めこまれた美しい輿が、明日15日の大宿所詣行列で初お目見えとなる。午後1時JR奈良駅出発。伝統の行事に新たな美が加わった。その輝きを、ぜひその目で見てほしい。
(作家・詩人)


西木辻にある樽井禧酔師の工房。輿の担ぎ棒を、師は鮮やかな手つきでぐいぐいと塗っていった

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■憧れの奈良住まい ならまち暮らし(28)/毎日新聞奈良版 2011年11月30日

寮 美千子

 昨年1月、三条通にあった老舗映画館「シネマデプト友楽」が残念なことに閉館した。更地になってみると、驚くほど広大な敷地だった。次は何ができるのだろう、と思っていたら、ただのマンションになると聞いてがっかり。図面を見てさらに落胆。表通りに面して、ゴミ置き場と壁。これでは、商店街が台無し、息の根を止められてしまう、と感じた。
 地元の商店街や町会の方々は強い危機感を抱き、施主側に変更を申し込み、マンションの1階2階をぜひ店舗にしてほしいと伝えた。
 施主側は、ゴミ置き場は裏に移したものの、1階にわずか8坪の店舗を1軒入れるだけの代替案を出してきたにすぎない。情けない。
 設計者はこの町に来たんだろうか、一度でも歩いてみたのだろうか、と疑いたくなった。裏の暗渠の路地も、小さなお店を連ねたりすれば、実に面白い路地になるはずなのに。
 そもそも、三条通は春日大社への参道。采女祭や春日若宮おん祭の行列の通る神さまの道だ。東には「春の日がのぼる」春日のお山、西には「日の沈む暗峠」の生駒山をのぞむ。JR奈良駅と近鉄奈良駅を徒歩でつなぐ、観光ぶらぶら歩きの大動脈でもある。
 その三条通沿いに住むというのは、とんでもなく贅沢なことだ。歴史ある国際観光都市・奈良に、今日も明日も明後日もいられるということ。朝な夕なに東大寺や興福寺、春日大社を散策し、博物館や美術館もすぐそば、四季折々の自然もすばらしい。それを織りこんで設計すれば、豊かな老後にも、もってこいの、誰もが憧れる格別な物件になるはずだ。
 店舗付高級マンションができれば、町の価値がさらに上がる。施主は、後々まで人々に感謝され、企業のイメージもステータスもあがる。それなのに、なぜ、全国どこでも同じような画一的な設計しかしないのか。
 その土地の歴史、土地が持っている物語、だからこそ生まれる魅力を理解して、価値ある物件を作ってほしい。一度作ってしまえば大型建築物は半世紀はそのままになる。町の風景そのものだ。企業の責任は重大だ。
(作家・詩人)


施工する長谷工コーポレーションの図面を元に、建築パースの第一人者・宮後浩氏が起こしたパース


宮後氏による「理想のイメージ図」。ずっと楽しい。基本設計に大きな変化を加えなくても、こうできるという

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■奈良少年刑務所 ならまち暮らし(27)/毎日新聞奈良版 2011年11月16日

寮 美千子

 天平のイメージが強いので霞んでしまいがちだが、実は奈良は明治の名建築の宝庫だ。奈良国立博物館、旧奈良県物産陳列所、奈良女子大記念館はいずれも国の重要文化財。奈良ホテルも近代化産業遺産の認定を受けている。
 極めつけは、なんといっても奈良少年刑務所。明治41年竣工で今年で築103年になる。赤い煉瓦塀と堂々とした門が実に美しい。明治に作られた五大監獄のなかで、唯一全体が現存し、しかも現役で稼働している建物だ。
 近年「近代化遺産」への関心が高まり、奈良に明治建築を見に来る人が増えた。しかし、刑務所だけは簡単に見られない。それでもどうしても、と刑務所に正式に申し込んで見学をさせてもらった人々がいる。近代化遺産の保存と活用を考えるNPO「Jヘリテージ」の前畑洋平さん(33)たちだ。
 「受刑者が罪を償っている場に、建築見たさで行くなんて不謹慎」と言うなかれ。かくいうわたしも、実は最初は建築見たさで刑務所を訪れた。そこで受刑者たちの詩や絵を見てその繊細さに驚き、それがきっかけでボランティアを申しでて「社会性涵養プログラム」の講師になって丸4年になる。月1回の授業で受刑者たちに書いてもらった詩を、昨年『空が青いから白をえらんだのです 奈良少年刑務所詩集』という1冊にまとめた。
 Jヘリテージの人々も興味を持ってくださり、刑務所見学の後でぜひ講演してほしいと頼まれた。見学会には遠く東北や九州からも参加者があった。「受刑者は、遠い世界の人じゃない。ぼくらと同じ人間だと感じた」「ぼくらだって、コンプレックスを持っている。一歩間違えば、ぼくがここに入っていたかもしれない」「犯罪の背後に、虐待やいじめなど、きびしい環境があったと知ることができた」「再犯を防ぐには、出所した受刑者をわたしたちがあたたかく受けいれることが必要と感じた」など、刑務所を「更生施設」として認識してもらえて、うれしかった。
 きっかけはなんでもいい。そこから刑務所と受刑者への理解が進み、ともに歩いていくことができれば、と切に願う。
(作家・詩人)


奈良少年刑務所の本館。煉瓦はすべて明治の囚人たちの手作り =上條道夫撮影

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■「仏教伝来」の前と後 ならまち暮らし(26)/毎日新聞奈良版 2011年11月2日

寮 美千子

 奈良国立博物館で「正倉院展」がはじまった。連日大にぎわいだが、この博物館ではほかにも、たくさんいい企画展をしている。
 忘れられないのは、2005年に行われた「曙光の時代」展だ。総出品点数1556点。旧石器時代から奈良時代にいたるまでの考古資料を時代に沿ってずらっと並べて壮観だった。日本の黎明の時代を一望する感があった。
 「実物」の持つ力はすごい。モノの魂がぐいぐい迫ってくる。そこで、わたしは驚くべき体験をした。縄文と弥生の間に、なぜか、大きな断絶を感じなかったのだ。
 それまで、日本での一番大きな文化的断絶は縄文から弥生だと思っていた。縄文こそが日本列島のオリジナルな形を持つ狩猟採集文化で、大陸からやってきた弥生の稲作文化が、それをすっかり塗り替えてしまったのだ、と。
 それなのに、実際の発掘品を大量に、しかも時代の流れに沿って見てみると、その底にある美意識が完全には消えずに、脈々と息づいていると感じられた。縄文の美意識の残滓は、古墳時代まで続いていた。
 ところが、細々とつながっていた縄文以来の美意識が「仏教伝来」でぷつんと断ち切られていて、また愕然とした。まったく新しい大陸の美意識で完全に上書きされていた。当時の人々にとって、それは「明治維新」をしのぐ大変革だったのだろう、と感じられた。
 橿原考古学研究所附属博物館ではいま、特別展「仏教伝来」を開催中。仏教とともにやってきた「香」も展示されている。もちろん当時の現物ではなく、いまのものだが、実際に手で触れ、香りを嗅ぐことができる。乳香や安息香、龍脳などのエキゾチックな香りとともに仏教はやってきた。お経を読みあげる声も音楽も来たはずだ。仏教伝来は、五感の革命だったのだと改めて思う。「日本的」なお寺は、もともと、異国の風物だったのだ。
 この博物館の常設展には古墳時代の資料が大量にある。ほとんどが実物ですごい迫力。仏教伝来以降の「正倉院展」を見たら、それ以前の日本を感じるために、ぜひ橿原の博物館まで足を延ばしてほしい。11月20日まで。
(作家・詩人)


埴輪の馬と鹿。どちらもやけにかわいい。橿原考古学研究所附属博物館・常設展示

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■青空の広場 ならまち暮らし(25)/毎日新聞奈良版 2011年10月19日

寮 美千子

 近鉄奈良駅前の広場、噴水のあるあの行基広場を、すっぽりと覆う大屋根が建設されることをご存じだろうか。奈良県が、高さ10メートルのガラスの大屋根を作ると決定した。
 わたしは、残念でならない。駅を出ていきなり広がる青空、じかに感じる風と光。それこそが奈良の魅力だと感じているからだ。
 旅人として奈良に来ていた頃は「ようこそ」と、奈良に住むようになってからは「おかえりなさい」と、この広場の空に出迎えてもらったような気がしている。この青空広場を、心のよりどころにしている人も多いだろう。
 先日『鍵田忠三郎翁伝』を繙き、広場が作られた経緯を知って、驚いた。鍵忠(尊敬の念を込めてあえてこう呼ばせていただく)が市長に就任した昭和42年、近鉄線地下移設に伴う駅前整備計画はすでに決定済み。噴水広場設置の計画はなく、駅ビルが直接、東向商店街アーケードに接して作られることになっていた。鍵忠はこの計画に強く反対、「奈良に来るお客さんが暗い地下駅に着き、すぐアーケードの下の商店街に入るのでは大阪などの大都市と何ら変わらない。観光都市奈良である以上、まず地下駅から降り、青空の見える広場に出て古都の空気と風情を味わってもらいたい。余裕のある観光都市の玄関にせねばならぬ」と力説した。
 国も県も近鉄も「都市計画決定済みだ」と取り合わなかったが、鍵忠はひるむことなく説得、運輸省にも直談判して、近鉄奈良駅ビルを西へ50メートル移動させることに成功。それによって生まれた敷地127坪が、行基さんのいる青空広場となった。
 県は、こうした経緯をまったく考慮せずに大屋根建設を決定した。先日行われたパブリックコメント募集でも、県は「建設の是非を問うものではなくデザインを選ぶために実施した」として、寄せられた建設反対の声には、まったくとりあってくれなかった。
 青空は奈良の宝。大切にしたい。県は、大屋根建設を既定事項とせず、県民とじっくり話し合う機会をもってほしいと思う。
(作家・詩人)


青空のために作られた行基広場。奈良県はここに屋根をかけようとしている

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■奈良のクラシックホテル ならまち暮らし(24)/毎日新聞奈良版 2011年10月5日

寮 美千子

 クラシックホテルが人気だが、奈良にも世界に誇る「奈良ホテル」がある。17日に創立102周年を迎えるこのホテルは、当時の鉄道院により「西の迎賓館」として贅を尽くして作られた。明治42年竣工。赤い鳥居で縁取られた暖炉が、和洋折衰の建築ポリシーを示している。完全な洋風にしなかったことに、明治末期の日本人の衿持を感じる。
 大正時代には、アインシュタインやバートランド・ラッセルも宿泊。大正11年、アインシュタイン来日時に、彼がこのホテルで弾いたピアノが、ロビーに展示されている。脚に機関車の動輪を彫刻した鉄道省の特注品だ。
 長い歴史の中、いろいろな事が起こった。第二次世界大戦時には、めぼしい金属を供出させられたそうだ。そのため、階段の手すりの擬宝珠は赤膚焼の陶器に、和風の釘隠の金具は木で作った模造品に置き換えられた。それが、いまも歴史の証人として残っている。
 百年の時に磨かれたホテルには、実にゆったりとした時間が流れている。高い天井、広い廊下。柱や手すりは節が一つもない極上のヒノキ。ホテルマンたちの立居振る舞いも美しく、「本物」だけが持つ魅力に溢れている。
 南出健治さん(59)はもう44年間も奈良ホテルのお仕事をなさっている営繕係。
古い上げ下げ窓のワイヤの交換から、椅子の塗り替えまで、一人で一手に引き受けている。
 「立地と作りがよかったので、百年経ってもしっかりしているんですわ。高台で、塀もなく風通しがいい。地面から床まで1メートルもあり、湿気がこもらない。材を惜しみなく使って、実に丁寧な仕事をしてはる。日々、百年前の大工さんと対話している気分です」
 敷居が高いと思いがちだが、ロビーでくつろぐだけなら無料だし、絵葉書も買える。本館の2階には、歴史展示コーナーもできた。
 「お泊りでなくても、ぜひいらしてください。春は桜、これからは紅葉が見事です」
 格式が高いのに気さくなところが奈良だ。
 「こんなすばらしい所で仕事ができて幸せ」と南出さん。心底うれしそうな笑顔だった。
(作家・詩人)


南出さんと赤膚焼の擬宝珠。戦時中に供出した真鍮の擬宝珠の代用に、赤膚焼七代目窯元の大塩正人氏が制作。いまやホテルの象徴に

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■二つの采女物語 ならまち暮らし(23)/毎日新聞奈良版 2011年9月22日

寮 美千子

 中秋の名月、9月12日は采女祭だった。ハイライトは日が落ちてから猿沢池に浮かべられる2艘の船。楽人たちが船上で雅楽を奏で、天平衣装の人々がゆっくりと池を巡る。篝火が焚かれ、水面に月が映り、遠い時代に紛れこんでしまったような幽玄な時が流れた。
 この祭りは、采女伝説に由来している。とある美しい采女が帝に見初められ、一夜の寵愛を受けた。しかし、その後、帝からまったく音沙汰がない。お召しは帝の気まぐれでしかなかったのだ。嘆き悲しんだ采女は、とうとう猿沢池のほとりの柳に衣を掛け、入水自殺をする。帝はずっと後にそのことを知り、哀れに思って歌を詠んだ、という物語だ。
 采女とは職名で、天皇の日常の身の回りのお世話を行う者のこと。奈良時代、地方豪族の娘たちが朝廷に献上され、采女となった。
 伝説の采女は、現在の福島県郡山市の出身だった。ところが、郡山には、別の采女伝説があるのだ。乙女が慕っていたのは、故郷の若者。若者との仲を裂かれ、乙女は朝廷へと召しあげられ采女となる。しかし、若者のことがどうしても忘れられない。采女は宮廷を抜けだし、猿沢池のほとりの柳に衣をかけて入水したと見せかけ、故郷に逃げ帰る。ところが、故郷にたどりついたとき、若者は悲観して、すでに自殺していた。絶望した采女も後を追い自殺する、という悲恋の物語だ。
 平城京の時代、奈良は日本の中心だった。奈良の采女伝説では、采女の愛した人は天皇。時の権力の象徴だ。しかし、采女を差しだした福島の采女伝説では違う。采女の愛した人は地元の若者。しかも笛の名手で、権力とは無関係だ。その恋人との仲を、中央の権力が引き裂く。権力に圧殺された者の物語だ。
 ああ、いまも同じだ、と思った。福島は、中央の都合で原発を押しつけられ、悲劇の地となった。いつの時代も、中央と地方の論理は違う。同じ出来事でも、どちらから見るかで、まるで違う物語になってしまう。
 采女の痛みと哀しみが、いまのフクシマに重なって見えた。
(作家・詩人)


采女祭りで猿沢池に投げこまれた花扇。池から引きあげられ、巫女さんの手で秋の花々が人々に手渡された

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■南円堂の地蔵盆 ならまち暮らし(22)/毎日新聞奈良版 2011年9月7日

寮 美千子

 関東から奈良に越してきて、はじめて「地蔵盆」に出会った。ふだんは地味な町角に、色とりどりの提灯が下げられ、供物が並べられ、突然、異空間になる。人がひっきりなしに訪れてお参りをする。そんな場所が、いきなりあちこちに出現するのが面白くて、越してきたころは「地蔵盆のはしご」をした。
 行く先々で「ようお参り」と声をかけてもらった。ヨソモノが、地元のお祭りに混ぜてもらっているだけで申し訳なく、うれしいのに、そのうえ「ようお参り」なんて言ってもらえるなんて、感激だった。
 しかも、どこへいっても、小さなお菓子をくださる。子どもたちのためのものだが、酔狂なヨソモノにも分けてくれるのがありがたい。なぜか、ソラマメを揚げて塩をふった「いかり豆」が多くて、一巡りするとバッグのなかは、いかり豆でぎっしりになった。
 今年は高御門町の西光院さんの地蔵盆に呼んでいただき、数珠繰りをさせていただくことになっていたが、仕事で奈良を離れていて行けなかった。残念に思っていたら、ひと月遅れの8月23日「興福寺さんの南円堂の下で地蔵盆をしてるから」と、野村由利子さん(58)から電話が。いつもこの欄に登場する田舎料理店「うと・うと」の奥さまだ。
 国宝の三重塔の入口の斜面は、小さなお地蔵様や石碑のかけらでぎっしり。その中央に延命地蔵尊。野村さんご夫妻は、駄菓子屋さんのようなくじ引きをして、お菓子を配っていらした。もちろん無料だ。聞けば、万博の年に急病で亡くなられた弟さんの供養のため、ご両親が延命地蔵尊の石仏を寄贈し、以来、旧暦に地蔵盆を奉納するようになったという。弟さんは当時、小学校6年だったそうだ。
 地蔵盆と言えばご町内でするものだとばかり思っていたので、こんなふうにして始まった地蔵盆もあるのだと知って驚いた。奈良では日々新たな伝統が作られている。
「きょうは、お参りしてくれてありがとね」
 夜にかかってきた電話の由利子さんの声が、とてもやさしかった。
(作家・詩人)


写生にやってきた石切中学の生徒さんたちもお参りをして、くじ引きを。手前が野村由利子さん

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■和風のキリスト教会 ならまち暮らし(21)/毎日新聞奈良版 2011年8月24日

寮 美千子

 近鉄奈良駅を出てすぐに「東向商店街」という変わった名前の通りがある。その昔、この道の東側はすべて興福寺の境内。当時は西側にだけ家があり、すべて東向きに構えていたので「東向」と名づけられたそうだ。
 この通りの東側に、石造りの立派な門柱と石段があり、その上にお寺がある……と思ったが、実はこれ、お寺ではなくてキリスト教の教会。なぜ興福寺の元境内に教会? なぜ和風? 東向の「奈良基督教会」を訪ねると、信者の小野周一さん(69)と山下恭さん(63)が、親切に教えてくださった。
 明治時代、興福寺は廃仏毀釈で大打撃を受けて貧窮。いまは国宝となっている五重塔や三重塔も売りに出され、境内の一角である1700坪の土地も、大阪の銀行家の手に渡ってしまった。その土地が、大正末期に奈良基督教会に転売された。
 「慌てたのは興福寺。お寺の敷地のなかに耶蘇教の教会ができるというので、それならば購入価格の3倍の値段で買い戻すと言ったそうです。結局、教会の土地になりましたが」
 「当時は敷地の中に二つの井戸があって、その井戸をさらうと、廃仏毀釈で投げこまれた仏像がぎっしり詰まっていたそうです。それを美術品として持ち帰った信者の方もいて、いまも代々そのお家に伝わっているそうです。その方の名前は、明かせませんが」
 ひょっとして国宝級の仏像が……と思わずうなってしまった。
 教会は、ゴシック建築の予定だったが、奈良県の許可が下りず「奈良ホテルに準ずる設計なら」という県の意向を汲んで和風に設計しなおし、昭和5年に完成。昭和63年にはパイプオルガンも導入され、いまでは礼拝のほかにコンサートなどにも使われている。
 「古都奈良にふさわしいこの礼拝堂は、わたしたちの誇りであり宝です」と信者のお二人。
 8月29日午後7時からは、ここでクラシック・アンサンブルの「音の花束コンサート」が開催される。歴史ある和風の礼拝堂で聞くクラシック音楽は格別。ぜひ!
(作家・詩人)


礼拝堂にて、信者の山下さん(左)と小野さん。背後に見える格天井は、寺社などで使われる格式の高い様式。ここでは「ノアの箱船の船底のイメージ」と言われている

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■猿沢池の六道の辻 ならまち暮らし(20)/毎日新聞奈良版 2011年8月3日

寮 美千子

 もうすぐお盆。ご先祖様の祀り方にも、各地でいろいろな風習がある。母の実家の山梨では、川に行って岸に生えるマコモという草を刈り、それをスダレのように編んで敷物を作った。その上に、お盆のお供え物をする。左右には、ナスとキュウリで作った牛と馬を飾る。割り箸を4本刺して足を作り、背中には甲州名物の「おほうとう」の麺を鞍にして載せていた。おほうとうは、きしめんに似た平たい麺で、当時は家で打つものだった。体の小さな祖母が、身に余るほどの大きな板を出しては、粉をまぶして器用におほうとうの麺を打っていたのを、なつかしく思いだす。
 盆の入りの8月13日には、家の門で迎え火を焚いて、ご先祖様の霊をお迎えした。
 「わたしら子どものころはね、猿沢池の六道の辻にご先祖様を迎えにいったんやで」と教えてくれたのは、十輪院のお向かいで田舎料理「うと・うと」を営む野村由利子さん(58)。当時は、南市に住んでいたという。
 猿沢池の五十二段と呼ばれる階段の下は、階段も入れると6本の道が集まっている。それで、ここを「六道の辻」と呼ぶそうだ。六道とは仏教の概念。迷いのある人間は、死んでも涅槃に入れずに、六つの世界を輪廻して生まれ変わる。天上道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道の六道だ。
 「お線香を持って、六道の辻に行って、火をつけるん。そうすると、ご先祖様があの世から帰ってきはるから、お線香の煙に乗せて家まで連れて帰ってきてさしあげるんや」と由利子さん。
 「いや、うちは魚佐旅館の前の橋のところに迎えに行ったわ」と奈良町落語館の田中宏一さん(59)。ほんの少し家の場所が違うだけで聖地が違うのも、いかにも古都奈良らしい。
 六道の辻のうち、五十二段は「天上道」に対応するという。階段を上りきれば、そこは興福寺。仏の境地に達するとの意。
 しかし、残りはどの道がどこに対応するのか、定かではない。言えば差し障りがあるからか。さて、わが家へ向かう道は何道?
(作家・詩人)


明治17年発行の「大和名勝豪商案内記」より「興福寺之図」。五十二段下はこの頃から六道の集まる辻だった。当時の五十二段は踊り場つき。人力車の姿も見える

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■えんまもうでと紙芝居 ならまち暮らし(19)/毎日新聞奈良版 2011年7月20日

寮 美千子

 「嘘をつくと、閻魔さまに舌を抜かれますよ」と母に言われて育った。学校では先生が地獄の話をしてくれた。鬼に追われて針の山を裸足でのぼり、やっと山を下ると、血の池が待っている。ようやく抜けだせば、こんどは炎の地獄……。という話がよほど強烈だったのか、実家から見つけた小学生時代のノートには、自作の地獄絵図が描かれていた。
 6の付く日は閻魔さまの縁日。高円山の中腹にある白毫寺では、年に2回、1月16日と7月16日に、閻魔さまを祀りする法要がある。ギラギラと痛いほどの日差しのなか、古い家が立ち並ぶ山辺の道を自転車で走り、夏の「えんまもうで」に参詣した。
 宝蔵には立派な閻魔王坐像があり、怖いお顔をなさって、こちらをキッと睨んでおられる。紫の法衣をまとわれたご住職は、おおらかな大きな字を書かれる方で、お地蔵さまのように柔和な表情をなさっていらっしゃる。閻魔さまは、日本では地蔵菩薩の化身ともされているから、あの怖い閻魔さまとやさしいお顔のご住職は、表裏一体の存在なのかもしれない。「法楽」という儀式の後、お堂に集った人みんなで、般若心経を3回唱えた。
 ここ数年、法要が終わると「地獄極楽めぐり」という紙芝居が行われている。演じているのは村松隆敏さん(64)。還暦でサラリーマンを定年退職後、独学で紙芝居を始められたそうだ。額縁を改造した手作りの小劇場に、ご自分で描かれたという絵がいきいきと躍る。「人を騙して儲けたり、弱いと見るとイジメにかかる、そんな世の中、まっくら闇じゃあござんせんか」と調子のいい口上で、身の毛もよだつ地獄の様子が語られていく。恐いもの見たさの子どもたちにも、大人気だ。
 悪いことをすると地獄に墜ちる。子どものころにそういう話を聞くのはいいことだ。地獄なんかない、と思っても、きっと心の底に強く刷りこまれ、悪いことができない大人になるだろう。この頃、地獄が少しも怖くない大人が多すぎる。村松さんの紙芝居、ぜひ、あちこちで演じてほしい。
(作家・詩人)


故郷の新潟で見た「のぞキカラクリ」の楽しさが忘れられず、紙芝居に挑戦したという村松さん。奈良で暮らしてもう41年になる

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■老春手帳よもう一度 ならまち暮らし(18)/毎日新聞奈良版 2011年7月6日

寮 美千子

 奈良に来て驚いたことの一つは、老人が元気なことだった。そこらじゅうで老人の姿を見かける。歩行車を押す背中の曲がったおばあさんや、杖をついたおじいさんも、町のなかにいっぱいいる。
 東京では、そんな老人の姿を見かけることはまれだった。バリアフリー化が進んでいるとはいえ、町は階段だらけだし、人々はいつも足早だ。老人がゆっくり歩けるような状況ではない。
 移住してきた5年前は、奈良市の「老春手帳」も今の制度とは違った。年間2000円払えばバスが乗り放題。映画は3カ月に5本、銭湯は月に15回無料だった。近所の立ち飲みの酒屋さんには、遠くからバスで来ている人がいて、聞けばお気に入りの銭湯があるので、老春手帳を使ってわざわざ入りに来るという。一風呂浴びて、立ち飲みで冷たいビールをぐっと飲み、顔見知りと話をして帰っていく。それが、そのおじいさんの元気の源だった。
 3年前に老春手帳の制度が変わって、バスに乗るには、1回100円かかるようになった。映画の無料券もなくなった。近所のおばあさんは「バスを乗り換えるともう100円かかるし、映画を見る楽しみもなくなって、出かけることが減った」と嘆いていた。
 そういえば、以前より、町をうろうろしている老人の姿も少ないように思える。バスで立ち飲み酒屋に来ていたおじいさんの姿も、見かけなくなった。
 老人が元気でいてくれること。これは何よりも大事なことだ。わが家でも、要介護4のわたしの父を自宅介護しているが、時間も労力も怖ろしくかかる。もし父が元気でいてくれたら、どれだけ助かっただろう。
 介護施設やサービスの充実も大切だが、それよりも前に、老人が元気でいてくれること、人生を楽しんでもらえるような状況を作ることが大切だと思う。老人が元気なら、家族の負担も市の財政負担も軽くなるし、地域コミュニティも活性化する。何よりも、お年寄りの笑顔のある町は、いい町だ。老春手帳のサービス拡大を、ぜひお願いしたい。
(作家・詩人)


デイサービスへ徒歩で通う父。奈良に来たときは歩けなかったのに、いまでは虫の居所が悪いと、杖を振りあげるほど元気になった

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■響きあう言葉と心 ならまち暮らし(17)/毎日新聞奈良版 2011年6月22日

寮 美千子

 奈良に来てからいろいろな出会いがあったが、東京にいるときに想像もつかなかったのが奈良少年刑務所の受刑者たちとの出会いだ。
 はじまりは、近代建築への興味。奈良坂の丘の上に美しい明治の煉瓦建築があると聞いて見にいったのがきっかけだ。この建築物が刑務所。たまたまそこの教官と言葉を交わしたのがご緑で、2007年から受刑者たちに詩と童話の教室を持つことになった。
 まさか、殺人や強盗の罪を犯した人々と、じかに接することになるとは夢にも思わず、はじめは、正直いって怖かった。しかし、触れあってみると、彼らはみな、おどろくほど素朴でやさしい子ばかり。育児放棄や虐待や貧困など、過酷な環境に苦しんできた子も多い。そんな彼らが書く詩の言葉は、とことん直球で、まっすぐに心にしみてくる。
 彼らの詩を『空が青いから白をえらんだのです 奈良少年刑務所詩集』にまとめたのが、昨年6月のこと。うれしいことに丸一年を経て、この6月に文庫本として発売された。
 「その本、春日夜間中学でテキストに使ってはりますわ」という話を耳にして、そんなお役にたっているのかとうれしく思い、さっそく夜間中学におじゃました。そこには、また、わたしの知らない世界が広がっていた。
 生徒さんは、在日二世、帰国した中国残留孤児、生活が苦しくて小学校も出られなかった方など、それぞれに重い歴史を抱えている人々。ご年配の方も多い。ともかくがむしゃらに働き、生きてきて、その年齢になって、ようやく読み書きを学ぶ機会を得たという。
 授業の様子は、よそで見たこともないほど活気に満ちていた。学ぶことの喜びが、光のようにこぼれる教室。みなどしどし発言する。発言には、年輪が感じられる含蓄のある言葉が、たくさんちりばめられていた。
 そんな人々が、受刑者の詩に深く共感してくれていた。苦しい環境にいたからこそ、強く響きあうものがあるのだろうか。「この子ら、出所したら温かく迎えてあげたいね」という言葉が、心底ありがたかった。
(作家・詩人)


春日夜間中学のクラスメートたち。右端にかわいく写っているのが、吉村和晃先生

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■厄年の捨て子 ならまち暮らし(16)/毎日新聞奈良版 2011年6月8日

寮 美千子

 ならまちでは、ただいま「にゃらまちねこ祭り」を開催中。ならまちにある21店舗で、猫をテーマにしたグッズやお菓子の販売、朗読会のイベントなどが開かれている。ならまちを「にゃらまち」と呼びはじめたのは、ねこ祭りの会場の一つである奈良町落語館の田中宏一さん(59)、という説がある。
 この田中さん、実は「捨て子」だったという告白を、ご本人から聞いてびっくり。
 「ぼくは、親父が厄年の歳に生まれた子。そういう子は、一度捨て子にして、人に拾ってもらって、また家に戻してもらうと丈夫に育つ、という言い伝えがあって」
 つまり、捨て子には「厄落とし」の意味があったのだ。民俗学の本で、そのような風習があることを知ってはいたが、実際に捨て子された人に会ったのは、はじめて。古い風習が残るならまちにドキドキする。
 「すぐそこの角に、おくるみにくるまれて捨てられたんです。胸に『厄年だからこの子を捨てます 田中』って事情を書いた手紙をはさんで。その頃は、まだ野良犬もたくさんいたから、母は心配で心配で、ぼくが拾われるまで、物陰からそっと見ていたそうです」
 若いおかあさんの表情が目に浮かぶようだ。そこまでして、丈夫に育ってほしいと願う親心に、胸が熱くなる。
 「はす向かいの家の人が拾ってくれました。その家は女の子ばかりだったんで、息子ができたって、ずいぶん喜んでくれたそうです」
 その家の子になったのかと驚くと「いいえ。すぐに田中の家に返してもらいました。でも、そうやって拾ってもらうと、親子同然の仲になるんです。よく遊びに行って、ご飯も食べさせてもらいました」 町のなかの人と人のつながりが、そうやって一層濃くなっていく。なんという温かな、やさしい世界だろう。
 古い風習。迷信だからといって何もかも切り捨ててはつまらない。これからも、すてきなことを受け継いでいく「ならまち」であってほしい。
(作家・詩人)


59年前に捨て子された場所に立つ田中宏一さん。奈良町落語館のすぐそば

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■にゃらまちねこ祭り ならまち暮らし(15)/毎日新聞奈良版 2011年5月25日

寮 美千子

 ならまちには猫がよく似合う。路地裏の猫、窓の猫、屋根で恋鳴きをする猫、空き地の草むらで耳を伏せる猫、真夜中の駐車場に集う猫猫猫。道の先に小さな猫の影がよぎるだけで、なんだかとてもうれしくなる。
 格別、猫が多いというわけでもない。猫の数なら海辺の漁師町の方がずっと多い。けれど、ならまちの猫には存在感がある。十把一からげの「猫類」ではなくて、一匹一匹、人格というか猫格がある。ここは猫が猫らしく生きられる町。裏返せば、それだけ隙間が多く、だからこそ、人もほっと息がつける町だ。
 「にゃらまち」とも呼ばれるこの町で、6年前から毎年この季節に「にゃらまち猫展」という催しが行われている。猫がテーマのアート作品や雑貨を展示する即売会。昨年は全国から50名近くの作家が参加、会場は猫好きのお客さんで押すな押すなの大盛況だった。
 主催者は、ならまちの田舎出張料理「うと・うと」の野村修司さん(57)・由利子さん(57)ご夫妻。猫とアートが大好きで自らもコレクター。じゃあ、猫好きの作家さんの作品展をしよう、売れれば作家さんの応援になるし、ということで気軽に始めたという。作家は参加費2000円を支払うのみ。会計は野村夫妻が責任を持ってしてくれて、マージンは一切なし。無私の精神の産物だ。「だって、ぼくらが楽しければいいんだから」と大らかな修司さん。温かな「ならまち魂」全開だ。
 この催しが発展して、今回は6月丸々1カ月間、町中で「にゃらまちねこ祭り」が開催される。会場は、ならまちにある21軒のお店。恒例の奈良町落語館での猫作品展示即売会をはじめ、照美美容室では猫メークをしてくれるし、和菓子のとらやでは特製の猫和菓子を販売。ギャラリーカフェ寄鶴軒では、毎週土曜日の夕方6時から猫作品の朗読会も。ともかく町中で「猫」を楽しめる。
 町には、12人の作家が描いた12の猫看板を置いてあるお店もあるから、散策しながら見つけるのも楽しい。13番目の親玉猫は修司さんの作品。さて、どこにあるでしょうか?
(作家・詩人)


西寺林商店街にいる猫の親玉。松原米穀店の松原さんが一念発起、店先を「ならまちの駅」に改装して、ならまちをPRしている

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■奈良の安全神話 ならまち暮らし(14)/毎日新聞奈良版 2011年5月11日

寮 美千子

 東日本大震災から丸2カ月。災害について考えてみたい。阪神淡路大震災の前は「神戸には大地震がない」と多くの人が信じていたという。その「安全神話」ゆえに、地震対策を甘く見ていた面があり、それが被害を大きくしたとも言われている。奈良でも「奈良はいいところ。大災害はない」という人が多い。
 確かに奈良には、木造の塔としては世界最古で1300年も立ち続けている法隆寺の五重塔があるし、東大寺にも天平時代から残っている転害門がある。どちらも国宝だ。他にも多くの古社寺がある。そのような歴史的建造物がごろごろあるから「大地震も大きな台風もない」と言われると、うっかり信じてしまいそうになるが、実際はそうではない。
 「奈良市災害編年史」という、奈良市が1978年に出した本がある。これを見ると仰天する。古くは855年に大地震で東大寺の大仏の頭が落下したり、962年に大風雨で東大寺の南大門や、新薬師寺の金堂が倒壊という記録がある。その後も、地震や大風、大雨による被害は枚挙にいとまがない。
 近年では、昭和5年に佐保川・菩提川・能登川・岩井川が決壊して大水害となり死者が出ている。昭和21年の南海地震では奈良市内だけでも家屋数十戸が全半壊、春日大社の燈龍300基が倒れている。そのたった6年後の昭和27年にも吉野地震があり、春日大社の燈龍300基が倒れているのだから怖い。
 というわけで安全神話を鵜呑みにしないで、災害に備える心が大切だ。建物の耐震化はもちろんのこと、文化の面では、社寺の古い文献などの電子化も進めてほしい。もしものことがあっても、電子化してあれば後世に資料として残っていく。ぜひお願いしたい。
 奈良には多くの断層がある。奈良盆地東縁断層帯は奈良市の旧市街の東を南北に貫き、地震の危険も大きい。「奈良市地震ハザードマップ」では、旧市街の多くは震度7と予測されている。この地図を見れば、危険度の高い地域もわかる。市役所のサイトでも見られるので、一度目を通してほしい。
(作家・詩人)

(写真)河内大和地震で倒壌した東大寺の燈籠=1936年

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■宮沢賢治と奈良 ならまち暮らし(13)/毎日新聞奈良版 2011年4月20日

寮 美千子

 5年前、奈良に越してきて、近鉄奈良駅前に宮沢賢治の「雨にもまけず」の詩碑を見つけた時は、驚いたし、うれしかった。わたしは大の賢治ファンなのだ。しかし、なぜ岩手出身の賢治の碑が奈良に、とふしぎに思った。聞けば、奈良で成功なさった岩手出身の方が建立されたとのこと。
 実は、宮沢賢治は、生涯で2度、奈良へ足を運んでいる。最初は大正5年、20歳の時に、盛岡高等農林の修学旅行で「対山楼」という宿に泊まった。いまはレストラン「天平倶楽部」のある場所だ。この時、宮沢賢治たち農学校の学生が訪れたのは「大字油坂小字宮ノ前」の「奈良県農事試験場」。いまの市立大宮幼稚園の辺りだが、区画整理され、昔の面影がないのが、ファンにとってはさみしい。
 大正10年4月にも、賢治は父親とともに奈良を訪れている。その時の宿泊先は「興福寺門前」「春日神社入口」と聞き書きにある。だとすると「菊水楼」の可能性が高い。宿帳はないか、菊水楼に問い合わせてみたが、戦後米軍に接収されたときに、古い宿帳はすべて失われてしまったとのこと。残念だ。
 先日、関西の賢治ファンと、賢治の奈良での足取りをたどる小さな旅をした。賢治は、奈良公園でこんな短歌を詠んでいる。
「月あかりまひるの中に入り来るは馬酔木の花のさけるなりけり。」
 奈良公園は桜の盛りだったが、賢治はこの旅では桜は詠んでいない。東京に戻ってから桜を詠んでいる。奈良は東京より桜の開花が遅いから、この年、賢治が奈良に来たときは、まだ桜は咲いていなかったのかもしれない。
 真昼のまばゆい光に紛れこんだ月明かりのような馬酔木の花。「銀河鉄道の夜」は、この旅で胚胎したという説もある。だとしたら、奈良は賢治ファンにとっても聖地となる。
 賢治の歌碑がいくつもできたら、全国から賢治詣での人々が奈良に押し寄せ…と、賢治ファンの妄想は果てしなく広がるのであった。
(作家・詩人)



賢治が泊まったかもしれない菊水楼。本館と旧本館は、明治時代のもので、登録有形文化財

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■奈良から復興の戦士 ならまち暮らし(12)/毎日新聞奈良版 2011年4月6日

寮 美千子

 奈良県下からも、職員、消防をはじめ、多くの人が職務として被災地にかけつけている。奈良市水道局の岡本豊さん(36)は、日本水道協会の要請で給水活動に赴いた。
 1班の給水車2台は16日に出発。原発事故の福島を避け新潟経由で盛岡に。21時間かかったという。岡本さんたちは2班として23日に飛行機で花巻に入り、1班と交代した。
 給水の目的地は陸前高田。被害の少なかった住田町で給水車に水を詰め、2人組で17キロの道のりを走って、1日3往復、水を運ぶ。
 「住田町は一見普通なんです。ところが、陸前高田に入ったとたん、風景が一変しました。ぶっちゃけ、わけがわからなかった」
 原形を留めるものがない。いきなり見渡す限りの荒れ地が広がっていたという。その荒れ地に、車が走れる分だけガレキをよけた道がある。そこを走って目的の避難所へ。
 「海辺はすっかりきれいに片づけられている。と思ったら、違う。すべて波にさらわれ、まっ平ら。基礎しか残っていない。むしろ山際がガレキの山。家も車も押し流されて、積み重なっていました」
「水が引かない土地を重機で片づけていると、新たなご遺体が。胸が痛みます。まだまだたくさんの方が……」
 心も体もくたくたになる。被災者のお年寄りは、夕方になると「遠くに泊まってるんでしょ。きょうはもうお帰りなさい」とやさしい言葉をかけ、飲み物までくれたという。
 被災地では水汲みが子どもの仕事だ。小さな子が何度も水汲みにやって来る。お子さんのいる岡本さんは見ていて涙が出た。子どもたちにと、自費で持参した飴を配ったときの、みんなの無邪気な笑顔が忘れられない。
 いまは4班が活動中という。復興が進み電気が通じると、家に戻って暮らしはじめる人がいるが、浄水場が破壊されたので、当分水道は来ない。飲み水だけでなく、洗濯や風呂の需要が増えている。
「また行きたいと患います。道がずたずたでGPSは頼りにならない。現場を知っている者が行かなければ」
 岡本さんたちは復興の戦士。奈良の誇りだ。


震災後の陸前高田。(上)まっ平らになった海岸沿い(下)海岸から5キロ離れた山際のがれきの山=岡本豊さん撮影

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■いま奈良にできること ならまち暮らし(11)/毎日新聞奈良版 2011年3月23日

寮 美千子

 地震が起きたとき、奈良少年刑務所にいた。ゆらーりゆらりと船のように大きく横揺れし、窓から見えるポプラ並木がいっせいに右に左にと揺れた。まさか三陸沖が震源地とは……。
 繰り返し流れる津波の映像、原発の危機。地震は、日本中を不安に突き落とした。
 奈良町では「ともかくわたしたちに何ができるか、集まって考えてみよう」という催しが開かれた。支援物資を送ろう、という動きもあるが、阪神淡路大震災の時、支援物資の仕分けで大変だったという話も聞く。むしろ、フリーマーケットなどを開いて現金化して送った方がいい。
 イベント自粛の動きもあるが、過剰な自粛は、経済だけでなく、人の心も冷え込ませる。予定通り開催して、寄付を募るのはどうか。
 奈良県も市も、被災者のために公共住宅を提供する用意ができている。しかし、膨大な数の被災者を収容するだけの戸数には遠く及ばない。民間でも、たとえば空き家を2年間無償で提供してもいい、という人もいるだろう。その間、固定資産税免除とすれば、申し出も多くなるはずだ。住宅提供者と被災者とをつなげる行政システムの構築があれば、と願う。
 もしも、被災者がお隣に疎開してくれば、みんな親切にするだろう。薄れていたコミュニティも復活する。仕事が見つかれば、普通の暮らしもできるはずだ。過疎地の農村に入ってもらって、耕作放棄地や荒れた森の手入れをする仕事を積極的に作れないものか。
 一つ提案がある。近鉄奈良駅前の行基広場に大屋根を作る計画の県の予算は1億7000万円。けれど、いま、どうしても大屋根が必要なわけではない。緊急ではない公共工事を中止し、その予算を震災復興に振り替えたらどうか。奈良県下の建設業者を派遣し、1億7000万円分の仕事をしてもらうのだ。被災地も助かるし、奈良県の業者も潤う。税金を払っているわたしたち全員が貢献できるし、何より、行基さんの精神に叶っている。
 被災しなかったわたしたちに、できることはきっとある。みんなで、がんばろう!
(作家・詩人)


近鉄奈良駅前広場の大屋根の完成イメージ図。大屋根よりも、震災復興を!

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■1260回目のお水取り ならまち暮らし(10)/毎日新聞奈良版 2011年3月9日

寮 美千子

 東大寺二月堂・修二会、通称「お水取り」のまっ最中だ。14日間で合計141本の大松明が焚かれる。松明に使われる竹は、古来から奉納されている。奈良の仁伸会も、いつかわからぬ昔から、竹の奉納を続けてきた。
 高齢化してきたため後継者がほしい、とのことで、「根付きの竹」を掘るボランティアをこの欄で募ったのが1月のことだった。根付きだと、ヤジロベエのように松明とのバランスが取れるのだ。竹を伐るだけなら簡単だが、根付きのまま掘り出すのは一苦労。これに、大勢の方が応募してくださった。
 みなさんに来ていただきたかったが、足場も悪く危険も伴う。地元奈良の方を優先して6名の方を選ばせていただいた。
 いよいよ、竹掘り当日の2月11日。奈良はまさかの大雪。翌日に延期して決行した。
 蓋を開けてみると欠席2名。どちらも学生さん。若い力に期待していたのに残念。
 来てくださったのは、長い海外赴任を終え定年で奈良に戻られた方、同じく定年退職して奈良で第二の人生を始めようとゲストハウスを開かれた方、現役バリバリの銀行員と司法書士のうら若き女性だった。わたしと夫も含めて、肉体労働系の人は一人もいないという、ちょっと頼りない応援軍団となった。
 普段から土木工事をなさっている仁伸会の方々は、さすがに動きが違う。ロープの結び方、竹の倒し方、みな鮮やかだ。わたしたちはじゃまにならないよう気をつけ、雪の竹林で、できることをがんばるしかなかった。
 それでも根付き11本を掘り、根無し5本も添えて、翌13日に奉納することができた。
みなまっすぐで8メートルもある立派な竹だ。
 奉納の日は、東大寺の大鐘・奈良太郎の前から手押し車に乗せ、見物の方にも参加していただいて、にぎやかに二月堂まで引いた。
 竹奉納のほかにも、多くの人が様々な形で関わり、1260回ものお水取りが続いてきた。もしかしたら、あれはわたしが掘った竹かもしれない、と思いながら見るお松明。
赤々と燃えあがる炎が、今年は涙でにじむかもしれない。
(作家・詩人)


竹掘り。根を切るのにさんざん手こずってようやく一本確保

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■和人とアイヌ ならまち暮らし(9)/毎日新聞奈良版 2011年2月24日

寮 美千子

 2月はじめに奈良のギャラリーまつもりで「アイヌ工芸作品展」が開かれた。階段を上ると、わっと別世界が開けた。針と糸によって作られたアイヌ文様の着物の数々。植物のようにうねり、螺旋を描くその文様には、和の文化とは明らかに別種の、おおらかな大地の生命が息づいている。一針一針手縫いされた作品。アイヌの女たちは、大切な人の健康と安全の祈りを込めて、着物を縫ってきた。
 制作したのは北海道白老町の山崎シマ子さん(70)とそのお弟子の河岸麗子さん(61)。そして、奈良市の紙谷百合子さん(64)だ。
 交流のきっかけは、キルト作家の紙谷さんがアイヌ文様の源泉を求めて、白老のアイヌ民族博物館を訪れたこと。5年前とその翌年の2度訪れたが、そこで糸紡ぎをしていた山崎さんたちに出会い、たちまち意気投合した。
 アイヌ民族の血を引いているのは山崎さんだけ。その山崎さんも、40歳になるまでアイヌ文化とは無関係に生きてきた。
 「アイヌだと差別される。だから、親からも、アイヌ語をしゃべってはだめ、と言われて育ちました。母は内職でアイヌ刺繍をしていましたが、言葉も刺繍も教えてはくれなかった」
 アイヌ語は、日本語とは文法も異なるまったく別の言語だ。日本政府の同化政策によって弾圧され、いまでは日常会話でアイヌ語を話す人は、一人もいなくなってしまった。
 山崎さんがアイヌ文化に目覚めたのは、40歳の頃、アイヌ民族博物館に「和裁」の腕を買われて就職してからだった。自分たちの文化はこんなにすばらしかったのだと驚き、むさぼるようにアイヌ刺繍に取り組んだ。
 「アイヌは縄文の末裔という読もあります。古い文化の奈良とは、相通じるものを感じる。ぜひ奈良で作品展をしたかった」という山崎さんの夢を、紙谷さんが手伝って実現させた。糸と針が、女たちの心を結んだ。
 アイヌとはアイヌ語で「人間」、和人は「シサム」という。隣人という意味だ。よき隣人でありたい。また奈良に来てくださいね。
(作家・詩人)


アイヌ文様の作品の前で。左から白老の河岸さん、山崎さん。奈良の紙谷さん

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■万葉ひすい ならまち暮らし(8)/毎日新聞奈良版 2011年2月9日

寮 美千子

 東大寺の三月堂の本尊である不空羂索観音の頭上には、2万個を超える宝玉で飾られた宝冠が載っている。この宝冠に勾玉がぶらさがっているのに気づいたとき、仏教なのになぜ勾玉、と不思議に思った。この宝冠は、古代のヒスイ勾玉の最後の使用例だという。平城京造営の折に破壊された古墳から出土した勾玉が使用されている、という説もある。
 先日、新潟の糸魚川を舞台にした音楽劇を書かないか、との誘いがあった。糸魚川といえばヒスイだ。日本の遺跡から発掘されるヒスイの大珠や勾玉はすべて、糸魚川産のヒスイでできている。東大寺の不空羂索観音の宝冠のヒスイ勾玉も、遠い昔、人々の手を経て、糸魚川から奈良へとやってきたものだ。
 豪雪の中、何者かに呼ばれるように糸魚川へ行ってきた。道の駅に展示された、わたしの背丈を大きく超える巨大なヒスイの原石。川の上流に、こんな巨大な原石が転がっていたというのに、昭和13年に再発見されるまで千年以上、日本人は糸魚川にヒスイがあることを忘れていた。現地では漬物石に使っていたというのだから、驚いてしまう。作家・松本清張は、このヒスイ再発見と万葉集の歌を題材に「万葉翡翠」という短編を書いている。
 ヒスイ加工場遺跡の近くの玉石の海岸を、ヒスイを探しながら歩いた。古代の人も、こんなふうに探したのだろうか、と思いながら。
 ヒスイ衰退の時期は、奈良時代の始まりと一致する。大和王権が中央集権を実現する過程で、縄文以来五千年続いた「ヒスイ文化」を否定し封印したのではないだろうか。
 糸魚川から戻った2月2日、天理の石上神宮の「玉の緒祭」に参列した。ここの境内からも、ヒスイの勾玉が11個も発掘されている。ここにも、古い古い文化が息づいていた。
 日本の始まりは、より古い文化の破壊と封印の上に成り立っている。まっ暗闇のなか「ふるふぇ・ゆらぁ・ゆらとぅ・ふるふぇ」という神官のタマフリの言葉に魂を震わせながら、大和王権以前の日本列島に心を馳せた。
(作家・詩人)


糸魚川の「道の駅」の100トン超のヒスイ原石。まず石を運び、石を覆うように後から建物を造った

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■草の根外交 ならまち暮らし(7)/毎日新聞奈良版 2011年1月26日

寮 美千子

 奈良町には「ゲストハウス」と呼ばれる安宿が相次いで誕生している。北京終町の「町屋ゲストハウスならまち」もその一つ。築80年超の大正浪漫な町家を改装。中庭やお蔵もあり、外国人にも人気だ。1階のロビーは旅行者や地元民の交流の場となっている。
 オーナーは「シャープ」を定年退職した技術者の安西俊樹さん。退職金をつぎ込んで、2009年暮れに開業した。以来、世界50カ国(!)からお客さんが訪れている。
 先日は、南米のコロンビアから日本語学校の学生4人と引率の先生が泊りに来た。1カ月半の日本縦断の旅を、自分たちで計画して安宿を泊まり歩いているという。先生のニンフェルさんは、日本語もペラペラの美女だ。
 そのご一行様を、ひょんな事から、奈良漆の樽井禧酔師の工房にご案内することになった。奈良では、正倉院の御物の漆の技術を明治期に復活。美しい螺鈿漆器を、当時の技法のままに、いまも作っているのだ。
 樽井師の説明に、学生たちは真剣に聞き入り、最後には感激の涙さえ浮かべていた。日本の古い伝統、その深部に直接触れたことが、彼らの心に大きな印象を残した。
 その後、未成年の諸君にはお留守番をしてもらって、みんなで近所の立ち飲み屋へ。ブルーカラーのおじさんたちが珍しがって、どんどんおごってくれ、話しかけてくる。店はすっかりラテンのノリの大にぎわいに。
 コロンビアがどこにあるか、いままで気にもしていなかったのに、急に身近に感じられるようになった。内戦の続く国だが、平和になってほしいと心底思うし、コロンビア相手には、絶対に戦争などしたくないと思う。
 人々が交流をして心を交わすこと。それこそが平和の礎、草の根外交だ。あちらも、奈良を忘れないだろう。ただ通り過ぎて見物するだけの観光ではなく、町の人々と観光客が交流できる「場」こそが、いま、必要なのではないか。この町に、真の豊かさをもたらすのは「高級ホテル」などではないと確信した。
(作家・詩人)


奈良漆の樽井禧酔師の工房を訪れたコロンビアの人々

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■奈良から竹送り ならまち暮らし(6)/毎日新聞奈良版 2011年1月13日

寮 美千子

 年が明けて、早くも気になり出すのが東大寺二月堂のお水取りだ。この行事には、膨大な数の市井の人が関わっている。その一つが「お松明」にする竹の奉納だ。3月1日からの14日間分、141本が必要となる。
 昔は「二月堂様」と書いた札をつけて街道筋に出しておくと、村人や旅人がリレーのようにして運んだという。そんなのどかな風習はいつの間にか途絶えてしまった。
 それなら復活させようと立ち上がったのが、京田辺の人々。市民の力で「山城松明講」を作り、昭和53年から毎年7本前後の竹を奉納している。転害門の前では「お迎え式」も行われ、奈良の一大行事となっている。
 と飲み屋で話していたら、「うちだってずっと昔から竹の奉納をしているんだよ」と般若寺町の岡本三好さん(68)。知らなかった。
 聞けば、親の代まで竹屋を営み、岡本さんが赤ん坊の頃から、岡本家では当たり前のようにして竹を奉納してきたという。あまりにも当然のことだったので、いつから始めたのか聞いたこともなかったそうだ。
 岡本さんは現在、土建業だが、いまも毎年、竹の奉納を欠かさない。仲間で「仁伸会」という会を作り、根付きの竹を掘りだして奉納している。昨年は14本も奉納した。
一度手伝ったことがあるが、これがきつい。竹の根がみっしりと絡まって、根を切るのも掘るのも、竹林から出すのもー苦労だ。
 会員が高齢化し、後継者がいないのが悩みの種だという。では、ボランティアを募ろう、ということになった。竹掘りは2月11日(雨天なら翌日)。お弁当と保険つきで1500円。なるべく屈強な、できれば仲間となって毎年いっしょになってやってくれる人が望ましい。申し込みはメールで。詳細はHP(http://narapress.jp)へ。
 なお、13日には、奈良太郎前から竹を台車に載せ、二月堂まで引いて奉納する竹送りの行事を行う。午前10時から参加自由。多くの人に参加してほしい。お子さんもどうぞ!
(作家・詩人)


まんとくんも応援!奈良からの伝統の竹送り

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■闇の中の神聖なる儀式 ならまち暮らし(5)/毎日新聞奈良版 2010年12月15日

寮 美千子

 師走も半ば、春日大社・若宮さまの「おん祭」の季節だ。東京にいるときは「おん祭」の名は、とんと聞こえてこなかった。京都の葵祭でもなく、江戸の三社祭でもない。頭に固有名詞のない「おん祭」すなわち、ザ・祭り。時代衣装をまとった壮麗な行列がある、歌舞音曲が奏され、能が舞われ、流鏑馬も行われる。こんなに盛大なお祭りなのに、なぜ少しも聞こえて来なかったのだろう、と最初はふしぎに思った。もっともっと宣伝して、観光資源にすればいいのに、と。
 しかし「遷幸の儀」に参詣して、あ、これは違う、そんなうわついたものじゃない、厳粛な神事なんだ、と思い知らされた。
 17日の午前0時、春日若宮さまを、お旅所にお遷しする行事が「遷幸の儀」だ。若宮神は、これより24時間、お旅所にて奉納行事をお楽しみになる。
 冷えこんだ夜、森の息吹を感じながら、若宮さまの鳥居まで進んだ。明かりは一切禁止、写真も禁止。月明かりと星明かりだけの清らかな闇のなか、若宮さまのお出ましを待つ。
 やがて「ヲーヲーヲー」という怖ろしげな声が、闇の彼方からにじみ出してくる。声が近づいてくると、姿が見えるより先に、芳しい香りがする。闇を浄める沈香の香りだ。
 2本の大松明が神官に地面を引きずられてやってくる。こぼれた火の粉が、2本の線路のごとく闇に光る。日露戦争の亡霊のごとき軍人姿の人が、提灯を捧げ持ち、火の粉の線路をしずしずと歩いてくる。楽人が続く。そして若宮神の神輿がやってくる。
 神輿は何重にも白衣の神官に囲まれている。神官たちは手に手に榊の葉を持ち、ゆさゆさと揺らし、口々に「ヲーヲー」とみさきばらいの声を上げる。大地から湧いた地霊のようなその声。神代を思わせる荘厳さだ。
 神は怖ろしい存在だ、と身を以て感じた。ああ、これを観光化できるわけがない、してはいけない、だから奈良なのだ、と痛感した。もうすぐ、今年の「遷幸の儀」だ。
(作家・詩人)

(写真)昨年の「おん祭」の「お渡り式」の様子。「遷幸の儀」から24時間、若宮神をお慰めするため、さまざまな行事が奉納される

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■まんとくんは不滅です! ならまち暮らし(4)/毎日新聞奈良版 2010年12月1日

寮 美千子

 いよいよ師走。「平城遷都1300年祭」もフィナーレだ。しかし、メイン会場の平城宮跡会場は、11月7日にすでに閉幕。「紅葉の季節になったら行こうと思っていたのに」と東京の友人たちは残念がる。
 「まんとくん、どうなるの?」という声もあちこちから聞こえてくる。というのも「せんとくん続投・なーむくん転職…まんとくんは現在〈就活中〉で、新たなスポンサー探しに躍起」と一部で報道されたからだ。しかし、これは大きな誤解である。
 ご存じのように、1300年祭を機に生まれたマスコットキャラクターは三つあるが、それぞれの出自も母体も、まったく違う。
 「せんとくん」は、平城遷都1300年祭の公式キャラクター。ところが、このキャラが様々な物議を醸し、反発した奈良のデザイナーを中心に市民ボランティアが結集。自力で公募・公選して決めたキャラが、「まんとくん」だ。「なーむくん」は、南都二六会という寺院団体が独自に決めたキャラクター。
 つまり「まんとくん」は市民が市民のためにつくった市民のためのキャラ。1300年祭のためだけのキャラではなく「奈良」のみんなを応援するキャラだ。みんなのために働くことが、まんとくんの夢であり、使命なのだ。
 市民キャラだから、特定のスポンサーはない。だから、新たなスポンサーを探して就活する必要もない。運営は、今後も市民ボランティア組織「まんとくんネット」が引き続き行う。
 企業が商品にするときだけ、まんとくんネットに使用料1件2万円を納めてもらっている。せんとくんのライセンス契約は約40億円あったという。まんとくんのグッズもたくさん出ているが、あえてロイヤリティにせず、一律2万円の使用料で、使う側の利益に貢献している。県内の企業やお店なら、まんとくんの看板や広告への使用は無料。フリマなどで売る個人の作品への使用も無料だ。
 だから、どしどし使ってほしい。みんなに愛され役に立つことが、まんとくんの望み。
愛があれば、まんとくんは永久に不滅です!
(作家・詩人)


県内のお店のオリジナルまんとくんを制作する「ならコラボまんとくん」も進行中!

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■宇宙一美しい楽器 ならまち暮らし(3)/毎日新聞奈良版 2010年11月10日

寮 美千子

 ならまちに越してきてうれしかったのは、憧れの奈良国立博物館が目と鼻の先にあったことだ。散歩圏内に博物館や美術館があるなんて、なんて贅沢なことだろう。
 広大すぎる東京では、こうはいかない。上野の博物館など、駅から博物館に着くまでに人当たりしてぐったりしてしまう。それが、奈良では鹿と戯れながら歩いているうちに、心地よく博物館に到着してしまう。
 博物館や美術館の入場料だって、映画1本分より安いのだから、人生、これを楽しまないという手はない。
 2007年に開催された県立美術館のシャガール展は夢のようだった。夕暮れの美術館、人もまばらで、シャガールの作品を浴びるように見た。彼の幻想的な心象世界に浸りきって美術館を出ると、霧が出ていて、森の香りがした。シルエットの鹿が行き交い、まるでシャガールの絵の中に迷いこんだよう。これぞ人生の贅沢と心の底から感じた。
 今回の「正倉院展」も、まさにそうだった。「息を飲む」とはこのことか。目玉展示の「螺鈿紫檀五弦琵琶」。角度によって刻々と輝きを変える貝、緻密でダイナミックなデザイン。華麗な装飾が、表ではなく裏にあるのも心憎い。技巧の粋を凝らし、最高の材料を集めて作ったそれは、音を奏でなくとも、存在自体が「音楽」そのものだった。
 写真では絶対にわからない、立体だからこそ感じる究極の美。それを間近に見られる喜び。こんな美しい楽器がほかにあるだろうか。きっと世界一、いや宇宙一美しい楽器に違いない。
 この楽器、実は明治に修理が行われたそうだが、それでも、ここまで美しく再生できる楽器を、1000年以上も前の工人が作り、大切に保存されてきたことは、驚きに値する。
 わたしたちはいま、1000年後に、未来の人に愛でられる品を作っているだろうか。建造物を造っているだろうか。それを、世界とわたし自身に、自問したくなった。
(作家・詩人)


遷都1300年祭でにぎわう平成の大極殿。1000年後の人々に愛でられているだろうか

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■名前も看板もない店 ならまち暮らし(2)/毎日新聞奈良版 2010年10月27日

寮 美千子

 先日、自転車で走っていて、ひらひらと白いのれんが翻る家を見つけた。看板はないが、お店らしい。のぞいてみると、大きな鉄板。お好み焼き屋さんだったので、入ってみた。
 そこへ、白髪のおばあさんが1人、やってきた。手には、ビニール袋に入れたひき肉と刻んだタマネギ。それをお店の人に渡し「これオムレツにして。2人分」という。
 お店のおばさんは「はいよ」と快く引き受け、鉄板で肉とタマネギを炒め、冷蔵庫から卵を6個出して薄焼き卵を2枚つくり、具をきれいに包みこんだ。おばあさんは持参の容器にオムレツを入れ「いつもありがとうね」と、にこにこして帰っていった。
 ふしぎに思い「お代は?」と聞いてみた。
「そんなもん、もらわへんわ」
「でも、卵6個も。お店のでしょう?」
「そや。でも、かまへんねん。柿やら粟やらもらうこともあるし、お互いさまや」
 そう言って、店の人は機嫌よく笑った。
 おばあさんは、店の裏の長屋で独り暮らしをしているという。ここに来れば、いつでも熱い鉄板で料理してもらえるので、毎日のように顔を出すそうだ。
「2人分いうんはね、そのお隣にやっぱり独り暮らしのおじいさんが住んではって、持ってってあげるんや」
 わたしは、胸がいっぱいになってしまった。ここでは、コミュニティが生きている。おばあさんが顔を出さなければ、店の人は、心配して見に行くだろう。孤独死や非実在老人なんて、ここでは、ありえない。
 「おばさん、このお店のこと、新聞に書いてもいい?」と聞くと「お客さんがぎょうさん来たらかなわんから、やめといて」と笑う。
 だから、どことは言えない。名前もないその店は、通称「アイちゃんの店」。アイちゃんのブタ玉とイカ玉、絶品だった。1枚300円也。儲け主義でないその価格も、お財布だけでなく、心にまでジーンとやさしい。
(作家・詩人)


厚い鉄板だから家で作るよりおいしい

⇒掲載紙面

■街中がアートに ならまち暮らし(1)/毎日新聞奈良版 2010年10月13日

寮 美千子

 東京で生まれ、首都圏で育ったわたしにとって、地方都市に住むのは一つの夢だった。5年前に泉鏡花文学賞をいただいて、これならもう日本のどこに住んでも仕事ができるぞ、と長年の夢を実現。4年前の夏に、思い切って、夫とともに奈良町に越してきた。
 なぜ奈良に? と必ず聞かれる。親類縁者がいたわけではない。修学旅行で来て以来、奈良はいいところだと思っていた。静かなお寺がいい。こじんまりとした町の大きさがいい。自転車で走ればすぐに田んぼが広がるのがいい。町家の風情がいい。神社やお寺も山ほどあって、さまざまな講座も開かれている。物書きをしながら、お寺や神社を巡って、ゆっくり暮らそう、と思っていた。
 ところが、そうはいかなかった。怖ろしく忙しいのだ。
というのも、奈良がおもしろすぎるからだ。年がら年中、どこかで伝統行事がある。お寺や博物館の講演もある。
 興味のままに走り回るわたしを見て、東京の編集者は「ああ、寮美千子を奈良にやったのは間違いだった!」と嘆息した。
 10月のはじめにも「奈良アートプロム」という現代美術の催しがあった。県下90カ所の会場で、200人ものアーティストが作品を発表。その多くが奈良町に集中していた。これを見逃すわけにはいかない。
 散歩がてら上質な現代美術に巡りあえる喜び。それだけではない。ビルの屋上にある会場からは、そこからしか見えない風景が広がっていた。
町家の奥にしつらえられたかわいらしい坪庭、古いお蔵の瓦の美しさ。表通りからは見えないものばかりだ。
 長屋の空き部屋をギャラリーにした会場では、普段入れない小さな路地の奥で、幻想の生き物の群れを措いたふしぎな絵に出会った。長屋は画家のお祖母さんのものだそうだ。
 古いものだけが魅力なのではない。いま生まれつつある新しい文化の息吹。それもまた楽しくて、ますます忙しくてならない。


“ギャラリー”となった小さな路地

⇒掲載紙面

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