▲2008年04月の時の破片へ


■ 8 Mar 2008 お水送り@小浜/山八神事・弓打ち神事


▼いざ小浜へ!

3月2日午前8時、近鉄奈良駅前のニッポンレンタカー集合。昨晩遅く、Shigeさんがわざわざお電話をくださり「せっかく行かれるなら、午前 11時からの『山八神事』からご覧になったら」とアドバイスをしてくださった。そのため、出発時間を1時間早めた。果たして、奈良から若狭湾の小浜まで、 3時間で到達できるのか?

車を借りて、いざ小浜へ。昨晩、奇跡的に道で遭った奈良女子大の保助教授が、人生での総運転時間が3時間のダーリン松永に替わって、車のハンドルを握ってくださる。ああ、ありがたや! 後光がさしてくる!

保さんのご専門は「松果体」。松果体は、目と目の間のおでこの辺り「第3の目」と言われるあたりにある脳の器官のひとつだ。現在では「痕跡器官」扱いされているが、どうも赤外線を感知する力があるらしい。原始的な生き物である「ヤツメウナギ」では、目と目の間、脳天のあたりにこの松果体があり、なんとそこの頭蓋骨が光や熱を透過すべく薄く透けていて白っぽく見え「ヤツメウナギの9つ目の目」などとも言われているとのこと。「研究用のヤツメウナギを採集するために、琵琶湖にはよく来るんですよ」とのことで、保さん、道もよく知っていらっしゃる。最短時間で小浜に抜ける「湖西道路」を通って小浜へ。

延々と琵琶湖を見ながら走り、山間に入ると、やがて「遠敷川」が見えてくる。川を上流に遡り、11時少し前に「山八神事」の行われる下根来八幡宮に到着。川沿いに立つ小さな小さな神社だ。こけむした階段を上ると小さなお堂がある。その脇に木造の小さな集会場のような建物がある。講坊と呼ばれるその畳の部屋が、神事の場だ。

▼古代の香り漂う「山八神事」

戸をそっと開けると、すでに人々が集まっている。「いいですか?」と小声で訪ねると、入り口そばに座っていた村人とおぼしき人が静かに肯いてくれたので、靴を脱いでそっとあがる。正面には向かって右に「白石大明神」、左に「愛宕大権現」と書かれた軸が下がる。その前で、白い袈裟を身につけた神宮寺のお坊さんと、簡易式の裃を着た村の男たちが囲炉裏を囲んで談笑していた。囲炉裏には、湯のたぎる鉄瓶をかけられている。やがて、11時になり「では、そろそろ」と神事が始まる。

お坊さんが般若心経を読み上げる。さらに「バイ」と呼ばれる棒でみな一斉に畳を打ち、これを放り投げる、といった所作も為される。完全に神仏混淆だ。仏教と、非常に古い土着の宗教とが混ざっている。この神事は、国家神道が称揚され土着の神道が弾圧された明治維新の折も、密かに営まれ続けたという。以下、現地で入手した小冊子「寺誌第一集 お水送りとお水取り 若狭神宮寺から東大寺へ」(若狭神宮寺別当尊護記)より引用。

根来八幡宮の講坊(長床)へ講衆が集合し、一和尚兄弟二和尚兄弟三和尚兄弟の六役の最高責任者である一和尚兄弟が主軸になって神事が運ばれるが、まず若狭神宮寺の別当が司祭者となって赤土を御神酒で練った土饅頭を刳抜盆に載せ一尺ほどのゆだの木のバイをつけたのを二盆作り、白石明神の祭壇に供え薬師悔過法によって加持祈祷をし、神事が始められると、手水、香水、洗米が済んでバイにつけた土饅頭の赤土が講衆一同によって舐められる。そして御神酒を講衆一同が一献あってから役頭二人が一和尚から土饅頭の盆を預り、長床の二本の柱に「山」と「八」の字をバイの先に付けた赤土で書きつけるのである。「山八」を書き終わってから弟の若衆が半紙の中心と四隅にバイで赤土を押しつける。その赤土をつけた半紙を四つ折りにして牛王杖に挟み持ち帰り農地に押し立てて方策を祈願するが、この神事の作法は講衆が毎年昇格するに伴い古い講衆から次々と相伝されるので、他に伝承されない秘伝である。
というわけで、不思議な古代的な雰囲気のなか、神事が進む。枝付きのカシの葉が差し出され、ここから一枚をもぎ取って息を吹きかけ、破って、手を交叉して、後ろに投げ捨てる。これを、その場に居合わせたみながする。身に宿ったケガレをこれによって祓うのだという。さらに「手水」が出されるが、そのなかには、なにか黒い粉のようなものが沈んでいた。香辛料にも似ているが何だったのだろう。聖なる香水を振りかけられ、生米を数粒いただき、やがて、盆に盛った赤い土饅頭が回ってくる。御神酒で練ったというその土饅頭には、白木の棒がついていて、その先に練った赤土が付けられ、それを指でわずかに掬って舐める。その後に、漆の盃に御神酒が注がれていただく。御神酒は、三度、屠蘇器のような器を傾けて三度目に注がれた。
山八の「八」
インドでやはり同じような儀式を受けたときのことを思いだした。聖なる水を振りかけられ、額に米粒をつけてくれる。

御神酒が終わると、いよいよ「山八」だ。講坊のまんなかの柱に、例の棒に土饅頭の粘土で「八」と塗りつける。向かって左の壁の柱には「山」の字。毎年塗り重ねられるらしく、古い土が白く乾いた上に、新たな赤土の文字が描かれる。

この赤土をつけた半紙を持ち帰って田畑に牛王棒で差して豊作を祈るというのだから、これは農耕に関わる神事だったのだろう。

司祭者である和尚さんに「なぜ、山と八なんでしょうか」と尋ねてみた。「山は山のように、という意味、八はたくさんという意味。豊饒を祈るものです」とのこと。

▼お水取り伝説と丹生

御神酒で練った土饅頭を舐めるという神事。「赤土」というところが「丹生」との関連も思わせる。そもそも「お水取り」には次のような伝説がある。
http://www.todaiji.or.jp/index/hoyo/syunie/mizutori.html

二月堂縁起に「実忠和尚二七ヶ日夜の行法の間、来臨影向の諸神一万三千七百余座、その名をしるして神名帳を定(さだめ)しに、若狭国(わかさのくに)に遠敷(おにう)明神と云う神います。遠敷河を領して魚を取りて遅参す。神、是をなげきいたみて、其をこたりに、道場のほとりに香水を出して奉るべきよしを、懇(ねんごろに)に和尚にしめし給ひしかば、黒白二の鵜(う)、にはかに岩の中より飛出(とびいで)て、かたはらの樹にゐる。その二の跡より、いみじくたぐひなき甘泉わき出(いで)たり。石をたたみて閼伽井とす。」とあり、魚を採っていて二月堂への参集に遅れた若狭の国の遠敷明神が二月堂のほとりに清水を涌き出ださせ観音さまに奉ったという、「お水取り」の由来を伝えています。
修二会は、大仏開眼供養の行なわれた天平勝宝四年(752年)に始められたとされている。以来、一度も途絶えることなしに続けられ「不退の行」と呼ばれている。大仏建立の時期と重なることからも「丹生(にう・水銀の原材料となる赤い土)」説は考えられる。というのも、大仏建立には莫大な量の水銀が使用されたからだ。遠敷から奈良へと送られたのは「水」ではなく「水銀」だったのかもしれない。となれば、岩から飛び出した二羽の鵜とは、つまり「二鵜=丹生」か? 

ネットで調べると「遠敷」とは「大丹生」ではないか、という説もあった。「御丹生」かもしれない。などと推理すると心が躍る。
http://www.ne.jp/asahi/hon/bando-1000/dust/tan/tan-12.htm

▼弓打ち神事@神宮寺

その後、川を下り、神宮寺へ。明るく広い境内には、すでに大松明や中松明が用意され、並べられている。大護摩法要をするための木も組まれ、表面には青い杉の葉が被せられてこんもりと緑の山の形になっている。袴をはいているのは、これから始まる「弓打ち神事」と「奉納弓射大会」の人々だ。

やがて「弓打ち神事」が始まった。最初に若者が二射した。この人は素人らしく、指南役の介添えで矢を射ていた。次に紫の装束に身を包んだ人が古式にのっとって四方を祓うと、片肌脱いで弓を引く。こちらは形ができているから、玄人のようだ。そして、奉納弓射大会が始まった。

▼鵜に出会う

わたしたちはここで神宮寺を離れ、遠敷川に沿って河口まで下ってみた。緑の山間を縫って流れる遠敷川。その風景だけ見ていると、すぐそばに海があるとは思えない。どこか、山深いところにいるような気分だ。しかし、その川はすぐに海に注ぐ。山々は、海から直立している。それ故の天然の良港なのかもしれない。古くから、大陸文化の窓口となったのも合点のいく地形だ。

漁港の岸壁で、潮風に吹かれながら持参のおにぎりを食べる。港には、鵜と鳶がいた。やはりここには鵜がいるんだ、と思う。水に潜っては、驚くほど長い時間上がってこない。どこにいるのかと見ていると、遠くの、とんでもない方向から顔を出す。大変な潜水能力だ。この驚嘆に値する潜水能力も「二鵜の伝説」の一因かもしれない。

水から顔を出した時、とても飲みこめないほど大きな銀色の魚をくわえてきた鵜がいた。もたもたしているうちに、そばにいた別の鵜が寄ってきて、横取りしようとしている。争っているうちに、嘴から魚がつるりと落ちた。あっと思ったが、再び潜って、すぐに同じ魚をくわえて戻ってきたようだ。魚はすでに気絶しているか、死んでいるのかもしれない。二羽の鵜は、しばらくそうやって争っていた。こんな姿も「二鵜の伝説」と何かしら関係があるのだろうか。

お弁当を食べ終わり、再び川を遡って、我々は夕刻に「お水送り」の行われる「鵜の瀬」へロケハンに向かった。その先に、新たな「奇跡」が待ちかまえていることを、我々はまだ知らなかった。(つづく)

【下根来八幡宮】
午前11時   山八神事
【神宮寺 】
午後1時    修二会
午後1時過ぎ  弓打ち神事
午後1時半   奉納弓射大会
午後6時頃   修二会
午後6時半   達陀
午後7時頃   神宮寺大護摩
【神宮寺〜鵜の瀬 】
午後7時半過ぎ 松明行列
【鵜の瀬】
午後8時過ぎ  鵜の瀬大護摩
午後8時半過ぎ 送水神事
午後9時過ぎ  立ち直会


■ 1 Mar 2008 餅飯殿商店街で神の声を聞いた!の巻


明日は、福井県の小浜で「お水送り」がある。東大寺二月堂の「修二会」は通称「お水取り」と呼ばれているが、これは、小浜から「お水送り」された水が、十日間をかけて地下を通り、東大寺二月堂の「若狭井」までたどりつく、という伝説に基づいたもの。小浜から送られた水を、三月十二日深夜に汲みあげる行事が「お水取り」であり、二週間をかけて行われる修二会それ全体が、人々から「お水取り」と呼ばれて親しまれるようになった。

明日は、キヨシローさま復活の京都コンサート、せっかく誘ってもらったのに、あえてそれを辞退して、わたしは小浜のお水送りに行く。というのも、遷都1300年祭までにはぜひとも「お水取り」の絵本を作りたい、と思っているからだ。今回のお水取りには、画家の小林敏也氏もお招きしている。というわけで、コンサートは涙を飲んで辞退して、明日は小浜へ行くことに。

ここで問題が一つ。電車で行こうと思ったのだが、お水送りの行事が終わるのが午後九時半。それから奈良までは戻ってこられない、ホテルをとろうとしたが、小浜のホテルも旅館も満室。ならば敦賀で、と思ったが、なんとその時間には終電が終わっている。小浜から出られない。どうしたものか?

車なら自由が利く。というわけで、レンタカーを借りて、車で行くことにした。車とは、なんと便利な乗り物だろう。この便利さは、悪魔的だ。

ところが!である! 誰が運転するのか? わがダーリンは、免許取得以来十七年間、無事故無違反。というのも、十七年間で、ハンドルを握ったのは、合計三時間ほど。(「そんなことない」とダーリンから突っ込みが入る。「四時間か五時間は乗ってるよ」だって!)

というわけで、決死行である。わたしは「やめよう、忙しいし」と言ったのだが、ダーリンが「でも、すごいじゃない。洞穴に水が吸い込まれるって、どういうこと? 見たくないの? 『夢見る水の王国』みたいじゃない。行こう!」と強く主張。とうとうレンタカーを借りて行くことになった。

しかし、わたしは生きた心地がしない。ほんとうに大丈夫だろうか。

GAYOさんたちを近鉄奈良に送った帰り道「餅飯殿商店街」を歩いてわが家に向かうと、向こうからどこかで見たような顔が歩いてくる。
「あ! 保先生じゃないですか!」
先日、奈良女子大の池原教授の退官記念パーティではじめてお目にかかった先生だ。意気投合し、最後までいっしょにカラオケをした。ご専門は「松果体の研究」。ヤツメウナギをお相手に格闘の日々だそうだ。

「先生、お目にかかれるのは、今日が最後かもしれません。実は、明日……かくかくしかじか」とお話しすると、な、なんと
「よかったら、ぼくもいっしょに行かせてもらっていいですか?」
「えっ?」
「ぼくが運転しましょう。『お水送り』ぼくも行ってみたいし。どうでしょう。ぼくの運転じゃ、コワイかな」
「いいえ。ダーリンの運転に比べたら!」
と急転直下話がまとまり、保先生が運転してくださることに。ああ、神さま、仏さま、十一面観音さま、ありがとうございます。

「お水取りの絵本を作りなさい!」という、神の声か? だからこそ、こんな偶然で救ってくださったのかも! と思わず餅飯殿商店街の石畳に跪いて、感謝の祈りを捧げたわたしであった。

というわけで、明日、行ってきます。小浜の「お水送り」。あのアメリカ大統領選挙で盛りあがっている小浜市です。乞う、ご期待。


▼2008年02月の時の破片へ


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