▲2008年05月の時の破片へ


■14 Apr 2008 「しあわせの王様」舩後流短歌&ノンフィクション


母の看病と葬儀と、その後のもろもろで、結局20日近く、千葉の実家にいたので、仕事が押せ押せになってしまった。悲鳴状態だ。

本当なら、連載から片付けるべきだが、仕掛りの単行本で、少しでも早く先へ進めたいものがあったので、それを優先した。ALSという病を得た舩後靖彦氏に取材したノンフィクションだ。すでに初稿は上がり、各方面にチェックを入れてもらい、それをまとめて原稿に反映して第2稿を作成する、という段階だ。

ことのはじまりはこうだった。知人から「知り合いで難病にかかった人がいて、詩やエッセイを書いているんだけど、読んでやってくれないかな」と言われたのだ。「うん、いいよ」というと、メールで怒濤のごとく作品が送られてきた。詩は冗長だし、エッセイはひどく観念的だ。俳句は俳句の体をなしていなかった。それを読んで「この人は、短歌を書いた方がいいんじゃないか」と思った。三十一文字という定型にはめることで、冗長な部分を切り、核になるいい部分がもっと前面にでてくるのではないか、と思ったからだ。本人に勧めたところ、これまた怒濤の如く短歌を書いてきたのだ。彼は寝たきりだから、時間だけはたっぷりあるのはわかるけど、それにしてもすごいパワーである。そして、そのなかには、この病を得た者でなくては書けない、実感に満ちたすぐれたものがあった。

そんなわけで、その短歌を歌集にまとめられないかなあ、と親切心を起こして、なじみの編集者に声を掛けてみた。編集者の返事は「短歌だけではねえ。ノンフィクションと短歌のコラボレーションなら出版できるけど」とのこと。「でも、だれが書くの、そのノンフィクションを」と訊くと「そりゃあ、行きがかり上、あなたしかいないでしょう」。

というわけで、うっかり、わたしが書くことになってしまったのだ。しかし、いろいろあって(中略)モチベーションが上がらず、なかなか執筆モードに入れずにいたのだが、こないだのお正月に一気に書き上げた。400字で約250枚になった。

このノンフィクションのために、舩後さんの奥さまや主治医の先生、ご友人などたくさんの方に取材をさせていただいた。その方々や、日本ALS協会の方にも原稿に目を通していただき、チェックを入れてもらわなければならない。これが、ノンフィクションの大変なところだ。

その作業は編集サイドでやってもらった。葉月社、という障碍者問題を扱っている編集プロダクションの方が、取材も含めて手伝ってくださったのもありがたい。集まったチェックの入った原稿をもとに、わたしが第2稿をまとめる、というのが今回の仕事だった。

250枚というボリュームがあると、読むだけで丸一日かかってしまう。結構な労働だ。複数の相手から戻ってきたチェックをひとまとめにするのも、結構、手間だった。

実は、あまりに忙しくて、自分の書いた原稿を、中断なしで通しで読むのははじめてだった。読んでみて、改めて舩後靖彦、という人の前向きの心に打たれた。

とはいえ、舩後氏も、最初から前向きだったわけではない。絶望の淵に深く沈んだ2年間があった。そこから彼を救いだし、前向きの心を引き出してくれたのが、当時、千葉東病院にいた今井尚志医師だった。今井医師は、ALSの専門医として、単に病気に対処するだけではなく、この病にかかった人々の「人生再構築」に心を砕いていらした。だからこそ、舩後氏も、再起することができたのだ。

クオリティ・オブ・ライフにまできちんと心を配っている医師がいる。そのことに、わたしはいたく感動した。今井医師はすばらしい方だ。よくここまで患者の人生ときちんと関わるものだと、驚嘆した。

しかしまた、すべてが今井医師ひとりの肩にかかっている、という現状にも、疑問を感じた。これは、医師にとってあまりに過酷だ。カウンセラーでもなく、精神科医でもないのに、医師がそこまでやらなければ、他にやる人がいない。今井医師のように、心やさしく、寛容であり、能力があって、超人的に仕事をこなせる人なら、病気に対処しつつ、その人の人生再構築にまで手を貸すことができるだろう。しかし、すべての医師にそれを要求するのは、無理だ。

医師と患者の間に、その病気を医学的に理解しつつ、どうやってクオリティ・オブ・ライフを保っていくかをいっしょに考え、示唆してくれるカウンセラーが必要だ、とひしひしと感じた。

だからといって、もちろん、医師が「人間」ではなく「病気」とだけ向き合っていればいい、というわけではない。医師にもまた、人間と向き合ってもらいたい。しかし、では実際にどうするか、というとき、助けてくれる誰かが必要だと思うのだ。医師不足といわれている。不足してるのは医師だけではない。医師と患者とをつなぐ立場の人も必要だ。

そういったことまで含めて、医療の未来を考えていくべきだと、つくづく思った。

近々出版予定の舩後氏の短歌&ノンフィクションのタイトルは「しあわせの王様――全身麻痺のALSを生きる舩後靖彦の挑戦」(仮題)。全身麻痺という状態でも、人生をエンジョイしている舩後氏の姿に勇気づけられるのは、病を得た人ばかりではないはずだ。

それにしても、お水取り取材から、母のこと、そして原稿と、よくこんなに走り続けることができるものだと、自分でも驚く。感慨に浸っている時間もろくにない。ないから、落ちこまずにすんでいるけれど、なんだか、バリバリのビジネスマンのような気分だ。さあ、次は連載原稿だ。


■10 Apr 2008 近代医療/ストーマという選択


父は五十代半ばから膀胱を患ってきた。ポリープができて、一年に五回も手術をするような年もあった。ある手術の時、医師の説明を聞きながらカルテを見ると「cancer」とあった。びっくりして「父は癌なんですか」と聞くと、医師はこともなげに「そうすよ。前の病院でお聞きにならなかったんですか」と言われた。ショックだった。「癌といっても、いろいろあるんです。あなたのおとうさんの癌は悪性と言っても比較的ましなもので、転移はないと思われます」とのこと。それを聞いてほっとしたものの、やはり心配は消えなかった。

ヘビースモーカーの父になんとか煙草を止めさせようとしたのも、その時だ。父は怒り、まったく言うことを聞いてくれなかった。母も「おとうさんが怒るから、煙草のことは好きにさせてあげるの」とあきらめ顔だった。

その父が六十歳になって勤めていた税務署を退職すると、急に調子がよくなった。完治したわけではないけれど、手術も数年に1度というペースになったのだ。歳を取って進行が遅くなった、ということもあるだろうけれど、満員電車に乗る通勤や、役所の仕事が、よほど大きなストレスだったのだろう。

それでも、膀胱は少しずつ悪くなる。手術を重ねることで弾力がなくなり、小さくなり、とうとう三十分に一度はトイレに行かねばならない状態になってしまった。医師からは、膀胱摘出をすすめられ、わたしもその方がずっとクオリティ・オブ・ライフの向上になるとすすめたけれど、父は怖がって拒否した。

そのため、父は夜もろくに眠れなくなり、外出もままならなくなった。クレージーな状態だった。そんなことでは人生、生きている甲斐がないよと手術をすすめても、父は嫌だといって聞いてくれない。

どうしようもなくなって病院に行ったとき、医師は「もう膀胱が機能しなくなって、自分の力で排泄できないから、尿路に管をつけて外に流すか、膀胱を摘出するしかない」と言った。

わたしなりに調べてみれば、膀胱摘出して、膀胱に替わる袋「ストーマ」をつけた生活は、慣れればそれなりに快適な様子だ。解説書も取り寄せ、ストーマをすすめたけれど、その時も父は頑なに膀胱摘出を拒否した。

わたしは医師に尋ねた。膀胱摘出した方が、生活しやすいのではないか?と。医師はこう答えた。「それは、やっぱり障碍者になるわけですから、クオリティ・オブ・ライフは落ちますよ」と。

それは真っ赤な嘘であった。尿路に管をつけた状態では、ろくに移動もできない。そのために、父はベッドから動かなくなり、すっかり足が衰えてしまった。わたしは、少しでも父が動きやすいようにと、尿を入れる袋を肩から掛けられるような鞄をいくつも作ってあげたけれど、それでも、歩くのが億劫なことには変わりない。

しかも、管からたびたび雑菌が入り、父は高熱を出した。その頃、わたしは相模原で暮らしていたのだけれど、真夜中に、何度も母からの悲鳴のような電話をもらった。足が弱っていた父は、熱によって腰が抜け、母は途方に暮れ、何もできず、わたしは相模原から千葉の救急車を手配したりした。

そんなことが続いて、とうとう父もあきらめ、膀胱摘出の手術をすることになった。術後、足が弱って歩けない父を、すぐに家に戻すわけにもいかず、老人保健施設でリハビリをしてもらうことになったのだが、父はリハビリを強く拒否。ろくに歩けないままだった。そうなると、連動して頭がボケはじめた。歩かないし、人とろくに口もきかないのだから、仕方ない。

母の調子も思わしくなかった。肺の病気で具合が悪い。在宅酸素をするほどではなかったけれど、何をするにも、すぐに息が上がってしまった。

それなら、わたしが面倒を見るから、いっしょに奈良に行って暮らそうよ、と提案。最初は賛成してくれたものの、奈良に両親のための部屋を用意し、家具も買い揃えたところで、ドタキャンされてしまった。近所の有料老人ホームに入所するという。わたしは泣く泣く部屋を解約し、新品の家具を二束三文で売り払った。表向きの理由は「住み慣れた土地を離れたくない」だったが、真の理由は違ったように思う。その経緯はまた別の時に書こう。

そんなわけで、有料老人ホームに入所した二人だった。見学して気に入って、すぐに入所を決めた、ということだったけれど、行ってみて驚いた。長い廊下の脇にずらっと並んだ個室。父と母は別の部屋だ。そして、入所者は二階なら二階にしかいられない。歩けるのは、その長い廊下のみだ。廊下の長さは約 50メートル。散歩といえば、そこを行ったり来たりすることしかできない。食堂はあるが、いわゆるリビングにあたるものがない。ソファがあったり、囲碁をしたりするようなスペースは皆無である。ベランダもないので、日光浴もできない。外出したいときには、付き添いが必要で、家族か親類などが来てくれなばければ、外にも出られない。それでいてここでの暮らしには毎月二人合わせて40万円弱かかる。娘が面倒を見たいと言っているのに、どうしてそんなところに入所を決めたのか、わたしにはまったく合点がいかなかった。

その施設が特別に悪い、というわけではないだろう。介護の人々は、親身になって面倒を見てくれる。けれど、これでは生きる意欲が湧くわけもない。父はますますボケ、母はみるみる弱っていった。

そんななかでも、母は父の面倒を見たがった。歯磨きの時には椅子に座らせ、パジャマのボタンまで、母がかけてしまうのだ。父は、どんどん弱っていく。頭も弱っていく。リハビリも拒否。レクレーションも拒否して、引きこもりのままだった。

わたしは母に言った。「ほんとうにパパのことを思うなら、どうか手を出しすぎないであげてちょうだい」と。何度も頼み、施設の人からも話してもらったが、母はまったく聞き入れてはくれなかった。むしろ、父に手出しをするな、と言うわたしを恨み、憎むのだった。

父の様子が快方に向かったのは、なんと母の病状が悪化してからだった。母がついに在宅酸素をはじめ、いままでのように自由に動けなくなると、父はみるみるよくなっていった。以前よりもずっと歩けるようになり、驚いたことにレクレーションにも参加するようになっていたのだ。椅子に座ったまま、床にボールをバウンドさせるゲームに参加している父を見て、わたしは驚き、空いている椅子に座って、いっしょにゲームに参加した。

一度は奈良に呼び寄せることに失敗したけれど、わたしはあきらめなかった。作戦を進め、この四月にはようやく両親を呼びよせることになっていたのだが、それはまた別の時に話そう。

わたしが言いたいのは「ストーマ」のことだ。膀胱を摘出し、お腹に二箇所、穴を開け、そこにぴったりとビニールの袋を接着させて、お小水を溜める。三時間おきに溜ったお小水を捨てるのだが、夜は寝る前と、起床の時に捨てるだけで大丈夫だ。入浴のたびに、このストーマをつけかえなければならないのだが、面倒なのはそれだけだ。むしろ、おしっこでトイレに行く必要もないし、ストーマの袋は体に密着しているので、動くのにも支障がない。ストーマを装着したおかげで、父のクオリティ・オブ・ライフは格段に向上したのだ。30分おきに尿意を催して眠れない生活よりも、尿路に長い管をつけて動きにくく、度々高熱を出したときよりも、ずっとずっといい。

それなのに、医師は、そう説明してくれなかった。「障碍者になるわけですから、クオリティ・オブ・ライフは落ちますよ」と言ったのだ。

もし、もっと早くに、ストーマを装着するメリットを医師がきちんと教えていてくれたら。手術を強くすすめてくれていたら。そうしたら、父はもっとずっと活動的でいられただろうし、いまのようにボケることもなかっただろう。頭がはっきりしているうちからストーマに慣れていれば、自分で処理することもできただろうし、あちこち自由に出歩けて、足が弱ることもなく、ずっといい暮らしができたはずだ。父が元気なら、母も助かっただろう。母の寿命も延びたかもしれない。

「もしも」というのは、過ぎてしまった人生には何の意味もないことだけれど、後に続く人には、ぜひこの経験を生かしてほしいと思う。膀胱と取ってしまう、というのは、確かに恐ろしいことに違いない。けれど、場合によっては、その方が本人にとって、ずっとずっといいことがあるのだ。少なくとも、うちの父の場合はそうだったと断言できる。

医師は「病気に対処する」だけではなく、その人のクオリティ・オブ・ライフまで考えたうえで、的確な説明をしてほしいと、心から思う。


■ 8 Apr 2008 花めぐり花おくり


生きていた母が、もうどこにもいない。そのことに納得がいかず、どうにも心が落ち着かない。仏教では、死者は亡くなってから四十九日の間は「中有(ちゅうう)」「中陰(ちゅういん)」と呼ばれるこの世とあの世の間をさまよっているという。この間に修行を重ね、魂を清めて成仏するのだという。母はいま、どこにいるのか。母の菩提を弔うためにお寺に行きたいと思った。

気がつけばきょうは四月八日。釈迦が生まれたとされる日だ。東大寺では「仏生会」と呼んでいる。「花祭り」という呼び名も一般的だ。死者の菩提を弔おうと思った日が、誕生の記念日。そのことの不思議を思う。生は死と、死と生とつながっているのか。
写真:桜咲く大仏殿境内 写真:東大寺大仏殿前に設置された花小堂の誕生仏 写真:花びらを食べる鹿

東大寺大仏殿の前には、馬酔木と椿の花で飾った小堂があった。そこに「天上天下唯我独尊」と天と地とを指さしている金色の小さな仏さまが納められていた。「誕生仏」と呼ばれるかわいらしい仏さまだ。その仏さまの頭から、小さな竹のひしゃくで甘茶を注いで供養する。「竜王がお釈迦様の誕生を祝って甘露の雨を降らせた」という伝説にちなんだものとも言われている。
http://www.todaiji.or.jp/index/hoyo/bussyoue.html

千葉の実家の庭は七十坪ほどあり、父の丹精した樹木や草木が所狭しと植えられていた。母の葬儀の日には、桜や椿が咲き、白と薄紅の馬酔木の花がたっぷりと咲いていた。地面にはいたるところに水仙が花を開いて、芳しい香りがしていた。

あの庭の花々が、いまこの誕生仏の小堂に飾られているような錯覚に陥る。

甘茶を注ぎ、甘茶をいただく。お砂糖とは違う、不思議とさっぱりした、けれどもくっきりとした甘みが傷んだ心を潤してくれた。

大仏さまは巨きかった。いつ見ても「ああ巨きい」と驚く心がある。きょうはその巨きさが、そのまま慰めとなった。その大きな掌で、死者の魂が救われる気がした。
「どうか、ママがいいところへ行けますように」
心からそう祈る。

帰りがけ、興福寺の境内を通ると、南円堂の前にも誕生仏の小堂があり、そこでもお参りさせていただく。こちらは、色とりどりの花が飾られていた。そこに見た顔を見つけた。詩人のあこ米ちゃんだった。久しぶりに奈良の知った顔に会ってほっとする。

これでもう家に戻ろうと思い、帰りがけに八百屋さんに寄る。金時人参を手に取ると、見知らぬおばさまが「それ、甘くておいしいわ。炊くときは、お砂糖いれんでいいくらいやわ。わたし、大好きやわ」と話しかけてきた。身なりのいい山の手婦人のような姿だが、下町っ子のような人なつこさだ。

レジでお勘定をすると、もう半月以上顔を出していないというのに「こないだ来た時、お水取りに行くって行っていたけれど、見られた? 何時間待ったの?」と、声を掛けてくれた。ああ、覚えていてくれたんだと、心底うれしくなった。「きょうは、三条通の浄教寺でも花祭りを盛大にやってはるわ。見に行ったらええわ」と教えてくれる。さっき話しかけてきたおばさまは「今晩は新薬師寺さんでお松明があるんやで」と教えてくれた。みんなみんな、どうしてこんなに人なつこくやさしいのだろう。

ちょうど、銀行に行く用事があり、その向かいが浄教寺だった。門前に誕生仏の小堂が置かれていたので、ここでもお参りさせていただく。

境内にみごとなしだれ桜が咲いていて、思わず入ると、いつもは開いていない本堂の扉が開いて、ご本尊が見えている。外から拝んでいると、お坊さんがいらして「どうぞ中へ」と誘ってくださった。広い本堂の畳の間で、きちんとした身なりの小さな男の子が一人、盛んに側転をしている。「こちらのご住職の跡取りになる坊やです」とお坊さんが教えてくださった。やんちゃな坊やを寛容に見つめるお坊さんと仏さまがそこにいた。

ご本尊の阿弥陀如来は、実に美しい端正なお顔立ちで、衣のドレープの流麗なことといったら息を飲むほどだ。「運慶の作と伝えられています」とのこと。お坊さんは、お寺の由来などいろいろ話してくださり「どこの宗派でもいいんです。通りがかりでもかまいません。お参りなさるといいでしょう」とおっしゃってくださった。そして「きょうは阿弥陀さまとよい結縁を持たれてよかったですねえ」とやさしい声でおっしゃった。

こんなふうに、見ず知らずの人にやさしくしてくれるのが奈良だ。その温かさが、今日は一段と身にしみる。

家に戻り、事故の後遺症のリハビリのため病院に行って戻ってくると夕方の六時半になっていた。七時から新薬師寺のお松明だ。こうなったらもういっそ新薬師寺も行こうということになり、相棒と二人で出かける。自転車で行けば、すぐそこなのだ。

夕暮れの新薬師寺。青く澄んだまま暗くなった空に、美しい屋根瓦が映える。本堂の扉が開いて、ご本尊の薬師如来が金色に輝いた。美しく荘厳された本堂には、灯明がいくつも灯され、なんともいえない美しさだ。その背後に、十二神像がぐるりと薬師仏を取り巻いている。こんな場所から、こんな景色を見られることなど、滅多にない。それだけでもう、胸がいっぱいになった。

松明は静かに灯され、静かに移動していった。桜の花満開の下、きょうは、新薬師寺の修二会なのだ。十一本の大松明が奉納される。一本の松明の後、一人の僧侶が歩き、本堂へと入っていく。燃えあがる松明の炎に、薄紅色の桜の花びらが照らされ、暮れていく闇のなか、なんとも言えぬ微妙な色合いに浮かびあがる。

母を思った。死の床で、医師の言うことなど聞かず、好きなものを好きなだけ食べさせてやればよかったと、そのことばかりが頭に浮かんで涙が出てきた。

母はどうしているだろう。毘盧舎那仏や阿弥陀さまや薬師さま、あちこちから手を差し伸べられてとまどっているだろうか。

あれはいつだったか、母を老人福祉施設に見舞いに行ったとき、母がいきなり「願わくば花の下にて春死なんその如月の望月の下」と言ったので、驚いた。母は、普段、歌をそらんじるような人ではなかった。西行法師のこの歌を、一体、どこで読んだのか。わたしは「ママ、何を言っているの。奈良で暮らすんでしょう。春にはいっしょに吉野の桜を見ましょう」と言った。

いまはその春だ。母は自分の言葉通り、桜満開の季節に旅立った。今年の桜は、まるで母の願いに寄り添うがごとく、いつもより早く開花したのだ。

桜が咲いている。至るところに咲いている。大仏殿にもいっぱいの桜。浄教寺にも新薬師寺にも、そしてその道々にも桜だらけだ。大仏殿の脇の側溝に溜った桜の花びらを、前足の膝を折って、一心に食べる鹿がいた。花を食べる鹿。こよなく美しい生き物。まるで祈りの姿。

母の葬儀は自宅で行い、無宗教で「花葬」にした。色とりどりの花をいっぱいに飾り、いらしてくださった方々にも一輪ずつ花を手渡して、母に供えていただいた。その花をみな柩に入れて、花いっぱいのなかで見送った。母の柩は庭の桜の木の下を通り、花のなかを運ばれていった。そしてきょうは、花に囲まれたお寺巡り。どのお寺も自転車で十分圏内で移動できるからこそできる贅沢だが、母に導かれての花巡りだったように感じる。

花の季節になると、これからはきっと、いつもいつも母を思い出すだろう。花に囲まれて微笑みながら永久の眠りを眠っていた母を。


■ 7 Apr 2008 ハハキトク ハハシス


3月18日朝、東京に住む妹より電話、相棒が受ける。「眠いから、後でかけるって言って」というと「緊急の用件」というので出たら、千葉の老人福祉施設で暮らしている母が入院したとのこと。
「今回はもう、病院から出られないってお医者さまに言われたの。持って2週間ぐらいでしょうって」
いっぺんで目が覚める。

4月には、父と母を奈良に呼び寄せていっしょに暮らすべく用意を進めていた。千葉の病院からの紹介状も奈良の病院に渡し、現在の主治医から「千葉から奈良へ新幹線での移動も大丈夫」と太鼓判を貰っていたのに。まさか、そんな……。

焦ったが、すぐには動けなかった。連載の原稿が仕上がっていない。50枚のところ、まだ10枚しか書けていない。お水取り取材三昧で執筆が進んでいなかったのだ。これを仕上げなければ出られない。ああ、こういう時のためにも、連載原稿は一ヶ月分書きためしておくべきであったと思うが、元来そういうことのできるわたしではない。ともかく書かなければと、丸2日で必死で書き上げる。因果な商売である。しかし、その商売を優先するわたしがいる。死にそうな母、よりも、締め切り優先の薄情な娘なのだ。夜中の二時まで仕事をして仕上げ、朝五時には起きて、20日の朝一番の列車で千葉へ向かった。

昼前に千葉に着き、すぐに病院へ。母が意外と元気なので一安心した。横にはなっているが、話せるし、意識もしっかりしている。妹も病院に泊まりこんではいないと言う。

母の病気は肺繊維症。自己免疫系の疾患で、自分で自分の肺の組織を攻撃して繊維化してしまうという難病だ。にもかかわらず、母は発病から15年以上も小康状態を維持してきた。奇跡的なことだ。それが、ここへ来て突然、悪くなったという。「急性増悪(ぞうあく)」という症状で、レントゲンでも肺が真っ白になり、こうなると回復の見込みがほとんどないと医師から聞かされた。そう聞かされても、肌の色つやもよく、79歳の誕生日を迎えたというのに、皺もあまりない母の顔を見ていると、ほんとうに死が間近に迫っているとは、どうしても思えなかった。もし、医師の言うことが本当だとしても、長丁場になると信じて疑わなかった。

面会時間は夜8時まで。それを過ぎると帰らざるを得ない。後ろ髪引かれる思いで病院を後にして、からっぽの実家に一人で泊まった。

医師は予告した。酸素を吸っているので、血中の酸素量は充分足りているのだが、二酸化炭素を排出できない。血中の二酸化炭素量が増えると、脳に影響を与えて、幻覚幻聴妄想を引き起こす、と。

わたしが駆けつけてから三日目、入院した日から起算すれば五日目、医師の予告通り、母は徐々におかしなことを言いだした。最初は、平和な妄想だった。病院のアラーム音を「ラクダの鳴き声」だと思いこんだのだ。

「夕べの雨と風で、原っぱのラクダが逃げちゃってね、おかあさんの部屋のすぐそこまで来たんだよ。それで目の覚めちゃった人がうろうろして、大変だったの」
「お医者さんの息子さんがね、そのラクダを飼っているのよ」
「美千子もラクダの面倒を見ているんでしょう」

確かに夕べはひどい雨と風だった。病院は、菜の花の咲く美しい川沿いにある。そうか、原っぱのラクダか、と思いながら、わたしは母の言うことを否定せずに、うんうんとうなずいていた。

急な入院で個室が満室で、母は4人部屋にいた。母のベッドは窓際で、広い空がよく見えた。すると、母はその空を見つめ、おかしそうに笑いながらいうのだ。
「ふふふ。ほらあの空のところにオルガンがあるでしょう。そこにおかしいの、靴が一足だけあるの」

天井から下がるカーテンレールを見て、こんなことも言った。
「お父さんがね、シジミを一生懸命とって、いっぱいそこに並べてあるの。それがあったかくなると自然に動きだして困るのよ。ふふふ。ほら、あんなに」
「ここらへんから見ると、みんな白くてきれいに見えるねえ」

こんな平和な幻覚を見ながら、ゆっくりとあちらの世界へ移行できるのなら、それもしあわせな末期だと思いながら、わたしは母の幻覚や妄想につきあっていた。長丁場になると思ってわたしは病院にパソコンを持ちこんで、看病の合間に仕事をしようとしたが、それどころではなかった。母はのべつまくなしに不思議なことを語りかけてくるのだ。

ラクダとシジミの次に出てきたイメージは、母が子どもの頃の思い出だった。山梨県石和の鎮目の実家の話だ。向かいのベッドの患者さんを「お隣のミエコちゃん」だと思ったり、自分が遠縁にあたる人の雑貨店に布団を敷いて寝ているのだと勘違いした。

さらに進行すると、盛んに「ご飯の支度」を気にしだした。「お米をとがなくちゃ」というので「大丈夫、わたしがといでおいたから」と言う。「でも、おかずがないわ」というから「心配しないで、おかずも作っておいたからね」と言うと「そう」とやっとほっとした表情をする。「お弁当作らなくちゃ」とも言う。ああ、この人は長い間「おかあさん」として生きてきたんだな、と思うと、胸がじんとした。

幻覚や妄想はあっても、言葉は通じた。大丈夫だよというと、納得してくれた。その日もまた、後ろ髪引かれる思いで病院を後にした。

翌日の早朝、病院から電話がかかってきた。母が夕べから大声を出して暴れ、一睡もしていないという。早く来て欲しい、今晩は泊まって欲しい、というのだ。昨日、ずいぶんおかしな事を言っていたけれど、そんなにひどくなったのかと慌てて病院に駈けつける。

入院六日目。母は一日中、妄想に苦しめられていた。さまざまなことを口走った。怒った口調で文句を言ったり、怒鳴ることもあった。

母はわたしに向かってこう言った。
「普通にしなさい、普通に。ちゃんと結婚して、子どもを産んで、教育して」

「結婚してるよ。だんなさんも、ちゃんと働いているよ」と言うと「そう」と拍子抜けしたような表情になった。

「あんた、何して暮らしているの」というので「小説や絵本を書いているんだよ。小説家」と言うと「そんなことで食べていけるの?」という。「食べていくんだよ。今までもそうしてきたし、これからもそうするの。大丈夫だよ」と言っても、なお不満そうだった。

「『父は空 母は大地』って絵本あったでしょう。ママ、あの本、大好きって言ってくれたよね。いい本だって。ああいう本を作っているの。だから心配しないでね」と言うと、やっと少し落ち着いてくれた。

そうか、確かにわたしは「普通」じゃなかった。幼い頃から変わった子だと言われてきた。大人になってからも、本を出したり、文学賞をもらったりして、どう見ても「普通」じゃない。「普通」ではないことが、母には気がかりであり、気に入らなくもあったのだ。だから、いくら「奈良においで。いっしょに暮らそう」と言っても、色よい返事をくれなかったのだろう。「普通」じゃないことは、母にとっては恐ろしいこと、将来の見通せない大きな不安だったに違いない。そんな娘に、自分の余生を託したくはなかったのだろう。

だんだんわからなくなっていく母が、空中に手を伸ばす。
「美千子だよ、美千子。ここにいるよ。どうしたいの?」
すると、母が突然、こう言った。
「撫でてやる」
頭を出すと、ごしごしと頭を撫でてくれた。
「硬い髪だねえ」
そう言って、ひとしきり撫でる。

幼い頃から、母に撫でられた覚えがない。抱きしめられた覚えもない。そういう母だった。「おかあさんはね、小さな妹弟がいっぱいいて、子守りばっかりさせられて育ったの。遊びに行くときも、赤ん坊を背負わされた。だから、子どもは嫌いなの」とはっきり口にする母だった。

それが、最期の最期になって、こんなことを言うなんて、反則だ。こんなことで、一生分を埋めるなんて、ママ、ずるいよ、と思いながら、涙が止らない。

「どうして泣いてるの?」と母が聞く。
「うれしくて」
そう言うと、母がちょっとおどけて言った。
「いいおかあさんだねえ」

それから、母の病状は時を追うほどに悪くなり、その晩、母はまたもや一睡もしなかった。見えないものにぎりぎり手を伸ばす。空中から何かを摘み取る。手許に引き寄せ、豆の皮でも剥くような仕草をして、それを口に運ぶ。ああ、何か食べたいんだ。かわいそうに。何か食べさせてやりたい。しかし、医師から禁じられていた。看護士も、医師の許しなしには食べさせてはいけないという。そして、その医師は週末なので、病院にいないという。

わたしがやってきた日から、母は食べたがっていた。
「田舎に行くと、トウモロコシあげるなんて、くれるじゃない。焼いて食べると、おいしいんだよ」
「たくさんじゃない、ちょこっと食べるといいよ」
「何だっけ。よく田舎で、こういうふうなもの焼いて、薄焼きっていって、卵と小麦粉とお砂糖入れて焼いたんだよね。それをおやつにして」
「もう死のうって人が、お腹すいたなんてねえ。オアゾ(入所していた施設)の冷蔵庫に、タクアンが入ってるの。食べたいなあ」

わたしは、母がかわいそうでならなかった。回復の見込みがないと断言しながら、食べることを禁ずる近代医療とは何なのか? 最期なら、好きなものを好きなだけ食べさせてあげればいいではないか。

母は、恐ろしい幻も見ているようだった。一晩中、空中に手を踊らせていた。体力もないこんな病人が、どうしてこんなに動き続けることができるのか、不思議なほどだ。その姿は、先日、博物館で見た古い地獄絵図に出てくる人の姿にそっくりだった。あの手を伸ばす姿、もがく姿は、空想ではなく、きっとこんな病状の人の姿から描かれたものなのだろうと思った。神でも仏でもいい、どうかこんな苦しみから母を救ってくださいと、わたしは祈り続けた。一生で一番真剣に祈った。ベッドの脇にいっしょに横たわって、母を撫で、空中に踊るその手をそっと握って下げる。「大丈夫だよ」「そばにいるよ」「怖いものはみんな美千子が追い払ってあげるからね」「心配しなくていいよ」と言い続けた。

痰が絡む。喉でぜいぜいと音がする。すると、看護士さんが来て、鼻から管を入れて吸引する。鼻の粘膜が傷ついて血の混じった痰が出てくる。それが実に苦しそうなのだ。「手を押さえてください」と看護士さんに言われて、母の両手を押さえる。どこにこんな力があるのかと思うほど、母は暴れもがく。「ごめんね、ごめんね。これで息が楽になるからね」と言いながら、処置の間、母の手を押さえ続ける。母が叫ぶ。
「やめて、やめて。こんなことしたら、おかあさん、死んじゃう」

病状が悪化すると、看護士が来て、心電図を取るための装置を胸につけ、指には洗濯バサミのような、血中酸素を計る機器を取り付けた。「ナースステーションでモニターしていますから」と言う。母がそれを嫌がって無意識に引き抜こうとする。母は「いよいよの時は呼吸器を装着しない」と自ら決めていた。家族も同意している。それを医師にも伝えている。つまり、これ以上の積極的な治療はしない方針だ。それなのに、なんのためのモニター? こんなに嫌がっているのに。

「その洗濯バサミみたいなものは、はずしてあげてください」と看護士さんに頼んだ。
「モニターできなくなりますよ。それでもいいのなら、はずします」
「いいです。はずしてください」

あまりの母の苦しみを見て、鎮静剤を処方してほしいと看護士に申しでた。強い鎮静剤は、呼吸困難を引き起こすので、処方できないという。軽いものなら、と言うので、それでもいいからとお願いすると、点滴に混ぜてくれた。一瞬、母は穏やかになり、こう言った。
「きょうは楽しみだなあ」
一体、何を楽しみに思ったのだろう。遠足の前の子どものように、死出の旅を楽しみに思っていたなら、どんなにかいいだろう。

けれど、母はすぐにまた恐ろしい夢を見はじめたようだった。母の「もがき踊り」が再び始まった。

母は、なぜこんなに苦しまなければならないのか。酸素を吸わなければ、母はとっくに息を引き取っていただろう。酸素吸入で生き延びたから、恐ろしい幻覚も見るのだ。一口も食べていなくても、栄養点滴をするから、体力が温存され、苦しむ時間が引き延ばされるのだ。第一、母は経口で食事ができないわけではない。食べることを禁じられているだけなのだ。本人が食べたいと言っているのに、食べさせてもらえない。食べたいものを食べて、息が詰まって死ぬなら、それはそれでいいではないか。とさえ思う。

母もわたしも、一睡もできない夜が明けた。月曜の朝八時、ようやく医師の回診がきた。それまでの魔の二日間、医師はやってこず、看護士が医師の言いつけを守って、母の食事を禁じ、水を飲むことも禁じてきたのだ。看護士さんたちは、ずいぶんよく面倒を見てくれたと思う。献身的、と言ってもいい。それでもなお、近代医療とはこれでいいのだろうかと疑問に思わざるを得なかった。

医師から話があるという。病状を説明され、二者択一を迫られた。

「おかあさんは、二酸化炭素中毒による譫妄状態にあります。息が苦しいので、どうしても恐ろしい幻覚を見てしまいます。痛みを除く薬はあるけれど、苦しみを除く薬はありません。この苦しみを取り除くには、意識をなくすという手段しかありません。意識がある限り、おかあさんは苦しまれるでしょう。深く眠る鎮静剤を投与して意識をなくすことで、苦しみからは逃れることができるでしょう」

「しかし、鎮静剤は、両刃の剣なのです。苦しみを取り除く一方で、呼吸する力を徐々に奪うことになります。鎮静剤を投与すれば、二週間以内に、おかあさんは呼吸停止か心停止になるでしょう。それを覚悟のうえで、鎮静剤を投与するか、しないか、です。鎮静剤の投与を開始すれば、その時点から、もう会話は一切できなくなります」

「回復の可能性は、限りなくゼロに近いと申しあげたほうがいいでしょう。しかし、現在、強いステロイド治療を行っているので、万に一つの回復の可能性はあります。しかし、その場合でも、肺のほとんどが急速に繊維化しているので、残された機能がいまよりも多少回復するというだけであり、健康体に戻れるわけではありません」

「鎮静剤を打たず、積極的治療を続けるという選択もあります。しかし、その場合、このような譫妄状態が一ヶ月、二ヶ月続き、その果てにやはり治療の甲斐なくお亡くなりになるということもあり得ます」

もし、わたしが母の状態を見ていなければ、母に生きていてほしい一心で、積極的治療を頼んだかもしれない。けれど、二昼夜眠らず、恐ろしい幻覚を見続け、ベッドで腕を踊らせ続け、恐怖に顔を引きつらせる母の様子を見ていたわたしは、ただもう母を楽にしてあげたかった。

駈けつけた妹と相談して、鎮静剤を処方してもらうことに決めた。

「最期に、母に何か食べさせてやっていいですか」と医師に尋ねた。医師は承諾してくれた。

売店で買ってきたヨーグルトと、わたしが母のためにハチミツで甘く煮たリンゴを潰したものとを、母に食べさせた。朦朧とした意識のなかで「おいしい」といって、一口、二口、三口食べ、母は「もういい」と言った。

こんな状態でも、誤嚥せず、ちゃんと食べられたのだ。ああもっと、母の意識がはっきりしているうちに、食べさせてやりたかった。「おかしいね。死ぬというこんなときに、食べたいなんて」と言っていたときに、存分に食べさせてやりたかった。

3月24日12時。点滴に鎮静剤を入れる。その時点で、母はもう力尽きて、腕を上げることもしなくなっていたが、まだうなされるように何か口走っていた。しばらくして、母はようやく静かな寝息を立てはじめた。母の眠る姿を見て、わたしはほっとした。母はもう、夢も見ないほど深く眠っている。どうかもう苦しまないでほしいと祈るような気持ちだった。ようやく個室が空いて、母は眠ったまま、個室に移った。

それから丸二日、母は眠り続けた。深く眠っているはずなのに、痰の吸引の時は苦しみ、うっすらと目を覚ました。それほど苦しいのだと、かわいそうでならなかった。呼吸がぐんぐん浅くなっていった。

3月26日。昼を過ぎると、母の様子はますます悪くなっていった。わたしと妹は、母の手を握り続けた。時々、呼吸が止りそうになる。妹が慌てて「ママ、ママ、息をして!」と大きな声で言った。わたしは妹に言った。
「もういいよ。そんなにがんばらせなくてもいいよ。ね」
すると妹が「そうだね。ごめんね、ママ」そう言って、母の顔を見た。

息が浅い。
「吸ってぇ」
「吐いてぇ」
体操の時間のように、母の呼吸に合わせて、妹と二人、静かに声を掛けた。うまく息を吸えたり吐けたりすると「いいよいいよ。その調子だよ」と励ました。
「ママ、桜が満開だよ。みんなここにいるよ。美千子も純子も、パパも、常広おじさんも、○○さんも、○○さんも、みいんなここにいて、いっしょに桜を見ているんだよ。きれいだねえ。そよ風が吹いているよ。いい風だねえ。気持ちいいねえ」
母の耳許でそうささやく。

確かに、うるわしい春の日だった。病室の窓を少しあけると、春の息吹の香りのするやさしい微風が吹いてきていた。酸素マスクをしている母に、その春風の香りは届いただろうか。

呼吸は浅くなり、いつ、止ったのかもわからないほど静かに消えていった。まるで、春風に溶けるように。見ると、モニターの心電図がフラットになっていた。
「ママ、ママ!」と妹と二人で呼びかけると、再び心電図が動きだし、微かな呼吸も始まった。それもまた、静かに消えて、心電図がフラットになったきり、もう呼んでも戻らなかった。緊急ボタンを押すと、医師がやってきて、脈を診て、瞳孔を見た。
「ご臨終です」
そう言って時計を見たのが午後1時31分だった。

それから五分と経たないうちに、母の妹にあたる人がやってきて「えっ、死んじゃったの」と大声で叫び、そのとたんになぜか彼女の携帯電話が大きな音でピポピポと鳴り、それからなぜかわたしたち姉妹を思いきりなじる言葉を吐き散らしたので、静かな感慨もそこまでとなってしまった。母の臨終にこの叔母が間に合わなくてほんとうによかった、とわたしは内心思った。でなければ、母はあんな静かな臨終を迎えることはできなかっただろう。

一時は幻覚で苦しんだけれど、娘二人に両手を握られ、静かな穏やかな死だった。亡くなる一時間ほど前、父を施設から連れてきて、母に会わせてあげることもできた。亡くなってすぐ、母の顎が開かないようにと、看護士さんがぎゅっと布でしばってくれた。妹が顔を剃り、わたしがお化粧をしてあげた。にこやかに、ほんとうににっこりと笑っているような死に顔だった。

妹と相談して、母の遺体を自宅に連れ帰ることにした。霊安室から霊柩車に乗せられて病院を出る。振り返ると、親身にお世話をしてくださった看護婦さんが二人、深々と頭を下げていた。

施設に入って1年8カ月、母はようやく住み慣れた自宅に戻ってきた。その晩、父を施設から自宅に連れてきて、柩に入った母と対面してもらった。父は少し困ったような顔をして言った。
「おやおや、おとなしい顔をして」
父にそう言わせるほど、穏やかな表情の母だった。


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