▲2008年03月の時の破片へ


■27 Feb 2008 パパさんは「マルサの男」


わたしが小学生の頃、父は「マルサの男」つまり国税査察官だった。ある夜、突然「明日は帰ってこないぞ」などという。「どこへ行くの?」と聞くと「壁に耳あり、障子に目あり」といって、絶対に教えてくれない。行く先は、家族にも内緒だった。

翌々日の新聞やテレビをみると、大きな会社が脱税の摘発を受けた、という記事がデカデカと載っていて、父の行く先がわかった。時には、報道写真のなかに、父の姿を見つけたこともある。段ボール箱に帳簿を詰めている後ろ姿の査察官が、明らかに父だった。

戻ってきて「ひどい目にあったよ」と話をしてくれたこともある。

「事務所に入ったら、事務員の女の子がいきなり服を脱いで『助けて〜』って叫びながら、外へ飛びだしていったんだ。査察官に暴行されたなんてって言うんだよ。騒ぎの間に、社長が逃げだしてね」
「社長は、裏口から車で逃げた。くそっと思って走って追いかけたら、その車、運よく信号で止ってね。掴まえることができたんだよ」
「走りだした時、みんな『寮さん、頭おかしくなったのか』って思ったそうだよ。おとうさんは、絶対あきらめないんだ」

めちゃめちゃな格好で戻ってきて「セメントの粉、いきなり頭から浴びせられた」なんていうこともあった。

まさに映画「マルサの女」ばりの捜査だったようだ。あの映画は、さして誇張ではないらしい。当時のわたしは、父が何でそんな目に遭うのか、いまひとつ理解できずにいたが、映画を見て、ようやく納得した。マルサは、みんなから怖がられていたけれど、本人にとっても相当ハードな仕事だったようだ。

先日、実家に戻ったとき、抽斗から古いガリ版刷りの紙が見つかった。クレイジーキャッツの「五万節」の替え歌だった。そういえば、ダークダックスをもじって「テイクタックス」Take Tax というコーラスグループをつくった、などと話していたことを思い出した。忘年会の宴会芸らしい。

いま見ると、ちょっと差別的な言葉もあったりしてナニではあるけれど、貴重な資料なので掲載する。おそらく昭和三十年代終りから四十年代はじめのものだと思う。

  【査察五万節】

一 学校出てから十余年 今じゃ国税査察官
   北の果てから南まで ガサした会社が 五万件
   
二 学校出てから十余年 今じゃ国税査察官
   内偵、反面、確認に 乗ったタクシー 五万台

三 学校出てから十余年 今じゃ国税査察官
   学校、キャバレー、パチンコ屋 とった令状 五万枚
   
四 学校出てから十余年 今じゃ国税査察官
   船橋、横浜、八王子 走ったガサバス 五万キロ
   
五 学校出てから十余年 今じゃ国税査察官
   押入、物置、床の下 見つけた通帳 五万通
   
六 学校出てから十余年 今じゃ国税査察官
   帳簿、伝票、メモ書類 運んだ物件 五万箱

七 学校出てから十余年 今じゃ国税査察官
   病人、後家さん、二号まで とっててんまつ五万回
   
八 学校出てから十余年 今じゃ国税査察官
   朝の五時から夜明けまで 超勤したのが 五万日
   
九 学校出てから十余年 今じゃ国税査察官
   通いなれたる銀行で(注) 泣かせた代理が五万人
   
十 学校出てから十余年 今じゃ国税査察官
        今日は我等のレクリェーション
   思い出話に花が咲き
        飲んだビールが五万本
        
(注)原文「三井、三菱、富士三和」となっているところを、
万年筆で二重線が引いてあり「通いなれたる銀行で」に直されている。


■13 Feb 2008 「ストップ!遷都1300年祭」のシンボルマーク?


赤い手のひらマーク STOPマイナスosake黄色い手のひらマーク 赤い手のひらのお化け
このマーク、みなさんは一目見て、何のマークだとお思いだろう。「立ち入り禁止」「ストップ」「拒否」そう思うのが、ごく一般的な判断だろう。

左側の赤いマーク。なんとこれが、平城遷都1300年祭のシンボルマークなのだ。これを見て、だれが「歓迎のマーク」だと思うだろう。掌は、一般的に禁止や拒否を示している以上、いくら歓迎のマークだと言われても、潜在意識で、どこか拒否されているように感じてしまうだろう。

これは、公募で決まった。だから公平か、といえば、そうでもないらしい。わたしの知り合いの、いくつも賞を獲っている大変優れたデザイナーがこの公募に応募した。しかし、予選落ちであったという。最終選考で選考委員の趣味が反映して賞を逃すことはあっても、彼のようなすぐれたデザイナーの作品を予選落ちさせるなど、言語道断。そして、これを最終案として決定した選考委員はマヌケにもほどがある。「シンボルマーク」の基本のキの字もわかっていない。

このマークの選定になんと1300万円が使われたという。税金である。いいかげんにしてほしい。

左:平城遷都1300年祭シンボルマーク
中:ストップ飲酒のマーク
右:バサラ祭りでの悲惨なパフォーマンス


■13 Feb 2008 まさかこれが?!平城遷都1300年祭マスコット


平城遷都1300年祭マスコット
平城遷都1300年祭マスコットが決定、発表された。
http://www.1300.jp/mascot.html

新聞記事【平城遷都1300年祭 協会「走りながら考える」】より

 マスコットキャラクターの選考過程にも疑問が残る。公募することもなく、大手広告代理店を通じて選んだデザイナー候補者の中から、すでに昨年3月には1人に絞りこんでいたという。
 国宝彦根城築城400年祭の「ひこにゃん」を顕著な例として、マスコットキャラクターが大規模イベントに果たす役割は決して小さくない。なのに、なぜ公募もなく約1年も前にキャラクターを内定し、かつ公表しなかったのか。愛称募集でも盛り上がりに欠けることが懸念される。
 デザイン料や著作権料は500万円。前回の仏の手をイメージしたシンボルマークには1300万円をかけた。こうした出費の「説明責任」を、関係者は満足に果たしているだろうか。
                > 2月13日3時8分配信 産経新聞
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朝、連れ合いが新聞を見て「大変だ」という。
「すごいもんがマスコットキャラに選ばれた。これはひどい」
一目見て、わたしも絶句。なぜこんなものがキャラに選ばれたのか?

かわいくない、不気味だ、気持ち悪い。
という第一印象は、ひとまず棚に上げてみよう。
「好悪」の感情は人それぞれだから。
しかし、明らかにひどい。その理由を列挙する。

1 マスコットキャラの鉄則は、子どもでも簡単に描けるもの。
  このキャラは、複雑すぎて、描けない。もっと単純化できるはずだ。
2 県は、これを「童子」と言い張っているが、どうみても「仏さま」だ。
  白毫とふくよかな耳朶は「仏さま」であることの記号である。
  仏の頭に角とは、信仰の対象である仏さまにたいする侮辱ではないか。
  しかも「生えている」ではなくて「突き刺さっている」としか思えない。
  多くの人が「不快」と思う原因のひとつはここにあるだろう。
3 マスコットキャラであれば、携帯ストラップや着ぐるみなどに活用されるはず。
  しかし、これで、まともな着ぐるみが作れるのか?
  角が邪魔にならないストラップが作れるのか?
4 奈良と言えば「鹿と大仏」というのは、
  日本と言えば「フジヤマ・ゲイシャ」と変わらぬ固定概念。
  遷都1300年を誇る世界遺産に対して、余りにも安直な理解ではないか。
  奈良県を侮辱している。
5 この角は、鹿の角ではなく、トナカイの角。

1300年事業協会のコンセプトによると、これは
「悠久の歴史の中で奈良の地を守り育ててきた仁王さまや阿修羅、十二神将、
四天王などの使命を受け継ぎ、現代と未来を結ぶ新しいキャラクター」
だそうだが、であれば、仏の眷属である。「仏ではない」と言い逃れできない。
  
わたしの加入しているmixiというネット・コミュニティにも、
このキャラの衝撃が走り、日記に「気持ち悪い」と書いた人が続出している。
「こんなのが来たら、子どもが泣く」とも。

結局、すべては利権と金の闇のなかで決まっていくのか? 
それにのっかるデザイナーは、奈良といえば「鹿と大仏」的な発想しかない
人間だということなのだろうか。

荒井知事は「プロに任せた」と言っているが、
作者の籔内佐斗司氏は、優れた芸術家ではあるのだろうが、
マスコットキャラという広告制作物のプロではない。
また知事は「一部変更の予定はない」とも言っているが、
発表当日にそんなことを言うなんて、内部でもよっぽど悪評だったのだろうか。

とりあえずは平城遷都1300年祭の事務局に電話して、
知人のプロデューサーに文句を付けたが、彼は、
この選定の件には一切タッチしていないという。
じゃあ、誰が決めたんだ!

寮美千子は怒ってるぞ!

【遷都1300年祭マスコットキャラクターのコンセプト】
平城遷都1300年記念事業協会公式HPより
http://www.1300.jp/080212mascot/mascot01.pdf

交流と創造の舞台として、間もなく1300年の時を
刻もうとしている平城の都。
「平城遷都1300年祭り」のマスコットキャラクターは、
この地で育まれてきたエネルギーの化身として現代に姿を現しました。
その容姿は、奈良の守り神として多くの人々に親しまれている
鹿の角をたくわえた愛嬌のある童子のようないでたちです。
悠久の歴史の中で奈良の地を守り育ててきた
仁王さまや阿修羅、十二神将、四天王などの使命を受け継ぎ、
現代と未来を結ぶ新しいキャラクターの誕生です。
これからは、来たるべき2010年の祝祭に向けて私たちとともに暮らし、
まちのあちらこちらに出没して、訪れる人々を
事の様々な魅力に誘うとともに、
みんなで手を携えて奈良の新たな歴史を築いていく役割を担います。


■11 Feb 2008 お水取りの松明と「竹送り」/京田辺 自転車行顛末記


2007年3月14日のお松明3月1日から東大寺二月堂の「お水取り」がはじまる。

▼二週間ぶっ続け、141本の松明!

二月堂の欄干を巨大な松明を持って童子が走る様子は、毎年必ずニュースで放映されるから、知っている人も多いだろう。東京にいた頃、この映像を見て、松明が焚かれるのは一夜限りのことだと思っていた。お祭りのようなもので、一夜だけ、派手なパフォーマンスがあるのだと思っていたのだ。ところが、まるで違った。

「お水取り」の正式名称は「修二会」。ご本尊である観音さまに人類の罪を懺悔して、その加護を祈願するというもの。三月一日から二週間開かれる。松明は、夜毎に十本焚かれ、十二日の晩には特別に大きな「篭松明」と呼ばれる松明が焚かれるのだ。

つまり、二週間ぶっ続けで合計141本の松明が焚かれるというわけ。本来は、行のため二月堂に上堂する僧の足許を照らす明りだったというが、二月堂の長い階段を火が上ってゆく灯りが人気となり、徐々に大きくなって、今日の姿になったという。

その松明の大きさが凄まじい。長さは七メートル半、尖端には直径1メートルほどの木片などの塊がついている。これが燃えると、階段の天井や二月堂の軒を焦がさんばかりの巨大な火の玉になる。毎年見ても、見るたびにその火の勢いに圧倒される。

▼「竹送り」の復活

この松明の材料となる竹は、昔から各地より奉納されていた。奉納された竹を担いだり、大八車に乗せたりして、村落から村落へ、人々が手渡しながら運び、東大寺に届けられたという。運ぶこと自体がひとつのイベントで、運べば功徳があるといわれ、みな競って運んだそうだ。二月堂に参籠できない人々は、この竹にちょうど貯金箱のように刻まれた穴からお賽銭を入れたという。

この「竹送り」の行事は、昭和二十八年頃まで続いたが、その後途絶えてしまい、単に竹がトラックで運び込まれて寄進されるだけになっていた。このことを知った京田辺のアマチュアカメラマンの松村茂氏が、ぜひ復活させたいと力を尽くし、昭和五十一年、人々による「竹送り」が復活された。松村氏は現在、「山城松明講」という講の講社長となり、「竹送り」指揮を執っていらっしゃる。

▼自転車で行く!

というわけで、やっと本日の本題の「竹送り」である。毎年二月十一日、京田辺の竹林で伐採された根付きの竹七本が、二月堂まで運ばれる。奈良東大寺と京田辺の竹林は、25キロほどの距離がある。そのすべてを人力で引く、というわけにもいかないので、京田辺の竹林から、同地区の観音寺まで人力で運び道中の安全祈願。その後トラックで奈良阪まで運び、奈良坂から転害門を経て二月堂までが、再び人力で運ばれる。

いつか「お水取り」の絵本を作って、その本当の姿をみんなに知らせたい、と思うわたしは、この竹の伐採の場面から取材したいと前々から思っていた。そこへ情報が! 会員制サイトmixiで、竹送りの当日、奈良から参加するチームもあるとのことを、goutさんがコミュニティでお知らせしてくださったのだ。

ところが「車で集合」という条件ではないか! ああ、わが家には車といえば自転車しかないのだ。「大丈夫だよ。奈良坂を越えたら、後は下りだから問題ないよ」と相棒。奈良坂なら、毎月、刑務所まで自転車で行っている。あの坂を越えるのなら、わたしにもできるかも、とうっかり思ってしまい、自転車で行くことにした。

▼竹送りのスケジュール

東大寺のお水取りの松明の竹を、京田辺から奈良東大寺の二月堂まで届ける行事「竹送り」。現地のスケジュールは次の通り。

京田辺市観光協会
7:45  普賢寺大御堂観音寺集合
      【竹掘り起こし】根付きの竹を掘り起こします。
8:30  普賢寺 ふれあいの駅
      【大根焚き 接待】
9:00  普賢寺 大御堂観音寺(国宝・十一面観音菩薩安置)
      【道中安全祈願】
9:30  同寺 出発

▼行きはヨイヨイ

というわけで、無謀にも自転車で行くと決めたわたしたちは、朝6時にわが家を出発。まだ日も昇らず、真っ暗ななかの出発だった。一昨日に降った雪は、すでに融けていて、路面凍結もなく走りやすい。奈良坂まで15分ほど。ここまでは楽勝である。坂を上るのも、毎月していることだから、さほど苦ではない。刑務所を通り過ぎ、般若寺、奈良豆比古神社を過ぎると、道が急に下りになる。楽である。ビュンビュンである。

しかし、ここですでに悪い予感がした。奈良から上ってくるより、下りの方がずっと長いのだ。どんどん、どんどん下るのである。ああ、等高線のある地図をよく見ておくのだった、などと悔やんでも仕方ない。こんなに下ったら、絶対上れない!と思うが、自転車はビュンビュン降りているから、もうしょうがない。

奈良坂を越えると、急に気温が変わった。寒いのである。風景も違う。雪が残っていて、町も畑も、霜でまっ白だ。ああ、こちら側は寒いのだ、と知る。峠ひとつで、こんなに気候が変わるとは!

ぐんぐん降りていくと、やがて木津川の川辺に出た。ここには、立派な自転車道が整備されている。と、聞いていた。確かにそうだったが、この自転車道が非道なのである。絶対に自転車に乗らない人が作ったに違いない。堤防の上の、平らで見晴らしのいい道は、自動車のための道。自転車道は、その脇をひどくアップダウンしながら延々と続く。「体を鍛えよ!」という行政の親心か? 「歩道橋」などというものをつくって「人にやさしい町づくり」をしていると思っているのと同じセンスである。

早朝であり、自動車も走っていないので、坂ばかりの自転車道はパスして、自動車道を走る。堤防の上、広い川原も、町も、山並みも一望できて、実に気分がいい。やがて、青い山並の向こうから、朝日が昇ってきた。ああ、感動!

やがて、堤防の上の道は、未舗装の砂利道に変わってしまった。走りにくい。仕方なしに、自転車道を走る。道は河川敷に降りていって、そこをまっすぐに走っていた。眺望がなくなったのは残念であったが、川原の風景を間近に見ながら走るのも悪くない。ただ、道が所々凍結していて、少し怖かった。川原は、やはりかなり気温が低いらしい。

京田辺は、京都府でも奈良県に近い位置にある。「山城産」と書かれた京野菜が、奈良の八百屋にたくさん出回っているが、この辺で採れたものと納得。

川を離れ、京田辺の普賢寺地域へと向かう。が、ここからがきつかった。川を離れるということは、つまり上りである。ずっとだらだら上りなのだ。普段から体を鍛えていないわたしは、すでに疲れが出始めていた。そこへ、上りだからたまらない。超ノロノロ運転。これじゃ、竹掘りに遅れるのでは、と心配になったが、なんとか現地にたどりついた。時計を見れば7時半。約1時間半で25キロを走った。

農協の産物を売る「ふれあいの駅」では、もうお接待の大根炊きの支度が始まっていた。奈良から自転車で来たというと、感心されて「大根、食べていきなさい」と勧められたけれど、まずは竹掘りである。「もう何人か先に行っている」と言われて、そこから少し離れた竹林まで行ってみた。が、誰もいない。人の歩いた跡もない。ガセネタであった。

戻ると、幟を立てて「二月堂」の法被を着た一行が大通りをやってくるのが見えた。「あ、あれだ!」と慌てて一眼レフのカメラを出す。旧式のフィルムのニコンだ。ボディも2台用意して、標準レンズと広角を首からぶらさげる。さらに、ポケットに小さなテジカメ。しかし、長い距離走ってきて、指がすっかりかじかんでいて、なかなか思うように用意できない。もたもたしているうちに、一行は竹林へ。慌てて追いかける。

白壁の民家を過ぎ、ぐんぐん奥へと入る。「ほらこれ、シシだよ」と言われて見ると、竹の根本のほうに泥がついている。その下が、沼のようになっていて、ぐちゃぐちゃに踏み荒らされていた。イノシシが泥浴びをするヌタ場だそうだ。

細い笹のトンネルを抜けると、一面の竹林だった。無数の竹が青々と空に聳えている。天空から射す光が青く染まりそうなほどだ。

奈良には、あまりいい竹が生えないという。言われてみれば、奈良の風景には、竹林の印象が薄い。それが、奈良坂を越えて、木津川を走るほどに、立派な竹林が増えてきた。京田辺の普賢地区のこの竹林にも、太くまっすぐな、惚れ惚れするほど美しい竹が無数に生えている。

竹は、根付きのまま掘り起こす。なぜかと言えば、篭松明では、火を燃やす部分がとても重くなるので、バランスを取るため、根元を残しておくのだという。ノコギリで伐ってしまえば、あっという間だが、根から掘り起こすとなると、なかなか骨だ。竹の根はしぶとい。それをスコップで切りながら、数人がかりでやっと掘る。

掘った後が、またむずかしい。密生している竹のなか、倒し、運ぶのは、一通りのことではない。山城講の講社長の松村茂氏が、てきぱきと指示を出している。

そうやって伐りだした竹を、みんなで肩に担いで、山を下りる。そして、さきほどの「ふれあいの駅」へ。ここで大根炊きのお接待があり、参加者にふるまわれる。朝からずっと凍えるような寒さだったので、おいしく煮た大根と揚げは五臓六腑にしみた。

一息ついて、竹は近くの観音寺へと運ばれ、そこで僧侶により「道中安全祈願」がなされる。これが終わると、竹はトラックに積まれ、いよいよ奈良へと向かうのだ。トラックの出発までいては、自転車チームの我々は間に合わないので、祈願の終了を待たずに出発した。9時20分頃のことだった。

▼帰りはヨロヨロ

「ほんとうに奈良まで走れるのか?」という疑念が湧いた。大根煮で一息ついて体力回復をしたものの、ほんとうに大丈夫か? 最寄りの駅まで行って、自転車を置いて、電車で戻った方がいいのでは? しかし、いつ誰が自転車を取りに戻るのか? えーい、行くか。

奈良坂のコースはあまりに上りが続くので、絶対に無理。ならば、高低差の少ない歌姫コースへと迂回し、途中から「ならやま大通り」というバイパスを行くことにした。

ところが、高低差が少ないとはいえ、かなりのアップダウンの連続。ヨレヨレになって泣きながら上り、上れないところは自転車を押して歩き、なんとか奈良坂の般若寺の辺りに到達。しかし、時すでに遅し。そこにはもう誰もいない。トラックはとっくに到着して、竹引きは出発してしまったらしい。とほほ。

時計を見れば、11時過ぎ。竹送りの一行は、11時から転害門前で休憩中のはず。転害門では、奉納の太鼓や、お接待のぜんざいもあるというから、まだいるかもしれない。と、期待し、坂を下って転害門へ。

いたっ! 太鼓の音がドンドンと響き、お接待のぜんざいのテントの前には人がいっぱい。公式発表では、350人ほど集まったという。引かれてきた青竹には、墨で「家内安全」などの祈願の言葉が書かれ、門の前に置かれている。

撮影をしてから、ぜんざいの列の後ろに並ぶ。ところが、わたしのすぐ目の前で「もうお餅がありませーん」の声。「小豆だけでいいならどうぞ」というので、餅抜きのぜんざいをいただいた。ちょっと、とほほ。

並んでいるときに、goutさんが、わたしたちを見つけてくださった。mixiのコミュニティ「奈良きたまち*そぞろ歩き」の管理人をなさっていらっしゃる方で、この日が初対面。「オレンジ色のコートを着ていて、自転車」とお知らせてあったので、あの人混みのなか、わざわざ見つけてくださったのだ。感謝。

竹送りは転害門を出発。少年野球団の子どもたちの肩に担がれたり、大八車に積まれたりして、南大門を経て、二月堂へと向かった。

自転車で、先回り先回りしながら、写真を撮影。goutさんとも、行く先々でごいっしょする。よく晴れて、汗ばむほどの気候。幟を立て、竹を担ぎ、みんな、実に楽しそうなのだ。

昔は、もっともっと大きなイベントだったのだろうなあと思う。信仰心もあったから、別な意味での盛りあがりもあっただろう。竹は、今も昔も、京田辺だけではなく、あちこちから集められる。昔、よその土地から運ばれてきた竹が、京田辺を通るころには、お賽銭をいれるところがすでにいっぱいになってしまっていたと、松村さんが話してくれた。お賽銭を入れ、引かれていく竹を見送りながら、手を合わせた人々が、道々たくさんいたのだろう。

大仏殿再建時の柱引きもそうだが、無償で手伝った人々がたくさんいた。それは「使役された」というのではなくて、いまでいうボランティアだった。柱引きはお祭りのような騒ぎで、引けばご利益があると言われ、我も我もと引いたのだそうだ。その楽しげな様子が描かれた絵巻物を見たことがある。竹送りも、きっとそのようなものだったのだろう。

それにしても、松村茂さんという方がいらっしゃらなければ、この行事は消えたままだったのだ。それを思うと、背筋が寒くなる。そして、松村さんという方がいて、ほんとうによかった、と思う。伝統は、途切れてしまえばそれっきりだ。それを復活させ、未来へとつなぐのは並大抵のことではない。復活には、多くの人の力が必要だが、それとて、きかっけとなる最初の一人がいなければ、どうしようもないことなのだ。松村さんと、京田辺の人々に感謝!

というわけで、竹は無事二月堂の下に到着。なぜか「万歳三唱」でお開きとなった。

竹のやってきた道のりを、自転車ではあるけれど、わが脚で往復したのは、大変きつかったけれど、よかった。ああ、昔の人は、この距離を歩いて、人の手から手へと渡して運んだのだなあと、体に浸みるように実感することができた。

電子記録装置によると、走行距離は往復で52.3km、走行時間3時間38分、平均速度14.3km/hであった。いままでの最長走行距離が一日で35キロだったから、記録大更新だ。52歳にして自己記録更新である。エライ!

▼すてきなおまけ

終わってから、goutさんが「わが家でコーヒーでも」と誘ってくださった。goutさんはご主人とお二人で「奈良倶楽部」という小さなホテルをなさっている。以前から、前を通りかかることがあり、こじんまりとしたすてきなホテルだと思っていた。そのラウンジで、コーヒーを、とおっしゃってくださったのだ。

喫茶の営業はないので、ふらりとコーヒーを飲みに行く、というわけにはいかない。これはいいチャンス、とばかり、お言葉に甘えて「奈良倶楽部」へ。

道々、東大寺の講堂跡や正倉院の裏を通る。初めて通る道だった。そこから見る大仏殿の美しいこと、鹿たちの和やかなこと。いま、テレビでかかっているドラマ「鹿男あをによし」の原作小説では、この講堂跡ではじめて鹿に話しかけられる設定だそうだ。正倉院も、塀の隙間から見えると、はじめて知った。実にいい道だった。

「奈良倶楽部」は思った通り、というより、想像以上にすてきなホテル。まさに「cozy」という言葉がぴったり。すっきりしていて、細部にまで細やかな心遣いとすてきな趣味が息づいていて、実に居心地のいい空間だった。「お腹すいたでしょう」とおいしいシチューまでごちそうになってしまい、恐縮。恐ろしい自転車行のあと、すばらしい時間を持てた。感謝。

▼ヨレヨレ

というわけで、わたしは本日もヨレヨレ。脚は意外と大丈夫だったけれど、昨年事故で痛めてリハビリ中の首が、バリバリに。この頃、多少よくなったので、先日の雪の日に、自主的にバス停の雪かきをした。老人の乗り降りが多いので、滑ってはいけないと思ってのことだったが……。以来、痛かった首が、さらにバリバリ……イタタタタ。過ぎたるは、及ばないよりヒドイ。結果的には、反省である。


▼2007年11月の時の破片へ


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