▲2003年12月の時の破片へ


■30 Nov 2003 「月夜のパレード」執筆


門坂朋さんのイラストのための物語を創作。彼女の絵のモチーフを生かし、不思議なものがつぎつぎ繰り出してくる楽しい物語をと心がける。絵に寄り添って想像を広げるのは、楽しい。「月夜のパレード」を書きあげる。出版を考えて、ページ割りもした。

■29 Nov 2003 「詩と思想」座談会


食事を出すことはあきらめて、軽食にすることにした。自家製の胡桃パンとチーズ、星兎のドーナツとお茶だ。

ひどい雨の中、みんなが集まってくる。足を怪我してギプス姿の酒寄さんは、一時間以上も早く到着。司会の一色真理さん、東逸子さんもきて、座談会開始。わたしはみんなとよく会っているので、みんな互いに顔見知りだと漠然と思っていたけれど、わたし以外の3人は初対面同然だった。

「ファンタジー」という広いテーマなので、話は飛びに飛びまくった。911からテロの話題に至るまで、飛ばした張本人は、わたしかもしれない。一色さんは、いわゆる、いまの「ファンタジー・ブーム」についての話を軸にしたかったはずなのに、話が硬くなって申し訳ないことをした。まとめる一色さんの苦労が思いやられる。ごめんなさい。

■28 Nov 2003 門坂朋さん来訪


門坂朋さんが、イラスト・ファイルを持ってわが家を訪れる。明日のために用意した星兎のドーナツの試食?をしながら、楽しくお話しする。明るい、素直なお嬢さんだ。あっというまに3時間がたってしまった。

「きょうは朋さんが来る」と思うと、朝、寝床のなかで、もう物語が浮かんできた。金貨のように転がっていって、地面のスリットにストンと落ちるお月さまの物語。世界は巨大な自動販売機で、お月さまの金貨を入れると、不思議な物語がはじまる。その物語について、朋さんに話した。

「不思議! どうやってそんな物語を思いつくんですか?」と朋さん。
「きっと、朋さんがいろいろな形や色を思いつくのといっしょじゃないかな」
シーンは見えるけれど、わたしには上手に描けない。言葉で描くしかない。

明日は、わが家を会場に「詩と思想」3月号のための座談会が開かれるので、片づけと掃除をする。少しもはかどらない。

■27 Nov 2003 画廊「e-シエスタ」星野智幸賞


和光大学で「物語の作法」。圓山絵美奈さんの詩を合評する。午後、銀座へ。ガレリア・グラフィカで久保卓治氏個展。久保氏のお勧めで、資生堂ギャラリーで駒井哲郎個展を見て、画廊「e-シエスタ」に行く。星野智幸賞の結果発表があるというので、覗いてみた。星野智幸の短編から発想されるイラストやオブジェのコンテストだ。作品の程度は様々だったが、なにより元気があっていい。「現代美術」という位置づけがあるので、単なる挿画ではなく、そこから自由に想像力をはばたかせようという意志が感じられてすがすがしかった。「おひさま大賞」もこれくらい元気があるといいと思うのだが、そのように「はみだした」作品は、きっと審査会ではねられるだろう。わたしだけが推薦することになるのは、目に見えている。ある狭い範囲の作品しか評価しないので、そのような範囲を目指してちまちました作品が集まってくるという悪循環に陥っている。宮沢賢治が応募してきたら、きっと一次で落選するだろう。社会全体が、そのように不自由に狭苦しくなっているなか、このような自由度を獲得している「e-シエスタ」はえらい。滝田くんの人柄かもしれない。

■26 Nov 2003 マイケル・カウフマン講演「暴力を選ばない男になろう」


和光大学で、カナダから来日しているマイケル・カウフマン氏の講演「暴力を選ばない男になろう」という講演があるので、聞きに行く。カウフマン氏は、ホワイト・リボンという非暴力のキャンペーンをしている。ドメスティック・ヴァイオレンスからの脱却は、暴力をふるわれる側にとっても大きな問題だが、それ以上にふるう側にとっても問題だ。そのへんのところが、どのように語られるか、興味があった。

しかしながら、講演はジェンダー論の基礎講座、という趣き。知らず知らずの間に、われわれがいかに性差別の思想に汚染されているかを見直そうという話だった。わたしの期待とはずれてはいたが、このような話題を全学に向けてするのはいいことだと感じた。

■25 Nov 2003 Kくんにクリスマスの贈り物


昨年11月に生体肝移植を受けたKくん、胆管狭窄で、再び京大病院に入院。開腹手術を受けて入院中だ。インドへ行く直前に、これから入院するというKくんの顔を見に行ったのだが、いわれなければそんな病気があるとはわからないほど元気にみえた。「お守りになる石を持ってきて!」とおかあさんのサチコさんから頼まれていたので、卵の形をした紫水晶を買ってきた。クリスマス・プレゼントといっしょに、石を病院に発想する。Kくん、いまごろどうしているだろう。

■24 Nov 2003 仕事計画立てる


雨。家の片づけ。志も新たに、仕事計画立てる。漠然と頭の中にあったが、書き出してみると、たくさんの仕掛かり仕事があることに気づく。ともかく、ひとつひとつ片づけなければ。

■23 Nov 2003 誕生日


誕生日。実家に電話して感謝の言葉を述べる。あと丸2年で生まれて半世紀だ。おろおろしているうちに、時は飛ぶように過ぎていく。50歳になるまでに、もう少し形になるものを残さなければと思う。

相棒が海洋堂のおまけが欲しくて買った「チョコQ」のチョコが大量に余っていたので、チョコレートケーキを焼く。バターもたっぷりはいって、恐ろしいほどの高カロリーなケーキが焼きあがる。しかし、おいしい!

■22 Nov 2003 メガスター@川崎市青少年科学館


川崎市青少年科学館にメガスターを見に行く。現地で野川和夫氏と娘の菜摘ちゃんにおちあう。菜摘ちゃんは11歳。幼稚園の頃、わたしの『こっぺくん ほっぺ』や『たんぽぽらいおん』の絵本が好きで「あたしが呼んであげる」と絵本を開いて読んでくれたのをなつかしく思い出す。あの頃、ゴム鞠のようにまあるく弾んでいた子は、いまでは子鹿のようにすらりとしている。けれども、元気はそのままで、すぐに走りだし、気がつくとするする木に登っている。

メガスターは、機材をドームの中心に据えることが出来なかったためか、東急文化会館で見たときよりも、その美しさがちょっと出きっていないように感じられた。それでも、すばらしい星空だ。

来年3月の市民祭りでも、メガスター上映が決まっているという。そのときのために、野川さんとふたり、番組をつくらせてもらえないかと若宮館長に打診。制作費ゼロのボランティア・ワークだが、メガスターでどんなことができるのか、ぜひこちらからプレゼンしたいとお願いしたところ、快く承諾してくださった。プラネタリウムに新しい番組が必要だと理念を述べるだけではなく、少しずつだが、理念を現実にしていきたい。

制作予定は2本。一本は、川崎市青少年科学館の若き学芸員若宮さんと大平少年の交流の中からメガスターが育っていったという「メガスター物語」。もう一本は、メガスターの美しさを存分に味わえる番組にしたい。がんばらなくては。

■21 Nov 2003 「さくらえん」ラフ届く


帰国後、なかなかゆっくり休めない。「さくらえん」のラフ、直しが届く。「詩的な言葉を大切にしたい。あまり説明的な画面にしたくない」という画家さんの意向が伝えられる。しっかり受けとめてくれていることがうれしい。画家さんの思うように描いていただくことにした。

■20 Nov 2003 門坂朋個展


和光大学授業
和光大学で久しぶりの授業。みんなにインドのお土産を渡す。きょうは、杉作くんの短歌の批評だった。授業の後、学生食堂で村山先生にばったり会い、インド旅行の顛末を語る。「わかります、わかります」と村山先生。

門坂朋個展
門坂流氏のご令嬢の朋さんの個展を見に千駄ヶ谷へ。奇妙な味わいのある個性の強いイラストレーションだ。「ファインアートっていうのとはちょっと違うし、だからといってイラストレーターとしてやっていける、っていうのとも違う。中途半端なところにいるね、っていわれるんです」と朋さん。確かに、挿画家として使おうとすると、個性が強すぎてむずかしい、使いにくい作家かもしれない。しかし、だからこそ面白くもある。こんな作家を使いこなせない業界の側こそが力不足なのだと思う。

朋さんの絵を見ていると、物語が溢れてくる。だから、言葉など必要ないのかもしれないけれど、物語があって一冊の絵本としてまとまれば、ギョーカイも商品として扱いやすいだろう。そう思って、朋さんに絵本にするための物語を書きましょうと申し出た。物語のための絵ではなく、絵のための物語。画家が描きたい世界に寄り添って物語を書く。以前からやってみたかった仕事だ。朋さん、快諾してくれた。楽しみである。

▼画廊「e-シエスタ」訪問
銀座の喫茶ウエスト2階にある小さな画廊「e-シエスタ」を訪れる。ここのオーナーの滝田英一郎君は、20年ほどまえ、横浜子ども科学館設立の仕事の時、手伝ってもらった人だ。インドから帰ってみると、メールが届いていて、今は現代美術をやる小さな画廊のオーナーになっているというので、さっそく来てみた。

当時と少しも変わらない長身のすらっとした青年が滝田君だった。雰囲気もそのままだが、当時よりずっと落ちついたいい感じだ。画廊はこの23日で丸2年になるという。単なる画廊ではなく、いろいろな企画をして音や言葉と現代美術のコラボレーションをしてきたそうだ。「あれから、デザイナーやイラストレーターをやってきましたが、こんなふうに人と人を結びつけて新しいものをつくってくのが、自分にいちばん向いているみたいです。経済的にはカツカツだけれど、いまは、とっても楽しい」と滝田君。手応えある人生を生きている実感が伝わってきた。「池袋の西武の書店にいったら、寮さんのコーナーがあって、ああ活躍してるんだって知ってメールしたんです。なにかいっしょにできたらいいなと思って」とのこと。ネットは、人と人をたやすく結びつけてくれる。ネットのお陰で、滝田くんとも20年ぶりに会えたようなものだ。うれしい。

■19 Nov 2003 横山氏ご葬儀



和子さんのご主人の葬儀がご自宅でいとなまれる。お見送りはいつも悲しい。娘さんご夫妻から「これからも母をよろしく」と頼まれる。こちらこそよろしくの気分だ。みんなが焼き場にいっている間、葬儀屋さんの片づけがあるというので、留守番をする。


午後三時より、フレーベル館の編集者と打ち合わせ。いままで、電話とメールでしか仕事をしてこなかったので、一度顔合わせをと相模大野まで来てくれた。駅ビルのアジアン・カフェで会う。落ち着いた声に似合った、素敵な女性だった。キンダーブックの3月号に掲載予定の「さくらえん」のラフを見せてもらう。絵は、ベテラン画家の篠崎三朗氏。作品を深く理解して描いてくれるのがうれしい。以前から決まらないで困っていたすずき出版の「すてきなすてきなアップルパイ」の絵も、篠崎さんにお願いすることにした。

■18 Nov 2003 『漆芸―日本が捨てた宝物』書評執筆


▼漆芸関係の本の書評を書く
さっそく、急ぎの書き直しをする。『漆芸―日本が捨てた宝物』の書評。海外の収蔵家のお宝漆器を修復してきたさすらいの修復師・更谷富造氏の本だ。

最近、漆芸に興味が向いている。きっかけは、昨年、骨董市で奈良漆器の文庫を入手したこと。天平の典型的な模様である鳳凰柄の螺鈿漆器だったが、持ち帰る途中、相棒が自転車から落として壊れてしまった。大阪の老舗で売られたものと素性がわかっていたので、修理を依頼。修理の出来るところが、漆器のいいところだ。大阪では、奈良に修理に出したという。

以前にも京都の鳩居堂本店で、同じ鳳凰柄の文庫を手に入れたことがあって、奈良漆器の存在は知っていたが、実物を見たのは鳩居堂本店と町田の骨董市のみ。実際にどこに職人が居て、作品がどこで売られているのか、まったくわからない。興味を持って奈良を訪ねた折に探し当てたのが、樽井禧酔氏だった。今年の3月のことだ。

以来、高松の博物館で、丸亀に実家のある相棒の家のお蔵にしまわれていた象谷作の香合を鑑定してもらったり(贋作だった)、作品展を見たりと、ずいぶん多くの漆器を見てきた。そこで知ったのは、現代日本の漆器業界の衰退ぶりと、かつての日本漆器の驚くべき水準の高さだった。もちろん、いまでも優れた作家はいるが、ごく限られている。樽井禧酔氏や、先日お目にかかった人間国宝の大西勲氏は、わたしが知るそのごく限られた優れた作家に入る。しかし、事実上の一匹狼として活動している彼らが、経済的に恵まれているとは限らない。主流となっている日本伝統工芸展や日展の作家の多くは、漆芸本来のダイナミックな力を失っている。

そんななかで出会った更谷氏の著作だった。日本漆器界の因習に捕らわれないところで、独自に活躍をしてきた更谷氏の視線は新鮮だ。更谷氏は現在、帰国して、北海道の美瑛にアトリエを構えている。ペンションを経営しているというので、いつかいってみたい。

http://kunst.at.infoseek.co.jp/

■17 Nov 2003 横山忠博氏ご逝去



和子さんのご主人が昨晩お亡くなりになったと知らせがある。「あなたがインドから帰るのを待っていたのよ」と和子さん。長く病んでいらして、時々お見舞いに行って世間話などをしたのだが、もっと頻繁に足を運べばよかったと悔やまれる。ご冥福をお祈りする。

和子さんは、これから独り暮らし。おじさまがずうっと入院なさっていたので、いままでも独り暮らしだったが、やはりずいぶんと心持ちが違うだろう。和子さんは80歳になるが、東京家政大学を出ていらして、家事全般、なんでもできるスーパーウーマンだ。これからもわからないことなど聞いて、どんどん頼ろう。


帰国の連絡をあちこちにする。まだ旅の興奮がさめやらないのか、ゆっくり休むという感じにならない。出発前に共同通信に渡しておいた「押し売り」の書評、採用が決定していたが、字数が多いので書き直し。急ぎだという。

■16 Nov 2003 インドより帰国


▼和食が恋しい
朝8時17分、成田着。灼熱のインドから日本へと戻る。インド行きはこれで4度目だし、他にもずいぶんと旅をしてきたが、今回ほど日本に帰りたいと願ったことはない。インド人とのカルチュラル・ギャップというよりは、むしろ今回の旅のリーダーであるドイツ人教授とのギャップが堪えたのだ。毎日1リットル半牛乳を飲むという見上げるほどの体躯の持ち主とは、第一、基礎体力が違う。彼のスケジュールで動くことは、わたしには不可能に近かった。数名のチームなら、それでも個人行動が許されるが、12名ともなれば、やはり団体に合わせなければならない。先を急ぐからと、バス走行中のトイレもままならず、昼食も抜きで現地に到着、午後2時からの炎天下に石窟を求めてきつい山登りをするというプログラムに、早々に音をあげた。これが2週間続くのかと思うと悪夢のようだった。そして、ほんとうに2週間続いたのだ。同行した酒寄教授は、途中アキレス腱を切って帰国。過労による事故であることは間違いない。学生諸君もよれよれだったが、幸い大きな事故や大病人が出なくてよかった。

どっちにしても、わたしは団体行動に向かないとつくづく思い知らされた。膀胱の不調でトイレが近いといったハンディがあるから、なおさらだ。結果的に、団体に迷惑を掛けることになる。しかし、である。トイレ休憩といっても、事実上どこでもできるのだから5分もかからずにバスに戻れる。度々トイレといったって、午前中2回、多くて3回程度だ。たったそれだけの時間を惜しまれるというのはどういうことか。旅の後半は、トイレに行きたくなるのが恐くて、朝食もとらず、紅茶も水も控えてしまった。

 海外で和食などついぞ恋しくなったことのないわたしだが、今回ばかりは違った。空港まで迎えに来てくれた相棒とともに帰宅。まずは大根の味噌汁を作ってもらった。夜も、塩鮭、小松菜のお浸し、豆腐とワカメの味噌汁にごはんという、典型的和食。ほっとした。やっぱり根っこは日本人なのかもしれない。


ご近所のおばちゃま和子さんに帰国の電話をしたところ、お孫さんが出て病院に詰めているとのこと。おじさまの具合が悪いらしい。さっそくお見舞いにいくが、面会謝絶で会えない。

■ 1 Nov 2003 インド旅行


和光大学フィールドワークでインド・マハシュトラ州の石窟寺院探訪。山中の小石窟寺院と、エローラ、アジャンタを巡る。リーダーは、インド美術専門のドイツ人教授ヨアヒム・バウチェ氏。他、酒寄進一教授、わたし、学生9名の総勢12名。酒寄氏、途中事故でアキレス腱負傷して、帰国。過酷な旅であった。

▼2003年10月の時の破片へ


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