ハルモニア Review Lunatique/寮美千子の意見

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■「鴎外=ナウマン論争」から日本文化を考える

Tue, 19 Oct 2010 17:49:37

○○○○を平仮名5文字で表すと…【 ○ ○ ○ ○ ○ 】というアプリが面白い。
http://shindanmaker.com/47700

日替わりでランダムに出てくるようで、
先日は
寮美千子を平仮名5文字で表すと…【 も て あ ま す 】
本日は
寮美千子を平仮名5文字で表すと…【 い な か も の 】
と出た。

というところで、ふと思った。
森鴎外とナウマン博士がドイツで論争した件。
結局の所、ナウマン博士に
「何から何まで西洋人の猿まねをして、この田舎者!」といわれたと、
鴎外が感じて憤慨した、というのが真相ではないか。

自分の所属する地域や文化に誇りを持つ者は「田舎者」ではない。
その地域が、都から見てどんな辺境にあったとしても、だ。
あの時代、日本は日本であることを恥じていた。
そして、西洋の猿まねをして「追いつけ・追い越せ」を目指していた。
チョンマゲを切り、洋装をして、鹿鳴館でダンスに明け暮れた。
それが「文明開化」だと信じて。

ナウマン博士は次のような趣旨の発言をしている。
「新しいものをとりいれるのはいい。
しかし、古い木を根こそぎにして、新たな苗木を受けるのはいかがなものか。
むしろ、古い木を大切にし、そこに接ぎ木するべきではないか。
このままでは、日本文化の未来がどうなるか、心配である」※1

そして、こうなった。このような無惨な結果が待っていた。
ナウマン博士は、まったく正しかったし、まともだった。

物の本には、ナウマン博士のことを「根深い人種差別主義者」
などと書いてあるが、見当違いだと思う。
彼は、ドイツに戻ってから、かぐや姫を下敷にした「神の啓示」という
オペラの台本さえ、書いているのだ。
どれだけ日本文化にシンパシーを持っていたか。

しかし彼は、日本オタクとなって、
日本のすべてを美化したわけではなかった。
科学者であったことが、
ナウマンを二人目の「小泉八雲」にしなかったのかもしれない。※2
ある部分は、そのありのままを語った。
それが、ますます鴎外の逆鱗に触れることになった。

逆鱗とは、多くの場合、コンプレックスの集結する場所を意味する。

鴎外は明治時代のエリート。
官僚であり、偉大な文学者であった。
「神国日本」を信じていた戦前の子どもたちのように
「文明開化」を心から信じていた。それこそが、正しい道だと。

日本人の中には、こんな「立派な鴎外」に対する畏敬の念があり、
お雇い外国人であるナウマンごときとの論争となれば、
「正しいのは鴎外」であることを自明とし、
ナウマン博士を必要以上に貶めることになったのではないか。

ナウマンの日本観を「皮相的」といい、彼を「人種差別主義者」に
仕立て上げたのは、日本人自身のエリート崇拝主義であり、
西洋コンプレックスであったのではないか。

さて、2010年の日本国。
ナウマンの憂いは、杞憂ではなかったことが証明されている。
鴎外たちエリートが作った国の末路が、いまの日本の姿だ。

「和風総本家」や「仏像マニア」が大流行し、
右翼的な「愛国」の声がバカに大きいのも、
文化的な孤児となった日本の「母恋」の行動なのかもしれない。
(和風趣味や仏像めぐりは、
すでにガイジンとなってしまった日本人のオリエント趣味、とも読みとれるが)

しかし、ではさて「日本」の起源(オリジン)を
どこに求め、どこまで遡るか。
戦前の「愛国主義」など、アイディンティティの根拠としては
あまりにも近すぎ、うすっぺらで頼りない。
それはすでに「文明開化以降」の物語なのだから。

平城遷都1300年。
国家の起源は大和朝廷まで遡らなければならない。
しかし、そこまでいけばまた、当時の「文明開化」つまり
「大化の改新」が待っているのだ。
遣唐使船がもたらした大陸の文化が日本の礎を作った。

ということになると、古墳時代以前、弥生以前、
縄文にそのルーツを求めたくなる気持ちもわかる。
しかし、縄文文化のどれだけのものが、今の日本に伝承されているか。

そこで、安易に担ぎ出されるのが「アイヌ文化」である。
移入された西洋文化にうんざりし、
かといってお茶お花俳句短歌といった
ヒラエルキー的お稽古世界も違うと感じている母恋の文化的孤児は、
自らをアイヌに重ねてみるのである。

しかし、アイヌと縄文の文化の因果関係はわからず、
アイヌ文化自体が、鎌倉期以降出現した文化であることを鑑みれば、
それがあまりに無理な方法論であることは明白だ。

というわけで「縄文、縄文」と声高に言うのだが、
だいたい、縄文人の世界観でさえ、ほんとうのところ、よくわからない。
だからこそ、縄文は、妄想の投影場所として最適なのかもしれないが。

さて、わたしたち漂流するニッポン丸はどこへ行くのか。

平城遷都1300年と、奈良は浮かれている。
浮かれているのは誰か?
庶民を置き去りにした、セレブな1300年祭である。
そのフォーカスしているところも、日の当たる側面のみ。
天平の政権闘争の暗部や、庶民の歴史には触れようともしない。

1300年祭がしらける一方で
民間の力で驚くほど盛り上がった「奈良アートプロム」。
庶民の底力を感じた。

天平の昔、大陸の文化を猿まねして採り入れ、
やがてそれを醸造して独自の日本文化を作っていったように、
わたしたちはいま、そのように流入した文化をミックスし、
融合させ、新たななにかを作っていく時なのかもしれない。

だがしかし……インターネットですべてがつながるこの時代、
あらゆる境界線は融け「地域性」は、場所ではなく、
人の興味の的、つまり蛸壺的オタク集団に帰属していくのかもしれない。
という予測も可能だ。

とはいえ「現代美術」を謳った「奈良アートプロム」が
いわゆる現代美術を越境して、多くの人々を巻き込んだのは興味深い。
こんなところに希望はあるのかもしれない。

奈良アートプロムを平仮名5文字で表すと…【 ま し な ほ う 】

おっと。もっと高い評価が出ていいのに。
明日また、やってみよう。

※1 「若き日の森鴎外」小堀桂一郎著P253〜254 ナウマンの森鴎外への反論より抜粋
もしその国民が盲目的模倣におぼれて全く異質な外国文化の腕に身を投じ、自分自身の歴史、自分自身の文化の以て範とすべき規矩を忘れるとしたら、それは強化ではなくて弱体化を意味するのではないか。日本人はその過去を恥じる必要は少しもないのに、自分たちの過去を思い出したがらない日本人が残念ならが余りに多いのではないか。日本国民はその古き健康な基盤の上に腰を据えた上で、これから先の一層の進歩をはかるべきである。だいいちそれは全く新しいところからやり出すよりも、はるかに安全度の高い道なのである。良き古き習俗が滅びるとき、それに代わってよりよきものが登場してくることは滅多にない。一民族を強壮にするのは習俗の力であり、この強さは日本国民自身のうちにあるのであって、西洋人から借りてきて来得するべきものではない。破壊によってもはや取り返しのつかぬ喪失を招くものをなお敢て破壊することの危険を警告するために、私はもう一度、先に用いた事例を思い出して頂きたく思う。深く強く根を張った太古からの歴史の幹を掘りくつがえして新しい植物を植えようなどとしてはならない。むしろ新鮮な、しかるべき若芽を接ぎ木して、古い幹を若返らせるように務めるべきなのである。
※2 ナウマン博士の授業の記録を取った学生のノートには
 「能満博士」と書かれている。

補足1:
実際のところ、「日本らしさ」復権のためには、
文明開化以前の江戸期の庶民文化あたりにフォーカスしてみるのが、現実的かもしれない。
資料も豊富だし、その心意気も、まだどこかに廃れずに流れているかもしれない。

補足2:
時代は下るが、宮澤賢治はその点「田舎者」ではなかった。
賢治全集を編纂した高村光太郎は、こういう。
内にコスモスを持つ者は世界の何処の辺遠に居ても
常に一地方的の存在から脱する。
内にコスモスを持たない者はどんな文化の中心に居ても
常に一地方的の存在として存在する。
岩手県花巻の詩人宮沢賢治は稀に見る此のコスモスの所持者であつた。
彼の謂ふ所のイーハトヴは即ち
彼の内の一宇宙を通しての此の世界全般の事であつた。
賢治は花巻方言で詩を書き、童話も書いた。
民話をアレンジもして、民話的世界をありありと再現した。
のみならず、彼は自分の立ち位置を一地方としてではなく、
宇宙の中の一地点として捉える感覚を持ってた。
正しく強く生きるとは
銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
これは自分の居場所を宇宙の中心と位置づける「中華思想」ではなく、
むしろ、すべての場所が聖なる場所であるという「汎神思想」に近い。
このような思想においては、中心も周縁もなく、結果として「田舎者」は存在しないことになる。


■「みよんこの神」考

Mon, 11 Oct 2010 01:30:15

柳田國男『遠野物語』のなかに、オシラ遊ばせで唱える詞が登場する。

  みよんこみよんこみよんこの神はとだりもない。七代盲目にならばなれ。

この言葉の意味がわからなかったが、友人が、こんなサイトがあると教えてくれた。
オシラサマ
「ミョンコ ミョンコ ミョンコの神はドダリもない。7代メクラにならばなれ」(紫波郡誌)

「ミョンコ」は妙音講のことで、自分の信仰の神様の名前を言っております。
「どだりもない」は「尊くない、大したことない」の意味で神様を怒らせて、強い霊験を得ようろするもののようです。
「みよんこ」とは妙音講。
妙音講とは、もともと妙音天を祀って供物を供え、
琵琶(びわ)などを演奏した楽人たちの集会のことだった。
おそらく門づけをして音楽を奏でる瞽女たちが、
この妙音天を祀って、瞽女の集会をそう呼ぶようになったものと思われる。

瞽女は盲目の女たち。イタコも霊の口寄せをする巫女で、多くは盲目の女性。
盲目の女の子を産んだ親たちは、生きて行く術としてイタコ修業をさせた。

さて「みよんこ」の謎解きはできたが、では「とだりもない」とは?
遠野の人に聞いてみたが、意味がわからない。
そこで、古語辞典を引いてみた。
とだ・る 〈「富み足る」または「照り輝く」の意味か〉
豊かに富み栄える。
「天つ御子の天つ日継ぎ知らしめす―・る天の御巣」(神代記)
これを名詞形にすると「とだり」になるか?
神さま系に使っていること言葉なので「とだる」と関連の可能性も高い。
つまり上記解説のように「尊くない、大したことない」の意味か。

「妙音講の神は大したことない」と悪口を言い、
「七代盲目にならばなれ」と言い放つことで、
神を挑発し、強い霊験を得ようとする呪文なのかもしれない。

この呪文が「オシラ遊ばせ」という、
「子ども」のイメージが中心にある儀礼のなかで歌われた、
というのは、興味深い。
子どもであれば、そんな悪口も平気で言うだろう。
そんな罰当たりな悪口も、オシラ神なら笑いながら許している。
そこに「子どもであること」として限りなく許される聖域が出現している。
オシラ神は、子どものすることなら許す、
子どものイタズラを叱った人に祟る、という側面があることは、
『遠野物語』にも繰り返し描かれている。

その一方で、悪口を言って神さまの気を引く、という挑発行為は、
一歩間違えば大変なことになる危ういものだ。
その「怖さ」も秘めた呪文だといえるかもしれない。

知れば知るほど、興味深い。

【参考】
デジタル大辞泉
みょうおん‐こう 〔メウオン‐〕 【妙音講】
妙音天を祭って供物を供え、琵琶(びわ)などを演奏した楽人たちの集会。

妙音講と瞽女式目

瞽女
瞽女さん
 瞽女(ごぜ)とは、三味線を携えて村々を旅し、語り物・流行唄・民謡などを歌い歩いた盲目の女性を中心とした女旅芸人のこと。370年以上の伝統を持つといわれ、室町時代に鼓を打ちつつ曽我物語などを語る盲女がいたことが始まりではないかといわれている。その後、沖縄から三味線が伝わり盲目の琵琶法師たちによって改良され普及し始めると、彼女達はいち早くそれを取り入れ盲目の女性だけの芸能集団を作り上げた。近世に入り、城下町を中心に諸国で地域的なまとまりのある瞽女の自治集団が形成されていく。江戸期には全国的に瞽女の姿を見ることができた。やがて、いく度もの繁栄と衰退を繰り返し明治以降に衰退の一途を辿る。それでも越後地方においては昭和の時代まで栄え、昭和52年に瞽女が最後の活動を終えるまで続いた。新潟では長岡市と高田市を中心に数多くの瞽女組があった。明治20年代には長岡組が400人近く、明治34年に高田組が97人の瞽女を擁していた。

▼関連文献
日本庶民生活史料集成(17)谷川健一 他
瞽女縁起・瞽女式目・越後高田瞽女歌・越後加茂の瞽女口説

■朗読用原稿「ラジオスター・レストラン」@金沢「茶房犀せい」2010/5/6

Thu, 06 May 2010 00:10:27

「ラジオスター・レストランへようこそ。ずっときみを待っていたんだ」

1■高原列車

 琥珀色の光をいっぱいに満たして、二両編成の小さな汽車は、ゆっくりと勾配を登って行った。
 ぼくは、ヴァイオリンのケースを膝に抱え、擦り切れたビロードの座席に腰掛けていた。

 星明りに照らされた森が、黒い塊になって走り過ぎる。森が途切れると、一面の牧草地が広がる。草は、露を含んでいるだろうか。羊は、眠っているだろうか。
 ああ、ぼく、ほんとうは羊飼いになりたかった。そうしたら、毛の長い犬といっしょに一日中羊を追って暮らそう。夜は草のなかで星を数えて眠る。遠い昔の羊飼いたちのように、ぼくも、星をつないで星座をつくろう。
 どんな星座がいいだろう。星の渦は、光のホルン。天の釘を廻りながら、子熊は、銀の太鼓を叩く。銀河に浸るヴァイオリンは、見えない水の弓に弾かれる。

2■星船

 <ドン・ドドン・ドドン・ドンドン>
「星船だぁ」
「星船が来るぞうっ」
 たいまつに火が灯る。火は、生き物のように伸びて、右と左から広場のぐるりを這い、反対側でつながってひとつの大きな環になった。
 これなら、空からでもはっきり見える。巨人の魂は、この火の環を目印に、町に帰って来るんだ。

 町にはこんな伝説があった。大昔、まだ海もなく、地上は岩だらけで草も木も一本もなかった頃、流れ星といっしょに、巨きな石の卵が降ってきた。卵は割れて、なかからとてつもなく巨きな赤ん坊が生まれた。赤ん坊は、山の頂からほとばしる熱い溶岩をお乳にして、ぐんぐん育った。そいつの吐く息は、風や雲になって地上に雨を降らせ、雨は溜って海になった。そして、気の遠くなる時間が流れた後、赤ん坊は年老いて、どうっと倒れ、死んだ。
 巨人の骨や歯は、地下に眠る金や銀になった。ふたつの目は、宝石になって砕け散った。そして、その大きな体は、やわらかな土になった。髭や髪の毛の一本一本が、あらゆる種類の草や木になり、その時から地上は、溢れる緑の大地になったんだ。
 巨人の魂は解き放たれて、空に帰っていった。
 けれど、年に一度、流れ星の晩に戻ってきて、野原や森の緑をめで、祝福の星をたくさん降らせて、また空に帰るんだ。
 
「星船だぁ」
「星船が来るぞうっ」
ほら、聞こえてきた。太鼓の音だ。
 <ドン・ドドン・ドドン・ドンドン>
ああ、あれは、宇宙の鼓動だ。

3■天文学者 モリモ博士のお話

 さて、みなさん。誰よりも遠くを見たい人、みなさんは、それを誰だと思いますか。それは、天文学者です。

 遠い昔、天文学者は、自分のふたつの目で空を見ました。そして、星の運行を調べたり、その仕組みを考えたりしたのです。
 その頃は、誰もがこの地球が宇宙の中心だと思っていました。地球の回りを太陽や月や星がめぐっているのだと思っていたのです。ですから、星の動きを模型につくろうとすると、とんでもなく複雑でむずかしいものになりました。たくさんの歯車を使ったそんな天球儀が、いまも残されています。

 望遠鏡が発明されると、天文学者は、それを空に向けました。すると、目で見たよりもずっと遠くの星まで見えるようになりました。白く煙って見えた天の河が、ほんとうはたくさんの小さな星の集まりであることもわかりました。
 星の動きをよく調べると、太陽が地球の周りを回っているのではなく、地球が太陽の周りを回っているということもわかったのです。そう考えると、星の運行の仕組みも、驚くほど簡単でわかりやすいものになりました。

 けれども人々は、容易に信じなかったのです。やさしく単純な真実よりも、歯車だらけのむずかしい理屈の方が、ずうっと本当らしく思えたのかもしれません。

 天文学者は、もっともっと遠くを見たいと思いました。とうとう、直径が二百インチもあるレンズを磨き上げました。
 これで見えるいちばん遠くの天体は、そこから光が飛んでくるのに十億年もかかる遠方です。十億年前に出発した光を、わたしたちはいま見ているのです。

 距離は、時間です。遠くを見るということは、昔を見ることなのです。誰よりも遠くを見たい天文学者は、誰よりも昔を知りたい空の考古学者なのかもしれません。

 みなさん、草原で星を見上げてごらんなさい。わたしたちは、まるで、いろいろな時間をいっぺんに見ていることになるのです。

(だからわたしたちは、いろいろな時間のなかに、いっぺんに存在しているのだ)

4■スペースコロニー育ちの音楽家 ユーリ・ロッセから
  若き日のモリモ博士への手紙

 お元気ですか、モリモくん。
 ぼくが地球にやってきてから、もうずいぶん月日が経ちました。ぼくは、その間、数え切れないほど旅をしてきました。一年の半分以上は、旅でした。あちこちの国で、演奏会を開いたのです。
 はじめは、ただもう忙しいばかりでした。けれども、旅にも慣れてくると、いろいろなものが見えてきたのです。

 たとえば、音楽です。砂漠には、砂漠の渇いた音楽が、霧の国にはひっそりと大地を包むような音楽が、そして、南の島には、そこにしかない激しいリズムがあるのです。もちろん、楽器だって違います。奏でる人たちの日々の暮しぶりも、ものの感じ方も違います。そして、みんな違いながら、どこか深いところで通じあい、そのどれもが、比べようもなくすばらしいものなのです。

 もちろん、スペースコロニーにも音楽はあります。ぼくがことに心を惹かれたのは、天体の音楽でした。遠い星や星雲からの光や電波を音に変え、ぼくはいろいろな音楽を作りました。ぼくは、夢中になりました。宇宙の音楽に浸るのだと思いました。

 ところが、どうでしょう。ぼくらの足元にあった、たったひとつの惑星が、あらゆる宇宙の音を合わせたよりも、もっと多様な音楽を生み出しているではありませんか!
 森では小鳥が歌います。小鳥といっても、スペースコロニーのように、雀と鳩だけではないのですよ。信じられないことですが、地球には八千六百種もの鳥たちがいて、そのどれもが、違うさえずりを持っているのです。
 生き物ばかりではありません。風は見えない弓になって木の梢を奏で、雨は楽しげに地面を、木の葉を、水面を叩きます。森は、ひとつの大きな楽器です。
 いいえ、地球がまるごと、楽器です、風の音、波の音、雷の響き。海も空も、砂漠も草原も、鳥も虫も、獣も人も、それぞれの音楽を奏でます。街の雑踏も、子どもたちの声も、ぼくにはいとしい響きに聴こえてなりません。この地球では、すべてが音楽なのです。

 ぼくはもう少し、この音楽に身を浸したいと思います。またお便りします。 お元気で。
                                   ユーリ・ロッセ

5■火の魚

 火の海だ。いや、光の海だ。ぼくは、その海だ。まるでもう、小さな粒になり、いっぱいに漂っている。
 なんて眩しいんだろう。なんて熱い、巨きな、巨きな力。
 ここは、どこだろう。太陽だろうか。
 嵐だ。炎が一面に渦巻く。
 ああ。
 そうだ。思い出したぞ。ぼくは、燃え盛る星のなかで生まれた。たくさんの原子たちとともに。
 ああ、また嵐だ。
 一面に散乱した「ぼく」のひと粒ひと粒のなかから、力が湧き上がり、留めようもない。ぼくは、炎の海から巨大な爆発とともに飛び上がる。
 すると、飛び出したその尖から、ぼくは、魚の形になった。
 ぼくは、火の魚だ。地球をいくつも飲み込むような、巨きなアーチを描いて舞い上がる魚だ。
 その尾が光の海から離れた瞬間、ぼくは、はっきりと意識を持った。生まれたばかりの魚。ぼくの形。ぼくの心。光の海から切り離されてある、たったひとりのぼく。ああ、なんて眩しい時間!
 けれども、次の瞬間、ぼくは、頭から光の海に飛び込んで砕け散った。ぼくの体は、幾億の炎の破片になって、花火のように舞い上がる。
 ああ、どうだろう。そのかけらのひとつひとつが、確かに魚の形なのだ。ぼくは、まるで、いっぺんに幾億の魚なのだ。
 ぼくは、幾億の魚の目で、それぞれに違う光の海を見て、それぞれに違う音楽を聴いた。
 途方もない時間のなかで、ぼくは、何回そうやって生まれ、また海に戻っていっただろうか。
 そのひとつひとつが、すべて違うぼくだった。ひとつとして、同じぼくは、いなかった。同じ瞬間は、なかった。
 そして、いま、ぼくは、このぼくなんだ。その喜びを胸に、ぼくは、大きく尾を振り上げ、ひときわ高く飛び上がった。目のなかいっぱいに、真珠色に輝く空が広がった。

6■モリモ博士とロボットのラグの会話

「故郷か。ラグ。星はね、わたしたちの故郷なんだ」
「あの、遠くで光る星が、ですか? 博士」
「ああ、ラグ。宇宙のはじまりには、水素とヘリウムしかなかった。それが集まって星になって燃え、そのなかではじめて、わたしたちの体をつくる元素ができたんだ。それが爆発して、もっと重たい元素をつくりながら、宇宙に飛び散った。その塵が集まって、また星になる。そうやって、星はなんども生まれ、なんども死んだ。その果てに生まれたのが、この惑星、地球だ。そこから生ままれたのが、わたしたちなんだ。
 だからね、わたしたちは、みんな星のかけら。いくつもの星の記憶を持つ、小さなかけらなんだ」
「あの、博士、わたしも、星のかけらですか」
「もちろんだよ、ラグ。みんなみんなそうさ。おまえも、わたしも、それどころか、森も、海も、雲も、この地球のうえにあるものは、みんな星のかけらだ」
「星のかけら、ですか。なんだか、うれしいな。でも、その前はどこにいたんだろう。星になる前は」
「水素とヘリウムのもっと昔、宇宙のはじまりの時には、まるで針の先のような小さなところに、宇宙のすべてがつまっていたんだ。
 だからね、何百億光年の彼方に見える星でさえ、ぼくたちとたったひとつの場所にいたんだよ」
「あのお、モリモ博士……」
「なんだい、ラグ」
「その、針の先の一点にみんながいた時、ぼくもいっしょだったんでしょうか」
「当たり前さ、ラグ。宇宙のあらゆるものが、いっしょだったんだ。きみだって、わたしだって」
「よかった。それならもう、宇宙のどこにいても、寂しいなんてことは、ありませんね」
「そうだね、ラグ。どこにいても、星が見える。わたしたちの故郷が見えるんだからね」

7■地球の思い出

「思い出した。ラグ、思い出したよ!」

 ぼくは、恐竜だった。魚だったこともある。そうだ、蝉の翅だったこともあるんだ。いいや、小さな石ころだった。それが砕けた砂だった。そうだ。水だった。河を流れる水。巨きな海のひと滴。湧き立つ雲。あたたかい雨。ぼくは、吸い上げられてやわからい緑の草になった…。
 ぼくが、ひとかけらの流れ星になってこの惑星にやってきてから長い長い時間、ぼくは、惑星の上のあらゆるものたちだった。
 そう思うと、ぼくのなかの骨が、血が、心臓が、脳が、ぼくをつくっている、ありとあらゆる物質が、まるでいっぺんに、かつて自分だったものたちのことを夢見だしたんだ。
 ぼくは、いっぺんに恐竜で、魚で、蝉で、石で、砂で、水で、風で、草で、無数のものだった。ぼくの心は、その数え切れない一瞬で溢れ返った。
 そのすべてが、いま、ぼくのなかにいる。そのすべてが、いまのぼくになっている。まるで小さなかけらが、時間の一瞬一瞬が、すべて透明な糸でつながって、きらきら煌いているんだ。
 その糸は、露を結びながらどこまでも伸び、絡み合い、もつれ合い、結び、また解かれ、広がっていった。そして、いつのまにか、巨きな繭になっていたんだ。
 真っ暗な宇宙に浮かぶ、青い繭。
 そうだ。あれは、地球だ。ぼくは、地球なんだ。青い青い地球。四十六億年、見続けた美しい夢。

「わかったよ、ラグ。だからみんな、夢を見ているんだね」

8■生物学者 マジロ博士のお話

 森は、ひとつの巨きな生き物です。いいえ、地球がまるごと、ひとつの生き物です。生き物だけではありません。海や火山までが、その大循環のなかに組み込まれ、全体としてひとつに動いているからです。
 まったく、どうしてそんなにも巨大な、同時に、ほんの小さなプランクトンのひとつにいたるまで寸分の狂いもなくすばらしくできた世界は、どうやって生まれたのでしょうか。
 時間です。生命が生まれて三十億年、地球は時間をかけて、考えてきたのです。何をしていいのか、悪いのか。途方もない時間をかけ、ひとつひとつ試しながら、ゆっくり考えてきたのです。
 そして、この美しい調和に満ちた世界をつくりあげたのです。

 ここに恐竜の骨があります。恐竜は、いまから六千五百万年ほど前に滅びてしまいました。巨きな隕石がぶつかって、激しい気候変動があったせいだといわれています。
 けれどもみなさん、恐竜は滅びるまで、一億八千万年の長きにわたって繁栄を続けたのです。この地球の上で。一億八千万年です。
 人類が出現してから、わずか十万年しかたっていません。たった十万年です。化石燃料を燃やすようになってからは、わずか百年しか経っていないのです。それなのに、人類はいま、この地球の環境を破壊するほどの力を持っています。
 みんな、恐竜はなぜ滅びたのだろうと言います。けれども、わたしは思うのです。一億年以上も、恐竜はなぜ繁栄を続けることができたのかと。みなさん、わたしたちは恐竜に学ぼうではありませんか。

9■星祭り

 ほら、聞こえてきた。太鼓の音だ。
 <ドン・ドドン・ドドン・ドンドン>
 宇宙の鼓動だ。
 たいまつの火が燃える。
 伝説は、やっぱり本当だったんだ。ぼくたちは、みんな遠い宇宙からやってきた。そして、ここでひとつになって、新しく生まれた。昔の人は、みんなそのことを知っていたんだ。だから、こんなお祭りがあるんだ。
 <ドン・ドドン・ドドン・ドンドン>
 人々のざわめきが、巨きな音楽になる。
 空からは、くっきりと光の環も見えるだろう。巨人は、両手を広げて空を翔けてくるだろうか。
 ラグ。きみは、どこにいるの。うまく流星群の軌道に乗れたかい。
 ぼくは、空を見上げた。
 ポケットから青いビー玉を出して星空にかざす。それは、宇宙に浮かぶ地球だ。壊れやすい生命の星。地球の上ではいまも、核爆弾が眠り、戦争が起こり、緑は失われ、生き物たちが滅んでいく。
 恐竜の化石をみるたびに、ぼくは思う。人類は、いまどこにいるのだろう。どこへいこうとしているのだろう。ぼくに、何ができるのだろう。
 <ドン・ドドン・ドドン・ドンドン>
 ほら、宇宙の鼓動だ。地球の通奏低音だ。地球はラジオグリーン、いまも緑電波を発信し続ける。だから、もっと耳を澄ませて、美しい旋律を聴こう。遥かな歌を歌おう。地球のあらゆる生き物たちとともに。
  ラグ! その巨きな和音を、力強い鼓動を、いつかきっと聴きに戻っておいで。ぼく、必ず待っているからね。百万年後も、一千万年後も、緑溢れるこの惑星の上で。そして、こんどは、ぼくがきみに言おう。
 「ラジオ・グリーンへようこそ。美しい生命の星へようこそ」って。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4894190265/harmonia-22

■「1000の風」と「千の風になって」 訳文比較

Fri, 12 Mar 2010 17:16:53

新井満訳『千の風になって』
南風椎訳『1000の風』

この2作がtwitterでの指摘をきっかけに、波紋を広げている。ついさっき、南風椎氏が、ご自身のブログに、訳詩の全文を掲載なさったので、新井満詩の詩と比較対照して読めるようになった。

南風椎訳 1000の風
新井満訳 千の風になって

出だしのところを比較してみよう。

【南風椎訳】
  私の墓石の前に立って
  涙を流さないでください。

  私はそこにはいません。

  眠ってなんかいません。

  私は1000の風になって
  吹きぬけています。

【新井満訳】
  私のお墓の前で 泣かないでください
  そこに私はいません 眠ってなんかいません
  千の風に
  千の風になって
  あの大きな空を
  吹きわたっています

どう見ても、似ている。新井満氏が南風椎氏の作品に触れたことがなく、まったく独自に翻訳したとは思えない類似だ。

しかし、この先に続くフレーズには、かなりの違いが見える。引用すると、短い詩なので全文引用になってしまうので控えるが、新井満氏は、南風椎氏の詩的な訳文を整理整頓し、味も素っ気もない短い文章にした、といえるだろう。わたしの判断では、南風椎氏の訳文のほうが、ゆたかなふくらみがあって、ずっといい。「1000の風」と算用数字を使ったところは残念であったが。

この程度の類似で、著作権侵害を訴えるのは、法的にはむずかしいかもしれない。しかし、新井満氏が、先行する南風椎氏の作品を参考にしたのは、明らかである。であれば、事前に南風椎氏に一言、挨拶があって然るべきだ。それがなかったという南風椎氏のブログの顛末記を信じれば、情けない話である。その後、新井満氏からの謝罪があったということだが、新井満氏による「千の風」の商標登録は、あまりにあさましい。

南風椎氏は、これだけの事実があるのだから、ブログで、あたかも「印象操作」のような書き方をするのではなく、最初から南風訳の訳文を提示、新井満氏の作品との比較を読者に預け、事実のみを事実としてきちんと書けばよかったと思う。訳文を提示するだけで、新井満氏の所行ははっきりと世間に知られただろう。「印象操作」という印象を与えてしまった分、南風椎氏は損をしていると思う。なぜ最初から、自身の訳文を提示なさらなかったのだろう。

もともと自分の作品ではない、一般に流布しているテキストを、より多くの人に知ってもらいたい、という気持ちがあったから、あえて新井満氏の仕事にケチをつけなかったのだと思う。だったら、最後まで黙っていればいいのに、いまになって告発。

まあ、ヌケヌケと商標登録までしてしまい、恬として恥じず、その商品を次々南風椎氏に送りつけてくる新井満氏に、とうとうがまんがならなくなり、『千の風になって』の大流行が一段落したので、ここで真実を語っておきたい、という気持ちはわかる。

わかるが、リテラシーとして、甘かった。もっと早くご自身の訳文をネットに提示すればよかったし、曖昧な書き方はせず、事実確認をきちんとして、情報としてほんとうに確かなことだけを、淡々とお書きになればよかったと思う。

自分の権利を主張するのは、悪いことではない。日本では、そのようなことをすることを恥じる傾向があるけれど、主張すべきことは、正面切ってきちんと主張すべきだ。陰口に似た物言いはよくない。南風椎氏のもとの訳文がすばらしいだけに、ブログによるこの告発の方法は、残念に思う。正面切って戦えばよかった。ご自身の訳文をブログに提示するだけで、法律上著作権を主張できずとも、誰の目にも、勝敗は明らかだっただろう。

■まんとくんの商標登録

Fri, 12 Mar 2010 17:08:14

奈良の民間キャラクター「まんとくん」も商標登録されている。
http://www1.ipdl.inpit.go.jp/syutsugan/TM_DETAIL_A.cgi?0&1&0&1&1&1268377458

上記のページを見るとわかるように、出願者はわたしの配偶者になっている。
つまり、松永洋介こと、寮洋介が出願者だ。

これについて、前から誹謗中傷があり、腹に据えかねていたが、松永が「放っておけ」というので黙っていたが、やはりここではっきりさせておきたい。twitterのような、いいことだろうが誹謗中傷だろうが、あっという間に拡大するメディアもできたので、はっきりさせないと我々の名誉に関わるからだ。

「まんとくん」は、公募作品のなかから公選で選ばれ、発表された。この公募公選をした主体は、当時「クリエイターズ会議・大和」と名乗り、後に「まんとくんネット」と名称を変えた団体だが、これはNPOでもなんでもなく、いまだに単なるボランティアの寄せ集めの任意団体である。

任意団体としては、商標登録できない。とりあえず、任意団体の誰かが登録せざるを得ないのである。

「まんとくん」のネット投票のシステムを構築したのは、松永だった。幾晩も徹夜を重ね、実に大変だった。そして、投票が終了し、いよいよ発表というその時のことだ。よく考えたら、キャラクターとして募集されていたのは、イラストだけ。その名前をどうするかは、まだ決まっていなかった。メンバーも、イラスト公募公選で手いっぱいで、そこまで考えていなかったのだ。

名前も公募にしよう、という意見もあったが、実際の所、イラストの公選公募の莫大な手間を考えると、もう余力はなかった。また、名前のないまま公表することでのデメリットもあった。

・おかしなあだ名をつけられてしまう。
・公募公選にすると、名前の候補を提示しなければならず、提示しているうちに、あざとい人に商標登録されてしまう危険がある。

当時の事務局長の田中功さんのたっての願いもあり、やはり名前を決めてから発表しようということになった。名前は、「クリエイターズ会議・大和」のメンバーのなかからアイデアが出され、作者のクロガネジンザさんも異論はないとのことで「まんとくん」に決定した。みんなの合意が取れ、決定したのは、記者発表の前日の深夜のことだった。

2008年6月1日深夜。発表は翌日に迫っていた。「まんとくん」という名前で発表だ。しかし、まだ商標登録されていない、発表と同時に、あざとい人が商標登録をする、という危険もある。発表前に、ぜひとも登録の書類を提出しなければならない。

書類は郵送で、その郵便のスタンプの日付が申請の日付として認められる。

というわけで、急遽、書類を作ることにした。しかし、メンバーに司法書士もいないし、すでに深夜である。ともかく、誰かが書類を作成して記者発表前に投函しなければならない。

という厳しい事情の中、松永に白羽の矢がたった。当時の奈良在住のコアメンバーのなかで一番若いということもあり、その業務を委託されたのである。なぜなら、もう深夜で、みんなへとへとだったからだ。松永は、インターネットで書類の書式を調べ、書き込み、という作業を徹夜で行い、記者発表の数時間前に完成。やっとのことで、郵便局に持ち込んだのである。

実際には、赤の他人が勝手に「まんとくん」の商標登録をとる、ということは、杞憂であった。特許庁は、親切にも、ちゃんと出願者を調べて適切な人物であるかどうかを確認してくれるからだ。そんなことも知らずに、慌てての出願であった。

というわけで、暫定的に「まんとくん」の商標登録の出願者は、寮洋介になっている。当時の「クリエイターズ会議・大和」の代表田中功氏は、その後病気でお亡くなりになり、いまはデザイナーの村上正師氏が「まんとくんネット」の代表となられている。

しかし、結局は任意団体。NPOにするなどしないと、権利関係はずっと不安定な状態なってしまう。NPOにしましょうと提案しているが、なかなかまとまらない。なんとかなればいいのだが。

というわけで、信用され面倒な仕事を任されて徹夜でがんばったことを「私利私欲」だの「私物化」だの言われるのは、大いに心外である。事実をきちんと知ってほしいと思う。

また、近く発売される拙著の童話『ならまち大冒険』に「まんとくん」が登場するが、これも私物化などといわれると心外である。まんとくんネットは任意のボランティア団体で、お金がない。まんとくん普及をするにしても、某官製キャラのように、湯水のようにお金をつかって、あちこちに看板を出したり、クリアファイルをただでばらまいたり、着ぐるみを出動させたりできないのである。ボランティアができる範囲でしか、活動できないのが実情だ。

そのため、官が「1300年祭」といってガンガンお金を使っているいま、まんとくんは官製のキャラに比べ、露出度が少ない。残念である。

お金がないなら、知恵で勝負するしかない。というわけで、なんとかまんとくんの力になりたいと、童話に登場してもらったわけだ。もちろん、挿絵はまんとくんの原作者のクロガネジンザさんである。

「ならまち大冒険」は地元にも好評で「町家ゲストハウスならまち」のオーナーの方は、自費で「ならまち大冒険」のクリアファイルを5千部、刷ってくださった。ならまちの地図つきだ。ゲストハウスのお客様にお渡しするグッズにしたいという。町でも、ごく一部だが、ほとんど原価で入手できる場所もある。(漢方薬局菊岡@ならまち RISKY松本@猿沢の池のそばのお土産屋)

そのようにして、民の力とご厚意によって、まんとくんは生き延びるしかないのである。

「ならまち大冒険」に限らず、多くの「まんとくんの二次創作」が世に溢れることを願っている。「ならまち大冒険」は、あくまでもその一つに過ぎない。たくさんの「まんとくん物語」が登場してほしいし、いろいろな形で活躍させてやってほしい。

■「父は空 母は大地」と「千の風」「1000の風」問題

Fri, 12 Mar 2010 15:20:12

語り継がれた作者不詳とされる英文のテキストを翻訳した新井満『千の風になって』と南風椎『1000の風』の類似が問題になっているが、わたし自身、語り継がれた「シアトル首長のスピーチ」といわれるものを、独自編集により翻訳し絵本化した。『父は空 母は大地』だ。その詳しい経緯は、こちらにある。

当時は、まだインターネット状況も整わず、原資料を当たるのに、大変な苦労をした。アメリカの博物館に英語で電話をかけたり、アメリカの大学図書館の資料を請求したり、また日本にある英文の資料も集められる限り集めた。だから、同じ1955年に『1000の風』を出版されたご苦労もよくわかる。

わたしが出版当時、すでに先行して日本語に翻訳されたものもいくつもあり、その資料も集めさせてもらった。その上での、再訳だった。

「シアトル首長のスピーチ」として伝承されているものには、さまざまなヴァージョンがあり、そのなかから、わたし独自の編集を行った。人間と自然の関わりに関する普遍的根源的な部分を抜き書きし、あえて、政治的な部分は割愛した。

編集自体に独自性があり、しかも訳文も自分の言葉でしたので、先行する翻訳者から、盗作と訴えられたことはない。

ところが、twitterでこんな主旨の発言があった。「シアトル首長のスピーチ『父は空 母は大地』という絵本になっているけれど、編集されていて、元の形がわからないのが残念。いいスピーチだったろうに」

元のスピーチそのままでは、あのようにダイレクトに人と自然を語ったものにはならない。白人への政治的な恨みも入った、もっと生々しいものだ。原文を知りたければ、いまはネット時代。さまざまなヴァージョンの「Chief Seattle's speech」をいとも簡単に発見できるはずだ。それを見てもらえばいい。

そのようなことを調べもせず、編集に敬意も払わず、あたかも、勝手に編集して大事なところが読めなくなってしまって残念、という意味のことを、 twitterのようなデマゴーグ拡大メディアで不用意に発言した人に、強い怒りを覚える。

わたしの『父は空 母は大地』は、先行するほかのテキストにあまり似ていない。編集も違えば、翻訳も違う。ほかに、もっと政治的な部分を強調したものなどもあった。

人と自然に焦点を当てた新しい編集は、おそらくいままでのほかのどのテキストよりも広く知られただろう。そのため、多くの無断転載の野良テキストが世間に流通するようになった。それを歌にして有料のコンサートを開いている人もいる。

もともと「Chief Seattle's speech」自体はパブリックドメインなので、あえて黙っていたが、やがて看過できない事態が生じた。ある国会議員、しかもダム建設推進派の議員が、これを自著でクレジットもなしに無断使用、講演会などでもしゃべりまくっていたのだ。

自然保護とエコロジーを訴えるこの作品。どこをどのようにしたら「ダム推進」に利用できるのか、まったく想像もつかなかったが、かの国会議員は「ダム建設こそが、人間と自然との調和」などという詭弁を弄し、『父は空 母は大地』の言葉が持つ力、その感動を搾取して、利用していたのだ。

怒り心頭で、ついに弁護士を通じて提訴。事実上の全面勝訴を勝ち取った。

『千の風になって』と先行した『1000の風』の問題もそうだが、口承やネット上のチェーンメールの「作者不詳」とされるテキストを扱う場合、さまざまな問題が生じがちだと思う。原テキストには、著作権者がいなくても、翻訳すれば、翻訳としての著作権が発生する。訳文の翻訳著作権と著作者人格権は、保護されるべきものである。原著から別訳は自由だが、先行した翻訳の明らかな盗作は認められない。

『千の風になって』と『1000の風』がどこまで類似しているのかは、まだ検証していないので、なんともいえないが、南風氏が、明らかに盗作と確信するのであれば、提訴するべきであると思う。

■「千の風になって」と「1000の風」のリテラシー

Fri, 12 Mar 2010 15:11:34

▼「千の風になって」と「1000の風」

twitterで、2003年に出版された新井満の「千の風になって」と同じ作者不詳といわれた作品が、その遙か前の1995年に、すでに南風椎という人によって単行本化されていたことを知った。

新井満訳の「千の風になって」
南風椎訳の「1000の風」

これに関して、南風椎氏が、自身のブログに書いた新井満氏への告発ともいえる文章が、twitterで波紋を広げている。

わたしも、twitter経由で、南風氏のブログを読んでみた一人だ。

ブログには、以下のようなことが書かれている。
・南風氏と新井満氏とは旧知の仲であったこと。
・「1000の風」ができた経緯。
・当時はインターネットがいまのように整備されていなかったので、原典を探すのに大変なご苦労をしたこと。
・その後の2003年以降の新井満の「千の風になって」のブームの到来。
・新井満氏からは一言の挨拶もなかったこと。
・それをどんな思いで見ていたか。
・その後、新井満氏が、南風氏に謝罪に来た経緯。

南風氏は、千の風ブーム到来のときの心情を、こう書いている。

>「子どもがいないぼくにとっては、これまでに作ってきたたくさんの本が自分の子どものようなものだ。『1000の風』という本が孫やひ孫を作って、その連中が賑やかにやっているなあ、というような気持ちで騒ぎを眺めている」
友人たちからは新井さんへの怒りのコメントが相次いだ。
mixiにはその後もたびたび「思い」を書いた。

南風氏は「いい人」なのである。もともとが「作者不詳」の口承文芸のようなものだったので、南風氏としても、あえて著作権を強く主張するつもりもなかったのだろうと推察される。「にしても、新井満のやり方は、あまりにあざとい」というふうに感じているように、ブログでは見受けられる。

また、新井満氏が、南風氏にこう謝罪したと書かれている。

>読み終えた彼は、南風椎にまったく連絡もせずに似たような本を作ったことを詫び、これまでの自分の言動が元祖本である『1000の風』への敬意に欠けていたことを詫び、テーブルに両手を置いて、何度も何度も頭を深々と下げた。

これは結構微妙な表現だ。ここには、新井氏が『1000の風』を知っていてパクッたとは書かれていない。ブログでは、全体の印象として、新井満が、『1000の風』の存在を当然知っていて、パクッたがごとく読みとれるのだが。そして、その証拠というように、南風氏と新井満氏とがいっしょに映った写真を、証拠のように提示している。

また、新井満が平気で人のアイデアを盗む人である、ということも書かれ、小説家・藤原伊織が、当時電通の同僚だった新井満にアイデアを話したら、そのまま使われてしまった話なども書いている。

>「新井満さんてほんとに困った人なんだ」
と、あるとき藤原さんがボヤいた。
「最近どんな小説を書いてるのって彼が聞いてきたから、ストーリーを話したら新井さん、そのまんまの小説を自分で書いて、先に発表しちゃったんだよ」
新井満さんはぼくもよく知っている人だったので、驚いた。そんな人だったんだ。

しかし、その真偽は明らかではない。盗まれたアイデアで書かれた新井満氏の作品は、なんなのか。コメントでそれを聞かれると、南風氏は、お茶を濁して正確には答えていない。

このブログでは、新井満は、かなり悪くてひどい奴に見える。しかし、ではほんとうに藤原伊織がアイデアを盗まれたのか。ほんとうに新井満氏は「1000の風」の存在を知っていたのか、その訳文は盗作と呼ぶにふさわしいものなのか、それは、はっきりとは書かれていないのだ。訳文については、こんな記述がある。

>新井さんが訳したという詩も書かれていた。「1000の風」が「千の風」になっているだけ。あとは、ぼくの訳詩の言葉の順番を変えたり、省略したりしているだけの詩に思えた。

「思えた」と書かれていて、断定はしていない。断定はしていないが、全体の文脈では、新井満氏が当然の事ながら「1000の風」の存在を知っていて、それなのに、南風氏への挨拶一つなく、しかも訳文もほとんど同じ、というようなものを出していた、というように読める。

さて、新井氏の訳文が、南風氏の訳文の盗作、と呼べるものなのかどうか、それははっきりしない。調べるためには、二つの詩を比べるしかないだろう。

残念ながら「1000の風」の訳詩はサイト上には掲載されていないようだ。

一方「千の風になって」は新井満氏のサイトに掲載され、だれでも読めるようになっている。

「1000の風」の方は品切れ状態で、図書館で見るか、中古で買うしかない。昨晩、アマゾンのマーケットプレイスという中古部門で1冊1円で出ていたこの本はあっという間に売り切れ、一時5000円を超えるまでになった。どうみても、twitter効果だろう。南風氏のブログは、2009.11.11に書かれたものだから、このブログを発見して伝えたtwitterの威力、恐るべしである。

▼ネットリテラシーとしての問題点

わたしは、南風氏による新井満氏告発のブログの文章には、ネットリテラシー上、いくつかの問題点があるように思う。南風氏のブログの文章は、全体として「印象操作」である。はっきりとした証拠を提示せず、新井満氏の印象を悪くするようなことを積み重ねている。

もし、南風氏のいうように、新井氏の訳文が、誰の目にも「ぼくの訳詩の言葉の順番を変えたり、省略したりしているだけの詩」なのであれば、南風氏は、自分の訳文をネット上に掲載するべきだ。そして、読者に比較対照してもらったらいいと思う。そうすれば、一目瞭然だろう。

もしそれがほんとうに「盗作」と呼べるレベルのものであれば、証拠はそろっているのだから、きちんと著作権侵害で新井氏を訴えるべきである。

しかし、それが「盗作みたいにも思える」程度の類似であり、裁判で勝てないのであれば、南風氏ができることは、新井氏の印象を操作して、いかにも盗作しそうな人物に仕立て上げることではなく、作品をきちんと比較検討できるように資料を提示し、判断を読者に任せることだ。それが最善であるように思う。

インターネットという道具は、もともと、デマゴーグをものすごいスピードで拡大させる可能性をもったメディアである。発信者は、常にそのことを年頭に置く必要がある。

twitterというメディアは、そのデマゴーグを、さらに猛烈なスピードで伝播させる威力を持っている。南風氏は、新井満氏を批判し告発したいのなら、もっとつっこみどころのないようにきちんと事実を積みあげ、書くべきである。真実かどうかわからないもやもやとした物語を積み上げることで、結果として印象操作をするのは、ある意味、卑怯な手段だ。そんな方法論が許されれば、誰もが誹謗中傷の的になりかねない。

また、twitterを利用する人々も「デマゴーグを猛烈なスピードで伝播させる威力を持っているメディア」であることを自覚して利用するべきだ。不確かな印象操作的な情報を、そのまま載せてしまうのは、問題がある。

南風氏のブログのなかでは、新井満氏が「千の風」という言葉を商標登録した「かのように」書かれていた。

>彼は荷物から『千の風』という名の日本酒やお香も取り出した。
「まさかこの言葉を商標登録したの?」と聞くと、否定も肯定もせずうつむいた。
"A THOUSAND WINDS" は作者不明でパブリック・ドメイン、人類の共有財産だと考えていたからこそ新井さんがやっていることに何も言わずにきたのに、商標登録!?

こういう部分も、ネットリテラシー的に甘い。このような曖昧な書き方をしてはいけない。こういうときは、ちゃんと「商標登録」を調べて、その事実を確認し、その上で書くのが正しいリテラシーだ。

南風氏は、コメント欄でこう付け足している。

>商標登録なんて調べる気分もなかったのですが、この連載終了後にある方から「新井さんは間違いなく『千の風』を商標登録しています」という連絡がありました。
やれやれ。

しかし「商標登録なんて調べる気分もなかった」というのは、個人的に胸に納めるのならともかく、ブログで世界中に情報発信する人としては、あまりにリテラシーに欠けた態度だ。

わたし自身も調べてみたが、確かに新井満氏は、商標登録をしている。このサイトから「千の風」で検索すると、あがってくる。

この商標登録の事実で、新井満氏が何をしてるのか、よーくわかった。本来パブリックドメインであるべき「千の風」のような言葉を商標登録する態度に、疑問を感じずにはいられない。新井満氏は、あまりにもリテラシーに欠けている。しかし、南風氏の最初の情報発信の仕方、つまりリテラシーにも問題があったことは、否定できない。大切なのは、商標登録が事実かどうか、まず自分で確認してからでないと、そのようなことを書いてはいけない、ということだ。事実かどうかわからない曖昧な形で、印象操作するような形で告発をしてはいけないということだ。

▼正しい対処

>「子どもがいないぼくにとっては、これまでに作ってきたたくさんの本が自分の子どものようなものだ。『1000の風』という本が孫やひ孫を作って、その連中が賑やかにやっているなあ、というような気持ちで騒ぎを眺めている」

南風氏が、心底そのように思っているのなら、どんな金の亡者が、どんな汚い手段で広めようが、それが広まったこと自体を喜べばいい。そして、それに関して黙っていればいい。けれど、どうしても腹に据えかねる、というのであれば

>友人たちからは新井さんへの怒りのコメントが相次いだ。

などと、怒りを外部化しないで、自分自身の怒りとして、きちんと新井氏と正面から相対すればいいと思う。盗作であれば、盗作であることをきちんと著作権侵害で訴えるべきである。限りなく盗作に近いアヤシイものであっても、盗作として法律上は勝てないような差違であれば、状況証拠の積み重ねではなく、作品そのものをきちんとネット公開して、読者に判断してもらうのがいいだろう。

※これをアップしようとしてもう一度調べたら、南風氏のブログに、ご本人の訳文の全文が掲載されていた。正しい対処をなさったと思う。

■ももいろのかっぱ

Fri, 19 Feb 2010 00:14:35

先日訪れた遠野の、カッパの物語を、絵本としてイメージし、文章を書き起こしました。
元にした題材は、柳田国男『遠野物語』のなかの「姥子淵の河童」。
遠野の河童は赤やピンク色をしている、という伝説や、
現代のカッパ釣りの風景も折りこんでみました。
⇒PDF版はこちら


ももいろの かっぱ ―遠野の昔話より―
                    遠野ことば監修/阿部恒幸
                    文/寮美千子

文中の「ハ」は助詞ですが「ha」と発音します。
 
▼1
むかし あったずもな。

あついあつい なつのひのことです。
おもい にもつを どっさり はこんで
あせだくになった うまが
おとうさんと いっしょに かえってきました。

「おい たろさ(おい たろう)
うまっこ ひやしさ いってくれや」(うまを ひやしに いってくれないか)
「うん おどさん」(はい おとうさん)
「ひとりで いげっか?」(ひとりで いけるか?)
「あだりめえだ」(あたりまえだよ)
「うまっこから め はなすんでねえぞ」(うまから めを はなすんじゃないぞ)
「うん おらさ まかせどげ」(うん おいらに まかせといて)

▼2
たろうが うまを ひいて いくと
となりの へいきちが うしろから はしってきました。

「たろさ どごさ いぐ?」(たろうちゃん どこへいくの?)
「おら かわさ いぐ」(おいらは かわに いく)
「おらも かわさ いぐんだ。(おいらも かわに いくんだ)
いっしょに さがなつり すっぺや」(いっしょに さかなつり しようよ)
「んだども おらハ おどさんさ たのまれて(だけど おいらは おとうさんに たのまれて)
うまっこ ひやしさ いぐんだ」(うまを ひやしに いくんだ)
「そっか。んでハ またな」(そうか。それじゃあ、またね)

へいきちは つりざおを かたに かついで
ぱあっと はしっていきました。


▼3
かわぎしには こんもりと きが しげり
こもれびのなか すずしいかぜが ふいてきます。
たろうは うまを ひいて じゃぶじゃぶと
みずのなかに はいっていきました。

うまのからだを あらってやると
せなかから ゆげがたち しぶきが きらきら ひかります。
うまは きもちよさそうに はなを ならしました。

すると かわかみから たのしそうなこえが
きこえて きました。
「わあ でっけぇ フナっこだ」(わあ おおきな フナだ)
「そいつぁ コイだっぺ」(それは コイだろう)
どっと わらうこえがします。

▼4
たろうは とうとう がまんが できなくなり
「おらハ ちょっとばり みでくっから(おいらは ちょっとだけ みてくるから)
こっから うごくんでねえぞ。(ここから うごんじゃ ないぞ)
すぐ けってくっからな」(すぐ かえってくるからな)
うまに そう いいふくめると
こざるのように すばやく はしっていったのです。

▼5
うまは ひとりぼっちに なってしまいました。
けれども おとなしくて りこうな うまでしたので
たろうの いいつけを まもって
かわのなかで じっとして いました。

すると うまのうしろで さざなみが たちました。
みずのなか なにかが ゆるゆる ちかづいてきます。
あねさまのベベのような きれいないろをしています。

▼6
みずから ぴょこん と かおを だしたのは
なんてことでしょう! かっぱです。
ももいろの かっぱです。

かっぱは おさらから みずを したたらせながら
あたりを そうっと みまわしました。
だぁれも いないのを たしかめると ふっと わらい 
いきなり うまのあしを ひっぱったのです。

▼7
おどろいた うまは うしろあしで たちあがりました。
かっぱは あわてて うまに しがみつきました。

うまは あしを すべらせ かわに はまって しまいました。
かっぱは ここぞとばかりに ちからをこめて ひっぱり
うまを おぼれさせようとしました。

▼8
けれども うまのちからに かなうわけが ありません。
うまは もがいて たちあがり きしに かけのぼりました。

こんどは かっぱが びっくりする ばんです。
おもわず ぎゅっと うまに しがみつくと
うまは そのまま はしりだしました。

▼9
そのころ たろうは まだ みんなと あそんでいました。

ひが かたむきかけたころ たろうは やっと 
フナを かたてに もどってきました。
ところが うまのすがたが みえません。
「あれ? うまっこ どこさ いったべがな」(あれ? うまは どこに いったんだろう)
おーい おーい」
よべば いつでも すぐに とんでくる うまが
いくら よんでも やってきません。
あしおとも きこえません。
かわには うまが あしを すべらせた あとが ありました。
たろうは まっさおに なりました。

▼10
いそいで いえに もどると 
むらびとが うまやの まえに あつまって
がやがやと さわいで いました。
たろうは おとなのあしの あいだから
そっと うまやを のぞいてみました。

うまは そこに いました。
ちゃんと ひとりで かえってきたのです。

ほっと いきをつくと あたまのうえから
ゴツンと げんこつが おちました。
「こらっ、たろう。うまっこ ほっぽらがして(こら、たろう。うまを ほったらかして)
どこさ あそびさ いってだ!」(どこに あそびに いってた)
「おどさん、わるがった。これ」と(おとうさん ごめんなさい。これ) 
たろうは とってきたフナを さしだしました。
「さがなつりなんかさ むちゅうさなって(さかなつりになんかに むちゅうになって)
おめえのせいで てえへんなことさ なってんだぞ」(おまえのせいで たいへんなことに なっているんだぞ)
「えっ?」

▼11
「ほれ」といわれて みれば
うまのかいばを いれる おおきなふねが
さかさまに ひっくりかえって います。
そこから ちいさな ももいろのてが はみだして いました。
あわてて かくれようとした かっぱの てです。
みずかきのついた てが ぴくぴく ふるえています。
「こりゃあ かっぱさ まづげえね」(これは かっぱに まちがいない)
「うまっこ おぼれさせっぺど すたな。わるごと ばりすて」(うまを おぼれさせようと したな。わるいこと ばかりして)
「こいつハ こどものあすも ひっぱって おぼれさせんだぞ」(こいつは こどものあしも ひっぱって おぼれさせるんだぞ)
「ゆるせねえ。ころすてすまえ」(ゆるせない。ころしてしまえ)
おとなたちは うまふねを えいっと ひっくりかえしました。

▼12
そこには ももいろのかっぱが いました。
あかんぼうのように ふっくらした かっぱです。 
ちいさくなって ぶるぶる ふるえています。
たろうは かわいそうになって いいました。
「わるがったのハ おらだ。(わるかったのは おいらだ)
おらハ うまっこ みねで あそびさ いって すまったがら(おいらが うまを みないで あそびに いって しまったから)
かっぱも わるいこころを おごすたんだべ。(かっぽも わるいこころを おこしたんでしょう)
なんとか ゆるすてやって けんねべか」(なんとか ゆるしてやって くれませんか)

たろうが いっしょうけんめい たのむので
おとなたちも しぶしぶ こういいました。
「おい かっぱ。もう にどと わるごとハすんねど。(おい かっぱ。もう にどと わるいことを するんじゃないぞ)
やくそぐすっか。ほだらば けえしてやっぺ」(やくそくするか。するなら かえしてやるぞ)
かっぱは うん とうなずきました。
「そんだらば しょうもんハ かげ」(それならば しょうもんを かけ)

▼13
おとうさんが ふでと かみを もってきました。
かっぱは すらすらと ふでを すべらせましたが
だれにも よめない ふしぎな もじでした。
「これでハ やぐさ たたねんべ。ここさ てがたハ おせ」(これじゃあ やくに たたない。ここに てがたを おせ)
おとうさんは かっぱのてに すみを ぬると
ぺたっと しょうもんに おしつけました。
みずかきのある てがたが くっきりと つきました。
「ほんとに やくそぐ すんだな」(ほんとうに やくそくするんだな)
かっぱは なんども うなずきました。
それで やっと ゆるされて かわに かえして もらえました。

▼14
それからというもの かっぱは むらのひとに えんりょして
やまのほうにある たきに すむように なりました。
やくそくどおり うまやこどもにも いたずらを しません。
それでも ときどき むらが なつかしくなって
こっそり もどってくるのです。

ですから むらのひとは かっぱのすきな きゅうりを えさに
かっぱつりを します。

かっぱ つれるか つれないか。
どんどはれ。

■鞆の浦・下北沢・奈良 プライスレスの価値

Fri, 02 Oct 2009 14:34:42

▼鞆の浦

住んでみたいとおもった地方都市。「岩手と奈良」と言ってきたけれど、よく考えたら「鞆の浦」にも住みたいと思ったことがある。取材で訪れて、こんないい場所があるのか!と驚いた。日本で最初の国立公園に指定されたという瀬戸内海の美しい景色。古い港。昔ながらの町並み。江戸時代には朝鮮通信使の寄航地にも度々指定された。通信使が宿泊し、最新の大陸の文化を講義したという福禅寺対潮楼。ここからの眺めは絶品だった。朝鮮の使節の従事官・李邦彦も、「日東第一形勝=朝鮮より東の世界で一番風光明媚な場所」と賞賛したという。

この鞆の浦の港を埋め立て、巨大な橋を造るという、信じられないくらい馬鹿げた計画が持ち上がり、実行されようとしていた。

地元住民のなかも、賛成意見と反対意見があったようだ。建設賛成派は、それによって経済効果があり、商業振興もされ、観光も盛んになると考えていたようだが、鞆の浦の魅力はなんなのか、全然わかっていないようだった。あの風光明媚な港が駐車場と橋になったら、魅力半減どころか、全滅だ。鞆の浦は鞆の浦ではなくなってしまう。全国どこにでもある郊外型の町になってしまうだけだ。

そして、いったん壊したら、元には戻せないのである。長い長い時間が培ってきたものを破壊するのは、一瞬だ。

地元住民が中心になって、建設反対運動が起こった。そしてとうとう、建設差し止めの判決が下ったのである。
【鞆の浦埋め立てを差し止め/ポニョ舞台、広島地裁が初判断】

▼下北沢

ところで、わがなつかしの青春の地「下北沢」(21才から15年間住んだ)も、再開発問題で揺れている。開発を是とするか、否とするか。

あの下北沢の町そのものを愛する人は、防災問題を考えるにしても、今の町の雰囲気を大切にした町作りを望んでいる。当然である。下北沢が、どこにでもあるただの商業地域になってしまっては、価値がなくなってしまうのだ。

ところが、それをわかっていない人もいる。紙の上ではじき出される「経済効果」を鵜呑みにして、なにかいいことがある、儲かるはずだと思っている人々だ。そんな人のブログが炎上している。
【下北沢南口商店街・白髪爺 小田急線下北沢駅の新駅舎デザイン 小田急電鉄から発表される】

ソロバンでパチパチはじく(古い言い回しだ。そのうち死語になってしまうかもしれない)経済効果。それだけが目的。拝金主義である。

ほんとうに大切な者は何か。文化である、アイデンティティだ。その土地にかかわっていることを誇りに思える町作りが必要だ。バカに儲からなくてもいい、そこそこ生きていけて、みんなが楽しく心安らぐ町であったら、それでいいではないか。それこそが、価値ではないか。

▼奈良

奈良でも、重大な危機が勃発している。これは、景観の問題ではない。それ以上に大きな問題、地下に埋もれた遺物の問題だ。

奈良盆地は、湿地だった。それゆえ、地下の遺物は1300年もの長きに渡り、地下水に浸されて、酸化しないで保存されてきた。木簡の文字がいまも読めるのは、そのためだ。

木簡は、発掘され空気に触れたとたん、激しい酸化がはじまり、真っ黒になって読めなくなってしまう。そのため、発掘された木簡は、早急に水に浸され、保存される。最終的には、樹脂で固めて保存する。

2009年1月、平城宮跡から大量の木簡が発見された。誰も予想もしていなかったほどの量だ。約3万5000点に上る長屋王邸宅跡の木簡群に匹敵する規模といい、今までに平城宮跡から発掘された全木簡を合わせた量よりも多いという。解読だけでも、向こう何年もかかるそうだ。
【平城宮跡に大量の木簡】
【平城宮跡 ごみ捨て穴から過去最多、数万点の木簡が出土】

そのような、未発見資料が、奈良にはまだ山のように埋まっている。つまり、地下に膨大な図書館を持っているということだ。それは「奈良盆地」という元湿地帯であったという大地の恩恵によって、守られてきた古代図書館だ。

その奈良盆地の地下を掘って、高速道路を造ることが決定した。湿地なので、地下トンネルを掘れば、水が出る。そのために、毎日大量の水を汲んで、排出しなければならない。ということは、地下水脈から、水を抜き続けるということだ。

何が起こるか? 地下水位が下がる。当然、地下の遺物が空気にさらされることになる。酸化して、木簡は読めなくなる。古代の地下図書館の炎上だ。

さして緊急性もなく、地元でもいらないといっている道路のために、そんなことをしていいのか。

緊急の医療が必要なときのために、とかいっているけれど、それならつくるべきは道路ではなく、ヘリポートと救命ヘリだ。車で1時間の道のりを、わずか5分で到達できるという。救命率も、それだけあがる。ヘリをばんばんとばしても、道路建設の費用には遠く及ばない。経済的でもある。

何が大切なのか。何を大切にするのか。お金では買えないプライスレスの豊かさがある。プライスレスとは、つまり値が付けられないほど尊いものだということだ。政権交代が、プライスレスの価値を共有できる社会の実現に寄与してくれることを祈る。

■新日曜美術館/カメラが私の日記帳 写真家・飛彈野数右衛門

Sun, 22 Mar 2009 20:02:24


去る2月8日の新日曜美術館、久しぶりにいい番組だった。

【カメラが私の日記帳 
 〜写真家・飛彈野数右衛門(ひだのかずうえもん)〜】以下NHKサイトより引用


大雪山麓の豊かな水に恵まれた北海道上川郡・東川町。町の長老、飛彈野数右衛門、享年94(2008年12月30日逝去)は、自宅に400台のカメラをコレクトし、町では無類の写真愛好家として知られていた。飛彈野は東川に生まれ、役場に44年勤め、退職後も町内のさまざまな風景や人々の暮らしをありのままに記録し、撮った写真は必ず相手に贈った。14歳で初めてガラス乾板のカメラを手にしてから80年間、日記のように記録され続けた飛彈野の写真群は、いつしか分厚い“町のアルバム”となっていった。農家や職人たちの手仕事の記録、町の産業の移り変わり、今は失われた電気軌道、結婚式や葬式、洪水や豪雪などの災害、出征兵士の家族との別れ、なにげない家族のスナップ写真……そこには、一つの町の昭和の歴史そのものが濃密に写し出されている。写真家の立木義浩は、その作為のない写真、そして膨大な時間が凝縮された記録性の重みに圧倒され、町の人に磨かれていったけうな写真家だ、と語る。番組では、飛彈野の残した“アルバム”を、町の人々とともにめくりながら、一流のプロの写真家をも脱帽させてしまう、飛彈野の写真の神髄に迫る。

ゲストは、わが友、勇崎哲史氏。北海道の東川町の写真フェスティバルを育ててきたイベント・プロデューサーで、ご自身も写真家、若い頃から、沖縄の写真を撮り続け、2年前から沖縄に住んでいる。

飛彈野さんの写真を発掘したのは、この勇崎さんだといってもいい。まるで、家族のスナップ写真を撮るように、町の人の写真を撮り続けた飛彈野さんの家には、膨大なネガが眠っていた。「大した写真じゃない」と照れる飛彈野さんに、勇崎さんは少しずつ近づいていった。東川でフェスティバルがあるたびに声を掛け、距離を縮めていったのだ。まるで「星の王子さま」のなかで、キツネが語る「友だちになる方法」にそっくりだ、とテレビのなかの勇崎さんの話を聞きながら思った。

飛彈野さんのお宅にやっとお邪魔して、勇崎さんは、その全貌を知ることになる。それは、想像をはるかに超えた、驚くべきお宝の山だった。

番組の冒頭で立木義浩氏が飛彈野さんを「アマチュアではじめたんだけど、東川村のためにいろいろ撮っていくうちに、プロになっていくんだよね」と評しているけれど、ちょっと違うような気がする。NHKのサイトにあった「一流のプロの写真家をも脱帽させてしまう、飛彈野の写真」という表現も、わたしにはぴんとこない。

飛彈野さんは、アマチュアだった。最後まで偉大なるアマチュア。写真を生業とし、お金と引き替えにするプロとは、一線を画した存在だ。いとしい家族の写真を撮るように、村の人々の写真を撮ってゆく。ジャーナリストとしての視線ではない、父親が子どもを撮るように、親しい友人を撮るように、慈しみ、愛おしみながら、写真を撮影していくのだ。

飛彈野さんは、撮った写真をコンテストに出すことも、写真雑誌に投稿することもなかったという。ただ無欲に、撮り続けたのだ。だから、そこにはいわゆる芸術家としての鼻につく作為もないし、うまく撮ってやろう的な野望も見えない。淡々と撮られた何気ない1枚。ある意味、凡庸すぎるほど凡庸な1枚であるといってもいい。しかし、その1枚1枚の積み重ねが80年になると、すべてが俄然、光を帯びてくる。

この飛彈野さんの写真を、勇崎さんが実に的確に言い当てている。「写真には奪う写真と返す写真」があるという。奪う写真は、狩人が銃を構えるようにして狙いをつけて撮る1枚。傑作志向の写真だ。しかし「返す写真」は違う。写真を撮って、それを現像して焼いて、映っている人に渡してあげる、贈り物としての写真。もらった人の喜ぶ顔が見たくて撮る写真だ。飛彈野さんの写真は「返す写真」だったと勇崎さんは言う。

飛彈野さんの笑顔がいい。やわらかで楽しそうな声もいい。あの笑顔で、声で、やさしさで、飛彈野さんは無欲に、写真を撮り続けたのだろう。ただただ、人が喜ぶ顔が見たくて。いや、飛彈野さん自身が、かけがえのない瞬間、この宇宙の歴史のなかで、ただ一度、そこにしか出現しない一瞬を、限りなく愛しく思い、写真という魔術で、定着しようとしたのかもしれない。

勇崎さんは言う。おそらく、日本中に、そんな写真が眠っているだろう、と。飛彈野さんのように撮り続けた人は稀だろうけれど、どの家にも、ただ家族の一瞬を残したくて、撮った写真が埋蔵されているだろうと。そういう写真には、大きな価値がある。時代の証言としての意味がある。そのことを、みんなに知ってほしいと。

番組撮影中、飛彈野さんはすでに病におかされ、闘病中だった。にもかかわらず、屈託のない、最高の笑顔を見せてくれている。番組放映の2カ月前、2008年の暮れに、飛彈野さんは息を引き取られた。

番組の最後に、スタッフが飛彈野さんに訊ねた。これからも、写真を撮りますか、と。すると飛彈野さんはとびきりの笑顔で言ったのだ。「撮るよ。あと5年は撮るよ。生きている限り、撮るよ」と。そして、懐から最新型の小さなデジカメを出して、さっそくスタッフに向けたのだ。

入院中、飛彈野さんが撮った写真は、病院の先生や看護士さんたちの笑顔。そして、最後にシャッターを切った1枚は、見舞いに訪れた家族の肖像写真だった。作為のない、ごくあたりまえの写真。それは、80年前、14歳の時に生まれて初めてとった家族の肖像写真と、同じ構図だった。

いい番組だった。わが友勇崎さんが、ぼざぼさの髪で、ヒゲで、なんだかインド服みたいなダボダボの木綿の服で、大丈夫だろうかと最初は心配したけれど、自然体で、飛彈野さんについて過不足なくすなおに的確に語っていて、ほっとした。ああ、よかったと思った。ほかの誰でもない、勇崎さんをゲスト・コメンテーターに選んだNHKの見識に脱帽だ。

最近の新日曜美術館は、ひどかった。話題性を求めてか、コメンテーターに、物のよく分かっていない有名人やタレントを呼んだりしていた。コメンテーターの見当違いなコメントに、興ざめしたことは、数知れない。しかし、今回の人選はぴったりだった、というか、勇崎さん以外に、ここまできちんと語れる人はいない。飛彈野数右衛門という市井の写真家にスポットを当てたNHKの英断にも、拍手したい。


番組を見て、考えたことがあった。芸術とは、なんだろうか、ということだ。

わたしは奈良少年刑務所で講座を持ち、受刑者に詩を書いてもらっている。彼らの、作為のない、技法もなにもない素朴な詩に、時に、涙が出るほど心が震えることがある。

小学校4年の頃、わたしは国語の時間に、クラスメートと大論争をしたことがあった。詩をかくのに、技術は必要かどうか、という論争だった。わたしは、人にきちんと伝える詩を書くためには、人に伝わるように書く技術が必要である、と思っていて、当時は、それを頑として曲げなかった。

けれど、いまになって思うのだ。もしかしたら、それは間違いだったかもしれない、と。うまく書こう、という欲もなく、ただただ、素直に心情を吐露した作品には、確かに力がある。

それはきっと、受刑者が、最初からつまらぬ欲を持っていないからだ。ひとつこれで表現してやろう、などという野心がないからだ。最初から、野望から解放されている。だから、驚くほど素直でまっすぐな言葉を綴ることができるのだろう。

わたしはしがない売文稼業、文章を売って食べている。その意味では、ある種、不純な存在だ。飛彈野さんのような心、受刑者のような素直さから、学ばなければならない。

そうか。その意味ではボランティアで「まんとくん」を応援するのは、意義のあることなんだ、などと自分の言い訳にして、さらにのめりこむかもしれないわたしであった。

■北町でお松明の竹掘り

Sun, 01 Feb 2009 23:04:24

3月1日からはじまるお水取りは、盛大に燃える巨大松明で知られている。松明に使う竹は直径10センチ以上、長さも8メートルほどの、まっすぐなものでなければならない。松明は14日間、毎日10本ずつ燃やされ、12日には11本燃やされるので、それだけでも141本が必要だ。その他、ダッタンの儀式に使われる飾り松明もある。

竹の寄進は、京都の山城松明講が有名だが、奈良市内からも寄進されていることは、あまり知られていない。2月1日、般若寺の岡本三好さんを代表とする「仁伸会」のメンバーにより、寄進するための竹掘りが、北町の竹林で行われた。

朝8時に集合。40度ほどのはげしい傾斜面で、6人がかりでの作業がはじまった。ほとんど手入れをしていない竹林なので、竹が密生し、その間を縫ってのぼっていくのだけでも大変だ。

竹林で、これは、という立派な竹を見つけ、掘りはじめる。足場の悪い傾斜地での竹掘り作業は、ほとんど命がけといってもいい。竹は、頑丈に根を張っている。時にノコギリで地下茎を切断しながらのきつい作業が続く。一本掘るのに1時間以上かかる。

やっと掘り終えた竹を、下におろすのにも技術がいる。竹がぐらつき始めると、ロープをかけ、密生した竹の間をくぐらせて、下におろす。

ノコギリで伐ってしまえば、ずっと楽なのだが、そうはいかない。松明は重いため、重心をとるためもあって、根付きの竹が重宝される。そのために、苦労してでも、根から掘りだすのだ。

昼すぎまでに6本、午後に4本を掘って、寄進する10本の竹を揃えた。太いものでは、周囲38センチもあった。

竹は、般若寺の岡本さん宅に運ばれ、奉納のための文字を墨書きし、日を改めて東大寺に奉納される。日程は、未定。山城松明講が2月11日に寄進を予定しているので、それより前では申し訳ないと、その後にしたいとのこと。

般若寺の岡本さんは、20年以上、お松明の竹の寄進をしてきた。今回は「仁伸会」として、はじめての寄進となる。

北町で町おこしをしている田中功さんは「ずっと北町で活動しているが、知らなかった。ぜひ連絡を取って、町おこし運動と連携させてもらいたい」と語っている。

■まんとくんの杖 仁心会の善意の杖作り

Sat, 31 Jan 2009 20:15:38

「竹で杖をつくってるんだ。お年寄りにプレゼントしたいんだけど」と、相談された。竹林から竹を伐採し、それを自分たちで杖に加工しているという。
「5年前に100本、3年前にも100本作って、ある議員さんを通じて市の福祉課に寄付したんだけど、市からは、なしのつぶて。誰に届いたかもわからない。ちゃんと必要な人に届けたいんだけど、どうしたらいいだろう」

相談してきたのは、般若寺で建築業を営む岡本さん。ご近所の酒屋で出会った飲み友だちでもある。お仲間は「仁心会」というそうだ。そこでピカッとわたしの頭に電球が灯った。「じゃあ、まんとくんの焼き印を作って、それを押した『まんとくんの杖』にして、仁心会から、まんとくんを通じて、お年寄りへの贈り物にしたらどうだろう。そうすれば、杖も知らないところに埋もれないですむよ」と言うと「いいね、それ」と乗ってきてくれた。実現できれば、まんとくんも、みんなの役に立ててしあわせだ。

杖を作るのも、実は一苦労だという。「じゃあ、作っているところから取材して、写真に撮りましょうか」というと、ぜひ来てほしい、迎えに行くから、とトントン拍子で話は決まり、今朝、迎えに来てくれた。

車で大柳生にある山荘へ。行くと、いつもは酒屋で酔っぱらっている面々が、顔を揃えていた。朝7時半からドラム缶に水を汲んで、お湯を沸かし、竹を煮ているという。

竹杖作りの手順は、
  1. 竹を伐採する。
  2. 枝を払い、長さを揃え、2週間ほど乾かす。
  3. 枝の跡や節をきれいにヤスリがけする。
  4. 油ぬきのためかぶるほどのお湯で3時間以上、煮沸する。
  5. ボロ布で、表面に浮いた油や汚れをきれいに拭き取る。
  6. 十日間ほど乾かす。
  7. ニス塗りをする。
  8. 紐をつける穴を開ける。

百本の竹を竹林から伐採するだけでも、大変な手間だ。低いところからばさばさと枝の出た竹はかさばるし、扱いにくい。この枝を落とすのもまた一苦労。そして、老人の手に引っかからないようにと、ていねいなヤスリがけ。煮沸がまた、大変な作業だ。煮沸すると、油が抜けて丈夫になり、色も青竹から淡い黄色に変わり、美しくなるという。

午後2時頃になって、やっと50本の煮沸が完了する。それまで、付きっきりで薪をくべたり、薪割りをしたりしながら、5人が働いていた。

蓋を開け、熱い竹を湯から出して、布で拭く。わたしも手伝った。熱い。けれど、熱いうちに拭くと、きれいにぴかぴかになり、自然のツヤも出てくる。薄汚れた表面が磨かれ、なめらかな竹の肌が出てくるのは、それだけでも胸が騒ぐような美しさだ。おじさんたちは「きれいやなあ」「二つと同じ物はないなあ」と感嘆の声をあげながら磨いていた。

この竹は「達磨竹」という変わった竹で、根に近い部分が節がつんで面白みのある模様を浮きあがらせる。「水戸黄門のあの杖よ」と岡本さん。確かに握りやすいし、節の作りだす模様も美しい。

「どうして、竹の杖を作ろうと思ったんですか?」
「ある時な、ツレ(友だちのこと)の山で珍しい竹を見つけたんや。面白いんで、それで杖を作ってみて、近所のお年寄りにあげたら、えらい喜ばれてな。それで、杖をつくって寄付することにしたんや。それで、みんなに手伝ってもらって」

なんていい話だろう。わたしは心底、感動してしまった。あの、夜毎に集まって飲んでいる人々が「ひとつ、世の中の役に立つことをしようじゃないか」と相談していたのである。そして、口先だけではなくて、こうやって実行してきたのだ。誰に頼まれたわけでもなく、自分たちの志で。

立ち飲みの酒屋は、地域のコミュニティ・センターの役割を果たしている。人と人を結びつけ、こんな「善意の行動」を生みだしている。やってみてわかったけれど、この杖作りは、ほんとうに大変だ。しかし、彼らはそれを厭わない。それどころか、この大変な作業を共にすることを、ひとつの楽しみにしている。そして、滾る湯のなかから取りだした竹を磨くとき、そこから現れる天然自然の美に感じ入り、深く感動しながら、喜びを感じて労働しているのだ。

大柳生の山里の美しい田園風景。立ち上る煙、木の燃える匂い、滾る湯、もうもうとたつ湯気、そのなかから現れる竹の肌の美しさ。無償の労働。なんという「豊かな生活」! 岡本さんたちのしていることは、宮沢賢治が夢みたものに限りなく近い。

「まんとくん」が、こんな善意の人を結びつけるキーパーソンに育っていってくれたら、うれしい。

■矛盾とビジョン/沈みゆく巨大客船

Tue, 30 Dec 2008 15:27:17

二酸化炭素排出量の削減が求められている。
車が減れば、二酸化炭素排出量も減るはずだ。
なのに、車の生産台数、販売台数が激減と大騒ぎになっている。

人口爆発は、地球と人類の大問題だ。
それなのに、少子化が問題だと大騒ぎになっている。

おかしい。明らかに矛盾しているではないか。

車産業ではないエコ産業への転換を、政府も企業も、
もっと以前から真剣に求めるべきではなかったか。
人口が減ってもやっていける社会モデルを
本気で追及すべきではなかったか。
あまりにもビジョンがなさすぎた。

派遣切りが相次いでいる。
社員は、それで自分の暮らしを守ったと思っている。
しかし、ほんとうにそうだろうか。

寮生活をしている派遣社員が、仕事を失い、住居を失えば、
町に、路上生活者や住所不定の人が溢れることになる。
町は安全な場所ではなくなる。
結局、だれもが危険にさらされることになる。

労働時間を減らし、給与をみんなで少しずつ減らして、
派遣切りやリストラをしないでやっていくことはできないのか。
給料が減れば、みんな少しずつ苦しくなるだろう。
けれど、それでみんながなんとか暮らしを支えられたら、
その方が、ましではないのか。

利潤追求、拝金主義の資本主義社会が
大きなほころびを見せている2008年の終り。
企業も政府も、大きな転換をしなければ、
いまの世界は破綻するだろう。

目先の場当たり的な対応ではなく、
未来を見据えた本気の対応をするべき時ではないか。

でないと、地球は丸ごと、沈みゆく巨大客船になってしまう。

■もみじマークの罰則は高齢者イジメ?

Tue, 30 Dec 2008 13:53:25

75歳以上の高齢者が運転する車に「もみじマーク」をつけることが義務化されたが、違反者に科せられる罰則が「高齢者いじめ」との批判が高まり、猶予されることになった。
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20081203ddm041040016000c.html

なんとバカバカしい「配慮」だろう。年を取れば、誰だって反射神経も判断力も鈍ってくる。高齢者自身が事故に遭う可能性だけではなく、高齢者が他者を事故に巻き込む可能性も高くなる。

「もみじマーク」がついていれば、回りの人々も、車間距離をいつもより多くとるなど、配慮ができ、事故の可能性も低くなるだろう。「もみじマーク」の車が運転しやすいように、気を遣ってあげることもできるだろう。「もみじマーク」は、高齢者のみならず、道路上のすべての人の命に関わるものだ。罰則規定をなくすことは、路上の危険を増すことに他ならない。

見せかけの配慮ややさしさが、この世界をダメにする。こんなことを「配慮」だと思っている政治家にはウンザリだ。

むしろ、75歳以上の人には、毎年、運転免許更新のための実技試験を実施し、義務化してほしいくらいだ。それなら、高齢者の命も、他の人の命も守れる。

「もみじマーク」をつけずに事故になって命を失ったり人を傷つけたりするのと、「もみじマーク」をつけないで罰を受けるのと、どっちがほんとうにひどいことなのか。ほんとうの「思いやり」とは何か、よく考えてほしい。

■1300年祭イメージソングを1千万円で谷村新司に依頼?!

Sun, 28 Dec 2008 15:58:13

平城遷都一三〇〇年事業協会は、平城遷都1300年祭のイメージソング制作を決定。谷村新司氏に制作費1千万円で依頼することになった。無反省な事業協会にあきれて、あいた口がふさがらない。以下、奈良新聞より抜粋。
【1300年祭イメージソング 谷村新司さん制作へ キーワード一般募集】
2008年12月27日(土)奈良新聞 11面

 平城遷都一三〇〇年事業協会は二十六日、一三〇〇年祭のイメージソングの制作を歌手の谷村新司さんに依頼する、と発表した。一三〇〇年祭開催のメッセージを、音楽を通して国内外にPRするのが狙いで、同祭開催二百五十日前となる来年四月二十六日に発表の予定。同協会はまた、制作にあたってのキーワードを同日から一般募集している。

 谷村さんの選任は、今月一日に東京都渋谷区の県代官山iスタジオで開かれた選定委員会(委員長・福井昌平協会チーフプロデューサー、五人)で決定した。
 制作費用は作詞、作曲、CDの原盤制作、同協会がイベントで使用できる権利などを含め一千万円。
「せんとくん」に引き続き、またしても市民県民置き去りのまま、見えないところで決定された「中央」の「著名人」への依頼である。しかもその費用が1千万円。税金からの支出である。事業協会の無反省ぶりにはあきれかえるばかりだ。なぜこんなことになるのか?

民間キャラ「まんとくん」は「市民がその気になれば、大きな力を出すことができる」ということを証明してくれた。事業協会も、最初から市民を巻きこみ、みんなの力でマスコットキャラを選んだならば、大きな異論は出なかっただろう。いや、異論が出ない、などどいうマイナス面云々の問題ではない。そもそも、市民県民を巻き込んでこその「祭り」だ。自分たちのものだと思えてこそ、祭りも盛りあがり、みんなが「平城遷都1300年」の意味を感じる新たな機会にもなる。

「まんとくん」は、そのような市民参加のスタイルが可能であるということを実証してくれた。そして、その実証こそが、「せんとくん」を代表する官の押しつけである祭りのスタイルへの、最大の批評であり批判となったはずだ。

が、しかし、県も事業協会もプロデューサーも、一かけらの反省もなかった。市民の声を聞こうという態度がなかった。ということが、この「イメージソング」の制作依頼で、はっきりした。あきれはてるばかりだ。

なんのための「イメージソング」か。たった1曲のための制作費が1千万円とは? いま、一曲の制作に1千万円かけるミュージシャンが、日本にどれほどいるのか。これは「谷村新司」というブランド使用料に他ならない。同時に、「谷村新司事務所」への利益誘導だ。制作費1千万円のなかには、イベント使用以外の「著作権使用料」入っていない。つまり、谷村新司氏には、CDの著作権印税がまるまる入る仕組みだ。

「せんとくん騒動」は谷村新司氏の耳にも入っていることと思う。辞退しなかった谷村新司氏の見識を疑う。それ以前に、1千万円で有名ミュージシャンに依頼しようという事業協会の見識が激しく疑われるが。

これが、企業のPRのための曲の制作依頼なら1千万円かけようが、1億円かけようが、企業の勝手だ。しかし、これは税金を使って行う事業なのだ。イメージソングに採用してもらえるなら、タダでも構わない、作りたい、という県内のミュージシャンだって、いくらでもいるだろう。そういう人々に夢を与え、内側から盛りあげていく努力を、なぜ事業協会はしようとしないのか。

事業協会は中央へ利益を誘導するばかり。そんなことに、税金を湯水のように使われてはたまらない。市民を巻きこみ、自分たちの祭りとすることこそ、大切なことではないか。

平城遷都1300年祭のイメージソングを谷村新司氏に制作費1千万円で依頼することに断固として異議を唱える。

補足:
谷村新司氏は、よい歌い手で、よい作詞作曲家だと思う。氏が、奈良や1300年祭をテーマにした歌を作り歌ってくれるのなら、それはうれしいことだ。しかし、それはあくまでも氏が自発的にそうした場合の話だ。事業協会が、1千万円という税金を投入して依頼した、ということに異議を唱えたい。依頼した相手が誰であろうと、これは大きな問題だ。

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