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ファイト・クラブ の検索結果


寮美千子  タイラー・ダーデンはビンラーディンか?/映画『ファイト・クラブ』 2001年10月13日(土)04時41分19秒 http://ryomichico.net

さて、下記で紹介した映画『ファイト・クラブ』。アメリカでの公開は1999年10月だった。日本では、人気俳優ブラッド・ピット主演の「お正月映画」として同年の12月に公開されている。ブラピ主演のお正月映画?? 見に行くわけがない。だから『ファイト・クラブ』が、まさかそんな映画だとは、わたしはつい先日まで、知らなかった。見たのは、今年になってから、WOWOWでだ。見て、腰を抜かした。この作品のどこが「人気俳優」の「お正月映画」なのか? お正月に見る軽く楽しく明るい娯楽作品などでは、さらさらない。そのつもりで見た人は、一体これをどう受け取ったのか? 気の毒に思うほど、映画の内容は濃く、考えさせられるものだった。そして、この作品はわたしのなかで一気に『ブレードランナー』と双璧をなす傑作として位置づけられたのだ。

その時のショックもさることながら、いま、見直してみて、再び強いショックを得てしまった。ラストシーンの高層ビルの大崩落。詩的なまでの美しいそのシーンは、まるで「あの映像」そっくりではないか。映像ばかりではない、彼らがなぜ、テロ行為に及んだか、その本質的な意味合いもまた、今回のテロと重なる(とわたしは感じる。その理由については、すでに縷々と書いてきたので、省略する)。

「物質至上主義への反乱」「経済を崩壊させ、心の優位性を取り戻す」

その反乱が、映画の中ではアメリカの白人社会から起こっているのだ。そう、この映画の特徴の一つは、名前のある主人公がすべて「白人」だということだ。白人の中から起こった反乱。という形をとることで、これが「人種問題」でも「宗教問題」でもないことを示唆している。と同時に、ハリウッドのエンターティメント映画として社会の承認を得ているのだ。なんという巧妙な手段だろう。

ハリウッドの人気俳優を使って撮られた娯楽映画、という意匠。しかし、内実は違う。あまたある娯楽映画のように、物語を盛りあげるために「物質至上主義への反乱」という口実を、道具として使っているわけではない。見終わったときに手渡されるもの、それは簡単に解決のつかないもの、ただ娯楽として「面白かった」ではすまないはずのものだ。

そのすまないはずのものを、すませてしまう観客が大半であることを、監督はわかっていたのかもしれない。ラスト・シーンで画面が微妙にぶれた。コマ送りしてみると、そこには裸の男の腰を正面から撮った映像が、差し挟まれていた。明らかに「ファック・ユー」というメッセージ。そう、これはきっと娯楽映画のふりをした、限りなく危険な映画なのだ。

しかし、そんな映画が撮れてしまったということ。しかも、ハリウッドで。しかも、人気俳優主演で。それは、一体何を意味しているのだろう?

いまから半世紀前、アメリカは無邪気に物質文明を謳歌していた。巨大冷蔵庫、緑の芝生、芝刈り機、聡明なパパと美人のママに、いたずらな子どもたち。その舞台は田園から都市へと移る。ドラマ「パパは何でも知っている」の、都市のコンドミニアムの豊かな暮らしのまぶしかったこと!

あんな脳天気なことを、いまもみんなが考えているわけではない。豊かになるはずだったのに、心が荒んでいく。何かに渇き、何かが足りない。お金では、解決のつかないものがあることを、人々は共通理解として共有するようになった。だからこそ『ファイト・クラブ』のような映画を撮ることが可能だったのだろう。

崩落する高層ビル。それを「美しい幻想」として見たい欲求があったからこそ、あのような映像が現実より2年早く、予言のように存在したのではないか。それが、流血なしに遂行されるファンタジーを、人々は夢見ていた。あるはずがないと思いながらも、待ちこがれていた。

大切なのは、その幻想の中では、人が死なないということだ。人が簡単に、いくらでも死ぬハリウッドの娯楽映画で『ファイト・クラブ』のなかの死者は、テロ側のクラブ員ひとりだけだ。しかも、その男の死は、無数の死のひとつとしてではなく「名前のある死」として、人々に記憶され、語り継がれることになる。これだけ暴力で満ち満ちた映画の中の死者がひとりだけなんて、これは尋常ではない。監督か、作家か、それは知らないが、実に注意深く無意味な死を避けている。

流血なしにファンタジーが遂行されれば、という夢は虚しく、実際には六千もの尊い命が失われた。そればかりか、いまもアフガニスタンの空の下、命が奪われつつある。爆撃で、そして難民という過酷な暮らしのせいで。アフガニスタンを爆撃するアメリカを、西欧諸国は支持し、さらには国連までもが支持している。その国連事務総長が、ノーベル平和賞を受賞するというこの馬鹿げた世界。こんな世界に、わたしは生きている。世界は『ファイト・クラブ』よりもずっとグロテスクで、狂気じみているではないか。死に瀕した人々の互助会に出席することに中毒になり、殴り合うことにリアルを感じている主人公の心の方が、ずっと健康に見えはしないか。

「ぼくは何もしていない。何も知らされていない」
そう思っていた主人公のジャックが、テロの首謀者タイラーから突きつけられた言葉。
「おまえが、おれを創りだしたんだ」
ジャックは、最終的にその意味に気づいた。その意味に気づく人が、いま、アメリカに、日本に、どれだけいるだろう。ほんとうは、わかっているはずだ。ほんとうに望んでいるのは、こんな人生ではなかったはずだ。こんな社会ではなかったはずだ。そのことに、より多くの人が目覚めるのは、いつのことだろう。

寮美千子  きみは『ファイト・クラブ』を見たか?/あらすじ 2001年10月13日(土)04時40分36秒 http://ryomichico.net


『ファイト・クラブ』という映画を見た。以前にも見て、相当にショックを受けた映画だ。『ブレードランナー』系列の作品(わたしの中での位置づけ)では、ブレラン以来の凄い映画だと思っていた。WOWOWで再放送があったので、テロ事件を念頭にもう一度見直して、さらに強い衝撃を受けてしまった。


以下、『ファイト・クラブ』という映画のストーリーの概要を紹介する。内容をすっかり明かしてしまうので、これから映画を見る人は、読まない方が楽しめるということを警告しておく。


映画は、いきなり銃を口に突っ込まれた主人公ジャックのアップからはじまる。巨大な硝子窓から見えるのは、高層ビル群。主人公自身も、そんなビルのきらめきを一望する高層階にいるらしい。がらんと暗い空き部屋のような場所。なぜ、そんなところで銃を口にくわえさせられているのか。回想から、映画ははじまる。

主人公のジャックはヤング・エグゼクティブ。自動車会社で事故車の調査をしている。飛行機でアメリカ中を飛び回るジャックの悩みは不眠症。医者に相談したが「もっと運動をしろ」と相手にされない。「こんなに苦しんでいるのに!」と叫ぶジャックに、医者は言う。「ガン患者の会ににでも出てみろ! おまえの悩みなんか、つまんないもんだってすぐにわかるさ」といわれ、試しに「睾丸を失った男たちの会」に顔を出すジャック。そこでは、つらさと悩みを生にぶつけあう患者たちがいた。そこで、存分に泣いて普段の暮らしでは得られないカタルシスを得たジャックは、ようやく快適な睡眠を得る。

以来、ジャックはシリアスな問題を抱えた人々(癌、アル中、脳疾患、血液疾患、etc.)の互助組織の中毒となり、会から会へと、毎日のように渡り歩く。そして、同じように様々な会を渡り歩く一人の女性マーラの存在に気づく。彼女も自分が「偽患者」であることに気づいているはず。そう感じたジャックは、もう以前のようなカタルシスを得られない。

苛立つジャックはマーラに近づき、取り引きをする。偽患者だということを秘密にするから、同じ会で顔を会わさないですむように、棲み分けをしよう、というのだ。


以上が、物語の導入部。これだけで、充分にシニカルだ。コンドミニアムをいくら趣味の高級北欧家具でコーディネイトしてみても、心の満足は得られない。お金は充分にあるけれど、生きている実感のしないヤング・エグゼクティブが、生きている手応えを得られたのは、死にかけている人々や、人生のドン底にいる人々の集いに出るときだけ。事故調査のために旅から旅への暮らしでは、すべてが「一回分」。機内食の一回分の塩と胡椒、ホテルの一回分のシャンプーと石鹸、飛行機で隣り合うのは、その時だけ言葉を交わす一回分の友人。

ある日、ジャックが飛行機での出張から戻ってみると、コンドミニアムの自分の部屋から火が噴きだし、自慢の北欧家具が焼けこげて路上に散乱している。留守中に彼の部屋でガス漏れがあり、ガス爆発したのだという。心の支えだったブランド家具を失い、茫然自失のジャックは、ポケットに飛行機で知り合ったばかりの一回分の友人タイラー・ダーデン(ブラッド・ピット)の名刺を見つけ、公衆電話から電話をする。

家を失ったジャックはタイラーのところへ転がりこむ。そしてはじまる、ジャックとタイラーの奇妙な同居生活。そこに絡む謎の女マーラ。といふうに物語は物語らしく微妙な三角関係になっていくのだが、この映画の本分はそこにはない。

タイラーは放置された廃屋を勝手に占拠して暮らす自由人。仕事は高級石鹸の製造販売だという。そのタイラーは、ジャックに突然「おれを殴れ」という。なぜかわからないままに、うながされて一発殴るジャック。それをきかっけに、本気の殴り合いになり、ふたりはへとへとになるまで殴り合う。他意はない。意味もない。ヴァーチャルな世界で、リアルな肉体を実感するためのだけの殴り合い。ジャックはその行為に、いままでにないカタルシスを感じる。癌患者の互助組織などふっとぶようなカタルシスだ。ジャックはしあわせを感じ、ふたりは殴り合うために殴り合うようになる。


ただ殴り合う。ふたりの間ではじめたこの行為は、すぐに仲間を得る。殴り合い、という原始的な行為は、男たちに生きている実感を与えた。それが、一介の喫茶店のボーイであろうと、ヤング・エグゼクティブだろうと。男たちは、地位も名誉も関係なく、肉体だけのリアルな世界でぶつかりあい、共感し、連帯する。空き地の草バスケットボール程度だった男だけの密やかな楽しみ「ファイト・クラブ」は、みるみるうちに成長し、やがて、全米を覆う巨大地下組織となる。それは、資本主義社会の歯車としてすり減るだけの暮らしを強いられている男たちが、野性を取り戻す場所だ。


ファイト・クラブの喧嘩風景を見て思った。これはまるで、博多の山笠だ。男たちが、男であることを取り戻す祝祭の時間と空間。現実社会にいかに取り込まれ、そこで退屈な役割を割り当てられようが、祭りの場では、男は目一杯、命を燃やすことができる。この社会が抑圧してしまったものを、存分に発揮することができ、発揮すればするほど周囲からも尊敬を集める。祭りというものは、ある意味、そのように機能してきたのではないだろうか。社会のガス抜きの弁として、プロ野球以上に有効な、そしてプロ野球が及ばないほどエレガントな手段だったのだと思う。


しかし、そのアナーキーは祭りの時間が、日常を浸食したら、どうなるか? 山笠とて、いくら長いといってもたかが半月。限られた時間の中で、特別に許された時間だからこそ、祝福されている。その時間あってこそ、日常が日常として堅固に存在することができ、機能もする。バランスが保たれている。


しかし、映画のなかでファイト・クラブという祝祭空間は、いつのまにか日常へと浸出してゆく。殴り合いという「リアル」な世界で自信を取り戻した男たちは、現実社会という「ヴァーチャル」な世界でも、その振る舞いを少しずつ変えてゆく。そして、ついには現実の社会生活を捨て、ファイト・クラブという、見えない組織へ人生のすべての時間を捧げる男たちが出現する。


一体、どちらが「リアル」でどちらが「ヴァーチャル」なのか。肉体というもっともリアルだったはずのものが、「ファイト・クラブ」という名前を持ち、組織として自己増殖していくことで、いつのまにかヴァーチャルな存在に転じてゆく。男たちは、命を捧げることさえ厭わないテロ集団と化していくのだ。


しかし、単なる祭りの熱狂が現実社会を浸食した、という意味だけではないことが映画の中で綿密に語られていく。こんな具合にだ。


「ファイト・クラブ」の資金源のひとつは高級石鹸。石鹸の質は、使う油脂の質で決定する。人間の肌に近ければ近いほど、肌に優しい。つまり、人間の脂肪で作るのがいちばんだ。というわけで、特製高級石鹸は、人間の脂肪から作られる。脂肪は、整形外科から非合法に手に入れる。痩身法のひとつ「脂肪吸引」によって腹部や臀部から吸引され、廃棄された脂肪なのだ。高級石鹸は、材料名を伏せられたまま、高級デパートで大評判を呼ぶ。タイラーはいう。「自分の尻の脂肪を、高い金で買い戻してるってわけさ」


ジャックが勤める大手自動車会社は、自動車の欠陥を故意に隠している。リコールしてかかる費用と、事故が起きたときに支払う補償金を比べ、補償金の方が安いと踏むと、欠陥を隠して売り続けるのだ。その内部事情を知っているジャックは、それを脅迫材料として会社から金を巻き上げる。平然と欠陥を隠す上司を見て、ジャックは思う。「この男が疑問にも思わずにやってきたこと、それが悪を生んできた」


そう。テロ行為は、そのように歪んだ社会それ自体が招いたものなのだ。テロ集団と化したファイト・クラブは、街に出てテロ行為を行う。しかし、それは人命を犠牲にしない「愉快犯」的なテロだ。彼らは、社会の矛盾を突いて、人々にそれを突きつける。その矛先は、大企業だけとは限らなかった。現実に押し流され、いつしか夢を忘れて、フリーターとしてテキトーな日々を送っている若者にも向けられる。「資本の奴隷になるな」「鎖を解き放ち、自由な心を持て」「本来の自分を取り戻せ!」。それがファイト・クラブのメッセージだった。タイラーは、ファイト・クラブを創った英雄として、人々の尊敬を集める伝説の人物となる。


しかし、現実はそれを笑って受けとめるほど寛容ではなかった。警察が出動し、クラブ員の一人を射殺する。はじめての死者。それを契機に、ファイト・クラブは急速に変質する。しかし、ジャックは蚊帳の外。なにが進行しているのか、わからない。事実を探ろうとするジャックは、残された航空券の半券を頼りに、タイラーの足跡をたどる。そして、真実を知って愕然とする。計画とは、クレジット会社の入っている高層ビルを爆破すること。それも、ひとつではない。同時に11カ所で。なぜ、クレジット会社のビルなのか? 再会したタイラーはいう。「みんなの借金を帳消しにして、金融の混乱を招き、みんなを自由にするため」「思えば、大した成果だ。目の前で金融界が崩れ落ち、経済的平等が訪れる」。そしてまた、こうもいうのだ。「だれも殺したりしない、みんなを自由にするだけだ」と。


隠された真実は、そればかりではなかった。タイラーの正体は……。


それだけは我慢して黙っておくことにしよう。しかし、タイラーの興味深い台詞だけは、やはりここで伝えたい。タイラーはジャックにこういうのだ。「おまえが、おれを創りだしたのだ」と。何も知らない、テロ事件とは関わりのないジャックが、地上最大のテロリスト、タイラーを創ったとは、どういうことか?


ラストシーン、高層ビルが次々と崩落してゆく。どこかで見たことがある、衝撃的な映像。しかし、そこには失われる命はない。警察にも、ビル管理会社にも、ありとあらゆる場所に、ファイト・クラブの会員がいて、その時間、爆破されるすべてのビルを計画的に無人にしていたからだ。ジャックは、ようやく再会したマーラにいう。

「ぼくを信じろ。これからは、すべてはうまくいく」
Trust me. Everything gonna be fine.

管理者:Ryo Michico <web@ryomichico.net>
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