さて、
下記で紹介した映画『ファイト・クラブ』。アメリカでの公開は1999年10月だった。日本では、人気俳優ブラッド・ピット主演の「お正月映画」として同年の12月に公開されている。ブラピ主演のお正月映画?? 見に行くわけがない。だから『ファイト・クラブ』が、まさかそんな映画だとは、わたしはつい先日まで、知らなかった。見たのは、今年になってから、WOWOWでだ。見て、腰を抜かした。この作品のどこが「人気俳優」の「お正月映画」なのか? お正月に見る軽く楽しく明るい娯楽作品などでは、さらさらない。そのつもりで見た人は、一体これをどう受け取ったのか? 気の毒に思うほど、映画の内容は濃く、考えさせられるものだった。そして、この作品はわたしのなかで一気に『ブレードランナー』と双璧をなす傑作として位置づけられたのだ。
その時のショックもさることながら、いま、見直してみて、再び強いショックを得てしまった。ラストシーンの高層ビルの大崩落。詩的なまでの美しいそのシーンは、まるで「あの映像」そっくりではないか。映像ばかりではない、彼らがなぜ、テロ行為に及んだか、その本質的な意味合いもまた、今回のテロと重なる(とわたしは感じる。その理由については、すでに縷々と書いてきたので、省略する)。
「物質至上主義への反乱」「経済を崩壊させ、心の優位性を取り戻す」
その反乱が、映画の中ではアメリカの白人社会から起こっているのだ。そう、この映画の特徴の一つは、名前のある主人公がすべて「白人」だということだ。白人の中から起こった反乱。という形をとることで、これが「人種問題」でも「宗教問題」でもないことを示唆している。と同時に、ハリウッドのエンターティメント映画として社会の承認を得ているのだ。なんという巧妙な手段だろう。
ハリウッドの人気俳優を使って撮られた娯楽映画、という意匠。しかし、内実は違う。あまたある娯楽映画のように、物語を盛りあげるために「物質至上主義への反乱」という口実を、道具として使っているわけではない。見終わったときに手渡されるもの、それは簡単に解決のつかないもの、ただ娯楽として「面白かった」ではすまないはずのものだ。
そのすまないはずのものを、すませてしまう観客が大半であることを、監督はわかっていたのかもしれない。ラスト・シーンで画面が微妙にぶれた。コマ送りしてみると、そこには裸の男の腰を正面から撮った映像が、差し挟まれていた。明らかに「ファック・ユー」というメッセージ。そう、これはきっと娯楽映画のふりをした、限りなく危険な映画なのだ。
しかし、そんな映画が撮れてしまったということ。しかも、ハリウッドで。しかも、人気俳優主演で。それは、一体何を意味しているのだろう?
いまから半世紀前、アメリカは無邪気に物質文明を謳歌していた。巨大冷蔵庫、緑の芝生、芝刈り機、聡明なパパと美人のママに、いたずらな子どもたち。その舞台は田園から都市へと移る。ドラマ「パパは何でも知っている」の、都市のコンドミニアムの豊かな暮らしのまぶしかったこと!
あんな脳天気なことを、いまもみんなが考えているわけではない。豊かになるはずだったのに、心が荒んでいく。何かに渇き、何かが足りない。お金では、解決のつかないものがあることを、人々は共通理解として共有するようになった。だからこそ『ファイト・クラブ』のような映画を撮ることが可能だったのだろう。
崩落する高層ビル。それを「美しい幻想」として見たい欲求があったからこそ、あのような映像が現実より2年早く、予言のように存在したのではないか。それが、流血なしに遂行されるファンタジーを、人々は夢見ていた。あるはずがないと思いながらも、待ちこがれていた。
大切なのは、その幻想の中では、人が死なないということだ。人が簡単に、いくらでも死ぬハリウッドの娯楽映画で『ファイト・クラブ』のなかの死者は、テロ側のクラブ員ひとりだけだ。しかも、その男の死は、無数の死のひとつとしてではなく「名前のある死」として、人々に記憶され、語り継がれることになる。これだけ暴力で満ち満ちた映画の中の死者がひとりだけなんて、これは尋常ではない。監督か、作家か、それは知らないが、実に注意深く無意味な死を避けている。
流血なしにファンタジーが遂行されれば、という夢は虚しく、実際には六千もの尊い命が失われた。そればかりか、いまもアフガニスタンの空の下、命が奪われつつある。爆撃で、そして難民という過酷な暮らしのせいで。アフガニスタンを爆撃するアメリカを、西欧諸国は支持し、さらには国連までもが支持している。その国連事務総長が、ノーベル平和賞を受賞するというこの馬鹿げた世界。こんな世界に、わたしは生きている。世界は『ファイト・クラブ』よりもずっとグロテスクで、狂気じみているではないか。死に瀕した人々の互助会に出席することに中毒になり、殴り合うことにリアルを感じている主人公の心の方が、ずっと健康に見えはしないか。
「ぼくは何もしていない。何も知らされていない」
そう思っていた主人公のジャックが、テロの首謀者タイラーから突きつけられた言葉。
「おまえが、おれを創りだしたんだ」
ジャックは、最終的にその意味に気づいた。その意味に気づく人が、いま、アメリカに、日本に、どれだけいるだろう。ほんとうは、わかっているはずだ。ほんとうに望んでいるのは、こんな人生ではなかったはずだ。こんな社会ではなかったはずだ。そのことに、より多くの人が目覚めるのは、いつのことだろう。