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寮佐吉の父、寮作次郎のことを調べたが、愛知県の鳴海町役場が昭和31年に火災に遭ったため、戸籍は焼失してしまっていた。作次郎は福井県福井市寮町の出身で、行商のようなことをしていたらしいと、父は聞いているとのこと。寮町にある勝縁寺は菩提寺で、いまも寮家の古い墓がある。
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作次郎と妻のす江の間には、佐吉を頭に5人の子どもがいた。
1891年/明治24年 佐吉誕生(愛知県愛知郡鳴海町 現・名古屋市緑区鳴海町)
1894年/明治27年 亀吉・鶴の双子誕生
1901年/明治35年 はま誕生
1906年/明治40年 金吉誕生
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作次郎は早くになくなり、長男であった佐吉が家族を支えることになった。当時にしては珍しい海外留学の話もあったが「自分には面倒を見なければならない幼い弟や妹がいるので」と、あきらめざるをえなかったという。
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佐吉のすぐ下の弟である亀吉は30歳で早逝。15歳下には三男の金吉がいた。佐吉は、金吉が広島文理大学を卒業するまで、よく面倒を見たという。金吉は、後に英文学者となる。
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1920年(大正9年)、佐吉29歳の折、勤務先の金城女学校の上司であった三浦常弥の娘はなと結婚。三浦常弥は、南部藩氏族の出身。慶応2年の生まれで、明治10年、わずか13歳で家督相続をしている。当時、廃藩置県で士族は困窮を極めた。そんななか、苦学して岩手師範学校を卒業し、各地を点々としながら教師生活をしてきた人だった。同じように家族の面倒を見ながら苦学して教師になった寮佐吉に共感したのかもしれない。
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はなは、テニスをしてオルガンを弾くハイカラな女性で、結婚前はテニスの御前試合をしたこともあったという。
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勤務していた金城女学校は、ミッション系の学校で、日本ではじめてセーラー服をとりいれた学校との話もある。はなとの結婚式も、教会で行われたという。洗礼こそ受けなかったが、佐吉は終生キリスト教に深い関心を寄せていた。
父に「ドイツ人の宣教師からもらったクロという名の雉トラの猫」の記憶があることから、東京に移ってからも佐吉はキリスト教に関わりをもっていたらしいことがわかる。蛇足だが、クロは外から帰ると、玄関の雑巾で足を拭いてはいるお利口な猫だったとそよ子叔母がいっていた。
これも蛇足だが、わたしが結婚して家を出ると、父は拾ってきた猫を飼うようになった。雉トラなのになぜか「クロ」と名づけていた。それは子ども時代に飼っていた猫に由来したものだったのだ。けれど、謎は解けない。その初代クロは、雉トラなのに、どうして「クロ」と名づけられたのだろう。
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佐吉は向上心が強く、とてもよく勉強をした人だった。名古屋から東京の府立四中の教師になって赴任するときも、青雲の志をたて、各方面へ根回しをして、ようやく実現したという。
一家は、列車で東京に移動。当時まだ3歳だったわたしの父は、リュックサックに自分の長靴だけを入れて、みんなの後ろから、ホームをちょこちょこ着いてきたという。父のすぐ下の妹そよ子が生まれたばかりの時のことだった。
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佐吉は、東京で生まれた末っ子のいそ子をいれて、三男二女に恵まれた。甦太郎、甦次郎、甦三郎、そよ子、いそ子、とすべて「そ」がつくのは、聖書のなかのキリストの甦りからとったという。
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家には、天井までうずたかく本が積まれていた。「アメージング・ストーリーズ」「ポピュラー・サイエンス」などを、三省堂を通じて直接購読。当時、個人としてはかなりのお得意さんだったようだ。科学ばかりでなく、古今東西の古典にも精通していた。
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家にいるときは、ともかく机に向かって仕事ばかりしている人で、トイレに行く時間も惜しみ、机の下にパイナップルの大きな空き缶を置き、そこに小便を溜めていたという。それを捨てに行くのは父の係りだった。「早めにいってくれればいいものを、いつもぎりぎりいっぱいになるまで呼ばれないから、こぼさないように捨てにいくのが一苦労だった」とのこと。笑ってしまうような話だが、わたしが後に、祖父がした仕事の量と質を知ることになると、なるほどそれだけのエネルギーを注いだのだろうと思った。
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わたしの父甦三郎は、佐吉のお気に入りで、神田の古本屋や、取材先によくいっしょに連れて行かれたという。古本屋では、第一次大戦の絵が飾られていたりしたのを覚えているそうだ。
理化学研究所に取材にいった折、佐吉は「素人が何しに来た」と、若い助手につまみだされたという。外で待っていた父は、それを見て、ほんとうに悔しい思いをしたとのことだ。
師範学校を卒業しただけの、一介の英語教師であった佐吉には、肩書きがなかった。当時、科学記事を執筆していた人々は、佐吉のほかには、ほとんどが「教授」などの肩書きのある研究者だった。祖父は、ある本の序文に「学会無宿のわたくしではあるが、深く科学を愛す」旨の言葉を記している。
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佐吉は、房総の上総湊に別荘を持った。ところが、戦時中、この地域は軍事的に重要な場所とされ、列車さえ駅に停車させてもらえない状態になる。疎開したかったのだが、結局、荷物は何一つ運ぶことができなかった。市ヶ谷加賀町の家は空襲で全焼。このため、佐吉の蔵書も著作も、ひとつも残っていない。
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わたしの父甦三郎は、佐吉の三男。昭和3年生まれで、時節柄、軍国少年に育った。「この戦争は日本の負けだ」と明言する佐吉の反対を押し切って、陸軍経理学校へ入学。戦時中、国分寺で寄宿舎生活を送ることになる。
寄宿舎で暮らしていた昭和20年初頭、佐吉の体の具合が悪いということで、父は一時帰宅した。佐吉は、結核を患っていた。
日本を守るのだと息巻く父に、佐吉は諭した。「日本は負ける。おまえは、絶対に特攻などに志願するんじゃないぞ」。父は、こういい返したという。「お父さん。日本は神国です。負けません」
英語教師であった佐吉は「敵国語の教師である」とのことから、授業の機会を奪われていた。病の床につき、薬もなく、栄養のある食べ物もとれないなか、佐吉は学校から辞職勧告をされたという。「ここまで気を張ってがんばってきたが、もうその気力も潰えてしまった」と佐吉は父に語った。それでも、病床で佐吉は中国語の辞書を繰っていたそうだ。「英語を教えられないなら、中国語を勉強しよう」といって。その数カ月後、佐吉はこの世を去った。
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佐吉をお骨にするため、父は火葬場にいった。定かな場所は覚えていないが、山手線の反対側のような遠い場所だったという。その帰り、空襲警報が鳴って、山手線が止まってしまった。父は、お骨を抱え、延々と歩いたという。陸軍のトラックが横を走ると、手を挙げて乗せてもらおうか、などと思いながら、結局ただただ歩いたそうだ。父、一七歳の時のことである。
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佐吉が亡くなった後、加賀町の家は空襲で全焼。寄宿舎生活をしていた父は、赤く燃える東京の空を国分寺から見たという。翌朝「東京に実家のあるものは、特別帰宅を許す」とのことで、実家に帰ろうとしたが、列車は不通。父はひとり、延々と歩いて帰った。新宿から市ヶ谷まで、すべてが焼け野原で見通せてしまったという。途中、形を残しているのはトイレの金かくしと金庫のみ。分厚い辞書が形のままに灰になっているのを見て、そこが自分の家であることを知ったそうだ。幸い、家族に死傷者は出なかったが、佐吉の遺したすべては、その時、灰になってしまった。
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佐吉の長男甦太郎は、海軍将校としてスマトラ・パダンで戦死。次男甦次郎は、特攻隊として出撃するも、機体の不調で帰還。以来、自分の殻に閉じこもり人との交渉を避けるようになる。妹二人は肺結核に冒され、療養所へ。残された母と妹の面倒を見るため、わたしの父・甦三郎は、終戦直後、進駐軍で皿洗いなどをして糊口をしのいだという。
終戦後、千葉・仁戸名の療養所の妹を見舞うため、父は駅からの遠い道のりを、バス代を倹約して歩いた。いまではゆったりとふくよかな父だが、その頃の父の写真を見ると、ほんとうに骨と皮ばかりの痩せぎすの青年だ。妹の一人は、結局七年間という長い療養所生活を送ることになった。
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父・甦三郎は、佐吉のことを滅多にわたしにしゃべったことがない。「おじいさんは立派な人だったが、過去の栄光にすがっても仕方ないじゃないか」と子どもの頃は、聞いても教えてくれなかった。わたしが祖父のことを調べるのも、かつては反対した父である。
最近は「思い出したくないつらい記憶だ」といいながらも、ぽつぽつと話してくれるようになった。
アメリカやヨーロッパの情報と科学技術に精通していた佐吉は、一貫して日本は戦争に勝てないと明言していた。戦争賛美の記事を書いた人の多い中、祖父は決してそのようなことを書かなかった。むしろ、戦争に反対し、真実を告げようとして、仕事を干された。「この戦争は負ける。無益である」との趣旨の文章をコピーするために、五人の子どもにそれぞれ筆写させ、各新聞社に送りつけたこともあったという。勿論、その記事は採用されなかった。
戦争反対を唱えた祖父と、軍国少年として日本の勝利を疑わなかった父。和解しないままに祖父は遠く旅立った。祖父は、戦争の終結も知ることはなかった。いかに無念であったか。いかに子どもたちの、日本の未来を憂いたことだろう。その心情を思う時、父は胸の痛みに口が重くなるのではないか、とわたしは感じることがある。
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21世紀になって、科学も技術も進歩した。日本は驚くべき経済成長も遂げた。しかし、人の心は少しでも成熟しただろうか。いま、アメリカはイラクを武力侵攻しようとしている。イラクが核爆弾をつくっているのではという疑惑から、攻めるべきであるという。核爆弾を持つことがいけないのは、イラクや北朝鮮に限ったことではない。世界の誰もが、核爆弾など所有してはいけないのだ。
人が人を殺してはいけない。ただ、それだけのことを、人類はまだ共通の了解事項にすることができないでいる。人類はなんという幼い、暴力的な生き物だろうか。
わたしの父と祖父。振り返れば、すぐそこに戦争の落とした暗い影が口を開けている。戦争がなければ、祖父が生きながらえることができたら、長男が死ななければ……。父には、まったく別の人生が開けたことだろう。
日本のだれもがそう遠くない過去を振りかえることで「戦争」の無惨さを知るだろう。戦争を支持してはいけない。武力侵攻を支持してはいけない。人が人を殺すことを容認し、手助けしてはいけないのだ。もし、日本がイラク侵攻に協力することになれば、わたしたちのひとりひとりが、イラクの人々の命を傷つけ、奪うことになる。わたしたちひとりひとりが、人殺しになるのだ。そのことを忘れてはいけない。
ほんとうに、この戦争を防ぐために、わたしは何ができるのだろう。逢ったこともない祖父のことを調べるうちに、思いは、どうしてもそこにいくのだった。