市川房枝『市川房枝自伝 戦前編』(新宿書房 1974/新装版 1995)
34頁「名古屋新聞記者となる」
講習会は小学校の先生たちに対しての遊戯の指導で、男の先生も何人か応募して来た。その中のひとり、寮佐吉氏とは文通が続き、来訪を受けるようになった。彼は訪問するとき、いつも大福餅を持参、特別な好意を示すようになった。このころ、私のことを詠んだと思われる歌数首が『新愛知新聞』に出ているのをみた。しかし、私には将来の夢がいっぱいでそれに応える気がなく、そのうちに交際は途切れてしまった。
(34頁)
金子務『アインシュタイン・ショック 第I部 大正日本を揺がせた四十三日間』(河出書房新社 1981/新装版 1991/岩波現代文庫 2005)
河出版257頁〜262頁「付記2 アインシュタイン訪日日程表」
- 12・8
- 午前十一時、名古屋離宮(名古屋城)の拝観。鶯張の大廊下を喜ぶ。五時半から九時半まで南外堀町の国技館の平土間を埋め二階にまで群れた二千人の大聴衆を前に改造社主催、新愛知新聞社後援の第四回一般講演会「相対性原理に就いて」(通訳・石原純)。寒さが厳しく外套を着たままで講演。川口愛知県知事、川崎名古屋市長、等々力第五旅団長、寮佐吉のお歴々が正面招待席に。
(河出版260頁)
倉田卓次『続々 裁判官の書斎』(勁草書房 1992)
189頁〜196頁「寮佐吉先生の思い出」
「これは寮佐吉先生のことが書いてあるのでは」と直感した。『城北会誌』第三八(平成二年一二月)号の頁を繰って「ある科学ライターのこと」という文章にぶつかり、筆者の名前が「寮美千子」とあるのを見た瞬間である。
案に違わず、寮佐吉先生のお孫さんに当たる方の文章であった。(…略…)半世紀前の先生の風貌が眼底に蘇り、四中生活自体にはついぞ感じなかった懐かしさを覚えた。回想の諸場面をお孫さんに話すつもりで書いてみる気になった所以である。
(189頁)
河合栄治郎という戦前思想界の一英雄について説明する必要はあるまい。ジャーナリズムが軍部や右翼の圧力から彼に論文発表の場を提供しなくなった時、彼が編集して日本評論社から次々に出した『学生叢書』は当時の私たちにかなりの精神的影響を及ぼしたものであるが、そのいちばん初めの一冊、『(第一)学生と生活』だったか『学生と教養』だったかが、私の中学四年の時点では、出たばかりだった。その本の末尾には「必読書目」のリストがあって、読書好きな少年の心をそそったのだが、その一冊にエディントンの『物的世界の本質』(岩波書店、昭和九年)――この書名は、美千子さんの文章にもちゃんと触れられているが、著名な天文物理学者の著作として今で言えば『ホーキング博士宇宙を語る』のような感じだった――があった。「アーサー・エディントン著」と「寮佐吉訳」とが書名の上に二行割の小活字で入っていて、字数の関係で「寮 佐 吉 訳」と間延びした組み方だったということまで目の奥に浮かんでくる。とにかく、自分の習っている先生の名を必読書目リストで発見したのだから、嬉しかったが、私は出来ない生徒であったから、終業ベルが鳴ってからのくつろぎの時間にも、特に目を掛けられていたわけではない先生に、そのことを訊くほど馴れ馴れしくできなかった。
(193頁)
美千子さんの伝える寮先生の軍国主義反対の思想と科学ライターとしての活動は、先生の素顔を知る者には感動を誘う。その先生が終戦直前に亡くなられたことを思うと、世界の先端科学技術を主導するようにもなった今の日本を一目見せてあげたかったとしみじみ思うし、SF好きの私としては特に、先生とSF談義をしたかった。
(195頁)
井上晴樹『日本ロボット創世記 1920〜1938』(NTT出版 1993)
111頁〜176頁「人類のひかりかがやくエル・ドラドオ!一九二九(昭和四)年」
「朝日」は、先に触れたとおり、十一月号で「街頭で物を賣る人造人間」を企画として組んだ。筆者は寮佐吉である。寮は『アインスタイン要約』(テーリング著・九十九書店・一九二二年)などの翻訳があり、科学ものの執筆・翻訳を得意としていた。この年の「ポピュラー・サイエンス・マンスリー」九月号に「フラップジャック(ホットケーキの一種)を売るロボット」の記事が載り、寮はこれを参考にした。(…略…)
この年、寮はロボットものではないが、「サイエンティフィック・アメリカン」三月号の記事を「科學畫報」六月号に、「舞臺の機械化『人間墮落機』」として紹介してもいる。(…略…)ここで大切なことは、寮が「サイエンティフィック・アメリカン」や「ポピュラー・サイエンス・マンスリー」などの記事を三か月遅れの範囲内で日本に紹介する方法をみつけ出したことである。もとより英語の読解力のある人物であった寮は、こうした雑誌記事の紹介をするかたわら、アーサー・S・エディントンの『物的世界の本質』(岩波書店・一九三一年)、マックス・プランクの『科學は何處へ』(白帝社・1933年)などの翻訳を送り出していた。(…略…)
(253頁〜255頁)