寮美千子ホームページ ハルモニア 祖父の書斎/科学ライター寮佐吉

■賢治との接点 19 Feb. 2003


▼賢治の蔵書のなかに、祖父の翻訳書が

一通のメールから、祖父寮佐吉と宮澤賢治の思いがけない接点がみつかった。

メールをくださったのは、中京大学の大学院で宮澤賢治の研究をなさっている方。賢治の蔵書目録のなかに、祖父が翻訳した科学の本を発見、祖父のことを知りたいといってきてくださったのだ。驚きであり、うれしくもあった。

わたしが宮澤賢治に遭遇したのは15歳の夏。憧れの先輩の「賢治っていいよ」の一言で、他愛なくも宮澤賢治を本を手にとったのだ。しかし、読んだとたんに先輩のことなど頭の中からすっとんでしまった。『春と修羅』の「序」は、わたしの前で異様な煌めきを放っていた。まるで、銀河のただなかに独り、放り出されたような気分だった。とはいえ、語彙がむずかしすぎて、内容を性格に把握できない。わからないまま、ただ陶然とするような美しい言葉の羅列に目が眩むばかりだった。

いまにして思えば、15歳のわたしは、その時生まれてはじめて、熱烈な「恋」に落ちたのかもしれない。わたしは猛然と、自分がそれほどまでに惹かれるそのほんとうの理由を知りたいと思った。ここに何が書かれているのか、その真意を理解したいと思った。今でも覚えている。その夏休みの間、わたしは賢治の詩集をおさめた文庫本を手放さなかった。どこへ行くにも持っていって、何度でも読み返した。お気に入りの外国製の色鉛筆で傍線を引き、草野心平の解説や辞書と首っ引きで、理解しようとした。

その時、わたしがほんとうにどれほどその詩を理解できたのかは、怪しい。いまでも理解できていないかもしれない。けれども、それがわたしのある出発点になったことは確かだ。

それ以来、わたしは多くの賢治作品を読んだ。好きな作品もそうでないものもあったけれど、そのどれからも深い影響を受けた。作品そのものだけではなく、その創作態度や生き方からも。

それほどまでに影響を受け、わたしが物書きになった直接のきっかけでもある宮澤賢治の蔵書のなかに、祖父が翻訳した本があったとは、なんという驚きだろうか。

祖父が生まれたのは1891年。賢治より5歳年上になる。祖父の著作の全貌はわかっていないが、アインシュタインが来日した大正11年に、祖父が相対性理論を一般向けに要約した2冊の本を翻訳したことはわかっている。大正の日本はアインシュタイン来日の熱狂に沸いていた。一般大衆でさえそうだったのだから、当時の先端科学である相対性理論や四次元に深い興味を持っていた宮澤賢治が、祖父の翻訳した本を手に取った可能性は高い。祖父は、その頃から盛んに雑誌などにも寄稿していたらしいから、賢治はそこでも祖父の書いた科学記事を目にしていたかもしれない。

▼まったくの独学の人 寮佐吉

祖父は、独学の人だった。14歳で「尋常小学校准教員」の免許状をとり、尋常小学校の教師として働きながら学び、20歳でようやく師範学校を卒業、「小学校本科正教員」の免許状を得る。その後、階段を上るように勤め先を変える毎に少しずつ昇級し、アインシュタイン来日の大正11年には、名古屋で私立の女学校の教員をしていた。英語科の教員の免許状を取ったのはその翌年のことで、まだ英語の教師ですらなかったらしい。そんな時に、祖父は相対性理論の解説本を翻訳している。英語だけではなく、物理と数学の知識をも必要とされる本を、まったくの独学で祖父が翻訳したことは驚きだ。

アインシュタイン来日の折り、祖父が名古屋でアインシュタインに会ったという記録が残っている。金子務著『アインシュタイン・ショック 第I部 大正日本を揺がせた四十三日間』(河出書房新社1981)の年譜に祖父の名が記されていると教えくれたのは、友人だった。

12・8
午前十一時、名古屋離宮(名古屋城)の拝観。鶯張の大廊下を喜ぶ。五時半から九時半まで南外堀町の国技館の平土間を埋め二階にまで群れた二千人の大聴衆を前に改造社主催、新愛知新聞社後援の第四回一般講演会「相対性原理に就いて」(通訳・石原純)。寒さが厳しく外套を着たままで講演。川口愛知県知事、川崎名古屋市長、等々力第五旅団長、寮佐吉のお歴々が正面招待席に。

探し当てた本には、そんな記述があった。「お歴々」とひとからげにされている人々のなかで「肩書き」がないのは寮佐吉だけだ。特別の教育を受けず、高い地位にあったわけでもない祖父が、よく相対性理論の本を翻訳し、招待されるような立場になれたものだと感慨を覚えずにはいられない。それは、祖父30歳の時のこと、前年に生まれた長男の甦太郎はまだ一歳だった。若く希望に燃えた祖父は、どのような眼差しでアインシュタイン博士を見あげていたのだろう。会ったことのない祖父の、そのときの胸の高鳴りを思うと、胸がいっぱいになる。

その後、昭和4年、祖父三十七歳の時に、ようやく「高等学校高等科英語科教員」の免許状を取得、その翌々年の昭和6年に東京府立第四中学校の英語教師として赴任、家族を連れて東京の市谷加賀町に移る。そして、昭和二十年四月、戦時下の栄養状態の悪いなかで五十三歳で結核で亡くなるまで、四中の教師をしながら、雑誌に膨大な数の科学記事を書き、翻訳書や著書も出してきた。加賀町の家は戦災で焼けてしまい、写真もほとんど残っていない。新聞などの古い記録を探せば、もしかしたら、アインシュタインの講演を聞く祖父の写真も見つかるかもしれない。

▼アインシュタイン来日前後の宮澤賢治

宮澤賢治が突然の家出をして上京をしたのは、アインシュタイン来日の一年前の大正10年の1月ことだった。この時、賢治は憑かれたように「トランクいっぱいの童話」を書いている。しかし、8月には妹トシの病気のために帰郷している。

トシは、翌大正11年11月27日に永眠。それは、10月に来日したアインシュタインが講演旅行をしている最中のことで、この日アインシュタインは東大で特別講義をしていた。慟哭のさなかにいた賢治の耳にも、アインシュタインに熱狂する人々の報は届いていたに違いない。それは、賢治の心の中で、どのような位置を占めていたのだろう。

大正12年8月、トシを喪ってから九カ月の後、賢治は亡きトシの面影を求めて、オホーツク海、サハリンへの旅に出る。その翌年の大正13年『春と修羅』は出版される。その「序」の最後の言葉は、こう結ばれている。

すべてこれらの命題は
心象や時間それ自身の性質として
第四次延長のなかで主張されます

死者を索める旅は、やがて『銀河鉄道の夜』に結実し、賢治の独自の広がりを持った幻想四次元空間のイメージへとつながっていく。

そのなかの、ほんのわずかのパートではあったかもしれないが、祖父の仕事が、賢治になにがしかのインスピレーションを与えたかもしれないと知るのは、うれしいことだった。宮澤賢治を通して、祖父の心の遺伝子「ミーム」が、わたしにも伝わってきたのだと思うと、なんだか泣けてくるような気がする。

長生きはするものだ。でなければ、こんなこともわからなかったのだから。

▼「通俗第四次元講話」

国会図書館では、いままで祖父の著作は一冊しか所蔵されていないことになっていたのだが、新しい検索システムが整い新たに検索してみたところ、13冊もの祖父が手がけた本があがってきて驚いた。精神分析から哲学、相対性理論まで、その幅広さにも驚かされる。

宮澤賢治が持っていたのは、当時一般向け科学書のシリーズとして刊行された黎明閣のシリーズ「通俗科学講話叢書 」のうちの第3編「通俗電子及び量子論講話 / ジヨン・ミルス[他]」(黎明閣1922)だった。中京大学の方は、賢治の「四次元」に対するイメージに、祖父の本がなにがしかの影響を与えたのではないか、ということを研究なさりたいという。

このシリーズの全貌もまだわからないが、祖父がそのうち3冊を手がけていることはわかっている。以下に、資料を挙げておく。

■通俗相対性原理講話 / エル・ボルトン[他]. -- 黎明閣, 大正11. -- (通俗科学講話叢書 ; 第1編)
■通俗電子及び量子論講話 / ジヨン・ミルス[他]. -- 黎明閣, 大正11. -- (通俗科学講話叢書 ; 第3編)
■通俗第四次元講話 / 寮佐吉. -- 黎明閣, 大正11. -- (通俗科学講話叢書 ; 第4編)

そのうちの「通俗第四次元講話」は、翻訳ではなく著作らしい。ぜひ読んでみたい。宮澤賢治と寮佐吉とは、いま、冬の空を翔る銀河鉄道第四次空間で談笑しているだろうか。


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