寮 美千子
RYO Michico
宮澤賢治について調べ、書いてみたいと思ったのには、ひとつのきっかけがあった。二〇〇三年一月、中京大学大学院に在籍する黒田恵美子氏から、こんなメールをいただいた。わたしの祖父・寮佐吉についての情報をほしいというのである。
寮佐吉氏のことを調べる必要を感じたきっかけは、賢治蔵書リストに、寮佐吉氏の訳した『通俗科学講話叢書第三篇 通俗電子及び量子論講話』(通俗科学講話叢書第三篇 大正十一年十二月 黎明閣)を見つけたためです。
大正期は通俗科学書がよく読まれた時代だったのではないかと考え、「科学ライター」としての寮佐吉氏の活動は、大正期の科学ジャーナリズムや、SF文学の黎明期のあり方を考える上で、大変興味深いと考えています。
今私が書こうとしている論文は、寮佐吉訳輯『通俗第四次元講話』(通俗科学講話叢書第四編 大正十一年十二月 黎明閣)と賢治の四次元に何かかかわりがあったのではないか、という視点で構想しています。直接の影響はなくとも、大正期の「四次元」という概念の受容状況を、本書を通して窺うことは出来るのではないか、と考えています。
わたしは現在、文筆を生業としているが、その方向を決定づけたのは「アドレッセンス中葉」における賢治作品との出逢いだった。その賢治の蔵書のなかに、祖父が翻訳を手がけた物理学書があったことを知るのは、大きな驚きであり、喜びだった。そのような題材であれば、わたし自身がぜひ調査をしてみたいと思ったのだが、黒田氏の研究テーマでもあるので遠慮し、論文の完成を心待ちにしていた。一年半後、黒田氏にご連絡したところ、夫君の転勤に伴い海外生活となったために、研究を中断し再開の目途が立たない旨、お知らせいただいた。ならばと、祖父の本を繙いて賢治との関連を調べてみようと考えた。
祖父・寮佐吉は大正末期から昭和戦前にかけて、物理学や心理学の啓蒙書を訳出する翻訳者であり、新聞・雑誌に科学記事を書く科学ライターの先がけであった。東京府立四中の英語教師でもあった。昭和二十年、終戦直前に結核で亡くなり、その後空襲で市ヶ谷の家が全焼したため、祖父の著作や訳書のすべてが灰塵と化した。
失われた祖父の本を探索するに連れ、その背後にある大正という時代が見えてきた。祖父の著作探訪というごく個人的な動機ではあったが、その背後にある広がりに目が開かれる思いがした。本稿は、賢治の蔵書目録を手がかりに、賢治が読んだ相対性理論の本を推理し、大正期における「四次元」受容と賢治作品との関連について述べたい。
アインシュタインの来日は大正十一年(1922)、宮澤賢治『春と修羅』の出版は大正十三年(1924)。その「序」には「過去とかんずる方角」「因果の時空的制約」「第四次延長」など、はっきりと相対性理論の影響が見られる。「四次元」のイメージは賢治作品の通奏低音というべきものになり、賢治の生涯を貫いて大きな意味を持ってくる。
にも関わらず、賢治の作品中に「相対性理論」も「アインシュタイン」も直接は出現しない。友人への手紙にも、これに触れたものはない。賢治の思想を形成するもう一つの柱である仏教に関して、賢治は多くを語り、友人や家族にも帰依を強く勧め、過激とも思える行動に出て、様々な逸話を残している。しかし、同じように大きな影響があったと思われる相対性理論に関しては、そのような記録はない。わずかに原稿の余白に書かれたメモに「ニュートン先生/フランス……先生、/アインシュタイン先生/ルメートル、先生、/普賢菩薩―白象/かうもりの影」(注1)「Mincowski」(注2)の文字が見えるばかりである。このメモにしても、アインシュタイン訪日の頃に書かれたものではないことは明らかだ。ベルギーの天文学者ルメートルが宇宙膨張説を発表したのは昭和二年(1927)、それが認められ世間に知られるようになったのは昭和五年(1930)だったからだ。
アインシュタインは仙台でも講演会を開いているが、花巻にいた賢治はそれを訪れていない。「四次元」を作品の主軸とした賢治にしては、その反応はあまりに冷淡ではないか。
実はこの時期は、賢治にとって疾風怒涛の季節だった。大正九年(1920)に盛岡高等農林学校研究生を終了した賢治は、意に添わない家業の質屋を手伝うことを嫌い大正十年(1921)一月に東京へ家出。ガリ版切りをしながら熱心に国柱会に通い「法華文学」を念頭に置いた膨大な童話群を創作する。八月、妹トシの喀血により心ならずも花巻に戻った賢治は、トランクいっぱいの童話の原稿を携えていた。その年の十二月には稗貫郡立稗貫農学校教諭の職を得て新しい生活にはいる。学校を舞台に演劇や文芸活動など、活発な文化活動を行う一方、雑誌「愛国婦人」に童話が掲載されて生前唯一の原稿料を得るなど、充実した暮らしが続く。しかし、トシの病状は思わしくなく、翌年十一月二十七日に永眠。トシが、病と最後の壮絶な闘いをしていたまさにその時期に、アインシュタインは来日する。大正十一年(1922)十一月十七日に神戸に到着、各地を回り、仙台での講演は、トシの死から六日目の十二月三日のことだった。帰国は十二月二十九日である。
日本でアインシュタイン熱が最も高まった時期は、賢治の家出から、トシの死にいたる日々にぴったりと重なる。賢治はこの時期、国柱会と法華経に激しく傾倒。それがゆえに、アインシュタインも相対性理論も、見かけ上は影が薄くなったのかもしれない。
しかし、この時期に「四次元」のイメージが胚胎していたことは確かだ。それが、大正十三年(1924)の『春と修羅』刊行につながっていく。激しく外部へと表出された仏教への傾倒と、深く内部に沈潜した四次元幻想。やがてそれは核融合ともいうべき境地に至る。賢治はこの時期、具体的にどんなものから四次元に関する知識を得たのであろう。
大正十年(1921)、アインシュタイン本人による唯一の一般向け解説書『相対性原理講話』が、日本で出版された。これが皮切りとなり、この年から翌年にわたって、怒涛の「相対性理論本」刊行の嵐がやってくる。大正年間に出版された関係書をあげる。(注3)
大正十年(1921)には六点、アインシュタイン来日の大正十一年(1922)には、なんと二十四点もの相対性理論関連の本が出版されている。現在でも、同じテーマの本がそれだけ出版されたら、大変なブームと呼べるが、出版総数がいまに比べてさほど多くなかった時代にこの冊数は異様である。どれだけ大きなブームであったかがわかる。
この大量の書物の中から、賢治が果たしてどれを手に取ったかを同定するのはむずかしい。アインシュタインと相対性理論関連の情報は、単行本に限らず新聞・雑誌にも膨大な記事が書かれたので、むしろ、その情報を全体として捕らえ、「時代の波」としての影響を考察した方が正しい態度ともいえる。しかしながら、一つ一つの情報に当たらねば、結局、その総体も見えてはこない。そこで、少ない手がかりから推理してみたいと思う。
その手がかりの一つが、賢治の没後にまとめられた蔵書目録である。宮澤賢治は大変な読書家であり、知識欲旺盛であったことはよく知られている。しかし、蔵書目録「小倉稿」(注4)には、百四十二項目・千五百冊弱の書籍しか掲載されていない。賢治は図書館をよく利用し、また本が溜まると古書店に売ったり友人にあげたりしたという(注5)。蔵書目録は賢治が読んだ本のごく一部でしかない。そのことは充分承知しているが、他に手がかりらしい手がかりもないこともあり、まずはこれを出発点に考えてみたい。
この蔵書目録の中には、一冊の相対性理論の本がある。それはニューヨークのマグローヒル社刊のスタインメッツ著『相対性理論と空間論についての四つの講話』(1923)(注6)である。洋書であり、なぜか英文学の項目に分類されていたため、長らく見落とされてきたが、近年発掘され斎藤文一が詳細な検討を加えている。(注7)
斎藤によれば、この本はアインシュタイン自身による一般向け解説書を下敷きとしたもので、正統派の解説本であるという。しかしながら、当時の流通事情を考えれば、ニューヨークで出版されたこの本が発行後すぐに賢治の手に渡ったとは考えにくく、早くとも大正十二年(1923)の後半か、翌大正十三年(1924)であり、『春と修羅』に収められている大正十一年(1922)一月六日から翌大正十二年(1923)十二月十日までの日付の作品制作には間に合わなかったのではないか、間にあったとしても、それは大正十三年(1924)一月二十日の日付の「序」執筆の段階ではなかったか、というのが斎藤の見解だ。
アインシュタイン来日の大正十一年(1922)には、巷に相対性理論の情報が満ち溢れていたことを思えば、この本を入手する以前に日本語の相対性理論の情報を得ていたと考える方が自然だろう。
では、どんな本が賢治の目に留まった可能性があるだろうか。当時の本の売れ行きから鑑みれば、大正十年(1921)に出版された桑木雄訳『アインスタイン相対性原理講話』(岩波書店)と、石原純著『相対性原理』(岩波書店)が妥当だ。この二冊は相対性理論本の先駆けであった。前評判ばかりが高まり、いまひとつその実体が判らずに隔靴掻痒の思いをしていた人々は、この本に飛びついた。賢治もその一人であったかもしれない。
一方、賢治の蔵書から推理してみると、どうなるだろうか。蔵書目録「小倉稿」は綱目ごとに分類されている。それに従い、まず、綱目ごとの冊数を見てみよう。全集等は一項目となるが、冊数はその合計冊数にする。(注8)
どのジャンルの本からどれほどの影響を受けたかは、本の数とは比例しない。ことに全集物は揃えただけで読まないことも多いから、冊数の多さは当てにならない。しかし、どれほどの興味を持っていたのかは、所蔵する本の冊数とある程度は比例するだろう。
これを見ると「日本・東洋古典」が圧倒的に多く約四百五十冊。続くのが「思想」及び「文学」で、各々二百冊近く。次が「仏教書」で百二十四冊となる。いわゆる文系の本の合計冊数は千冊を軽く超える。
これと比べると、理系の本はあまりに貧弱で合計五十二冊しかない。文系の本の二十分の一だ。その内訳を見ると、賢治が専門教育を受けた「地学・鉱学・土壌学」「肥料・農学・園芸学」は二十一冊。これらは既に学校時代に身につけ、肥料設計も基本を押さえれば後は応用が利くので、本が必要なかったということだろうか。「数学」には『微分積分講義』『ペリー初等実用数学』『平面三角法』など、ごく一般的なものも並ぶ。
物理学は「化学・学術会彙報」に分類され、そこには工学も化学も含まれているのだが、全部合わせても、この綱目の単行本は十四冊しかない。このなかに、賢治が座右の書としたという『化学本論』という大著も含まれてはいるのだが、「科学者賢治」のイメージを持ってみると、このジャンルの貧弱さはやはり驚くばかりだ。
次に「化学・学術会彙報」の具体的な内容を見てみよう。(注9)
これを見ると、化学書が洋書『無機化学』も含めて十冊と最も多い。肥料設計などを行っていた賢治にとって必要な書物だったのかもしれない。それに引きかえ、物理学書の和書は『通俗電子及び量子論講話』一冊のみである。これは「通俗科学講話叢書」という一般向けの啓蒙書として書かれた物理シリーズの一冊である。賢治の蔵書にあった唯一の日本語の物理学の本が、専門書ではなく一般向けの啓蒙書であったという点が注目される。賢治における相対性理論の位置を示す一つの指標になるかもしれない。
賢治と四次元論について語られるとき、ミンコフスキーやローレンツ変換、リーマン幾何学などが引き合いに出され、それらとの関係が詳述されるが、果たして賢治は数学的に相対性理論に踏みこんでいたのだろうか。賢治の専門は地学や土壌学である。現在でもそうだが、地学や土壌学の専門家が、相対性理論を完全に理解しているとは限らない。漠然とは知っていても、詳細には理解していないことの方が一般的だろう。賢治の、理論物理学の方面の蔵書が他方面に比べて異常に貧弱なことをみても、またアインシュタインや相対性理論に対する発言が一向に表に見えてこないことからみても、そこまでの物理学的、数学的理解をしていたわけではないのではないか、という推測も可能だ。
賢治が『トムソン科学大系』を所有していたことはよく知られている。この本は大正十一年から十五年(1922〜26)刊行の全八巻のシリーズで、一般向け科学啓蒙書である。科学全般にわたって正確な記述がなされ、これを読破すれば、科学の基礎知識をかなり充実させることができる。「銀河鉄道の夜」のなかの記述も、ここから発想を得たという説もある。大正十二年(1923)刊行の第七巻には相対性理論が紹介されている。
以上を合わせて考えてみると、賢治は、専門に学んだ地学や土壌学、化学に関しては専門的知識を持っていたが、物理学に関しては専門特化したものではなく、一般教養としての正確な知識を得ていた、と考えた方が自然である。ただし、この推論は、賢治作品における四次元関連の表現を踏まえて再度吟味されるべきものである。
次に、賢治蔵書に唯一あった日本語の物理学書『通俗電子及び量子論講話』について、詳しく見てみよう。この本は大正十一年(1922)の刊行。アインシュタイン来日の年であり、賢治が「心象スケッチ」という方法や「四次元幻想」を胚胎した時期に重なる。
「通俗」というのは、専門家ではない一般向けに書かれた啓蒙書につけられたタイトルである。「講話」というのも、やさしく説かれた話、という意味あいが強い。とはいえ「電子及び量子論」というむずかしそうなタイトルからして、無味乾燥の物理本かと思ったが、そうではなかった。その冒頭の「はしがき」はこのように始まる。
オリオン星座に、輝いてゐる赤い星のBetelgeuseがある。ベテルギウス星は、他の星と共に、数世紀間航海者の道案内となり、或は、哲学者、神話製作者等の考察の対象となってゐたのである。私共は、今宵、アラビヤ人によって与へられた名を保留して、其を大なる猟人の右肩に、今も望んでゐるが、科学は、其の始めの万有精神論的の命名を保在して他は総べて捨てゝ、絶対なる数的事実を之に代入してゐるのである。私共の学校時代から、私共は、ベテルギウスは、私共の地球を照してゐる太陽と同じ一つの太陽であると教へられてゐる。極最近に、シカゴ大学のマイケルソン教授は、其の直径が、私共の太陽の三百倍あると発表したのである。
ベテルギウスがアラビア語で「オリオンの脇の下」という意味であり、航海の目安になったという文系の文脈もしっかり押さえてある。冒頭を読んだ限りでは「電子及び量子論」の本だとは、わからないような詩情溢れる文章だが、そのまま天文物理になだれこむ。
ベテルギウスは、全宇宙から見れば、一つの点に過ぎない。其の宇宙の真中に、それよりも小さい一個の太陽があって、其の一つの惑星上に、バートランド・ラッセルが、小さな不純な炭素と水の塊と、旨く言った塊がうようよとしてのたくってゐるのである。此等の炭素化合物が、ベテルギウスと比較したる数的無意味を認識したら、其の自己中心性は、どんな感動を受けることであらう。
ラッセルは、アインシュタイン来日前年の大正十年(1921)に来日。当時、世界的に流行した思想家である。「小さい一個の太陽」とは我々の太陽、「小さな不純な炭素と水の塊」とは、もちろん人間のことである。宇宙全体のスケールを知ることで、人間がいかに小さいかを知る。人間中心主義を離れ、より大きな視点を持とうという呼びかけだ。
近代科学は天動説から地動説への大転換を皮切りに、地球から太陽系、銀河系、さらにはその銀河を包含する大宇宙の存在へとその視野を広げてきた。これは、人間の認識の視点を変換するものに他ならなかった。このような考え方は、「農民芸術概論綱要」の「自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する」という言葉に、よく符合する。
大正時代、ここに相対性理論が登場することで、空間認識の広がりだけではなく、時間までも包含した新たな時空認識の視点を得た。コペルニクス的転回からアインシュタイン・ショックに至る巨大な流れが、賢治の「四次元意識」を形成した一因だといえるだろう。
「はしがき」はベテルギウスをめぐる惑星の存在を思い、そこに生命進化があっただろうかと夢想する。そして「では生命とは何であろうか」という根源的な問いを投げかける。
若し、私共が、生命の満足なる定義を得たならば、死は其の反対であらうか?、生命と死とは、連続的変化の広い過程中の現象に、漠然と与えた名に過ぎないのか?、其の変化の間、恒存される実在は、何であるか?
最後の疑問には、今日の科学は、明かに解答を与へ得る。其の実在は、量によって恒存せられる、エネルギー及び電気の二実性を有してゐる。エネルギーは、電気の位置の変化によって顕現する。電気は、私共の宇宙が構成されてゐる測り得べき物質の既知の唯一の成分である。
生命そのものが何であるのかを答えることはできないが、生命と死の絶え間ない大循環のなかに「恒存される実在」、つまり、それを統べる根源の法則があり、それは「電気」だというのである。その電気という実在を探ろうというのが、この本全体の主旨である。
ここには、科学を、単に世界を分節化し名づける手段ではなく、世界を統べる根源を追求する手段にしよう、という意志が見られる。また、「わたくし」とは、生と死の大循環のなかに立ち現れる「現象」であるということにもつながっていく世界観が示されている。
夫々に、かけ離れてゐる科学の各分派は、総べて、電気とエネルギーの同一根本問題を取扱ってゐると言ふことが、今日では、わかったのである。人類の歴史あって以来始めて、天才の手によって、一個の普遍科学に総合せられる材料が現はれたのである。物理学も、化学も、生物学も、地文学も、総べて、其の個人性を失って、普遍科学中の共通なる原理の群に没入するのである。
此の名辞と、原理の簡単化への科学の進展が、非常に、めまぐるしい程であるから、直接、之に関係してゐる数人の人を除けば、其の可能性がわからない程である。
ばらばらに見えた各分野を、根源で結びつける普遍科学、あらゆるものを統べる大統一原理への期待が、ここで語られている。そして、その原理が世界という存在そのものの根本を解明する期待が語られている。
十九世紀末から二十世紀初頭にかけて、科学と技術とは驚くべき大発展を遂げ、常識(日常的な実感)を根底から覆す発見が次々となされた。その急激な発展の曲線がそのまま上昇し続ければ、想像をさらに超える大発見があって当然、という気分が、本書に限らず、当時の科学啓蒙書には漲っている。大正とは、すべてが一つの原理で統一され、最終的な世界の謎が解きあかされる日が必ず来ると夢見られた時代だ。
これは「銀河鉄道の夜」異稿のブルカニロ博士の言葉「けれどももしおまへがほんたうに勉強して実験でちゃんとほんたうの考とうその考を分けてしまへばその実験の方法さへきまればもう信仰も化学と同じやうになる」というイメージに通底していく。
この科学と技術の大発展は、しかし同時に世界に大きな歪みをもたらした。産業革命以降、世界の様相は一変し、労働とは搾取されることの別名となり、労働本来の喜びは失われてしまった。支配者と無産階級がくっきりと分かれ、貧困層も激増した。科学が大統一への夢を語る一方で、現実社会は大きな矛盾を抱えることになった。
曾つてわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐた
そこには芸術も宗教もあった
いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである
宗教は疲れて近代科学に置換され然も科学は冷く暗い
芸術はいまわれらを離れ然もわびしく堕落した
いま宗教家芸術家とは真善若くは美を独占し販るものである
大正十五年(1926)の日付を持つ「農民芸術概論綱要」のなかで賢治がこう語るのは、時代の必然であった。ここで「冷く暗い」と非難されている「近代科学」とは、世界を統べる原理を夢見ていたあの頃の純粋無垢な科学では、すでにない。悪しき方向への社会進化を加速させることに奉仕する堕落した科学の姿だ。芸術さえも、経済活動に呑み込まれ堕落してしまったと賢治は嘆く。
この閉塞的な状況を打破するために、賢治が得たのが「近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい」という、ジャンルを超えて統一された視点だ。このイメージもまた、前述の「物理学も、化学も、生物学も、地文学も、総べて、其の個人性を失って、普遍科学中の共通なる原理の群に没入する」という思考に酷似する。
さらに加えれば「近代科学の実証」には、エディントンの日蝕観測による相対性理論の証明、キュリー夫人によるラジウムの発見、そこから展開された原子核理論などが意識されていただろう。相対性理論は、エディントンの観測による証明によって初めて世界を震撼させる大発見として認知された。それは、仮説を実証することでどれだけ世界に大きな影響を与えるかを現実に物語る。同時代に生きる賢治は、それを肌で感じていたはずだ。
賢治は、想念がただ想念のままでは妄想に過ぎないと感じ、「実証」や「実験」という具体的なことと車輪の両輪のように進むことにこそ意義があると感じたに違いない。それが「羅須地人協会」という実践の生活へと彼を導く一因となったのであろう。
次に、本文を見てみよう。「通俗」とはいえ、かなり専門的であることは確かだ。原子の構造や電子の振る舞い、量子論に関しての基本的な事項を一通り解説した正統派の物理学の本である。しかし、その記述にはかなりの工夫が見られる。電子や陽子、原子核の振る舞いを擬人化したり、様々な例えを使って語ることで、難解になりがちな抽象的世界のイメージをわかりやすく伝えようとしている。
一原子核外にある原子は、核からも、又、電子相互からも、比較的大きな距離を保ってゐる。恐らく、一原子系の形象は、太陽系に比較して見たら、よくわかるであらう。太陽と惑星間及び惑星相互間の距離は、如何なる惑星の直径に比較しても、非常に大きなものである。先ず太陽を、地球に比して、極めて小さくなったと想像して、次には其太陽系が一様に縮尺せられて、如何なる強度の顕微鏡を用ひても、かく縮尺せられたる太陽系全体を見る事が出来ないと想像しよう。其こそ即ち、原子系のよい形象である。
ここでは原子を太陽系に例え、その広がりを語っている。そして、我々が普段、堅固で緻密な物質と感じているものが、実は茫漠とした空間の広がりであり、本当の意味での物質(電子や原子核)は、目にも見えないほど小さなものであるのだと説明している。このスケールを超えた自在な視点の行き来は、まさに賢治的だ。
さらにこの書では、最終的に、物質さえもエネルギーという目に見えないものと相互に行き来する存在である、ということに結論されていく。これは「銀河鉄道の夜」異稿における次のような場面をまざまざと想起させる。
そのひとは指を一本あげてしづかにそれをおろしました。するといきなりジョバンニは自分といふものが自分の考といふものが、汽車やその学者や天の川やみんないっしょにぽかっと光ってしぃんとなくなってぽかっとともってまたなくなってそしてその一つがぽかっとともるとあらゆる広い世界ががらんとひらけあらゆる歴史がそなはりすっと消えるともうがらんとしたたゞもうそれっきりになってしまふのを見ました。だんだんそれが早くなってまもなくすっかりもとのとほりになりました。
『通俗電子及び量子論講話』でいう「電気」とは、我々が一般に認識している電灯を光らせる電流としての電気であるとともに、原子を結合させる「電磁力」をも示している。無数の微塵(モナド)である原子を結びつけ分子にする力、ばらばらの世界を形ある実在にする力のことだ。
また、「陰極線管(クルックス管)」の実験についても言及されている。減圧されたガラス管のなかの電子の流れはちらちらと揺らぎ、美しい青紫に蛍光する。
これは『春と修羅』の「序」における「假定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明」「せはしくせはしく明滅しながら/いかにもたしかにともりつづける/因果交流電燈の/ひとつの青い照明」というイメージに重なる。
「交流電燈」という用語から考えると、一般の電球を想定した方が自然だ。しかし、そこに唯一の正解があると考えるよりは、様々なイメージの断片を重ね、融合し、万華鏡のように光を反射する新たな結晶を創造したというように考える方が、賢治作品に馴染む。賢治が電球に、美しく幻想的な陰極線管のイメージを重ね合わせたと想像することは、イメージにさらなる深みを与えてくれる。
また、この本では「偏倚」という用語が頻出する。一般にはほとんど使われない用語だが、物理学、ことに電気関連でよく使われる。『春と修羅』には「風の偏倚」という作品がある。「風と嘆息とのなかにあらゆる世界の因子がある」という記述は、流れゆく電流のごとき風や嘆息のなかにエネルギーと物質の根源がある、というようにも解釈できる。
『通俗電子及び量子論講話』では、原子核崩壊についても記されている。
ラヂウムの場合では、其の平均寿命は、殆んど千六百年と計上されてゐる。即ち、千六百年かゝれば、ラヂウムの微小量の半分は、其れより小さい原子番数の原子系に変化するのである。奇妙な事には、次の原子系即ちニトンと言ふ気体元素は、僅か五六日の寿命しかもってゐない。
原子核の自然崩壊により、物質が知らない間に別のものになっている。これは『春と修羅』の「正しくうつされた筈のこれらのことばが/わづかその一點にも均しい明暗のうちに/(あるひは修羅の十億年)/すでにはやくもその組立や質を變じ」という部分に重なる。記されたその言葉が「鉱質インク」で書かれたということも、鉱物から抽出されたラジウムのイメージに適合する。
これらは、本書の文言による直接の影響というより、この時代が持っていた新たなる科学的世界観が確かに賢治に影響していた、ということを示すものだと思う。しかしまた、賢治がこの本を所蔵していたことが確かであることを思えば、このなかの言葉が、賢治のインスピレーションの源になっていった可能性も、充分に考えうる。
さて、この『通俗電子及び量子論講話』という本を手がかりに、さらに推理を広げてみよう。この本は、黎明閣という出版社による「通俗科学講話叢書」の第三編として出版された。このシリーズは当時最新流行だった相対性理論と量子論を解説した理論物理学の啓蒙書であり、大正十一年(1922)に四冊が刊行されている。
『通俗電子及び量子論講話』以外の三編は相対性理論関連の本だ。当時の相対性理論への関心の高まりをよく示しているだろう。手許にある本を見ると、巻末に既刊の二冊が紹介されている。『通俗相対性原理講話』は五版、『アインスタインの哲学と新宇宙観』は四版とあり、『通俗電子及び量子論講話』も発売六日目には三版を重ね、売れ行きは好調だったようだ。当時、それだけ科学啓蒙書が人気を博していたことを示している。現在ほど情報が満ち溢れていない当時、巻末広告は大きな情報源で、それを頼りに新刊を得ることも多かっただろう。賢治がこのシリーズを手に取った可能性は高い。
尚、寮佐吉にはもう一冊『アインスタイン要約』(1922)という翻訳もある。この本は前述の『トムソン科学大系』の相対性理論の項の参考書目に、石原純の『相対性原理』とともに挙げられているので、一般啓蒙書として手に入りやすいものであり、また定評もあったであろう事が推測される。
国会図書館検索によると、大正時代、タイトルに「四次元」を冠した本は二冊しかない。その一冊が前記シリーズのなかの『通俗第四次元講話』である。その内容は、四次元の概念を軸に、相対性理論を語っていくアンソロジーだ。雑誌「サイエンティフィック・アメリカン」で懸賞募集して入選した、数式を使わずにやさしく相対性理論を解説する論文や、数式を使った「四次元の代数的考察」、アインシュタイン自身が執筆した「幾何学と経験」という短文など、基本的には正統派の科学の解説書である。しかし、「序文」には次のような言葉が掲載され、それに続く「第四次元序話」の見出しは以下のようなものだ。
第四次元は、人間を知覚の三次元空間から解放するものである。此を取入れると、精神の視界が拡大して、人生の問題、生命及び死の問題、霊魂の問題、神の問題其の他人間に関する総べての問題は、不可解、神秘或は奇蹟等ではなくなって、四次元空間に於ける一個の自然現象となるのである。要するに第四次元の観念を知らない人人は、知覚の三次元空間に束縛せられてゐる人人である。新しき自由人と云ふことは出来ない。
加ふるに、近時世間の興味を引いてゐるアインスタインの相対性原理はミンコフスキーの四次元世界(空間と時間の結合せる世界)と深い交渉を有してゐる。此の点に於いても第四次元の観念の深い洞察は、大なる意味を有する。是によって見れば、第四次元の観念は、数学者物理学者に取って有用なるばかりでなく、あらゆる人人に取って興味の深いものである。
水瓜を割らないで中身を見る法/影の人と神様と/幽霊は四次元的である/無常の風の吹いてくる道/人性は一個の四次元的実在であるかも知れない/人間は時間を超越してゐるかも知れない/数学上に於ける第四次元/第四次元を知らない教師は数学を教ふる資格がない/相対性原理と第四次元/四次元世界に関するアインスタインの警句
まっとうな物理学を扱っている本にしては、ずいぶんな煽り方である。実はこれは、寮佐吉の科学解説における常套手段で、いかにも人が飛びつきそうなことを掲げておいて読者を引きつけ、強引に純粋物理の世界に引きずりこもうという魂胆だ。
しかし、ここには当時の人々の、相対性理論に寄せるある種の期待が垣間見えて興味深い。大正期の人々にとって相対性理論の描く四次元とは「人間を知覚の三次元空間から解放」し「精神の視界を拡大」するものであった。物理学の概念というよりは、時空を越え、過去と未来、この世とあの世とを自由に交通する超能力的な幻想を投影していたようだ。
もう一冊、タイトルに四次元を冠した本は、成瀬関次の『第四次延長の世界』(昿台社 1924)である。"Fourth Dimension"を「第四次延長」と訳したこの本の発行は大正十三年二月八日、『春と修羅』発行の二カ月前で、これが『春と修羅』の「序」にある「第四次延長」という言葉と完全に合致することから、注目を集めている。(注10)
版元の昿台社は、当時、エスペラントの拠点の一つであり、エスペラント関係の本も出版していたため、エスペラントに興味を抱いていた賢治との関連も考えられる。
この本は、当時一般大衆が思い描いていた超常現象としての「四次元」のイメージをより拡大する方向の著作である。物理学の本というよりは、むしろ、いわゆる「精神世界」の本といえるだろう。成瀬は、執筆の動機をこう記している。
私が『超立方体』といふやうな事に思ひをひそめた抑々のはじめは、明治四十一年頃、桑原といふ人の著『精神霊動』を読み、続いて福来博士の講演を聴いた頃に端を発する。其の後たしか大正二年頃と覚えてゐる、リテラリイダイゼスト誌上で、フォースディメンションの解説といふやうなのを見て、線と平面と立方体といふ風に説いてあるのを非常に面白く思ったから早速その読後の印象を私の考へに加味して「第四延長の説明」と題し、大正三年の夏頃、日本師範学会の誌上ほか二三に発表した。(注11)
「桑原」とは桑原俊郎。明治三十六年(1903)に『精神霊動』を刊行し、催眠術と神通力による病気治療で一世を風靡した。「福来博士」とは、東京帝国大学の心理学助教授。透視と念写の実験を行い、日本の心霊学の祖ともいうべき人物である。
明治後期から大正にかけて、日本では催眠術と千里眼の一大ブームがあった。明治四十四年(1911)の福来の念写実験には、東京帝国大学総長も参加して積極的に後押ししている。当時、催眠術や千里眼は心理学の正式な研究課題として認められていた。賢治が傾倒していた心理学者ジェームズの著作の翻訳も、帝大大学院時代の福来の仕事である。前述の『トムソン科学大系』第四巻(1923)も、心霊学に一編を割いている。
その後、実験の不正などのスキャンダルから福来は失脚、東京帝国大学を追われ、世間の千里眼ブームは急速に鎮静化するが、心霊学は国内外で根強く生き残っていく。
この時代、このような心霊神秘主義が流行した背景には、科学の急速な進歩に対する人々の驚きがあった。ラジウムの発見、エックス線写真や無線通信の発達は、そのまま千里眼や念写の概念に結びついていった。そこへ、時空の不可分を主張する相対性理論の登場である。「四次元」に対する幻想が人々の間に沸騰した。奇跡、神秘といわれてきた不思議な現象が科学によってきっと解明されるはずだ、という期待が高まってきたのだ。
逆の観点から見ると、何もかもが「科学」で解明されて明るみに出され闇や神秘の存在しない世界になろうとしていたところを、神秘主義が逆に科学を取り込むことによって「不可思議」を復活させようとした、という意味もあったように思う。と同時に、産業革命以降の急速な発展がもたらし社会の歪みから来る閉塞感を「超能力」や「霊界通信」などの超常的なものによって打破したいという願いもあっただろう。二十一世紀初頭の今日にも通じる感覚である。
心霊学にのめりこんでいったのは、一般庶民ばかりではなかった。賢治が影響を受けた心理学者ジェームズ、文学者メーテルリンク、イェーツ、哲学者ベルクソンをはじめ、コヒーラ検波管の発明者オリバー・ロッジ、前述の陰極線管の発明者ウィリアム・クルックス、ノーベル賞受賞の生理学者シャルル・リシェ、進化論のウォーレスなど世界の一流科学者も心霊学に傾倒していった。十九世紀末から二十世紀初頭とは、世界的にそんな時代だった。
その文脈の中に成瀬関次の『第四次延長の世界』はあった。もともと四次元というイメージは、このような神秘世界にとても馴染む側面がある。今日でも「四次元」という用語は、本来の意味よりも「精神世界」で多用されている。
『第四次延長の世界』著者の成瀬関次(1888〜1948)は、東京外国語学校修学の後、教員、宮内省付記者、豊島区区議会議員を経て、古武術の道に入る。日中戦争の時には日本刀の修理者として満州に渡り、日本刀二千振りを修理。この方面で有名だ。根岸流手裏剣術と桑名藩伝山本流居合術の師範でもあった。四次元に精神世界を見た成瀬が、後に古武術という、やはりある種の精神性を重んじる世界に入っていったのは興味深い。
賢治作品には、亡くなった妹トシとの通信を試みたり、霊智教メモ(注12)の存在が明らかにされたりと、心霊思想や神秘的世界観に通じる様々な表現が見られる。
『第四次延長の世界』が、賢治に直接の影響を与えたかどうかは定かではないが、賢治が自身の心象スケッチを「或る心理学的な仕事」(注13)といい、或いは自分を「詩人としては自信はありませんが一個のサイエンチストとして認めていただきたい」(注14)といったとき、「心理学」や「サイエンチスト」が何を意味したのかは、時代の文脈の中で再考する必要があると思う。それは、わたしたちがいま思っている「心理学」や「科学者」とは、かなり違うニュアンスのものであったはずだ。
以上を総合し、大正年間の相対性理論本を見ると、次のように分類できる。
1 純粋物理学としての解説書。桑木、石原など物理学者による本。
2 一般大衆向け科学啓蒙書。寮佐吉などの本。
3 相対性理論に着想を得た精神世界の本。成瀬関次などの本。
4 哲学・宗教思想から相対性理論を論じた本。禅の井上秀天、華厳の亀谷聖馨など。
5 相対性理論を否定、批判する本。
1は純粋物理学の本であるが、同時に一般に向けて出版されたものでもある。その点、2と重なっているが、前者はより専門的、後者はより大衆を念頭に置いた編集になっている。2には大衆の興味を惹くべく、一見神秘主義的に見える惹句が多用されている。しかし、基本的には物理学を逸脱していないことが特徴である。その点3は、神秘主義により軸足を置いている。というより、神秘主義的な世界観を理論づけるために四次元論を援用し、物理学からは逸脱している。千里眼問題にも触れ、心霊学との関係も深い。
賢治と仏教思想との関連から、4もまた視野に入ってくる。賢治の蔵書には、亀谷聖馨『華厳哲学研究』(名教学会 1922)があるので、同じ年に同じ版元から同じ著者が刊行した『華厳の哲理と相対性原理』は注目に値する。この本は、相対性理論及び西洋哲学を概説し、最終的にはそれらもすべて「仏陀所説の廣大なる法界三重の法門中に悉く包蔵せられたる」としている。しかし、あらゆる思想の上位概念に安易に華厳思想を据え、すべての思想哲学・物理学をも回収しようとして深みに欠ける感がある。
賢治は、この流れのなかのどれを手に取ったのであろうか。そして、どのような観点から四次元のイメージを受容したのだろうか。その蔵書から見る限り、純粋物理学としての受容ではなく、むしろ一般啓蒙書にみられるようなある種のロマンチシズムの投影があり、それをさらに拡大した神秘主義との関連のなかでの受容ではないかと思われる。
だからといって、賢治が「浅薄な」心霊神秘主義に陥ってたわけではないと、わたしは確信する。賢治作品には神秘主義が見え隠れはするが、普遍なるものだけが持っている深い輝きがある。それは、賢治がその根本に科学を見据えていたこと、自らの存在の根源に迫る深い宗教意識を抱いていたこと、そして何よりも言葉に命と輝きを吹きこむ類い稀な天性の詩人であったことと関連があるように思う。賢治自身が自分を科学者と思い、法華経の信仰者であると思い、また社会変革を実現しようとする思想家であり実践者であると思っていたとしても、そのすべてを統べる要には、やはり詩人としての賢治がいた。
それは狭義の詩人ではない。神話学者キャンベルがいうところの神話世界の消息を伝えるシャーマン、或いは天上世界を地上に召喚する呪術師、大地を言祝ぎ万物の聖性を励起させる古代の王、宇宙の本質を直感で受けとる見者、としての詩人である。つまり「歴史や宗教の位置を全く転換」(注15)することさえ可能であるところの芸術家だ。
科学思想と神秘主義とを融合させた大正時代の四次元幻想の観点から『春と修羅』の序を読むと、それは難解ではなく、むしろそれをそのままごく素直に言葉にしているように、わたしには思える。それはあまりにも素直であったために、狭義の文芸から容易に横溢してしまった。そして、いまも狭義の文学を敢然と超越しつづける。
賢治文学は、大正という時代の息吹を新鮮に呼吸した文学でもあった。時代の大きな流れのなかで捕らえなければならない。相対性理論に限らず、心理学、心霊科学、神秘学との関連からの検証が必要だ。(注16)また、仏教という柱も忘れることができない。
しかしまた、各々の表面にだけ心を奪われていては、賢治の姿は見えてこない。なぜなら、賢治とはこれら交流する思想の結節点に立ち現れた「現象」だからだ。賢治は、当時の概念をただ鵜呑みにするのではなく、心の原子炉でそれらを分解し核融合を遂げ、独自の、しかも普遍性のある元素を生みだした。それゆえの深い輝きであり、その源泉を知ろうとする者は、背後に広がる無限の智のきらめきの森――互いが互いを映しこむ迷宮の森に迷いこみ、存在の根源が放つ放射線に晒される危険を冒さねばならないと痛感する。
初出:和光大学表現学部紀要(第5号/2004)2005年3月 ISSN 1346-3470