■26 Feb 2006 うましうるわし奈良/JR東海 ・テレビCM


千三百年ほど前も このような夜でしたなぁ
わが東大寺のお水取り
炎は 人々の幸を願い 奈良の都を照らしだして参りました
千三百年後も きっとこのような夜が来るのでしょうなぁ
同じ春が また来るように
いま ふたたびの奈良へ
JR東海のテレビCM。お水取りの大松明が、画面いっぱいに浮かびあがる。奈良っていいなあ、と憧れを誘うCM。

昨年、憧れだったお水取りをはじめて見ることができた。3月1日から14日まで、毎晩欠かさず、松明が焚かれる。毎晩焚かれるということも、わたしはそれまで知らなかった。十本の松明が、一本ずつ二月堂へと上り、欄干を駈ける。12日だけは、十一本。それも、格段に大きい大松明で、二月堂の欄干にずらりと並ぶ。その様はさすがに壮観だ。

実際に見てわかったのは、十一本並ぶ12日は、壮絶な人出だということ。明治神宮か鶴岡八幡宮の初詣のような勢いだ。「立ち止まらないでください」とアナウンスがあり、そういわれなくとも列は前に進まず、ヘタをすると、大松明が灯っているときに、二月堂の下までたどりつけない。実際、わたしたちより後ろに並んでいた人々は、松明の火を見ることができなかった。火が消えた後にようやくたどりついたからだ。

他の日は、さほどの人出ではなく、もっとゆっくり見られる。大松明ではないが、普通の松明でもかなり大きく、見応えは充分だ。じっくりとその風情を楽しみたいなら、12日以外の日に限る。

いつからこのような大きな松明が焚かれるようになったのか。調べると、最初は練行衆と呼ばれる修行僧が修行のために二月堂に上るとき、その足下を照らすために松明をつけたのがはじまりだという。その頃、松明は実用目的で、大きくはなかったという。それが、いつのまにかどんどん大きくなり、いまのような形になっていったという。まるで、恐竜の進化のような話だ。

毎日、修行の開始の前に、小さな松明が一本、二月堂への階段を駈けのぼっていく。すべての明かりが消され、真っ暗になったその闇の中、炎が駈けのぼっていくのを見るのは、それだけで胸が躍る。大きな松明でなくても、感動で胸が熱くなる。オリンピックの聖火でもみるような気分だ。

きっと、その感動が松明を年々大きくしていったのかもしれない。

つまり、千三百年前は「このような夜」ではなかったということ。松明はもっと小さく、闇はもっと濃かった。もちろん、千三百年後もまた、その姿は違ってくるだろう。

「伝統」と呼ばれているものは、固定されたものではない。生きていればこそ、変化もしていく。

お水取りの醍醐味は、ほんとうは松明ではなく、声明だと聞いていた。その声明も、昨年はじっくりと聞くことができた。

通称お水取り、正式には修二会とは、本尊十一面観音菩薩の名を繰り返し唱え、罪科を懺悔して、観音の慈悲にすがり、人々の幸福、世界の平和を願って、祈りを捧げる行事。修行僧が唱える経文や祈りの言葉のなかに、ふいに「現代の言葉」が入った。「スマトラ沖地震津波、新潟中越地震」の惨事を悼み、「宗教紛争、民族紛争、止むところを知らず」と人類の愚行を懺悔する。その言葉に、心からの祈りの気持ちがこもっていることを感じずにいられなかった。千年を越えて続く行事ではあるけれど、それはひからびた形骸をなぞるものではなく、いまもいきいきと血の通った生きた儀式なのだ。感動に涙がこぼれそうになった。

修二会は今年で1255回目。祈りの心は脈々と生きている。祈りの心なくして、どうしてあのようなきびしい修行ができるだろう。そして、生きているからこそ、伝統を守りながらも、何かが少しずつ変化していく。それこそが、ほんとうの伝統だ。

千三百年ほど前も このような夜でしたなぁ
千三百年後も きっとこのような夜が来るのでしょうなぁ
それは違う。それは、ほんとうの奈良を知らない人の言葉。けれど、形は変われど、真摯に祈る気持ちは、千三百年前も、千三百年後も、変わらないのかもしれない。変わらないでいてほしい。


■26 Feb 2006 脳を鍛える



NHKの子ども向けニュース番組で「脳を鍛える」という特集をしていた。東北大学の川島隆太先生が解説。このなかで、前頭前野を鍛えるには、本を音読したり、簡単な計算をしたりするといいといっていた。実際、実験をすると、確かに前頭前野が働いている。何か複雑なことを(テレビでは子どもがバスケットの試合の作戦を考えていた)考えているときは、実はこの前頭前野はあまり活発に働いていないという。

では「考える」とき、人は脳のどこを使っているのだろう。例えば、小説のプロットを考えるとき、詩を書くとき、作曲をするとき、人は脳のどこを使っているのだろう。

前頭前野は、ほ乳類の脳の中で、新しく発達した部分で、他の生き物に比べると、人間の前頭前野は格段に大きいという。つまり、これは人間を人間たらしめた脳の部分なのかもしれない。抽象的な概念や数字を操ることに長けている部分なのかもしれない。

その抽象的なことだけでは「深く考える」ということはできないということだろうか。もしかしたら、もっと古い、動物としての本能とか直感という部分を総合して、はじめて人は「深く考える」ということができるのかもしれない。


もうひとつ、番組では「ゲーム」のことをいっていた。コンピュータ・ゲームをするときは、果たして前頭前野は活発に働くのか? はじめてのゲームをするとき、それは活発に働くが、ゲームになれると、むしろ脳はリラックスして、前頭前野はあまり働かなくなるという。

このことも示唆的で面白かった。「大人」という存在は「はじめて」のものにあまり出会わない。既知のものに囲まれ、決まり切ったことを繰り返す、という生活を、多くの人が送っている。つまりそれは、ほとんど脳を使わずにいるということではないか。

すべてをパターンで認識して、既知のカテゴリーに分類し、それでよしとする。それが、効率的な認識の仕方だ。考えなくてすむ。時間もエネルギーも節約できる。反対に、出会ったものすべてを、パターン認識せずに、ほんとうにそこにあるものを見ようとすると、大変な労力がいる。不経済である。だから、大人はたいがい、そんなことはしない。

けれど、そうやって、生活のすべてを「ルーチンワーク」にしてしまうと、脳が働かなくなってしまう。

子どものようにどきどきすること。そこにあるものを、すでに知っているものだと簡単に振り分けてしまわず、ほんとうにそこにあるものを見ようとすること。それが、心のみずみずしさを失わない秘訣なのかもしれない。

だって、世界にはひとつとして同じものはなく、同じ人もいないのだから。すべては、ほんとうは「はじめて出会う」はずのものなのだから。



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