わたしが小さいころ暮らしていた家の近くには、大きな森がありました。夕方になってから、屋根の上にのぼってその森を眺めていると、木々が風になびいているのが美しく見えました。風は木にふれるとあめ色に染まり、太陽はその風を大きな手のひらで集めたかと思うと、一瞬にして森の向こうへと連れ去っていくのでした。
その頃のわたしには、風が吹きぬけるほかは、なにもおこりませんでした。ほんとうは目をさましていなかったかもしれませんし、記憶まで風にさられたのかもしれません。しかし、たしかにあの晴れた夏の日の夕方、わたしがいつものように屋根の上から森をながめていると、一羽の白い鳥が、森のどのはじからもいちばん遠いと思われるところの上を、ぐるぐると一心に飛んでいるのがみえました。そして、一瞬、しずみかけた太陽がぎらっと強く、白い光を放ちました。眩しくてわたしは目をきつくつむりました。
「もういいかい」
小さく声が聞こえます。声のする方を見ると、それは真っ白な美しい鳥でした。まさに、森の上を飛んでいた、あの鳥でした。
「もういいよ」
思わずつられてそう続けると、その鳥はくしゅんと小さく、くしゃみのような笑い声をたてました。それは、風よりもたしかに空気をふるわせました。
「それじゃあ、はなすよ」
小首をかしげた鳥の姿は、まるで遠い国から流されて海岸に打ち寄せられた、ガラスビンに入った手紙のように、彼方にあるうすれた思い出のかけらをひきよせるのでした。
(なんだろう…なんだったろう…)そう思っているうちに、鳥ははなしはじめました。
森のいちばん奥にだって木はあるんだよ。え? 知っているって? いいや、ほんとうにそれを知っている人は、ほんとうはいなかったんじゃないかな。だって、もし知ったら、人はなんとか見つけ出して、その木をすぐに切ってしまったろうからね。
そう、その木は、ほんとうにすてきだった。そして、あまりに小さかったんだ。まわりの背の高い木が空に向って歌っている間、小さな木は大地を見て考えごとばかりするようになった。まわりの木たちにもどうしようもなかった。小さな木はそれを知っていたし、決して誰にも文句を言うことはなかったよ。
けれど、小さな木は、やっぱり哀しかった。そして、まわりの木も、そんな小さな木がそこにいるだけでやっぱり哀しい思いをしていたんだよ。哀しいけれど、それはほんとうに、誰にもどうしようもないことだったんだよ。
そんなある夏の日の午後に、あの少女がきたんだ。晴れた空にうかぶ入道雲をいっぱいくっつけたみたいな真っ白いワンピースをきて、もも色のリボンがついた麦わらぼうしをかぶって、少女は森のいちばん奥の、小さな木が立っている場所に歩いてきたんだ。
どうしてかわからない。きっと、うんと哀しいことがあったんだろう。その少女は目にいっぱい涙をためて、小さな木が立っているすぐそば、その木の根本までくると、わっとつっぷして泣き出してしまった。そうしてしばらくして泣き止むと、少女はポケットからなにかを大事そうにとりだし、そっと指につまむと、光にかざすようにした。
それは小さな巻き貝だった。小さな木はどきどきした。貝がらにどきどきしたんじゃなくて、少女がまた泣き出してしまわないかと心配したんだ。だって、光が届かなくて小さいままの自分よりももっと小さい女の子までなんて、ちっとも届かないと思ったから。
けれど、少女は泣かなかった。泣かないばかりか巻き貝を見つめる目はまぶしいくらいに輝いていた。涙にぬれた後だったからだろうか。たくさんの生きものが住んでいる海みたいな目をしていた。そして、少女は何か小さくつぶやくと、その巻き貝を埋めたんだ。小さな木がたっている、その場所に。
その晩、小さな木はなかなか眠れなかった。昼間の少女のことを思っていたから。少女が哀しかったことはなんだったんだろう、少女が埋めたものはなんだったんだろうってね。
森の奥の奥に小さく生きている木には知るよしもなかった。でも、小さな木ははじめて、足元に広がる大地から、たしかな鼓動と、自分の中に音をたてて流れる水脈を感じたんだ。
すると、天上から光が注いできた。上を見上げた。そこには限りなく満月にちかい月があった。できうるかぎり枝という枝をのばして、月の光を含んだ大気を体中に流した。そうして、深い眠りにおちていった。
小さな木が目覚めると、小さな木のそばには、鹿がねそべっていた。小鹿は「ごきげんよう。今宵もお月さまがきれいですね。」とおちょぼ口ですまして言った。
「ご、ごきげんうるわしゅう、鹿さん」
小さな木は思いつく限りでいちばんとっておきのあいさつをしたので武者震いするように枝がふるえた。すると、聴いたことのない美しい音色が辺りいっぱいに飛び散ったんだ。
「まあ、なんてすてき。想像以上だわ」
鹿はぴょんと立ち上がると、木に言った。
「ねえ、そのきれいに光っているもの、ひとついただけないかしら」
「え? 光っているものってなあに?」
「とって見せてあげるわ」
鹿は小さな木に近寄ると、枝に口を近づけた。そして、かすかな音をさせて、それをとって、小さな木に見せたんだ。
「あっ、あの女の子が埋めたものだ」
それは白く輝く巻き貝だった。月から注ぐ銀の光がまぶされて、まるで星のようだ。
「あなたの枝にたくさん実っているわ。きれいな声が風にのって聞こえてきたからここまできたのよ。そしたらこの実が遠い海の話をしてくれたの。ああ、ほんとうにすてきなお話だったわ。ありがとう。海のお話なんて、わたしはじめてよ」
鹿はこれ以上はないというくらい丁寧におじぎをすると、森の奥に消えていった。
そうして、次ぎの晩も、その次の晩も、目覚めてみると森の動物がきていた。そして、木の知らない間に貝殻は海の話を動物たちにきかせ、動物たちは喜んで木にお礼を言っていく。それなのに、小さな木は一度も貝殻の話を聞いたことがなかったんだ。
そうしているうちに、まるかった月は何かに急いでいるように欠けていった。貝殻もあとひとつしか残っていない。小さな木は感じていた。自分の命ももう長くはないことを。
(あの月が消える頃、ぼくはここにいるだろうか。ここを離れたら、ぼくはどんな風になるのだろう。)
月は高く白かった。その光は、わずかに開けた窓からこぼれる光のようだった。小さな木は少し泣いた。あの時の少女を思い出した。
その時、風がさあっと吹き抜け、貝殻をなでていった。すると貝殻は「また会おうね」とつぶやいた。その声を聴きつけたかのように、森中のあちこちから、美しい声が聞こえ、その声はしだいにひとつに重なり、大きな歌になった。
また会える どこかで会える
小さな波が打ち寄せる
大きな浜辺の片隅で
きっと会える みんなに会える
小さなひとつの物語
ひとつぶの海に帰る日に
「歌は、森をほんの少し海の匂いにつつんで、そして消えていったんだ。わたしはそれをほんとうに小さい頃に聴いた気がするよ。さあ、続きはこの貝殻が話してくれる。」
そう言って、鳥は貝殻をわたしの手の平に乗せると、森へ帰ってゆきました。森の奥に埋めたはずの巻き貝は、少し大きくなった気がしました。貝殻の中の小さな階段から、あの歌がまだ聞こえていました。