物語の作法・課題2 根本紗弥花(1)

さくらがい

水族館のお客はゆかこだけでした。
ゆかこの一番のお気に入りは、壁が一面ガラス張りになっていて珊瑚礁が植わっている水槽です。ここには、色とりどりのきれいな魚達や、小さなウミガメがたくさん泳いでいます。透明でゆらゆら涼しそうな水の中を、魚達は悠々と泳ぎまわっています。
ガラスにぴたっとくっついて見ていると、まるで自分も、魚達と一緒に泳いでいるようです。
今日は、三年生になって初めての授業がある日でした。でも、ゆかこはちっとも面白くありません。仲良しのりっちゃんとクラスが分かれてしまったし、勉強は難しくなるみたいだし、なんだか学校へ行くのがとてもつまらなくなってしまったのです。そこでゆかこは、教科書の代わりにランドセルにこっそり貯金箱を入れて家を出たのです。そして貯金箱を叩き割ったお金で、こうして水族館に来ています。
ふと気付くと、隣にいつのまにかお姉さんが立っていました。
髪が透けるような栗色で、ふわふわしていて、肌がとても白い、きれいな人でした。
ゆかこが「天使って、こういう姿だったかもしれない」と思ったほどです。
よくみると、その人の前には、たくさんの小さな魚たちが集まっています。みんなお姉さんの方を向いて、上を向いたり、下を向いたり。お姉さんのほうでも、少し笑ったり、悲しそうな顔をしたり、まるで会話をしているみたいでした。
「魚と、話ができるの?」思わずゆかこは聞いていました。
はっと振り返ったその人の顔は、横から見るよりもっときれいです。
お姉さんは、ゆっくり笑って答えました。
「そうよ。あなた、何度もここへ来てるの?」
ゆかこが頷くと、その人は、ちょっと魚達の方に向き直って、またゆかこに笑いかけると、こう言いました。
「魚達が、あなたのことを気に入ってるみたい。話をしてみる?」
ゆかこは、とてもびっくりしましたが、何度も大きく首を縦に振りました。
お姉さんは、少し笑って、こう言います。
「手をつないで。それから、いいと言うまで、目をつぶっていてね。」
女の人の手は、とても冷たくて、すべすべしていて、お母さんの手より、ずっと華奢でした。
目をつぶると、ふわっと、体が宙に浮いたようです。すると、女の人が、「もういいわよ」といいます。
目を開けてみると、そこはなんと、目の前も、右も左も、後ろも、足の下も、正真正銘の珊瑚礁の海だったのです。目の前を、水族館でさっき見ていたような、赤や黄色や澄んだ青の魚達が泳ぎまわっています。
「……きれい!」
呟いて、ゆかこははっとしました。水の中なのに、息ができるのです! 体を動かすと、簡単に思った方へ行くこともできます。プールではあまりうまく泳げないのに、ここでは思い通りです。
魚達が何匹もゆかこに挨拶しに来ました。
黄色と黒のしましまのはつんとした挨拶を、真っ赤の尾びれの長い小さい魚はとてもせっかちな挨拶をしていきました。
とても大きなエメラルドグリーンの魚が挨拶に来たときは、さすがにゆかこも怖かったのですが、お姉さんが「大丈夫よ」と言ってくれたので、逃げずにちゃんと仲良くなれました。オレンジと白のまだら模様の魚はかくれんぼが大好きで、澄んだ青色の魚は追いかけっこが大好きでした。色とりどりのいそぎんちゃくは合唱が得意で、光の加減で色が水色からピンクに変わるとてもきれいな魚は、みんなダンスが上手でした。珊瑚礁はとても優しい声で古いお話を聞かせてくれたし、亀は危険な鮫が来るのをいち早く発見して、みんなに知らせてくれました。
ゆかこは人間の話をみんなにしてあげました。友達とどうやって遊ぶかとか、毎日学校に行くこととか、お母さんはどんな人かとか。
友達や、お母さんのことはすぐにわかってくれるのに、魚達は学校のことはなかなかわかってくれません。魚達にとっては、海全部が家で、毎日そこを出て別の場所へ行く、ということがないからです。魚達は“家に帰るとお母さんがご飯を作って待っている”ことや、ゆかこ達のする遊びのことは、とてもうらやましいと言いましたが、学校のことは「大変なんだね」と言いました。
「ぼくたちは、海でこうしてるほうがよっぽどいいや。」
ゆかこは本当にそうだ、と思いました。
どれくらい、そうしてみんなと遊んでいたでしょうか、お姉さんが手招きをして、こう言いました。
「いつまでも、ここにいるわけには、いかないわ。帰りましょう。」
途端にゆかこはとても寂しくなりました。それを感じ取った魚達が、みんなゆかこの周りに集まってきました。
「帰っちゃうの?」
「もっと遊ぼうよ」
小さい魚達が口々にいいました。
でも、ゆかこにはお姉さんの言ったことが正しいのがわかっていました。ゆかこの目から、大粒の涙が溢れます。
大きな魚が、ゆかこに体を摺り寄せて、優しく言いました。
「また、来ればいいさ。ぼくたちは、ここにいるんだから。」
そして、お姉さんのほうに、あごをしゃくって見せました。見ると、お姉さんは、手に、掌ほどもあるさくら貝を乗せています。
「これを持って行って。そうすれば、好きなときに、またこの子達と会えるわ。」
ゆかこは頷いて、さくら貝を受け取りました。

目を開けると、そこは元の静かな水族館でした。慌てて見回しても、お姉さんの姿はどこにもありません。でも、ゆかこの右手には、あのさくら貝が、しっかりと握られていたのでした。
その晩は、学校をサボったことでさんざん叱られ、ゆかこはへとへとになってしまいましたが、水族館でのことは決して言いませんでした。なんだか秘密にしておかないと魔法が解けてしまう気がしたからです。
次の朝、学校に行ってみるとなんだかいつもより騒がしいようです。
「どうしたの?」
近くにいた女の子に尋ねると、その子はうれしそうに答えました。
「担任の芝先生が産休で、新しい先生が来るって言ってたでしょ? その先生も昨日お休みだったの。だから、今日、初対面ってわけ。」
ゆかこは、あんまり興味がなかったので、なんだ、と思いました。先生が変わっても、学校がそんなに面白くないってことには変わりがないからです。
ガラっと、ドアが開いて、学年主任の先生が入って来ました。その先生に続いて入ってきたのは……
栗色のふわふわの髪、白い肌! 昨日の、天使みたいなお姉さんだったのです!
学年主任の先生が、お姉さんを紹介する声も、他の子供達の歓声も、ゆかこには全然届いていませんでした。お姉さんは、ゆっくりと教室を見渡して、ゆかこを見つけると、昨日と同じ、優しい顔で、ふわりと笑いました。お姉さんの首に下がっている、さくら貝のペンダントが、光に反射して、キラッと輝きました。
ゆかこは、昨日の貝をぎゅっと掌に握り締め、今年は、きっと、いい年になる、と確信していたのでした。