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インタビュー 寮 美千子[りょう・みちこ]
インタビュアー 司 加人
写 真 松永 洋介

2001年11月25日掲載



「何屋」にとらわれない"アマチュア"でいたい


―― ご自分では何屋だと?

( 寮 ) アマチュアだと思ってます(笑い)。 エドワード・サイードの言う意味での。なんていうと生意気ですが、つまり「何屋」という枠組みのなかに入れられたくない。言葉によって表現する者、としてあらゆる枠組みから自由でいたい。その意味でのアマチュアです。もちろん、仕事の質としては常にプロフェッショナルを目指したい。そんなわけで「童話作家」とか「詩人」とか自称しないんです。みなさん、好きなように呼んでください、といっている。

 でも「児童文学者」だけはお願いだからやめてって(笑い)。だって、わたしは児童じゃないし(笑い)、もともと文学には子どもも大人もない。世間がどう思っているのかはともかく、わたしは、そう思っていますから。

―― コピーライターをおやりになっていたそうですが、この道に入り、独立しようとしたのは、いつ頃、どんな動機でしょうか?

( 寮 ) 独立したのは、コピーライトの仕事に飽きちゃったからです(笑い)。
 そもそもというところから、話させてもらいますと、実は、わたしは大学を卒業していないんです。進学校だったけれど、おちこぼれて大学は夜間。勉強しないんなら働けと、親にほぼ強制的に受けさせられた公務員試験に受かってしまったので、昼間は外務省で働いていました。ところが、当然のことながら性に合わない。じっと机に座っているっていうのが苦手ってこともあったけれど、初級公務員で入ったわたしでも「外務省ってどうなってるんだろう?」と思うような矛盾に満ちたことがたくさんあったんです。例えば、娘のバレエの発表会に公用車を出すような人とかね。それが当たり前の世界だった。そういうのにうんざり、ということも正直言ってありました。初級公務員っていうのは、上の試験に合格でもしない限り、一生そういう人たちに顎で使われる立場だったから。

 話が逸れますが、田中真紀子外相は、そういう体質に独りで切り込んでいってほんとうに偉いと思います。わたしが勤めていた頃から四半世紀、誰が外務大臣になっても、みんな見逃してきたんだから。
 ともかくも、そんなわけで、外務省は1年でさっさとやめて、1年ほどフリーター生活の後、草思社というちょっと変わった出版社の広告制作部門に入りました。そこで、ある楽器会社のPR誌の編集を好きなようにやらせてもらったのです。あれは、いま思えばほんとうにいい環境だった。
 けれど、結局、資本主義経済の中での広告制作ということになると、自分が納得しなくてもスポンサーに折れて、向こうの方針に従わなくちゃいけないところが出てくる。そういうのがだんだん苦痛になってしまったんですね。

 それで、フリーランスになったのですが、広い世間に出てみて、はじめてわかった。フリーランスというのは結局はカーストの一番下だって(笑い)。わたしに力がなかったということもあるのですが、所詮はスポンサーのいいなり。草思社は、広告業界のなかで、どれだけまともで良心的な仕事をする会社だったかって、やっとわかった(笑い)。そんなこともわからないほど、世間知らずだったんですね、わたしは。

 それで、いまさら古巣へってわけにもいかないし、ここらで「他人のため」じゃなくて「自分のため」に文章を書いてみようかと思って、創作をはじめたわけです。



外務省→出版社→フリーランスを経て童話の世界に入ったが…


―― そういう時に、宮澤賢治と出会った?

( 寮 ) それは高校時代です。憧れの先輩が「宮澤賢治っていいよ」っていうから、先輩に話を合わせたい一心という不純な動機で読んでみたんですが、読んだら、先輩なんかどこかへ吹っ飛んじゃうくらいのインパクトを受けてしまった(笑い)。
 それでいざ創作を、と思ったとき「童話」というスタイルが自分の気持ちの中でクローズアップされてきた。根っこが宮澤賢治だから、エンターティメントとかじゃない。世界の根源にあるものを、やさしく、分かりやすい言葉で探っていけないか。そんな大それたことをもくろんで、この業界に足を踏み入れたんです(笑い)。

 ですが、これがまたギョーカイそのものなんですね(笑い)。結局「お母さんが喜ぶもの=子どもが喜ぶもの」が一番なんです。宮澤賢治が書いたようなものは、子どもは単純には喜ばないんですよ。『ドラえもん』とか、『きかんしゃトーマス』とか、いまなら『ハリー・ポッター』というような、要するにエンターテインメント、キャッキャッと楽しめるものでないと…。それはそれで存在価値があるとは思いますが、商業誌はほとんどそれ一辺倒。それ以外のものが出るチャンスはないですよね。だから、わたしも出番がない。

―― しかし、『ねっけつびすけっとチビスケくん』で毎日童話新人賞を取られました。


( 寮 ) このままくすぶっていてもしょうがないだろうと、一点突破を狙って書いた作品でした。童話を書くことを趣味じゃなくて、仕事にしたかったから。だから、その賞の過去の受賞作を研究して、傾向と対策を立てて、トコトン戦略的に書きました。そうしたら、賞をもらえちゃった。
 しかし、そうはいっても、やはりわたし自身のアナーキーな体質が作品に反映してしまう。そこを直しなさいと偉い先生に言われました。物語は、ビスケットが命をもって地球を飛び出し、月に「お菓子によるお菓子のためのおかしな国」をつくるという他愛ないものなんだけれど、ラストシーン、世界中の新聞でそれが報道された、と書いたら、偉い先生は「これはだめ。夢でした、にしなさい」っていう。「いやだ」っていったら、その賞の歴史はじまって以来、はじめて単行本化されなかった受賞作になりました。

―― したがって、単行本の著作リストに入っていないわけですね(笑い)。それから、一体どうやって世間と折り合いを?

( 寮 ) 茨の道でした(笑い)。書きたい作品を書くと「暗い」とか「むずかしい」とか「あなたらしくない」と言われて―それがわたしの本質なのにね―受け狙いで書いた受賞作のようなものを求められる。自業自得だと反省しました。なんとかわたしの本質を理解してもらおう、それには幼年童話のような短い作品では無理だ、ならばもっと長い物語を書こう。そう思って書いた『小惑星美術館』で、ようやくわたしの資質を世間に受けとめてもらえました。



宮澤賢治に大影響を受け、世界の「根源」に強い関心抱く


―― 寮さんの作風に一つのインパクトを与えているテーマに、マイノリティ、少数民族があると思うのですが、92年でしたか、アメリカへ行って、先住民の居住区を旅していますね。少数民族への関心はいつ頃からですか?

( 寮 ) これも話せば長くなるのですが(笑い)、まず最初に「星の世界」というのがあるんです。そこから「先住民」への長い長い物語…。

―― 聞くのに覚悟が入りそうですね(笑い)。

( 寮 ) はい、覚悟してください。じゃあ、行きますよ(笑い)。
 小さい頃から、星や宇宙に興味がある子どもでした。なんといっても星はきれいだし、果てのない、永遠のものにも憧れる気持ちもありました。で、星の世界のことを勉強していくと、どうしても「宇宙の果て」や「宇宙のはじまり」の話になる。この宇宙がどうやってできたか、どういう構造になっているか、という根源的な話になるわけです。なかでも興味を引かれたのが電波天文学。電波天文学は、宇宙の物質循環を明らかにしたからです。ある取材をきっかけに、当時、野辺山宇宙電波観測所長だった電波天文学者の森本雅樹先生http://www2.memenet.or.jp/ojisan/(現西はりま天文台公園園長)と親しくさせていただく機会を得ました。こっちはド素人なのに、なにを質問しても丁寧に答えてくださる。そんなこともあって、さらに興味が湧き、ずいぶんいろいろと教えていただきました。天文学だけじゃなくて、人生観や世界観についても強く影響を受けています。

 宇宙に興味を持つと、じゃあ、その宇宙のなかで、地球はどんな位置にあるのか、地球というものに興味がいく。なにしろ、自分のいる惑星ですからね。当然、地質学や、地球生態学も視野に入ってくるわけです。生態学については、三島次郎先生(桜美林大学名誉教授)という素晴らしい先生の話をしなければならないのですが、これも大変長くなるので(笑い)断腸の思いで割愛しましょう。
 地球サイズで何が起こっていて、何が、どのように循環しているのかというシステムに対するある理解が頭の中に入ってくると、今取り沙汰されている森林の生産量の話とか、環境問題は当然入ってきます。そのサイズで、しかも長い時間単位でものを考えなければいけないという学問的なものの見方をしてくると、それじゃあその中で人類がどういうふうに生きてきたかということに興味が行きます。人類史の問題ですよね。

 そこからさらに、もっと身近な政治や歴史の問題になってくる。テロ事件のことなどは、このレベルのスケールで語られていることです。
 さらに、その人間社会のなかで、個人の心はどうなっているのか。人の心の中には、どんな世界が広がっているのか。すると、ユング心理学や神話学が視野に入ってくる。
 星から始まって人間の心の在りようまで、マクロからミクロへと興味が連鎖していったのです。芋蔓式に。

―― で、先住民族との関係は?…

( 寮 ) 先住民の考え方、生活の仕方はどんなものだったのか。科学的な理解の欠如した、迷信まみれのものだったのか。後進国や発展途上国という言い方や、未開社会という言い方が示すように、文明国からの物差しだと、彼らの暮らしぶりや世界観は「遅れた」「途上の」「未だ開かれていない」ものと見られがちです。
 でも、そうじゃないんじゃないか、と思えてきた。むしろ、彼らの暮らしはある完成の域にあるのではないか。地球がどのように生物圏として進化してきたのかとか、生態系としてどのように巧妙にできているかを知れば知るほど、そう思うようになったのです。
 人類発生から長い時間をかけ試行錯誤を繰り返しながら自然とつきあってきた人々が獲得した生活様式、世界観、というものは、とても洗練されている。自然から収奪しすぎないで、自然と調和して生きる。それは、産業革命以前、広く試みられ獲得されたひとつの結論だったんじゃないかと思うようになったのです。

 そうすると、その人たちが世界をどのように理解していたかということにも興味がいく。
 自然というもののメカニズムを自分たちなりに理屈をつけ、納得するために、神なるものを設定し神話を作ってきた。その神話とは外界にあるものではなく、むしろ自分の心の中にあるものを外界と対応させて、深い納得を得る、という形で世界と折り合いをつけてきた。神話は、無知ゆえにでっち上げられた物語、というんじゃないと思うんですよ。大自然という、人間個人とはまったくスケールの違うものを、無理矛盾なく個の心に受け入れるための洗練された方法論だと思うのです。だから、世界に対して深く納得できる。その心の中の問題ということになると、ユングなんかの心の理解の仕方にも興味が湧く。


 宮澤賢治に強く共感したのも、賢治が世界の根源に位置したところから、宇宙を眺めたり、民俗を描いたりしているからなんです。天空の星も祭りの鹿踊りもつながっている。ばらばらじゃない。根源という一点から放射状に興味が向かっている。だからこそ、それが表現されたとき、美しい多面体の輝きを見せる。科学者としての賢治、童話作家としての賢治、詩人としての賢治、宗教者としての賢治、農業実践者としての賢治、教師としての賢治……。ひとつの根源から否応なしに輝きだしている、という人だと思うのです。
 どう? マクロからミクロへ、長大な物語でしょ(笑い)。

―― 一連のつながりとして、よく理解できましたが、ご自身の中では整理整頓されているのですか?(笑い)。

( 寮 ) そこなんですよ(笑い)。それは、整理整頓されるべき問題というよりは、むしろ一つのつながりなんですね。区切って考えるべき問題ではないんです。
 宇宙、地球、生物、人間、個人と、すべてスケールが違う。時間的にも空間的にも。
 それをうまく表現した『パワーズ・オブ・テン』http://www.powersof10.com/という、とてもよい本があります。いまいる自分の場所を1メートル四方として、距離を10倍10倍にしていくとどうなるか。10メートル四方、100メートル四方、1キロメートル四方、という具合に広げてゆく。すると、21回繰り返しただけで、銀河系のサイズまでいっちゃう。逆に、10分の1ずつにしていくと、すぐにミクロの世界に突入する。8回繰り返しただけでDNAが見えちゃう。

 そのような空間的なサイズの違いは、時間的なサイズの違いとも連動していく。地球の歴史は46億年、宇宙なら150億年。それに比べたら、人類の歴史なんて瞬間に等しい。でも、その瞬間のなかに、人類のさまざまな歴史があり、さらにその歴史を形作っている個々人の歴史も、それぞれに語り尽くせないくらいすごいものがある。
 そのように違うスケール感を実感としてひとつながりに自分のなかに取り入れるということが、とても大切に思うんです。つまり、より大きな想像力を持とう!という提案です。例えばテロリストを叩くためにアフガニスタンを空爆すればいいというような、短い時間の単位での考え方が、いかに愚かであるかが理解できるようになると思うのです。



想像力→テクノロジーを持った人類は抑止力を失ってしまった


―― なるほど。では、先住民の文化の対極にあるともいえる今日の科学技術については、どうお考えですか。

( 寮 ) いま、想像力の話をしましたが、宇宙のことやDNAについて考えることのできる想像力という人間の能力が、一方でテクノロジーを生んだわけです。テクノロジーが強大になればなるほど、振り回すと危ないことになってきたわけです。大昔の、やあやあ我こそは……とやっていた時は刀ですんだわけですが、それが核兵器になっちゃったら、振り回したら大変困ってしまうことになってしまう。いまやビンラディンも持ってるとかになっちゃって「さあどうする?!状態」になってるわけです。
 その時に、その力と同じだけの想像力をもってコントロールするパワーを身につけないと、当然人類はだめになりますよね。

 だから、想像力があって高度なテクノロジーを生みだした分、それをコントロールするという想像力も同時に成長させないといけないわけです。それを手に入れるためにも、さまざまな時間的空間的スケール感を自分の中に入れていかなければならないと思う。宇宙のスケールと個人の、まったくわたくし的な人間のスケールと、社会の動いているスケールというのを全部分断しないで、重層的に重ねて同時に見るような気持ちがないとうまくいかないと思うんですね。教育の根本というのは、自分サイズとは異なったさまざまなスケール感を身につけること、それを重層させ、物事を総合的に判断できる能力を養うこと。本来そこにあるべきだとわたしは思っています。

―― 今のお話は即、今日の地球環境の惨憺たる状態に関わってくる問題だと思われますが……。

( 寮 ) そうですね。敬虔なる態度ってあるじゃないですか。あるいは畏怖を感じるというか……。自制心と言ってもいいかもしれませんが、人類が今、自制心をなくした一つの理由は、テクノロジーがどんどん発達していくプロセスにおいて、なんでもできるんじゃないかという幻想を抱いたからではないでしょうか。幼稚ですよね。
 それに比べたら、里山の文化とか、アイヌやホピの人々の生き方とか、自制心がある。ずっと洗練されている大人の文化だと思います。



同時多発テロは"ネイティブからのメッセージ"と理解したい


―― われわれには謙虚さがない、慢心しているといってもいいですよね。さて、そろそろ目線を現実に移していただいて(笑い)、現在の我が地球の環境はきわめて重傷と言ってよいと思いますが、それじゃあ、今の生活レベルを大昔のものに戻せるかということも現実離れしています。そのへんどう思われますか?


( 寮 ) そこですね、そのへんすっごく難しい。先住民の生活スタイルに戻れ、といっても無理ですから、新しい方法論を見つけていかなければならないと思います。
 新しいといっても、見たこともないものっていうんじゃない。科学技術を利用しながらも、先住民の心に学ぶ。「足るを知る」という自制心を学ばなければならないと思います。
 要は、今の限りなき成長を前提としたシステムに乗っている限り、どうしようもないということです。少し大きな時間単位で考えれば、そんなことは火を見るよりも明らかです。なにしろ、生物が長い時間かけて固体に定着してきた二酸化炭素を、化石燃料としてぼんぼん燃やして空中に放出しているんですから、それだけでも大気の組成が乱れて温暖化などの問題が起きるのは当然です。

 ところが、今の社会は、欲望の歯止めがきかない。人々が、根本的になんとかしていこうという気持ちにならなければ、どうしようもありません。つまり、民度があがるということです。
 9月11日に起こったニューヨークなどのテロ事件はもうどうしようもなく衝撃的でした。中東問題という政治的捉え方や、イスラムだ、キリスト教だという宗教問題だと言っていますが、それだけじゃないんじゃないか。イスラムというのはもともと砂漠のアラビア半島に生きるためのある律法というか、人格の確立の一つの方法論として、お互いが自制心を持ってうまくやっていきましょうね、ということで生まれたアラビア半島の文化ではないでしょうか。ところが、そのアラビア半島に石油が産出されてしまったために、大変なことになってしまった、狂っちゃったと言ってもいいかもしれません。その狂ったところにアメリカというのがドンドン入ってきて、別の物質経済優先論理というものを押し付けてきた。

 それに対して、それは違うのではないか、人間というのは物質だけでは幸せになれない、心の世界というものがあって、土地と一体になって生きる暮しというのがあって、それで初めて人間が人間たる所以だという、ネイティブ側からの、もう一つの世界論がぶつかったんだと思うんです。
 それを単純に宗教の違いでイスラム対アメリカとか、経済問題とかの結果だということだけじゃない、本当に人間が20世紀に築いてきちゃった物質文明に対するアンチテーゼとして、今回の問題が勃発したんだと思うんです。世界貿易センタービルという物質文化の象徴が標的になったということも、実に象徴的だと思います。

―― ただ、5000人を超える市井の人たちが犠牲になったという現実があり、それにはあまり触れられていない……。

( 寮 ) それはほんとうに、ひどいことだったと思います。許される方法論じゃない。
 私は、革命では世の中はよくならないと思っている。一発逆転、というのはあり得ない。それは、ファシズムの別の形でしかありえない。どんな急流でも1個ずつ石を置いていくという以外によくなるわけがないと思っています。だから、9.11のあのやり方はだめです。

 でも、起こってしまった。起こってしまったからには、目先の考えだけで報復だなんだといってる場合じゃない。こんな悲劇が起こった原因がなんだったのか、その根源を見極め、それに対処するべきだと。いままで、これで行けると頭から信じていた方法論を、根源から見直すべき時であると。本当に、この方法が私たちを幸せにしてきただろうか、限りなき経済成長ということを見込んだ暮らしを、いつまでもしていてよいのだろうか、と。
 社会は不安でいっぱいになっていますよね。今まで何の疑いもなくスーパーで買っていたものが、不安で買えなくなります。郵便も、飛行機も、高層ビルも、当たり前に安全だと思っていたものが、そうでなくなった。かつてグリコ事件というのもありましたが、テロって、そういうことで、当り前に享受していたものが本当に当り前のものですか?というように問われ直したことだと思うんですよ。こんなに世界中のみんなが衝撃を受けるんですから、ある意味では物事をみんなで考え直すチャンスだと思うんです。

 もうひとつ、人の死というのは、何人死んだという数で云々できるようなものじゃないんですが、やっぱり言いたい。アメリカはいままで、戦争によりどれほどの命を奪ってきたかと。湾岸戦争でも、民間人だけで10万人以上が犠牲になったと言われています。その痛みを、今回のテロ事件ほど痛切に感じてはこなかったという人が、日本ではほとんどでしょう。わたしもそうでした。今度の事件で、自分がいかにアメリカ寄りの世界観を持っているかを知らされました。大げさに言えば、アメリカ人なのです。そう思えば、小泉首相の行動も納得がいく。第二次大戦のときにアメリカ軍に志願した日系二世のように、ヴェトナム戦争の時に志願した不法移民のように、立派なアメリカ人の一員として認められたい。そういうメンタリティを感じないではいられません。


 しかし、わたしたちの国は日本という独立国です。国の根幹となっている憲法の精神は、人間のあるべきしあわせの姿を考えたすばらしいものです。その憲法が、もしアメリカから押しつけられたというのなら、アメリカの言いなりになっていまさらそれを返上するんじゃなくて、「じゃあ、あなたがたがこれを押しつけたのでしょう」と逆手にとって、報復攻撃に反対の意志表示をするべきだった。「ショー・ザ・フラッグ」と言われたのなら、そうやってはっきりと意志表示をするべきです。それが、世界平和に対する最大の「国際貢献」であると思います。今からでも遅くないから、そうすればいいのです。



今こそ物事を根本的に考え直すチャンスだ


―― ホームページを拝見すると、アメリカの報復攻撃に対して非難、批判するトーンを強く感じましたが……。

( 寮 ) 繰り返しますが、テロの方法論をいいといっているわけではありません。しかし、アメリカのやり方、報復もおかしい。市井の人々を無差別に殺すことがテロだというのなら、アメリカがいままでしてきたことも、そして現在していることもテロ行為です。テロがいけないなら、空爆もいけない。
 インターネットでも、反アメリカ的な発言をすると「じゃあ、おまえはテロの味方か」といって足を引っ張る人がいますが、それはナンセンスです。アメリカかテロか、の二者択一なんて、あまりにも貧しい世界観です。世界にあるのは、それだけじゃない。わたしたちは、そのどちらでもない、あるべき世界の姿を模索していかなければならないと思います。

 ただ、この機を捕らえて、いままでおかしいと思ってきたことを、さらに声を大にして言いたい、という気持ちは正直いってあります。例えば原発。原子力の平和利用だなんて言ってますが、あれは存在それ自体が危険です。ナンセンスなくらいに。ホモ・サピエンスになってたかだか3万年、歴史らしい歴史を残すようになってからわずか2千年ほどの人類が、半減期2万4千年の猛毒物質プルトニウムを制御しよう、なんていう考えそれ自体が、人類の思い上がりとしか思えません。人間はミスをする生き物です。ミスが重なれば事故も起きる。チェルノブイリを初め、先日の浜岡原発にいたるまで、実際事故も起きてきた。戦争になって原発を爆撃されれば、通常爆弾で核汚染されてしまう。そこへ、このテロ事件です。爆弾でなくとも、飛行機一機、激突しただけで、どうなるか。「そら、危ないぞ」と声を大にしていいたい。人々が危機感を自分のものと感じているいまだからこそ、説得力を持つと思うのです。

 ある意味において、わたしはブッシュ大統領と同じかもしれない。

――ブッシュ大統領と?

( 寮 ) ええ。ブッシュ大統領もこの機に乗じて、石油資本をバックに自分の都合のいいようにしようと思ってやってるわけでしょう。やってみたら、あまり都合よくなかたらしいというのがやっと分かってきたのかな、って感じですが……。
 反原発の人とか、今の環境をなんとかした方がよいと思っている人たちもこの機に乗じて(笑い)、意見を思い切り声やアクションに表わして、ほら、これはおかしいじゃないと言い始めたと思うんですよ。でも、機に乗じてという卑劣なやり方としてはどっちも同じだと思うんです(笑い)。わたしもそれは自覚しています。

 でも、どっちに理があるかというと、焦点距離の長い方が正しい。ブッシュ大統領の焦点距離は、アメリカの支配体制を是として、このまま突き進みたいという時間サイズでしかものを考えてない。アメリカが京都議定書を蹴っ飛ばしたのも、短い焦点距離ゆえだと思います。しかし、それを続けていたら、地球規模で大変なことになる。もっと先を見た考え方、やり方をしないと、ということを考えるチャンスにすべきだとわたしは思うんですよ。また、そうでなければ、失われた命に対して申し訳ない。人を殺すことではなく、本当に人を生かすことで、犠牲者に報いたい。それが正しい報復行動だと、わたしは信じます。



物資と金だけの援助でなく地域の自立へのサポート考えよう


―― ところで、作品の中の『父は空 母は大地』を拝見しましたが、「どうしたら空が買えるというのだろうか?」という先住民の首長の言葉に胸を打たれたのですが、これはまさに今の地球環境問題をズバリ指摘していますね。


( 寮 ) そうですね。根源さえ捕まえていれば、世界はとてもシンプルです。でも、実際はそういかない。人間社会は複雑怪奇です。政治や宗教や経済や教育やさまざまなものが絡み合ってこんがらがっている。それをひとつずつ、ゆっくりと解きほぐしていく具体策が必要です。
 たとえば、第三世界の人々が困った状態にある時に、どういう形で援助をすればよいのか、とかもすごく大きな問題だと思うんです。援助物資とお金をボンボン投入すればいいかというと、絶対そういう問題じゃないと思うんですよ。地域地域でなるべく自立していけるスタイルをどのように側面からサポートすることができるか、ということが大事だと思うんですね。
 子どもに教育が必要なことは分かっているけど、教育施設がない。それじゃあ学校作りましょう、学校作って西洋式の勉強をドンドンさせましょう。それで子どもが勉強すると都会に行っちゃって、地方に定着しない。地方が空っぽになっちゃって、伝統が守られなくなっちゃうということが、そこら中にあるんですよね。援助しているのか足引っ張っているのか分からないというような状況を作ってるんです。

 援助や教育というのは、その土地のやり方をレスペクト(敬意を払う)して、その土地の文化を無駄に浸食しないスタイルで行わなければ意味がない。土地固有の文化なんて迷信だからとっぱらって、西洋的な価値観の科学を植え付けるというのは、援助ではなく暴力です。そうではなくて、こういう見方があるんだよというというふうに、もう一つそこに科学的な世界観の知識というものをプラスして、乗せていってあげるというスタイルにしないと意味ないと思うんですよ。
 固有の文化と、科学的考え方が矛盾したらどうなるのか、という問題を投げかける人がいるかもしれません。でも、人間の心というものはそんなに狭量じゃない。矛盾したまま受けとめることができるし、矛盾したことで深く考えることもできる。さらに止揚して、より豊かな世界を築くこともできる。そういうやり方が、世界をもっと豊かなものにしていくと思う。
 だから、アフガニスタンはコーランばかり勉強していて、ちゃんとした勉強をしていないというのは、ちょっと違うんじゃないか。それはそれで、その土地の文化として敬意を払わなくちゃいけない。そこに西洋式の科学的考え方を導入するかどうかは、まず、そこの土地の人々が自分で決められるような世界じゃなくちゃいけないと思う。何がいけないって、わたしは無用な干渉がいちばんいけないと思う。タリバン崩壊後の政権構想を国連で、なんて大きなお世話ですよ。なんでそこに住んでいない人たちが、勝手にどうのこうのと決めることができるの、と思うんです。

 女性がちゃんと教育されていないから人権無視だとかグジャグジャ言うんだったら、その土地にいる人たちがどうしたらいいか決められるような安定した生活をするためのサポートを、まず私たちはすべきじゃないのか。土地の文化を無視することこそ、人権無視だと思います。
 第三諸国の貧困をどうしたらいいかという問題は、物資をガンガン投入するという方法ではなくて、たとえば井戸がなくて水に困っているのなら、井戸の掘り方を教えるということから地道にやっていくしかないと思うんです。じわじわと緑化政策をしたり、その土地の教育を大切にしながら、人口抑制のためのバースコントロールの知識も普及させる。だいたいが、生活が安定しないし、乳幼児の死亡率が高いから、不安になってどんどん子どもを産んでしまうんです。それがまた貧困を加速させ、飢えを生む。生活の安定が第一の課題だと思います。爆弾を落としている暇があったら、井戸を掘れと言いたい。ミサイルひとつで、バースコントロールのための物資なんかはどれだけばらまけるだろう。そうやって、その土地が自立していけるようにゆっくりと育てていくしかないのではないか、と思い続けているのですが……。

 バングラディシュの銀行家ムハマド・ユヌス氏の活動など、すばらしいと思います。女性が自立して生きていけるための資金の貸し出し、同時に村ごとで共同体をつくり、教育を推進している。地域性を損なわずに、よきものを伸ばしている。日本のNGOの井戸掘りプロジェクトなども、地道であるがゆえに正しいやり方だと思っています。
 このインタビューにすでに登場した、海岸清掃を実践している小島あずささんと、河川や終末医療の問題に取り組んでいる高橋ユリカさんは、実はわたしのお友だちです。彼女たちは、現実の難しい問題に地道に取り組んでいて偉いなあ、こういう活動が世界を少しずつ美しくしていくのだと、頭が下がる思いです。



こういう時こそもの書きは能弁になるべきだ


―― 寮さん自身は運動にとか、政治家にとかのお考えは?

( 寮 ) 政治家になろうという発想は全くありませんが、もの書きというのは実社会の中で、満員電車に乗って、汗流して、経済システムを支えているようなことをしていないわけですよ。はっきり言って、いい気なもんです(笑い)。社会の外側にいて、一応「芸術家」という札が立っているから、社会の人たちから許してもらっている立場で仕事しているわけです。でも、だからこそ、見えてくる世界というのもあるのですよね。社会に取り込まれていないが故に、くっきりと見える。それを言わないでどうするんだ、作家がただのエンターテインメントを供給する人になっちゃってどうするの?って、わたしは思う。湾岸戦争の時にあれだけガアガア言ってた人たちは一体、今何をしているんだろう? 満員電車に乗らないで、社会から養ってもらっている人たちは、もっともっとその立場を自覚して、こういう時こそ積極的に発言していかなくてはいけないと思うんです。

 わたしなんか、売れてない作家で発言の場所も与えられないから、インターネットでガンガンやったわけですが、やってみて、すごく面白いと思いました。たとえばマスメディアが当り前のように流していることに疑問を抱く人がいる。「タリバン崩壊後のアフガニスタンを云々」なんておかしいって。そういうことをぶつぶつ言う人が山のようにいて、その人たちが情報を交し合ってるんです。この状況は、世界は一色じゃないということを知るために非常に役に立っていると思います。これをもっと活用すべきだと改めて感じています。

 いままで社会に養っていただいたご恩返しとして、今の経済システムに乗っかったメディアには乗らないけれど----つまり、書くことで即収入にはならないけれど----今ここで言わなければいけないということを、独自に、自腹を切ってちゃんと言っておかなくちゃいけないと思うんですよ。
 そういうことは今後もしていきたい、していかなければいけないと思うんです。
 本業の方の作家としても、もっともっと世界を心で直に受け取れるような作品、よい意味での想像力、繊細でしかも強い想像力を養うような作品をつくっていきたいと思っています。

―― ありがとうございました。まだまだ伺いたいことはあるのですが、今回はこのへんで区切りにしたいと思います。

( 寮 ) じゃあ、またこんどね。次は、来週あたりにしますか(笑い)。





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