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インタビュアー 司 加人 写 真 松永 洋介 2001年11月25日掲載 | ||||||||||||
―― ご自分では何屋だと? ( 寮 ) アマチュアだと思ってます(笑い)。 エドワード・サイードの言う意味での。なんていうと生意気ですが、つまり「何屋」という枠組みのなかに入れられたくない。言葉によって表現する者、としてあらゆる枠組みから自由でいたい。その意味でのアマチュアです。もちろん、仕事の質としては常にプロフェッショナルを目指したい。そんなわけで「童話作家」とか「詩人」とか自称しないんです。みなさん、好きなように呼んでください、といっている。 でも「児童文学者」だけはお願いだからやめてって(笑い)。だって、わたしは児童じゃないし(笑い)、もともと文学には子どもも大人もない。世間がどう思っているのかはともかく、わたしは、そう思っていますから。 ―― コピーライターをおやりになっていたそうですが、この道に入り、独立しようとしたのは、いつ頃、どんな動機でしょうか?
( 寮 ) 独立したのは、コピーライトの仕事に飽きちゃったからです(笑い)。
話が逸れますが、田中真紀子外相は、そういう体質に独りで切り込んでいってほんとうに偉いと思います。わたしが勤めていた頃から四半世紀、誰が外務大臣になっても、みんな見逃してきたんだから。
それで、フリーランスになったのですが、広い世間に出てみて、はじめてわかった。フリーランスというのは結局はカーストの一番下だって(笑い)。わたしに力がなかったということもあるのですが、所詮はスポンサーのいいなり。草思社は、広告業界のなかで、どれだけまともで良心的な仕事をする会社だったかって、やっとわかった(笑い)。そんなこともわからないほど、世間知らずだったんですね、わたしは。
それで、いまさら古巣へってわけにもいかないし、ここらで「他人のため」じゃなくて「自分のため」に文章を書いてみようかと思って、創作をはじめたわけです。
( 寮 ) それは高校時代です。憧れの先輩が「宮澤賢治っていいよ」っていうから、先輩に話を合わせたい一心という不純な動機で読んでみたんですが、読んだら、先輩なんかどこかへ吹っ飛んじゃうくらいのインパクトを受けてしまった(笑い)。
ですが、これがまたギョーカイそのものなんですね(笑い)。結局「お母さんが喜ぶもの=子どもが喜ぶもの」が一番なんです。宮澤賢治が書いたようなものは、子どもは単純には喜ばないんですよ。『ドラえもん』とか、『きかんしゃトーマス』とか、いまなら『ハリー・ポッター』というような、要するにエンターテインメント、キャッキャッと楽しめるものでないと…。それはそれで存在価値があるとは思いますが、商業誌はほとんどそれ一辺倒。それ以外のものが出るチャンスはないですよね。だから、わたしも出番がない。 ―― しかし、『ねっけつびすけっとチビスケくん』で毎日童話新人賞を取られました。
しかし、そうはいっても、やはりわたし自身のアナーキーな体質が作品に反映してしまう。そこを直しなさいと偉い先生に言われました。物語は、ビスケットが命をもって地球を飛び出し、月に「お菓子によるお菓子のためのおかしな国」をつくるという他愛ないものなんだけれど、ラストシーン、世界中の新聞でそれが報道された、と書いたら、偉い先生は「これはだめ。夢でした、にしなさい」っていう。「いやだ」っていったら、その賞の歴史はじまって以来、はじめて単行本化されなかった受賞作になりました。 ―― したがって、単行本の著作リストに入っていないわけですね(笑い)。それから、一体どうやって世間と折り合いを?
( 寮 ) 茨の道でした(笑い)。書きたい作品を書くと「暗い」とか「むずかしい」とか「あなたらしくない」と言われて―それがわたしの本質なのにね―受け狙いで書いた受賞作のようなものを求められる。自業自得だと反省しました。なんとかわたしの本質を理解してもらおう、それには幼年童話のような短い作品では無理だ、ならばもっと長い物語を書こう。そう思って書いた『小惑星美術館』で、ようやくわたしの資質を世間に受けとめてもらえました。
( 寮 ) これも話せば長くなるのですが(笑い)、まず最初に「星の世界」というのがあるんです。そこから「先住民」への長い長い物語…。 ―― 聞くのに覚悟が入りそうですね(笑い)。
( 寮 ) はい、覚悟してください。じゃあ、行きますよ(笑い)。
宇宙に興味を持つと、じゃあ、その宇宙のなかで、地球はどんな位置にあるのか、地球というものに興味がいく。なにしろ、自分のいる惑星ですからね。当然、地質学や、地球生態学も視野に入ってくるわけです。生態学については、三島次郎先生(桜美林大学名誉教授)という素晴らしい先生の話をしなければならないのですが、これも大変長くなるので(笑い)断腸の思いで割愛しましょう。
そこからさらに、もっと身近な政治や歴史の問題になってくる。テロ事件のことなどは、このレベルのスケールで語られていることです。
―― で、先住民族との関係は?…
( 寮 ) 先住民の考え方、生活の仕方はどんなものだったのか。科学的な理解の欠如した、迷信まみれのものだったのか。後進国や発展途上国という言い方や、未開社会という言い方が示すように、文明国からの物差しだと、彼らの暮らしぶりや世界観は「遅れた」「途上の」「未だ開かれていない」ものと見られがちです。
そうすると、その人たちが世界をどのように理解していたかということにも興味がいく。
どう? マクロからミクロへ、長大な物語でしょ(笑い)。 ―― 一連のつながりとして、よく理解できましたが、ご自身の中では整理整頓されているのですか?(笑い)。
( 寮 ) そこなんですよ(笑い)。それは、整理整頓されるべき問題というよりは、むしろ一つのつながりなんですね。区切って考えるべき問題ではないんです。
そのような空間的なサイズの違いは、時間的なサイズの違いとも連動していく。地球の歴史は46億年、宇宙なら150億年。それに比べたら、人類の歴史なんて瞬間に等しい。でも、その瞬間のなかに、人類のさまざまな歴史があり、さらにその歴史を形作っている個々人の歴史も、それぞれに語り尽くせないくらいすごいものがある。
( 寮 ) いま、想像力の話をしましたが、宇宙のことやDNAについて考えることのできる想像力という人間の能力が、一方でテクノロジーを生んだわけです。テクノロジーが強大になればなるほど、振り回すと危ないことになってきたわけです。大昔の、やあやあ我こそは……とやっていた時は刀ですんだわけですが、それが核兵器になっちゃったら、振り回したら大変困ってしまうことになってしまう。いまやビンラディンも持ってるとかになっちゃって「さあどうする?!状態」になってるわけです。
だから、想像力があって高度なテクノロジーを生みだした分、それをコントロールするという想像力も同時に成長させないといけないわけです。それを手に入れるためにも、さまざまな時間的空間的スケール感を自分の中に入れていかなければならないと思う。宇宙のスケールと個人の、まったくわたくし的な人間のスケールと、社会の動いているスケールというのを全部分断しないで、重層的に重ねて同時に見るような気持ちがないとうまくいかないと思うんですね。教育の根本というのは、自分サイズとは異なったさまざまなスケール感を身につけること、それを重層させ、物事を総合的に判断できる能力を養うこと。本来そこにあるべきだとわたしは思っています。 ―― 今のお話は即、今日の地球環境の惨憺たる状態に関わってくる問題だと思われますが……。
( 寮 ) そうですね。敬虔なる態度ってあるじゃないですか。あるいは畏怖を感じるというか……。自制心と言ってもいいかもしれませんが、人類が今、自制心をなくした一つの理由は、テクノロジーがどんどん発達していくプロセスにおいて、なんでもできるんじゃないかという幻想を抱いたからではないでしょうか。幼稚ですよね。
新しいといっても、見たこともないものっていうんじゃない。科学技術を利用しながらも、先住民の心に学ぶ。「足るを知る」という自制心を学ばなければならないと思います。 要は、今の限りなき成長を前提としたシステムに乗っている限り、どうしようもないということです。少し大きな時間単位で考えれば、そんなことは火を見るよりも明らかです。なにしろ、生物が長い時間かけて固体に定着してきた二酸化炭素を、化石燃料としてぼんぼん燃やして空中に放出しているんですから、それだけでも大気の組成が乱れて温暖化などの問題が起きるのは当然です。
ところが、今の社会は、欲望の歯止めがきかない。人々が、根本的になんとかしていこうという気持ちにならなければ、どうしようもありません。つまり、民度があがるということです。
それに対して、それは違うのではないか、人間というのは物質だけでは幸せになれない、心の世界というものがあって、土地と一体になって生きる暮しというのがあって、それで初めて人間が人間たる所以だという、ネイティブ側からの、もう一つの世界論がぶつかったんだと思うんです。
―― ただ、5000人を超える市井の人たちが犠牲になったという現実があり、それにはあまり触れられていない……。
( 寮 ) それはほんとうに、ひどいことだったと思います。許される方法論じゃない。
でも、起こってしまった。起こってしまったからには、目先の考えだけで報復だなんだといってる場合じゃない。こんな悲劇が起こった原因がなんだったのか、その根源を見極め、それに対処するべきだと。いままで、これで行けると頭から信じていた方法論を、根源から見直すべき時であると。本当に、この方法が私たちを幸せにしてきただろうか、限りなき経済成長ということを見込んだ暮らしを、いつまでもしていてよいのだろうか、と。
もうひとつ、人の死というのは、何人死んだという数で云々できるようなものじゃないんですが、やっぱり言いたい。アメリカはいままで、戦争によりどれほどの命を奪ってきたかと。湾岸戦争でも、民間人だけで10万人以上が犠牲になったと言われています。その痛みを、今回のテロ事件ほど痛切に感じてはこなかったという人が、日本ではほとんどでしょう。わたしもそうでした。今度の事件で、自分がいかにアメリカ寄りの世界観を持っているかを知らされました。大げさに言えば、アメリカ人なのです。そう思えば、小泉首相の行動も納得がいく。第二次大戦のときにアメリカ軍に志願した日系二世のように、ヴェトナム戦争の時に志願した不法移民のように、立派なアメリカ人の一員として認められたい。そういうメンタリティを感じないではいられません。
今こそ物事を根本的に考え直すチャンスだ ―― ホームページを拝見すると、アメリカの報復攻撃に対して非難、批判するトーンを強く感じましたが……。
( 寮 ) 繰り返しますが、テロの方法論をいいといっているわけではありません。しかし、アメリカのやり方、報復もおかしい。市井の人々を無差別に殺すことがテロだというのなら、アメリカがいままでしてきたことも、そして現在していることもテロ行為です。テロがいけないなら、空爆もいけない。
ただ、この機を捕らえて、いままでおかしいと思ってきたことを、さらに声を大にして言いたい、という気持ちは正直いってあります。例えば原発。原子力の平和利用だなんて言ってますが、あれは存在それ自体が危険です。ナンセンスなくらいに。ホモ・サピエンスになってたかだか3万年、歴史らしい歴史を残すようになってからわずか2千年ほどの人類が、半減期2万4千年の猛毒物質プルトニウムを制御しよう、なんていう考えそれ自体が、人類の思い上がりとしか思えません。人間はミスをする生き物です。ミスが重なれば事故も起きる。チェルノブイリを初め、先日の浜岡原発にいたるまで、実際事故も起きてきた。戦争になって原発を爆撃されれば、通常爆弾で核汚染されてしまう。そこへ、このテロ事件です。爆弾でなくとも、飛行機一機、激突しただけで、どうなるか。「そら、危ないぞ」と声を大にしていいたい。人々が危機感を自分のものと感じているいまだからこそ、説得力を持つと思うのです。 ある意味において、わたしはブッシュ大統領と同じかもしれない。 ――ブッシュ大統領と?
( 寮 ) ええ。ブッシュ大統領もこの機に乗じて、石油資本をバックに自分の都合のいいようにしようと思ってやってるわけでしょう。やってみたら、あまり都合よくなかたらしいというのがやっと分かってきたのかな、って感じですが……。
でも、どっちに理があるかというと、焦点距離の長い方が正しい。ブッシュ大統領の焦点距離は、アメリカの支配体制を是として、このまま突き進みたいという時間サイズでしかものを考えてない。アメリカが京都議定書を蹴っ飛ばしたのも、短い焦点距離ゆえだと思います。しかし、それを続けていたら、地球規模で大変なことになる。もっと先を見た考え方、やり方をしないと、ということを考えるチャンスにすべきだとわたしは思うんですよ。また、そうでなければ、失われた命に対して申し訳ない。人を殺すことではなく、本当に人を生かすことで、犠牲者に報いたい。それが正しい報復行動だと、わたしは信じます。
たとえば、第三世界の人々が困った状態にある時に、どういう形で援助をすればよいのか、とかもすごく大きな問題だと思うんです。援助物資とお金をボンボン投入すればいいかというと、絶対そういう問題じゃないと思うんですよ。地域地域でなるべく自立していけるスタイルをどのように側面からサポートすることができるか、ということが大事だと思うんですね。 子どもに教育が必要なことは分かっているけど、教育施設がない。それじゃあ学校作りましょう、学校作って西洋式の勉強をドンドンさせましょう。それで子どもが勉強すると都会に行っちゃって、地方に定着しない。地方が空っぽになっちゃって、伝統が守られなくなっちゃうということが、そこら中にあるんですよね。援助しているのか足引っ張っているのか分からないというような状況を作ってるんです。
援助や教育というのは、その土地のやり方をレスペクト(敬意を払う)して、その土地の文化を無駄に浸食しないスタイルで行わなければ意味がない。土地固有の文化なんて迷信だからとっぱらって、西洋的な価値観の科学を植え付けるというのは、援助ではなく暴力です。そうではなくて、こういう見方があるんだよというというふうに、もう一つそこに科学的な世界観の知識というものをプラスして、乗せていってあげるというスタイルにしないと意味ないと思うんですよ。
女性がちゃんと教育されていないから人権無視だとかグジャグジャ言うんだったら、その土地にいる人たちがどうしたらいいか決められるような安定した生活をするためのサポートを、まず私たちはすべきじゃないのか。土地の文化を無視することこそ、人権無視だと思います。
バングラディシュの銀行家ムハマド・ユヌス氏の活動など、すばらしいと思います。女性が自立して生きていけるための資金の貸し出し、同時に村ごとで共同体をつくり、教育を推進している。地域性を損なわずに、よきものを伸ばしている。日本のNGOの井戸掘りプロジェクトなども、地道であるがゆえに正しいやり方だと思っています。
( 寮 ) 政治家になろうという発想は全くありませんが、もの書きというのは実社会の中で、満員電車に乗って、汗流して、経済システムを支えているようなことをしていないわけですよ。はっきり言って、いい気なもんです(笑い)。社会の外側にいて、一応「芸術家」という札が立っているから、社会の人たちから許してもらっている立場で仕事しているわけです。でも、だからこそ、見えてくる世界というのもあるのですよね。社会に取り込まれていないが故に、くっきりと見える。それを言わないでどうするんだ、作家がただのエンターテインメントを供給する人になっちゃってどうするの?って、わたしは思う。湾岸戦争の時にあれだけガアガア言ってた人たちは一体、今何をしているんだろう? 満員電車に乗らないで、社会から養ってもらっている人たちは、もっともっとその立場を自覚して、こういう時こそ積極的に発言していかなくてはいけないと思うんです。 わたしなんか、売れてない作家で発言の場所も与えられないから、インターネットでガンガンやったわけですが、やってみて、すごく面白いと思いました。たとえばマスメディアが当り前のように流していることに疑問を抱く人がいる。「タリバン崩壊後のアフガニスタンを云々」なんておかしいって。そういうことをぶつぶつ言う人が山のようにいて、その人たちが情報を交し合ってるんです。この状況は、世界は一色じゃないということを知るために非常に役に立っていると思います。これをもっと活用すべきだと改めて感じています。
いままで社会に養っていただいたご恩返しとして、今の経済システムに乗っかったメディアには乗らないけれど----つまり、書くことで即収入にはならないけれど----今ここで言わなければいけないということを、独自に、自腹を切ってちゃんと言っておかなくちゃいけないと思うんですよ。 ―― ありがとうございました。まだまだ伺いたいことはあるのですが、今回はこのへんで区切りにしたいと思います。 ( 寮 ) じゃあ、またこんどね。次は、来週あたりにしますか(笑い)。 |
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