寮美千子ホームページ ハルモニア 月と水と夢に関する物語のための断片 2

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12/03/2000■ほんとうの名前
13/03/2000■おねむの子猫
19/03/2000■漂流物に関する老人の話
31/03/2000■岬
01/04/2000■天羽
02/04/2000■幻の島
20/04/2000■絵葉書/ヴェネツィア
24/04/2000■絵葉書/大理石のモザイク
25/04/2000■渚の磨りガラス
26/04/2000■モザイクの地図
26/04/2000■絵葉書/マルチアーナ図書館
27/04/2000■写真集
19/05/2000■ぬばたま
20/05/2000■ギフト
25/05/2000■サモトラケのニケ
06/07/2000●顔のない天使
06/07/2000■神の企み
07/07/2000■六角の泉
06/09/2000■絵葉書/青空と白い壁
07/09/2000■おいしい水
08/10/2000■絵葉書/雪の七夕

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12/03/2000

 まだ名前があったころ、少女には実にたくさんの名前があった。「お姫さま」とか「王女さま」と呼ばれることもあったし「おちびちゃん」「バンビーノ」「クラインチェ」と呼ばれることもあった。「みんみん」「みんみ」「ミーシャ」「ミーニャ」など、名前はその場でその場で新しく生まれ、不思議な法則のもとに変化していった。
 そんなにたくさんの名前で呼ばれても、少女はけっして戸惑うことはなかった。なぜなら、その無数の名前で少女に呼びかけてくるのは、たったひとりの人だったからだ。
 それは彼女の祖父。少女の記憶のはじまりから、ふたりはずっとふたりきりで、海辺の町に棲んでいた。正確にいえば、猫といっしょに。
 星のない夜のようにまっ黒な猫だった。けれど、猫の名前はたったひとつ『ぬばたま』と決まっていたので、少女はそれ以外のすべての名前が自分を呼んでいるのだとわかった。
 そんなにたくさんの名前で呼ばれながら、少女がほんとうの名前で呼ばれることは、ほとんどなかった。
「どうして?」と少女が聞いた。
「どうして、ほんとうの名前を呼ばないの?」
 おじいさんはだれもいないのに辺りをはばかるように声をひそめてこう答えた。
「ほんとうの名前には力がある。だから、大切にしなきゃいけない。だれか悪い奴に知られると、こわいことになるからね」
「でも、ここにはだれもいないよ」
「風が聞いている、木も聞いている。もちろん蜻蛉や蛙、それから猫もね」
 そして、唇に人差指をあて、ぬばたまを横目で見た。猫は背中を向けたまま、耳だけを器用にこちらに動かした。おじいさんは「ほらね」というように少女を見て片目をつぶってみせた。
 少女は、その黒目がちの大きな瞳でおじいさんをみつめてうなずきながら、小さな指を小さな唇にあてた。
 それから、小首を傾げ、ちょっと考えてからいった。
「でもね、わたし、ぬばたまは『悪い奴』じゃないと思うの」
「もちろん、そうさ」
 おじいさんは笑いながら少女の頭を撫でた。

13/03/2000

 あたたかい午後。日溜りで、少女と猫がいっしょに丸まってまどろんでいる。おじいさんがやってきて「クラインチェ、クラインカッチェ、おねむの子猫」と半分歌うようにつぶやきながら毛布をかける。
 少女は夢のなかでその低くやわらかい声を聴く。その声が、猫ではなく自分のことを指しているのだと少女にはわかっている。だから、少女はとても満ち足りた気分で毛布のぬくもりに抱かれ、まどろみの続きに戻るのだった。

19/03/2000
■漂流物に関する老人の話

 もうずいぶん前のことになる。ひがないち日コンピュータの画面を相手にしていた仕事を引退して、祖父の代から別荘にしていたこの土地にひとりで移り棲んだとき、わたしは電話も取りつけなければ、テレビも置かなかった。勿論コンピュータもね。あらゆる人間づきあい、そして情報などと名のつくものから一切遠ざかって、ほんとうに世間から隠遁して静かに暮らしたいと思ったからだ。
 まずはじめたのは煉瓦を積むことだった。どういう家を建てようとか、どんな間取りにしようとか、そういうことではなく、ひたすら煉瓦を積んだ。別に穴堀りでもよかったのだが、ともかくそういうことを無性にしてみたかったのだ。
 やがてその煉瓦積みは増殖して、かつてここにあった壊れかかった古い家をのみこんでしまうのだが、それはずっと後の話だ 。
 ともかく、夜明けから煉瓦を積みはじめる。そして、午後になると海岸を歩く。
 それだけの日々だったけれど、少しも単調だとか退屈だとか思ったことはなかった。煉瓦積みひとつでも、だんだんこつのようなものもつかんだり、前には見えなかった歪みがくっきりと見えるようになったり、こんな歳になっても日々新しいことができるようになることが驚きだった。体を使うということをしてこなかっただけに、自分の体でいままでできなかった何かができると感じることは、歩きはじめた子どものようにうれしかった。  料理もはじめた。すると、毎日のなんでもない暮らしがぐんと楽しいものになった。料理のために庭に潮風に強いハーブを植えたり、気に入ったバターやオリーブ油を見つけたり、おいしいものを食べたいという欲望が、何かしら楽しい仕事を増やしてくれるのだ。いったんそういう楽しみを知ってしまうと、それまでの自分の暮らしがなおさら味気ないものに感じられ、ここへきてほんとうによかったと思ったものだ。
 わたしはますます煉瓦積みに熟練し、それははじめから設計図でもあったかのように増殖していって、やがて家の形になっていった。

21/03/2000
 家には暖炉をつくった。冬はそこで薪を燃やした。その薪を割ったりすることも、日々の仕事のうちになった。薪になる流木を見つけるという目的のために、海岸を歩くようになった。
 はじめは、ただ燃やすことしか考えていなかったが、あるとき、なんともいえない美しい流木を見つけて、燃やしてしまうのが惜しくなった。
 しかし、そんなものに執着してしまう自分が恐かったから、わたしは思いきってそれを暖炉にくべた。流木はよく乾いていたから、ぱちぱちといい音をたてながら燃えあがり、炎が天へ天へと勢いよく伸びあがった。流木も美しかったけれど、火もまた流木以上に美しかったことをよく覚えている。
 けれど、それ以来、わたしの海岸歩きは変わってしまった。どうしても漂流物に目が留まってしまうのだ。そして、わたしはとうとう観念した。
 どうもわたしはこいつらが好きらしい。執着をしないということに必要以上に執着するのも、またひとつの大きな執着だ。わたしのなかにある欲望を素直に認めようではないか。わたしは、そう思った。
 その時から多少の自嘲をこめて、わたしは自分のことを『漂流物採集家』と名乗っている。といっても、珍しいものを集めたり分類したり、そういうことに関心があるわけではない。それがどんな意味合いであるにせよ、わたしは、わたしの心に引っかかってくるものを連れてかえってくるだけのことなのだ。そして、ここでいっしょに暮らす。漂流物が、海岸の続きのようなこの家の庭や、家の棚や床に無造作に置いてあるのは、そのためなのだ。わたしは、いつも彼らを見守っていたい。いや、ほんとうはわたしのほうが彼らに見守られていたいのかもしれない。

22/03/2000
 というのも、わたしは漂流物にどこか自分と似たものを感じないでいられないからなのだ。それがどういうことか、うまく言葉にできるかどうかわからないが、ともかくも話してみよう。
 つまり、それはみな、かつて名前があった者たち。世界のなかで何かの意味を持ち、ひとつの位置を占めていた者たちだ。それがいま、名前を失いつつある途上にある。例えば一本のガラスの瓶。そこにはかつて強い蒸留酒が入れられていたのかもしれない。香り高いオリーブ油がはいっていたかもしれない。けれど、いまはもう壊れ、砕けて、ばらばらの小さな破片になり、貝殻のかけらや、はじめから名前のない小石たちとともに波に洗われている。すっかり角が取れて円くなり、磨りガラスのような風合いになっているそれはもう『瓶』ではない。『ガラス』という名前さえ忘れようとしている。すべての無名のものたちとともに、彼方へと還っていく途上にあるもののひとつだ。
 そう、世界にははじめ名前などなかった。人が生まれ、言葉が生まれるまで、世界は無名の輝きの中にいた。漂流物たちは、そんな遥かな場所のことをわたしに思わせるのだ。名前の中に閉じこめられた魂が遠く解き放たれて、名前のない永遠の輝きの中へと戻っていく。見えない無数の翼が空へとはばたき、あの青さに溶けるように消えてゆく。それを思う時、わたしは深く癒される。
 だから、ここにこうしている。わたしは、名前を失いつつある者たちを見守る、ひとりの墓守りだ。
 そう、確かにそうだった。あの子がここにくるまでは。わたしは、ここにいる漂流物とともに、時間の波に洗われてゆっくりと名前を忘れながら、彼方へと還っていく日を待っているのだと思っていた。
 ところが、あの赤ん坊がやってきて、世界の色合いは変わったのだ。

30/03/2000

その岬の尖には
人のいない燈台があって
真夏には
短くなった濃い影を
固い岩盤のうえの
白い砂のうえに落とし
東からの昇る太陽が
西の水平線に沈むまで
日時計のようにゆっくりと
音もなく
影をめぐらせている

31/03/2000

 老人の棲んでいる町の名は『天羽』という。アマハ、天の羽根という名の小さな港町。長く美しい遠浅の砂浜があり、その果てにみえる岬の突端には小さな白い無人の燈台が見える。川の南側は昔ながらの小さな漁港で、そのさらに南にはごつごつとした磯が続いていて、潮溜りには小さな魚や貝を見つけることができる。
 その昔、砂浜に近い一帯は別荘地として栄えたこともあったが、いまはすっかりさびれて見る影もない。漁港から船を出しているのも、潮風に深いしわを刻まれた老人ばかりだ。

01/04/2000

 少女は午睡の夢のなかで海を見ている。遠く霧の彼方に、おぼろに島影のようなものが浮かびあがる。あんなところに島なんかなかったはずなのに、と少女は夢の中で霧の水平線に目を凝らす。

02/04/2000

 いい子にしていますか? ママはいま、お仕事でヴェネツィアという水の都にきています。ここは、水に沈みゆく迷宮。美しい壁画や彫刻で飾られた古い建物が、ゆっくりと時間をかけて水のなかに沈んでいこうとしています。夕べは満月でした。月の光の中で見ると、この街はすでに青い水の中に浸っているように見えました。もし、空の高いところを、銀色に光る帆船が星のしずくを散らしながら翔けていっても、だれもおかしいと思わないくらい、きれいな月夜でした。ママがこうしてあちこち飛びまわって、いろんなすてきなものを見られるのも、みんみがおじいさんのところでいい子にしていてくれるおかげです。ありがとう。おじいさんとみんみに、いつもいつも感謝しています。また手紙を書きます。

ママより 

21/04/2000

 きょう、面白いことがありました。サン・マルコ寺院の大聖堂へ入ろうとした時のことです。ママは急に不思議な気分に襲われました。前にここへ来たことがあるような気がしたのです。けれど、そんなはずはありません。ヴェネツィアへきたのははじめてなのですから。宿に戻ってから、ふいにそのわけがわかりました。大聖堂の床に描かれた大理石のモザイクの模様が、ママが小さい時におとうさんからもらった、つまりあなたのおじいさんからもらった木の箱の蓋の模様にそっくりだったのです。幾何学模様と唐草模様がひとつになったあの不思議な模様、あなたも知っているでしょ。だって、あの箱はいまはあなたの物ですものね。おじいさんはあの箱を、インドの古道具屋で買ったといっていました。大聖堂の大理石のモザイクは、十五世紀につくられたものです。ヴェネツィアとインドは、遠い昔にどこかでつながっていたのでしょうか? なんだか、不思議ですね。ではまた。おやすみなさい。

昔は小さな女の子だったこともある ママより 

24/04/2000

 太陽が沈もうとしている。波打ち際は、暮れかけた空を映して銀色の鏡になる。
 老人と、まだ幼い少女が歩いている。水平線ぎりぎりにかかる太陽は、ふたりの影を長く長くのばして砂のうえに落とす。
 その長い影が面白くて、少女は太陽を背に、大きく手を振ったり、自分の影を老人の影に重ねる。長い影は、少女の動きに忠実に従って、けれどもどこか予想もできないひょうきんさで、ゆらゆらと手をゆらしたり、ふたつの影を重ねてて不思議な生き物の形になる。
「いつものことなのに、どうして飽きないんだろう?」
 老人は、子どもの心の不思議を思う。そして、赤ん坊だった少女の、天使としかいいようのない無垢な笑顔を思いだす。
「あのころ、この子はなんどでも笑い声をあげた。ただいないいないばあをして見せただけなのに、飽きもせず、澄んだ鈴のような笑い声をなんどでもあげていた」
 さすがに、いまではもう少女がいないいないばあで、笑うことはない。大人になるというのは、世界に慣れることなのだろうか、と老人は思う。世界は新しさを失い、輝きが失せる。すべてはすでに知っていることの冗長な繰り返しに過ぎなく思えてくる。けれど、少女が来てからというもの、世界は再び輝きはじめた。起こることのすべてが、たったいま宇宙に起こった、一度きりの出来事に思えてきた。
 ひとしきり影遊びをすると、少女は波打ち際に走っていく。ふと、少女の目がとまる。 少女はすばやく走っていって波打ち際にかがみ、波がさらおうとしていた小石を拾う。
 濡れて透明だったそれは、少女の手のなかでみるみる乾いて、円い磨りガラスのかけらになる。きれいに角のとれた、天然の石のような形をしている。少女はそれを再び波に濡らして透明にしてみる。
「おじいさん!」
 少女は、走っていって、掌の磨りガラスのかけらを老人に見せる。老人は、にこやかな笑顔でうなずく。それが「持ってかえってもいい」方に分類される、少女にとって極上の部類に入っているものだと知っているからだ。まだ角の取れていない尖ったかけらは、海に戻され、再び時の手に委ねられる。けれど、角が取れて小石と見分けがつかないほど美しく円くなったかけらは、少女の手の中に残されるのだ。
 はじめて渚の磨りガラスを見つけた時、少女はそれを魔法の石だと思った。水に濡らすと透明になり、渇くとまた半透明に戻るそのことが、少女には大変な魔法のように思えたのだ。もしかしたら、いつかみた流れ星のかけらかもしれないと少女は思った。少女のその考えを、老人は否定もせずに微笑みながら聞いていたから、少女はずいぶんと大きくなるまで、それを流れ星のかけらだと信じていた。
 少女は、拾ったガラスのかけらを夕陽にかざした。半透明のガラスの中で光は滲み、その縁が虹色に光る。少女は老人にそれを見せようとするが、水平線にかかった太陽は、そのわずかの隙に沈んでしまって、もう虹は見えない。
 空が夕焼けに染まっていく。波打ち際の水の鏡は、銀色から、燃えるような夕焼けの色を映しはじめる。

25/04/2000

 燃える暖炉の前に寝そべって、少女は、モザイク模様の蓋のついた木の箱を開ける。その中に入っているのは、少女が海岸で拾い集めたお気に入りの物たち。といっても、欠けたところのない完全な形の貝殻などひとつもない。円い小石や、波に洗われて風化したガラスや貝殻のかけらばかりだ。
 少女は、そのかけらをパズルのように並べだす。おじいさんは少女に玩具らしい玩具を与えたことがないので、少女はいつも自分で遊びを発明するのだ。
 少女がパズル遊びをはじめたばかりのころ、できあがるのはいつも違った模様だった。もともとパズルとしてつくられたかけらを合わせていくわけではないのだから、それは当然のことだ。
 ところが、次第に様子が変わってきた。ある時から、パズルが描くモザイク模様は、いつも同じ形になっていったのだ。同じ形に並べようと思っていないのに、自然にそうなってしまう。どうしてそんなことが起こったのだろう?
 それは、まったくの偶然であるとも言えたが、もしかしたらひとつの必然だったのかもしれない。それはつまり、こういうことだ。毎日おじいさんといっしょに海岸を散歩して小石や貝殻を拾うほどに、少女のなかである美学が少しずつ育っていった。昨日まではいちばん美しいと思われたかけらが、きょうはもう、そうは思えなくなる。もっと美しいものを見つけてしまったからだ。箱の中身は徐々に入れかえられ、ほんとうに美しいと思われるものだけが残っていった。やがてそれは、箱の中身を無造作につかみとって床にばらまいただけでも、息をのむようなある種の美しさを醸しだすほどに洗練されていった。そうやって少女の箱の中が永久保存されるべき小石や貝で数多く占められるようになると、それを組み合わせたパズルも、自ずとひとつの形を表わすようになった。同じように並べようとは思っていないのに、だ。選び抜かれた美しいかけらたちを並べようとする時、ひとつのかけらのカーヴはもうひとつのカーヴとぴったり一致するし、どのかけらの隣にどのかけらがきたらすっきりと美しく見えるかも自ずと決まってしまうのだ。それは、少女が決めるというより、かけらそれ自体があらかじめ決定し、要請しているとしかいいようがなかった。
 白い貝殻の隣に、淡い色の磨りガラスのかけらがくる。その隣に緑の小石。そして光る貝の破片がちりばめられる。年輪の浮きでた小さな木片がその隣にぴったりとはまる。青い石や瑠璃色のガラスだけでできた一帯もあれば、細かい白い貝のかけらが敷きつめられた部分もあった。
 どうしても確定できずに組むたびに変わる場所があっても、ある日、少女が新たに美しいかけらを持ち帰ってくると、まるではじめからそのためにつくられたとでもいうように、ぴったりとあてはまるのだった。そして、それはもうそこから動くことはない。  そんなことが、たびたび起こるようになり、しかも起こる頻度が加速度的に多くなっていくほどに、そのパズルは完成に近づいていった。それはどこか、古い地図にある宝島の地図のようにも見えてくるのだった。

26/04/2000

愛するみんみへ

 調べ物があって、マルチアーナ図書館というところへ行きました。十六世紀に建てられた荘重な、そしてすばらしい建物です。まるで大聖堂のようにがらんと広い閲覧室。高い天井はガラス張りで、空からの光が古い書物の文字をやわらかく照らし、まるで晴れた日の水のなかのような明るさです。固い木の椅子と年代を経た大きな机。ここに座って本を広げていると、世界のすべての記憶がこの図書館にしまわれているような気がしてきます。

ヴェネツィアにて ママより 

27/04/2000

 その家には絵本はなく、少女は本棚にある大判の画集や写真集を開いて、勝手に物語をつけて遊んでいた。その夜、選ばれたのは、角の擦り切れた古い写真集。砂漠の岩に刻まれた線画のわかりやすさが、少女は好きだった。物語にもならない物語の破片をあてはめているうちに、少女は次第に眠りにはいっていく。
 少女はこのごろ、いつも同じ夢を見る。いつもの海岸。その水平線の彼方に、あるはずのない島が見える。はじめは蜃気楼のようにあやふやでおぼろだった島が、このごろだんだんくっきりと見えるようになってきた。夢の中に、波の音が響く。

19/05/2000

 あんなに食いしん坊だったぬばたまが、このごろなんだか妙におとなしいなって思ったら、急に物を全然食べなくなってしまった。おじいさんは、すぐに獣医さんにつれていってくれた。ぬばたまは獣医さんのところに一日預けられていろいろ調べてもらうことになった。
 次の日、ぬばたまを連れにいくと、獣医さんは「いろいろと検査しましたが、残念ながらこの子はもう長くはありません」っていったの。腎臓が壊れていて、もうすぐ死んじゃうんだって。お薬をあげたり点滴をすることもできるけれど、そうしても死ぬのが少しだけ遠くになるだけで、もう絶対に直らないんだっていうの。
 わたしは悲しくなって、そんなことをいう獣医さんをぶちたくなった。
 だけど、一分でも一秒でもぬばたまといっしょにいたいから、獣医さんにお薬をあげてって頼んだの。涙がぼろぼろ出てきてとまらない。
 すると、おじいさんはわたしを抱きしめてこういった。
「それは、ぬばたまが苦しむ時間を延ばすだけになってしまう。わたしとおまえのことじゃなくって、ぬばたまのことをいちばんに考えてあげようじゃないか」
 わたしはすぐに返事ができなかった。
 そうしたら獣医さんが「ご希望なら、安楽死させてあげることもできますよ」っていうの。「アンラクシってなあに?」って獣医さんにきくと「痛くも苦しくもなく、いますぐ眠るように死なせてあげることだよ」っていうから、わたしはどうしていいかわからないくらい悲しくなっちゃってわんわん声をあげて泣きだしてしまった。そうして、こんどこそほんとうに獣医さんを思いっきりぶってやろうかと思った。
 けれど、おじいさんは静かにこういったの。
「お願いだから泣かないでおくれ。おまえが泣くと、おじいさんもぬばたまも悲しくなってしまうよ。ぬばたまは安楽死はさせない。ぬばたまが自分の力で生きられるだけ、生きさせてやろうね。ぬばたまがこの世界で与えられた時間いっぱい、ふたりでいっしょにいてあげよう」
 わたしたちはぬばたまを家に連れて帰ることにした。帰ろうとして扉に手をかけた時、獣医さんが後ろから思いだしたようにこういった。
「この子は、もう十五歳でしたね。猫としては立派な歳ですよ。人間でいったら百歳くらいだ。獣医会で『長生き猫』として表彰しましょう。そういう制度があるんです。すぐに手続きをとっておきますから」

20/05/2000

 その赤ん坊は、なんの前触れもなく突然やってきた。ある夏の日、風通しのいいヴァルコニーにデッキチェアを出して、猫と並んで気持ちよく昼寝をしていると、せっかちに扉を叩く音で起こされた。どうせたいした用もないだろうと放ったまま、またうとうととしたとたん、顔にかぶせた麦藁帽子がはがされた。逆光の中、まぶしさに目を凝らしてみると、もう何年も顔も見せたことがない娘の姿がそこにあった。
「こんにちは、おとうさん。紹介したい人がいるから、連れてきたわ」
 そういっていきなり差しだした腕の中に、生まれて間もない小さな赤ん坊が抱かれていた。
「紹介したいって……」
「そうよ、この子。わたしの赤ちゃん。一週間前に生まれたの。七月十日。不思議ね、おとうさんと同じ誕生日よ。はーい、ベイビー。おじいちゃまですよ」
 その日から、娘はわたしのところに当然という顔をして居ついた。赤ん坊の父親のことは、こちらが尋ねるまで何もいわなかった。聞くと「誰の赤ちゃんでもない。わたしだけの赤ちゃんなの」といって屈託なく笑った。
 それからしばらく、穏やかな日々が続いた。赤ん坊はすくすくと育ち、娘もここにきてから日に焼けてより健康そうに見えた。まるで長いヴァカンスでも過ごすようにして、わたしたちは秋を迎え、冬を迎えた。
 年が明けると、娘は来たときと同じように突然姿を消した。小さな赤ん坊と分厚い育児書をここに残して。
「ここでの暮らしものんびりしてとてもすてきだったけれど、仕事がしたくてうずうずしてきました。仕事に復帰します。赤ちゃんをよろしくお願いします」
 そんな手紙が残されただけだった。まったく勝手な奴だ。親の顔が見たい、といいたいところだが、その親がこのわたしなのだから仕方ない。あの娘が学校にあがる直前に妻を亡くして以来、わたしは仕事が忙しいことを口実に、娘を全寮制の私立学校に娘を預けっぱなしにしてきた。自業自得というものだ。
 しかし、神さまはひどく不公平だと思う。そんな勝手なわたしに、苦しみではなくしあわせを与えるなんて。赤ん坊を預けられたことは、苦でもなんでもなかった。むしろ、世界が輝きだすほどすばらしいことだったのだ。おむつも、よだれも、いたずらも、すべてが歓びだった。目に入れても痛くないとはこのことなのかと、はじめて知った。こんなことなら、娘も自分の手で育てればよかったと後悔したくらいだ。しかし、娘だったらこうはいかなかっただろうか。ともかく、胸のなかに明るい炎がともったようだった。
 そして、世界の色合いが変わった。電話も、テレビも、ラジオもない暮らしだったが、新聞だけは取ることにしたのだ。ほんとうは、新聞さえうっとうしいのだが、わたしにもしものことがあった時、誰かが気づいてくれなければ困るからだ。わたしは新聞配達の少年と言葉を交わすようになった。町の小さな店の人々とも口をきくようになった。わたしが話しかけなくとも、町の人々の方から赤ん坊の顔を覗いては、なにかと話しかけてきた。自転車屋は、倉庫に眠っていた乳母車を孫娘のために進呈してくれた。それは、新品のままアンティークになってしまったような細い竹で編まれた美しい乳母車だった。そんな乳母車を押して歩くのはかなり勇気がいったが、そこに乗せると赤ん坊はいつも特別に機嫌がよかったし、なにより、その優雅な乳母車は人形のように美しい赤ん坊によく似合っていた。などといったら、親馬鹿だと笑われてしまうだろうか。それでも、わたしはその時、本気でそう感じていたのだから困ったものだ。
 わたしは、ここでただ静かに滅びていくのを待っているつもりだったのに、そうやって赤ん坊と過ごしているうちに、欲が湧いてきた。この子が大きくなるまで見届けたいという欲が。けれど、それはわたしが決められることではない。わたしは、いつまでこの地上で、この子と蜜のような時間を過ごすことができるのだろうか。

25/05/2000

だいすきなわたしのみんみへ

 ママはいま、パリに来ています。パリには何度も来ているけれど、なんとルーブル美術館を見たのはこんどがはじめて。いつも取材であわただしくてゆっくり美術館を見ている暇もなかったのです。でも、こんどは飛行機が欠航してくれたお陰でカメラマンが一日遅れてくることになったので、たっぷり時間がとれました。さっそくサモトラケのニケというエーゲ海の小さな島から発掘された女神の像を見にいきました。中学生の時に美術の教科書で見てから、一度でいいから本物を見てみたいと思っていたのです。すばらしかった。石で刻まれているのに、大きく広げた翼がいまにも天に飛びたちそうでした。この女神には、顔がありません。発掘されたときから壊れてなかったのです。どんな顔をしていたのでしょう? 知りたい気持ちもあるけれど、顔がないほうが、見えない美しいものをあれこれと想像できて、すてきな気もします。じゃあ、またね。

ママより 

06/07/2000

 顔のない天使の翼。翼のない天使の顔。

06/07/2000

 神の企みがわかった。あの子に出会わせることで、この世界にたいして執着のなかったわたしに執着を持たせること。世界の輝きを感じさせて、もっとここに留まりたいと思わせること。残り時間が少ないことを思い知らせ、それが刻一刻と消えてゆく切なさを味わあせること。すると、世界は一層輝く。どんな一瞬も、まばゆいほどに。そんな時間をわたしに与え、そしてまた近いうちに取りあげようとするなんて、神はなんという残酷なことをするのだろうか。この歓びを知らなければ、世界に未練なんてなかったのに。だからといって、この満ち足りた時間を知らずに去っていったほうがよかったとは、いまとなってはとても思えない。だから、わたしは感謝している。神に、娘に、その娘を残してくれた妻に、赤ん坊を与えてくれたすべてのものに、そして、勿論この赤ん坊に。例えいますぐこの地上を去らなければならなかったとしても、わたしはすべてに感謝するだろう。思いがけず与えられたいままでの時間だけでも、こんなにも深く満足しているのだから。

07/07/2000

 ぬばたまは、風通しのいい廊下に横たわっている。どうしてもそこがお気に入りで、わたしの寝台のそばに連れてきても、這うようにしていつの間にかそこへ戻っちゃう。体が冷えるんじゃないかって心配で、いつも眠っていた篭の中に入れてやったり、さっぱりと乾いた洗いたてのタオルを敷いてやったりしても、ぬばたまはやっぱりそこから動いて、固い木の床に横たわる。体がだるくて、ひんやりとした木の床が気持ちいいのかもしれない。 あの日から、ぬばたまはひと口も食べない。まるで、そう心に決めたように。はじめは、水だけは飲んでいたけれど、もう水も口にしなくなった。おじいさんがスポイトで水をあげても、飲まなくなってしまった。 「やっぱり、飲まないね」 「そうだね。困ったね」 「そうだ、おじいさん。わたし、泉に水を汲みにいってくる」 「ああ、それはいい考えだ。思いつかなかったよ。あそこの水なら飲むかもしれない。頼むよ。気をつけていっておいで」  海岸の崖の下には、石で六角に囲まれた小さな泉があって、おいしい水が湧いている。海のそばなのに、その水は少しも塩辛くないし、水晶みたいに冷たく透きとおっている。海で泳いで喉が渇くと、わたしはここの水を飲んだ。ぬばたまも、ここの水が好きだった。おじいさんと砂浜を散歩していると、時々泉で水を飲んでいるぬばたまを見かけた。ぬばたまはわたしたちを見つけると、半分物陰に隠れるようにしてついてきて、いっしょに家まで戻るのだ。ぬばたまがこの水を飲んでくれるように祈りながら、わたしは水筒に水を汲んだ。  走って帰った。おじいさんがスポイトで飲ませると、ぬばたまがごくごくと喉を鳴らしておいしそうにその水を飲んだ。 「ああ、よかった」わたしはほっと胸をなでおろした。 「ほんとによかった。おまえのおかげだよ」  ぬばたまは目を大きく開いたまま、静かに横たわっている。動けなくなってから、ぬばたまはいつもこんなふうに目を明いている。世界にあるものを、ひとつ残らず覚えていたいんだというように。「目をつむって、ちょっと眠りなさい」といってやっても、やっぱり目を明いたままだ。ぬばたまの目はビー玉みたいに透きとおっている。どんなに痩せてしまっても、それだけは少しも変わらない。

06/09/2000

みんみちゃん

 ママはギリシャにきています。青い海と白い家。町にはたくさんの猫がいます。黒い猫を見るたびに、ママはぬばたまのことを思いだします。ぬばたまの病気、はやくよくなるといいですね。ママも遠くからいっしょうけんめい祈っています。みんみも風邪をひいたりしないように気をつけてね。おじいちゃんにも、もう年だからあんまり無理をしないようにって、いってあげてください。じゃあね。

ママより 

07/09/2000

 絵葉書だ。まっ青な海とまっ白な家、屋根の上にはまっ黒な猫がいて、海のほうを見ている。どこだろう? 本で見たギリシャの風景に似ているけど。きっとあの子宛てだな。この港町で、毎週のようにエアメールを受け取るのは、浜辺の煉瓦の家に住んでいるあの小さな女の子だけなんだから。やっぱりそうだ。ああ、思った通りギリシャからだ。おや、猫が病気らしい。かわいそうに。つい最近まで門のうえで寝そべっているのをよく見かけたのに。泉のそばで見ることもよくあったな。
 そんなことを考えながら、ぼくはそんなに多くない郵便物を仕分けすると、いつものように町へこぎだした。大きな黒い鞄のついた自転車で、海岸へ通じる坂道を下っていく。ブレーキが軋んでやけに大きな音を立てる。その音を聞きつけたのか、家のなかからあの子が飛びだしてきた。腕にガラスの瓶を抱えている。
「やあ、こんにちは」
ぼくがそういうと、いつもにっこりと天使のような笑顔をみせてくれるのに、きょうは唇を噛みしめてなんだか悲しそうだ。猫の具合いが悪いのだろうか?
「ほら、きみへの葉書がきているよ。それからこれも」
ぼくは、水道の請求書といっしょに、絵葉書をわたした。
「ありがとう」
「どうかしたの?」
ぼくは、女の子の顔をのぞきこんだ。
「ぬばたまが病気なの」
「そう」
ぼくははじめて聞いたという顔をしてみせた。「だいじょうぶ。きっとよくなるよ」
女の子は首を横に振った。
「ううん。もうすぐ死んじゃうの」
「どうして?」
「お医者さんがそういったもの」
「わからないさ。どんなに腕のいいお医者さんだって、ほんとうにほんとうのことなんかわからないんだから。お医者さんにもうだめだって言われたのに、ぴんぴんしている人だって、ぼくは知っているよ」
女の子は、力なくうなずいた。それから、ぼくをその大きな黒い瞳でじっと見つめると、思い詰めたようにいった。
「お願いがあるの」
「なんだい?」
「あのね、泉にいって水を汲んできてほしいの」
「海岸にあるあの泉?」
「そう」
「その瓶に?」
「うん」
「いますぐ?」
「うん」
「なんだ、そんなことか。お安い御用だ」
そういうと、女の子がほころんだ。こんな笑顔を見られるのなら、地図にものっていない遠い島の泉に水を汲みに行けっていわれても、行ってしまいたくなるくらいだ。
「ぬばたまが、あそこの泉の水しか飲まないの。だけど、もう水がなくなちゃったの。おじいさんは町にでかけているし、わたしが汲みにいったら、ぬばたまはひとりになっちゃうでしょう。その間に死んじゃったらどうしようっと思ってたら、郵便屋さんの自転車の音がしたから」
「そう。急いで行ってきてあげるよ」
女の子は、ぼくに空の瓶を渡した。
「ねえ、あの水、どうしてあんなにおいしいんだと思う? どこから来るんだろう?」
女の子はいかにも不思議だという顔をしてぼくに尋ねた。
「さあ、どこから来るんだろうね?」
 ぼくは、海岸を自転車で走っていった。寄り道ってことになるけれど、たいした距離でもない。第一、こんな用がなくても、暑い日には水を飲むために寄ったりするのだから、同じことだ。
 瓶に泉の水を汲むと、ぼくもごくごくと喉を鳴らして飲んだ。冷たくておいしい水だ。ほんとうに、この水はどこからやってくるのだろう? こんなにおいしい透き通った水なら、どんな病気だって癒す力があるような気がしてくる。ぼくは、瓶をポケットにつっこむと、祈るような気持ちでペダルを踏み、再びあの子の家へと向かった。

08/10/2000

 もうすぐ七夕。それからふたりのお誕生日。この葉書が着くのは、いつになるでしょう。どれくらいかかるかわからないから、ひと足早く、おめでとうの葉書を書いています。みんみ、おとうさん、お誕生日おめでとう。ふたりともどんなふうに過ごしているかしら。ぬばたまの具合いはどうですか? はやく元気になるといいですね。ママはとても元気。赤道の反対側で、雪の降る七夕を迎えようとしています。そっちは夏なのに、こっちは冬。ほんとうに地球って広いですね。その広い地球を、ママみたいに飛び回って暮らしている人もいれば、生まれた村から一歩も出ないで一生を過ごす人もいるかと思うと、不思議な気持ちになります。どっちがしあわせかわからないけれど、ママは自分のこの人生が大好きです。みんみも、自分の人生が好きな人に育ってくれるよう祈っています。  別便で、プレゼント送りました。楽しみにしていてね。

ママより