ぼくは、欠点を生かして仕事をしてきたんですよ。
実はぼく、ひどい怠け者なんです。もう、ぼくぐらいの怠け者はいないと思う。
だから、余計なことはしたくない。描いた線は、全部生かせないと嫌。やったことを、ひとつ残らず結果として定着させないと気がすまない。要するに、ケチなんだね。無駄なことは、ひとつもしたくない。
仕事でも、ラフスケッチなんて、描けないんだよ。そういう仕事が来ると困ってしまう。そんなこと、できないから。これはラフだ、本番じゃないと思うと、どうしてもちゃんとした線が引けない。ひどい線にしかならない。そんなものスポンサーに見せても、逆効果でしょう。ラフ出すと、仕事がなくなる。
でも、ぼくにはそういう仕事はできない。ラフを描いて、それに従ってもう一度描いていくということができない。要するに、一回しかしたくない。
つまり、最初の線を引かない限り、次の線は出てこない。描くことでしか、先へ進めないんです。
もちろん、下描きもしない。まっ白な紙にペンを下ろして、そのまま最後まで描いていく。頭のなかに、なにを描こうかというだいたいの考えはありますよ。でも、それを下描きしてしまったら、ぼくの絵にならない。
人生といっしょで、同じことを二度繰り返すことなんてできない。何でも一回きり。ラフ描いて、それを編集し直して、もう一度、っていうわけにはいかなんだな。
ぼくは、デッサンもできないの。パース的なデッサンていう意味だけれど、それは、左脳の仕事だからね。建築みたいなもので、全体を把握して配分していく。ぼくには、それができない。
地図も描けないんだ。いや、頭のなかではわかっているんだけれど、人に教えようと思って紙に描くと、だめなんだな。駅から描いて、どんどん描いていくと、家がどうしても紙の外にはみだしちゃう。設計図が決まっていたり、ゴールが指定されたものは、できないんだな。
でも、ペン画は違うからね。線が、次の線を呼ぶ。先はどうなるかわからない。わかっちゃったら、つまらないでしょう。わからないままに、自分が引いた線に導かれて、次の線が呼び出される。そうやって、流れができてくる。それがおもしろい。銅版画でも同じ。下描きはしない。銅版に、直接彫っていく。
怠け者といったけれど、学生時代に、とことんなにもしないということを決めて、それを極めたことがあるんです。
もう、手を動かすのも嫌。寝ていれば、起きるのが嫌。しまいには息をするのも面倒になってくる。こうなると、怠け死にするなあってところまできた。
それでも死ななかったのは、なにもしないことが苦痛に過ぎたから。なにもしないっていうのは、ほんとに苦痛なんですよ。ひどい虚無感を感じてくる。
人間、嘘でも目的を持つと、その方が楽ですよ。
ぼくは、六歳の途中まで京都の四条だか五条の橋の下じゃないけれど、街中で育って、それからおふくろの実家の滋賀へいった。家がとても貧乏で、おふくろは働きに出る。ぼくは六歳のころにはもう、ひとりでカマドに火を起こして、ご飯を炊き、おふくろの帰りを待っていたんです。
新聞紙をぎゅっと捻ったので火を起こして、薪に燃え移らせ、ちゃんと火が燃えて、炊きあがるまでの小一時間、ぼくはひとりで火を見つめている。お釜の底は煤でビロードのような深い黒。その表面に紅い小さな火の粉が星のように点滅する。炎がめらめらと燃えあがって、釜の底をなめる。
その流れをじっと見て、流れと形をなんとか捉えようとしたけれど、どうしても捉えられない。捉える前に、消えてしまう。
その頃は、近くの川へ水遊びにもいった。冬でも行くんです。田舎で、他に遊ぶところもないからね。
川の中の岩に、氷がついている。その氷をなめるように、水が流れていく。その水の流れも、じっと見ていた、流れを捉えたくて。でも、捉えられない。いらいらするくらい、捉えられない。
それから、秋の田圃。稲穂が、風に揺れる。風の形が見える。でも、その流れがやっぱり捉えられない。
でも、そうやって見ることが快楽だった。動きを見ることがね。ほかに何にもなかったから、それだけが救いだったんだ。
ぼくは、街からやってきたよそ者だった。吊りズボンなんか、はいていたんだ。そんなしゃれた格好をした子は、田舎にはいなかったからね。お坊っちゃんていう風情だった。
ところが、都会育ちのそのお坊っちゃまが、どんどん薄汚れていく。破産して一家離散というような状況だったから、着た切り雀でどんどんみすばらしくなっていくんだ。いまでも覚えているのは、あの吊りズボンのポケットの底に、固くなったガムがこびりついていたこと。うら淋しい気持ちだった。
よそ者で貧乏ときたら、これはもういじめられるに決まっている。体も小さかったから、格好の標的だ。
けれど、ぼくは引かなかった。だって、非は相手にある。貧乏だからと人をからかう方が悪い。ここで頭下げたら、一生だめになるって感じていた。その屈辱を、一生引きずるだろうと。だから、死に物狂いで喧嘩をした。喧嘩したら絶対に負けない。死んでも謝らないって思っていた。死んでもいいと思うと、相手が引くんだよね。
ぼくの方から、喧嘩を売ることもあった。ぼくより貧乏で、頭の悪い、しょうがない奴がいたの。そいつを、血が出るまで殴ったことがある。貧乏だったからじゃない、そいつが、卑屈だったから。みんなに頭を下げたから。卑屈なのが嫌だった。許せなかった。
そうやって、ぼくは喧嘩に勝ってきた。あそこで、謝ってたら、ぼくはいまごろ、犯罪者になっていたと思う。
ぼくが京都の都会から、滋賀の田舎に移ってきたばかりのころ、人さらいにあったことがある。きれいな、その辺ではみかけないようなほんとうにきれいな三人のお姉さんだった。いまでもはっきり覚えているけれど「森の奥にお菓子の家があるわよ」といわれたんだ。その甘やかな匂いにひかれて、ぼくはふらふらとその人たちについていった。
すると、おっかさんが追いかけてきたんだな。子どもがいなくなったから、おっかさんも必死だったわけさ。
すると、そのお姉さんたちが、ぼくに「頭を低くなさい」という。つまり、稲穂のなかに隠れろというんだ。そのときに、ぼくはようやくおかしいと思った。
結局。ぼくは泣きながらおっかさんのところに戻っていった。
後でわかったんだけれど、あの人たちは、森の向こうの被差別部落の人たちだった。近所では、だれも相手にしてくれないし、淋しかったんじゃないかなあ。それにぼくは、都会からきたばかりで、吊りズボンなんかはいていたから、珍しいかわいらしい子どもだと思って、連れていきたくなったんだろう。さらうつもりなんかじゃなくて、仲良くしたくて。
いまでも、あの記憶は不思議な甘い秘密の香りがして、なつかしく思い出されるんだ。
『風力の学派』(1988 ぎょうせい)という画集は、ある編集者が「出す」といってから、五年も出なかった本なんです。結局、別の編集者により、別の出版社からでたんだけれど、その五年間は長かった。でも、そのおかげで、すごい時間をつぎ込むことができたんです。もうすぐ出す、もうすぐだっていうから、ずっと新作を描き続けていたから。
そのうちの一年間は、一日十六時間、描いていた。八時間は眠らないと描けない。頭は大丈夫でも、目がいうことをきかなくなる。ぼくはあのころ、一ミリに十二本の線を描くような仕事をしていたからね。だから、起きている時間は、ずっと描いているようなものだった。
それが、少しも金にならない。女房は怒るわけ。「あなた、一体なにしてるの」って。双子の娘がいるんだけれど、そのころはまだ小さくて、女房も働きに出られない。それなのに、ぼくがあんなだったから、ずいぶん苦労をかけました。
本が出て、少しは仕事がくるようになって、それで息をつけたけれど。
だから、あの画集には、ぼくの、まったく金にならない六千時間が、つぎ込まれているんですよ。
遠くで働いている姉が、ぼくに画集を送ってくれたことがあるんです。小学校の二年生ごろのことだったと思う。『イタリア絵画集』みたいな、小さな本だった。ぼくが絵がうまいってことを知っていて、絵本がわりに送ってくれたんだよね。
そこで覚えているのがデ・キリコの絵。あの無機的な空間のなか、遠くに汽車が走っている。ぼくの住んでいた田舎には、鉄道はきていなかったけれど、遠くの山のふもとを走る汽車の音が、山と空とに反射して聴こえてくる。汽車の線路の向こうにある都会を思ったりした。京都から滋賀に来て、さみしい思いをしていたから。その汽車のイメージとキリコの絵が重なったんだろうね。だから、覚えている最初の絵はキリコなの。
高校生の時にフェルメールに出会った。そして、神とあがめるようになったんだけど、最初にその絵を見たときに思い出したのは、障子に映った光のことなんだ。
病気で学校を休んで、家でひとりで寝ていた。そうしたら、障子にぼんやりと色のしみがある。なんだろうと思って、ふとんから起きあがって見に行ったら、そこに、風景がくっきりと逆さになって映っている。廊下に出てみると、雨戸の節穴から、光が一筋射していた。その印象が強烈だった。
それと同じものを、ぼくはフェルメールに感じた。
フェルメールが絵を描くのに、針穴写真を使っていたのを知ったのは、ずっとあとのことだったんだ。
今はほとんど全部、自分が写した写真をモチーフにして描いています。
インスタント写真や、35ミリの写真でも、いくらでも見えるわけ。細部が、いくらでも拡大されていく。心のなかの映像が、全部見えてくる。
見るっていうのは、そういうことなんだよね。トレースじゃない。トレースは、そこにあるものだけをトレースするに過ぎない。それとは、全然違う。
ところが、あんまり解像度がいい立派な写真だと、却って見えてこない、視線を跳ねかえしてしまうってことがあるよね。
写真を撮ることと、絵を描くことは、全然違う。写真は一瞬を切り取るけれど、絵は、その一瞬をどう見るか。どう料理するか。写真を元にして絵を描いても、それは元の写真とはまったく違うものになる。
パリの写真を撮っていたアジェって写真家なんか、自分の撮った写真を、絵描きに売っていたんだよ。絵の材料として。わかっていたんだね、それが別物だってことを。そして意識的にやっていた。
ところが、いまの日本はそうはいかない。すぐ盗作だなんていわれてしまう。そういうことじゃないのに。
写真が自由に使えないことに、すごく不自由を感じている。
ぼくは、自分の絵でも、スケッチではなく写真を撮ってくるほうが多い。
ともかく、見るのが好きなんだ。というより、見ることが救い。見ることが、おもしろくてたまらないんだ。
芸大に入ったものの、日本の画壇が嫌で、イラストレーターになったという門坂流氏。とはいえ「ラフスケッチを描くのが嫌」なのだから、この人の生きる道は困難だったと想像に難くない。結局、この人は純度百パーセントの芸術家なのだ。わがままも、ここまでくると凄い。二十世紀末の日本で、このような人が「転ばずに」生き延びてきたことは奇跡に近いと思った。
門坂さんとの飲み会に呼んでくださった浜野智氏に感謝を捧げます。自称「無口」な門坂さんの独演会状態。浜野さんとろくにお話できなかったのが心残りですが、おかげさまで、門坂節をたっぷり浴びることができました。機嫌よく話してくださった門坂さん、ありがとう。(文責/寮美千子)