入り口に、オーロラの輝く空の風景があった。
ああ、然別湖の氷のイグルーで見たときと同じだ、とわたしは思った。
あのきいんとした寒さが、氷を透かして感じる青空がわたしのなかに甦ってくるようだった。
2月6日、千葉そごう美術館「星野道夫の世界」展。
その最終日に、わたしはようやく駈けつけることができた。
やっぱりきてよかったと、そのときにもう思っていた。
雪の積もった氷のうえを百メートルも歩かなければ、次の写真を見ることができない。
そんな然別湖での展覧会の贅沢さを、わたしは思いだしていた。
それと、このコンクリートの箱のなかでの展覧会を比べることなどできなけれど、でも、こんなふうにぎゅうぎゅうに詰められた展示は、なんだかもったいないような気がする。
一枚の写真を見て、百メートル歩く。歩いている間に、様々な思いを心にめぐらせる。
そうやって、一枚の写真の世界が、ようやく心に定着してくる。
星野道夫の写真を受けとるには、それくらいの時間と空間が必要なのかもしれない。
はじめは、そんなふうに思っていた。
けれど、そんな気持ちはすぐにふっとんでしまった。
一枚の写真に目が釘付けになると、ほかのすべてが消えてなくなる。
すぐ隣の写真も、人々の気配も。
その写真のなかに、わたしは吸い込まれてしまう。
生まれおちたばかりのカリブーの赤ん坊と、その母親の写真が目に飛び込んできた。
なぜか片角だけしかない母親は、出産という大事業を遂げて、少し疲れ気味に見える。
つやのない、がさがさと荒れた毛並みに、胸が締めつけられる。
けれど、自然は容赦しない。
一刻も早く回復して、群れに戻らなければ、母子共に肉食の生き物の餌食になってしまうだろう。
母親は、胎盤を食べている。
そうやって栄養を得るのが、自然に生きる生き物の、当たり前の知恵だ
。
赤ん坊は、その頼りない足で立ち上がって、早くも母親の乳房に吸いつこうとしている。
その後ろ足の間から、まだ血まみれのへその緒がぶらさがっている。
草原とカリブー。一面に茶色の写真のなかで、赤ん坊のお尻に生えた毛だけが、まぶしいほどにまっ白だ。
汚れのない白さが、誕生の歓びを高らかに歌っている。
そう、ここにあるのは、誕生の歓びと、自然の過酷さ。
生きているということは、そのふたつがいつでも
コインの裏表のようにひとつなのだということを、この写真は思い出させてくれる。
母親が、ふと、というようにこちらを見ている。
草食動物特有の、あのつぶらな、どこか哀しげな眼で。
すると突然、声が聴こえてきた。
「がんばれよ」と、それを撮っている瞬間の星野道夫の心のなかに響いたであろう声が。
そして、わたしも同じように言いたくなる。
「がんばって」と。
この片角の母と赤ん坊は、無事に生き延びただろうか?
展覧会ではなかった星野道夫自身による説明文が、図録には収録されていた。
「この時期、オオカミやグリズリーがまだ走ることのできない子どもを狙っている。
出来るだけ早く母親についていけるようになること、それが生存の鍵である。
翌日、懸命に駈け始めたこの幼いカリブーに僕は追いつくことができなかった」
その言葉に、わたしはどれだけほっとしただろうか。
星野道夫の写真には、そんなふうに思わせる力がある。
確かにその人が、そこで見ていた。
まるで、世界をはじめて見る子どものように、驚きと感動をもって、それを眺めていた。
その視線を、その人の網膜に、心に映じた世界を、いまわたしは感じているのだと、そう思わせる力がある。
夕焼けの丘。
紅に染まった空が、画面いっぱいに広がる。
その下のほうに、大地が横たわり、そこにカリブーが小さなシルエットになってたたずんでいる。
美しい写真だ。
構図も決まっている。
空の広さがいい。大地の広さがいい。
そうやって、自然をきれいに切り取る写真家はいっぱいいる。
そういう写真を見ていると、そこが、いかにも美しいところに見えてくる。
そして、現地にいって、失望するのだ。
「なんだ、きれいなところだけ、切り取ったんじゃないか」と。
それは風景ではなく、風景を画材のひとつとして、写真家が描いた絵画だ。
けれど、星野道夫の写真は違う。
どの写真も、驚くほど美しい。構図も決まっているけれど、そういうものじゃない。
絵画どころか、写真ですらないのかもしれないと思った。
それは、世界を見つめたときの、写真家の驚きそのもの。
その驚きの記録であり、その瞬間の再現装置ではないか。
わたしたちは、時空を越えて、すでに失われてしまった一瞬の光景へと旅立つ。
この宇宙で、2度と繰りかえされることのない一瞬。
けれども、もう何千年、何万年も繰り返されてきた生命の流れの一瞬。
小さな入り江がある。
入り江は鮭でいっぱいだ。
その背の色で、入り江全体が黒く見えるほどに。
春の小川の、おたまじゃくしの氾濫を思い出させる光景だが、そのスケールはずっと大きい。
大きいけれど、やっぱり、同じ命の躍動なのだ。
ああ、この惑星のいたるところで、そうやって命が溢れているのだと、わたしはその時、改めて気づく。
その鮭を追って、クマたちがやってくる。
流れをさかのぼって飛び上がる鮭を捕まえる一瞬。
かぶりついた鮭の腹から、新鮮なイクラが惜し気もなくこぼれ落ちる。
そのおいしそうなこと!
サケをくわえて身をぶるるとふるわせたクマから、無数の滴が飛び散る。
そのひとつひとつが光にきらきらと光りながら宙に舞う。
その水の輝きまでをも含めて、命の輝きだ。
そう、生きているのは、生命体だけではない。
岩も、砂も、水も、みんな流れながら、生きているのだ。
生きている、ということの、あまりの鮮やかさに、わたしは涙が止まらなくなってしまった。
そして、思った。
そうだ、アラスカへ行こう!
わたしは知っている。旅は暴力だ。
けれども、アラスカへ行きたい。
アラスカの大地に、いつか見たヒマラヤの山々が、アリゾナの砂漠が、スコットランドの海岸線が重なる。
写真に時間が流れだし、そこから風が吹いてくる。
わたしは、見渡す限りの大地の匂いを感じる。
この惑星が蔵している根源的風景を、星野道夫の写真は想起させてくれる。
そして、その根源へと再び身を置きたいと、そう、強く感じさせるのだ。
わたしの次の旅は、いつはじまるのだろうか。
この物語のなかに出てくる少女のように「もう少し、もう少しだから」と
夜がすっかり明けるまで読んで、読み切ってしまった。
面白いから? 次がどうなるか、知りたいから?
そうではなかった。
それなら、何に引っ張られて、わたしはこの物語を読み通してしまったのだろう?
山梔、と書いて「くちなし」と読む。
あの厚ぼったい純白の花びら。そのむせかえるような甘い匂い。
幼い少女が、その花をとろうと手を一心に手を伸ばしているシーンから物語は始まる。
髪の豊かな少女のおかっぱ頭。のばされた掌のふくよかなこと。
その手の甲にある小さなえくぼまでもが、目に見えるようだ。
夕暮れのお寺の境内に射す、琥珀がかった光。
根気よく、いく度となく伸び上がり伸び上がり、そしては小さな踵をすとんと落として、また伸び上がっている子供の体を、後から突然に抱え上げた、白い指の長い女の両手がある。
その美しい人は、少女に山梔をひと枝手折ってわたす。
伸ばした袖口からこぼれる白い腕の細さだけでなく、まるで、山梔の花のようなその人の芳香さえ、読んでいる者に届いてくる。
なんという鮮やかな、美しい出だしだろう。
少女の眸に映る世界が、その鮮やかさを失わないままに伝わっている文章だ。
お寺の境内と、自分の家と庭と土蔵と、いくつかの路地。
それだけが、世界のすべてで、その閉じた小さな世界が、少しも閉じてなく広大だった頃の記憶。
記憶の底に眠っていたそんな世界の手触りが甦ってくる。
自分と他者との境界線も、そこではまだおぼろで、たとえ折檻をする恐い父がいても、そこはなお楽土にような微光に満ち満ちている。
幼い妹の無垢な姿は、年かさの兄と姉に、こんなことさえ言わせる。
「わたしは、阿字子の兄であることがうれしいんだ」
「私もそう思いますのよ。幸福な結婚があの子を引き取って行くまで、私達は
出来るだけの注意と、愛とで以て、あの子を見守って行く権利があるんですね」
「そうだよ。愛は、義務ではない、権利なのだ。資格なのだ。
義務を背負うよりも、権利を把る方が、もっと人間は愉快だね」
家族との至福の一体感。
幼い子供が無垢な魂を持っているという、それだけことが、周りの大人たちさえをも
限りなくしあわせにしていくような季節。
読みながら、わたしもまたその至福に浸り、しかし、だからこそそれが失われる予感におののく。
そして、速やかにそんな至福の季節は通り過ぎてゆく。
末の妹の幼い姿に、かつての阿字子の姿を重ね、夢見心地の至福の一体感を地模様にまだ透かしながら、しかし、阿字子という少女はもう、かつてのような幸福な存在ではいられなくなる。
彼女が「成長」したからだ。
しかも、その成長は、周囲の望むパターンにはまったものではなかった。
無邪気で無垢であることをやめ、伸びやかな感性を失い、何かをあきらめ、受容し、ありきたりのものになること。
そうやって、例えば親のすすめる縁談に素直に従うような娘になること。
それが、周囲の望む「成長」の姿だった。「大人」になることだった。
しかし、少女の選んだ道は違った。
本を読み、世界の広さと美しさを知る。
想像の翼を広げて、阿字子は、より阿字子自身になってゆく。
無垢であること、無邪気であることに忠実な自分を育てていく。
それが、大きな軋みを生みだす。
幼い頃、無垢で無邪気であることは、ただそれだけで人を幸せにしたのに
、 成長すると、どうしてそうではなくなるのだろう?
むしろ、それが周囲との軋轢の原因になってしまうのだろう?
「こうあるべき」社会像。規範。手足を切って、その寸法に上手に収まること。
自分自身でありつづけることよりも、そこにうまく適応することの方が、大切なことだとされる。
ある意味で、それは楽なことだろう。
自分自身、などというオリジナルなものを見つけることはむずかしい
それには、大きな心のエネルギーが必要だし、危険や困難も伴う。
なにしろ、何になるのだか、本人も周囲もわからないのだから、恐いに決まっている。
それに比べたら、既製のしあわせの型にはまることの方が楽だ。
とてつもなくしあわせ、になんかなれなくても、そこそこ形の予想もつく。
しかし、そうやって「楽」を選ぶことで、人は何かを捨てなければならない。
自由に呼吸できる自分自身。のびやかさ。
それを潰し、追いやり、殺していく。
その恨みや悲しみが、心の底に音もなく蓄積されていく。
そして、ルサンチマンになる。
そうなったとき、自由に呼吸し、好きな形に自分を造形しようとする他者が
そばにいると、癇に触わる。そののびやかさが、我慢がならないのだ。
「あなただけに、そんな自由が許されてたまるか」
「みんなが我慢しているのに、そんな特権を持つなんて許せない」
自分自身であり続けようとする少女は、兄嫁の嫉妬をかい、強烈ないじめにあう。
「こんな娘に育てた、あなたが悪い」と、その母さえ、強く非難される。
それまで、すなおな心の動きのままに、しあわせな一体感のなかにいた母も、自分が間違っていたのではと、悶々と悩みはじめる。
自由でのびやかだったはずの阿字子は、家族を脅かす毒虫のような存在にされてゆく。
物語の後半は、そのような苦しみのなかで、阿字子が自分の価値をおとしめられ、母の価値さえもおとしめられ、家族が憎しみの渦に呑みこまれて壊れていく様が
重苦しく描かれている。
亀裂は亀裂を増幅し、憎しみは憎しみを加速して、惨澹たる心の光景が浮かぶ。
作者は明治生まれ。
より強い規範や常識に縛られていた時代、彼女がなめた苦しみはさぞ大きかったことだう。
しかし「当時だから」というだけではない普遍的なものを、わたしは感じないではいられなかった。
「いじめというのは、過剰適応した連中が、いまだに適応しないでいる人に向かって吐き出す、ルサンチマンだよ」
ある友人が、わたしにそう語ったことがあった。そうかもしれない。
「適応できない」ていることはつまり、見方によれば
「適応しない傍若無人さ」であるともいえる。
それに対する強烈な嫉妬の感情。
実は、どこかでそれに「あこがれ」ていることを知っているだけに、それを否定するために、適応していない者を過激におとしめなければならない。
人間のクズであり、生きている価値もないのだと、そのような位置にまでおとしめなければ、気がすまない。
自分は優位であると、やっきになって証明しようとする。
過剰適応しているこの道こそが正しい道なのだと、優れた生き方なのだと言いつのる。
そして、過激に追い詰める。
追い詰めても、追い詰めても、自分の心に平安はやってこない。
だからこそ、より過激に、とどまるところなく追い詰めていく。
時には、死に追いやるほどに。
そうやって、いじめる主体すら、いっしょに無間地獄に堕ちていくのだ。
そこまで激しいいじめの構造ではなくても、それに類したことは、いまもほんとうにそこらじゅうに満ちている。
問題なのは「隣」にいる人々のことだ。「遠く」ならいい。
あるいは「芸術家」という名前のなかに隔離してしまえば、安心できる。
もう自分とは関係ない。違う世界の出来事だ。
うまくすれば、それに「あこがれる」ことで、自分のうっぷんをいくらかでも晴らせる。
「あこがれ」を生きるリスクを負うことなく、世間と戦うこともなく、安全地帯で夢を語れる。ガス抜きができる。
「芸術家」や「スター」や「選手」は、代理戦争をしてくれている。
そうやって遠くにいるなら「がんばれ」と存分に言える。
そういってもらえるくらい遠くへ行かなければならなかったのは、阿字子にとって、当然の帰結だったといえるだろう。
阿字子が家出を決意するところで、この物語は終息している。
重い物語だった。
ここではあえて触れなかったが「父親による暴力」という問題も深く絡んでくる。
背筋をぴんと伸ばした、明治生まれのインテリ女性。
ホテル棲まいをし、和服を着こなし、大学で教えるという、斬新な生き方。
パートナーはいても、結婚はしなかったという。
その鮮やかな生き方の背後に、このような苦悶の物語があったということを知ってわたしは驚いてしまった。
森茉莉や白州正子のように、その自由闊達さをいつまでも目を細めて見てもらえるような、そんな生活ではなかったのだ。
重い軛のなかから、彼女は飛び出した。
強い重力を振り切るようにして。
それに、どれだけのエネルギーが必要だっただろう。
それ以前に、潰れてしまわないだけでも、相当な力が必要だったはずだ。
その深い傷を、彼女は一度は物語として書かなければならなかったのかもしれない。
そうしなければ、前へ進むことがむずかしかったのかもしれない。
わたしには、そのようにして生まれてきた物語に思われてならない。
晩年、彼女が精神に変調を来して、ひどい被害妄想となったのも、少女時代の精神的虐待が影をおとしているのでは、とさえ思ってしまう。
そのような場所から抜け出して、自分の道を確実に歩み始めたひとりの女性。
運命を切り拓く力を持った人が、その傷を乗り越え、自由な天地を得た時、いったい何を書こうとしたのだろう?
26歳で『山梔』を書きあげ、翌年この作品で文学賞を獲った野溝七生子は、28歳で『眉輪』を執筆したとされている。
映画の脚本の懸賞小説として書かれたという。
この作品は、作者の生前、ついに発表されることなく埋もれていた。
そして2000年、執筆から75年を経て、ようやく出版されたということに胸を打たれずにはいられない。
もちろん、次に読みたい作品は『眉輪』だ。
夢野久作の自称「絶対探偵小説」であるところの『ドグラ・マグラ』。
あの作品には、いたく感心しました。
「我々は、どこからきて、どこへいくのか。わたしは、何者なのか」
という究極の問いかけ。
探偵たるもの、究極の謎は、それだと思う。
この世界とは、なんなのか?
脳髄に映る夢か幻なのか?
物語は、果てしなく究極の謎に迫ろうとする。
となれば、当然のことながら、認識論の迷路に迷いこむことになる。
それは、実に順当なことだ。
この作品は、世に言われているようにグロテスクでも幻妖でもなく、
鉱物質の明晰な謎によって組み立てられた美しき迷路なのだ。
果てしなく、根源にせまっていこうとする実に真摯な物語なのだ。
それを、このようにおどろおどろしく装丁してはいけない。
気持ちの悪い挿し絵なんか、もってのほかだ。
と、わたしは思う。
そして、あの作品のなかで語られる「脳髄は物を考えるところに非ず」という論文。
わたしは、あれが好きだ。
脳髄は、電話交換手だという。
身体のすべての細胞や神経からの情報を、集めて交換する場所なのだと。
それだけで、電話交換手たちは手一杯なのだから、なまじモノなど考えたりして、それ以上の負担をかけてはイケナイのだと。
ほんとうに感じ、考え、見聞きしているのは、全身にある30兆の細胞のひとつひとつであると。
わたしは、感動した。
なんという明晰!
現在主流の「唯脳論」のおごりを、夢野久作はすでに、予言している。
いや、夢野久作あってもなお、われわれは「唯脳論」から抜けられないでいる、といおうか。
久作と、まったく同じことをいっている現代の科学者がいる。
わたしの敬愛する佐治晴夫氏だ。
「心はどこにあるか」という論争を養老孟司氏としたことがあるという。
もちろん、養老氏は「唯脳論」であるから、脳だという。
佐治氏は、ちがうのではないだろうか? といった。
全身に遍在している、というのだ。
これは、アニミズムに通じる概念だ。
遍在する神、遍在する心。
それこそが、世界をより美しいものに導く感覚/感受性ではないだろうか。
そして『ドクラ・マグラ』のなかで、夢野久作もまた、同じ論を繰り広げているのだった。
ついでながらいわせてもらえば、その「細胞」のイメージを「分子」からさらに「原子」にまで広げ、原子の記憶がそのまま人の記憶となる想像力のもとに書いたのが『ラジオスターレストラン』だ。
宇宙を輪廻する物質の記憶と想像力。
それこそが「わたし」であるという感覚。
すべてがつながっているという仏教の世界観と、宇宙科学の実証する事実との融合。
小説、という世界だからこそ許されることを、わたしはやってみたかった。
チャネリングでもニューエイジでもなく、想像力の世界の出来事として。
うさぎ母さんことなるちゃんママさんは、そのへんのところを、実にまっすぐに受け止めてくださっている。うれしい。
「脳髄は物を考えるところに非ず」に先立って語られる「地球表面は狂人の一大開放治療棟」にしても、すばらしい見解だ。
ひとりひとりが掛け替えがない人間である。
それは、ひとりひとりが違う人間で、ひとりとして同じ存在はないからだ。
そこに存在の根拠を置けば、スタンダードやノーマルという概念は無効になる。
なんというラジカルな論理。
そこには、差別など入る余地はない。
スタンダードやノーマルがなければ、当然、逸脱という概念もなく、上下という階級も存在しなくなるからだ。
『ドグラ・マグラ』は、世に言われているような奇書でもないし、おどろおどろしさのために、わざとおどろおどろしく書かれたものでもない。
究極の明晰ゆえの渾沌。そこが魅力なのだと、わたしは思う。
加納朋子『ななつのこ』(創元推理文庫1999)読了
読書系で噂の加納朋子である。読まないわけにはいかない。
巻頭に、こんな言葉が記されていた。
いったい、いつから疑問に思うことをやめてしまったのでしょうか? いつから、与えられたものに納得し、状況に納得し、いろいろなことすべてに納得してしまうようになってしまったのでしょうか?
いつだって、どこでだって、謎はすぐ近くにあったのです。
何もスフィンクスの深遠な謎などれはなくても、例えばどうしてリンゴは落ちるのか、どうしてカラスは鳴くのか、そんなささやかで、だけど本当は大切な謎はいくらでも日常にあふれていて、そして誰かが答えてくれるのを待っていたのです……。
ああ、これは『小惑星美術館』ではないか。『ラジオスターレストラン』ではないか、と思ってしまった。
「ねえ、どうなっているの?」
「そういうこと、考えちゃいけないんだろう。先生いつも、教室でそう言うじゃないか」
「そうよ。よけいなことを考えるのは罪だわ」
『小惑星美術館』のユーリは、そんな世界に紛れこんでしまう。
でも、これはいまのわたしたちがいる世界のことだ。
考えないこと、疑問に思わずに受けいれること。
それが、わたしたちが受けてきた教育だった。
そして、そこからはみだす者は、落ちこぼれといわれ、排除される。
わたしも、そうやってこぼれてきたひとりだ。
けれど、科学する心は、それでは生まれない。
あたりまえのことに、不思議が宿っている。
「なんで?」「どうして」と聞く心は、幼いだれしもが持っていたはずのなのに、だれがそれを摘み取ったのだろう。
そして、つまらない不思議をおおげさにとらえる情けない大人ができあがる。
たとえばどこかの教祖の「空中浮遊」。
そんなこと「悟り」とは全然関係ないのに、そんな超能力に簡単に目が眩んでしまう。
そうじゃないのに。
あたりまえのことが不思議で、あたりまえのこと輝いているのに。
『ラジオスターレストラン』もそうだった。
いま、わたしがここにいる不思議。その輝き。
それを書きたかったのに
「生物進化の過程がいままでの学説と同じでつまらない。
もっと、あっと驚くような説を展開して欲しかった」とある評論家に言われてしまった。
びっくりすることが、欲しかったんじゃない。
あたりまえのことのなかある驚きを、書きたかったのに。
そうか、加納朋子は、違う。
当たり前を不思議だと思う、そんな心を持っているんだ。
巻頭の言葉を読んだだけで、わたしはぐっときてしまった。
その予想はあたって、実に読後感のいい作品だった。
とても爽やかなのだ。
ミステリーと銘打ってあるけれど、ここでは、謎解きは、ただトリックを解明するパズルではない。
その背後にある、あったかい人の気持ちが見えてくる。
なにげない日常のなかの人の心の不思議。
小さなおののきや、ささやかな抵抗、そしてやさしさ。
そんななかに、遠い時間に憧れる視点がふと紛れこむ。
「一万二千年後のヴェガ」
一万二千年後、琴座のヴェガは新しい北極星になっているという。
そのときにわたしたちはどうなっているのか?
その北極星を見上げる人間は、この地球にいるのだろうか。
遠い遠い時間を思う気持ちと、いまここを思う気持ちが重なって、実に心やさしい物語になっている。
そして、それが語られるプラネタリウムは、M町のTデパートの屋上。
これは、町田の東急デパート屋上のプラネタリウムではないか?
と思ってよく読めば、主人公の住んでいるところは「東京都と神奈川県の境目、かろうじて神奈川県にしがみついているようなところ」であり、米軍基地の鉄条網も出てくる。
これはもう、確定だ。相模大野に違いない。つまり、わたしの住んでいる街だ。
そのせいか、この物語のいくつかの謎は、作者が解いてみせてくれるまえに解けてしまった。
特に、鉄条網のそばでいつもしゃがみこんでいるおばさんのしていることなど、すぐにわかったのは、やっぱり、地元の気分を知っているせいかもしれない。
作者の加納朋子は、どうしてここを舞台にしたのだろう?
北九州市生まれだから、幼い頃から住んでいたわけではなさそうだが、なにか縁があるのかもしれない。
これを読んでいるころ、ちょうどVEGAさんの初書き込みがあった。
この偶然の一致も、なんだかわたしには面白かった。
『ななつのこ』の構成は、凝っている。
作品のなかに『ななつのこ』という本が出てきて、その本のなかの物語が語られながら、現実の物語が進行する。
本と現実、ふたつの物語が関連しながら。
そして、最後に現実の物語のなかで出版される本に与えられた名前が「一万二千年後のヴェガへ」。
ちょうど、メビウスの輪のようにくるっと一回転して、現実と幻想がひとつの世界になる。
なんという仕掛けだろう!
そのキイワードが「ヴェガ」、そしてCafe Lunatiqueを訪れたVEGAさん。
舞台は、わたしの住んでいる街。
さらに、もうひとひねりして、わたしの現実と物語とがつながってしまったような
不思議な気持ちで読みおえた。
引き続き、同じ作者の『魔法飛行』(創元推理文庫2000)を読んだ。
表紙は、一角獣の回転木馬を少女。
そして帯に、こう書いてあった。
最初の作品は、幾つもの名前を持っている
女の子の物語です。
正直いって、わたしはぎょっとした。
わたしが執筆中の『夢見る水の王国』のモチーフとあまりによく似ている。
一角獣、いくつもの名前を持つ女の子。
これはいったい、どういうことだろう?
読んでみて、全然違う話だとわかったけれど、物語と現実をシンクロさせながら書く手法に、わたしがやろうとしていることと少し似た匂いを感じた。
そして、ラストシーンの呼びかけ。
私は見えない相手に向けて。懸命に通信を送るのだ。
ハロー、エンデバー。こちらコマコ。私の声が届いていますか?
こちらコマコ。聞こえていますか?
わたしは繰り返すハロー、ハロー、ハロー……。ハロー、エンデバー。
成層圏や、フヴァン・アレン帯や、小惑星の果ての、遥か彼方からの応答が、わたしのところへ届くまで。
ニムさんが、この作品を読んだ頃、つまり、この作品が、文庫として出版された頃、ラジオではちょうど『小惑星美術館』が放送され、「わたしはここにいます/あなたがそこにいてよかった」という声が流れた。
そして、その後の11時のNHK-FMのニュースでは毛利さんの乗ったエンデバーのニュースが流れ、毛利さんのこんな言葉が流された。
「わたしたちにとって、生命が生存できるのは地球だけしかない。この地球を大切にしよう」
いろんなものが、つながっている。
それが、まるで当たり前のようにつながっていることを感じる。
この作者とわたしは、どこか同じ遠いところを見ているのかもしれない。
そして、だからこそ日常を慈しむ気持ちが強いのかもしれないと思った。
じんときました。
そして、だめ押しのように、もうひとつの偶然が重なる。
『ななつのこ』の解説は齋藤愼爾氏。
先日来、このCafe Lunatiqueで話題になっていた野溝七生子の作品をかねてより高く評価し「深夜叢書」から発行したその人であり、先日偶然に新宿の「風花」というバーでお目にかかって紹介された方だった。
アドレッセンス中葉の感受性を描く文学に、非常に敏感な評論家でもある。
その人が『ななつのこ』を絶賛。
中勘助の『銀の匙』を彷佛とさせられた、とまで書いている。
ここにも、通底するものを感じないではいられなかった。
というわけで、わたしは加納朋子のファンになってしまった。
気持ちのいい文学だ。
わたしと違うのは、ああ、この人は少女の感受性をいっぱい持っているなと思ったところ。
女の子が、素直に女の子らしく、とてものびやかに書けている。
これは、わたしには絶対に真似できない。
そして、女の子がこれだけ女の子女の子していて、すこしもベタつかないところも、またすてきだと思ってしまった。
こういう気持ちのいい作品をずっと書いていってほしいなと思った。