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空の上のサイクリング の検索結果(ログ8)


古内旭 杉井武作をあえて真剣に論じる 2002年10月31日(木)04時40分08秒
▼掲示板:7A「空の上のサイクリング」 への応答

杉作氏のメールは雑談版で1つの話題となっていますが、さてそこで杉作氏の新作『空の上のサイクリング』の登場となったわけです。まず最初に分量はどれぐらいなのかな、と思って下の方を見ていくと、これはとんでもないものだと分かる。作者自ら「ネタが低俗」と書いている通りなのですが、この話はほとんどセリフで、主人公以外は低俗なことばかり言っています。
この話は「謎の世界に迷い込んだ主人公の少女が、妙なネコに出会い、特殊な経験をしてのち、リアルを見据え現実世界に帰還する」といったものですね。一言で言うなら成長物語です。非常に分かりやすくその辺りは書かれています。最初は青い世界に溶け込んでしまいたいという現実逃避的思考があるにも関わらず、最後は現実を受け入れて「空は広いなあ」なんて言っていたりするわけです。
この話を論じるうえでメインとなるのは男根の存在です。一見可愛らしい子ネコに、「はちきれんばかりの成人男性並のモノが隆々と」あるわけです。この子ネコの主体はネコそのものではなくて、男根側にあります。フロイト、ユングはさておき、とりあえずヴァイニンガーを持ち出すと「女にとって男性器は名前の分からないイドである。女の運命はその中にあり、それから逃れられない」ということになります。すなわち、『空の上のサイクリング』において、子ネコ=男根とは、主人公をとらえるもの、そして同時に強く求めるものです。この話では、劇場での漫才の果てに、その男根は主人公の手刀により切り落とされます。そして、男根が主人公を飲み込んでしまう。その中には、隠されてきた、あるいは目を背けてきた現実そのものがあります。そしてそれを乗り越え、主人公はある意味でのファルスの克服を達成するわけです。

なんて。こんな風に論じてみたり。
しかしまあ、何はともあれ、爺さんが「ためしに舐めてみるか?」と迫る部分が非常に怖かった…。というのが感想です。

東條慎生 「回り続ける円環」/杉井武作試論  2002年11月01日(金)00時02分07秒
▼掲示板:7A「空の上のサイクリング」 への応答

 序論
武井氏の作品にはいつも二面性が隠されている。それは表層的なジャンクで徹底的にB級的な設定や展開と、性的なものを象徴とする手法である。ここでは新作である「空の上のサイクリング」を題材としてその物語批判的な表層と、性的な象徴の意味を探ってみたい。


 本論 (番号は章番号に対応している)

1.導入部である。ここでは非現実的な状況とそれを難なく受け入れる主人公の姿がある。ここに指摘できるのは、主人公である女性のなかにある男性への指向と非現実への欲求が同居しにくいものとして現れている点であろう。

2.この作品の主要な登場人物である大きな男根を持っている猫が出現する重要な場面である。この猫というキャラクタはそのまま作品自体の要約ともなっている。それは、過酷さを持たない「かわいい」猫と、グロテスクで攻撃性を内包する男根が同居しているということに見て取れる、「現実と非現実の望まざる混淆」である。そして、彼女はそれを最初否認することから始まっている。それは一章の延長にあることが指摘できる。

3.猫の関西弁、これは後半登場するじいさんのキャラクタとの類似を指摘できる。つまり、性的に攻撃されるという恐怖がここでは関西弁という一見親しげな要素と結びついている。それはそのまま猫と男根もそうであるように、良い物と悪い物の結合というこの作品の重要なモチーフに関わる。
また、ここでは女性のキャラクタの性格が読者に明示される。それは、他者の承認を一心に得ようとする一種病的なメンタリティであり、その裏には自分が承認されないことへの恐怖が抑圧されている。その為、自分自身を演じながらもそれに無自覚でいようとする性格が立ち現れ、盲目的な恋人へのストーキングが拒絶されるとインターネットや繁華街での行動へと繋がっていく。この性格設定はそのまま、現実否認を行いながらも現実に逆襲されるという作品モチーフの重要な変奏だろう。
なお、ここに突如無意味に挿入されるビートルズの歌の平仮名による記述は、作品のなかに他者の言語を取り入れ文体の多様さを指向する現代文学的試みのひとつと言えるだろう。

4.なぜかここで突然漫才コンビになることになる。それは登場人物によっても明確に意識された突然さで、それは始まるのだ。これは、後藤明生の「挟み撃ち」を例示するまでもなく、小説の自然な筋の推移という制度への批判であり、必然によって進行されうるべきであるという固定観念の打破を指向していることは間違いない。それは武井氏の前作を見れば分かるように、小説の筋は混迷を極めた展開をなし結末への収束や発展ではなく、突然の寸断、いきなりの場面転換などに様々現れている。なお、ここには言葉遊びによるコンビ名の考案という興味深いプロセスが提示されている。しかし、言葉の異化を目指し、新たな造語を創り出すということは面白いのだが、惜しむらくはそれがルーセル的な展開をせず、単に「ぐろちうず」というコンビ名としてしか使用されないことにある。これがルーセルであれば、逆に「ぐろちうず」から、この短篇ひとつ分の物語を捻り出すくらいの芸当をしてみせるのであろうが。

5.主要な場面である。劇場という舞台設定は非常に興味深いところであり、ここから様々な意味を読みとることができる。ひとつは主人公が漫才を演じる(ここで非常に重要なのは、コントと違い漫才は演じているという語を当てるには不適当だと思われる向きもあるかも知れないが、あれは漫才というコントを演じているのである)ことが現実への帰還のトリガーをなすということである。彼女は前述したように演技的な人間である。人に承認されることを熱望し、それによって被る悪感情(「やりにげ」という言葉)を否認し続ける。ここでは現実のなかで演技することにより非現実へ到達したという関係が、そのなかで演技することにより現実への回帰を促すというアイロニカルな関係性を露呈させている。この種の関係の反転は相対立する要素の結合と密接に関わっている。
猫と男根が切り離されることにより現実へ回帰するという場面は、この作品を象徴する重要なシークエンスである。現実と非現実の奇妙な混淆のなかにいた彼女は、それを切り離してしまうことで現実の象徴である男根に飲み込まれ、現実へ向かうことになる。その望まざる混淆とは、彼女が何とか自分を維持するために必要な要素であった。現実を否認しつつ非現実の世界に逃避するという彼女の性質の象徴である猫、その猫の現実と非現実を自ら切り離してしまうということはそのまま彼女が現実へ向かい合うという反吐が出るような回想へと引っ張り込んでしまう。これはフロイトが「抑圧されたものの回帰」と呼んだ現象であることは読者諸賢御承知の通りである。

6.7.8.性質が共通しているためにこれらを一纏めにする。ここに現れているのは彼女の過去の記憶である。ここには彼女の受けた抑圧されていた記憶が現在から過去へ遡行する形で回想される。6では人に認められないことと認められることのモチーフが再度現れ、猫に指摘される現在の生活の予兆が示される。それは、認められないという恐怖からの脱出を望む余り、自分の価値を非常に偏った形で信じ込むという状況である。事実憧れの人間から一度は容姿で拒否されたことをかわいいと言われたときには忘却している。この様な性質はそのまま、相手の承認を第一義に置いてしまい、自分の位置を見失うことに繋がっていく。つまり、相手から否認されることを極度に恐怖する余り、相手の言いなりなってしまうという陥穽が彼女を待ち受けていると言うことである。7は6の状況とは逆である。始め認められているという状況から認められない状況への変化は、6での彼女の行動を準備するものであると言える。8は彼女の非現実のなかの猫になぜ男根がついていたのかということの解明になる。彼女の幼少の頃の男性への恐怖、それが男根というものに形象化され、それが現実のメタファとなっている。しかし、ここでは男根が象徴物となる重要な切っ掛けとは言えない。じいさんは明らかに性的成熟期をとうに過ぎており、彼の嫌がらせがすなわち男根への恐怖と繋がるとは言いにくいのだ。ただ、祖父の振るまいが、性的衰えへの感情的な反発にあり、その代替物として少女への性的嫌がらせを行うという事件はひとまず、その背後に男根という価値観が存在しているとは言えるであろう。

9.現実への回帰へ向かうかと思いきや、ここでは再度幻想空間を通過している。闇とは幻想の謂いであり、彼女はここでも現実否認の行為を続けていると見ることができる。次章は目覚めの章であり、目覚める前の場面において彼女がそこを自分の居場所であると確認していると言うことは、古内氏の「ファルスの克服」説と衝突するように思われる。

10.彼女は目覚め現実へ帰還する。しかし、その帰還は果たして成長であったろうか。ここの記述からはそれと逆の結論を導き出すのではないだろうか。ここでは彼女は何も幻想世界から持ち帰ってはいない。末尾での詠嘆は辛うじて彼女に何らかの変化をもたらしたヴァリアントだということはできるかも知れないが、そこにあるのは自己の空虚さの認識でしかないのではないか。この場面は彼女の恋人らしき人間が彼女の元から去ったという状況を想像させる。そしてこの作品の幻想部分がそれからの逃避であったということが分かるのである。そして、その幻想部分とは彼女の逃避が現実によって阻害されると要約できるのであるが、彼女は末尾でその逃避の不毛さを認識しているようには見えない。空は広いという詠嘆に実はそのような意味が与えられているかも知れないがそれを明確に読みとることはできない。つまり、この作品は彼女の現実と非現実との不毛な行き来という円環を断ち切ることができないというアイロニカルな物語として、オーソドックスなファンタジーという成長物語への批判として読むことができる。断ち切ることのできない円環、それは自転車をいくら漕いでも車輪の動きは永遠不変であるように、いつまでもサイクルされ続ける。

 結論及び補足
今回の作品では武井氏は成長という物語への批判を導入していると思われる。また前作が徹底して少年(と未分化の性)の物語であったのに比べて今作は一挙にその小説的世界を広げることに成功している。さらに性はその位置するところを明確にされており、世界の構造は格段に整理されている。しかし、そのように現実と幻想が明確に区別されうるかどうかについてはひとつ留保をしておく必要があると思われる。この作品自体は幻想への逃避を批判的に見ているのだが、逆にそのような形で幻想/現実という構図を強固なアプリオリのものとして措定してしまう錯覚に寄与してしまう。
今回は表層部分のジャンクさについては触れられなかったが、これがひとつの現代的兆候であることは指摘しておいていいだろう。高橋源一郎がその小説内にドラえもんやジョン・レノンなどのポップカルチャーを意識的に取り込んでいることはつとに知られているが、この作品もそのような小説という権威への破壊姿勢を打ち出している。それは前作においてより顕著だが小説的自然さという制度への身体的反発として現れ、それはなかば必然的(設定において漫画との親和性を指摘できる)に少年漫画的な破綻したストーリーを招き寄せ、通常の小説の展開から激しく逸脱することになる。それが前作においては破綻を破綻として楽しむことのできる側面を創り出したのだが、今回においては性的な象徴という側面を重視したために破綻を期待することはできない。しかし、これらが両立しないと言う訳でもあるまいし、これからに期待したい。

また、この論は徹底的にジャンクであることを意図する氏の意向に添った、読み返しをしない書き飛ばしであり、ジャンクとして書かれたものであることを読者諸氏には銘記して頂く。
なお、今数えてみたところ、武井氏の本編は七千文字強、私の小論は四千文字強と、およそ本編の半分を超える分量の論を書いたことになる。流石に本編の分量を超えることは叶わなかった。

杉井武作 「空の上のサイクリング」評論、ありがとうございます。 2002年11月04日(月)20時35分03秒

こんな駄文に驚きととまどいと喜びでいっぱいであります。
僕は、壊すことが好きなんでしょうね。テーマ性があるものでも、それをそのまま書いてもダサいし、それこそ先人の焼き直し以外にならないかもしれない。テーマが真剣でも、それ自体を鼻で笑ってしまうようなニュアンスにできたらと思います。
なんちゃって、実はホントにテキトーなだけかも。普通に誤字脱字多いし!(笑)あぁ、こんなモノを超細かく分析してくれて後ろめたいったらないです。東条さんの評論はその意味で超ハイレベルなギャグです(笑)。古内さん東条さんごめんなさい。そしてありがとう。
ジャンクのオブラートに包んでも、本質的なテーマを見抜いて、これほど細かく分析くれるのは至福の極みです。これ以上嬉しいことはないですよマジで。
二人の評論で「それは違うぞ」と思うところはほとんどなかったです。というか、東条さんに至っては「そうなんだ!うんそれそれ!俺ってスゲー!」って思うことがありまくり(笑)。ルーセルって誰ですか?


>爺さんが「ためしに舐めてみるか?」と迫る部分が非常に怖かった…。

僕も書きながら吐きそうでした(笑)。これは僕が実際に、「見知らぬババァに尻をつきつけられて『座薬を入れろ』とせがまれる。んで入れようとしたら『尻の骨にヒビがはいっとんねん!』と怒られる」夢を見たので、使ってみました。文中の「ホビ」というのは間違いです。ごめんなさい。


>この作品自体は幻想への逃避を批判的に見ているのだが、逆にそのような形で幻想/現実という構図を強固なアプリオリのものとして措定してしまう錯覚に寄与してしまう。

そうですね。現実と幻想を明確に分けすぎかもしれませんね。でもそのことを押し付けてるつもりはないです。僕が批判的に見てるというよりは、この少女の場合における現実逃避を描写して、そこから読者が批評的なものを導き出せたらなと。逃避が必ずしも悪いものとも思いませんし、哲学的に突き詰めれば誰も現実を生きてないかもしれない。「現実逃避」という否定的なニュアンスの言葉は、危機感を抱かせられるという点で良い言葉だとは思います。


>今回は表層部分のジャンクさについては触れられなかったが、これがひとつの現代的兆候であることは指摘しておいていいだろう。(中略)それが前作においては破綻を破綻として楽しむことのできる側面を創り出したのだが、今回においては性的な象徴という側面を重視したために破綻を期待することはできない。しかし、これらが両立しないと言う訳でもあるまいし、これからに期待したい。

前作というのは「ねればねるほどストーリー」のことですよね?もう、ああいったのは作らないかもしれません(笑)。確かに、あれと今作は表層的なスタイルは似てますね。でも、前作は思い返せば小説の定型を壊す意図があったような気がしますが(笑)、今回は基本的に頭に浮かんだものを書いただけです。


>この作品は彼女の現実と非現実との不毛な行き来という円環を断ち切ることができないというアイロニカルな物語として、オーソドックスなファンタジーという成長物語への批判として読むことができる。

非常に鋭い、重要な指摘ですね。この後で少女がどうなったか。開き直ったのか、前向きに現実を受け入れたのか、その判断を読者に委ねられるような書き方をしたつもりです。そのまま飛び降り自殺をしてしまったという結末が自分好みですが、そう捉える人は少ないでしょうね。はじめ僕は、9章で連想されるような少女が前向きになったと思われる描写を入れるつもりはなかったんです。しかしそれではあまりに読者に委ねる割合が多いし、テーマ性のないまとまらないものになってしまうのでやめました。しかしそれでも、東条さんのような解釈をして頂けたのなら、このくらいのバランスで良かったのかもしれませんね。



文中で用いられたビートルズの歌の歌詞を掲載しておきます。

I don't know how you were diverted (なぜ君は男の慰みものになってしまったんだ?)
You were perverted too (堕ちるところまで堕ちた君)
I don't know how you were inverted (なぜ君はそんなに倒錯してしまったんだ?)
No on altered you. (誰もきみを警戒なんでしていなかったのに)
I look at you all see the love there that's sleeping (きみたちを見ていると愛は心の中で眠っているようだ)
While my guitar gently weeps (僕のギターはひそかにむせび泣く)
I look at you all... (君たちを見ながら・・・)
Still my guitar gently weeps. (僕のギターはひそかにむせび泣く)

東條慎生 あえて真面目に、を真面目な顔で 2002年11月05日(火)22時31分39秒
「空の上のサイクリング」評論、ありがとうございます。 への応答

古内さんが作品をあえて真剣に論じると書いていましたが、それだったら「あえて」の部分を
書いてしまわず、本当に真面目な顔してやった方が面白いんじゃないかという考えからあの評論
を書いたわけです。
という訳で、アレはタイトルの大仰さ(キザなタイトルや、副題に杉井武作「試」論とつけた
ものの、サイクリングしか話題になっていなかったり)や、文章が居丈高だったりとかなり意識
して学者文のパロディをしてたり、読んでもいない高橋源一郎に触れたり、ほとんど無理矢理
レーモン・ルーセルの話に引っ張ったり、フロイトについてみんな知ってますねといった口ぶり
で書いてみたりと、適当やってます。
だから記述に怪しい部分が結構あるので、話半分で笑い飛ばしてください。
とは言っても、読み返して文章を書きながら、実は構成がしっかりしていることや、克服の物語
であるよりは終わりのない現実と逃避の揺れの物語である点などがちゃんと考えて書かれている
ところは、表層をジャンクでまとっているのに目を奪われて気づかなかったところを気づかされ
てとても面白かった。

だから、幻想と現実の対立を無自覚に肯定しているとか言う記述はそれっぽい文章を書くために
書いた典型的な意味なし文なので、ちゃんとした考えがあって書いたのではないです。思いつき。

現実逃避という言葉は私は使いませんね。これには二つの理由があって、現実と非現実を端的に
分けてしまうことで、絶対的優位の現実と絶対的悪の非現実(幻想)を仮構してしまうのが一点。
(基本的にさまざまな二項対立というのは、善悪の判断を伴うことが多いと思います)
それに逃避と付けることで、その行為そのものを断罪している言葉であるという点。
(読書、ことに小説を読むことを指してこの言葉は使われることがありますね)
この言葉は私の嫌いなシニカルさに繋がる認識を示しているように思われるので、留保ですね。

ルーセルについてはリンク先を参照して頂ければ。
この人は、現実なるものを徹底的に否定しようとする妄執にとりつかれた人で、その情熱は
凄まじい物があります。訳者が書いた、「郵便配達夫シュヴァルの理想宮」という河出文庫から
出ている本も、そういう、現実を否定し自分のなかにある理想を三十年だかかけて建築として
実現した人について書かれています。
二人は現実逃避という言葉では表せない、強烈な物をもった人たちです。

終わりについてはアレくらいが良いのかも知れませんね。
私は9章の記述を結末の淡泊さから逆算して、闇の中が自分の居場所だと確認して、それから
光の中へ吸い込まれてしまう(目覚めてしまう)ことから、夢の世界に残りたがっている場面と
解釈しているのですが、光の方に自分の居場所を見つけている描写にも取れる。
結末も彼女の心境らしき物ははっきり書かれていないので、どうなったかは分からない。

まあ、お楽しみ頂けたようなので、以上。

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管理者:Ryo Michico <mail@ryomichico.net>
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