●作品
全体の構成を二部に分けることができるようです。
最初は、るりえを好きだった蓮田の元に余暮が現われ、その関係が次第に三角関係へと発展していく様を、「後日談への序章」からは、小学校を卒業した後からるりえを取り戻すために余暮と儀式の準備を行なう様が中心となり、結末となります。
古内さんの作品の特色は、恋愛小説にノイズを持ち込み、それによって奇怪さを強調するところにあると思うのですが、今回もやはり、
「姫」の発展型という形でそれは通底しています。
序盤は、小学生であった三人の関係を描いていますが、語り口は冷め切っています。ここでは主に後半への伏線を張っているところでもあります。線路の置き石や、コンクリに埋めたカギなどがそれで、「ぞう」も象徴的に意味を持ちます。これらの伏線は伏線であると同時に反=伏線とでもいうようなものであることが後に明らかになります。
今作での作品構造の特徴的な点は、世界の認識という主題を小説世界において表現する際に、ふたつの世界を導入していることです。ただ、単にふたつの世界を往還するというようなものではなく、そこにはネジレがあり、繋がっているようでねじれていて、ねじれているようで繋がっているという、繋がり方の不可解さがあり、またそれこそが作品の主題でもあります。
(ごく最初の導入を除いて)助走であるとも言える前半部分では、世界のネジレは現前せず、三人の関係の描写に費やされていますが、前半結部の儀式の場面からネジレは始まっています。しかし、ここの場面はラストになってその意味を逆転させられてしまいます。
世界から消えたのは誰か。もうひとつの世界へ入ったのは誰か。これが逆転するのです。
通読した人なら、タイトルとサブタイトルの関係がここに現われていることに気づくでしょう。
「るりえの帰還」とは、るりえが帰ってくる、と理解されるのが普通ですが、サブタイトルは、るりえへの帰還という意味になります。
後半の展開は、ごく普通に物語が進んでいるように思えるのですが、最後まで読んだ後に読み返してみると、実は決定的な矛盾が存在することが分かります。後日談への序章以降の物語は、もうひとつの、それまで余暮と蓮田が存在しなかった世界で展開しているのですが、ここで蓮田と余暮は、小学校の時にコンクリに埋めたカギを発見します。普通に読んでいくとごく当たり前の、いわばご都合主義的な展開ですが、カギを埋めたのは元居た世界であってこの世界ではありません。また、置き石がミカを殺す事件がありますが、あれは明らかに蓮田の「置き石の不確かな効果」の章でなされた行動を反映しています。そのようにして別であるはずの世界はここで繋がりを示すのです。そして、登場人物達が、今いる世界に対して特に疑問を抱かないところが、この作品の特徴の一端でしょう。
これは作品の矛盾か。そうではなく、元々このような矛盾が矛盾でない奇妙さを示すためにこの作品の構造はあります。世界を移動したとして、自分自身ではそのことに気がつかないという現象です。存在した瞬間、ただちに世界はその人間が存在していた世界を作り出すのですから。われわれの世界は数多ある世界のうちの一つに過ぎず、気がつかないうちに平行世界に落ち込んだり、戻ったりしているのかも知れない。
この作品は認識論的なホラー小説、と言えるでしょう。われわれの認識の限界を描こうとしていると言えます。われわれを見下ろす、超越的な、メタ的な視点を持つのでなければ、そのことは証明できないのです。
結末はそれまでの二人の行動を嘲笑するような、少年少女の淡い恋愛場面で終ります。幸せそうな場面ですが、この背後には蓮田の裏切りがあるせいで、文字通り受け止めることはできません。また、蓮田は無事帰還したように見えますが、本当にそうであるのかは分かりません。そもそも、世界を移動する時には移動する人の意識(歴史)は保たれていたはずなのに(蓮田と余暮)、最後の場面では、蓮田は時間が戻っています(歴史の消失)。移動の仕方が非対称になっているのか、それとも、るりえのいる世界が基幹の世界であるということでしょうか。それとも作者の不用意なのか。
●感想
上にはだいたい分かった範囲で「るりえの帰還」の構造をまとめてみました。
以下はいくつかの批判感想質問になります。
まず、この作品の語りですが、おそらく全体を語っているのは二十過ぎの蓮田なのだと思いますが、その語り口と登場人物である蓮田少年の台詞や行動に違いがないように見えます。つまり、蓮田は今も昔も二十代の蓮田であるような等質感があるのです。台詞の硬さは、古内さん風のユーモアにも思えるのですが、作中に「小学校」と出るたびに何か違和感を感じます。なぜ、これが小学生の話でなくてはならないのか。それが一つの疑問です。
古内さんの語りでは、小学生を描くには不適当な気がするのです。現在によって過去を塗り込めてしまっているようにも見えます。それは作品の語りの仕掛けなのかも知れないのですが。
また、るりえが異世界に行ったのではなく、自分が異世界に来たのだ、と気づくのですが、なぜ、蓮田だけがそれに気づくことができたのか、ほとんど書かれていないですよね?
だから、最後の展開が唐突になってしまっていると思います。また、これは小説の構成を崩してしまうのではないですか? 異世界に入ってもそれを認識できないと言う前提があると思うのですが、唐突に蓮田がその前提に違反している。私の読みが間違っていなければ、ここは重大な欠陥になります。
世界観や小説の主題は何となく分かるのですが、以上のような部分から、それが鮮やかに焦点化されていないようにも思います。「姫」は長さのせいもありますが、奇妙なねじれを抱えた関係が中心にあることは了解できるのですが、「るりえの帰還」にはちょっとぼやけたところがあるような気がします。うまく言えないのですが、ふたつの世界を行き来する時の、時間の経ち方など、不思議な部分があります。蓮田が帰還すると、二十代後半の蓮田とるりえが付き合っているもしくは結婚しているという風にすると、一応蓮田の時間の経ち方は保持されるので、その点は一貫性を持たせられると思うのですが、どうでしょうか。
上記の感想と食い違いますが、蓮田が「たこやきはとてもいい」とか小学生の癖に妙に大人びた表現をするのが笑ってしまいます。前半の最後の部分「二人の男の生き方を狂わせるには十分だ」35Pとあって、「お前、小学生だろ!?」とつい突っ込みが。語っているのは二十代の男ですが、伊高博士のこれはないだろうというような喋り方など、飄々とした顔をしてボケをかましているみたいな気分になるところがあります。ただ、こういう部分は、ユーモアなのか単なるミスなのか判然としない部分でもあると思います。伊高博士のところだけ展開が変で、明らかに浮いていると感じるのです。
●形式
語りについてですが、この小説の全体は帰還直前の蓮田の回想であると思うのですが、その点はもうちょっと詰めてみても良いのではないでしょうか。なぜ、蓮田はここで回想しているのか。ということです。小説において、語りの問題は避けて通れないものですが、これを詰めておくと、全体の印象をより強めることが出来ると思うのです。
たとえば、漱石の「こころ」では後半は全部「先生」の遺書という形式になっています。それを「私」に向かって書いているという部分が「こころ」にあっては特に重要です。論理を全部端折って言えば、「こころ」が強烈な印象をのこすのは、「先生」の話が「私」に宛てた「遺書」だからです。「私」と「先生」との関係や、血という言葉を意識して読むとそうだと思います。じっさい、漱石の構想では遺書を受け取った後の「私」の行動を書く予定だったということです。漱石の意識は「先生」と「私」の関係にあったはずです。
今はその話はおいておいて、形式はすなわち中身であり、中身はすなわち形式を規定するのだと思うのです。先生の「ノスタルギガンテス」がなぜ一人称でなければならないか。それは作品の主題と不可分です。それは
私が書いた感想で少し触れています。
「るりえの帰還」でも、回想という形式をもっと生かすことが出来るように思えます。そもそも、今作には私の認識と他人の認識との相違という観点があり、蓮田と余暮はその点で食い違っている部分があります。そこにこの回想を手記なりの形で小説のなかに嵌め込んでみれば、(余暮への置き手紙として、とか)何か面白いことが出来るのではないかと思います。
設定自体は面白いが物語としていまいちぴんと来ない、というのが一番初めに読んだ時の感想でした。それはリアルに感じさせる部分よりも、違和感(それも話の筋以外での)が目立ってしまうからではないかと思います。
まずみんなが書いているように、主人公達が年齢以上に大人び過ぎている点。
彼らが大人びている、ということをもし使う必要があるのならば、もっと彼ら以外の登場人物を出してきて際だたせなければなりません。彼らの中の誰かが大人びている、のならばその人物以外は年相応の(と読み手が思う)考え方や言葉遣いになるでしょう。
他に言葉遣いについて言うなら、地の文が回想している蓮田と当時の蓮田が混ざっているように思えるのですが。混ぜるなら混ぜるで、言葉遣いの違いをはっきりさせて書かないと年齢差が消えてしまうし、そうでなければ徹底的に回想の形を取った方がすっきりします。
回想の仕方も気になります。
この話の2/3は回想シーンで、しかもそのほとんどが小学校時代です。その後にざーっと残りの年数を埋めるような話が入り、走るようにして今の話が入り、締めが来ます。その所為でしょうか、私だけかもしれませんが夢落ちの物語を読んだような気になってしまいました。
そして何より気になったのが、話の流れと場面転換でした。
空想 → 今 → 小学校時代 → その後 → 今、となっていますが始めが飛びすぎです。いっそのこと流れを作らずにきっぱりと2〜3のパートに分けてしまってもいいのでは。
最後に付け足しですが、クラリネットを吹くシーンがやたらとリアルで笑えました。
そうなんだよ親指痛いんだよねぇ、と。