和光大学表現学部表現文化学科専門科目 物語の作法(2004年度) 城所洋 作品3/私はあなたを○○しています   私はあなたを○○しています       ―プロローグ―  『愛』とは何だろう? それは子孫繁栄の本能とはどう違うのか。 それは単なる独占欲ではないのか。 それは損得勘定が弾いた結果ではないのか。 それは憧れの延長ではないのか。 それに定義は存在するのか。 ・・・私は、レズだ。 私達のは、愛と呼べるのだろうか。 私達は、SEXが出来ない。 私達は、決して子供、愛の結晶を作れない。 私達を、人は奇異の目で視る。 私達を、人はホルモン異常だと罵る。 私達を、人はただの錯覚だと推し量る。 では、私の内に宿る、この感情は何? ただの錯覚?異常な性癖? それは異性に有って同性に無い物? では、私は貴方達に聞こう。 『愛』とは、何? 男が女に、女が男に、日夜交わされる感情。 それと私達のとは、どう違う? 貴方達のその感情が愛だと証明できる? 愛の確固たる定義を貴方達は持ってるの? 愛は美しい?愛は素晴らしい? 愛が憎しみを生む事もある。 愛が人を殺す事もある。 愛とは、そんな不安定な感情なのだ。 愛とは、矛盾に満ちた存在なのだ。 なのに人は、愛を尊ぶ。 なのに人は、愛を求める。 何故?一体、何故? 私は、・・・私はまだ、愛を知らない。      ―1―     ―六月二十七日 金曜日―  校庭に撒かれた水が蒸発し、それが風に乗って窓をすり抜け、ほのかに土気が香る。それを嗅ぐと、また、夏が来たと実感できる。  窓の外を見ると、熱気で少々靄の掛かるグランドが見下ろせた。  今は何年生の体育だろう。凝りもせずに、同じ所をグルグル走り回っている。ご苦労なことだ・・・。  ・・・私もか。毎日毎日、同じような話を、同じような席で、同じような景色を眺めながら、聞き流す。これは何処に居ても、学生という烙印を押された人間の宿命なのだろう・・・。  今もまた、現代国語の教師に頭を小突かれ、体の調子でも悪いか?受験勉強の疲れか?等という尋問を受けていた。 「・・・いえ、大丈夫です。ちょっと考え事をしていて。以後、気を付けます」  それに応じ、そう答えると教師は、うんうんと頷き、きびすを返して教卓へと戻っていった。 「看守付きか・・・」  一度目を付けられたら、この授業の間は怠けることが出来なくなる。しょうがない、もう少し気を引き締めるか。  終了のチャイムが鳴ると同時に、プハァ、と息が漏れる音と、カチャカチャと筆記用具を筆箱にしまう音が教室中に響いた。  そして授業が終わると、いつもの通り、ガタガタと回りにある机を押し分けながら一人の女の子が、一番後ろの窓際にある私の席へと駆けて来る。恋人のお出ましだ。 「あぁ〜、やっと終わったねぇ・・・。さ、お昼にしよ!今日はどこで食べる?屋上?学食?」 「・・・カナの好きな場所でいいよ」  カナ、このけたたましい、私の恋人の名だ。樋口 佳奈子(ひぐち かなこ)、だからカナ。 「え〜、たまにはなっちゃんの意見も尊重したいよー!」  なっちゃん、これが私のあだ名。沢村 夏美(さわむら なつみ)、だから、なっちゃんだ。 「どうせ、今日も弁当でしょ?だったら、学食で食べるのは変じゃないか?」 「う〜ん、別に関係無くない?どこで食べても。あ、でも、屋上の方がよりおいしく食べれそうな気が・・・。むむむ!どうしよっか?」 「・・・じゃあ、屋上でいいんじゃないか?」 「そうだね、そうしよう!んじゃ、早くいこ!場所、取られちゃうよ!」  カナは決めたらすぐの子だ。もう自分の弁当を持って、廊下へ飛び出して行った。  私はカナに付き合うと体力が持たないということを重々心得ているので、ゆっくりのっそり歩くことにする。  それにしても、不思議だ。性格も身長も趣味も、何もかも異なっているカナと私がどうしてこうも引かれ合っているのだろうか。  私の身長は女性にしてはかなり高い。170はあるだろう。それに引き換え、カナは160もいってはいない。体つきも、私はバスケの選手に向きそうなそこそこ引き締まった身体なのに対し、カナは少々痩せ過ぎている。髪の毛も、私のは肩にすら触れないくらいのショートヘアーなのに対し、カナのは腰の辺りまで伸びた典型的なロングヘアーだ。性格に至っては全く正反対で、カナはまだ子供っぽさが抜けきれていないように思える。  それでもこんなに通じ合えているのは、きっとお互いに影を求めているからだろう。  影(シャドウ)、つまり、自分に無い物を他人に求める、という事だ。だからこそ、正反対である私達がお互いに引かれ合っているのである。    カナは屋上へ飛び出すと、グッ、と背を伸ばした。 「ん〜、やっぱり、昼食はこういった場所で食べないとね。他の場所と比べて、5割増くらいにおいしく食べられそうだよ」 「その基準値はわからないけど、蒸し暑い部屋の中にいるよりはいくばかマシだな・・・」  そういうと、二人で日陰になっているところを探し、腰をおろした。  ここの高校は校舎がコの字のようになっていて、真ん中の校舎を挟んで外側がグランド、内側が中庭になっている。体育館は、グランドの端にある。  この季節、中庭は地獄だ。風がない上に日が照っていて、そこで食事をするということは砂漠でカレーを食べるのに等しい行為だ。      だからこの季節、中庭をチョイスする生徒はまず居なく、寄って集って屋上へと向かうのである。  今日は運良く、楽に場所を取る事ができた。 「そう言えば、明日は土曜日だよね?だったらちょっと買い物に付き合ってもらっていい?」  黙々と弁当を食べていたカナが、そしゃく混じりに言った。 「私は別にかまわないけど、どこに行くつもりなんだい?そろそろ期末も近いでしょ?そんな事に現(うつつ)を抜かしてる暇が、あんたにあるのかい?」  小言っぽく、そう言い返した。 「そ、それもそうだけど、ほら、この前デニムのパンツを破いちゃったでしょ?それで、新しく買い換えようと思って」  破れた様子をジェスチャーで伝える。 「洋服か・・・。まあ、そのくらいなら、パッと買えば夕方には帰れるな」 「そうでしょ!?はい、決まり!」  カナはそう言うと、一気に弁当をかっ込んで、立ち上がり、言い放った。 「それじゃ、あたしは図書室行って、ファッション雑誌借りてくる!」  言うと共に、走り出した。 「ちょっと!何も今じゃなくてもいいだろ!?」 「善は急げー・・・!」 「・・・まったく」  私はゆっくりと、お茶を啜(すす)った。  午後の授業を終え、放課後、私たちは商店街へと立ち寄った。  普段(カナと付き合う前まで)は、ここで十分だったのだが、やはりカナにとっては不満らしく、いつも電車で2駅ほど行った、もう少し開けた繁華街に行くようになっていた。  確かにここは、少し寂れている雰囲気もあった。  並んでいるのは、肉屋、八百屋、豆腐屋、等のオーソドックスな物に、一際目立つコンビニエンスストア。  それはまさに、何の特徴も挙げられない典型的な商店街だった。  それでも学校の近くということでそれなりには機能しているのだが、コンビニの出現で、それも衰退の一途を辿っている。  私達もその手助けをするつもりではないのだが、コンビニでアイスを買い、商店街から立ち去った。  アイスを食べ終わった頃、間延びした音楽とともに家へ帰るように促す放送が流れた。 「あ、もうこんな時間なんだね。明日も早いことだし、そろそろお開きにしようか?」 「ん、そうだね。今日は金曜だから、カナは家に帰る日だっけ?」 「うん、そうだよ。それじゃ、今日はこの辺で。また明日ね」  私の返事も聞かぬ間に、カナは走り出していた。別れが一瞬だから、妙な虚無感に襲われる。まぁ、いつものことだが。  それにしても、なぜ金曜日にカナが家に帰るのかというと、私達は同居生活をしているからだ。(とはいっても、カナが私の家に居候しているだけなのだが)  その理由は、主に2つある。一つは、言うまでもなく私達が恋人同士(表向きは友達同士)だから。もう一つは、カナの家が学校から遠いからだ。  私の家から学校までは、およそ15分。しかしカナの家からは、バスを使っても30分以上はかかってしまう。つまりは、時間と金の節約の為だ。  とはいえ普通の家庭であればそんな事を許すはずはない。  しかしながらカナの両親は多忙で、滅多に3人揃う事はなく、常に片親ないし、1人で食事・生活を営んできた。  だからカナの今の生活は、両親がこの状態よりは健全な生活を営めるだろうとそれなりに配慮した結果なのだ。  そして金曜日は両親とも比較的早く帰れるようなので、カナもその日は家に帰り、久方の家族団欒を楽しむのだ。  それにしても子を養う為に仕事に精を出しているはずが、何時の間にか子供をないがしろにしてしまうなんて、全く、本末転倒の極みである。  カナと別れた後は、どこにも寄らず家に帰った。  いつもと変わらぬ風景、いつもと変らぬ食卓、いつもと変わらぬ寝室、その全てが、まるで別の生き物のように感じてならない。まるで飼い犬が私の手を噛もうとするみたいに、この異質な空間は、一人になった私を頑なに拒んでいるようだ。  これほどまでにカナの存在が大きくなろうとは、異性愛者(ヘテロ)だった頃には夢にも思わなかっただろう。  月並みな感じがするけれども、やはり、人の温もりや、あるいは自分の愛情といったものは、一人になった時にようやく気づくことができるのだと思う。  さて、この虚無感が心を蝕み、孤独に耐えられなくなる前に床に就くとしよう。 そうすれば、また、すぐに、カナに出会えるのだから・・・。     ―六月二十八日 土曜日―  ジリリリリリリリ・・・・・カチッ。  シャッとカーテンを開けると、目の前を真っ白にするほど眩しい光が勢いよく飛びかかってきた。  今日も一日、いい天気になりそうだ。  部屋を出て階段を下りると(家は二階建てだ)、香ばしい味噌汁の匂いが漂ってきた。  母は、私がこの時間に起きることをお見通しだったらしい。  テーブルの上にはお箸が二膳。私と母の分だ。父は居ない。  手早く朝食を済ませるとまた二階へ駆け上り、部屋に入るや否やパジャマを脱ぎ散らした。  部屋に入ったところから見て、右手にタンスと机。左手にはベッドと本棚、そして正面には、窓とベランダが見える。ポスターやテレビなどはなく、テーブルが部屋の真中にある以外、何の変哲もない閑散とした部屋だ。  半裸になった私はタンスを睨み、それを開けっ放した。  今日はカナとのデートだ(一般的には買い物)。変な服装で恥をかかせるわけには行かない。  普段はもとより、生まれてこのかた、カナと出会うまではファッションなんぞ気にも止めていなかったが、最近ではカナに感化され、それなりには気を遣うようになったのだ。  けれども、やはりまだカナのように今風(オバン臭いが)な服を着るには抵抗があり、最終的には、デニムパンツと黒の長袖のYシャツという形で落ち着かせた。  机の上に無造作に置いてある、財布、腕時計、携帯をポケットに詰めると、すぐさままた階段を駆け下った。カナにこの姿を見られたら、きっと笑われるだろう。  家を飛び出すと、セカセカと歩を進め、駅へと向かった。  駅は学校へ行く道の途中で曲がれば、後は一直線だ。時間も大体学校と同じくらいしかかからない。  駅に着くと手馴れた動作で切符を買い、改札を抜けた。  ホームに着いたと同時に、電車が駅へとなだれ込む。缶ジュースを買う暇もないようだ。  乗る車両は一番先頭だ。そこが、カナとの待ち合わせの場所に最も近い。  ゆっくりとホームに滑り込む電車を横目に、人を掻き分けながらその後を急いで追った。  間一髪に乗り込むと、前から後ろから、ドカドカ重圧を受けた。まだ10時前だというのに、車内は人で埋め尽くされている。  何とか自分のスペースを確保すると、ふと窓を見入った。  流れる風景。低くて小さな家々、古く薄汚れたパン屋、人気のない公園。遠くの方には、細々とした田んぼがポツリ、ポツリと散らばっている。  それが次第に、建物は大きくゴツゴツとし始め、洒落たカフェやレストランが目に付くようになり、公園の緑が多くなるにつれて、野や田んぼが消えていった。  まるで、歴史の流れを早送りで見ているようだ。  大きな建物の群集の根元に来た所で、程なくして、電車は停止した。コンクリートジャングルに到着だ。  ドアが開くと、人は、狂ったように一斉に出口を目指し、押し合いへし合い、我先にへと階段を駆け上る。  彼らをここまで奮い立たせるものは、一体何なのだろう。  地元では味わえぬ娯楽を求めてか。生まれて初めて見る世界に心踊らせてか。土曜だというのに、ご苦労にも社会の部品に徹するためか。  そんなのは、関係なかった。何故なら私も、彼らと同じ狂った獣。カナに一刻も早く出会うために、その獣の行進に参加していた。  改札を出ると人は散り々々になり、各々の目的地へと目指していく。  私の目的地へ行く人はかなりの数だった。やはり、考える事は同じなのか。  私の目的地は、変てこなオブジェが中心にある、円状の広場だ。  広場に着くと、辺りを見回した。  ・・・カナの姿はない。それもそのはず、時刻は9時56分。カナとの待ち合わせは、10時になっている。  カナが待ち合わせの時間に10分以上遅れることはあっても、待ち合わせの時間よりも前に来たことは一度もなかった。  急いできたためもあって、体が少し火照っている。  自販機でコーヒーを買うと、腰を下ろし、カナの登場を待つことにした。  しかしながら、ここは本当にジャングルそのものだ。  うっそうと茂る細長いビルに、無数の人間が群がっている。その根元には、毒気をムンムン漂わせた煌びやかな店が連なり、何処からともなく、獣の叫び声のような音楽が流れてくる。  空気は灰色に染まり、空は建ち並ぶビルに覆われて、その後ろの暗がりには、獲物を待ち構える野獣が潜んでいるような気配さえ感じる。  少なくとも快適とは言い難い環境であるにもかかわらず、どうして人は、この場所に好き好んで訪れるのだろう。  そう考えているうちに、新たな人の群れが湧き出てきた。  その中には、見慣れた顔が。あのピンクのTシャツとデニムパンツの組み合わせには見覚えがあるし、お気に入りのショルダーバックも身に付けている。間違いない、ようやくカナの登場のようだ。  カナは人の流れに逆らいきれず、右へ左へウロウロしながら、それでも何とかこちらの方へ向かっているようには見えた。  そして私を見つけるや否や、グイグイと人込みを掻き分けて、私の方へと突き進んできた。 「あ〜、ごめん!・・・待った?」 「今日は少し早かったかもね」  それでも、時計は10時7分を指していた。 「ごめんね〜、あたしって、どうしても時間通りにこれなくって」 「普段より早く起きるとか、色々解決策はあるはずなのに、どうしてそれが実行できないんだ?」 「う〜ん、癖、かなぁ?」  あはは、と微笑んだ。その顔には、苦味が全く見られない。 「まぁ、今に始まったことじゃないから、大目には見るけど・・・」  心なしか頭が痛くなったような気がして、思わず手を当てた。 「で、今日はどうするんだ?」 「うん、え〜と、とりあえずは、破れたデニムの替えを探して、その後は、どこかでお昼にしよう」  あたし朝ご飯食べてないんだ、とお腹を押さえる。 「まぁ、それはいいけど、その後の事は考えてないの?それだけで終わりって事はないでしょうね」 「ん〜、今日はデニムパンツ見に来るだけだったから、他には何も決めてないや」  ズボン一枚のためにこんな場所まできたかと思うと、また頭が痛くなった。 「まぁ、その後の事は、洋服見て、食事しているうちに、行きたい場所が見つかるかもしれないし、とりあえず目的のものを探しに行こうか」 「うん、そうだね!途中で何か面白そうなものを見つければ、そこに寄ったりするだけで時間潰せるだろうし。それじゃ、出発!」  カナはそう言うと私の手を引き、人込みの中へと連れ込んだ。 「それで行く宛てはあるの?前に買った店とか」 「あ〜、前に売ってた店は、ちょっと前に潰れちゃったんだよ・・・。だから今日は、色々な所を見て回ろうかと思って」 「ああ、それなら、結構時間を潰せるんじゃないか?昼も挟めば、それなりの時間になると思うよ」 「そうだね、なら、問題ないか!」  そういうと、スルッと私の腕にカナの腕を絡めてきた。  カナはご機嫌に、鼻歌を歌っている。あの獣の叫び声と同じ歌だが、まるで別物のように聞こえる。 「こうしていたら、私達は恋人同士に見えるかな・・・」  言い出したのは私だ。カナは唖然としている。 「えっ?うん、え〜と、どうだろうね?」  よほど驚いたのか、カナはまだ目を白黒させている。  自分で言うのもなんだが、私はそんな歯が浮くような話は、まずしない方だ。だからこそカナも、あれほどの驚きを見せたのだろう。  しかしながら、本当に私達は恋人同士に見られているだろうか。  ただの仲のいい友達、姉妹、もしかしたら着ている服装や後姿から、遠目には、本当に恋人同士として見られているかもしれない。  身長は十数cmも差があるし、服装も、ズボンは似たようなものでも、私は黒くて男っぽいYシャツ。カナは、それこそ女の子っぽいピンクのTシャツに、ゴチャゴチャとキーホルダーのついたショルダーバック。  まぁ、見間違えても良さそうな要素は揃っている。  しかし、近づいた時はどうだ?それでもまだ、私達を恋人同士だと思えるだろうか?  もしかしたら私を、危ない商売をしている仲介人だと思われるかもしれない。 (良い意味にしろ、悪い意味にしろ、奇異の目は避けられない・・・のか?) 「どうしたの?うつむいちゃって」 「え?ああ、ちょっと、考え事を、ね」  そういうと、カナの腕を心持ち引き寄せた。 (そんなことはどうでもいいか。恋は盲目だ。周りからどう見られようとも、私の目には、彼らの表情が映らないのなら、それでいいんだ・・・)  散々服を探し回ったが、結局お望みの物は見つからず、一旦、昼食をとることにした。  早めにとるつもりだったが、あれこれしてる間に、それでも13時を回っていた。  駅前の大手ファミリーレストランに入ると、驚くほどの人で賑わっていたが、運良く、ちょうど窓際の席が空いていたので難なくくつろぐ事ができた。  来慣れた店という事もあって、ロクにメニューも見ず、食べたい物を指定し、渡された空のコップを手に、またいつも通りに飲み物をチョイスして席についた。 「あ〜、たまらんねーー!」  カナはメロンソーダを一気に飲むと、中年オヤジのような口ぶりで至福の喜びを表現して見せた。 「飲み放題だからって、いきなり飛ばすと・・・」  後が入らなくなる、と言い切る前に、カナは二杯目を注ぎに駆け出していた。  そんなカナを横目に、シロップ入りストレートティーを自分のペースですする事にした。 「それにしても、なかなか見つからないもんだね」 二杯目のメロンソーダを3分の1飲み終えると、カナは言った。 「条件がキツ過ぎやしないか?4000円台で良い物なんて、早々見つかるもんじゃないよ?」  ファッションには無頓着でも、相場くらいは心得ているつもりだ。都会であれば、値段も高揚しているという事も。 「やっぱり最初に行こうとした、あの店しかないよ」 「あの変な外国人の店?ダメダメ、あんな胡散臭い店」 「でも、ああいう店ってすっごく安いんだよ?」 「安かろう、悪かろう。それに、入ったら最後、余計なものまで買わされる羽目になるかもしれないよ?」 「そんなことはないって。人は見かけで判断しちゃいけないんだよ」 「そういうこと言う人間が、詐欺なんかに会い易いのも事実だけどね」  ぐー、と言葉を詰まらせたカナの表情が、不意にニカッ、と浮ついた。  私のやや後方から手が伸びてきて、差し出されたのは、ホカホカ湯気の上がるタラコスパゲティ。  続いて、カナの方にはハンバーグステーキセットが運ばれた。  カナは、待ってましたと言わんばかりに(実際、言ったのだが)、さっそくそれに飛びかかった。 「あんたって、いっつもそうやって切り分けるよね。」 「うん。究極の8分割」  カナ曰く、食べ物を最も美味しく食べる方法らしい。研究に研究を重ねた成果だと、カナは言う。 (全く、自分の好きな事にはとことん精を出すのが、カナらしいと言うべきか)  結局、昼食をとった後の探索も虚しく目標の物は見つからず、最終的に、外人さんの店に入るか、普通の店の5980円で手を打つかの二択を迫られたが、後者を選ぶという形で事を終えた。  当初の予想を裏切って、帰る頃にはもう夕暮れ時を迎えていた。  いつものように切符を買い、ホームに降りると、ちょうど電車が出たところだった。  行きとは違い、帰るには別に時間制限があるわけではないので、気長に待つことにした。  馴染み深いホーム。  もう、何回来ただろうか?  駅の真ん中の方まで行くと、案の定ベンチが設置してあったので、座って待つことにした。  並んで座ると、カナが私の肩に頭を寄せてきた。  その手には、(値段には不満があったけど)気に入ったズボンを大事そうに抱えている。  閑散としたホーム。  そこは、人の温もりを忘れてしまったかのように静かにたたずんで、まるでもうすぐ閉鎖を迎えてしまうかのような、奇妙な不安と寂しさが、そこにはあった。  しかしそれでも、いくばか人が降りてくると、息を吹き返したかのように活気を取り戻した。  夕日が差し込むホーム。  ふと横を見ると、すでに半分寝付いているカナに夕日が照りつけ、その顔に赤みを帯びていつもより幼く見えた。  こういう時に、ふと思う。正直に、可愛い、って。  それは、綺麗なもの、愛らしいものを見た時に出る感想ではなくって、性的な欲求だ。  平たく言えば、トキメク、惚れる、抱きたくなる、という、衝動的な感情だ。  きっとこれは、錯覚なんだと思う。恋愛は、錯覚だ。  不意に、相手の良い所、チャームポイントを見せつけられた時に、人は錯覚に陥る。  おそらく、そのとき感じた衝撃や感動、関心が、恋愛感情と履き違えられるのだろう。  そして交際は、相手のボロを見つけるための行為なんだろう。お互い密接することで、相手の欠点を探し出す。  よく、突発的な恋は長続きしないと言われているが、多分、本当だと思う。恋愛に陥るまでの時間が短いために、相手の良い所をあまり見つけられず、あっという間にボロの方が多くなってしまい、一気に火の気が消え去るのだろう。  それでも、私達は付き合っている。まだボロが出てないのか、よほど馬が合ったのか、それとも、これは恋愛ではないのだろうか・・・。 「なっちゃん」 「・・・え?」 「電車」  いつのまにか、電車が駅のすぐそこまできていた。 「なんだか、らしくないね、今日は」 (さっきまでらしさ全開で寝こけてた奴に言われる筋合いは無いが) 「人にもまれたのは久しぶりだからね。ちょっと、色々」 「・・・?ま、いっか。さ、乗ろう?」 「ああ」  電車に乗り込むと、またさっきのように、カナが寄り添っていた。  車内は行きとは違い、ガラガラに空いていた。 (みんな、ここで降りていくのかな)  ガッタン、という音とともに、不器用に電車は動き出した。  日が差し、車内は赤く染まり、影の中に人が隠れ、また、奇妙な孤独さが押し寄せてきた。  思わずカナの肩に手を回し、キュッと抱き寄せた。 (どうせ人があまりいないんだ。少しは大胆になっても・・・)  風景は流れ、また家は小さくなり、公園は素朴に、野や田んぼが増え、町は古ぼけて、昔の姿へと回帰していった。    結局、家に着く頃にはもう辺りは薄暗く、町明かりが目立つようになっていた。  家のドアを空けるなり、パタパタと母親が走ってきてカナを迎え入れた。母も、カナに愛着が湧いたのだろう。  夕食に出てきたのは、ロールキャベツだった。  皿に盛られたのは3つ。究極の8分割が通用しないのを知ったカナは、悩んだ挙句、半分ずつに切って食べることにしたらしい。  夕食を終え、各々入浴を済ませたら(浴室の都合上、一人ずつ)、寝室へと集まった。 「さて、久々にしよっか?SEX」  そういうとカナは、ボタンに手をかけると、パンツ一枚だけ残して半裸になった。  私も、それにならう。  ここでいうSEXとは、いわゆるインターコース(異性間にて行われる通常のSEX)ではなく、手をつないだり、抱き合ったり、キスをしたりという、いわば、ボディコミュニケーションのようなものだ。  部屋の鍵を閉め、クーラーをつけ、ベッドに寝転がると、お互いに抱き寄せ、肌を密着させ、キスをする。  そして会話のネタを思いつくと、唇を離し、相手に投げかける。 「再来週のテスト、自信はあるの?」 「正直、今回は自信あるよ?受験にも影響あるから、本気でやってる」 「そう。なら、別に問題はないんだけどね」  話が途切れると、また唇を合わせる。 「あの新しく出てきたポテチ、あれどう思う?」 「あれか。ちょっと、いただけないな」 「え、そう?あたしは、全然OKだけどな。」 「ほら、また。全然の使い方が違うって」 「いいじゃん。テキトーテキトー」  ・・・・・・・・・・・・。 「月曜の体育って、バスケだよね?」 「うん。あたし、バスケって苦手で・・・」 「でも、水泳は得意でしょ?」 「昔から、水泳教室に行ってたからね」  ・・・・・・・・・・・・。 「今年って、あんまり暑くならないね」 「気温?」 「そう。あたし的には、結構助かるけど」 「私は、もう少し暑くなった方がいいな。なんだか、夏らしくない」 「なっちゃんって、ホント、夏が好きだよね」 「そうでも・・・あるか」  ・・・話す事が無くなったので、また唇を合わせた。  時計の針の音や、クーラーの軋む音が、やけに大きく聞こえる。  そしてそれよりも、息継ぎの度に唇を付けたり離したりする音が、妙に淫猥で、はしたなく響いていた。 「そういえば、カナは明日、どうするんだ?何か予定でもあるのか?」 「あ、明日は、あの・・・ちょっと・・・」  カナは、何か戸惑うようにモジモジしていた。 (何か隠してる?) 「カナ?」 「・・・、わかった。言うよ」  カナは、はぁ、とため息をつき、しばらくうつむいて、そして、ようやく口を開いた。 「実はね、隣の1組の大島くん、って居るでしょう?」 「ああ、そいつが、・・・!まさか・・・!?」 「うん。この前の水曜に、告白されちゃったの」 「な・・・、ちょ、ちょっと待ってよ!」 「大丈夫!付き合うつもりはないよ。ただ・・・」 「ただ、何?」 「断る前に、言われたの。『今、答えを出さないでくれ。今週の日曜日、ヒマだったら、俺に1日付き合ってくれ。それから、答えを言って欲しい。』って」 (全く、この子は・・・) 「そんなの、カナを連れ出す口実じゃないか。そうやって女の子を引き寄せといて、自分のものにしようとする、お決まりのパターンだよ」 「でも、あたしのこと真剣に考えてくれてるみたいだし、一度くらいは・・・」 (このお人好しさが、また、カナの良い所か・・・) 「別にいいよ。ちゃんと断るんでしょ?そう決まってるんだったら、気は楽じゃないか」 「うん、そうだよね。あー、どうせだったら、パンツ、大島くんに買ってもらうんだった」 「バカ!そんなことして、それにつけこまれたらどうするの」 「あ、それもそうだよねー」  あはは、と笑うと、目を細めて、また唇をくっつけてきた。  どんなに不安な気持ちになったとしても、カナと唇を合わせただけで、全てを忘れることができた。  それは、桃源のように、甘く、耽美で、とても心地の良い、たった二人だけの世界に浸れる、唯一無二の方法だ。  それだけに、空気を冷やすだけで、場の空気が全く読めやしない能無しクーラーのヴウゥ・・・・・ン、という唸り声で、不意に現実に引き戻されるのが堪らなく嫌になった。 (告白、か。そういえば、) 「私達って、どうやって付き合い始めたんだっけ?」 「え?んー、告白、はしてないよね?」 「ああ、気が付いたら、って感じだな」  ・・・・・・・・・。 「初めて話したのは、入学してから、ちょっと経ってからだよね」 「そこら辺は、覚えてないな」 「あたしは覚えてるよ。印象的だったもん」 「そんなに目立ってたか?」 「んー、目立つ、というよりは、あ、この人は違うなぁ、て」 「違う?」 「うん。何か、第一印象は、あんまり良くなかったんだ。何だか、大人しい、というよりは、妙に暗かったから」 「初対面の人が一杯いて、緊張してたんだよ」 「うん。でも、何かが違ってた。教室の隅で本を読んでたり、一人でブツブツ言ってるような根暗な感じじゃなくって、何だか、こう、大人だなぁ・・・、て」 「大人・・・ね」 「良く言うじゃない、心も体も大人だって」 (さしずめ、カナは心も体も子供だ、といえば、きっとカナはカンカンに怒るだろうな) 「それで、この人は、あたしに持ってないものをもってるな、て思ったの」 「それは違うよ。カナも、そのうち持つようになる。それに、私は、カナの持っているものを無くしてしまった」 「・・・あの時の事?」 「ああ、多分、な」 「そう、なのかな・・・。そう、かもね」 「色々、考えてたんだと思う、あの頃は」 「あれって、男の人に襲われたんだよね?噂でしか聞いた事がないけど」 「ちょっと違うな。相手は、私の彼氏だった。でも、襲われたに等しいか」 「あたし、知りたい、その時の事」 「・・・、また、今度ね。今は、そんな気分になれない」 「そうだよね、ゴメン」 「・・・大丈夫、いつか、話すから。カナには、絶対、あんな目に合わせたくはないからね」 「うん・・・」  ・・・・・・・・・・。 「でも、不思議だよね」 「ん?」 「最初は、良い友達になれるって、そう思ってた」 「ああ、それがいつのまにか、こんな関係になっていた」 「迷惑だった?」 「・・・そんなことはないさ。多分、あのまま行っても男の人を好きにはなれなかったし」 「それって、現実逃避?」 「違うよ。私は、本当にカナが好きなんだから」 「うん、うれしい・・・」  ・・・・・・・・・・・。 「でも、時々、思うんだ。あたし達のって、『恋愛』なのかな?」  カナが不安そうな目で、私を見つめている。 「人は、これは思春期における、言わば、憧れの延長だとか、ホルモン異常だとか」 「・・・どうなんだろうな」 「もしかしたら、これは、『愛』じゃないのかもしれない」 「・・・だったら、なんだっていうんだ?」 「・・・」 「・・・カナ?」 「愛は炎っていうじゃない?だったら、あたし達は炭なんだと思う」 「・・・え?」  時々、ドキっとさせられる。普段、何も考えていないようなカナが、不意にこういった哲学的なことを言い出す時がある。 「前に、なっちゃんが言ってたじゃない?恋は、錯覚だ、そして、交際は相手のボロを探すためにある、て」 「あ、ああ」 「それでね、男女の間では、やっぱり、価値観やお互いの体の事とか、あんまり理解できないでしょ?だからすぐにボロがでて、炎のように一瞬、ボッ、と盛り上がるけど、あっという間に消えてしまうの」 「ああ」 「でも、あたし達は女同士。価値観も似てるし、お互いの体の仕組みも理解できるし、男の人が踏み込んでいけない場所も、なんの抵抗もなく踏み込んでいける。だから、ボロは出難いの。もし、これが『愛』じゃないとすれば、炎ではないけれど、時としては炎よりも熱く、いつまでも焦がし続ける。だから、炭なんだと思うの」 (はは、参ったね。どこからそんな発想がでてくるんだか。でも・・・) 「じゃあ、私達のが愛じゃないっていうのなら、愛って、何なの?私達が感じているもの、これは、錯覚で終わっちゃうの?」 「・・・分かんない。愛って、なんだろうね。」 「普通のカップルが交わしているものと、どう違うんだろう。同じ、なのかな・・・?」 「でも、あたしがレズだと知ったら、少なくとも、違和感は感じるはずだよね」 「彼らは知っているのかな。愛は、何だって。」 「そもそも、彼らが交わしているものは、愛?本当に愛だって、思ってるのかな?愛に定義とかってあるのかな?彼らはその定義を満たしてる?それならなんであたし達は満たしてないように思われるのかな」 「分からない。きっと、不安なのかもよ。私達のが、愛って認めてしまったら、それまで自分達が培ってきた物を、全て否定、あるいは、改ざんされてしまうかも、って」 「そんなに不安定なのに、何で愛なんて言葉を作ったのかな。そもそも、愛って、この世に存在する言葉なのかな?本当は、誰かが意図的に作り出して、みんな、その暗示みたいなものに洗脳されているのかも知れない」 「愛という言葉を作った人って、実はとても罪深い人なのかもよ。性欲や独占欲とか、そういった欲求を体の良い形に作り変えて、それで、大義名分を立たせようとしたのかも」 「う〜ん、どうなんだろう・・・、分かんないよね、あたし達には」 「ああ。少なくとも、今は、ね」  ふと、シリアスだった彼女の顔がはにかんで、元の愛らしい顔に戻った。 「あ〜、なんでこう、ディープな話になっちゃったんだろう?」 「さぁね、日頃の疑問とか、ストレスが爆発したんじゃない、お互い」 「逆に、肩が凝ってきちゃったよー」  時計を見た。もう既に11時を回っている。 「さて、今日はこの辺にしようか。カナは明日、早いんだろう?大島君とのデートで」 「もう!ちゃんと断るって!行く事は行くけどさ・・・」  最後にチュッ、とキスをすると、一斉にガバリ、と起き上がった。 「あー、髪の毛、グチャグチャ」 「いいじゃない、どうせもう寝るんだし」  脱ぎ散らしたパジャマを手に取り、袖に腕を通す。ヒンヤリと冷たい。カナの温もりを奪われてしまったようで、少し、ガッカリだ。 (今度は、服を着ないで寝てみようかな)  各々、携帯のチェック等の諸事情を済ませると、またベットに潜り込み、電気を消した。  最初はカナにも寝室を用意されてたのだが、程無く、一緒の部屋で寝るようになっていた。 「今日は、なんだか疲れたな」 「うん。でも、たまにはそういうのもいいかも。悪くないよね」 「ああ、月並みだけど、悪くない」 「なっちゃん・・・」  カナは寄り添ってきて、私の胸に顔を埋めた。 「何よ、急に。寝苦しいでしょ」 「いいじゃん、たまには」 (まぁ、悪くない、か)  クーラーの設定温度を2度下げると、私もカナの体を軽く抱き寄せた。 「お休み、なっちゃん」 「ああ、お休み」  ヤキモチを焼いたクーラーがヴウゥ・・・・・・ン、と唸り声を上げたが、もう、そんなのは関係無かった。  カナを抱いた手の感覚が次第に薄れ、そうそう簡単には戻れないような夢の世界へと、誘われていく・・・。  最後に、カナの額に軽くキスをすると、そのまま、ストン、と落ちていった。     ―六月二十九日 日曜日―  カーテンの隙間から差し込む日の光に当てられて、現実に引き戻されたのが分かった。  体が湿っている。カナのヨダレが混ざっているのは置いといて、やはりこの季節、体を密着させて寝るには少々難があるらしい。 (やっぱり今度、裸で寝てみようかな)  胸に張り付いているカナを引っぺがすと、そのまま引きずって、食卓まで連れて行った。  朝食を済ませると、シャワーを浴びた(カナ優先)。そして部屋に戻ると、カナは既にお出かけ用に衣装を着飾っていた。  昨日より上着が一枚多いのは、若干、ガードを固めている証拠なのだろうか。  ちなみに、服は私のタンスを併用している。といっても、カナの服が大半を占めているが。 「それじゃ、いってくるね」 「しっかりやれよ」 「それはどっちの応援?」 「冗談だよ。相手のペースに乗せられたらダメだからね。断るときはスパっと断る!」 「あはは、できるかどうかわからないけど、できるだけがんばってみるよ」  そう言うとカナは手を振り、名残惜しそうに家を出て行った。 (昨日、たっぷりデートできてよかったな)  本当なら後をつけたいところだが、浮気調査をしている若妻みたいな惨めさを感じるので、さすがにそこまでには至らなかった。  カナを信じ、吉報を待つとしよう。  日が落ち、夜の帳が下りる間際の所で、カナは家に戻ってきた。 (なんだ、昨日の私達よりも早いじゃないか) 「お帰り、カナ。で、首尾は?」 「あ、うん、ちょっと・・・。とりあえず、夕飯食べた後でいい?」  そう言うとカナは、私の脇をすり抜け、部屋へ上って行った。 (こりゃ、ひと波乱あったかな?)  多少の不安と焦燥感はあったが、言われるがまま、夕飯を摂り終わるまで、その話題に触れないようにしておいた。   「それで、どうだったんだ?」  食後、部屋に集まって、密会を持ちかけた。ちなみに今日は、服を着ている。 「いきなり結果を聞くのも芸がないな。とりあえず、どんな所に行ったんだい?場所は昨日と同じなんでしょ?」 「うん、最初は、映画に行ったの。で、お昼にカレーをおごって貰って、その後はウインドーショッピングして、ゲーセンに行って」 (さすがは男の人といったところか。デートの上手さは二枚ほど上手だ) 「で、最後は?ちゃんと断ったの?」 「それがね、出来なかったんだ・・・」 (ほぼ予想通りの展開だな) 「ホント、あんたの押しの弱さには舌を巻くよ。それで、殺し文句とかはあったの?」 「それが、なんとなくそんな雰囲気になって、いつのまにか・・・」 「いつのまにかは聞き飽きた」 「だって、色々雑学とかあって、すごく面白くて、それで、『今日は楽しかった?』て聞かれたから、思わず、うん、って・・・」 「それで断り辛くなって、ズルズルいっちゃったわけ?」 「・・・ごめんなさい」  カナと付き合って以来、最大級の頭痛が押し寄せてきた。 「でも、まだ付き合うとは言ってないだろ?」 「うん。なんだか向こうも、今日はあたしと遊べて良かった、とか、気が晴れたよ、とか。んで、またいつか遊びにいこうな、って」 (あんた、それって・・・) 「間違いない、あんた、本気で狙われてるよ」 「え、なんで?」 「考えてもみなよ。男が何の下心も無く、女を遊びに誘うわけがないだろう?」 「そうかな・・・。あたしは、友達として、って思ったんだけど」 「そう思い込ませて自分のペースに引きずり込むのが、男ってもんなんだよ」 「うーん、考えすぎだと思うけど・・・」 「とにかく、一度キッパリ断りな。男ってのは単純だから、断られないといつのまにか付き合ってるって思い込んじゃうからね」 「うん、何とかしてみるよ・・・」  表情に影を落としたカナを気遣って、ポン、と頭に手を乗っけた。そうしたらまたいつもの顔に戻ったので、ちょっと安心した。  ピッとリモコンで部屋の明かりを消した。急な明暗の変化に目が追いつかず、隣にいるカナの顔すらも見れなくなってしまった。 「明日は、一時間目が体育だから、早めに起きないとな」 「うん・・・」 「・・・まだ、気にしてる?」 「え?・・・ううん、多分、大丈夫」  その言葉を聞いて、手探りでカナの体を見つけると、そっと抱き寄せた。  今日は少し気温が低いせいもあって、クーラーは活動していない。 (今日は変な横槍が入らずに眠れるな)  カナの耳元で小さく「お休み」とささやいて、夜の闇を体に染み込ませていった。         ―2―      ―六月三十日 月曜日―  暗闇が広がる眼前に真っ白な光が差し込み、一日の序幕が開いた事を告げられた。  ベットから腕半分を投げ出しているカナを押しのけ、カーテンを開けた。 (最近は、よく晴れるな・・・)  突如雪崩れ込んだ光線に耐え切れなくなったのか、か細い唸り声を上げて、カナは目を覚ました。 (時間は、・・・7時3分。これなら余裕だな)  寝ぼけるカナを連れ、食卓へと赴いた。  今日の一時間目は体育だということで、いつもより余分に食事を摂ると洗面台へ向かった。  本来ならこの季節、シャワーにでも浴びたい所だが、一時間目の事を考えて手短に仕度を済ませた。浴びても無駄手間だからだ。  カナがまだ鏡の前で奮闘しているのを横目に、自分の部屋に戻ると、カバンに教科書を詰め込む。ついでにカナの分もセットすると、カナが戻ってきたので、一緒に着替えを済ませた。  家を出ると、まず時計に目を落とした。 (7時52分、十分だ)  体育着に着替える時間を差し引いても、まだ往復出来るほどの時間は残っていた。 「あー、一時間目の体育って、正直、マジでキツイよねー。もう最悪」  カバンを振り回しながら、カナは言った。 「確かにね。ただでさえ体育後の授業はキツイのに、一時間目からなんて、その日一日が憂鬱になるよな」 「だよねー、マジで。てかさ、ちゃんと考えてんのかな?普通、ありえないよね?」  よほど憤慨しているのか、一層カバンを激しく振り回した。  規律と統率を重視した構造。そして、生徒の自主性を真っ向から否定しにかかるそのスタイルが、私が学校を監獄だと錯覚する所以だと、つくづく思う。  あれは駄目、これも駄目。生徒に許されるのは、あくまでも、教師の敷いた数本のレールを選択することしかできない。そして、その選択をする事が自主性だと勘違いしている。  全く、救い難いものである。  体育後の地獄の3時間を乗り越え、ようやく休息を貰うと急いで屋上へと駆け上った。 「あー、マジ、しんどい」  口にくわえた箸を上下させ、カナは言った。 「今日はカナの苦手なバスケだったからな」 「ホント、あたしゃそういう肉体系なスポーツって、マジで苦手・・・」 「でも、ほとんどボールを持っていなかったからそんなには動いてないだろ?」 「そうでもないよ。パスが来ないように、いっつも端っこをキープしてるんだから」 「はは、あのドリブルじゃ、逃げたくなるな」 「そ、そんなにひどい?」 「ああ、まるで腰の弱い婆さんが這い回る ゴキブリを杖で突き殺そうとしてるみたいだったよ」 「そ、それは言いすぎだよ!」  そう言われ、想像して見たが、体をくの字に曲げ、動き回るボールを夢中で叩き回る姿は、まさにそれそのまんまだった。 (我ながら上手い比喩だったな)  雑談をしながら食を進めていると、屋上に新たな人がやってきた。  ワックスで固めた茶髪にピアス、ちょっと小麦掛かった肌を胸の開けたYシャツから覗かしている、私より若干背の高い男だ。 (どっかで見たことあるな、この男・・・) 「大島くん!」 カナは立ち上がり、そいつをそう呼んだ。 (・・・!そうか、あいつが) 「行ってきな。ちゃんとケリつけんだよ」 「う、うん。がんばるよ・・・!」  そう言うとおずおずと近寄っていった。私も心持ち乗り出し、敵の出方をうかがう。 「こんちゃっス!教室に居ねぇからどこ行ったのかと思ったら、ここでメシ食ってんのな」 「うん。で、昨日の事だけどー」 「ん?ああ、昨日はサンキュな。マジ、結構うれしかったんだぜ?」 「うん、それでね、あの、付き合うとか、そういうのはまだちょっと・・・」 「あ?ああ、そんなん、全然OKよ?なんかさ、一緒に遊べるだけで、もう満足」 「そうなの?」 「ああ、なんつ〜の?女トモダチ?ほら、あんまり男ってさ、女の子と遊べねえじゃん?妙に噂たっちまって。でもさ、樋口って、色々友達ネットワーク張ってるからさ、他の人とも遊んでるように思われてるし、俺みたいのが居てもいいんじゃね〜かって思ってさ」 「な、なんか、それじゃまるで・・・」 「あ、言い方悪かったな。別に樋口が遊んでるとかじゃなくてさ、ただ、普通に、樋口の男トモダチにして欲しいっていうか」 「うーん、まぁ、あたしは構わないけど」 「マ、マジで!?やっべぇ、超うれしいし!」 「あはは、そ、そんなに?」 「いやさ、樋口って、結構人気高いんだぜ?だからさ、トモダチになれるってのは、男として本望なわけよ」 「はは、なんだかねぇ・・・」 「ま、そういうのはいいか。んじゃ、またヒマんなったら誘いにいっから、そん時はヨロシクな!」 「うん、それじゃ、あたしまだお昼中だから」 「そっか、悪ぃ、じゃぁ、またな!」  そう言うと男は、怒涛のように屋上から姿を消した。 「ごめーん!遅くなって」 「いいよ、別に。で、どうだったんだ?」  横で聞くつもりだったのだが、予想以上に離れてしまったので、十分に聞き取れてはいなかった。 「うん。なんか、友達のままで満足だってさ」 「・・・それだけ?」 「うん。あの人、女友達居ないから、あたしならなってくれるんじゃないかって」 「カナは色々な人と話して回ってるからな。その中の一員になりたいってことか」 (それにしても妙に気にかかるな。ヤキモチ?・・・まぁ、今の所は様子見、ということにしておこうか)  また二人で少し冷めた弁当を食べ終わると、我々も屋上を後にした。  午後の授業もクリアし、重い体を引きずってまっすぐに家に帰った。  カナは着替えた後すぐに居間に駆け込み、テレビに噛り付いた。私はそのまま自室に残って、ベッドに横たわった。  午後の授業は選択授業で、カナとは別々の教室になった。そこで、運良く大島の噂を色々聞き出す事が出来たから、それを整理して考えてみようと思ったからだ。  本名は大島 優(おおしま まさる)。軽音楽部副部長で、性格は温厚&明朗。気が利いていて、スポーツは人並み以上、勉強は人並み以下。副部長ということから、人望が厚く、そこそこ責任感がある所は察せられる。 (意外とまともな奴だな、表向きは)  叩けばホコリが出そうな所は一杯ある。なんにしろ、これで戦うべき相手の姿が段々浮かび上がってきたように思えた。    夕食を終え、各自、諸事情を済ませると、また部屋に集まり、ドアの鍵を閉める。  それを合図に、両者とも服を脱ぎ始めた。  ここの所、二〜三日に一回のペースでしている。冬場は、それこそ毎日してもいいくらいなのだが、夏場は、例え冷夏だといえども、連日連夜は辛いので、間を空けている。  ベットに雪崩れ込むと、とりあえず始めに軽く、チュッ、とキスをした。  今回のネタは決まっている。カナがどこまで大島の情報を持っているか、私の知らない情報を引き出せるか、延いては、カナがどこまで大島に好意を寄せているかを探るのだ。 「カナさ、大島の事、どう?」  実にストレート且つ広範囲に探りを入れてしまった。これじゃ逆に、 「んー?結構、良い人みたいだよ」 と、またあやふやな答えが返ってくるわけだ。 「いやさ、あんまり大島の事知らないんだ、私。でさ、カナ、何か聞いてない?」 「え?んー、特にないなぁ・・・」  なんだか、浮気している夫に探りを入れてるような気分になってきた(実際はほとんどそうだが)。早くも、惨めさに負けそうだ。 「あ、彼、前に大学生の人と付き合ってたんだって。最近フラれちゃったみたいだけど、彼って大人っぽい人が好みなのかなぁ?だったら、なっちゃん、危ないかもよ?」 「そ、そんな馬鹿な!」  逆にこっちが揺さぶられてしまった。 (この話はもう止めよう・・・)  あっけなく敗退した私は、潔く話題を変える事にした。 ・・・・・・・・・・。  半ば強引にキスをしたために、次のネタの手掛かりが無くなってしまった。何分、前の話題が話題なだけに、いきなり「あのタレントはさぁ」なんて切り出すのは考えものだ。 (前は何を話したっけ?テスト、お菓子、体育、告白・・・。そうだ!) 「そういえばさ、カナ、告白したよ」 「え?あ、この前の続き?」 「ああ、ちょっと告白かどうか微妙だけど」 「んー、そうだっけ?」 「ほら、初めてキスしたとき」 「あ、あの時!」 「ああ、1年生の夏だったよな」 「うんうん!帰り道、急に夕立が来て、雨宿りのために、近くの神社に行って」 「それで、妙な雰囲気になっちゃって」  静かで、誰の声もしない。木々の揺れる音も、車の通る音も、あらゆる音が雨音に飲み込まれて、そこはまるで、世界から切り離された孤島のように、ひっそりと佇んでいた。体中を湿らした女性2人を背中に乗せて。 「あの時は、誰の声も、温もりも感じなくて、二人きりだった」 「うん、だから、変に大胆になっちゃって」 「ああ。いきなり『キスしてみない?』って言われて、相当びっくりしたよ」 「でも、なっちゃんはさせてくれた」 「何か、イキオイでね。しかし、なんであのタイミングなんだ?」 「ほら、水も滴る〜、てよく言うじゃない?それで、格好良いなぁ、て」 「だからって、そんな事言うか?普通」 「冗談のつもりだったんだよぅ」 「その時は、本気じゃなかったんだな?」 「キスした時、ギュッて抱いてくれたじゃない?」 「ああ、あまりにも不恰好に背伸びするもんだから、思わず手が出ちゃって」 「それで、抱き締められて、キスした時、こう、キちゃったんだ、背筋が、ビビって」 「水に濡れてたから、私も、感電しちゃって」 「離れるのが勿体無くて、ずっと、雨が止むまで、抱き締め合ってた。」  今思えば、どこかの歌手のプロモーションビデオのような、実にロマンティックな光景だった。 「それでカナが言ったんだよな」 「うん。『あたし、なっちゃんが好きになっちゃったかも』って。」 「普通だったら、『あんた馬鹿?』で済ませるはずだったんだけど、私も好きになって」 「不思議だったよね、ホント・・・」  偶然からなる、一瞬の錯覚。私達は、同時に、錯覚に陥った。  二人きりしか居ないその世界で、信じられるのも、温もりを感じるのも、目に見えるものも、全て、カナと私しかなかった。  神はきっと、新たなアダムとイブを作り出す為に、その世界を作り出したのだろう。しかし、皮肉な事に、その世界に現れたのは、二人のイブであった。更なる皮肉は、神の作り出したその世界に酔いしれ、その二人を恋に陥れさせてしまったのだ。  運命の悪戯というには、あまりに出来過ぎた話である。しかし・・・。 「カナは、まだ感じる?」  私はカナの背中に手を伸ばし、あの時と同じように、ギュッと抱き締めた。 「うん・・・。まだ、痺れてる。それとも、バカになっちゃったのかな?」  本来のシナリオなら、二人は知恵の実を食べ、その世界から追い出されてしまうはずだったのに、私達はその期待を最後まで裏切り、その実を食べなかった。食べずに、その世界に居続ける事を望んだのだ。友人も、親戚も、母親すらも知らない、誰も立ち入る事の出来ない、禁断と言われたかの地に。  神は、それを許してくれるだろうか・・・。      ―七月一日 火曜日―  目覚ましの音に慌てて起きると、いつもの調子でカーテンを開ける寸前で留まった。  よく見たら、昨日は何時ぞやの希望通りあのまま眠ってしまったので、パンツ一枚しか履いていない。危うく、近所の皆さんにセミヌードを披露してしまいそうだった。  せっかくだからカナを起こし、制服に着替えて食卓に下りたら、普段はパジャマでの登場がセオリーなので、母は酷く驚いていた。          だが気にせず朝食を取り、家を後にした。    昼休み、私達はいつものように屋上に赴いた。弁当持ちの特権だ。  どうせ今日もまた大島が来るのかと思ったが、考えが甘かった。マンネリは如何なる戦術においてもご法度だ。  襲撃は昼食を終え、選択授業による教室移動時に決行された。奴は、カナが一人になった時を狙ってきたのだ。  偶然大島を捕捉できた私は、追尾し、その出方をうかがった。先の名誉挽回だ。  大島はカナの教室へと歩を進めていた。しかし、大島と私は同じクラスだが、カナとは違っていた。つまり大島がカナの方へ進む事は、通常あり得ない事なのだ。  なのに大島は、さも当然の如く、カナの行く方向へと向かっていった(正確には先回り)。   そして目的地についたらその辺りをウロウロしだし、程無く、カナと遭遇した。 「お!ちっス樋口!偶然だな」 「あ、あれ?大島くん?確か、なっちゃん、あ、沢村さんね。その、なっちゃんと同じ教室じゃなかったの?」 「え?あ、ヤベ!勘違いしちったわ。ははは」 「あはは、大島くんって結構抜けてんだね」 (ふっ、よく言ってくれるじゃないかアイツ) 「へぇ、樋口って、漢文なんかやるんだな」 「意外?」 「ああ、もう超意外!ヤッベェ!」 「へへ、なっちゃんにもよく言われるんだ」 「なっちゃんって、昨日、隣に居た子?」 「そうだよ。格好良いでしょ?」 (なに言い出すんだあのバカ) 「ああ、なんかモデルっぽくていいよな」 「でしょー、鼻が高いよ、あたしゃ」 「でもさ、樋口も、結構イイ感じだぜ?男子の人気投票は、樋口が一歩リードしてる」 「なにそれ?そんなのあんの?」 「ああ、男子が好みの女子に投票すんだ」 「なんだか、ビミョーな気分」 「そう言うなって。相当ランク高いんだぜ?樋口って。それだけ好かれてんだよ、皆から」  カナは複雑そうに眉間にしわを寄せた。何を考えてるかは、大体分かる。  場の沈黙に耐え切れず、大島が口を開こうとした所で、開始5分前の予鈴が鳴り響いた。 「あ、ヤッベ!んじゃ、俺はこれで行くわ!」  またな!と言うと、すごすごと退散した。  手を振って笑顔で見送るカナ。だが、大島が見えなくなると、またしわを寄せた。  男に人気がある、という事は、周りの男からどんな目で見られているのか分かったもんじゃない、という事だ。 (どうしてか私も人気があるみたいだから、気を引き締めねば・・・)  そう心に言い聞かせ、私も教室に戻った。  放課後、情動に駆られて、またあの神社に訪れた。カナは別の友人の所で遊んでる。  二年経ったのに、何も変わっていない。あの世界のまま、ここに在り続けている。  ここから、二人の物語が始まった。それとも、ここは異性愛者(ヘテロ)だった私達の、終わりを告げた場所かも知れない。ここに居たいがため、普遍的な流れから乗り損ねてしまった。  それは、私達が溢れてしまったと言えるだろうか。私達は、これから手に入れるであろう何かをかなぐり捨ててしまったのか。それとも、彼らがそれを手にするために捨ててしまった何かを、未だに持ち続けているのか。  私達は、今、何を持っているのだろう?何か、持っているのだろうか・・・。  手のひらを前に掲げて見つめてみる。  薫風が、叢がる緑をさざめかせ、零れた日差しに、淡く滲んだ。  私はその手をギュっと握った。 何を掴んだのか、何を手に入れたのか、何を手放したのか、私には、分からない。  でも、私は居る。ここに、居る。  それだけで十分だ。それだけが証明だ。  しばらく感傷に浸っていたかったが、もうじきカナが帰路につく頃だ。結論は後回しにして、一旦、この場から離れることにした。 (いつか、必ず・・・) 「あんたって、ほんと、モテルよね。男にも女にも。」  クーラーが同意したかのようにヴウゥ・・・・・ンと相槌を打った。 「あ、一緒に帰んなかったの、怒ってる?」 「ふふ、違うよ。」  ガシャガシャと湿った髪を拭う。カナもそれに習った。ちなみに、今日はNON‐SEX DAYだ。 「いや、ちょっと、感傷に浸っちゃってさ」 「ん?なんでー?」 「神社に行ってきたんだ。久しぶりに」 「ああ、あの?そういえば、あたしもあれ以来、行ってなかったなぁ・・・」 「帰り道や商店街とは方向が違うからね。あの時は、他に雨宿りする場所がなかったから、たまたまだったんだよ。」 「あの神社、お祭りとかしないからねぇ」  そう考えると、益々、偶然というものの魔力が真実味を増してくる。  あの時、雨が降って、近くに神社があって、そこは二人きりで、偶然、カナが私にときめき、偶然、私がカナにときめいた。それ以前に、私がカナと出会い、私があの事件に遭い、カナがそれを聞いていて、私を男嫌いだと認識していて、あらゆるファクターが偶然にも一斉に起動して、ようやく、運命の歯車が回りだしたのだ。 「運命って、不思議だね」  私は、人類最大の謎をポツリと投げ掛けると、ボフン、とベッドに飛び込んだ。 「でも、例え運命が決められていても、私達にはそれが分からないから、面白いし、生きていく価値を感じられるんだよね」 「なっちゃん?どうしたの、急に」 「何でもなーい」  自分でも今日はおかしいと思ったが、妙に気分がいいので、このまま、眠りに就いた。      ―七月二日 水曜日―  ジリリリリリリリ・・・・・・。  目覚ましの音がヤケに頭に響く。とりあえずいつものようにカーテンを開けようとしたが、頭がフラフラして足元がおぼつかない。 (こ、これはまさか・・・)  ようやくカーテンに辿り着き、開いたはいいが、そのまま崩れ落ちてしまった。  その音に驚いて、カナは目を覚ましたのか(目覚ましで起きないのもどうかと思うが)、私を見て驚き戦慄いた。 「ど、どうしたのなっちゃん!?顔が真っ赤だよ!?」 (・・・え?カオガマッカ?)  その意味を、一瞬、掴み取れなかった。 「あ、あたし、体温計持ってくるね!!」  カナはよほど慌てたのか、壁やタンスに体当たりしながら階段を駆け下りていった。  私はとりあえずベッドに戻ろうと、重い体に鞭打って、ギシギシと起き上がり、ベッドに辿り着くと、またドサリと崩れた。 「・・・39・1℃か。大熱だな」 「学校は?」 「行ける訳ないだろ、バカ」 「ご飯は?」 「今は食べる余裕がない」  カナはまるで主人を気遣う飼い犬のように、私の周りをウロチョロしていた。 「あんた、早く支度しな。遅れるよ」  そう言ってカナをなだめた。支度の最中も頻りに振り返り、私の顔色を伺った。その仕草が、また一段と愛らしい。 (夏風はバカしかひかないというが・・・) 「なんであんたじゃなく、私なんだろうね」 「んー?何?」 「何でもないよ。ほら、遅刻するよ」 (とはいえ、成績は私とほぼ同等なんだよな)  カナは、普段は抜けているように見えるが、その実、クラスで十本の指に入るほどの学力なのだ。前回のテストでも、私は総合六位、カナは八位だった。 (能ある鷹はなんとやら、といったところか)  しかし、こんな時に風邪をひいたのは、非常にタイミングが悪かった。 (ようやく大島の実態が掴めてきたってのに、こんな所で足止めを食らうとは)  そう考えただけで、頭がクラクラしてきた。 (とりあえずは、治す事が先決か)  カナが心細く部屋を出て行くのを見送った後、鉛のように重くなった頭を枕に沈ませた。  色々雑念が混じってきたが、熱の力には及ばず、あっという間に意識が遠退いていった。  午後、カナはいつもより幾分か早く家に戻ってきた。  まるで四速歩行の動物のように階段を忙しなく駆け上ってきた。そして、廊下の途中でドサリと倒れる音。壁の向こうにいるカナの様子が手に取るようにわかるのが、すごい。  程無くして、ドアが重々しく開かれ、沈痛な面持ちのカナが姿を現した。 「た、ただいまー」 「お帰り。大丈夫だった?」 「それは、あたしが言う予定だったのに」  右膝を摩りながら言った。 「それで熱は?下がったの?」 「ん〜、大体37・5℃前後。まだまだだね」 「そっかぁ。明日は?学校行けそう?」 「さぁね、ちょっと分かんないよ。無理に出て行って、余計に悪くなるのもあれだしね」  本当は無理にでも出たい所だが、如何せん、テストが近いのでそうも言ってられない。 「そういえば今日、大島くんに会ったよ」 (・・・!・・・またこの子は、人が危惧している事をダイレクトに言い放って) 「それで、どうしたの?」 「うん。すごく心配してたよ。今まで休んだ所、見たことなかったのに、って。ほら、なっちゃん、彼と同じ教室でしょ?だから・・・」 (全く、目敏いというかなんというか) 「それで?」 「そこまで送ってもらって、それでお終い」 「何で送ってもらう必要があるんだ」 「え?さぁ?一人じゃ寂しいだろうから、せめて俺が・・・、って言ってついて来たの」 (良い所見せてポイントUPてか?それとも、本当に良い奴なのだろうか?・・・判断材料が足りないな) 「ま、いいか。俺の体で慰めてやるよ、とか言われるよりはね」 「な、なっちゃん?」 「あ、はは、は」 (やっぱり、ちょっと熱が残ってるな)  夕食に軽くうどんを食べると、また部屋に戻った。そのまま、電気を消す。  本来なら、すぐにお風呂に入り、私の部屋に集合するのだが、今日は私の体調を配慮して別々の部屋で寝るようにした。カナは、以前使っていた隣の部屋に寝ることになった。  ボフン、とベッドに倒れ込んで、大の字に体を伸ばす。  こんなに伸び伸び出来るのに、寂しくて仕方がない。手を、足をどんなに伸ばしても、虚しく空を掴むばかり。 (早く寝よう。早く、早く・・・)  明日が恋しいなんて思ったのは久しぶりだ。羊を数えるようにそう念じ、一刻も早く、夢に陥る事を切望した。 (早く、早く、早く・・・)      ―七月三日 木曜日―  ジリリリリリリリ・・・・・。  目覚ましの激しい叫びが耳をつんざく。時間を知らせるのがこいつの唯一無二の仕事だ。  リリリリ・・・・・カチッ。  これで今日の仕事はお終い。お疲れ様。  体の試運転代わりにカーテンを開けることを試みた。が、体に力が入らない。どうやら、今日も調子は悪いらしい。  それでもなんとかカーテンを開けると、そのまま、カナを起こしに行く。まず、起きてはいないだろうからだ。  重い体を引きずって隣の部屋を目指す。昨日が鉛なら、今日は差し詰め、錆びついたポンコツだ。  ギシ、ギシ、ギシ、ギシ。  もはやこれは、床が軋む音なのか、体が悲鳴をあげる音なのか、区別がつかなかった。  それでも何とかカナの部屋に辿り着いた。 「カナー、おはよー」  だがそこにはカナがい・・・居た。部屋の中央の布団の上には居なく、はるか遠くの、私の部屋の方の壁に張り付くようにして(何故か布団ごと)、寝っころがっていた。 (これは・・・。寝ぼけてか?狙ってか?寝相が悪いからか?)  何にせよ、とりあえずカナを起こす事にした。大声を出すとこちらにもダメージがくるので、体を揺さぶって起こす。 「カーナー、朝よー」  カナの体を揺さぶる。と同時に、こちらも揺れていた。傍から見れば、微笑ましい光景なのだろうが、こっちは命がけだ。 「んー?あ、なっちゃん。おはよう・・・。」  散々揺さぶられ、ようやく、目が覚めた。 「あれ?熱は?もういいの?」 「まだまだだよ。今日もダメだね・・・」  言葉の通り、もう既にポンコツは燃料切れでスクラップ寸前だった。なので、カナの肩を借りて、自分の部屋に戻ることにした。 「カナ、温度計をとってくれ」  ポンコツが人間様を指図する。実に滑稽だ。 「・・・37・8℃。まだ学校は無理か」 (今日は木曜日か。明日と来週一杯でテストか、ちょっと厳しいな) 「大丈夫?」 「ああ、あんたも、早く支度しな」  昨日と同じく、カナは振り返りながら支度をする。私のせいで、今日は朝食抜きらしい。 (カナには迷惑を掛けっ放しだな。熱が冷めたら、たっぷり甘えさせてやるか)    午後、カナは少し遅く帰ってきた。といっても、いつもと同じくらいだが。  今日は慣れたのか、別段、慌てる様子も無く、テンポよく階段を上がって来た。 「ただいまー!」 「お帰り。今日は少し遅かったじゃないか」  カナはおもむろにカバンの中を探り、プリントの束を取り出した。 「はい、これ。休んだ授業の。色んな所で集めてたから、時間がかかっちゃって」 「あ、ありがと・・・」  こういうやけに気が利く所が、カナの良い所だ。思わず、惚れ直してしまう。  ペラペラと目を通していくと、中には選択授業の分も・・・。ちなみに、カナとは一つも授業が重ならなかった。 「カ、カナコさん?これって・・・」 「あ、それ?それは大島くんが貰っておいてくれたんだよ」 (この馬鹿正直な所が、カナの悪い所だな)  それにしても、大島がいやに私を気遣うのが気になった。将を射んとせば先ず馬を射よ、ということか?だとしたら、侮れない。  もし仮に、何時ぞやにカナが言った、大島は大人っぽい趣向が好みで、実は私に気があったとしたら、・・・ぞっとしない。それは考えから外しておこう。  夕食後、久々に、カナは私の部屋に居た。夕方に体温を測ってみたら36・7℃と平熱に戻っていたので、油断は出来ないが、とりあえずは大丈夫だろうと判断したからだ。 「明日は、学校に出られるといいな。いくら何でも、そろそろ危なくなってくる」 「普段は、こんなの出るほどの授業じゃないー、とかブーたれてたのにね」 「うるさいな。学校のテストってのは、大半が暗記だからな。実力でどうこうできるってもんでもないんだよ」 「あー、いかにも自分に実力があるみたいに言ってー。それって自慢?」 「かもね」  カナは、グーと塞ぎ込んでしまった。  しかしこうして話していると、本当にカナが愛しく感じてくる。思わず抱きつきそうだ。 (案外、甘えたかったのは私の方かもな) 「お休み、カナ」  今日は昨日とは違い、同じ部屋の中に居るカナにその言葉は発せられた。しかし、微妙な高低差はある。  私はベッドに、カナは下に布団を敷いて寝る事にしたのだ。いくら熱は下がったとはいえ、一緒の布団に寝るのはまだ危険だ。それを配慮した処置である。  それに、明日はカナが家に帰る曜日なので、今日くらいは、という感情もあった。 「明日は寂しくなるな」 「へー、なっちゃんもそういう事言うんだ」 「悪い?」 「全然、うれしいよ」 「そっか」  やっぱりカナと一緒に寝なかったのは失敗だったかもしれない。キスをしたい、体に触りたい、襲い掛かりたい。  その衝動を抑えつつ、ムラムラさせながら、何とか意識を途切れさせる事に集中する。 (カナ、明日は覚悟しておけよ)  心の中でそう言い残すと、ポサリと体をベッドに沈ませ、深く、潜っていった。     ―七月四日 金曜日―  うっすらと目の前が白んで、眩しい。どうやら朝のようだ。  凝り固まった筋肉にムチを打ち、ギギギ、とまぶたをこじ開けた。  いつものように体を起こし、カーテンを開けようとベッドから降りようとしたのだが、カナがベッドの横に貼り付いていて、危うく踏みつけてしまう所だった。  カーテンを開け、カナを揺り動かす。 「カーナ、朝だよー」  昨日とは打って変わって、今日の体調は万全だ。なので、張り切ってカナを揺さぶっていたら、思わずカナの頭をベッドの足にガツン、とぶつけてしまった。 「痛ぁ・・・。あ、なっちゃん、おはよー」  頭を抑えながら、ムクリと起き上がるカナ。 「寝てる時に頭ぶつけたのかなぁ?あたしゃ、寝相悪いからねぇ・・・」  そう言っておでこをさする。  その手を払いのけて、おでこにキスをしてやった。本来なら、昨日の欲望を満たすために、起きた途端に抱きついてキスの嵐をお見舞いする気だったが、後ろめたさから少々遠慮してしまった。   「いってきまーす!」 「いってきます」  勢いよく飛び出すカナと憂鬱な私。  今日はもうカナと家で一緒に過ごせないというのもあるが、何よりも大島だ。  不本意ながら、奴に借りを作ってしまった。いくらなんでも、礼の一つでもするのが筋というものだ。全く、自分が不甲斐無い。    昼休み、案の定、大島は屋上にやってきた。 (こいつは・・・。私が居なかった時も、こうしてカナと出会ってたのだろうな) 「ちーす、カナコちゃん!お、今日はお友達と一緒か!良かったな」 (・・・!いつのまにか名前で!?・・・侮れん奴だな!) 「あ、大島くん!ちわー!ほら、なっちゃん」  カナに肘で小突かれた。 (ちっ、しょうがないな、まったく) 「あ、選択授業のやつのプリント、ありがと、助かったわ」 「いいっていいって。カナちゃんの友達は、俺とも友達、ってやつ?」  ははは、と気さくに笑った。私も、なるべく自然に笑うよう気をつけた。 「んで、ちょこっと、お願いがあんだけどさ」  そう、大島が投げ掛けた。 (何だ?売った恩の借りを返せってか?) 「今度の日曜、また、カナコちゃんを貸して欲しいんだ。・・・ダメ?」 「なっ!」 (そうきたか・・・。何て周到な奴だ)  私はカナを見た。何というか、我、関せず、といった顔をしていた。 (判断を私に委ねた、という事か?) 「大丈夫なの?再来週はテストでしょう?受験にも響くわよ?」 「ヘーキだって。それに、息抜きも大切なんだぜ?カナコちゃんも、たまには羽根を伸ばしたいって言ってたし」 (あんたって子は、つくづく・・・) 「分かったわ。でも、早く帰してあげてよね」  打つ手が無くなり、無条件に、降伏を宣言した。決め手は味方の自爆だ。呆気無い。  私に、「私もカナと一緒に行く!」なんて図々しさがあれば良かったのだが、生憎、そんな度胸は持ち合わせていなかった。  恋愛は戦争だと言うが、私は自分のが恋愛かどうかも自信が持てず、もしそうだと自信が持てても、先陣切って敵中に突っ込んで行く勇気は無い、根性無しのヘナチョコ野郎に成り下がってしまった。 (い、今に見ていろ・・・!)  心の中の負け犬が、頻りにそう吠えていた。・・・情けない事、甚だしい。    放課後、久々に商店街を徘徊した。  考えてみれば、一週間ぶりだ。それほど魅力の無い場所なのだろう。  それでも、カナとの猶予期間を過ごすには十分な場所である。  肉屋の前を通れば、滑稽なマスコットを笑い飛ばし、八百屋の前を通れば、そろそろスイカの季節だと喜びの声を上げ、コンビニで雑誌やお菓子やアイスを買い、ケラケラ笑いながらそれを消費する。  そんな他愛も無い時間が、何より大切だと、最近は、常々思うようになってきた。  もうすぐ受験だ。今でもその兆しがちらほらしているのだが、やはり段々、勉強に時間を蝕まれているように感じてきた。  夏が終わり、秋を越えて冬に入れば、明るく春を迎えるために、それこそ、鬼気迫る形相で机に噛り付いているだろう。  今はただ、時間を浪費する事の悦びに身を委ねるとしよう。  カナと別れた後、一直線に帰宅する。そして、淡々と日頃の作業を終えた。  やはり家に人が減ると、何ともいえない虚しさがある。もはや、何もする気が起きないし、何をすればいいのかも分からない。  カナと居る時と居ない時では、自分でも、自分が別人のように感じる時がある。カナが居ないと、自分の中にあるトゲが剥き出しになり、何に対しても弾劾し、批判したくなる。  いや、以前の私と同じか。  カナは私にとって、止め処無く溢れてくる他者、他物への不安、不満、不審といった負の激情、その大元となる、ポッカリと空いた心の穴を埋める、重要なパーツなのだろう。  それは既に、無くてはならないもの、有って当然というほど、強大なものになっていた。  それと共に、私の心の穴もまた、塞いでくれるカナに任せっきりで、すっかり、閉じる事を忘れてしまった。  このまま起きていても、空いた穴からザバザバ噴出してくる激情を抑える事が出来ないので、さっさと寝てしまう事にしよう。      ―七月五日 土曜日―  ・・・朝だ。最近は日の光を体に浴びて喜びを感じる事が多くなった。  今日もまた然り。  勢いよくカーテンを開けて光を部屋中に掻き込むと、背伸びして体から眠気を飛ばした。  今日はカナと勉強会だ。さすがに最近は遊び過ぎたし、風邪で休んだ事もある。そろそろ本腰を入れてやった方がいいだろうとカナを説得し、そのように取り決めた。 (本来なら、日曜にしたかったんだけどね)  どこぞの馬鹿たれが、大切なテスト前の休日を奪ってくれるもんだから、予定を大きく変更されてしまった。 (今度、あいつの成績の事で罵ってやるか) 「ただいま〜!」  十一時を回った頃、カナは家に戻った。  この家に来たばっかりの頃は、「お邪魔します」とかいって、申し訳無さそうにおずおずと入ってきたのに、今ではもう自分の家と何ら変わらない対応だ。 (思ってみれば、もう随分経つんだなぁ)  カナを出迎えると、冷蔵庫からアイスティとポッキーを取り出し、部屋に運ぶ。  その間にカナは、母に何かお土産を手渡して軽く世間話をしていた。 「あー、やっぱり、こっちの方が落ち着くね」  部屋に上がるなり、カバンをベッドに放り、自分もベッドに寝転がって手足を投げ出した。 「なんか、滑稽な話だよな」  カナを見ていると、可哀想になってくる。向こう(カナの家)の方が、何倍も過ごした時間が長いはずなのに、たった二年しか住んでいないこの家の方が、息も詰らなく、安心できるなんて、本当に、馬鹿げた話だ。  私と出会う前から、きっとそうだったんだろう。そう考えると、学校での人当たりの良さや明るさは、寂しさや、甘えたさの裏返しのような気がしてならない。  私もカナをつい甘やかしたくなるが、今日は心を鬼にしよう。 「さぁ、カナ、覚悟を決めて勉強だ!」 「うげぇ〜、もうちょっと休ませてよー」 「ダーメ。ダラダラやってると、いつまで経っても始まらないよ」  渋々と腰を上げるカナ。いきなりは、少し可哀想だったか。 「後でケーキがあるから。とりあえず始めよ?勉強した後の方が、きっと美味しいよ」 「ケーキ!!」  カナは机(部屋の中央のテーブル)に飛びついた。何だか、子供をあやしているみたいで、自分でも可笑しかった。  カリカリカリカリ・・・・・。  物を書く音は、意外と響くものだ。既に、部屋の中は、その音に支配されていた。  部屋の中に、TVやラジカセ等の、別の音を発する要素が無いのが拍車を掛けて、妙な沈黙が充満していた。 「・・・ねえ、カナ」 「んー?」 「そこ、間違ってる」 「あー、ホントだ」  ・・・・・・・・・・。  やっぱり腐っても鯛だ。クラスでも上位に入るだけはあって、一度ペンを持つと人が変わったように物静かになり、熱心に勉強し始める。  それでも私に勝てないのは、私よりも二つも試験科目が多く、それに追われるからだろう。真面目に基本科目だけで争えば、向こうの方が上手かもしれない。  ちなみに、カナは文系、私は理系だ。  選択授業も違い、カナは漢文や国語表現等が主体だが、私は科学や数学等に加えて、家庭科や余分に体育といった、実技教科も取っている。  それでも、狙っている大学が同じだというのが面白い。  私達が狙っているのは、人間関係をあらゆる方面から研究する学部なので、それこそ、何を専門にしても、有効に活用できる。言ってみれば、受験科目なんてのは、好みに合わせた教科を選択すればいいだけの話なのだ。  やはり、やらされるよりは、やっている方が身につくのだろう。  結局、夕方までろくに休憩もせずに、ぶっ続けで勉強してしまった。 (私の方が、逆にしごかれてしまったな)  夕食も手早く済まし、また部屋に戻された。 「さ、あと少し、がんばろうか」 (これが私の台詞なら良かったのだが)  本当に、人は見かけによらないものである。 「それにしても、こんなに飛ばしていいのか?明日は大島とデートだろ?」 「んー?何で?」 「疲れたまま行ったら、変な所に付け込まれるぞ」 「ヘーキだって、そんなのないよ、多分」 (多分じゃ困るんだよ・・・)  いくら心配したとしても、尾行するには到れない自分のチンケな自尊心が、時々憎らしくさえ思ってくる。  ・・・結局、日付が変わるかどうかの所で打ち切り、床に就く事にした。放って置けば、朝までやってしまいそうな勢いだったので、早く切り上げられた方だろう。 (私がデートに行くわけじゃないのに、何でこう、緊張してるんだろう・・・)  馬鹿馬鹿しい、と思いつつもやはり気になってしまうのは、私の性分だろう。  まぁ、いくら私が気を使っても、行くのはカナで、応対するのもカナだ。 (カナを信じるしかないか・・・)      ―七月六日 日曜日―  朝、まだ日も昇り切らないうちに目覚ましの音に起こされ、何が起こっているのか分からないうちに、カナは家を出て行った。  今日は朝一で遊園地に行くらしい。  知ったのは今朝だ。聞かなかった私が悪いのだが、さすがにただの友達が、男女二人っきりで遊園地に行くのはどうだろう。 (チッ、やっぱり後を追った方が良かったな)  それにしても、カナもカナだ。何だってそんなにホイホイついていくのか不思議で堪らない。 「帰ってきたら、お説教だからな」  そうポソリと言ってはみたものの、虚しくなるだけだった。  昼過ぎに、カナからメールが届いた。 『やっほー!カナでっす☆人がちょ→一杯で、マジヤバイよー!でもでも、新しい乗り物とかちょ→最高で、バリバリ満喫してまーす!あ、お土産、ちゃんと買ってくるから、心配しないでね〜♪』  ・・・だとさ。 (全くあの馬鹿、こっちの気も知らないで)  ちなみに私は、昨日の復習と予習だ。話し相手が居ない分、心なしか手は進むような気はするが、それでもやはり、向こうの事が気になって、頭にはまるで入っていなかった。  空に紅い幕が下がり、次第に紺碧へと姿を変えて行く頃、またメールが飛び込んで来た。 『ごめ〜ん、なっちゃん!お母さんに、今日は夕飯食べれないって伝えておいて!何かね、大島くん、ディナーを予約しちゃったらしいの。これ食べたら帰るから!ゴメンね!!』 (・・・大島の奴め、今日は早く帰せと言ったはずなのに・・・)  まさか、このまま朝帰り何て事にはならないだろうな、などと、良からぬ不安を掻き立てられたが、いくらなんでも、カナもあいつもそこまで無神経な奴らじゃないだろう。    ・・・時計を見た。もう既に八時を回っている。  カナからのメールは六時過ぎだ。遊園地からここまで、ものの一時間もすれば帰ってこれる距離である。 (なのに、まだ何の音沙汰も無いという事は)  私は咄嗟に携帯電話に手を伸ばした。普段、あまり電話をかけてはいないので、おぼつかない手つきでダイヤルを押す。  プルルル・・・プルルル・・・、カチャ 『・・・なっちゃ・・、ごめ・・、今、・・―ドのとちゅ・で・・・』  何だかけたたましい音楽が邪魔をして、何を言ってるのか、全く聞き取れなかった。 「カナ?何してるんだ!?もう八時だぞ?」 『え?・・えない!い・、おお・ま・・と、パ・・・を見て、・・・れそう』  パレード、と聞こえた気がした。 「何やってんだよ!早く帰るんじゃないのか!?明日から学校が始まるんだし、そんなヒマないだろう!?」 『か・・けど、大・・く・が、どう・・て・・か!』 「カナ?聞こえないよ!?」 『ま・・・、メ・・・るか・!ゴメ・・プッ』  ・・・切れた。  「なにやってんだよ、あの馬鹿・・・」  もう、ムチャクチャだった。多分、大島に無理に迫られたんだろう。どうせ、パレード見ないと来た意味が無い、とか言って、うまく口車に乗せられたんだ。カナの、相手の期待を裏切れない人の良さを利用して。  しばらくして、またメールが届いた。 『ホント、ゴメン!大島くんが、絶対にこのパレードだけは見逃せないんだ!って言ってくるもんだから、断るのも悪いし、しょうがなくって。でも大丈夫!もうすぐ終わるって。そしたらすぐ帰るから!ゴメンね!!』  まぁ、そんな所だろうな。 (それで今度は何か?ちょっと疲れたから、そこらでご休憩でもしていこう、だなんて言い出さないだろうな・・・)  もう、不安やら心配やらで、心のトゲが剥き出しの全開モードだった。考える事全てがネガティブで、大きく開いた胸の穴から、負の激情がドバドバと噴出している。  吐き出しても、吐き出しても、キリがない。 (カナ、早く帰ってきて!カナ・・!)  もうそれは、信頼やら予測やらではなく、単なる切望だ。そう願うしか、私には術が残されてはいなかった。  結局、帰ってきたのは十時を大幅に回った頃だった。朝に帰ってくるよりはマシだが、それでも、十分過ぎる程の大遅刻だ。 「・・・バカ」  玄関でカナを出迎えると、それだけ言って、また部屋に戻った。何も言えなくて、そう言ったんじゃない。言いたい事が多すぎて、纏まり切らなかったのだ。  先に電気を消してベッドに寝転がっていると、後からカナが申し訳なさそうにおずおずと潜り込んで来た。  カベに面してカナに背中を向けていると、擦り寄って、体をくっつけてきた。  暖かい。カナの温もりが、体に染み込んで、ようやく、穴の修復作業が始まったようだ。 「ゴメン、なっちゃん・・・」 「・・・いいよ、わかってる」 「大島くん、遊園地のパレード見るの、初めてらしかったの。だから・・・」 「いいんだよ、もう」  カナの手が、ギュッと私を締め付けた。  その腕に、そっと手を被せてやる。  それが、今の私に出来る、唯一の免罪だ。そして、無二の抱擁だった。  だが、カナは、一層、私を強く締め付けた。その力は、華奢な体に似合わず、私を、酷く苦しめた。  でも、今の私は、それに耐える事しか出来なかった。         ―3―      ―七月七日 月曜日―  シャっと何かを切り裂いたような音と共に、眩い光が目蓋を焼きつけてきたので、耐え切れず目を覚ました。 (・・・朝か)  ムクリと起き上がり、隣に居るであろうカナを起こそうと布団を弄(まさぐ)った。  が、しかし、そこにはカナは居なかった。 「おはよう」  突然の挨拶に驚き、後退ってしまった。何てことはない、カナだ。 「今日は、早いじゃないか」 「うん、ちょっと、途中で起きちゃって」  そう言ってテーブルを指差した。ノートや教科書が散乱している。 「あんた・・・、何時から?」 「そんなでもないよ。ほんのちょっと前から」  妙な違和感に首を傾げながらも、とりあえず、下に降りて朝食を摂る事にした。 「いってきます」 「いってきます」  ほぼ同じ音量で家を出た。  何だか、今日はカナの様子がおかしい。何だか思い詰めたような顔をして、元気が無い。 (まぁ、昨日の今日だからな)  遊園地での疲れ、私への気遣いがカナの元気を奪ってしまったというのなら、今回は大島も私も、少々あり方を考えるべきであろう。  そう、考えてみれば、振り回されているのはカナなのだ。やつれて当然である。 (いっそのこと、私が大島にケリをつけに行くという手もあるな・・・)  と考えてはみるが、それは本当に、最後の手段になるだろう。そうなる前にカナの手で止めを刺して欲しいものだ。  昼休み、裏をかいて中庭にでも行こうかと思ったが、体育で水泳が出来るほどの気温だ。さすがに無謀だと見えて、屋上で我慢した。  ・・・大島はまだ居ない。このまま現れなければいいのだが。 「やっぱり、餅は餅屋だね。水泳じゃカナには勝てないな」 「ま、ね。水泳教室、行ってたから」  朝からそうだったが、カナはまだ調子が悪そうだった。口ではああ言ってるが、実の所、今日のカナであれば、十分勝ち目はあった。 「あのさ、カナ?やっぱりあんた・・・」 「お!今日もお二人さん、お揃いだね〜!」  この軽薄そうな声、大島の登場だ。口にはストロー付き牛乳パック、手には焼きそばパンを装備している。 (ったく、タイミング悪すぎなんだよ)  思わず口から飛び出しそうになった本音を飲み込んで、愛想笑いを浮かべた。 「あ、大島くん。昨日はありがとうね」 「おお、いいってことよ。それよか、悪いな、遅くなって。どうしても一度、生でパレードを見てみたくってさ」  カナは、あはは、と笑って見せた。さっきとは打って変わって、いつものカナのように。 (・・・愛想笑い、か?) 「ところでさ、沢村さん?下、何つ〜の?」 (・・・!そんなの、私が言うわけ) 「夏美だよ。だから、なっちゃんなの」 (・・・この馬鹿) 「へぇ、可愛い名前じゃん?じゃあさ、俺も夏美ちゃんつっていい?俺の事も、君付けでいいからさ」  そう口説きながら、肩に手を回してきた。 (こいつ・・・!) 「あ、大島くん!」  カナは何かを感じたのか、大島を制した。 「なっちゃん、男の人苦手なんだ。だから・・・」 「あ、何?そうなの?じゃ、恥ずかしいか。んー、じゃ、沢村ちゃんでどう?コレなら問題無いベ?」 「好きにして・・・」 「よっしゃ!これで俺ら、トモダチな!」  大島は上機嫌に、牛乳パックを口でブンブン振り回した。 (なっちゃん、大丈夫?)  カナが心配そうに覗き込んできた。  一体、何を心配してだろう。私の男嫌いを案じてか、それとも、今にも私が大島を殴りつけてしまいそうなのを危惧してか。 (大丈夫だよ)  言葉とは裏腹に、もう、限界スレスレだった。次、何か大島が突拍子も無いアクションをした時、私は耐えられるだろうか。 「お、何か、沢村ちゃん、俺が居ると飯食いにくそうだな。そんじゃ、俺はこの辺で退散するとすっか。んじゃ、またな!」  そう言うと大島は、軽やかに席を立った。 (助かった。奴にも、デリカシーの一欠片くらいはあったようだな・・・)  心底、ほっとした。 「ごめんね、なっちゃん」 「なんであんたが謝るんだよ」 「なんか、あたしのせいっぽいから」 「・・・私が嫌いなのは、男だよ。あいつに限ったことじゃない」  嫌い。苦手じゃなくて、嫌い。  それはもう、恨み、憎しみ、蔑み、そういった物を全て含めた嫌いである。  声をかけられただけで身震いがする。ましてや、体に触られたら、それこそ・・・。  大島は、そんな男の中でも、比較的嫌いというだけだ。絶対的なものは変わらない。 「私の事が心配なら、出来るだけあいつを近寄らせないようにしてよね」  そう言い放つと、開けっ放しにして、すっかり冷えてしまった弁当を再び突付いた。  カナは、それ以上突付こうとはしなかった。      ―七月八日 火曜日―   次の朝、やはりカナは先に起きていた。  一昨日の事を反省して、勉強に勤しんでいるのだろうか。  妙な違和感を覚える。カナの中の何かが変わったような。  しかしそれはまだ漠然としていて、上手く掴む事はできない。  少し心許無いが、それでも朝が来たのだ。今は一旦置いておいて、学校に行かねばな。  テストが近い事もあり、意外とスムーズに昼休みを迎え、習慣的に屋上に行った。 「あんた最近、朝早いよね」  隣りで、もそもそと弁当袋を開けるカナに投げ掛けた。 「テストが近いから、ね」 「どうせなら、私も起こせばいいのに」 「んーん、ちょっと見直す程度だから」 「それなら、いいんだけど。あんまり無理しないでよね。いざという時、バテるから」 「うん、分かってる」  そう言って、黙々と弁当を突付き始めた。  昨日といい、今日といい、どこかしら、いつものカナとは雰囲気が違っていた。 (悩み事か?だったら、見当はつくけど)  おそらく、私と大島の事である。カナが気に病むとしたら、それしか思いつかない。  そこまで発展する前に、『あたしには恋人がいる』と言えれば良かったのだが、私達の関係があやふやなせいで、それに自信が持てなかったという事は、責める事は出来ない。  と、あれこれ考えている間に、また、奴が屋上に現れた。 (うわさをすれば、か) 「カナ、私ちょっと、職員室に行ってくる」 「え?どうして?」 「用事を思い出したんだ。その人、午後から出張だって言ってたから、すぐに行かないと」 「う、うん、分かった」  不思議そうなカナを屋上に残し、せかせかと大島の横を通り過ぎた。声を掛けられそうになったが、無視をして。 (いい加減慣れろよ、私)  勿論、用事はうそっぱちだ。これ以上、大島と顔を合わせるのは嫌だし、カナも、そんな私を見るのは辛いだろう。  こうやっていれば、きっとカナも分かって、大島とケリをつけてくれる日も近くなるかもしれない。そう思った、苦肉の策である。  理由はどうあれ、まるで敵から尻尾を巻いて逃げ出したようで、情けなくなってくる。  すれ違い様に、一言嫌味でも言ってやればよかったと、少し、後悔した。  夜、夕飯を食べ終え一息つくと、久々にSEXをしないか、と私からカナに持ち込んだ。私から誘った事は、あんまり記憶に無い。だが、 「もうじきテストだから、体力は温存しないとだめだよ」  と、予想外の言葉が返ってきた。 「たまには息抜きも必要だよ。ほら、最近してないから、何だか調子が狂ってね」  そんな感じのやり取りを何回か繰り返し、ようやく観念して、カナはOKを出した。  久々に心躍らせて、急いでカギをかけ、窓を閉め、クーラをつけて、服を脱いだ。  寝っ転がって抱き寄せると、とりあえず一回、チュっとキスをした。でも、普段ならその後カナがやり返して、それを繰り返すうちに段々濃厚なものへと変わっていくのだが、今日はノリ気じゃないのか、軽くチュっとしただけで後には続かなかった。 「どうしたの?カナ、今日はいつもみたいにしてくれないじゃないか」  まるで風俗店に入ったサラリーマンのような口ぶりで、思わず問い掛けてしまった。 「何だか、疲れてて・・・」 「だから言ったろ?あんなに朝早く起きるもんじゃないって。寝る時は寝る!わかった?」 「うん。でも・・・」  また塞ぎ込んでしまった。 (こりゃ、重症だなぁ)  もし、私や大島がカナを追い詰めているのだとしたら、この辺でそろそろ、ケリをつけておくべきなのだろう。 (・・・決めた。カナに言おう。私からあいつに、キッパリ断ってやる、って)  そして、口を開こうと思った瞬間、けたたましい音が、突如、机の上から凄まじい振動と共に流れてきた。携帯電話からだ。 「・・・メール!」  カナはそう言うと、それに飛びついた。そして真剣な面持ちで目を通す。  しばらくすると、その場にペタンと座り込み、物凄いスピードでカタカタとキーを打ち出した。  いつも思うが、あの表情と手つきは、鬼気迫るものがある。半裸で座り込み必死に携帯に奮闘する絵は、何とも奇妙な光景だった。  しばらくするとカナは立ち上がり、元あった場所へと、携帯を戻した。 「ごめんね、なっちゃん」 「いいよ、で、誰からだったんだ?」  カナは、私の視線から顔を背け、俯(うつむ)いた。 「・・・大島か」  カナは、黙って頷いた。 「ま、いいよ。メールくらい、誰でもやる」 「ごめんね、なっちゃん」  カナは、再び謝った。 「なんか、白けちゃったな。やっぱり、テスト終わってからにしようか」  やることやっちゃわないとな。と、最後の台詞は、少し声を落として、言った。 (そうだよな。そろそろ、終わらせないと)  電気を消し、カナが寝息を立て始めた後も、しばらくの間、その決意に胸が熱くなり、眠る事が出来なかった。     ―七月九日 水曜日―  隣りに居るカナがごそごそと起き出した振動で、私も目を覚ました。 「あ、・・・おはよう。起こしちゃった?」  時間を見た。六時十五分。 「・・・最近は、いつもこれくらいなのか?」 「うん、何だか、眠れないの」 「そっか。ま、起きちゃったのは仕方ないから、ご飯でも食べに行こうか」  こんな時間に起きるのは珍しく、母は何も用意していなかったので、弁当作りの手伝いをして、その後は朝の見慣れないニュースでも見て、暇を潰す事にした。  試験前の授業ほど、無意味な物はない。  朝早く起きたせいで、幾度となく睡魔に襲われたが、そのほとんどが自習だったので、安心して熟睡する事ができた。  そんな満身創痍な状態で大島に出会ったらどうにかなってしまう、と思っていたが、予想に反して、今日は訪れなかった。   その後の選択授業にも姿を見せないので、奴のクラスの人に訳を聞いたが、なんて事のない、ただの風邪だった。  借りがあったのでプリントの一枚くらいは貰っておいてやろうと思ったが、テスト前授業で自習という事になり、プリントは何も出ず、ほっ、と胸を撫で下ろした。  夕食の後、二息くらい入れた後、部屋に集まり、テーブルに教科書を広げた。  今日はカナと再び勉強会だ。また、黙々とペンをノートに擦り付ける。  カナは、相変わらず静かだ。それは勉強しているせいもあるが、ここしばらくは悪い意味で、カナが鬱陶(うっとう)しいと思った事が無い。  何だか張り合いが無くなって、こっちの方が調子が狂ってしまう。 (カナ、・・・一体)  突如、またあのけたたましい音楽と、激しい振動が部屋に鳴り響いた。 「あ、ごめん。マナーにし忘れちゃった」  淡々と言って、その騒がしい物体をすくい取った。 「・・・大島か?」 「・・・うん」  さっきより、ペンの音がしない分、より強烈な沈黙が辺りを埋め尽くした。 「ねぇ、なっちゃん。今日の選択授業、何かプリントとか貰った?」  沈黙を破ったのはカナだ。 「え?いや、でてないけど・・・」 「ん、ありがと。プリント、でてない、と」  言葉に合わせて、キーをカタカタ鳴らした。 (しかし、何でカナは大島が選択授業に出なかった事を気にしなかったんだ?もう既に、カナは大島が休んだ事を知っていた?) 「大島、何で休んだかカナは知ってるのか?」  少し鎌をかけてみた。当然、私は知ってる。 「ん?何か、風邪ひいたらしいよ。もう熱は下がったみたいだけど」 「それもメールか?」  カナがうなずくと、また、声を取られた形態がより激しく体を揺り動かした。 (そう何度もメールをして、人の迷惑を考えないのか、あいつは。カナもカナだ。そんな、好きでもない奴から何度もメールされてるんだ、いい加減・・・、・・・!?)  一瞬、嫌なものが脳裏を過ぎった。  好きでもないのに、メールされると迷惑。でも、カナはさっきから、私の居ない時でも、メールの遣り取りをしていた。 (・・・まさか、カナ!?)  その結論に至るの容易だった。むしろ、今までそのように考えなかった自分が、自惚れていて、とても滑稽にすら思えてくる。 (・・・カナは、もしかしたら大島の事を)  そんな馬鹿な、と思いつつも、頭からそれが離れない。 (最近の妙な違和感も、変な行動や静かさも、全部、私を避けるため・・・?)  嘘だ、嘘だ!違う、そんな訳が無い!カナに限ってそんな!  その言葉の全てが、安っぽい気休めにしか聞こえなかった。  カタカタカタカタ・・・・・・・・。  その音は、いつまでも鳴り響いた。その音が、私の心を締め付ける。  その一音一音に、カナはどんな思いを込めているのだ?友情か?人情か?憤りか?嫌悪か?それとも・・・。  カタカタカタカタ・・・・・・・・。  その、カナの指先から発せられる音が憎い。何故、そんな奴と会話するんだ?どうして?  でも、その答えを知りたくはなかった。  もし、その答えが、私の危惧するものだったとしたら、私は・・・。      ―七月十日 木曜日―  カナは、異性愛者(ヘテロ)かもしれない。  昨日の疑問が、寝ても覚めても、脳裏から離れずにいた。  カナが朝早く起きるのは、大島と密通しているから?私との会話に張りがないのは、後ろめたさから?SEXを拒んだのは、私を好きでなくなったから?  ・・・分からない。・・・知りたい!でも、 ・・・知りたくない。  様々な葛藤が、私を痛めつけた。 (カナ、あんたは・・・)  学校でも、その傾向が見られた。  不意に窓の外を見やるカナ。眼下には、校庭が広がっている。  この時間の体育は一組、大島のクラスだ。今日は気温が低いので、外でサッカーをやっているらしい。  カナは、授業なんかそっちのけで外を、校庭を見つめている。  カナは何を見ているんだ?授業が暇だったから、それを潰すためにか?何か珍しい事でも起こったというのか?それとも、大島の事を・・・?  普段ならご満悦な様子で迎える昼休み。だが、最近のカナは、それでも妙にしんみりとしたままであった。  弁当を突付く箸も、それほど進んでいない。  しかし大島が姿を現すとどうだ。途端に顔色が変わって、いつものカナに変身する。顔を浮つかせ、声を高らかにあげ、身振り手振りを大げさに振り回す。  それは、大島だからなのだろうか。もしかしたらカナは、私に愛想が尽きただけなのかもしれない。  ・・・どちらにしろ、そんな答えしか、頭には浮かんでこなかった。  日が暮れ、一日かけたカナの観察計画を終了させると、また、カナと一緒に勉強会を開く事にした。  今日は案じてか、携帯の電源は切っているらしい。何だかようやく二人きりになれるような気がして、肩の力を抜く事が出来た。  しかし、カナはいつから、大島に好意を寄せ始めたのだろうか。初めてのデートの時か?二度目か?それとも、それ以前から目をつけていたのか?  今から思うと、最初から大島と手を組んで、私を手玉に取っていたようにも感じてしまう。 (・・・何がカナを信じろ、だよ)  今は、カナへの疑いで頭が一杯だ。  こんな情けない奴を、カナが愛想を尽かせるのも無理は無い。  このままだと、心の溝はどんどん深くなってしまう。 (アクションを起こすなら、今しか・・・!) 「カナ、ちょっといいか」 「んー?」  指でペンをクルクル回しながら答えた。 「大島の事なんだけど・・・」  その指の動きがピタリと止まった。分かり易い奴だ。  しかし、何て持ちかけよう。いきなり、「あんた、あいつの事が好きなんだろ」というのも、さすがになんだし、かといって、遠回し過ぎてもいけない。カナは鈍いようで、案外鋭い嗅覚を持っているから、下手をすると巧くはぐらかされてしまう。  なら、ダイレクトに相手の心を揺さぶり、且つ、直接攻撃でない方法で・・・。 「私、大島にそろそろ言おうと思うんだ。カナには、付き合っている人が居る、って」 「え!?なんで!?」  カナは、明らかな動揺を示した。 「だって、見るからに大島の奴、勘違いしているだろう?このままにしておいたら、大島だって可愛そうだよ。やっぱり、言うべき事は言っておいた方が良いと思うんだ」 「で、でも、そんなことしたら、あたし、変に思われて・・・」 「言わないでずっとほっからかして、いざという時に告白するよりは、まだマシだろう?」 「でも!せっかくお友達になれたんだし、このまま・・・」 「ただの友達だったら、カナが他の人と付き合っていようがどうしようが、友達のままでいてくれるはずだろ?」 「でも、でも・・・」  カナは塞ぎ込んでしまった。  確定的と見なしてもいいのだろうか、カナのこの仕草は・・・。 「・・ないじゃない」 「え?」 「関係ないじゃない!なっちゃんには!!」 「カナ・・・」 「どうして?どうして大島くんと仲良くなるのがいけないの?そんな事したら、絶対、大島くん、あたしの事軽蔑するよ?もう、遊べなくなっちゃうよ?あたしが誰と友達になろうと、関係ないじゃない!」 「関係、あるさ。だって、私はカナの恋人なんだ。・・・カナが他の奴と、・・・男なんかと楽しそうにしていると、何か嫌なんだよ。それは、嫉妬かもしれない。でも嫌なんだ、男と、そんな・・・」 「なっちゃん・・・。どうして、そんなに男の人を毛嫌うの?教えてよ、じゃないと、あたし、納得出来ないよ、そんなの・・・」 (そういえばそうだ。私は、カナにあの事をしっかり話してはいない。だから、私が受けた傷を、私がカナに危惧している事を、100%伝えきっていないんだ) 「そうだよな、そろそろ、言わないとな・・・」  ふう、っと息をつく。少し目をつむって、内容を纏める。あの時、何が起こったのか、じっくりじっくり思い起こして。また、あの恐怖の扉を開いた事で、震え上がる自分を制して。 「・・・長く、なるよ」  そう言うと、再び息を吐いた。吐いた息を吸い戻し、息を止め、最後の覚悟をつける。そして、クーラーの唸り声を合図に、カナを見つめ、ゆっくりと、口を開いた。  あれはね、中学三年生の、ちょうど今くらいの時期だった。  あの頃の私は、カナほどではないけど、結構根が明るくて、人付き合いも良くって、何ていうのかな、自分で言うのも何だけど、結構、八方美人を決め込んでいた時だった。  当然、男の子にも女の子にも友達は居たし、勉強も運動も人一倍努力して、優等生でクラスの人気者っていうアイデンティティを、必死で築き上げていた。  そんな時、彼がやってきた。  田中っていう平凡な名前の人。運動も、成績も、身長も、体格も、みんな人並み。  そんな人がある日、私を呼び出して言ったんだ、『僕と、お友達になってください』って。  私は当然、了承した。だって断る理由がなかったからね。  あの当時は、携帯なんて誰でも持っているわけじゃなかったし、私も彼も、持っていなかった。  だから良く、一緒に会って話をした。クラスが違うから、帰る時や休み時間を利用して。  彼は、動物が好きで、音楽を聴いたりするのは苦手で、料理が得意で、球技が下手だった。  私と彼は、暇さえあれば会話していた。  私にとって彼は、いい暇潰しだったんだ。  それは悪い意味じゃなくて、この人と話をするのが楽しい、時間があっという間に過ぎてしまう、そんな感じの付き合いだった。  私は、その人の事を友達として好きだったし、異性での親友というのに相応しい存在だと、そう思っていた。  でも、向こうは違ったんだ。  ある日、私は彼の家に招待されたんだ。今日は親が居なくて寂しい。それに一度、僕の手料理を食べてもらいたいから、って。  それで母には、帰りが遅くなるって伝えて、ノコノコと、彼の家に招かれたんだ。  ・・・料理は美味しかった。何が出てきたかはもう忘れちゃったけど、良かった。  それで何か緊張が解れて、またいつものように話していたんだ。  そしたら急に、彼が言い出したんだ。『キス、してもいい?』って。  私は、戸惑った。だって、いきなりなんだよ、ホント。何の脈絡も無く、いきなり・・・。  それで、彼は慌ててこう付け足したんだ。『僕、まだ女の人とキスした事ないし、どうしても、してみたいんだ。それで、沢村さんなら、させてくれるかなって思って』  私は、料理もご馳走になったし、別に全く知らない人でもないし、私って、場の空気に流されやすいから思わず、「いいよ」って返事をしちゃったんだ。  そして、キスをした。  私は、ほんと、軽くチュッ、てするだけだと思ったんだ。だけど、彼は私の首に手を回して、引き寄せて、唇をぴったり合わせて、ずーーっとつけっぱなしにするんだ。  そしてもう片方の手で、私の体を弄ってきて。  何が起きているのか、理解出来なかった。ただ、なすがままになって、服を脱がされて、あちこち触られて。  でも、何の抵抗も出来なかった。彼が、すごい真っ赤な顔して、私の体を弄り続けて、そんな彼の表情を見ていたら、何にも出来なくなっちゃって。  もう、体と頭が別の生き物のようになってた。下に居る自分が彼に弄くられているのを、上に居る自分が傍観しているみたいだった。  そしてついには、彼が私の中に入ってきた。  その時になっても、上の私は、何にも感じなかった。ただ、見ているだけだった。  純粋そうな彼がさ、顔を真っ赤にさせて、物凄い形相で、まるで狂った獣のように腰を振り続けるんだよ。  それがあまりにも可笑しくて、滑稽で、思わず、笑っちゃった。  それで、行為が終わると、彼は言ったんだ。『ごめん』って、一言だけ。  それから私が彼の家を出るまで、ずっと、ずっと謝り続けるんだ。  彼の家を出て、しばらく歩いてたらね、急に怖くなったんだ。  私、何をされたの?私、何であんな事しちゃったの?私が、一体何をしたというの?  怖くて、痛くて、辛くて、悔しくて・・・。  もう一歩も動けなくなって、その場に座り込んじゃったんだ。  あの時は出てこなかったのにさ、今になって涙が溢れてきて、止まらなくて、ずっと、ずっと、泣いてた。  上の私がいくら下の私を動かそうとしても、全く動いてくれなくて、その場に居るしか出来なくて、だから上の私も、泣く事しか出来なかった。  信じてた人に裏切られて、体を弄ばれて、それに何の抵抗も出来なくて、どうしてこんな事になってしまったんだ、何で私は彼の家に行ってしまったんだ、これから、私はどうすればいいんだ。  それを考えると、怖くて、痛くて、辛くて、悔しくて、苦しくて、悲しくて・・・。  自分の愚かさ、不甲斐無さ、軽率さ、あらゆる事を、後悔して、後悔して、後悔して、ずっと、泣いてたんだ・・・。 「・・・これで、全部よ」  部屋はいつになく、シンと静まり返っていた。 「それで、どうなったの?その、田中くんは」  カナは、まるで自分の事を心配するように、そう聞いてきた。 「別れたさ、その後すぐ。本来なら、付き合ってすらいなかったんだからね。あんな事されて、一緒に居られる方がヘンだよ」  カナはそれを聞くと、また塞ぎ込んでしまった。何かを、真剣に考えながら。 「・・・カナ?」 「・・・ひどいよ」 「ああ、今まで言わなかった事は謝る。でも」 「違うよ!どうして?どうして別れちゃったの?その人、なっちゃんの事、好きだったんでしょ!?」  カナの突然の激怒、私は、正直、たじろいでしまった。こんなカナを見るのは初めてだ。 「あ、あんな事する奴は最低だよ。女の気持ちも考えないで、あんな、無理矢理・・・」 「確かにそうかも知れないよ?でも、あたしだってなっちゃんとSEXする。好きだから。その気持ちをぶつけたいから、時には無理に誘ったりもする。その時だって、そうだったんじゃないの?自分の気持ちをぶつけたくて、どうしょうも無くなって・・・」 「でも、・・・でも、あんなやり方、卑怯だよ」 「卑怯?何で!?なっちゃんは、その人の事、好きだったんでしょ?それが、例え恋愛感情じゃなかったとしても。だったらその気持ち、何で分かってあげられなかったの?なっちゃんが好きで、気持ちを伝えたくて、抑えきれなくなって、そして不器用だけど、その気持ちを伝えた。なのになっちゃんは、それを受け取らずにつき返した!それから、逃げ出したんだ!」 「カナ、違う!私は・・・」 「それで挙句の果てに、男が嫌いになって、女であるあたしと付き合って。あたしは、そんな理由で付き合われてたの?後悔の捌け口として、現実からの逃げ道として、あたしはなっちゃんにとって、その程度でしかなかったの!?」 「カナ、私、そんな事・・・」 「卑怯なのはなっちゃんだよ!その人の気持ちに答えられなくて、逃げ出して、自分から男を拒絶して、気休めや慰めに、女であるあたしと付き合って!」 (カナ、止めてくれ!それ以上は・・・) 「なっちゃんは卑怯だ!!」 「カナ!!」  パァーーーーーーン・・・・・!!  乾いた音が、部屋に響き渡った。  私は、思わずカナを、引っ叩いてしまった。あまりの音の大きさに、一瞬、自分でも何が起こったのか理解が出来なかった。 「・・・っ!」 「カ、カナ、ご、ごめん、その・・・」  カナに手を差し出すと、カナはそれを払い除け、スックと立ち上がった。そして、筆箱や教科書をカバンに押し込んだ。 「カナ・・・?何を・・・」  カナは、そのままカバンを持って、部屋を出て行った。 「え・・・?カナ・・・?カナ!待って!ちょっと待ってよ!!」  急いで追いかけたが、もう家の中にはカナはおらず、玄関に行くと、揃えてあった靴が皆、グチャグチャに乱れていた。  それでも自分の靴を見つけ、玄関の外に出たが、もう、左右を見回しても、カナの姿はどこにも見当たらなかった。         ―4―      ―七月十一日 金曜日―  次の日、淡い期待を胸に学校へと出向いたが、やはりカナは居なかった。  今日はテスト前最終授業ということで、午前中で終わりだ。だからサボる人も多く、それほど目立ってはいなく、あまり詮索される事もなく、その日の授業を終えた。  家に帰る、がやはりカナは居ない。 (そうだ、今日は、自分の家に帰る日だったか。・・・タイミングが悪いな)  ふっ、と力が抜け、ヨタヨタと部屋までよじ登ると、カバンをそこら辺に放り、ベッドに飛び込んだ。 「・・・なにやってんだよ、私」  ふと、目の脇にやたら派手な装飾を施したカナの携帯が目に付いた。きっと忘れていったのだろう。主人を待ちわびて、机の隅にちょこんと待機している。  むくりと起き上がって、それを手に取った。  電源は切れている。まぁ、例え誰かからかかってきても出れはしないんだ。そのままにしておこう。  その後、土曜、日曜になっても、カナは家に戻ってはこなかった。 (はは、・・・馬鹿だな、私)  戻ってくるわけのないカナを待って、金曜の午後から一歩も外に出ていなかった。  いっそのこと散歩でもしていれば、かち合う可能性があったかもしれない。 (・・・いや、カナもきっと、外に出ていないだろうな)  母には、カナの両親が急に忙しくなって、仕事の手伝いをさせられている、という事にしておいた。  今までの経緯を話すには、あまりにもチンケな理由だったからだ。      ―七月十四日 月曜日―  ついにテスト当日が来た。もはや半ば諦め気味だったのだが、またもや期待を裏切って、カナは、学校に来ていた。  だが、テスト開始時間ギリギリに教室に入り、終わるとすぐにどこかへ消えてしまった。 (やっぱり、避けられてるんだな、私)  カナは冬服を着ていた。という事は、カナの家に居るという事なのだろう。夏服は、私の家のタンスの中だ。  家に帰り、タンスを確認する。やはりカナの制服はあった。という事は、まだ、帰ってきていないのだろう。  また、ベッドに寝転がり、天井を仰ぐ。  正直言って、まともに勉強する気も起きなかった。カナの姿を見れた事でそれなりに精神的には安定しているのだが、胸には黒くて、ヘドロのように濃くなった負の感情が、ゴボゴボと湧き出していた。  カナに会いたい。会って、抱きしめて、ごめん、て謝って、キスをして、それから・・・。  今は、そんな陳腐なシナリオでも、甘んじて受けよう。そのとき私は、何て言おう?何を謝ればいい?キスの時は、どこに手を回そうか?舌は入れる?  そんな妄想でもして自分を慰めなければ、もはや、私は私として自己を確立する事すら困難であった。  大人っぽくて、背は高くて、頭は良くて、運動が出来て、カナが好きで、カナを好きな私を保ち続けるには、そんな虚しい作業をしなければならなかった。      ―七月十五日 火曜日―     やはりカナはやって来るが、テストを受けるとき以外は、忽然と姿を消してしまう。  昨日はあんなに会いたがっていたが、今はテスト期間中だ。出来れば事を荒げたくはない。カナと会えば、また言い争いになるかも知れない。ドラマのような綺麗な再会なんかは、期待するだけ無駄だ。  もし今、カナと会って、そんな事になれば、今度こそテストどころじゃなくなってしまうだろう。  だから、明日だ。テスト最終日にカナと、カナに会って、そして・・・。      ―七月十六日 水曜日―  カナはもしかしたら、私の行動を予測して学校に来ないんじゃないかと思ったが、心配をよそに、ちゃんと来てくれた。  しかし、もう限界だった。五日間だ。カナが家に居なくなって、五日経つ。今まで、旅行やらお泊りやらで二〜三日居なくなる事はあっても、ここまで長いのは初めてだ。  辛うじてテストを受けられるだけの力は残っているが、カナが埋めてくれていた穴は、もう、見るに耐えないほど、大きく、グロテスクに口を開け、負の激情を垂れ流し、体を汚染して、ロクに眠れもしなかった。 (カナは、カナはどうなんだろう)  カナも、私の事を思ってくれているだろうか。本当は、私に会いたいんじゃないんだろうか。  数え切れないほどの疑問が、絶えず脳内を埋め尽くす。もう、テストなんて、カナへの言い訳の内容を決める猶予期間程度にしか考えていなかった。  そして、そしてついにその時が来た。  カナは、また終わるとすぐに席を立った。私も後を追う。  カナは、普段とは比べ物にならないほどのペースで、廊下を歩いていく。 (見逃してなるものか!今日が、最後のチャンスなんだ!)  今日を終えると、十七、十八日のテスト返却日と、二十二日の終業式だけだ。カナがそれに来る保証は無い。  だから私は、死に物狂いで追いかけた。  そして、ついたのは学校のトイレだった。カナは何を思ったか、トイレに駆け込んでいった。  私もおずおずと中に入った。どうやら、一番奥の個室に入っているらしい。  ここは一階の体育館へと続く校舎のトイレだった。滅多に人が来る事は無い。 (どうして、こんな所に・・・?)  私は、カナの居る個室へ向かった。コツン、コツンという床のタイルを叩く音が妙に響き渡り、余計に、緊張感が増してくる。 「・・・なっちゃんでしょ?ついて来るの、分かってたよ」  ドアの前まで来た所で、カナはドア越しに投げ掛けた。お見通しだったか。 「カナ、その、・・・ごめん」 「いいの。わかってるから」  いざという時にこの不甲斐無さだ。いつぞやのカナみたいに、考えた言い訳を全部忘れてしまった。 「カナ、・・・私、カナを殴る気はなかったんだ。ちょっと、興奮してて、それで・・・」 「・・・・・・」 「あの、だから、怒ってるとか、無くて、すごく好きで、でも、だから・・・」 (・・・何いってるんだよ、私) 「・・・あたし、バカだよね」 「え?」 「あたしがなっちゃんに言った事、キレイ事だって分かってる。あたしも、そんな事されたら、ショックで立ち直れなくなると思う。だから、なっちゃんの気持ち、分かるんだ。すごく。・・・なのに、変な意地、張っちゃってさ、引っ込み、つかなくなっちゃって」 「カナ・・・。大丈夫、私はもう、平気だよ」 「うん。でも、あたし、まだ答えを見つけてないんだ。どうすればいいのか、分からないんだ。なっちゃんの事も、大島くんの事も。だからさ、もう少し、一人にさせてもらいたいの。自分で、答え、見つけなきゃ・・・」 「そんな・・・、私も、私も手伝うよ!ね、いいでしょ?一緒に探そう?」 「ダメ・・・!あ、あたし、今、なっちゃんに、会えない・・・!会ったら、見つけられない・・・!もっと、分かんなく・・・!」  カナの声は、震えていた。嗚咽を混じらせ、カナは、震えていた。 「・・・カナ」 「ごめん・・・!一人に、させてぇ・・・。お願い、だから・・・」  言い終わるとすぐに、ジャーーーッ、と激しい水音が、その余韻をかき消した。その水音の中には、カナの、ヒック、ヒックとすすり泣く音が混じっていて、私は、もうそれ以上、その場に居る事は出来なかった。      ―七月十七日 木曜日―  次の日、案の定、カナは学校には来なかった。きっともう、今学期は来ないだろう。  私はカナの分のテストを預かると、そそくさと家に帰ることにした。  カナのテストをバサッと机に置いた時、ふと、携帯が目に止まった。 (やはり、こいつはカナに返しておいた方がいいか)  自分の携帯を取り出し、カナの家へと電話をかける。直接行くのは、何だか気が引けた。  数コール鳴らした後、ようやく受話器が取られた。出てきたのは、聞き慣れない声。 (カナの母親か。好都合だ) 「もしもし、沢村と申しますが、カナコさんはご在宅ですか?」  慣れない敬語でたどたどしく言った。 「・・・え?金曜から?あ、そうですか、分かりました。失礼します」  返ってきた言葉はこうだ。「あの子は、金曜にここへ帰ってきてから、一度も家には帰っておりませんよ」  それはつまり、カナは、私やカナの家じゃない、第三者の所に居る事を示していた。 (まさか、大島の所に・・・!?)  急いでカナの携帯の電源をつけた。間延びした起動音が煩わしい。  メール欄を調べる。大島からは四通。どれも他愛ないものばかりだ。文章からは、あまり臭わすものは感じられなかった。 (くそ!判断材料が少なすぎる、せめて大島から、・・・そうだ!大島に電話だ!)  慣れない操作でカナの携帯から大島にかけたが、・・・どうやら、留守のようだった。 (ちっ、留守か。でもこれで着信履歴には残せたはず!それに気づけば、きっと・・・!)  夜十時を過ぎた所で、ようやく大島からの電話が来た。四六時中携帯を身に付けていた私が、馬鹿らしくなるほどの間だった。 「もしもし、カナコちゃん?オレオレ!おー、なんかメール帰ってこないから、すんげぇ心配しちまったよー。一体どうしたの?」 「・・・大島君?」 「・・・!?あ、あれ?沢村ちゃん!?なんでカナコちゃんの携帯を・・・?」 「その口ぶりからすると、カナはそっちにいないの?」 「へ?カナコちゃんって、沢村ちゃんと一緒に住んでるんじゃないのか?」 「それが、金曜から、帰ってきてないんだ」 「マ、マジで!?ちょーヤベーじゃん!」 「でも学校に来てたから、多分、誰かの家に居るとは思うけど、何か、心当たり無い?」 「えー?全っ然分かんね。じゃあさ、お互い、色々他の奴らに電話かけてみようよ!そしたらさ、きっと見つかるって!」 「あ、ああ、よろしく頼むよ」 「おお!任せとけ!そっちも頼むな!」  そうして、一旦通話を終えた。こういう時だけは、男の行動力に感謝すべきかな。  三十分後、カナの携帯のアドレスを全て洗ったが、結局見つからなかった。 「もしもし、沢村ちゃん?どうだった?」 「駄目だ。全然サッパリだよ」 「同じだ。やっべぇ、どうなってんの?これ」 「分からない。少なくともカナは、誰かの家に居るって事じゃなさそうだ」 「てことは、野宿?この辺ホテル無いし。カナコちゃんって、意外とアウトドア派だなぁ」 (こいつ、こんな時に・・・) 「でもこの辺で野宿出来る所ったら、学校の近くの神社くらい?あとは、駅のホームとか、公園とか・・・」 (神社?まさか!) 「ありがとう!神社に行って見る。多分、カナはそこに居ると思うから」 「マ、マジ?うーん、お、俺も行くよ!もし何かあったら、人手が要るだろうし」 「好きにして。私、もう行ってくるから」  そう言って通話を切ると、私は急いで家を飛び出した。 「不気味だな、ここは・・・」  神社に到着したはいいが、思わず、後退ってしまった。昼間とは、雰囲気が大違いだ。  カナは、本当に居るのだろうか。  意を決して社に近づく。社の縁側には、ビニール袋やコンビニ弁当の空が散乱していた。  辺りを見回す。まるで人の気配が・・・と思った矢先、脇の茂みがガサリと揺れた。  そこだと言わんばかりに飛び込むと、そこには、カナが、居た。数日振りの対面だ。 「カナ・・・、やっと捕まえた」 「何で、分かったの?」  カナは無表情で、そう呟いた。 「ここは、思い入れが深いからね。それで。それよりも聞きたいのはこっちだ。何で、こんな所に居るんだ?」 「だって、なっちゃん家には・・・。それにあたしの家に居ても、理由を聞かれたらどう答えていいかわからないから、だから、ここしか考えられなくて・・・」 「・・・そっか」  私はカナを抱き寄せた。カナは体を強張らせるが、構わず抱き続けた。 「だめだよ、あたし、まだ見つけてない。なっちゃんと一緒に居る資格、無いよ・・・」 「誰かと居るのに資格なんているのかい?」 「それは、そうだけど・・・、でも」 「分かってるよ。でも、急ぐ事は無いんだ。ゆっくり、ゆっくり考えればいいじゃないか」 「でも、そうしたらなっちゃんが・・・」 「私にとったら、カナに逃げられている方がよっぽど辛いよ。それに、逃げてたら、一向に進まないんじゃないかな。しっかり向き合って、真正面から見つめないと、答えは、出て来ないんだと思う」 「なっちゃん、あたし、どっちを好きになるか、分からないんだよ?もし、違ったら、なっちゃん、どうするの・・・」 「・・・私、決めたんだ。その答えが出るまで、普通の女の子でいようって。ね?カナも私も、もう一度、最初からやり直してみよう?それで、また私の事好きになったら、そうしたら、一緒になろう?それでいいでしょ?」  カナは何も言わず、私の胸に顔を埋めた。それが、カナの返答なのだろう。  そのオデコに軽くキスをした。一時の、お別れの意味を込めて。 「おーい!沢村ちゃ〜ん!カナコちゃん、居るかー?」  神社の入り口から、大島の声が聞こえた。 「まったくあいつは。さ、カナ、行こう?」  まごつくカナを無理やり引っ張り、大島の元へと連れて行った。 「お、カナコちゃん、やっぱ、ここに居たか」 「ああ。もう大丈夫。話はついたよ」 「そうか、んで、どうすんだ?」  私は、カナを見つめた。カナも見つめ返す。私に任せる、という事だろうか。なら・・・。 「大島君、カナを家まで送ってくれないかな?あなたの家、この子の近くでしょう?」  カナは驚いたように私を見る。でも、反論はしなかった。 「いいのか、沢村ちゃん。カナコちゃんと、一緒じゃなかったのか?」 「いいの、とりあえずは、そう決まったんだ」 「分かった。それじゃ、行こうか」  戸惑うカナの背中を、そっと押してやった。 「行って来な、カナ。私は大丈夫だから」  カナは、何も言わず頷いて、大島の後をひょこひょこついて行った。 (これで、いいんだよな、今は。大島、後は、あんたに任せたよ・・・)  その日の深夜、私は、母に起こされた。  母は、沈痛な面持ちで、言った。カナが、一時間前に、車に撥(は)ねられて、病院に運び込まれた、と。  私は、しばらくその意味が理解出来なかった。  母は頻りに、大丈夫、大丈夫よ、と言っていた。  母の吐く言葉に導かれて、ようやくその意味を理解した。だがその途端、ふっと意識が飛んでしまった。  気が付くと、私は病院の敷地の前に居た。  どういった経路でここまで来たかは、まるで覚えていない。体が汗ばんで息が切れていることから、おそらく、走ってここまできたのだろう。  中庭を抜けて、緊急用出入り口から病院内に入り、母に言われた病室へと向かった。だが・・・、 (・・・面会謝絶!?)  カナの病室の札には、そう、記されていた。  私が呆然としていると、何処からか白衣を着た男がやってきて、私に声をかけた。  どうやらこの人が、カナの担当医らしい。  その人から、カナの容態を聞いた。  幸い、カナの持っていた大きなバッグがクッションとなり、軽い打撲と擦り傷で済んだらしい。  ただ今は、ショックで意識不明のため、大事を取って、身内以外の面会を謝絶している、という事なのだった。  それを聞いて、少し、安心した。こういう時にヒロインが事故死してしまうドラマを、幾度となく見てきたからだ。  とりあえず心配する必要は無くなったので、一旦病院を出ることにした。 (明日の面会は十三時からか)  それだけ確認すると病院を出て、ロクに電灯もついていない中庭を恐る恐る歩いていた。  すると、誰かが向こうから病院に向かって歩いてくるのが目に付いた。それは、大島だった。 「お!沢村ちゃん!カナコちゃんが事故ったってね!?現場に知り合いが居たから、連絡貰ってさ」 「どういう事だ?カナは、あなたが送ってくれたんじゃないの?」 「そ、それが、色々あってさ・・・」 「詳しく、聞かせてくれないか」 「え、え〜と、いや、その前にさ、カナコちゃんの顔、見ないと・・・」  大島は白々しく、言った。 「カナなら今、寝てる。面会謝絶だとさ。でも、大した怪我してないみたいだから、心配には及ばないよ」 「そ、そうか?な、なら・・・」 「話して、くれる?」  私がそう凄むと、大島は渋々口を開いた。 「一応、行ったんだよ、カナコちゃん家。そしたら、鍵が掛かってて、入れなかったんよ。で、カナコちゃん、鍵持って無いって言うから、一旦、俺ん家に行くって事にしたわけ」 「それで親が帰って来たのを確認したら、家が近いとか何とかで、一人で帰らせたってわけか?」 「ああ、大体合ってるよ。全く、こんな事なら、しっかり送ってやりゃ良かったよ。さっきまで、あんなにラブラブだったのに・・・」 (な・・・!?ラブラブ!?) 「どういう事・・・!?」 「あ、やべ、口が・・・。いや、さ、カナコちゃん、あんまりにも沈んでたからさ、ちょっと、男として、放っておけなくてさ、抱き寄せたら、いい雰囲気になって、そのまま・・・、て、何言わせるんスかー!ハズいなぁ」 「ま、まさか、あなた、カナと・・・!?」 「はは、致してしまいました・・・。いやさ、体で慰める、ってやつ?それがさ、いい感じだったんよ、ホント。カナコちゃんも、俺を受け入れてくれた、ていうかさ、ちょっといきなりだったからあれだったけど、カナコちゃんもきっと・・・」 「ふ、ふざけるな!!」 「え、な、何?」 「あんた、何したか分かってんの!?それは今、カナにとって一番、最もしちゃいけない事だったんだぞ!?それをあんたは・・・!」 「え?え?どういう事だよ!?」 「カナが私と喧嘩した理由は、私が、私が前に今と似たような手口で男に犯された事で言い争いになったからなんだ!その事は、最も禁忌な事だったんだよ!それをあんたは、平然とやってのけた!!」 「え?マジ?そうだったの?で、でも、カナコちゃんは、ちゃんと俺を受け入れて・・・」 「股さえ開けば、女は男を受け入れたとでも思ってるのか!?ふざけんじゃないよ!ラブラブだって?笑わせるな!!カナはね、カナは、あんたから逃げ出したんだ!怖くなったんだよ、あんたの事が!そして、自分が分からなくなって、轢かれたんだ!!」 「・・・マジかよ、俺、そんなつもりじゃ、ど、どうしよう?どうすればいいんだ?俺、どうすれば・・・」  大島は、叱りつけられた犬のように縮こまってしまった。 (こんな奴のために、カナは・・・) 「あんたに出来る事は、もう何も無いよ。消えてくれ、カナの前から・・・」 (じゃないと、私があんたを消しそうだ!)  心の中で、そう、ドスを利かせた。 「そ、そんな・・・。俺、好きなんだよ、カナコちゃんの事、本気で。だから俺、あんなこと、しちゃったけど・・・。もう、どうにもならないのか?これで俺、お終いなのか?」 「大島、あんた・・・」 「謝りたい!カナコちゃんに、謝らせてくれ!俺、カナコちゃんの事、好きだから!もう一度、やり直して欲しい!今度は、絶対そんなことしない!だから、頼む・・・」 (好き、か。カナの言った通りだよ)  ふと、カナの言った言葉を思い出し、我に返った。こいつは、カナが好きなんだ。好きで好きでしょうがなくて、思わず、行為に及んだんだ。 (あの時も、一緒なのかな・・・。でも) 「カナには、他に好きな人が居るんだ」 「え?マジ?そんなの、初めて聞いたぜ!?」 「その人と、あんたの事で、カナは凄く迷ってんだ。私にも分からない。カナが、どっちを選ぶのか」  大島は、顔に影を落とし、普段とは比べ物にならないほど、真剣な表情をしていた。 「それじゃ、俺がしたのは、抜け駆け、みたいなものだったのか。俺、何馬鹿やってんだよ・・・。情けねぇ・・・」 「あんたが今回した事で、確実に、カナの印象は変わってると思う。どんな答えが返ってくるか分からない。それでもあんた、カナに会う事が、会って謝る事が出来る?」 「・・・ああ、大丈夫、俺、絶対、カナコちゃんに、謝る、謝ってみせる」  大島は自分にも言い聞かせるように、そう言い放った。  だが私は、それを励ます事は出来ない。何故なら大島は、私のライバルだから。  答えは、次、カナに出会った時、きっと。その時、大島と、決着をつけよう・・・。         ―5―      ―七月十八日 金曜日―  カナが事故に遭った翌日、面会開始時間ピッタリに病院へと向かっていた。  何となく、カナは起きてる気がしたから。  昨日の記憶を頼りに、カナの病室まで辿り着くと、一息ついた。  この向こうに、カナが居る。昨日までのカナではなく、大島によって、私と同じ属性に変えられたカナが。  意を決し、トビラを叩く。コンコンという音が心臓と同調して、より緊張が増した。 「どうぞ」  中からカナの声。どうやらちゃんと目が覚めたみたいだ。しかしその声色は、幾重にも重なったコンクリートの障壁に遮られ、明確には聞き取れなかった。  ガチャリ、ギギィ・・・。  ただでさえ重いドアを、さらに重々しく開いた。そして、その先には、カナが居た。紛れもない、カナだ。  笑っている。ここ数日間で初めて、カナを見たような気がした。  何でカナは笑えるんだろう。もしかしたら昨日の事も、大島や私や自分の事を、全て忘れてしまっているのではないだろうか。  そんな妙な不安に掻き立てられた。が、 「おはよう、なっちゃん。どうしたの?そんな所に突っ立って。早く入りなよ」  意に反して、カナはそう言った。 「あ、ごめん。病院なんて、慣れてないから」 「あたしもだよ。まさかあたし自身が入るなんて、夢にも思わなかったからね」  あはは、と無邪気に笑った。 「でも、傷も大した事なくて、ちょっと首が突っ張るけど、明日には帰ってもいいってさ」 「良かったじゃないか、ホント」  ヴゥ・・・ンというクーラーの息つく音。こいつはここでも会話に入りたがるらしい。 「それにしても、何だか久しぶりにカナの顔を見れた気がしたよ」 「・・・うん、あたしも。・・・あはは、何でだろうね。何で、逃げてたんだろう。こんなにも簡単に、顔、合わせられるのにね・・・」 「私もだよ。例えカナと会っても、きっと、何も喋れなかったと思う。カナも、そうだったんじゃない?何を言えばいいのか、何をしているか分からなくて、分からないから、会うのを拒んでたんだ、きっと」  カナはこくりと頷いて、私を見つめた。じっと、目をそらさず、私を真っ直ぐ見つめた。 「だから、あたし、決めたんだ。なっちゃんをしっかり見れるように。もう、逃げたりしないように・・・」  カナはうつむいた。それは悲しいわけでも、辛いわけでもなく、何か、自分に言い聞かせるように、自分の心を、奮い立たせるように。 「本日を以って、樋口佳奈子は、普通の女の子に戻ります!」  カナは言った。笑いながら、真っ直ぐ私を見つめて。  私は、意外と冷静でいられた。多分、さっきカナの顔を見た時、本能的にそうなる事が分かっていたのだろう。カナは、何らかの決心をしていて、それは、カナが今まで考えてきた答えなんだろう、と。 「そっか。それが、カナの答えか。」  私は今、どんな顔をしているだろうか。ちゃんと、カナの決意を受け止めていられているだろうか。多分、大丈夫だろう。 「ごめんね、なっちゃん・・・」 「謝る必要なんて無いさ。それがカナの答えなんだろう?きっと、間違いはないはずだ」  カナは、私がそう言ってあげたのが嬉しかったのか、ポロリと一粒、涙を零した。でも、それをすぐに拭い、また笑顔に戻った。 「ありがとう、なっちゃん。でも、なっちゃんの答えだって、間違ってはなかったと思う。あたし、なっちゃんと一緒に過ごせて、すごく、ホントにすごく、楽しかった。楽しかったんだよ!だから・・・」  カナはうつむいた。小刻みに体を震わせて、ポロポロ涙を零して、それでも、笑っていた。 「・・・カナ。そんなに無理するなよ。そう決めたからって、いきなり赤の他人になるわけじゃないんだし。私達、トモダチだろ?いいんじゃないか、いつものままで」 「え?それじゃぁ・・・」 「ああ、私も見守るよ。また、一緒に住もう?」 「・・・いいの?苦しくない?あたし、もうなっちゃんの恋人じゃなくなるんだよ?そんなの、なっちゃんが惨めだよぅ・・・」  そう言って、一層体を震わすカナを、すっと抱きしめた。 「カーナ、それだったら、私一人残されていった方が惨めだって。ね、いいじゃない。私も、カナが居なくなったら寂しいんだよ。そっちの方が、辛いんだよ。だからさ、私を助けて。ね、いいでしょ?」  カナはそれを聞くと、ついには声を張り上げて、泣き出した。そう言われた事が、嬉しいのか、安心したのか、同情が辛いのか、不安なのか、それは分からなかった。  だから私は、カナが泣き止むまで、カナの背中をポンポンと叩き続けた。あの頃の私にはしてやれなかった事を、思う存分。  カナは、柵(しがらみ)からから開放されただろうか?ちゃんと、道を間違わずに、逃げ出さずに、真っ直ぐに歩いて行けるだろうか?  私には、分からなかった。カナも、今は分からないのだろう。だからカナは泣き続け、私は慰め続けるのだろう。  思う存分、泣けばいいさ。この涙には、いつかきっと、終わりが来るのだから。     ―七月二十七日 日曜日―  今日がカナの、ヘテロとしての第一歩だ。それはつまり、公式での初デートとなる。  あの後、大島の対応には大変だった。二人で壮大なストーリーをでっちあげたのだ。  まあ簡単に言えば、カナは、私(大島にはもう一人の男と説明した)と大島の間で揺れていたが、その事で意見した(友達の)私と喧嘩になり、カナは家を飛び出して、何だかんだであの事件が起きた、という事だ。  そして結果的に、形はどうあれ、積極的にアクションをしてくれた大島の方に行くという形で終局を終えた、という事になっている。  カナが同性愛だったとは、今は伝えていない。いつかは、伝えるのだろうか。 「それじゃ、行ってくるね!」 「ああ、しっかりやるんだよ」 「あはは、それ、前にも聞いた気がするよ」 「でも、いきなり朝帰りはナシだよ」 「うわ、それはないよ!もう、行ってくる!」  カナは少しむっとしたが、すぐにニコっと笑顔で手を振って、家を出て行った。  私はそれを、たおやかに見送った。  カナが大島と付き合うと決心して以来、めっきり心の穴が開かなくなった。  どうしてだかは、分からない。カナへの思いが冷めたから?いや、違う。私は今でも、カナが好きだ。  きっと、好きだから見届けたいのかもしれない。カナが変わっていくのを。そして、カナが変わった時、私も、きっと・・・。  外は朱に染まり、帳を下ろす準備が始まった頃、カナは家に戻ってきた。 「お帰り、カナ。どうだった?首尾は?」 「上々。へへっ」  そう答え、ニカッと笑う。 「んじゃ、うまくやれたんだね?ホラ、上がりなよ。とりあえずは、ご飯を食べてからにしよう。夕飯、まだでしょ?」  そういってカナを促すと、部屋に荷物を置かせ、いつものように、三人で食卓を囲んだ。 「さて、それじゃぁ、そろそろ話を聞かせてくれるかな?」  お互い、濡れた髪をガシガシとタオルで拭き取りながら向き合っていた。カナの拭き方はどこかぎこちなくて、思わず、可愛いと思ってしまう自分が煩わしかった。  でも、私は決めた。というよりは、そうせざるを得ないのだが、ここ数日間で、何十回も何百回も自分に言い聞かせた事がある。  カナとキスしない。抱きつかない。触るのは表側、裏には手を回さない。あらゆる不安要素を意識的に排除し、それを禁じよ。  それは、カナをヘテロに戻すための掟であり、私がカナにした事への贖罪、禊(みそぎ)であった。  カナが不自然なほど丁寧に髪の毛を拭い終えて、ようやく本題に入った。 「んー、それじゃ何から話したらいい?デートコース?ノロケ?別れ際の熱い語らい?」 「なんだそりゃ。でも、その分だと、うまくいったみたいだね。じゃぁ、順々に話してよ」 「て言っても、前とあんまり変わらなかったんだけどね。ちょびっとデパート回って、ハンバーガー食べて、公園を散歩して。大島くんたら、おかしいんだよ。いきなりタバコを吸い出して、豪快にむせて、どうしたの、て聞いたら、吸うの初めてなんだって。だからね、言ってあげたの。無理しなくていいよ、いつも通りの大島くんが好きだから、て」 「へぇ、意外と見栄っ張りな所があるんだね」 「でしょ〜、何か可愛いよねぇ」 (可愛い。本来は、こう使うべきなんだよな) 「それで別れ際に、大島くん、言ったんだ。『夏休みの間、毎週日曜日、オレにカナコちゃんの時間を分けてくれないか』ってね。もう、恥ずかしくないのかなぁー、そういうの」 「いや、多分、言った本人は相当後悔しているはずだよ。それで、どうなったんだ?結局、そういう事になったの?」 「うん。これからは、毎週デート。んで、OKしたら、大島くん、喜んで帰ってった」 「それでお終いか。何か、コースもノロケも語らいも、全部入ってたな」 「だって順々にって言ったからぁ」  そう言って恥ずかしがるカナの頭にポンと手を置いた。体から、なるべく離して。 「でも、良かったな。ちゃんとやれてるじゃないか。少し安心したよ」  カナは、まだ顔を赤く染めていて、それでも、何も言わずともコクリと頷いてくれた。  そうだ、これでいいんだ。これが、この何の刺激も、負い目も、不安も感じない、穏やかで、他愛無く、取り留めも無い環境が、普通になるって事なんだ。これが、私達の求めていた物なんだ。きっと・・・。      ―八月三日 日曜日―  一週間が経つのは早いものだ。その間に私は、随分と成長した。  以前は発作的に抱きついたりもしていたが、いい加減、私もそろそろ慣れてきたようだ。  今日もカナは朝早く出て行った。何でも、水族館に行ってくるらしい。  当然、全ての費用は大島持ちだ。以前にカナにした事を考えると、いい罪滅ぼしだろう。  こうやって少しずつでいいから、自分の背負っている荷物を下ろすという事は、本当に大切なんだと思う。ほんの僅かな事でも、それだけで、格段に心の持ち方が違ってくる。  私の重荷も、いつかは下ろせるだろうか。 「ただいまー!」  いつになく元気に、カナは家に飛び込んできた。が、来たのは私が既に入浴を済ませた後だった。 「お帰り、カナ。そういえば今日は、大島と食事するって言ってたもんな」  浴室から直接、歯ブラシをくわえながらカナを出迎えた。 「ま、いいか。とりあえず空いたから、先に入ってきな。私、上で待ってるから」 「あいさー!了ぉ解!」  よほど良い事があったのか、カナは妙にご機嫌だった。何時ぞやの遊園地に行った時を思い出すと、そのギャップに思わず可笑しくて吹き出してしまった。  あの日が遠い思い出のように感じて、ほんの少しだけ、切なくもあった。 「でさー、凄かったわけよ」  カナは半ば興奮しながら、激しく髪をタオルで擦った。 「だってあり得ないでしょ?あたしと同じくらいの大きさなんだよ?あの、タラバガニ?鍋にしたら一体何人分あるんだよ!?て、思わず突っ込んじゃった」 「食い気に直結する所が、カナらしいな」 「悪かったわねぇ。んで、最後にアシカショー見て、帰りに、スパゲッティのタラバソースを食べてきたわけ」 「はは、オチまでついてるのか」  カナらしいな、そう思うと同時にその言葉が出て、笑った。二人で、ケラケラ笑った。  あまりにも可笑しくて、笑いすぎて、思わず涙が滲んできた。ほんと、ほんの少しだけ。  目を細めてそれを指で掬い取ると、また、笑った。  何だか、またあの頃に戻れているような気がして、嬉しかった。と同時に、寂しかった。  あの頃とは似ていても、まるで別なのだ。カナは刻一刻とその姿を変え、見る見るうちに私を突き放していった。  もう追いつけないほどの差が出来てしまって、選んだ結果がこれ、この、昔の私達のようで、似て非なる状況を作り出したのだ。  そう思っていた。この時までは・・・。      ―八月十日 日曜日―  この日私は、大島とカナとのデートについて行く事になった。  無論、秘密にではなくて、大島の方から誘いがあったのだ。  行き先は、少し離れた港町でやる、大規模のマーケットである。野球ドームのような大きな会場を使って、日用雑貨等を安く、大量に仕入れる事が出来るそうだ。  それで、そんな場所に行くのなら人手が多い方がいいし、私もたまには一緒に、等という諸々の理由で誘われたのだ。  待ち合わせは現地。一度顔を合わせると、一旦単独行動を行い欲しい物に目星をつけ、昼食後、それをみんなで回収しに行く、という段取りになっていた。 「かー、何でこう人が多いんだ?コレ、会員制のはずだべ?」  食事スペースの丸テーブルにドサリと座ると、大島はそう漏らした。 「ホラ、夏休みだからじゃない?皆、考える事は同じなんだよ」 「それにしてもよー、普通色々あんべ?行く 所なんてよ。海とか山とか、あえて外して来てんのに全然じゃねぇー?」 「だよねー。あ、そうだ、お昼どうする?」 「おう、その辺の売店でテキトーに見繕うぜ」  そう言うと大島は、私に目配せした。 「それじゃ、私、買ってくるよ」 「おいおい沢村ちゃん。人多いの苦手っしょ?止めといた方がいいって」 (何だ?違う意味なのか?) 「それじゃあたし、行ってくるよ。大島くんには後でたっぷり荷物を運んで貰うからね」  カナはニカッと笑い、立ち上がった。 「あー、じゃ、テキトーに、つっても、ホットドックしかないか」 「それじゃ、ホットドックとコーラ、3セットでいいね?それじゃ、行ってきまーす」  カナは元気良く走って行った。 「・・・さて、やっと二人きりになれたな」 (さっきのはそういう意味か。そして、今日、私を呼んだのも) 「うまく行ってそうじゃないの」 「沢村ちゃんには、そう見えるのかい?」 「・・・え?何、一体」 「あんな楽しそうなカナコちゃん見たの、三回のデートにして初めてだぜ?」 「え!?どういう事なのよ?」 「知らねえよ。でも、カナコちゃん、俺と居るのが、辛そうなんだ。きっと今日は、沢村ちゃん効果だろうな・・・」 「緊張してるから、そう見えるだけじゃないの?現に、私にデートの事を話す時、カナ、すっごく楽しそうだったよ・・・?」 「俺も最初はそう思ってた。でも、笑わねえんだ、カナコちゃん。いつも何か考えてるみたいで、話し掛けると笑ってくれるけど、少し目を離すと、また、俯いて黙っちまうんだ」 (そんな、カナはあんなに楽しそうに話してくれてたのに・・・。何故?カナは、カナは私に嘘をついて・・・?) 「カナコちゃん、本当に俺の事、好きなのか?まるで、何かから逃げてきて、俺を避難所にしているような、もっと言えば、自分から俺と付き合うように自分を追い込んでいるような、そんな感じがするんだ」 「そんな、だって、だってカナは・・・」  カナは決めたはずだ。もう逃げない。そう、決めたはずだ。なのにカナは、何から逃げているというのだ? 「・・・俺の元カノの事、知ってるか?」 「え?ええ、カナから聞いたわ」 「なら話は早い。まるで、そいつみたいなんだわ、今のカナコちゃん」 「・・・え?」 「俺の元カノ、そいつには、付き合ってた奴が居てさ、そいつと、あんまうまくいってなかったんよ。んで、知り合いの俺ん所に飛び込んできて、色々グチって。まぁそん時は、先輩・後輩ってだけだったんだけど、そのうち回数が増えてってさ、ついには、その人と、寝たんだわ」 「・・・それで?」 「したっけさ、その先輩と付き合うようになっちゃって、気まずいながらも、うまくやれるとか思ってたんだわ、俺。でも、違ってた。先輩、付き合ってた奴の事、忘れようとして必死だったんだわ。自分には合わない、そう思い込んで、俺と付き合う事で、そいつの事、早く忘れようとして」 「・・・それで、結局は別れた、という事なのか」 「ああ、そういう事。やっぱ、無理だったんだな。忘れられなかったんだよ、きっと」 「・・・同じだと、思うよ、カナも。」 「・・・だべ?畜生、俺、馬鹿だから、黙っときゃカナコちゃんと一緒になれるかも知れないってのに、我慢出来ねぇんだ、そういうの。辛いんだよ、三人が、辛いんだ・・・」 「分かった、カナに聞いてみる。・・・ありがとう」 「やっぱさ、納得いかねぇじゃん、そういうの。大丈夫、この話しようって考えた時から、覚悟、決めてたから。例え、どんな答えが返ってきても構わない。だから、今日だけ、今日一日だけは、カナコちゃんの恋人で居させてくれ、頼む・・・」 「・・・ええ、分かってるよ。ありがとう」  そしてごめん。それは、大島に聞こえないよう、心の中で、そう呟いた。  カナは何かを隠している。私にはそれがはっきり分かった。カナは、まだ私が好きなんだ。ヘテロになりきれていなかったんだ。  じゃあカナは、何を決心したのだろう。私を騙す事を?何故?  それは、カナに聞くしかないな・・・。 「ただいまー!あー、人、一杯だったよー。・・・あれ?どうしたの?二人で顔を見合わせて。なーんか、良い雰囲気だよー?」 「お、カナコちゃんお帰り!いやさ、前のテストの事でちょっと。俺、馬鹿だからさー」 (こいつはホント、スイッチの切り替えが速い奴だな。・・・カナも、か。まぁ今日だけは、カナの王子様でいさせてやるか)  私もそう心に言い聞かせ、スイチを切り替えて、仮面を被った。  周りから見れば、さぞかし楽しげに見えるだろう。三人が三人とも、同じ仮面を被っているのだから。  その日一日だけは、決して仮面を外す事無く、三人とも、奇妙なデートに勤しんでいた。  ピッ、という音と共に部屋は闇に包まれ、今日という日を思い出の中へと織り込むためにベッドに横たわる。  天井を仰ぎ、次第に目が慣れ、シミが数えられるようになった頃には、カナは既に寝息をたてていた。  この愛らしい顔は、本当に仮面なのだろうか?それとも、今までのが仮面?  ・・・分からない。分かる必要の無い物だと、そう信じて疑っていなかった。  人とは愚かだ。知れば苦しむ事になるかもしれないのに、それをせずにはいられない。  無知は罪では無い。有知がそれを妬み、そして弾劾するのだ。  だがあえて私は、知る事の苦しみを味わおうとしてる。  怖さと探究心が入り混じった、奇妙な興奮に駆られ、なかなか眠れない。  でも、決めたんだ。明日、カナに聞くと。聞いて全てのケリをつけると。  そして、もし、もしカナがそうだとすれば、私は、カナと・・・。     ―八月十一日 月曜日― (・・・はは、私は馬鹿だ)  さっき母が買ってきたケーキを平らげ、ご機嫌な表情を浮かべているカナを見て、朝から繰り返してきた言葉を呟いた。  甘い物が出る刻といったら分かるだろう。朝起きて食事をしたら話そうと思ったが思い止まり、昼を過ぎたら今度こそ、と思ったがまたしても踏ん切りがつかず、結局おやつを食べた後も、話せる雰囲気にはならなかった。 (ごめんよ大島。こんな不甲斐無い私の為に)  大島は決死の覚悟で私に託したというのに、私はまだ、死ぬ気にはなれていなかった。  自分の意気地無さに、ほとほと呆れ返る。 「なー、カナ。ヒマだね・・・」 「んー、ヒマだね」  そうして間が持たなくなって、また他愛無い話を続けるのだ。 「・・・何か話しよっか」 「んー、何の話?」 「・・・大島の事」  全く持って不思議なのだが、人は時としてとても重大で心に秘めて置きたい事を、ポロリ、と吐き出してしまう事があるのだ。  今がそれだった。切り出すタイミングも、無意識だが、えらく躊躇(ちゅうちょ)がちな感じでますますそれっぽく吐き出せた。  ピシ・・・。  効果音としては、これが一番適切だろう。一瞬にして、空気が張り詰めた。  今の気分を例えるなら、何の前触れも無く、いきなり機関銃を手渡され、戦場へと送り出された時と似ているだろう。そのギャップに、しばらくの間、頭がついていかなかった。  だが、采は投げられたのだ。もはや、後戻りをする術はなかった。戦うしか・・・。 「大島から聞いたんだ。あんたら、全然うまくいってないんだってね」 「・・・そんな事ないよ。あたし、仲良くやってるよ?」 「じゃぁ、何で笑ってあげないんだ?大島に。あんた、大島の事好きなんでしょ?大島と付き合うって決めたんでしょ?何で?」 「・・・それは」 「大島、あんたを見て何かから逃げ出してるって言ってた。それは何?何から逃げてるの?もしかしてあんた、まだ私の事を・・・」  時計とクーラーの音がやけに部屋を賑やかに感じさせる。  そして、ふと、窓の外で鳴き叫ぶカラスに気を取られ視線を外した瞬間、カナは、ドアへと駆け出していた。だが・・・。  今度は部屋を出る前に捕まえる事が出来た。 「・・・もう、逃がさないよ」  グイッ、と掴んだ手を引っ張る。すると、凄い勢いでカナが近づいて来た。  強すぎた?いや、カナは、私に抱きついたのだ。 「・・・好き」 「・・・え?」 「好き、大好き!好きなの!なっちゃんの事が!大好きなの!大好きなの・・・!」  カナは私の背に回している手を、強く締め付けた。 「でも、変だよね?こんなの、間違ってるよね?普通じゃないよね!?おかしいよね!?・・・だからあたし、がんばって、自分を奮い立たせて、普通になろうとして、それで・・・」 「じゃあやっぱり、カナ、無理して大島と・・・?馬鹿だよ、あんた。あんな事されて、怖かっただろうに・・・。馬鹿だよ」 「違うの!そうじゃないの・・・。無理してた事は本当だけど、怖いとかじゃないの!なっちゃんが、好きだから!好きで、あたしの事も好きになってくれて、でも、それって変だから!普通じゃないから、なっちゃんを、なっちゃんを普通に戻そうとしたの!」 「それじゃあんたは、自分のためじゃなくて、私のために・・・?」 「・・・うん。見てて、辛かったんだよ。男の人から逃げて、どんどん自分を追い詰めて、惨めになって、どんどん傷つけていくなっちゃんを見るのが、辛くて・・・」 「・・・カナ」 「あたしが普通になれば、なっちゃんも普通になるんじゃないかって。そうすれば、もう誰も傷つかないんじゃないかて・・・」 「やっぱり馬鹿だよ、あんた。そんな事したら、そんな事知っちゃったら、私、もっと辛くなるよ。このままだったら、もっと傷ついちゃうよ。だって、・・・だって、私もカナの事、まだ・・・」 「だめだよ、なっちゃん。もう終わりにしよう?終わらなきゃ、いけないんだよ。だって、こんなのって・・・」  カナは、顔をそらした。それが、カナの答えなのだろう。自分の持つ感情を信じず、それは間違いだと切り捨て、普遍的な波に舞い戻る事を望んでいるのだ・・・。  なら、私はどうする?  私は、自分の心の奥から湧き上がる感情を一つの言葉にして、カナへ、送ろう。 「愛してるよ」 「・・・え?」 「これってきっと、『愛』なんだよ。相手の事を考えると堪らなくなる気持ち、相手を求めて止まない気持ち、これも、れっきとした、『愛』なんだよ」 「そ、そんな・・・。違うよ!こんなの、だって、あたし達がいくら愛しても、子供とか、作れないんだよ?SEXだって普通に出来ないし、町を歩いていても、誰も恋人同士とは思ってはくれないんだよ!?」 「『愛』ってさ、きっと、本能とか、そういうのじゃないんだよ。人が作り出した、人だけ持つ、愚かで、切ない感情なんだ。それは、独占欲かもしれない。錯覚かもしれない。でも、私達がそうであると思えば、それは『愛』になるんだよ!きっと、なるんだ・・・!」 「そんなの分かんないよ!あたし達のは愛なの?愛で間違いないの!?証拠は?そんな事言い切れる根拠はあるの!?」 「そんなの、あるわけないだろ!でも、愛してるんだ!カナ、私はあんたを愛してるだよ!それじゃ、不満かい?ええ?不満なのかい・・・!?」  カナは、すっ、と体を離した。そして、私を見つめた。  仮面を外したカナは、泣いていた。ポロポロ、泣いていた。  私も、泣いていた。  そしてカナは、私を見つめながら、ゆっくり、言った。 「キス、して」 「・・・いいのかい?したら、ヘテロじゃなくなるんだよ?」 「あたしを愛しているなら。人からどんな目で見られようと、子供が作れなくても、SEXが出来なくても、どんなに、どんなに辛い事があっても、一緒に居てくれて、あたしを愛してくれるなら、・・・して」  私は、ためらわなかった。カナの頭に手を回し、唇を合わせた。  何度も、何度もしたキス。でもそれは、遊びだったのだと思う。ただのごっこだったのだと思う。  でも、今回のは違う。  このキスは、愛という名の、大義名分の元に行われている。  その愛が何なのか、私達の愛が本物なのか、私達には、まだはっきりとは分からない。でも、私は誓う。この人と、カナと一緒に、愛を、愛というものが何なのかを、探しに行こう。  このキスと共に、そう、誓った・・・。       ―エピローグ― 「お母さん、着付け、これでいいの?」  カナは何時の間にか母の事を、名前ではなくお母さん、と呼ぶようになっていた。  でもそれは全く違和感が無くて、多分、母も私の母であるお母さんと、カナが自分の実の親のように扱っているお母さん、その両方の意味で捉えているだろうと思う。  だからなんとなく、自然に感じられた。 「うわ、なっちゃん、可愛ぃー!」 「茶化すなよ。カナも可愛いよ」  今日は近所の川原で花火大会をやるというので、意気込んでお古の浴衣を母に着せてもらっていた。  私とカナの、初めてのデートだ。  家を出ると、カナに言付けた。 「さ、カナ。先に行って、場所を取っておいてよね」 「うん。なっちゃんは大島くんの所に行くんだよね?」 「ああ。しっかり顔を合わせて伝えないとな。電話だけじゃ、伝えきれないよ」 「あたしが言ってもいいのに」 「ダメだよ。辛いでしょ、大島君。あんた、彼をフッたんだから。彼も、そこの所は分かっているはずさ」 「うん。じゃ、また後で」  そう言って別れた後、緩んだ気を引き締めて、最後の仕上げへ勤しむ事にした。  あまり遠くに待ち合わせるのもあれなので、学校の校門で待ち合わせることになっていた。 「よ!沢村ちゃん!久しぶり!おー、ヤッベェ、その浴衣、チョー来てる!マジ最高!」 「褒めても何もでないよ。それでカナの事なんだけど、前に話した通り、やっぱり・・・」 「はは・・・、分かってるよ。大丈夫、心配はいらねぇよ。カナコちゃんのためだしな」 「あの子は、自分を信じてあげられなかったんだと思う。だから自虐的になって、自己犠牲して、これ以上、誰も傷つかないようにしてたんだよ。・・・馬鹿みたいだよね」 「へへ、それなら、俺も同じだよ。あーあ、俺って女運無ぇなー。どっかに良い人見つけ・・・、お、そうだ沢村ちゃん、俺達、付き合ってみねぇ?」 「はは、ダーメ。私は、男の人、苦手だから」 「だから俺の事も嫌い、てか?」 「そうじゃないよ。あなたは素敵だと思う。でも、やっぱり・・・」 「いいんじゃねぇの?別に。そのうち、男が好きになる日が来るって。自分の重荷を全部下ろせて、もう一度、最初から物事を見つめ直す事が出来れば、きっと」 「・・・だといいけどね」 「へへ、そんときゃ、俺が一番に声をかけてやるよ。・・・んじゃ、俺、そろそろ行くわ」  そう言って背中を向けて、手を振りながらゆっくりと歩きだした。大島の背中は、何だか寂しそうで、辛そうで、それでも、大きかった。  蟹股でのしのし歩いて行く大島に、聞こえるかどうか分からない声でもう一度、ありがとう、と囁いた。 「あ、そうだ。初デート記念に、神社に行かない?」  花火大会の興奮が冷めないのか、カナはやたらはしゃぎながら、私に問い掛けた。 「そうだね、いいよ、寄って行こう」 「へぇ、なっちゃんならきっと断ると思ったのに、どうしたの?」 「別にいいじゃないか、私も何となく行きたかったんだよ」  こうして手を繋いで歩いたのは、実に数週間振りだった。すっかりカナの温もりを忘れてしまった私の手は、少し、緊張していた。  でも、こうした他愛の無い、何の柵も無く取り留めも無い時間は、本当に素敵なんだと、私は改めてそう実感させられていた。  まさに、平静に勝る幸せは無いという事だ。  神社に着くと、鳥居を抜け、迷いも無く賽銭箱の前まで行った。  この前で、私達の物語は始まったのだ。  あの雨の日、ここで、二人同時に錯覚に陥って、初めてキスをして、神が二人のイブを生み落とした場所。  そこはずっと時が止まっていて、あの時のままだった。  でも、私達が今日この場所へと来たのは、二人っきりの世界に篭るためでは無く、新しい世界を見に行くためだ。  私達は、『愛』という言葉を知った。その意味は、まだよく分からない。  人が作り出した、人だけの感情。それは子孫繁栄の本能でも無く、単なる独占欲の塊かも知れないし、損得勘定した結果かもしれない。錯覚かも分からないし、色々な矛盾を抱えているかもしれない。  それでも私達は、『愛』を知った。  仲睦まじい二人の間に送られる台詞、 「私はあなたを○○しています」  その中に入る言葉は、それは私達にとっても同じ事を意味するかは分からない。  でも、それには、月並みだけど無限の可能性が秘めているのだと思う。  だからこそ、これから二人でそれを一緒に、体験したい、体感したい、体現したい。  そのためにも、今日、私達は知恵の実を食べる。愛という言葉を知り、それを探求するために。新しい世界に行くために。  幾多の夏を越え、すっかり取り残されたその実をもいで、神のシナリオ通りかぶりつく。 「愛してるよ、カナ」  優しくその言葉を、今まで怖くて、不安で、言う事の出来なかったその言葉をあっさりと吐き出し、キスをした。  始まりの場所で、あの時と同じように、また、ここから始めるために。  二人のイブは、エデンを離れ、新たなる世界へと、旅立って行った。                「私はあなたを○○しています」 完