13 Oct. 2003

イオマンテ めぐるいのちの贈り物
                       寮美千子

▼1
わたしは生まれたばかりの熊のカムイだ。

そこは、くらくてあたたかかった。
かあさんのにおいにつつまれて、
わたしはむちゅうで、ちちをのんでいた。
うとうとしかけたとき、とおくから、なにかきこえた。
だんだんちかくなる。
「なあに、かあさん?」
「あれは、セタのこえよ」
「セタ? こわいもの?」
かあさんはだまったまま、小首をかしげ、耳をかたむけた。
そのとき、がさっと雪がくずれ、ちいさな穴がひとつ、あいた。
そこから、ひとすじの光が、棒のようにまっすぐのびてきた。
そのときわたしは、はじめてかあさんの顔をみた。
きんいろにかがやくかあさんの顔。
「だいじょうぶ。ぼうやは、ここにいなさい」
かあさんはたちあがって、光へとまっすぐにあるいていった。
おおきなからだのふちが、きらきらきんいろにひかった。

▼2
かあさんが、せのびをするようにして穴をのぞいたとたん、
びゅん、と音がした。
「あっ」
かあさんは、ゆっくりと両腕をひろげた。
そして、いきなり背中から、どう、とたおれた。
「しとめたぞ!」
雪のかべがいっきにくずれ、わあっと光があふれかえった。
まばゆい、まばゆい、白、白、白。
あふれる、あふれる、赤、赤、赤。
かあさんの目からどくどくと血がふきだし、
まっ白な雪に、みるみるひろがっていった。
セタがはげしくほえていた。
「めすの熊だ。子熊がいる」
おおきな手がのびてきた。
はじめて人間の匂いをかいだ。

▼3
ぼくはアイヌの男の子だ。

ろばたで木を削っていたとうさんは、ふと手をとめ、耳をすました。
「雨だ」
ひげのおくに、ほほえみがひろがった。
「熊の子を洗う雨だ」
きょうは、さむさが一気にゆるんだ。
雪が、やわらかい雨にかわったんだ。
「こんな雨がふるころには、熊の穴で、きっと子熊が生まれている」
「熊の穴って、あの山の?」
「ああ。おまえといっしょに、秋の終わりにみつけたあのほら穴だ」
もえあがる炎のように赤や黄にそまった森の、
おおきなおおきな木のねもとに、そのほら穴はあった。
きっといまは、なにもかも白い雪のしただ。
とうさんは弓矢をとりだし、
とりかぶとの毒をていねいにぬった。
「この毒はつよい。
どんなおおきな熊でも、三つかぞえるまえにたおれるぞ」

▼4
あさになると、そこらがみんな星の粉をまいたように光り、
おそろしいほどの寒さがもどってきた。
なにもかもが、かちんかちんにこおりついている。
いつもは腰までもぐってしまう森の雪も、骨のようにかたくしまり、
もうどこまでも歩いていける。
「熊狩りだ」と、とうさんがいった。
「きょうは山へ、キムンカムイをおむかえにいくぞ」
「ぼくも、つれてって」
「だめだ、だめだ。きょうは、山で泊まりだ。
小屋もつくれぬこどもなんぞ、足手まといにしかならん」
とうさんは、弓をもち、矢筒を背に、顔をかがやかせ、
みんなといっしょに、セタをつれて山へはいっていった。
まっ白な息を吐きながら、のしのし森へはいっていくとうさんたちを、
ぼくは足ぶみをしながら、みえなくなるまでみおくった。

▼5
つぎの日、とうさんはかえってこなかった。
そのまたつぎの日も。
そとに出ると、こおりついた夜空に、三つ星が高く光っていた。
あれは天のいろりのおき。
あたたかないろりもない山のなか、とうさんはどうしているだろう。

きょうも、とっぷり日がくれた。
それなのに、とうさんは、まだかえらない。
「だいじょうぶかな」
かあさんは、ろばたでシンタをゆらしながら、うたうようにこたえた。
「だいじょうぶ。火のカムイがまもってくださるから」
まきがぱちっとはねて、めらめら炎がたちあがった。
そのとたん、とおくからセタの声がきこえてきた。
そとにとびだすと、月あかりにてらされてきらきらと光る道を、
とうさんたちが、えものをしょってもどってくるところだった。
せなかが小山のようにもりあがり、
まるで天からおりてくる、りっぱな熊の行列のようだった。

▼6
「ほうら、キムンカムイからのいただきものだ」
どさり、とせなかからおろしたのは、
たっぷりの肉と、みたこともないほどりっぱな毛皮。
それから、とうさんは、ふところをひらいて、
ちいさなけものをとりだした。
「子熊だ!」
ぼくよりもさきに、かあさんがすっと腕をのばした。
「おお、よしよし。さむかったでしょう。こわかったでしょう」
かあさんは、子熊をしっかりだいて、おっぱいをふくませた。
子熊は、しがみつくようにしておちちをすった。
「赤ちゃんなんだね」
「ああ、まだ目があいたばかりだ。けれども、りっぱなキムンカムイだ。
カムイの国からやっていらした、たいせつなお客さまだ」
ぼくは、こわごわと子熊をのぞいた。
はじめて熊の匂いをかいだ。

その夜は、コタンのどの家もどの家も、おなかいっぱいオハウをたべた。
あぶらみいっぱいの、とろりとおいしい熊肉のオハウだ。
たべきれなかった肉は、ほそく切って火棚でいぶした。
その日はからだが芯からあったまり、あさまでずっとほかほかしていた。

▼7
子熊はぐんぐんおおきくなって、じきにおちちをのまなくなった。
毛はふわふわで、目はくりくりだ。
かあさんは、ごちそうをつくって、
家のなかのだれよりさきに、いちばんおいしいところをあげる。
子熊はうれしそうに、はぐはぐいいながら、それをたべる。
みているぼくまで、うれしくなる。

おなかがいっぱいになると、子熊はあそびたがる。
ぼくのあとばかりついてきて、まるで小さな妹のようだ。
いろりでちろちろ火がもえていると、
ふしぎそうなかおをして、つっとその手を出そうとする。
「あぶないよ」ととめるのは、兄さんのぼくのやくめだ。

ねむるときも、いつもいっしょだ。
うでのなかで、くうくうねいきをたてる。
ときどき、手足をうごかして、おちちをすうようなしぐさをする。
やっぱり、かあさんがこいしいんだろうか。

▼8
雪がとけ、草がみどりにもえるころ、
子熊はよほどおおきくなって、そとであそぶようになった。

ぼくらは野原でかけっこをした。
ぼくがはしると、子熊もどこまでもどこまでも、ころがるようについてきた。

きのぼりだって、ずいぶんうまい。
けれども、おりるのはとってもへたで、
いつもあまえた声をだすから、ぼくがおぶっておりてやった。
いちどはセタにおいかけられて、あんまりあわてて、
こずえまでかけのぼったものだから、たいへんだ。
子熊はこわくてわあわあなくし、高くて助けにいけないし、
とうとう、とうさんをよんできて、おろしてもらったこともある。

▼9
それから、ぼくらはすもうもとった。
子熊はちいさくて、かんたんにころげる。
一度ころがし、二度ころがし、
三度めにころがすと、子熊はいつもほんきになって、きばをむいてかかってきた。
それでもあんまりちいさいから、ころんとかんたんにころばせるけど、
かわいそうだから、まけてやる。
すると子熊はさもじまんそうに、ふん、とはなをならすのだ。

▼10
夏に草木がのびるように、子熊もぐんぐんおおきくなった。
すもうをしても、もうはんぶんはぼくのまけだ。
それでも子熊は、爪もたてない。かんでも、ぜったいあまがみだ。

ある日、むちゅうで魚とりをしていたら、
いつのまにか日がかたむいて、きがつくと子熊がいなかった。
ぼくは、まっ青になった。
まさか、ひとりで森へかえってしまったのだろうか。
おーいおーい、とさけびながら、ぼくは川原をはしった。
太陽はもりあがった雲のむこう、雲のふちが金色にかがやいていた。
そこからあふれた光が、空いっぱいにひろがっている。
川は金の小舟をうかべたように、まぶしくきらきら光っていた。
目をほそめてよくみると、
むこう岸の石ころだらけの川原にぽつんと、ずぶぬれの子熊がいた。
すわりこむようにして、ぼんやり空をみあげている。
おーいとさけびながら、ばしゃばしゃ水のなかをはしっていくと、
子熊はやっと気づいてふりむき、ひと声おおきくないた。
なんだか切ない声だった。
そして、ぼくにむかってまっしぐらにはしってきた。
ざぶんと水にとびこんで、いっしょうけんめい泳いでくる。
けれど、流れがあんまりきゅうで、子熊は流されそうになる。
やっとの思いで子熊をだいて、ようやく岸にもどったときには、
空はもう、こわいほどまっ赤にもえていた。
子熊はふるえながらぼくにしがみつき、空をみあげた。

空にむくむくのびる雲は、まるでおおきな熊のかたち。
夕焼けで、血のように赤くそまってた。

▼11
「だから、つなをつけろといっただろう」
しかられるかとおもったけれど、ひとこと、そういわれただけだった。
とうさんは、子熊のあたまをぐりぐりなでて、
「そうか、そうか。もうひとりで川をわたれるのか」と、目をほそめた。
「どうだ。すもうはまだ、子熊がまけてばかりか」
「はんぶんは、ぼくのまけだよ」
そういうと、とうさんはおおきくうなずいた。
「そうか。子熊もずいぶんおおきくなった。力もよほど強くなった。
そろそろ、ちゃんとした家をつくってあげなければいけないな」

とうさんがチセのそとにつくったのは、丸太で組んだおりだった。
子熊は、昼も夜も、そこでくらすことになった。
夜になると、チセにいれてくれと、かなしげな声でないた。
その声がせつなくて、ぼくは耳をふさいだ。

▼12
秋になった。
森は赤や黄にそまり、どんぐりやくるみでぎっしりとうなるほど。
こくわやあけびのあまい香りが、もうどこにでもただよっていた。
川は、さけでいっぱいになって、うるうる銀色にもりあがる。
人間も熊もきつねもとりも、みんな、かがやく光のなかだ。
ああ、ここに子熊がいればと、ぼくはなんべんおもっただろう。
子熊のために、ぼくはいちばんあまいこくわをつみ、
高くはねるさけをとった。

子熊はますます大きくなり、毛は金色にかがやいて、
爪も牙もよほどりっぱになった。
それでも、しぐさはまるで子どもで、
ぼくがそばにいくだけで、さもうれしそうにのどをならす。
丸太のあいだから手をいれると、ぐいぐいはなをおしつけてきて、
いつまでも、森と川の匂いをかいでる。

▼13
風に雪のにおいがするとおもったら、白いものがふってきて、
それから三日ふりつづき、あたりはすっかりまっ白になった。
冬のはじまりだった。

ある日、けだものがほえるような声がして、
おどろいて見にいくと、子熊がおりのなかであばれていた。
ふりしきる雪に、しきりにほえかかっている。
「どうしたの。なにをそんなにおこっているの」
子熊をなだめていると、とうさんがやってきた。
「とうさん。狼でも、きたのかな」
「心配するな。そろそろ、カムイの国にかえりたくなったんだ」
「カムイの国って?」
「この子のかあさんがいるところさ」
ああ、かあさんにあいたいんだ。だから、こんなにほえるんだ。
「おぼえているかい。この子が来た日のことを」
どさり、とおかれた肉のかたまり、りっぱな毛皮。
そしてとうさんは、ふところから子熊をだした。
やっと目があいたばかりの、ちいさな子熊を。
「この子のかあさんはね、たくさんの肉をせおい、毛皮の服をきて、
カムイの国から、わたしたちのところにあそびにきてくれた。
そして、この子をわたしたちにあずけ、カムイの国へかえっていった。
いまごろはカムイの国で、この子がくるのを、いまかいまかとまってるだろう」
とうさんは、ぼくの肩にそっと手をおいていった。
「だから、この子を送ってやろう。カムイの国へ」

▼14
ぼくは知っている。送るということを。
川でさけをとるときに、やなぎの木でつくった、きれいな棒でたたくんだ。
すると、さけは死ぬ。
送られて、カムイの国へもどる。

子熊を送るのも、おなじことだ。

▼15
熊送りがきまると、家のなかがきゅうにいそがしくなった。

とうさんたちは、山へ木を切りにいった。
かえってくると、その木でみんなでイナウづくりだ。
マキリをすべらせると、するするとはなびらのようなけずりかけができて、
みるみるきれいなイナウになる。
「カムイたちは、イナウがとてもすきなんだ。
イナウはカムイへの大切なおみやげなんだよ」

かあさんたちは、ひえでお酒をかもした。
いく日かすると、シントコからいいにおいがしてきた。
フチたちがやってきて、うたいながらお酒をこした。

とうさんたちは、イナウや花矢をつくるのにいそがしく、
かあさんたちは、ごちそうのしたくでてんてこまいだった。
みんなみんな、熊送りのしたくでおおわらわだ。

いつも人があつまって、にぎやかだった。
心がうきうき、うきたつようだ。
けれども、ぼくはくるしかった。
その日がくるのが、こわかった。

▼16
その日、空はきいんと青くはれ、雪はいたいほど白かった。

東の窓にはきれいな花ござがかけられ、
子熊へささげるおだんごや木の実や宝物でいっぱいだ。
とうさんは、あたらしいけずりかけのついた冠をかぶり、
ししゅうのきものをきて、ずいぶんりっぱにみえる。
エカシがやってきて、火のカムイにお酒をささげ、カムイノミをした。
とうさんも、いろんなカムイにいのりをささげた。
それからまだまだ、たくさんのカムイノミがあって、
とうとう子熊が、おりからだされるときがきた。
子熊の首に、ふといつなが二本つけられ、おりの床がはずされた。
やっとおりからでられた子熊は、
ぼくをみて、うれしそうにかけてきた。
けれども、ぴんとつながはり、子熊はぼくのところへこられない。
子熊はおこってたちあがる。
その子熊のはなさきで、笹の葉のたばを、ばさばさゆらす人がいる。
子熊を遊ばせるんだというけれど、
まるで、わざとおこらせているみたいだ。
子熊はつなでひかれていって、ひろばの杭につながれた。
さんざん笹であそばされ、子熊はいよいよたけりくるう。
体がぶるぶるふるえてる。
「なんておどりのうまい子熊だ」
「もうすぐカムイの国にかえれるので、あんなによろこんでいるよ」
旅立つ子熊をはげますために、みんなぐるぐる輪になって、
うたっておどって、手拍子をとる。

▼17
やがて子熊に花矢が射られる。
きれいなもようのついた飾り矢だ。
こどもたちが、さきをあらそって矢をひろう。
ぼくは一歩もうごけない。
心の臓がどきどきして、ただただ目をみひらいていた。
うたと手拍子がごうごうひびく。
子熊がその手ではらった花矢が、足もとにころがってきた。
「さあ、とってくれ。おまえのものだ」
ふいにそんな声がして、
ぼくはようやく気がついて、いそいで花矢をひろいあげた。
子熊は、ちらっとぼくを見て、
そのままがくっと足をおり、じっとうずくまってしまった。
すると、エカシがしとめ矢を、
するどくとがった矢をつがえ、きりりと弓をひきしめる。
ひょう、と矢がいられた。
子熊はするどくみじかくさけび、はねるようにして雪のうえにたおれた。
たおれた子熊に、あらたな矢がはなたれる。
ぐさりと腹にささった矢の、矢羽根がふるふるふるえている。
「いまこそ、カムイが旅立ちます。さあ、がんばって、がんばって」
かあさんたちがなきながら、さけぶようにうたっている。
とうさんたちはかけよって、
子熊の首を丸太にはさみ、馬のりになってしめつける。
ぼくは、花矢をにぎりしめた。
もうすぐだよ。すぐに帰れるからね。
ぼくは、ぜったいに目をとじない。
おまえが旅立つのをみおくるんだ。

▼18
わたしはちいさな熊のカムイだ。

気がつくと、わたしは自分の耳と耳のあいだにすわっていた。

美しい花矢が、東の空へとかけてゆく。
あれは、天へのしらせの矢。
かあさんは、もうすぐわたしが帰るというしらせを、うけとっただろうか。

まっ青な空から、ばらばらとくるみやだんごがふってきた。
人々はみな声をあげ、たのしげにそれをひろっている。
こんな雪のまっただなかで、アイヌの国は、なんとゆたかなところだろう。

おや、つなひきがはじまった。
あちらは男、こちらは女。
がんばれ、がんばれ。どちらも、がんばれ。
わたしもおもわず、つなをひく。
おやおや、こんどはすもうだぞ。弓くらべも、はじまった。
わたしは、ゆかいでたまらない。

首になわをつけた男が、あばれるわたしのまねをしている。
女や子どもはにげまどい、大の男もなげとばされる。
みんなはどっとわらいだす。わたしも腹のそこからわらう。

ああ、アイヌの国は、なんとたのしいところだろう。

▼19
ぼくは、アイヌの男の子だ。

子熊の毛皮ははがされて、肉は枝につるされた。
つなひきをしたり、うたったり、みんなはそれはおおさわぎ。
なにもかもが夢のようで、うれしいんだか、かなしいんだか、
ぼくは、あたまがぼうっとなった。

きれいにかざった子熊のあたまを、チセにまねいてごちそうだ。
おだんごにお餅、いなきびごはん、魚や煮物、お酒もたくさんふるまわれる。
のんで、うたって、おどって、たべて。
チセは、わらいごえでいっぱいだ。

それから、肉のオハウがでてきた。
あぶらみばかりの、とろりとおいしい、あつあつのオハウだ。
おいしい、おいしいとぼくはたべ、それからふいに思いだした。
これは、あの子熊の肉。
ついさっきまで、子熊だった肉。
ぼくは、子熊をたべている。

ああ、あのときもそうだった。
子熊がここにきた夜に、おかないっぱいオハウをたべた。
あれは子熊のかあさんの肉。
ぼくは、子熊のかあさんをたべたんだ。

それだけじゃない、みんなみんな、
魚も鹿も、きびやくるみも、ぼくは、いのちをたべている。
みんなのいのちをたべている。
ぼろぼろ、なみだがこぼれてきた。

「なくんじゃない。子熊のカムイがかなしむぞ」
エカシが、ぼくをはげました。
「さあ、たのしく送ってさしあげよう」

▼20
わたしは、ちいさな熊のカムイだ。

夜ふけになると、ユカラがはじまった。
ろばたをたたいて拍子をとって、手に汗にぎる、だいぼうけんのうた物語。
さあ、どうなるかとおもったとたん、エカシはぷつりとやめてしまった。
「このつづきはまたこんど、ゆっくりおきかせいたしましょう。
われらのコタンに、いらしたおりに」
ああ、きっとまたもどってこよう。
わたしはそう、心にきめた。

いよいよ別れのときがきた。
わたしは、耳にたかだかとイナウをかざられ、
きれいな着物をきせられて、東の窓からあゆみだす。

星々がおそろしいほどきらめいていた。
美しい花矢が、東の空へとかけてゆく。
ながれ星のように光の粉をまきながら、深い闇を切りさいてゆく。
空にひしめく魔物はしりぞき、銀色の道があらわれる。
カムイの国へとつづく道だ。

アイヌのくれた酒のひと滴は、カムイの国では六樽の酒だ。
山のようなみやげをせおい、わたしは銀の道をゆく。
カムイの国がちかづくと、そこらはとてもまぶしく光り、
そのむこうから、かあさんのやさしい声がした。

▼21
夜明けまぎわに、雪がふった。
野辺にも、高くかかげられた子熊の頭にも、うっすらと雪がふりつもった。

「ゆうべ、あんなに晴れてたのにね」
かたづけをてつだいながら、こどもがいった。
エカシはこたえた。
「キムンカムイが、自分の足跡を消すために雪をふらせたんだ。
ふしぎなもんだ。どんなに晴れた夜だろうと、
キムンカムイを送ったあとは、かならずこんな雪がふる。
さらさらと流れるようなこな雪が」
しんとつめたい風のなかに、光の粉が舞っていた。
こどもはまぶしげに、とおい山をみあげた。

「熊の子を洗う雨」がふったのは、それからまもなくのことだった。

▼22
いちめんの白が緑にかわり、はげしい夏の光がみちて、
実りの秋には赤や黄になり、またいちめんの白になる。
いくつもの季節がとぶようにすぎていった。

こどもはすっかりいい若者になり、コタンいちばんの狩人になった。
ユカラもコタンのだれよりうまく、みんながそれをききたがる。

ある年のこと、太陽は雲のむこうで白くかすんでいるばかり、
秋になっても、木の実は実らず、畑のヒエも実がはいらない。
鹿は森から消えてしまい、さけもすこしものぼってこない。
赤毛のあばれ熊が山からおりてきて、夜な夜なコタンをおそった。
あのウエンカムイをやっつけてくれと、若者はみんなにたのまれた。

その夜、若者は夢をみた。
子どものころにいっしょにくらした、あの子熊の夢だ。
子熊はひとり、夕ぐれの川原で、ぼんやり空をながめてた。
雲のふちを金色に輝かせた光が、空いっぱいにひろがっていた。
子熊は、こちらをふりむくと、泣くようなわらうような顔をしたのだ。

目覚めると、若者はおもった。
ああ、あの子熊がウエンカムイになったのだ。
子熊よ、あんなにやさしくしたのに、なぜそんなものになったのだ。
若者は、首からかけたひもをちぎってなげた。
ひものさきには、あの日の花矢がついていた。

▼23
若者が川原にいくと、そこには小山のようにおおきな熊がいた。
とおいあの日のように、すわりこんで、ぼんやり空をながめていた。
若者がそっとちかづくと、熊は気づいてこちらをふりむき、
にわかに両腕をおおきくひろげ、ぐわっとたちあがった。
太陽を背にして、顔もなにもかもまっくろだ。
毛皮のふちだけがきらきらと金色に輝いていた。
若者はあわてず矢をつがえ、熊にむかってひょうとはなった。
熊は両手でその矢をおしいただくようにして、
それから、ばったり前にたおれた。

近づいて顔をつかみあげると、血のりでまっ赤にそまっていた。
手も足も胸も血まみれだ。
たった一本の矢でこんなに血まみれなはずはないと、
若者がふしぎにおもってみれば、川原に点々と、血のあとがある。
おどろいて、そのあとを追うと、川のなかで赤毛の熊が死んでいた。

熊は、若者を助けるために、カムイの国からやってきたのだ。
いのちがけでウエンカムイをたおし、ここで若者をまっていたのだ。
カムイの国からかついできた、肉と毛皮を手わたすために。

「わるかった、わたしがわるかった。
おまえが、ウエンカムイになるはずがないのに」
若者は、声をころしてないた。
そして、小枝で石をたたき、低い声でユカラをうたいはじめた。
あの日、途中で終わったユカラのつづきを。

▼24
若者は、酒とイナウとささげ、ていねいにキムンカムイを送った。
すると、森には鹿がもどってきて、川にはさけがのぼってきた。
コタンは、二度と飢えることがなかった。

やがて若者は、心のやさしい女と結婚し、こどもにもめぐまれた。
山にいけば、いつも必要なだけのえものがとれた。
これといってほしいものもなく、たべたいものもないというほど、
なにもかもがみちたりて、しあわせにくらしたということだ。

▼25
その若者が、わたしなのだ。
だから、子どもたちよ、よくおぼえておくんだ。
わたしたちは、いのちをたべている。
いのちと魂との、おおきなめぐりのなかにいる。
すべては、めぐるいのちのめぐみ。
と、ひとりの老人がいいながら、静かに息をひきとりました。

▼26
用語解説