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インタビュー 黒田 武彦[くろだ・たけひこ]
インタビュアー 司 加人

―― プロフィールを拝見すると、大学は教育学部に進まれています。教員志向だったのですか?

教育学部でも教員免許を取らず、教官の支援で東北大へ


( 黒田 ) 「天文学」をやりたいとはっきりした意識を持ったのは高校時代でした。しかし、大学進学のガイドなどで探しても天文学をやっているところは数少ないことが分かりましたし、進路指導の先生も天文学をやるのにどこの大学へ行ったらいいか分からないという感じでした。

それで、本屋で天文の本をあさっていくうちに、いろいろな方の著書を拝見して、高校生の分際でそういう先生たちに全部手紙を書いたんです、天文学やりたいと。結局、香川大学へ行ったのは、そこの三沢邦彦先生が唯一「ウチへいらいっしゃい、一緒に観測しましょう」と言ってくれたんです。飛びあがらんばかりに嬉しかったのを覚えています。その一言で決めました。学芸学部(後の教育学部)というのは当然教員免許を取らなければ卒業させないと教務課などから言われたんですが、天文とか物理とかの勉強をやれればいいやという変り種ではありました(笑い)。

卒業を数ヵ月後に控えたある日、地質学や鉱物学の教官達が、天文学をやりたいなら、大学院へ行ってもう少し専門的な勉強をした方がいいよとおっしゃってくださった。ところがお金がないので決めかねていると、ある教官が私名義の貯金通帳を作り、これを使えよということで、東北大学にお世話になることになりました。感謝感激でした。もっともそれが我が人生の紆余曲折、七転八倒、右往左往の始まりでしたが(笑い)。

―― それで、東北大学へ進まれたわけですが、どういう形だったんですか?

( 黒田 ) 大学院へいくつもりだったのですが、時あたかも戦国?の世、安保闘争の波は全国に広がり、東北大も私もそのまっただ中に入ってしまいました。封鎖、ロックアウトの繰り返しで、まとまった勉強はできず、研究生として2年間いたのですが、結局、体力と金が続きませんでした。何のあてもなかったのですが地元に帰って、新聞広告で自動車の販売会社に入ったわけです。

―― 車のセールスをやった?

( 黒田 ) イヤー、もうお感じになったように、私、口下手ですので(笑い)、ユーザーの事故担当などをさせていただきました。まったく専門外だったんですが、これは後に随分役に立ちました。仕事のやり方、ものの見方、接客などを学ばせていただきました。そして企業というところは若造であろうと、年配であろうと、筋が通っていること、つまり儲けるという企業論理はともかく、目標に到達するための方法が正しければ採用されるんだという哲学を学んだことですね。

―― そして、2年弱で大阪市立電気科学館というところに職を得て、ようやく「天文学」に近づくわけですね(笑い)

( 黒田 ) 東北大の主任教授から紹介を受けて、受験しました。実はここは、昭和12年に開設された日本で一番古くプラネタリウムを設置した施設です。ドイツに視察に行った市会議員がこれはおもしろいということで急遽設計変更までして導入したんですが、作家の織田作之助の著作にも登場して、大阪の一種の名所みたいになったんですね。翌年、東京にもできましたが、戦災でやられてしまって、数年しか持ちませんでした。戦後になって、有名な東急文化会館ができましたが、残念ながら昨年閉館になってしまいましたね。



西はりま天文台への道も紆余曲折が…


―― それから、今日の西はりま天文台への道に繋がるのでしょうが、それに繋がるまでもいろいろあったわけですか?

( 黒田 ) ありました(笑い)。なにせ市立ですからお役所体質そのもの。あれもやりたい、これもやりたいと思っていましたが、あまり仕事をするとしかられるんです(笑い)。わずかとはいえ、会社勤めを経験しましたので、そこで学んだ、仕事に対する取り組みや発想法でやろうとしたのがとんでもない間違い?だったんです。上司からは言われた以上の仕事はするなとか、労働組合からは予算にない仕事はするなとか、いわば労使双方からしかられて(笑い)、随分戸惑いました。民間とはまったく違ったやりかたでしたね。最近、お役所も民間活力の導入とか言って、あたかもお役所的体質を除去したかのように見えるんですが、本当に大事なところではそうなってないんですね。ちょっと、話しがそれましたが…。

―― 結局、17年在籍され、天文台にも13年おられるわけですが、天文台に移られるにはすんなりだったんですか?


( 黒田 ) すんなりではありませんでした(笑い)。電気科学館も50年以上経過し、もはや最新の科学技術に対応できなくなってきたため、新しい科学館を中之島に建設しようという話しになり、若輩ながら、その設立準備室に配属されました。いわば新しい科学館の中枢に近いところで仕事をしていたことになります。

大企業から丸ごと寄付の科学館だったものですから、利害が一致しないところも多く、様々な局面で意見も異なりました。新しいプラネタリウムの選定やソフト制作、大型投影装置の打ち合わせ、展示の企画案の詳細検討など、深夜まで頑張っていました。そのうち兵庫県の方から、西はりま天文台の話しがきましてね、最初は委員の一人として携わったのですが、そのうち天文台長候補にあがってしまいまして、とりあえず水面下でやりとりをしていました。大阪市からは慰留されましたが、結局、本物を相手にする施設に魅力を感じました。自分の処遇は全く考えず、いかにいい天文台を作るかということで相当突っ込んだ意見交換を県の人としました。

その結果、研究を主目的としない公開施設としては珍しく相当の研究費をつけてもらい、地方の大学の先生方から羨ましがられたほどでした(笑い)。もちろん自分の給与等、処遇を問題にしなかったので、若手スタッフの安月給の原因をつくってしまいました。これは大いに反省すべき点です。



教育・普及だけでなく市民を巻き込んで「研究」にも注力したい


―― ようやく、これで本論に入れるのですが(笑い)、改めて西はりま天文台の目指している方向といいますか、コンセプトを伺います。

( 黒田 ) えらそうに聞こえるかもしれませんが、公開施設でありながら、「研究」と「教育・普及」を活動の両輪ととらえ、どちらにも力を入れようというのが基本的なスタンスです。1990年、望遠鏡は口径60センチでスタートしましたが、最新の機材も導入しようということで、当時は全国でも国立天文台が導入したばかりの窒素冷却型CCDカメラを取り付け、本格的な研究もできるような態勢にしました。ただ、10年たちますと陳腐化してきますから、昨年からやっと、口径2メートル望遠鏡の設置に向って動き始めました。2004年、これが稼働しますと、日本では一番大きなものになり、新たな活動が展開できるものと期待しています。公開施設では世界一になります。

―― 望遠鏡の大きさもさることながら、いわば公共天文台でそういうコンセプトを掲げてやっているところはあまりというか、ほとんどないんではありませんか?

( 黒田 ) そうですね。1990年以降、私どものやり方を参考にして作られたところはかなりあるようですが、それまでは天文台といえば単に天体を見たり撮ったりして楽しむところという程度でしたね。自分たちで研究しながら新しい情報をどんどん仕入れていかなければ、生き生きとした普及、教育はできません。必要な情報を的確に人々に返していけない。結局は単なる見せ物小屋になってしまうんですね。 それに、私が重視したいのは、そういう研究・探求は市民を巻き込んで実践したいということです。研究や探求する過程を通じて、科学的なものの見方や考え方を体得していただく、すなわち生きていく上での論理的な思考を養っていただけると思うんです。自然の中で我々はどうあるべきか、謙虚さの必要性もこんなところから感じ取ってもらえると思います。自分を見つめる目、社会を見つめる目を育てていただき、人類の真の豊かさにつなげていくことができる活動、永遠のテーマかもしれませんが…

―― ところで、たまたま森本さんという偉大な先輩から、園長という名実共に全体を引き継いでいかれることになったわけですが、改めてここの運営という点で抱負を伺いたいのですが。

( 黒田 ) まあ、いままでもやってきたわけですので、とくに路線変更ということはありません。従来、非常勤嘱託だった園長職が常勤に変わったということで、きめ細やかな対応が可能にはなるとは思います。ただ、みなさんがここに来られて「いいところですねえ」と異口同音におっしゃいますが、本当に「いいところ」にしたいと思っています。それは何度でも足を運んでみたい、足を運ぶごとに新たな発見や驚きがある、そんな施設だと思っています。楽しく役に立つ展示をつくりたい、散策路に工夫をこらし散歩の楽しみを倍加させたい、休憩スペースを設けてゆっくりとくつろいでいただきたい、芝生広場に木陰をいっぱいつくりたい、宿泊者が参加できる行事を工夫して楽しみの機会を増やしたい等々、やりたいことがありすぎて困っています。

―― そのへんはお金の問題なのかその他の要因なのかという点ではいかがですか。

( 黒田 ) 予算的には欲を言ったら切りがありませんが、要は人、それもただスタッフの人数を増やすということでなく、一人一人のスタッフがホスピタリティをどのように発揮するかという点が大切だと思います。まずサービス機関だということを常に忘れないようにすることです。そして質の高いサービスを提供するために、研究環境の整備も欠かせない問題です。



日本の公共天文台の数は250と世界一。だが、活動実態は…


―― ここは、公共天文台であり、天文台公園という形ですが、この種の施設は多いのですか?

( 黒田 ) いま、全国で250くらいあります。この数は世界一です。アメリカといえどもこんなに多くの公共天文台はありません。

―― 日本の文化水準の高さと素直に考えていいのですか?

( 黒田 ) うーん、そう言いたいのですが、作るきっかけは安易だったかもしれません。一つは、85年から86年にかけてハレーすい星が接近し、一種の天文ブームを起こしましたね。次に、竹下内閣の例の一億円創生事業でした。この資金の使い方をみると、天文台だけではありませんが、天文関連は使い道の第2位なんですね。この理由はなんだと、当時よく聞かれました。私自身の分析ですが、各自治体はすでに博物館、図書館、公民館、美術館などほとんどのハコものは作ってしまった。それじゃあ残っているもので住民に夢を売るものは何か? 星しか残っていなかったと思うんですね。バブルも追い風でしたし、都市化の波が押し寄せて、日本人もようやく自然回帰の方に本能的に向ったのかな、という思いもありましたが…。

しかしながら安易な部分があったことは否めません。天文台というハコものを作ればお客さんが来るだろうという発想で、専門の人材を置かずにスタートしている。アンケートを行ったのですが、専門職員ゼロという天文台がなんと12%もあるんです。驚きです。私は、天文台には小さな望遠鏡でもいい、極端に言えば、専門の人がいさえすればいいのですと申し上げるんですが、最小限の要員さえ配置していないところが圧倒的です。それで利用者が少ないと嘆くことになるのですが、当然の帰結じゃないでしょうか。

―― ということは、いま、美術館などもそうですが、天文台も開店休業、四苦八苦しているところが多いということですか?


( 黒田 ) そうです。かなり前から予測し、訴えてきたんですが…。ただ、こういう分野は人の心を動かせる分野ですから、うまく運営していけばこれほど素晴らしい施設はないと私自身は自負しています。これだけの数の公共天文台が有効に機能すれば、世界に誇れる文化を形成できると思うんですね。せっかく作った施設を有効に使わないというのは、いかにももったいない話です。

―― ところで、ここの現状はお客さんの大半は子供たちですか?

( 黒田 ) いいえ、そんなことはありません。実は、私どもの施設は県の教育委員会の所轄ではなく、産業労働部の所轄で、いわば勤労者のための施設なんですね。勤労者に自由時間をいかに有効に使っていただくかということでできた施設なんです。ですから、本来、大人向けの施設なんです。もちろん利用者数では小学生が多いことは事実ですが、家族連れ、若者のグループ、大学生の実習や研修などが結構類似施設と比べると多いですね。



生命との関わり−人間と宇宙の関係追求が天文学の究極


―― 宇宙・星というところに話しを移したいのですが、最近でもアマチュアの人達が新しいすい星を発見したなどの報道が続いています。そういう意味では天文ブームというのはまだ続いていると考えて良いのでしょうか?

( 黒田 ) 難しいところなんですが、たとえば科学雑誌の購読数で見ると、全盛期よりかなり減少しています。天文の専門雑誌は3誌あるのですが、科学ブームの際は3誌合わせて50万部近くまであったようですが、いまは20万部前後ではないでしょうか。不況などの一般的な影響もあるでしょうが、子供たちや若い人たちが何かに興味を持って行動をするということが若干少なくなったような気もします。それは、アマチュアの天文グループの活動にも現れています。若い人たちが同好会を作ったり、同好会に入って一緒に活動しようということが少なくなり、会員の高年齢化が進んでいます。10代、20代、30代が少なくなって、若くて40代で、50代、60代が活動の中心という状況で、ちょっとこのままでは危ういかなと思っています。

―― その原因はどういうことが考えられるんでしょうか。教科書の問題ですか、指導要領の問題ですか?

( 黒田 ) 若者を取り巻く社会構造の変化を抜きに語れないとは思いますが、その面白さを伝えてくれない小中学校の理科教育も問題でしょうね。宇宙がほとんど無視されている。宇宙っていうのは子どもたちがもっとも関心を寄せる分野の一つです。ところが小中の指導要領を見ても教科書を見ても、私がもっとも大切にしたい宇宙と生命との繋がりには全く触れられていない。人間をはじめ生命の材料は星の営みによって作られたんです。人間だけではなく、すべての生命、すべての惑星、太陽、みんな同じ材料からできあがったのです。みんな仲間だという意識、宇宙から学ぶことができるんです。

私たちを取り巻く自然は何十億年というとても長い時間をかけて育まれてきました。人間の刻んだ歴史はまだほんのわずかです。こんな事実を見据えると本質的な環境教育ができると思います。しかも宇宙の歴史はストーリー展開ができる唯一ともいえる自然科学分野、子どもたちにもとてもわかりやすく理解してもらえると思うんです。私たちはどこにいるのだろうか、私たちはどこから来たのだろうか、この素朴な疑問を解決するのが宇宙構造論であり、宇宙進化論。究極の天文学の目標でしょうね。



人類のふるさと・宇宙は確実に膨張している


―― 正直言って、黒田さんの著作を拝見するまで、我ら人類と宇宙が繋がっているとか、宇宙の解明は人類のルーツ解明に繋がるとか、宇宙は膨張し続けているとかという意識というか知識というか、ほとんど持ち合わせていませんでした。さらに言えば、「宇宙」というのはどう考えたら良いのでしょう。


( 黒田 ) いっぺんに大きなテーマになりましたが(笑い)、まず「宇宙は膨張している」というのは観測できちんと説明できます。身近な例で言うと、救急車のサイレンが近づいてくれば音が高くなり、遠ざかっていけば低くなるという原理−ドップラー効果を使います。この方法を光に適用して、宇宙の中にたくさんある銀河を調べると、銀河が我々から遠ざかっているという動きをしているわけです。これは、我々を中心に銀河が広がっているんじゃなくて、宇宙全体が膨張している証拠だったんですね。ちょうどたくさんの米粒(銀河に相当)をつけた風船を膨らませていくと、米粒どうし、互いに広がっていきますよね。ちょうどそのような運動を宇宙はしているということなんです。

1929年にハッブルという人が見つけました。膨張を逆に考えてみてください。風船の空気を抜いて縮めていくのと同じように、宇宙の膨張を逆にたどると、およそ130億光年から140億年光前に一点に集まってしまうんですね。宇宙は昔、小さかったのです。そんな証拠がもう一つ見つかっています。宇宙の温度を測ってみると星のないところ、天体のないところでもマイナス270度くらいの暖かさがあるんです(笑い)。極寒以上の世界なのに、変な表現かもしれませんね。でも絶対温度の0度からすると3度ばかり暖かいんです。この温度は何からきたものかと調べてみると、宇宙のあらゆる方向がそういう温度なものですから、これは大昔非常に熱かった時代の反映であるということが分かってきたんですね。小さな小さな火の玉宇宙の名残というわけです。1965年にペンジャスとウイルソンという人が発見しました。

こういう二つの観測結果から、宇宙は昔は小さく熱かったけれど、大爆発によって広がりはじめ、約140億年後の現在、大きな広がりをもつ、全体としては冷たい宇宙になったんだなという、ビッグバン宇宙という説がここ3、40年で確立してきたんです。

この140億年の宇宙史は物質の合成と変遷の歴史だといっても過言ではありません。宇宙最初の数分間でできあがった物質というのは水素とごくわずかのヘリウム、リチウムのみであり、現在、地球上にある様々な物質は、その後の星の誕生、死を繰り返す中で、星の中心部の核融合反応と一生の最後の超新星という大爆発の際に合成されたものであるというのが重要な点です。つまり生命の材料を育んでくれたのは宇宙そのものなんですね。私が「宇宙は私たちのふるさと」と言う理由はここにあります。

―― そう言えば「宇宙」という言葉は?

( 黒田 ) 中国から来てますよね。時間的広がり、空間的広がりという意味なんですが、正に言い得て妙です。どこまで宇宙が広がっているか、よく質問を受けますが、わからないとしか言いようがありません。我々が認識しうる宇宙といいますか、やってくる情報は130億光年とか140億光年先が限界なんですね。宇宙の地平面です。その辺りは光の速度で遠ざかっていますから、そこから向こうの情報はやってこないのです。その先にも宇宙はあるのでしょうが、そこが我々が認識できる宇宙の果てであり、その先は認識外ということになってしまいます。



"明るいこと"が子供たちの健康に与える影響を真剣に考えよう


―― だんだんインタビューが混迷の方向に行きそうですが(笑い)、いずれにしても、日常、宇宙というか、天体・星を観測している中で、我々生命体との関連で、これは問題だという現象というか事象をお感じになっていますか?

( 黒田 ) それは明確にありますね。もっとも手っ取り早いのは人工衛星が映した写真ですよね。夜でも、全国土の輪郭がくっきり見えるのは世界でも日本だけです。それだけ明るいことはいい事だということで日本は進んでいるんでしょうね。この明るいことが人間に影響し始めています。ずーっと明るい中で生活することによって眼の瞳孔の調節機能が劣り始めているという報告があります。とくに子供に顕著に見られるようです。

もう一つは直接天体とは関係ありませんが、体温調節の問題も指摘されています。エアコンによって常に一定の温度下で快適な生活を送っているようにみえますが、本来人間は汗をかいたり鳥肌をたてることで体温の調節を図ってきました。エアコンがあればそんな機能は必要ありませんから、これまた子どもから体温の調節機能を奪おうとしています。平熱の低温化がそれを物語っているとも言われていますね。快適とか利便というものが必ずしも人間のためになっていないという例の一つです。

ところで、空を明るくしないでと訴えると、天文をやっているやつのエゴだとよく言われますが、生物にとって夜が暗くて、昼間明るいというのは自然そのもの、大原則なんですよね。にもかかわらず、明るいことは善のように世間では位置づけられている。体温の調節もそうですが、自らの首を本当はゆっくりと締め付けているということなんです。人類全体で早く気がつかなければいけない。人間は自然の一員であり、決して特別な存在ではないことをしっかりと自覚したいものです。



年々見られなくなってきている暗い星たち


―― 人工衛星からの写真は向こうからこっちを見たケースですが、こちらから向こうを見ていて、環境が悪化しているという点ではいかがですか。


( 黒田 ) それはもうはっきりしていますね。暗い星が年々見えにくくなってきています。空さえ暗ければ肉眼では6等星まで見えます。空全体でおよそ4000個ほどの星が見えるはずなんです。ところが6等星まで見える地域が随分減っています。東京や大阪の中心部だったら1等星しか見えないでしょうね。人工灯火がもっとも影響がありますが、田舎の町が暗いところでも見える星が減っています。高速道路などが縦横無尽に走っていて、空にはたくさんのホコリが舞い上げられているからです。ホコリは遠くの光を散乱して、空を明るくする役割をしてしまいます。長い時間をかけて行う観測がだんだんやりづらくなっています。空の明るさに天体からの光が埋もれてしまうからです。

皮肉な例ですが、阪神淡路大震災の時に、炊き出しと共に望遠鏡を持って、神戸の人たちに星を見てもらって元気を取り戻してもらいたいと公共天文台の仲間と市内に入ったのですが、高速道路は寸断され、まだ電気もきていないという状況下、実に星が良く見えました。神戸ルミナリエという光の祭典もいいのですが、逆に一日くらい市内の灯りを全部消して、自然の星の祭典をやる、この方がよほど美しく資源の節約にもなると思うんです…。



「人間は自然の一員」を再認識して生き様を考えたい


―― 最後に、黒田さんなりの地球環境問題についてのコメントあるいは提言といったものがありましたらお聞かせ下さい。

( 黒田 ) 繰り返しになりますが、人間は自然の一員です。それを認識させてくれるのは宇宙史であり、地球史ではないでしょうか。宇宙140億年の歴史をたどり、地球46億年の歴史をたどってみて、人類の位置をしっかりと見定める、それがいまとても大切なことではないかと思っています。生物界は確かに弱肉強食、でも弱い者は食べられても種が絶滅しないようにたくさんの子どもを作ります。しかも強い者であっても、腹一杯になれば弱い者をそれ以上襲うことはありません。

しかし腹一杯になっても襲い続けるのは人間です。お金儲けができるという変な知識が備わったからでした。自然のサイクルを壊しているのはまず人間です。自然の中で人間だけは特別だという意識を捨てなければ、そのしっぺ返しは自らにやってくることは間違いないでしょう。万物の霊長って威張っていてもしようがありません。他の生物に尋ねたらおそらくこう言うでしょう。「万物の霊長だって? 自惚れもいいかげんにしてほしいよ。人間さえいなかったら俺たちもっと幸せなんだけどなぁ」と。

―― 大変な落ちがつきました。超多忙さに打ち勝って理想の実現に向って、前進されることを祈っています。





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インタビュー 黒田 武彦[くろだ・たけひこ]