寮美千子ホームページ ハルモニア 祖父の書斎/科学ライター寮佐吉

■ある科学ライターのこと/岩波「図書」1990 7 Mar. 2003


ある科学ライターのこと

寮 美千子

 物心ついたとき、おばあさんはふたりいたのに、おじいさんはひとりしかいなかった。もうひとりのおじいさん、父方の祖父の寮佐吉は、わたしが生まれる十年も前の終戦の年に亡くなったと聞かされていた。
 黒い台紙の古いアルバムを開くと、セピア色のおじいさんがいた。天井までうず高く積まれた本や雑誌を背景に、和服をきて正座、こわい顔をして本を読んでいた。まん丸い眼鏡が古めかしかった。
 「のんきなとうさんみたいだろう」と、父がいった。こんなこわい顔をして、どこがのんきなのか、わたしにはわからなかった。
 その祖父のことを、なぜか父はあまり語りたがらなかった。戦前、東京府立四中の英語の教師であったということ、理論物理を志していたということ、理科系の本を書いたということなど、何かの折にふいに言葉がこぼれることがあったけれど、それっきりだ。祖父が書いたという何冊かの著作も、空襲で一冊残らず焼失していた。

 それから年月を経てわたしは、いくつかの童話や絵本を出版するようになっていた。父はそれについて感想を述べてくれるようなことはほとんどなかった。ところが『小惑星美術館』(パロル舎刊)に対しては新聞連載中からめずらしく積極的に感想を述べてくれた。そしてふいにこんなことをいった。
 「そう言えば、おじいさんも、コンピュータの出てくる話を書いていたな」
 わたしは、膝を乗りだした。
 「人間の脳を部品にするっていう、ちょっと怪奇じみた短編だ」どこに載っていたのか尋ねたが、覚えていないという。ちょうどその頃、わたしは、父に来た膨大な年賀状の整理をしていてそのなかから、次の一通に目をとめた。
 「キュリー夫人は偉大なり。『新青年』の寮先生の文章、いまも覚えております」
 祖父の教え子からの賀状だった。
 『新青年』と言えぱ、あの夢野久作や稲垣足穂が活躍した昭和初期の、ハイカラでエキセントリックな雑誌ではないか。父の記憶にあるSF短編も、そこに載っているのかもしれない。
 仕事が一段落するのをまって、わたしの図書館通いがはじまった。

 国立国会図書館では、『新青年』のほとんどが欠号だった。索引で寮の名を探すと、寮金吉(佐吉の弟で英文学者)の本は見つかっても、佐吉の著作は見つからない。祖父は、文章を書いていたというけれど、どれくらい書いていたのだろう。あれこれ探している内に『サンデー毎日』に載っていたのを見たことがある、という話を耳にした。『新青年』を探すのはひとまず後にして、よく揃っている『サンデー毎日』を、ということにした。
 マイクロフィルム・ヴュアーに向かう。画面に文字が浮かび上がる。古い雑誌からの撮影で、不鮮明なうえに、非常に細かい。
 「こんな文字の海のなかで、ほんとうにおじいさんに会うことができるのだろうか」
 そう思うと、気が遠くなった。
 もっとも多く仕事をしているのではないかと見当をつけた、昭和十二年の『サンデ−毎日』を数日がかりでスキャンしていっても、祖父の文章は見つからなかった。徒労のような気がしてきた。目の奥がしんしんと痛くなる。根気だけの勝負だ。もうやめようかと思ったその時、翌年の新年号の広告ぺ−ジにその名を見つけた。わたしは、思わず声を出してしまった。隣の席の人が「探し物が見つかったんですね」というように、静かに微笑んだ。
 ここまで来たらいっそのこと、というわけで、昭和初年から終戦近くまでの『サンデー毎日』をすべて見てしまうことになった。その当時の人々の風俗や関心事が、手に取るようにわかる。教科書のなかに記述されただけの遠い昭和の記憶が、わたしの地続きの時間としてリアルに感じられた。そのなかで、祖父に会うのだ。明治二十四年、いまから一世紀も前に生まれた祖父、会ったこともない祖父が、わたしに語りかける。「ああ、これは口寄せだな」とわたしは思った。国会図書館は恐山だ。いまはもういない人々の魂が言葉になってその書庫に眠り、呼び出されるのを待っている。
 祖父が『サンデー毎日』で活躍したのは、昭和五年から十五年までの約十年だった。「科学に聴く」「科学は語る」というコーナーを何人かの持ち回りで担当したり、特集の科学記事を書いていた。いまでいう「科学ライター」だ。当時、科学記事の執筆者には必ずといっていいほど「理学博士」「工学博士」といった肩書きがついていた。けれど祖父にはなんの肩書きもなかった。
 祖父は、十五歳で尋常小学校准教員の免許を得て以来、教員として働きながら師範学校を卒業し、さらにいくつかの試験を経て、三十八歳のときにようやく高等学校高等科英語科教員の資格を得た。その二年後に上京、府立四中の教諭となっている。アカデミズムの人ではない。けれども、科学に対する情熱は大きく、学者として学問をすることができないのなら、科学と人々(祖父は『街頭人』と呼びかけている)とを結ぶインターフェイスになろうと決意したらしい。大正十一年のアインシュタインの来日が祖父に大きな影響を与えたことは想像に難くない。のちに見つけた祖父による翻訳書、マックス・プランク『科学は何処ヘ』(白帝書房、昭和八年)の訳者序で、こんなことを書いている。
 「学会無宿の私ではあるが、私は科学を愛する。そして世界の大きな深い科学思想を、我等の同胞に紹介することを、私がなし得る意義深き国家への責献であると思つている。そして、それはまた同時に、一般人類への貢献であるのだ」
 『サンデー毎日』の記事の中からいくつかを拾ってみると、「テレビジョン時代・一哩かなたから音楽指揮を電送」(昭和五年)、「アメリカの一九三一年はラヂオ警察時代」(昭和六年)、「宇宙の組織元素をことごとく発見」(昭和六年)など。カバーする範囲もテクノロジーの夢を語るものから、最新物理学の成果をわかりやすく解説するものまで、今読んでもなかなかの新鮮さが感じられる。『サンデー毎日』の記事が呼び水になったのか、私がコツを憶えたのか、それからは祖父の実にたくさんの記事にめぐり会えた。掲載誌も『週刊朝日』『改造』『中央公論』『読売新聞』『東京朝日新聞』など多彩で、その仕事量は想像をはるかに上回るものだった。そのほかにも天文学者アーサー・エヂントンの「物的世界の本質」(岩波書店、昭和九年)、バートランド・ラッセル「原子のABC」などを訳出して科学思想の紹介に努めた。
 昭和初期、人々は科学技術に明るい夢を抱き、雑誌には科学記事も多かった。けれども、時代が進むと、科学記事のコーナーはなくなり、かわりに映画スターやスポーツ選手の恋愛ゴシップ、皇族の結婚記事で紙面が埋めつくされていく。さらに「日本は世界の中心」「神国日本」となっていく。
 わたしがはじめに調ぺた昭和十二年は、支那事変勃発の年、客観的な科学記事がすっかりなりをひそめた年だったのだ。
 昭和十四年、祖父は「原子破壊砲」という記事を書いた。「切符一枚の原子を爆破すれば満員列車が地球を数周出来る素晴らしいエネルギーを放出」とあり、原子爆弾の可能性を説いている。検閲すれすれの内容だった。昭和十五年を最後に、祖父の記事はぱったりと途絶える。つまりは「干された」のだ。翌十六年から、日本は太平洋戦争に突入した。
 外国の科学雑誌や書籍を大量に取り寄せ、渉読していた祖父は、この戦争がいかに無謀であるかを知っていた。「事実から目をそむけてはいけない。生産力においても科学力においても、日本はかなわない。この戦争は、やめなければならない」祖父は、そう書いて各新聞社に送った。コピー機のない時代、五人の子どもたちが一部ずつ筆写したという。原稿は握りつぶされ、そのおかげで憲兵につかまらずにすんだ。
 けれども、時代は子どもたちを軍国少年に育てていった。「非国民」祖父への反発もあったかもしれない。父の長兄は、陸軍航空将校となり、昭和十八年、スマトラで撃墜戦死。二十三歳だった。長兄の死後、父が陸軍経理学校を受けたいと申し出たとき、祖父と取っ組みあいの喧嘩になったという。それでも父は願書を提出して試験に合格、経理学校へ入学した。
 祖父は、敵性語である英語を教えることもできないまま、結核を患って床についた。それでも病床で中国語の辞書を繰っていたという。食糧不足もあって、体は衰弱する一方だった。
 病状が悪化し父は寄宿舎から呼び戻された。「日本は負ける。命を粗末にするんじゃない。特攻になんか志願するんじゃないぞ」と諭す祖父に十七歳の父は「お父さん。日本は神国ですから負けません」と胸を張った。
 祖父は、それから一週間もせずに息を引きとった。葬式を終えて十日も経たないうちに市ヶ谷加賀町の家は空襲に会い、天井までうずたかく積まれた外国雑誌や書物、祖父の著書も、すべてが灰になった。寄宿舎から一時帰宅を許された父は、どこまでも見通しがきく焼け野原に、分厚いウェブスターの辞書が一冊、文字も読める形のまま灰になっているのを茫然と見たという。それから四ヵ月後、広島と長崎に原子爆弾の閃光がきらめき、日本は敗戦を迎えた。
 祖父を探すことは、戦争にいたる昭和の歴史に出会うことであり、父と祖父の苦しい思い出に触れることだった。言葉というものは、真実を語るものであると同時に、真実を隠すものだということを知った。半世紀を超えて語りかけてくれた祖父の言葉は、真摯でやさしかった。ただのテクノロジー讃美ではなく、世界とは、宇宙とは何かを知ろうとする科学に、強い憧憬を抱いていた祖父。樹木や星や原子やさまざまなものに生命力と美しさを感じていた祖父。わたしは、会ったことのないおじいさんが好きになった。
 ところで「のんきなとうさん」とは当時『サンデー毎日』に連載されていた、ほのぼのとした漫画のことだった。まあるい眼鏡に大きな鼻が、なるほどおじいさんにそっくりだとわたしと父は顔を見あわせた。

(りょう みちこ・児童文学)

初出:岩波書店「図書」1990年10月(第496号)23〜27頁


祖父の書斎へ

寮美千子ホームページへ