寮美千子ホームページ ハルモニア 月と水と夢に関する物語のための断片 3

▲これ以前の原稿ファイルへ

▼最新原稿へ

10/10/2001

 台風の夜、荒ぶる波と渦巻く海流はその浜辺に巨大な流木を打ちあげた。どこから流れついたのだろう? 波に洗われてくっきりと木目が浮きだし、滅びかけたなだらかな曲線がいいようもなく美しい。
 老人は、台風の過ぎ去った秋の朝にそれを見つけた。すべての塵は拭いさられ、空は磨かれたように眩しかった。打ちあげられた海藻やたくさんの漂流物とともに、それはそこにあった。老人は、その巨きさと美しさに息を飲んだ。見ているうちに自然と顔がほころんできた。なぜが、古い友だちに偶然出会ったような、そんな気がしたのだ。その流木は、老人にとってはじめから懐かしい存在だった。そんな巨きな流木をひとりで動かすことはできない。いや、動かすことは無意味だということを老人はよく知っていた。それは、そこで滅びていくべきなのだ。風と光と波とに晒されて。
 その日から、海岸でその流木に会うことが老人の楽しみのひとつになった。まるで、旧友を尋ねるようにそこへ行き、流木がいつもの場所にあるのを見つけると、ほっと胸を撫でおろすのだった。
 流木は、満潮で波に洗われていることもあれば、すっかりと潮の引いた砂浜で、強い日差しに照らされていることもあった。それから何度も台風がきたけれど、まるでそこを終の住処に定めたとでもいうように、流木はその渚から動くことはなかった。
 老人は時々、海岸にすわって流木を眺めた。そして、流木がまだどこかの山にあったころのことを思い浮かべた。ひと粒の種から芽を出したばかりの幼い苗を思い、太陽と月の光を浴び、やわらかい雨の滴を宿し、風と鳥の歌を聴きながら、少しずつ育っていく時間を思い浮かべた。かつてどこかにあった森の時間。誰も見ていないところでさなぎは蝶になり、誰も見ていないところで花が開き、花粉が風に舞う。木は少しずつその背を伸ばし、日当りや、地面の固さや、雨の降り方などの様々な要因で、時に曲がり、枝を延ばし、根に岩を抱き、そこにしかないたったひとつの形になっていく。
 やがて木は年老いて、朽ち果て、倒れ、流されて、ここにたどりついた。
 光や風や水が木を育てたように、同じ光と風と水がその木を削っていく。そして、いまここにある形。その形もまた、そのまま永遠に留まることはなく、光に溶け、波にさらわれていく。時間という名の、巨大な彫刻家の見えない手。その手のことを思う時、老人は安らぎを感じる。世界はその手によりいつも新しく創られ、そして削られているのだ。
 老人は時に、流木の上に幻想の形を見る。例えば、その木に漆を塗り、サンスクリットの細かい経文の文字を彫りつけ、さらに違う色の漆を塗り、研ぎだして文字を浮かびあがらせたところを想像してみる。或は、きっかりと円い孔をいくつも並べて穿ち、そこに半透明の青い樹脂を流しこんだところを思い浮かべる。或はまた、その一部をそのままの形で二色の金属に置き換えてみる。或は青く光る貝のかけらで象嵌する。
 しかし、老人はそれを彼の頭蓋の伽藍にそっと安置するだけで、実際に手を下すことはない。そんな手があれば、と老人は思う。時間という名の彫刻家のようなすばらしい手があれば、やってみたいと。もし生まれ変わることがあるとしたら、そんな人生を送ってみたいと老人は思う。石や木を、まるで波がそうするように自らの手で削っていく人生……。
 老人は、その夢想の中を泳ぎ、見えない岸へとたどりつき、再びこの浜辺へと戻ってくる。流木は彼の頭蓋の伽藍から解き放たれ、再び時の手に委ねられ、波の音のなかで渚にたたずんでいる。