20/01/2000 | ■逆さまの写真 |
21/01/2000 | ■月は迷っている |
22/01/2000 | ■流星雨 |
23/01/2000 | ■星の天蓋 |
25/01/2000 | ●森林限界 |
26/01/2000 | ●火の龍 水の龍 |
29/01/2000 | ●ハルモニア博物誌より/雲母 |
29/01/2000 | ●雲母鉱山 |
30/01/2000 | ●雲母についての鉱夫の話 |
31/01/2000 | ●夢についての鉱夫の話 |
01/02/2000 | ■未来のための呪文 |
03/02/2000 | ●語られなかった鉱夫の物語 |
06/02/2000 | ■音の万華鏡 |
08/02/2000 | ●外輪山 |
09/02/2000 | ●世界の水が集まる場所 |
11/02/2000 | ●村の男の語った短い物語 |
18/02/2000 | ●村の男の語った少し長い物語 |
27/02/2000 | ●桜の谷 |
07/03/2000 | ●木馬のうたう子守歌 |
08/03/2000 | ●透明な森 |
窓から射しこむ月明りに照らされた白い漆喰の壁に、一枚のモノクロームの写真が貼りつけてある。それは満月の夜の湖の写真。鏡のように静まりかえった湖面に、くっきりと切り抜いたような円い月と山の影が映っている。まるで、水の中にほんものの山があり、山の背後にはがらんとした何億光年もの広がりを持った空が広がり、そこに月が浮いているように見える。写真が微かに風に揺らぐ。すると、あなたははじめて気づく。それが天地逆に貼られた写真だったということを。あなたが空だと思っていたところは湖で、ほんものだと思った月は、水に映った幻影でしかなかったのだと。
月は迷っている。迷わなかった月などひとつもない。だから、いまも夜ごとに形を変え、ひとときとして留まることがない。
夢の中に月が昇る。砂漠の地平線から産みおとされた巨大な卵子のような月が。月が南の子午線を通過するその瞬間、流れ星がひとつ、光の粉をまき散らすように長い尾を引いて天空を流れる。すると、千年の長きにわたりその合図を待ちかねていた、とでもいうように、空一面を億という星が流れだす。空を駈ける無数の流星の群れ。あなたは、まぶしさに陶然と目を細める。そして知る。そのすべての軌跡が、光の矢印のように宙に輝く月を指し示していることを。
気がつくとあなたは、あたたかい暗闇にいる。いまそこにいるあなたが男であろうと女であろうと何歳であろうと、そこではあなたはひとりの少女だ。金糸銀糸で飾られた紗を身にまとう王女。闇は限りなく深く限りなくあたたかいが、床は背筋に寒気を感じるほど冷たい。けれど、あなたはその滑らかな感触の石の床を愛している。暗闇の中で、火打ち石が光り、蝋燭に灯がともされる。その小さな炎が、蝋燭を捧げもった侍従のガンダーラの仏像のような端正な顔立ちを浮かびあがらせる。侍従はもう一本の蝋燭に灯を移し、自らが生ける燭台となって両手で蝋燭を持っている。そして、優雅な踊りのように、その手を滑らかに動かしはじめる。円を描き、交叉し、揺れる炎。その光が、丸いドームのような天井に反射する。天井には、緩やかな凸面のカーヴを描いた無数の小さな鏡が隙間なく埋めこまれ、二本の蝋燭の灯を反射してきらめく。ひとつの鏡に映った蝋燭の灯は、もうひとつの鏡に映りこみ、それがさらに別の鏡に映りこみ、まるで永遠のような無限の映りこみのなかで、光は丸天井を駈け、流れ、踊る。それは無数の流れ星。あるいは速回しの宇宙の創世…。どこかで、これを見ていた。どこか、遠い時間のなかで。あなたはそれを思いだそうとするが、空を駈け抜けてつかまえることのできない流星のように、どうしても思いだせすことができない。天井に星のように埋めこまれた鏡は、蝋燭の光で照らされた無数のあなたを映している。
静かな夜。森林限界を遥かに越えた高い山のうえの、岩だらけの頂に、ひとつの石の塊がある。よく見るとそれは、ひと抱えもある黒曜石の器だ。まんなかがただ粗く削られているだけで、自然にできたようにも見えるが、その辺りからは黒曜石はまったくとれないから、誰かが何かの目的でここに置いたに違いない。けれど、いまここには誰もいない。器の縁ぎりぎりのところまで水が満たされている。周りが濡れているところからすると、雨が降ったらしい。けれど、空はもう晴れていて、暗く青い空の大伽藍に満月が輝いている。黒曜石の器の水が円かな月を映す。微かな風が吹いて、その表面を波立たせると、それはまるで金のさざ波のようだ。時が過ぎ、月はますます輝きながら天高く昇る。月を映すほどに、その水は青みががってくる。はじめは天青石のような微かな青。それが徐々に濃い瑠璃のガラスの色に変わり、とうとう上等なサファイアのように透明に輝く青い水となる。それは、遠く宇宙の彼方から見た地球の色とまったく同じ色をしている。けれど、だれも知らない。だれも知らないまま、月は沈み、夜は明けて、水は色のない透明な水に戻っている。
その山のふもとには、深い谷になった地面の裂け目がある。その底は、世界の底だ。そこに石でつくられた巨大な門がある。その門をめがけて、一頭の龍が天の高みから駈けおりてくる。それは、透明な水だけでできた生き物。水が高いところから低いところへと流れるように、水の龍は空のいちばんの高みから滝のように一気に下ってくる。そして、この門をくぐった瞬間に死に、火の龍として生まれ変わるのだ。それは、めくるめく炎だけでできた生き物。そして火が高いところ、高いところへと昇るように、空へ空へと駈けていく。そう、ここは水の龍の死に場所であり、同時に火の龍の生まれる場所、出口であり入口。
空の高みに、まるで鏡に映したようにこれとそっくりの門があって、そこでは火の龍が死に、水の龍が生まれるという。しかし、それがどれだけの高みなのか、雲の辺りなのか、月の高さなのか、それとも星の距離なのか、誰も知らない。
火の龍と水の龍の転生はめくるめく速さで循環していて、人の目には見えない。ただ時をゆっくりとゆっくりと遅回しにしたように一秒を千年の長さにしてみて、はじめて見えてくるのだ。
けれど、誰もそんなに短い瞬間をとらえることはできない。
火と水が常に出会っているそこには、いつも深い霧がたちこめていて、谷から消えることのないくっきりとした虹が立ち昇っているのが見えるだけだ。
すべての雲母には、夢を吸収するという性質がある。(ハルモニア博物誌より)
その山脈には、雲母の鉱山がある。鉱夫はただひとりだけ。だれも覚えていないほど遠い昔からここにいて、だれも見たことがないほど年老いている。そして、その長い年月、彼はただ黙々と雲母を掘り続けてきた。「なんのために?」と問うと、鉱夫はこう答えた。「雲母の中に閉じこめられた夢を再び世界に解き放つために」
30/01/2000
●雲母についての鉱夫の話
見られた夢は、ひとつも失われることはない。どんなにひどい悪夢も、どんなにすばらしい夢も、地下深くに静かに堆積していく。それは透明な薄い膜になって暗がりで光を浴びることもなく眠っている。そう、そこでは夢が眠っているのだ。長い眠りは死に似ている。深い死の沈黙の中で、夢は音もなく結晶する。そうやって時を過ごすうちに、どんな夢も、時を経たものだけが持つことのできる独得の美しさを帯びはじめるのだ。愛も憎しみ悲しみもなにひとつ消えたわけではなく、失われたわけでもなく、またなにか別の高貴なものが加わったわけでもないのに、それは確かに美しく気高いものに変わっていく。坑道の底から発掘されたばかりの雲母は、まるで洞窟から発掘された古代の壁画のようだ。たったいま描かれたような鮮やかさを保ちながら、それでいていまここで描いたのではどうしても及ばないような不思議な美しさをたたえている。新しい雲母の一片を手にするたびに、わたしはいつもその美しさに打たれてしまう。もう思いだせないほど長いこと鉱夫を続けてきたのに、いつだってそれは新しい驚きだ。その歓びゆえに、わたしはこんなにも長い年月鉱夫をしてきたのかもしれないし、気が遠くなるほど生きながらえているのも、次の一枚が見たいという、その欲望からかもしれない。美しい一枚を見た歓びがわたしに力を与え、また新たな一枚を掘りつづけさせる。そうやって掘りだした雲母をどうするのかだって?
勿論、世界へ還してやるんだよ。そのためにわたしはここにいるのだから。
31/01/2000
●夢についての鉱夫の話
どうやって夢を世界に還すのかって? 簡単なことさ。鉱山のある山の中腹に坑道から外へ通じる穴が開いている。その下は断崖絶壁の海だ。そこへ投げ捨てるのさ。
その高さから海岸へと落とされた雲母は、勿論粉々になる。そして、閉じ込められていた夢は再び自由になって世界へとはばたいていく。よもやそこで粉々にならなくても、海の波がそれを砕いてくれる。そういうことだ。
しかし、わたしだって惜しいと思うことがある。捨てないでとっておきたいという誘惑にかられたことは数知れない。もし、ここにそのすべてをとっておいたら、この洞窟は世界のどんなすばらしい美術館よりもすばらしいものになったことだろう。
すぐれた芸術家というのは、途方もない時だけができること、つまり夢をより美しく気高いものに変えるということを、たったひとりで、その人が生きているわずかな時間のなかで成し遂げてしまう人を指す呼び名なのだ。
ともかくも、そんなにすばらしいものたちを、わたしは海に投げ捨てる。それまで、夢は眠っている。わたしが解き放ってやるまでいつまでも。夢は夢を見ない。夢のない眠りは死だ。夢が生き返るためには、再び誰かに夢見られなければならない。夢見られるための世界という容れ物が必要だ。そして、世界は夢を必要としている。
そうだよ。世界は夢を必要としているんだ。夢のない世界なんていうものが、どんなに愚劣なものか考えてみたことがあるかね。
夢を見るのは人だけではない。鳥も獣も魚も夢を見る。木や草や苔も夢を見る。ひと粒の砂や、空を渡る風や、地下深く眠る鉱物たちでさえ、夢を見るのだ。でなければ、どうして木が空を目指して伸びるだろう? 風がその梢をやわらかく震わせるだろう? 水晶はどうしていつも規則正しく六角に結晶するのだろうか? 世界は夢を見ている。だから世界はめぐっていく。
そうやって世界で見られた夢は、ここで結晶して遥かな時を過ごし、気高く美しいものへと生まれ変わる。その夢が再び散り散りになって世界に戻っていく。空を漂う希薄な水が細かい塵を核にして雲になり水滴になるように、世界に還っていった夢の微塵は新たな夢の核になる。そしてまた、新しい夢が生まれる。地中で美しいものに生まれ変わった夢を核にしているから、見られた夢はその影響を受けてわずかに美しくなる。ほんのわずかだ。見た目ではわからないくらい。けれど、そうでないものを核にして見られる夢とは、どこか違うことはまったく確かなことなのだ。そうやって、わずかに美しくなった夢は、再びここへ戻ってきて夢の鉱床に結晶する。そして、長い時に晒されていくうちに、より美しいものへと変わっていく。それが掘りだされた時には、同じ時間をここで過ごしたさほど美しくない夢を核にして生まれた夢と比べて、格段と美しくなっているのだ。
どういうことか、わかるかい? はじまりがわずかに違う、すると行き先はとても違う、ということだよ。いいかい、はじまりの一点では、目に見えないほど右と左にわずかにずれている道があるとしよう。けれど、それがどこまでもまっすぐに続くならば、先へ行けば行くほどふたつの道は遠くなる。そして、まったく違うところへ行きついてしまうというわけだ。
美しい夢を核にして見られた夢はわずかに美しくなり、それが夢の鉱床で眠っているあいだにさらに美しくなる。そして掘りだされたときには以前のどの夢も達したことがなかったような美しい絵になっているのだ。それを世界に還す。すると、それを核にして見られた夢は、さらに美しくなる。それが、夢の鉱床で眠っているあいだに、以前のどの絵も達することにできなかった美しい絵になる。それを世界に還す。すると……というように、永遠に循環しながら、夢は少しずつ美しくなっていくのだ。
つまり、夢はその輪廻の中で自らを確実に少しずつ美しくしていっているということなのだよ。そして、夢によって生成されていく世界もまた、確実に美しくなっていくのだ。世界は、夢見られることによって美しく更新されていく。
だからかもしれない。わたしがこんなに長い年月鉱夫をしていても、掘り出すたびに雲母に浮かびあがる夢の絵の美しさに改めて驚いてしまうのは。ひとつひとつが、わたしがはじめて知る美しさで、それはこの世界がいままで知らなかった美しさなのだから。そして、そうやって世界をより美しくするためには、それがどんなに美しくて手元に置いておきたいものでも、海へと投げ捨てて壊し、世界へ還してやらなければならないのだ。発掘されたすべての夢を世界に戻してやること、世界をより美しくするために。それが、わたしがこの人生で選んだ仕事なのだ。
01/02/2000
■未来のための呪文
世界は少しずつ美しくなる
世界は少しずつ美しくなる
世界は少しずつ美しくなる
何ものにも傷つけられることのない結晶が
恐ろしくゆっくりと育つように
世界は少しずつ美しくなる
世界は少しずつ美しくなる
世界は少しずつ美しくなる
03/02/2000
●語られなかった鉱夫の物語
鉱夫は煙草を吸わないのに、皮袋の中に銀の煙草入れをいれて、いつも首からぶらさげている。皮袋には鉱夫の汗がしみこみ、見る影もないほど擦りきれているが、煙草入れはきれいに磨かれている。
それはとても古いもので、しかも遠い国のものらしい。その表面には細かいさざ波のような模様が刻まれている。表には剃刀で切ったような細い三日月が、裏には満月が、金で象嵌された見事なものだ。月は、目に見える月とまったく同じ大きさで刻まれている。湖に映った月のようにも見えるし、絹のような薄雲の向こうに光る月にも見える。
鉱夫はいったいどこからそんなものを手に入れたのだろうか? 煙草入れの内側にはそれをつくった銀細工の工房の印である一角獣が小さく刻印されている。
鉱夫は人前では絶対にそれを開けたことがない。そこには、一枚の雲母のかけらが大切にしまわれている。どんなにすばらしい夢の絵も手放してきた鉱夫が、どうしても手放すことができなかった一枚の夢。なぜ手放せなかったのか、その理由は鉱夫にもわからない。ほかの絵に比べてとりたてて美しかったというわけではなかった。ただ、どうしても惹かれてしまう何かをもっていたのだ。まるで、満月の夜の月のように、いったん見つめると、もう目を放せなくなってしまうような何かが。ほかの雲母と同じように世界に戻してやらなければならないと知りながら、鉱夫はどうしてもそれを手放せない。明日こそはあの崖から海へ投げ捨てようと思いながら、もうひと目見たい、もう一度会いたいと思って、一日延ばしにしながら日々が過ぎていく。
05/02/2000
きょうも一日の仕事を終えた鉱夫は、いつもそうしているように坑道から湧きだす冷たい水で体を清め粗末な寝台に腰掛けた。眠る前に銀の煙草入れから注意深く雲母のかけらを取りだして、蝋燭の光にかざす。そこに浮かびあがるのは、ひとりの幼い少女の顔。微笑んでいるようにも、泣きだす直前のようにも見える不思議な表情をしている。その子どもの顔を見るたびに、鉱夫の心の底でなにかがうずく。ひどいざわめきを感じるのだが、同時に深い懐かしさと安堵も感じる。それが何なのか、鉱夫にはわからない。彼の記憶のどこを探しても、この子どもはいない。それなら、どこで会ったのだろう? もしかしたらこれは、遠い昔、鉱夫が見た夢の破片なのか? それとも、どこかにあったはずの別の人生で出会った子ども?
蝋燭の炎を透かしながら、子どもは絵の中から鉱夫を見つめる。鉱夫がその目をやさしく見つめかえすと、絵の中の子どもは安心したような表情をする。いや、絵は変わらないのだから、鉱夫がそう感じるだけかもしれない。そして、鉱夫はその雲母のかけらを再び大切そうに銀の煙草入れにしまい、蝋燭を吹き消して眠りにつく。
06/02/2000
■音の万華鏡
ぼくは立っていた
ひとり砂漠のまんなかに
耳にあてていたのは
大きな白い巻き貝
打ちよせる波の音
風をきる翼の音
流れゆく砂の音
はじめて飛んだ蝶のはばたき
ひらいていくつぼみのきしみ
吸いあげられる水のざわめき
万華鏡のように
貝殻からはつぎからつぎと音が溢れだし
ぼくは立っていた
ひとり宇宙のまんなかに
耳にあてていたのは
青く光る地球
少年はさして小さくもない、けれど大きくもない島に生まれた。それは、遠い昔海の中にできた火山島だ。島のまわりはぐるりと外輪山に囲まれ、そのなかにすり鉢の形をした土地が広がっている。不思議なことに、その土地の大部分は海抜より低いところにある。それでも水没してしまわないのは、外輪山が堅固な堤防の役割を果しているからだ。とはいえ、外輪山からは常にわずかずつの水がしみだしてくる。海水が地層に濾過されて真水になってしみだしてくるのだ。雨も降る。当然、すり鉢状の島はいつしか水で溢れてしまうはずだ。しかし、そこには渇いた土地があり、人々が暮らす村がある。
水は、どこへいくのだろうか?
世界の水が集まってくる場所がある。雲だった水、雨になった水、草原に降り注ぎ草になった水、草を食べた兎になった水、花だった水、林檎だった水、林檎を食べた子どもの頬を薔薇色に輝かせた水、地下から湧きだした透明な水、旅人の喉を潤した一杯の水、せせらぎを音を立てて流れていった水、舟をゆっくりと運んだ水、月を映していた湖の水、青い氷河だった水、貝殻を揺らした波だった水……。すべての水が集まってくる場所がある。
その果てにある逆しまの泉。水が名前を失う場所。
11/02/2000
●村の男の語った短い物語
あの偏屈なじいさんのことかい。この村の者なら、だれでも知っているよ。
といっても、どこから来たのか、いつからいるのかなんて、だれも知らないんだから、何も知らないのといっしょってことかな。
ともかく、この村のはじまる前から、ずっとあそこにいて雲母を掘っているって話だよ。ほとんどだれとも口をきかない。
それでも生きていけるのは、あそこの鉱山からは時々見事な雲母が採れるからさ。
そりゃもうきれいに透きとおった極上の雲母だよ。まっ青な空に透かしても、満月の夜に透かしても、そこに雲母があるなんてわからないくらい透明なやつさ。実際、小鳥がなんにもないと思ってぶっつかってきちゃあ気を失うほどだ。
この村じゃあ、それを窓にはめこんでいるんだよ。
けれど、ほら、なにしろ雲母だろう。夢を吸いこんじまうのさ。どんなに透明な雲母も、家のもんの夢を吸って、だんだん濁ってきちまう。なんだかわからない絵の切れ端が浮かんだり、妙な色がついたりするんだ。そうなると、もう窓には向かないってわけさ。
いよいよだめってことになると、おれたちはそれを窓からはずして、粉々に砕く。おおまかに虹の七色にわけて、色別にとっとくんだ。念入りにすり鉢でするなんていう家まであるよ。年寄りがいる家なんかたいがいそうしている。そうしなきゃ風に飛ばないって、口うるさくいうばあさんなんかがいるからね。
おれはまあ面倒だからざっと砕くだけだけどさ、それでも色は分けるよ。それぞれを分けて目のつまった布や紙に包み、そのためにつくられた木の箱にいれてとっておく。
どこの家にも昔からそんな箱が代々伝わっているのさ。箱の蓋にはこみいった不思議な模様が象嵌されている。どの家も、その模様が違うんだ。細かいところが似ているものもあって、それをたどっていけば同じ祖先を持つものがわかるという話だ。
一年に一度、秋の終わりにある月の祭りの日まで、雲母の粉は箱の中にしまわれている。祭りの日には朝早くから村中のものが箱から出した雲母の粉を持って村の外にある砂漠まで練り歩く。長い竿に色とりどりの旗をなびかせ、銅羅を鳴らしながら歩くんだ。
13/02/2000
砂漠の入口につくと、村の呪術師が棒で砂に大きな絵を描く。絵というより、あれは模様だな。曼陀羅とかいうらしいけれど、おれにはよくわからない。それは雲母をいれる箱の蓋の模様とよく似ているよ。こっちのほうがもっとうんと細かくてこみいっているけどね。砂に描かれた線に沿って、おれたちは色の粉を撒く。まんなかから順々に何色という指定があって、決まった場所に決まった色の粉を撒くんだ。しばらくすると、砂漠には巨大な絵ができあがる。
おれは雲母を砕いたりする仕事は好きじゃあないけど、満月の月明りの下であの絵をみるのなら、ほんとうに好きだ。それはきらきらと光ってとてもきれいで、いっぺんでいいから鳥になって空からあの絵を見てみたいものだといつも思うよ。
それから、おれたちは歌をうたう。風を呼ぶ歌だ。ひどく単調で、歌というよりは呪文に似ている。
すると、いつも必ず風が起こる。必ずだ。風が吹かなかったことなんかない。はじめは、頬を撫でるか撫でないか、というような微かな気配でしかないけれど、やがてそれは確かに髪をそよがすほどになり、薄皮を剥くように、砂を動かしはじめる。銅羅が鳴り、旗が舞い、砂漠に撒かれた色の粉が少しずつさらわれていくんだ。
月明りの砂漠に雲母の粉が舞っていくときの、きれいなことといったらないよ。どんな夢よりも美しいと思うほどだ。
おれたちは歌が途切れることがないようにかわるがわる休んでそのあいだに酒を飲んだりしながら、夜明けまで歌い続ける。地平線が微かに明るくなるころには、砂漠の絵はすっかり風に散ってわからなくなっている。
14/02/2000
そうやって、おれたちは夢を世界に解き放つ。世界に返してやるんだ。夢をいつまでもためこんでいると、ろくなことにはならない。それが悪夢なら当然だが、たとえ美しい夢でも、ひとりっきりで抱えていると、いつか自分を傷つけることになるんだ。だから、夢は世界に戻さなければならない。
おや、話がそれちまったようだな。そうだった、あのじいさんのことだよな。
じいさんの鉱山から採れるのは、ほんとうはほとんどが屑雲母だっていう話だ。はじめから色や絵がついちまっているんだ。そんなのは使い物にならないから、じいさんはみんな捨てちまう。けれど、たまに極上の透明な雲母を採掘することがある。そうすると、じいさんはその雲母を鉱山の入口のところまで運んで、たてかけておくんだ。窓に新しい雲母が必要になった者は、鉱山の入口まで歩いていってそれを運んでくる。代金を置いていく者もあれば、麦やパン、干した果物や肉、毛皮や蝋燭や、そんなものを置いていく者もいる。じいさんは滅多に村に降りてこないから、お金をもらうより、そんなものをもらったほうが喜ぶんだ。まあ、そうやってじいさんとおれたちは持ちつ持たれつって関係で長年やってきたわけさ。もう、誰も覚えていないくらい長いことね。
18/02/2000
●村の男の語った少し長い物語
その冬はひどく寒かった。そんな時にこそあっためあうためにおれたちはいっしょになったはずなのに、その冬はどういうわけか、喧嘩ばかりしていた。喧嘩のはじまりなんて、もうよく覚えていないさ。なんだっただろう?
ああ、そうだ、思いだした。市場に食い物を買いにいったのに、その金を博打ですって手ぶらで帰ってきたからなんだ。
いや、おれだって好きで博打をしたってわけじゃないんだ。市場できれいな首飾りを見つけたんだ。あいつは首飾りひとつ欲しがらない女でね、そこが気に入っていっしょになったんだけど、その首飾りを見たとたんどうしても買ってやりたくなったんだ。あいつも喜ぶだろうし、それをつけたら、さぞかしきれいに見えるだろうと思うと、もう我慢がならなくなった。買うつもりだったジャガイモや干し肉のことなんか、すっかり頭からふっとんじまったよ。
ところが、ちょっとばかし金が足りなかった。それで博打で増やしてやろうって思ったのに負けちまって、その負けを取り戻そうと思ってあせっているうちにどんどん熱くなって、気がついたらすっからかんになってたってわけさ。
それなのにあいつときたら、もう頭ごなしに怒鳴りつけるし「あたしゃ首飾りなんて欲しいと思ったためしがない」とまでいう。まったくかわい気のない女だ。
まあ、そんなことはただのはじまりさ。はじまりなんてどうでもいいくらいに、おれたちはひと言ひと言すれ違っていった。そんなつもりはないのに、口を開けばいさかいになるって始末さ。おれは面白くないから、しょっちゅう酒場に飲みにいく。帰りが遅くなると、かみさんの機嫌はますます悪くなる。そんなことの繰り返しで事態はひどくなる一方だった。
そのせいか、ふたりとも頻繁に悪夢を見るようになっちまったんだ。秋の終わり、月の祭りのすぐ前に新しく入れたばかりの新品の雲母の窓は、おれたちの夢を吸いとって、あっというまに曇っちまった。それも、ひどい色だ。その色のなかに、酒場の女によく似た顔まで浮かびあがる始末。かみさんはもうかんかんで、一瞬たりともそんな雲母を見ていたくないといって、ついにかっとなって石の皿を投げつけて雲母を割っちまった。
窓からは風がひゅうひゅう吹きこむし、板を打ちつければ光が入らなくてよけいに寒いし、一日だってそのまま過ごすわけにはいかないってことになって、おれは冷たい風の吹くなか、山道をのぼってあのじいさんのところへ新しい雲母を買いに出かけたってわけさ。
19/02/2000
ところが、ついてないときには悪いことが重なるもんだ。いつも何枚もの雲母が並んで遠くから見ると鏡のように光って見える鉱山の入口に、なにも見えない。光の加減だろうと思っていってみたけれど、やっぱりそこには雲母はなかった。あいにく品切れってわけだ。けれど、ここまできて手ぶらで帰るわけにもいかないし、雲母はどうしても必要だ。
おれは、坑道に向かって大声でじいさんを呼んでみた。いつまで待っても返事がない。
それで、いつもはそんなことはしないのだけれど、おれは入口に置いてあった蝋燭に火をつけて、それを手に恐る恐る坑道の奥にはいっていった。
白い大理石の結晶がきらきらと光っていた。きれいだったが、穴ぐらなんていずれにしても気持ちのいいもんじゃない。おれはそれを我慢してどんどん歩いていった。いくつもの角があって横道が続いている。おれはそのひとつひとつの角で立ち止まって何か聞こえてこないかじっと耳を澄ました。けれど、なにも聞こえてこないので、またまんなかの大きな坑道を道なりに歩いていった。
そうするうちに、ひとつの角の向こうに、微かに明りが感じられたような気がした。
「おーい」と呼んでみたけれど、相変わらず返事はない。少し迷ったが、その横道を曲がってみることにした。
歩いていくと、いよいよ明りの気配が濃くなって、やがてぽっかりと空いた部屋のようなところに、蝋燭をともして折り畳みの三角椅子を開き座りこんでいるじいさんを見つけた。奥にはノミや何かが転がり、堀りかけた壁がむきだしになっている。向かって左の壁には、使い物にならない屑雲母が重ねてたてかけてあった。そして、反対側にはかなり大きな透明な雲母!
おれはそれを見てほっとした。これでかみさんにがみがみいわれなくてすむ。
ところが、じいさんときたらおれにちっとも気づかずに、掌のなかの雲母の破片を見つめているばかりだ。
「じいさん」と声をかけて、ようやくはっと気づいたかと思うと、掌の雲母をあわてて隠すような仕草をした。
20/02/2000
「何かいいもんが映っているのかい?」
おれはちょっとからかうように聞いた。
じいさんは年甲斐もなく頬を赤らめた。
「なんだい。見せてごらんよ」
「いや、たいしたもんじゃないんだ」
「いいから見せてごらんよ」
じいさんが隠そうとすればするほど、おれはそこに何が映っているのか知りたくなった。
「人には見せられないような危ないもんでも映っているんじゃないのかい?」
「そんなんじゃないさ」
じいさんはついに観念したようにその破片を見せた。蝋燭に透かすと、そこには幼い女の子の顔が浮かびあがった。邪気のないかわいい顔をしている。
「なんだい、ただの子どもじゃないか」
おれは拍子抜けしてしまった。
「いいや、天使なんだ」
じいさんは、やけにむきになっていう。
「羽根が描かれていたんだよ。けれど、掘りだすときに羽根のところが壊れてしまった。顔だけが残ったんだ」
「ふうん」
色っぽい女でも映っていれば別だが、こんなもんのどこがいいのか、さっぱりわからない。おれは気のない返事をした。
「いや、なんだか、別れが惜しくてね」
じいさんは溜め息まじりにそういうと、またそのかけらを見つめた。まるで、恋する少年だ。
「やっぱり、捨てるのかい?」
「ああ」
じいさんは、やけに力ない声を出した。おれもさすがに気の毒になって、できはしないとはわかっていても、気休めに思わずこんなことをいわずにはいられなかった。
「気に入ったんなら、とっておけばいいのに」
「そうはいかない。絵がついているものはみんな捨てなければいけないことになっている」
「誰が決めたんだよ」
「世界のはじめから、そういうことに決まっているんだ。木が空に向かって伸びるのが決っているように、鳥が空を飛ぶことが決まっているように」
「だいじょうぶさ。そんな小さなかけらひとつくらいとっておいても、世界がどうなるわけもない。それに、風でひん曲がる木もあれば、空を飛ばない鳥だっている。みんなからはずれたものも、やっぱり世界のひとつなんだ。世界ってもんは、そんなに狭量じゃないさ。だから、世界なんだよ」
じいさんは、困ったような顔をして、黙って雲母のかけらを見つめるばかりだ。埒があかない。
22/02/2000
おれは、こう切りだした。
「ところで、じいさん、窓の雲母を一枚おくれよ」
「ああ、いま外に運ぼうと思っていたところだ。よかったら、これを持っていってくれ」
じいさんは、なかでもいちばん透きとおったすばらしい雲母を差しだした。大きさも充分だ。おれはかみさんが焼いた干し果物入りの大きな丸パンを二個渡した。ほんとうは三個焼いたのに、あいつはけちをしてふたつしかよこさなかった。こんな立派な雲母にこれっぽっちじゃ、申し訳ないようだ。
「これで足りるかな」
「じゅうぶんすぎるくらいだ」
「ありがとう」
まったく、このじいさんには欲というものがない。おれは背負子に雲母をくくりつけた。そのとき、おれはじいさんの足元に転がっている白いものに気づいたのだ。
「おや、これは?」
「貝殻だよ。海から拾ってきたんだ」
「海か……」
おれは、その見知らぬ世界のことを思った。
この高い山の向こうには、海という名の巨きな水がどこまでも広がっているという。けれど、山のこちら側に棲む者たちは、だれも山を越えて海へ行こうとはしない。山が越えられないくらい険しいということもあるが、それ以前に、おれたちにとってそこはもう世界ですらないのだ。
おれたちにとって世界の縁はこの山脈。その向こうのことは一切関係がない。おれたちはおれたちの土地に満足している。耕す大地も、羊の食む草もないところなどに、なんの用があるだろう?
それに、海には魔物が棲むというから、だれも行きたがらない。
海へ行くのは、この偏屈なじいさんだけだ。迷路のような坑道のどこかが、山を貫いて海へと続いているらしい。おれは、自分で行ってみたいとは決して思わなかったが、高い山を見ると、時々その向こうにある海のことを思うことがあった。遠い憧れのような気持ちだ。この貝殻は、その海からやってきたのだと思うと、胸が少しざわめいた。
23/02/2000
「きれいなもんだね。触ってもいいかい?」
「ああ、勿論だとも」
それはひんやりと冷たく硬く、きっかりと美しい螺旋を描いていた。
「耳にあててごらん。波の音がする」
そういわれて耳にあてると、確かに遠いざわめきが聴こえてきた。風の音に似ているが、違う。これが、海の波の音というものだろうか?
「それは音の万華鏡なんだ。波の音ばかりではなく、いろんな音が聴こえてくる。鳥が風をきる翼の音、川の底を流れてゆく砂の音、さなぎからかえってはじめて空を飛んだ蝶のはばたき、春いちばんに開いていくつぼみのきしみ、森の木々に吸いあげられる水のざわめき……。遠い星座の奏でる音楽が聴こえることもある」
おれは耳を澄ましたが、ただのざわめきのほかには何も聴こえてこなかった。こんな洞窟の奥にたったひとりでいるから、きっとさみしくてじいさんは夢でも見たのだろう。とはいえ、おれがその貝殻がすっかり気にいってしまった。
「こいつを売ってくれないか?」
するとじいさんは困ったような顔をした。
「別に売り惜しみするわけじゃないが、それだけは勘弁してくれ。わたしの話し相手みたいたもんだからな」
「たかが貝殻じゃないか。また海で拾えばいい」
「これはただの貝殻じゃない。いっただろう、音の万華鏡なんだ。ただの貝殻からはこんなにいろんな音は聴こえないよ」
売らないといわれると、どうしても欲しくなるのが人情だ。
「どうだい。これと交換しようじゃないか」
おれは、懐から銀の煙草入れを取りだした。
24/02/2000
ずいぶん昔に市場の博打で流れ者からまきあげたもので、気に入ってずうっと使っている。ただ同然で手に入れたんだが、銀の地に金で満月と三日月が象嵌されていて、これでなかなか高価な物らしい。これなら、いくら欲のないじいさんでも食いついてくると思ったが、そうではなかった。
「わたしは煙草はやらないんだ」と、やけにそっけない
「なにも煙草をいれなくちゃいけないって法はない。そうだ。ほら、さっきの雲母のかけらをしまったらどうだい」
おれは、じいさんの手からかけらをそっとつまみあげると、煙草入れにいれてみた。
「おい、気をつけろよ」
「だいじょうぶ、壊したりしないさ。ほら、ぴったりじゃないか」
後ろに銀を透かすと、雲母はまた違った輝きを見せた。
「こいつはひどく壊れやすいから、こんな箱に入れておかなくちゃな、じいさん」
じいさんの心が動いたようだった。銀の煙草入れというよりも、雲母のかけらがよほど大切らしい。
「じゃあ、決まりだな。こいつはもらっていくよ」
おれはじいさんの手の中に無理矢理銀の煙草入れを押しこむと、足元の貝殻を抱えた。じいさんは困ったような表情笑いを浮かべたまま逆らいもしなかった。
しばらく行って振り向くと、じいさんはまだ蝋燭の明りのなかで、銀の煙草入れのなかの雲母のかけらに見入っていた。
25/02/2000
そんなふうにして半ば強引に手に入れた貝殻だったが、帰りの道々おれはだんだんと憂うつな気持ちになったっていった。かみさんがそんなもんを喜ぶはずがない。「また、こんなつまらないもの」といわれて言い争いになるんじゃないかと思ったんだ。
ところが、おれの予想に反して、あいつは白い貝殻のみやげをことのほか気に入ってくれた。指輪や首飾りにはてんで興味がないのに、こんなものを喜ぶなんて変な女だ。
「これが、海の波の音?」
かみさんは目を閉じてうっとりと聞き入っている。この女の心のなかにも、見知らぬ遠い世界への憧れがあるのだと知って、おれは少しとまどい、それから妙にうれしくなった。こいつも、おれと同じなんだ。
おれたちは、それをきっかけにまたうまくいくようになった。
そして、その次の秋の月の祭りのころには、赤ん坊が生まれた。それもかわいい双子の女の子だ。家の中は一気ににぎやかになり、暖炉にはあたたかな火が燃えて、いつになく満ち足りたすばらしい冬になった。
窓にはめられた雲母には、虹色の雲のような見たこともない美しい色が現われた。赤ん坊たちが、生まれる前の天国の夢でも見ていたのだろうか。それはあまりにきれいで、粉にして砂漠に散らしてしまうのが惜しいくらいだった。けれど、そうやって散っていった夢は、またどこかで美しい夢として誰かに見られることがあるのだろう。美しい夢は、ひとりで抱えこんでいるよりも、世界に撒きちらすほうがいいに決っている。
ふたりの女の子が片言を話すようになると、心なしか、鉱山のじいさんが持っていた雲母のかけらの子どもに似ているように思えたのは、気のせいだろうか。
あの白い貝殻? 娘たちがずっと玩具にしていたが、ある時家族で市場にいったときにふたりがあんまり欲しがったので、ペンキのはげかかった古い木馬と交換してしまった。
それももう、どこかへいってしまったよ。なにしろ、娘たちはふたりともすくすくと大きくなってさっさと嫁にいき、孫たちも生まれ、いまではおれたちもいいじいちゃんばあちゃんだ。そんな昔のことなどわからなくなってしまうさ。ほんとうにしあわせだと、しあわせのきっかけになったものなんて、どうでもよくなってしまうものなんだ。
それでも、時々思い出すことがある。あの貝殻は、いまはどこにあるだろう? 誰かの耳元で遠い世界の波の音を響かせているだろうか?
冬枯れた山から山へ、谷から谷へと続く道なき道を、馬とともに足に血が滲むほど歩きつづけていくと、突然少女の目の前が大きく開けた。
どこまでも続く淡い桃色の波。誰も知らない山の奥に広がる桜の花満開の森だ。
いや、満開をわずかに過ぎて花たちはいまにも散りたがっている。
けれど、風がない。微かな吐息ほども。まるで時間が止まってしまったように、すべては春の光のなかで静止している。ゆるやかに空を滑ってゆく太陽の動きだけが唯一の動きに見えるほど静まりかえった正午。
どこからかさえずりが聴こえて、少女は森に一羽の小鳥がやってきたことを知る。この広い森のどこにいるのか、鳥は花に隠れて見えない。少女は耳を澄まし、音のするほうへじっと目を凝らす。
すると、枝から枝へ、梢から梢へと飛びうつるたびに、散ってゆく花びらが見える。その花びらの舞いで、少女は小鳥のいる場所を知る。
さえずりに誘われたのか、どこからかもう一羽の小鳥が飛んできて、鳴きかわしながら枝から枝へうつっていく。
少女は、二羽の小鳥がためらうように近づいたり離れたりしながら徐々にその距離を縮めていくのを、まるでひとつの絵物語を見るように見ている。
やがて小鳥たちはひとつの枝にとまり、ともに空へ向かって飛びたつ。まるで流れ星の軌跡のように、花びらが一直線を描いて散ってゆく。
少女は突然、小鳥たちを追いかけて駈けだす。馬も後を追う。馬の蹄の音が桜の森に響きわたる。
少女と馬は、静まりかえった森に風を呼びよせる。ふたりの後を追いかけるようにしておこった風は、瞬く間に森のすべてに広がり、あるいは渦を描き、梢をわたり、或はゆるやかな川の軌跡を描いて、波のように森を覆いつくす。
少女は鈴のような透明な笑い声をあげて花びらの降りしきる森を駈けめぐる。馬がじゃれるように少女にまとわりつきながら駈けていく。鬼ごっこやかくれん坊をしているように、少女は馬からすり抜け、桜の幹に隠れ、いきなり飛びだしては掌いっぱいに拾った花びらをわっと投げつけて馬を驚かせる。そして、また森に鈴のような笑い声を響かせる。馬も絹のようなたて髪に積もった花びらを首と振って散らすと、ひと声いなないて、また少女を追いかけていく。
そうやってふたりは、いつしか深い森の奥に迷いこんでしまう。少女が息を切らせて倒れこんだのは、森のなかでも王者のように咲き誇る巨大な桜の木の根元だった。どちらを向いても、もう一面の花盛りの桜が見えるばかりだ。花びらは倒れこんだ少女に惜しげなく降り積もる。馬は少女を護るようにその傍らに膝を折って座る。雪に埋もれる彫像のように、ふたりはゆっくりと花に埋もれていく。
07/03/2000
●木馬のうたう子守歌
降りしきる 降りしきる光の中で
降りしきる 降りしきる花びら
歌え歌え 光
歌え めぐる水
降りつもる 降りつもる夢の中に
降りつもる 降りつもる花びら
眠れ眠れ 夢よ
眠れ めぐる水
眠れ眠れ 花よ
眠れ めぐる水
眠れ眠れ 光
眠れ めぐる水
眠れ眠れ……
少女が目を覚ますと、空はもう暗く、手が届きそうなほど低く垂れこめた薔薇色の雲のの切れ間から、月が見えた。雲、と少女が思ったのはたわむほどに花をつけた枝だった。月明りに満ちた透明な闇をわたるそよ風が、ゆっくりと花を散らしていく。それはまるで、花をやわらかく撫でていく掌のようだ。ぬくぬくとあたたかい馬のわき腹に体をあずけたまま、少女は夢現で散ってゆく花びらを見ている。
「夢を見たわ」少女はつぶやく。
「どんな夢?」馬が静かに尋ねた。
「水の夢。夢のなかを、水が流れている」
少女がそういい終わらないうちに、降りしきる花びらが月光のなかで透きとおってくる。それはもう、花びらではなく、花びらの形をして風に舞いながらゆっくりと降りてくる水の滴だ。空の奥から湧きあがるように次から次から降りしきる花びらの滴。やがて、咲いている花も、その輪郭から徐々に透きとおり、いっぱいの透明な花をつけた枝が透けて見え、その枝も先のほうから透きとおって水だけが見えてくる。
少女は、微かな音楽を聴いて振りむく。
すると、あの巨きな桜の木の幹までがすっかり透明になり、天に向かって吸いあげられていく水の流れが見えるのだ。その水が、不思議な音楽を奏でている。
少女は息をのんで、水が吸いあげられていく先を見あげた。水はゆっくりと星がきらめく空めがけて昇り、いくつにも枝分かれして四方に伸び、その先で無数の花びらになって月明りに微かに震えながれ揺れ、まるで噴水が散らす水しぶきのように、花びらを空中に撒いている。それは、ひどくゆっくりと立ちのぼり滴を散らす巨大な噴水だった。
少女は、辺りを見回す。すると、地面までが透きとおって、そこから無数の水の柱が立ちあがり、噴水のように開いて、無数の水の滴を散らしている。森は大きな湖で、木はすべてが緩慢な噴水。青い月の光に水の滴がきらめいて、森じゅうに不思議な音楽が満ちている。
少女はしっかりと目を閉じ、その音楽に耳を澄ませた。そして、心の中にその音楽を刻みつけると、そっと目を開けた。
そこには、さっきと変わらぬ淡いピンクの花を繁らせた桜の森があった。少女は、馬を引きよせると、そのたて髪に腕を回し、低い声で歌った。
「眠れ眠れ 夢よ。眠れ めぐる水」