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<title>時の破片</title>
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<description>寮美千子の日記です。ご意見ご感想はCafe LumiereまたはCafe Lunatiqueへ。
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<language>ja</language>
<copyright>Copyright 2008</copyright>
<lastBuildDate>Sat, 10 May 2008 21:48:00 +0900</lastBuildDate>
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<title>FREE TIBETデモ＠奈良</title>
<description><![CDATA[<p>本日５月１０日、中国の胡錦濤国家主席が奈良県入りした。法隆寺、唐招提寺、平城宮跡を訪問するという。わが家は奈良町のはずれにあるが、朝から頭上をヘリコプターが飛び交い、道路には辻々に白い雨合羽姿の警察官が立っていて、実に物々しい。いやな雰囲気だ。権力、というものは、何かあったとき、きっと人々を守るのではなくて、抑圧する側に回るのだろうな、などと感じてしまう。</p>

<p>晴れていたら、自転車で法隆寺へ行こうと思っていたのだが、生憎のどしゃ降り。あきらめて、午後３時半から開催される<a href="http://www11.atwiki.jp/supporttibet/">「５・１０フリーチベット in 奈良」のデモ</a>に参加することにした。</p>

<p>これは、特定の政治団体や市民運動グループの主催ではない。ウェブ上で「左でも右でもなく、本当の一般市民の意思を形にしよう」という声があがり、それが形になったものだ。そのＨＰの「ルール」欄には、以下のように記されている。</p>

<p>「特定団体がこのデモを恣意的に利用することを防止し、デモを安全に実行し、デモの目的を達成するため、必要なルールが定められています。」</p>

<p>これを読んで、参加を決めた。意思表示のつもりが、どこかの政党や宗教団体に利用されては不服だが、こういうことであれば参加したい。生まれてから二度目のデモ参加である。（前回は「奇跡の詩人」問題でＮＨＫに抗議デモ）</p>

<p><a href="http://ryomichico.net/diary/2008-05-10_freetibet-nara1.jpg"><img alt="" src="http://ryomichico.net/diary/2008-05-10_freetibet-nara1-thumb.jpg" style="margin: 0em 0.5em; float: right;" /></a>雨のなか、出発点のＪＲ奈良へ。すでに多くの人が集まっていた。ウェブを通じて集まったからか、集まっている人々は一色ではない。年代も様々なら、その服装や雰囲気もそれぞれ。テンデンバラバラな様子を見て、ほっとする。</p>

<p>現地に行けば、チベットの旗くらい借りられるかしら、と思ったわたしは甘かった。そのようなものはどこにもない。みな、それぞれに工夫した旗やプラカードを持っている。団扇にプラスチックの書類ケースを被せ、そのなかにチベットの旗をプリントアウトしたものを挟んだ人がいた。いいアイデアだ。「お、いいね、こんど、おれもそういうの作ろう」などと声がしている。</p>

<p>まずは受付へ。デモ参加の注意書きが渡され、これに同意するかどうかを訊ねられ、同意のサインをする。名前は書く必要はない。書いたのは住所、それも奈良市、までだ。見れば、神奈川県相模原市からの参加者もいる。どの人かわかれば話したいところだが、わからない。</p>

<p>デモ参加の注意書きが、よくできていた。以下、<a href="http://www11.atwiki.jp/supporttibet/pages/25.html">サイト</a>より引用。<blockquote>ルール<br />
１．禁止事項　以下の行為は禁止する。<br />
* デモ･集会などにおける一切の勧誘行為。<br />
* 責任者の承諾なく、署名を募集すること。<br />
* 危険物、凶器となりうると判断されるものを持ち込むこと。<br />
* 中国人に対する侮辱的表現など<br />
* 極度に反中的な表現行為（コール、のぼり、プラカード、横断幕など）。<br />
* コールをしたくない人にコールを強制すること<br />
* 意図的に他と異なるコールをしてデモの協調を乱すこと<br />
* 旗竿等を寝かせて持つなど周りに当たるような持ち方をすること。<br />
* 鳴り物類（ラッパ・ベル・鈴など）の使用。</p>

<p>２．遵守事項<br />
* 警察・公安員会の許可条件（隊列を乱さない、異常にゆっくりしたペースで歩かないなど）に従うこと。<br />
* 主催者・スタッフ・警備の方の指示に従うこと<br />
* コールをしないことは自由。コールをすることも自由。コールの強制は禁止。<br />
* このデモが基本的にはチベットの人権保護を訴える趣旨であって反中デモではないことを理解して行動する。<br />
* コールは原則としてあらかじめ定められたものを使用すること。意図的に他と異なるコールをしてデモの協調を乱す行為は禁止します。</p>

<p>３．その他<br />
* ビラなどのごみは各自持ち帰りましょう。<br />
* チベットの人に迷惑にならないように活動しましょう。返って市民の批判を買うようではデモの意味がありません。</p>

<p>具体例<br />
「胡錦濤は対話せよ、人権を保障せよ、チベットの侵略をやめろ」　OK<br />
「胡錦濤は出て行け」　NG<br />
「胡錦濤にバッテンをつけたプラカード･看板」　ＮＧ<br />
「中国人は日本から出て行け」　NG<br />
「オリンピックを中止しろ」　NG</blockquote>見回せば、みな雨合羽着用。デモ初心者なので、傘で来てしまった。デモが始まりそうになると「すいませんが、傘は使えません。デモ中は傘をささないでください」と係の人に言われる。そういえば、そうだ。テレビで見るデモでも、傘はさしていない。うーん。ＨＰにでっかく書いておいてよー、と思ったが仕方ない。</p>

<p>透明ビニールのゴミ袋を持っている人がいたので「すいません、雨合羽を持ってこなかったので」といって、分けてもらった。これを裂いて、頭から被ることで即席の雨合羽に。</p>

<p>注意事項が拡声器で知らされ、念を押され、いよいよデモの開始である。コースは奈良の銀座通り？である「三条通り」を猿沢の池まで。直線のコースで、１キロしかない。</p>

<p>みんなが、声をあげはじめる。いわゆる「シュプレヒコール」だ。強制されない。<a href="http://www11.atwiki.jp/supporttibet/pages/18.html">内容</a>は以下の通り。<blockquote><a href="http://ryomichico.net/diary/2008-05-10_freetibet-nara3.jpg"><img alt="" src="http://ryomichico.net/diary/2008-05-10_freetibet-nara3-thumb.jpg" style="margin: 0em 0.5em; float: right;" /></a>* チベットに自由を<br />
* 言論の自由を<br />
* 教育の自由を<br />
* 宗教の自由を<br />
* チベットに平和を<br />
* パンチェンラマを返せ<br />
* 真実を隠すな<br />
* チベット人を見殺しにするな<br />
* FREE TIBET<br />
* SAVE TIBET<br />
* STOP KILLING<br />
（<a href="http://ryomichico.net/sound/2008-05-10_freetibet-nara.mp3">⇒現場で録った音声</a>）</blockquote>最初は、内容が聞き取れなかった。歩いているうちに、だんだんわかってくる。そのすべてではないが、大きな声で賛同したい言葉もあった。しかし、道を歩きながら、みんなといっしょに大きな声を張りあげる、というのは、生まれてこの方、したことがない。だいたい、そういうのは嫌いだ。みんなで同じ言葉を言う、というのは、いけすかない。コンサートなどで「さあ、みなさんごいっしょに」なんてやられると、鳥肌が立つたちである。</p>

<p>しかし、今回は誰も強制していない。そして、声を大にして言いたいこともある。「チベットに自由を」はもちろんだが「言論の自由を」「宗教の自由を」「真実を隠すな」、これは大きな声で言いたい。</p>

<p>そこで、勇気を出して言ってみた。最初は、小さな声しか出なかった。けれど、だんだん声が出てきた。</p>

<p>これはなんだか、不思議なものだな、と思った。人間は、群れの動物なのかもしれない、とも思った。行動を共にして、同じことを叫ぶ。それだけで、なんだか高揚してくる。こういう高揚感は危ない、とも感じた。このような高揚感がさらに高まっていくと、石投げなど暴動へと発展することもあるのだろう。だからこそ、主催者は細心の注意を払って、みんなに注意事項を伝えていたのだろう。</p>

<p>道行く人は「ああ、これが例の……」といった表情で、携帯電話で写真を撮ったり、店から出てきて見物したりしている。外国からの観光客も、こちらにカメラを向けている。制服の中学生らしき男の子が、拳をあげ、なんだかうれしそうにいっしょになって脇を歩いていた。ほんの十メートルほどだったけれど。</p>

<p>新聞社などの取材も多数来ていた。列の前に前に回って写真を撮る。デモのひとつの効用は「デモがありました」とマスコミで報道されることで、そのような意見がある、ということを人々に広く知らせられることだ。</p>

<p>それ以外に、デモにどんな力があるのだろう、とも思う。デモの隊列に参加したとたん、町の人々とデモ隊の間に、大きな溝ができる。なにか、同じ地平に立っていないような乖離が生まれてしまう。町の人は「普通の人々」で、デモ隊は「ちょっと変わった過激な人々」というふうにアイデンティファイされてしまいがちだ。実際はそうではなくても。デモを見た町の人が「そうか、そういう問題があるんだ」と自覚する、というケースはそう多くはないかもしれない。デモという形をとったとたん、なんだか「人ごと」になってしまいがちだ。</p>

<p>それでも、やはり今回のデモに参加してよかったと、歩きながら感じていた。意見を述べるなら、ウェブでもできる。常々、そうしてきた。けれど、自分の足で歩き、自分の声で訴えることによって、また別のリアリティを感じることができた。自分の肉声を使ったという満足感。それは、単なる自己満足に過ぎない。しかし、世界のなかで、自分が確かにひとつの肉体を持って存在していることを実感した。そして、その肉体が実にちっぽけではかないもので、群れのなかでやっと声を出すほどの勇気しかなく、声を出せば道行く「一般人」から白い目で見られる存在なのだ、とひしひしと感じた。</p>

<p><a href="http://ryomichico.net/diary/2008-05-10_freetibet-nara5.jpg"><img alt="" src="http://ryomichico.net/diary/2008-05-10_freetibet-nara5-thumb.jpg" style="margin: 0em 0.5em; float: right;" /></a>デモ行進は、じきに猿沢の池に到着。ここで溜って集会をしていると道路交通法違反になるので、すみやかに解散しなければならない。その旨を主催者は述べ、最後にみんなで一緒のシュプレヒコールもないまま、五十二段前で解散となった。デモ参加者は二百五十人余だったという。</p>

<p>近道をしようと、五十二段の階段の脇を歩いて、濡れた石畳で転んでしまった人がいた。それを知らず、同じ場所を、他の人が通ろうとするので「そこ、危ないですよ。今も一人、滑って転びましたよ」と話していると、後ろから、すすすと耳にイヤフォンをした黒い背広の男がやってきて、白いカッパの警官に「おい。なにやってんだ」とドスのきいた声で訊ねた。あれは、公安だろうか。いかにも、「不穏分子には即刻対処するぞ」的な雰囲気を漲らせていた。</p>

<p>結局、赤い旗を持った中国人留学生なるものも現れず、なんの衝突もなく、無事にデモは終了。よかった。</p>

<p>しかし、もう少し早い時間には、なんの理由もなく拘束され交番に連れて行かれた人もいたようだ。（<a href="http://mixi.jp/view_diary.pl?id=802050747&owner_id=289467">⇒mixi上の日記</a>）</p>

<p>今回の町の警備は、非常に威圧的だった。警察は、人々を守るのではなく、権力を守るために存在しているのではないか、という気すらした。</p>

<p>それにしても、パンチェン・ラマは、いまどこでどうしているのだろう。1995年、ダライ・ラマはゲンドゥン・チューキ・ニマ少年を、第11世パンチェン・ラマの転生者として認定した。認定発表の日から3日後、少年は、両親と共に行方不明に。中国政府は、後に少年を拘束していることを認めたが、それを「保護している」と称している。少年は、いまも中国政府に拘束されたままだ。<br />
<a href="http://www.tibethouse.jp/panchen_lama/">http://www.tibethouse.jp/panchen_lama/</a></p>

<p>チベット問題は根が深い。「宗教の自由を！　真実を隠すな！」</p>]]></description>
<link>http://ryomichico.net/diary/2008/05/index.html#000638</link>
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<pubDate>Sat, 10 May 2008 21:48:00 +0900</pubDate>
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<title>「しあわせの王様」舩後流短歌＆ノンフィクション</title>
<description><![CDATA[<p>母の看病と葬儀と、その後のもろもろで、結局２０日近く、千葉の実家にいたので、仕事が押せ押せになってしまった。悲鳴状態だ。</p>

<p>本当なら、連載から片付けるべきだが、仕掛りの単行本で、少しでも早く先へ進めたいものがあったので、それを優先した。ＡＬＳという病を得た舩後靖彦氏に取材したノンフィクションだ。すでに初稿は上がり、各方面にチェックを入れてもらい、それをまとめて原稿に反映して第２稿を作成する、という段階だ。</p>

<p>ことのはじまりはこうだった。知人から「知り合いで難病にかかった人がいて、詩やエッセイを書いているんだけど、読んでやってくれないかな」と言われたのだ。「うん、いいよ」というと、メールで怒濤のごとく作品が送られてきた。詩は冗長だし、エッセイはひどく観念的だ。俳句は俳句の体をなしていなかった。それを読んで「この人は、短歌を書いた方がいいんじゃないか」と思った。三十一文字という定型にはめることで、冗長な部分を切り、核になるいい部分がもっと前面にでてくるのではないか、と思ったからだ。本人に勧めたところ、これまた怒濤の如く短歌を書いてきたのだ。彼は寝たきりだから、時間だけはたっぷりあるのはわかるけど、それにしてもすごいパワーである。そして、そのなかには、この病を得た者でなくては書けない、実感に満ちたすぐれたものがあった。</p>

<p>そんなわけで、その短歌を歌集にまとめられないかなあ、と親切心を起こして、なじみの編集者に声を掛けてみた。編集者の返事は「短歌だけではねえ。ノンフィクションと短歌のコラボレーションなら出版できるけど」とのこと。「でも、だれが書くの、そのノンフィクションを」と訊くと「そりゃあ、行きがかり上、あなたしかいないでしょう」。</p>

<p>というわけで、うっかり、わたしが書くことになってしまったのだ。しかし、いろいろあって（中略）モチベーションが上がらず、なかなか執筆モードに入れずにいたのだが、こないだのお正月に一気に書き上げた。４００字で約２５０枚になった。</p>

<p>このノンフィクションのために、舩後さんの奥さまや主治医の先生、ご友人などたくさんの方に取材をさせていただいた。その方々や、日本ＡＬＳ協会の方にも原稿に目を通していただき、チェックを入れてもらわなければならない。これが、ノンフィクションの大変なところだ。</p>

<p>その作業は編集サイドでやってもらった。葉月社、という障碍者問題を扱っている編集プロダクションの方が、取材も含めて手伝ってくださったのもありがたい。集まったチェックの入った原稿をもとに、わたしが第２稿をまとめる、というのが今回の仕事だった。</p>

<p>２５０枚というボリュームがあると、読むだけで丸一日かかってしまう。結構な労働だ。複数の相手から戻ってきたチェックをひとまとめにするのも、結構、手間だった。</p>

<p>実は、あまりに忙しくて、自分の書いた原稿を、中断なしで通しで読むのははじめてだった。読んでみて、改めて舩後靖彦、という人の前向きの心に打たれた。</p>

<p>とはいえ、舩後氏も、最初から前向きだったわけではない。絶望の淵に深く沈んだ２年間があった。そこから彼を救いだし、前向きの心を引き出してくれたのが、当時、千葉東病院にいた今井尚志医師だった。今井医師は、ＡＬＳの専門医として、単に病気に対処するだけではなく、この病にかかった人々の「人生再構築」に心を砕いていらした。だからこそ、舩後氏も、再起することができたのだ。</p>

<p>クオリティ・オブ・ライフにまできちんと心を配っている医師がいる。そのことに、わたしはいたく感動した。今井医師はすばらしい方だ。よくここまで患者の人生ときちんと関わるものだと、驚嘆した。</p>

<p>しかしまた、すべてが今井医師ひとりの肩にかかっている、という現状にも、疑問を感じた。これは、医師にとってあまりに過酷だ。カウンセラーでもなく、精神科医でもないのに、医師がそこまでやらなければ、他にやる人がいない。今井医師のように、心やさしく、寛容であり、能力があって、超人的に仕事をこなせる人なら、病気に対処しつつ、その人の人生再構築にまで手を貸すことができるだろう。しかし、すべての医師にそれを要求するのは、無理だ。</p>

<p>医師と患者の間に、その病気を医学的に理解しつつ、どうやってクオリティ・オブ・ライフを保っていくかをいっしょに考え、示唆してくれるカウンセラーが必要だ、とひしひしと感じた。</p>

<p>だからといって、もちろん、医師が「人間」ではなく「病気」とだけ向き合っていればいい、というわけではない。医師にもまた、人間と向き合ってもらいたい。しかし、では実際にどうするか、というとき、助けてくれる誰かが必要だと思うのだ。医師不足といわれている。不足してるのは医師だけではない。医師と患者とをつなぐ立場の人も必要だ。</p>

<p>そういったことまで含めて、医療の未来を考えていくべきだと、つくづく思った。</p>

<p>近々出版予定の舩後氏の短歌＆ノンフィクションのタイトルは「しあわせの王様――全身麻痺のＡＬＳを生きる舩後靖彦の挑戦」（仮題）。全身麻痺という状態でも、人生をエンジョイしている舩後氏の姿に勇気づけられるのは、病を得た人ばかりではないはずだ。</p>

<p>それにしても、お水取り取材から、母のこと、そして原稿と、よくこんなに走り続けることができるものだと、自分でも驚く。感慨に浸っている時間もろくにない。ないから、落ちこまずにすんでいるけれど、なんだか、バリバリのビジネスマンのような気分だ。さあ、次は連載原稿だ。</p>]]></description>
<link>http://ryomichico.net/diary/2008/04/index.html#000637</link>
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<pubDate>Mon, 14 Apr 2008 01:21:00 +0900</pubDate>
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<title>近代医療／ストーマという選択</title>
<description><![CDATA[<p>父は五十代半ばから膀胱を患ってきた。ポリープができて、一年に五回も手術をするような年もあった。ある手術の時、医師の説明を聞きながらカルテを見ると「cancer」とあった。びっくりして「父は癌なんですか」と聞くと、医師はこともなげに「そうすよ。前の病院でお聞きにならなかったんですか」と言われた。ショックだった。「癌といっても、いろいろあるんです。あなたのおとうさんの癌は悪性と言っても比較的ましなもので、転移はないと思われます」とのこと。それを聞いてほっとしたものの、やはり心配は消えなかった。</p>

<p>ヘビースモーカーの父になんとか煙草を止めさせようとしたのも、その時だ。父は怒り、まったく言うことを聞いてくれなかった。母も「おとうさんが怒るから、煙草のことは好きにさせてあげるの」とあきらめ顔だった。</p>

<p>その父が六十歳になって勤めていた税務署を退職すると、急に調子がよくなった。完治したわけではないけれど、手術も数年に１度というペースになったのだ。歳を取って進行が遅くなった、ということもあるだろうけれど、満員電車に乗る通勤や、役所の仕事が、よほど大きなストレスだったのだろう。</p>

<p>それでも、膀胱は少しずつ悪くなる。手術を重ねることで弾力がなくなり、小さくなり、とうとう三十分に一度はトイレに行かねばならない状態になってしまった。医師からは、膀胱摘出をすすめられ、わたしもその方がずっとクオリティ・オブ・ライフの向上になるとすすめたけれど、父は怖がって拒否した。</p>

<p>そのため、父は夜もろくに眠れなくなり、外出もままならなくなった。クレージーな状態だった。そんなことでは人生、生きている甲斐がないよと手術をすすめても、父は嫌だといって聞いてくれない。</p>

<p>どうしようもなくなって病院に行ったとき、医師は「もう膀胱が機能しなくなって、自分の力で排泄できないから、尿路に管をつけて外に流すか、膀胱を摘出するしかない」と言った。</p>

<p>わたしなりに調べてみれば、膀胱摘出して、膀胱に替わる袋「ストーマ」をつけた生活は、慣れればそれなりに快適な様子だ。解説書も取り寄せ、ストーマをすすめたけれど、その時も父は頑なに膀胱摘出を拒否した。</p>

<p>わたしは医師に尋ねた。膀胱摘出した方が、生活しやすいのではないか？と。医師はこう答えた。「それは、やっぱり障碍者になるわけですから、クオリティ・オブ・ライフは落ちますよ」と。</p>

<p>それは真っ赤な嘘であった。尿路に管をつけた状態では、ろくに移動もできない。そのために、父はベッドから動かなくなり、すっかり足が衰えてしまった。わたしは、少しでも父が動きやすいようにと、尿を入れる袋を肩から掛けられるような鞄をいくつも作ってあげたけれど、それでも、歩くのが億劫なことには変わりない。</p>

<p>しかも、管からたびたび雑菌が入り、父は高熱を出した。その頃、わたしは相模原で暮らしていたのだけれど、真夜中に、何度も母からの悲鳴のような電話をもらった。足が弱っていた父は、熱によって腰が抜け、母は途方に暮れ、何もできず、わたしは相模原から千葉の救急車を手配したりした。</p>

<p>そんなことが続いて、とうとう父もあきらめ、膀胱摘出の手術をすることになった。術後、足が弱って歩けない父を、すぐに家に戻すわけにもいかず、老人保健施設でリハビリをしてもらうことになったのだが、父はリハビリを強く拒否。ろくに歩けないままだった。そうなると、連動して頭がボケはじめた。歩かないし、人とろくに口もきかないのだから、仕方ない。</p>

<p>母の調子も思わしくなかった。肺の病気で具合が悪い。在宅酸素をするほどではなかったけれど、何をするにも、すぐに息が上がってしまった。</p>

<p>それなら、わたしが面倒を見るから、いっしょに奈良に行って暮らそうよ、と提案。最初は賛成してくれたものの、奈良に両親のための部屋を用意し、家具も買い揃えたところで、ドタキャンされてしまった。近所の有料老人ホームに入所するという。わたしは泣く泣く部屋を解約し、新品の家具を二束三文で売り払った。表向きの理由は「住み慣れた土地を離れたくない」だったが、真の理由は違ったように思う。その経緯はまた別の時に書こう。</p>

<p>そんなわけで、有料老人ホームに入所した二人だった。見学して気に入って、すぐに入所を決めた、ということだったけれど、行ってみて驚いた。長い廊下の脇にずらっと並んだ個室。父と母は別の部屋だ。そして、入所者は二階なら二階にしかいられない。歩けるのは、その長い廊下のみだ。廊下の長さは約 50メートル。散歩といえば、そこを行ったり来たりすることしかできない。食堂はあるが、いわゆるリビングにあたるものがない。ソファがあったり、囲碁をしたりするようなスペースは皆無である。ベランダもないので、日光浴もできない。外出したいときには、付き添いが必要で、家族か親類などが来てくれなばければ、外にも出られない。それでいてここでの暮らしには毎月二人合わせて40万円弱かかる。娘が面倒を見たいと言っているのに、どうしてそんなところに入所を決めたのか、わたしにはまったく合点がいかなかった。</p>

<p>その施設が特別に悪い、というわけではないだろう。介護の人々は、親身になって面倒を見てくれる。けれど、これでは生きる意欲が湧くわけもない。父はますますボケ、母はみるみる弱っていった。</p>

<p>そんななかでも、母は父の面倒を見たがった。歯磨きの時には椅子に座らせ、パジャマのボタンまで、母がかけてしまうのだ。父は、どんどん弱っていく。頭も弱っていく。リハビリも拒否。レクレーションも拒否して、引きこもりのままだった。</p>

<p>わたしは母に言った。「ほんとうにパパのことを思うなら、どうか手を出しすぎないであげてちょうだい」と。何度も頼み、施設の人からも話してもらったが、母はまったく聞き入れてはくれなかった。むしろ、父に手出しをするな、と言うわたしを恨み、憎むのだった。</p>

<p>父の様子が快方に向かったのは、なんと母の病状が悪化してからだった。母がついに在宅酸素をはじめ、いままでのように自由に動けなくなると、父はみるみるよくなっていった。以前よりもずっと歩けるようになり、驚いたことにレクレーションにも参加するようになっていたのだ。椅子に座ったまま、床にボールをバウンドさせるゲームに参加している父を見て、わたしは驚き、空いている椅子に座って、いっしょにゲームに参加した。</p>

<p>一度は奈良に呼び寄せることに失敗したけれど、わたしはあきらめなかった。作戦を進め、この四月にはようやく両親を呼びよせることになっていたのだが、それはまた別の時に話そう。</p>

<p>わたしが言いたいのは「ストーマ」のことだ。膀胱を摘出し、お腹に二箇所、穴を開け、そこにぴったりとビニールの袋を接着させて、お小水を溜める。三時間おきに溜ったお小水を捨てるのだが、夜は寝る前と、起床の時に捨てるだけで大丈夫だ。入浴のたびに、このストーマをつけかえなければならないのだが、面倒なのはそれだけだ。むしろ、おしっこでトイレに行く必要もないし、ストーマの袋は体に密着しているので、動くのにも支障がない。ストーマを装着したおかげで、父のクオリティ・オブ・ライフは格段に向上したのだ。30分おきに尿意を催して眠れない生活よりも、尿路に長い管をつけて動きにくく、度々高熱を出したときよりも、ずっとずっといい。</p>

<p>それなのに、医師は、そう説明してくれなかった。「障碍者になるわけですから、クオリティ・オブ・ライフは落ちますよ」と言ったのだ。</p>

<p>もし、もっと早くに、ストーマを装着するメリットを医師がきちんと教えていてくれたら。手術を強くすすめてくれていたら。そうしたら、父はもっとずっと活動的でいられただろうし、いまのようにボケることもなかっただろう。頭がはっきりしているうちからストーマに慣れていれば、自分で処理することもできただろうし、あちこち自由に出歩けて、足が弱ることもなく、ずっといい暮らしができたはずだ。父が元気なら、母も助かっただろう。母の寿命も延びたかもしれない。</p>

<p>「もしも」というのは、過ぎてしまった人生には何の意味もないことだけれど、後に続く人には、ぜひこの経験を生かしてほしいと思う。膀胱と取ってしまう、というのは、確かに恐ろしいことに違いない。けれど、場合によっては、その方が本人にとって、ずっとずっといいことがあるのだ。少なくとも、うちの父の場合はそうだったと断言できる。</p>

<p>医師は「病気に対処する」だけではなく、その人のクオリティ・オブ・ライフまで考えたうえで、的確な説明をしてほしいと、心から思う。</p>]]></description>
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<pubDate>Thu, 10 Apr 2008 21:00:00 +0900</pubDate>
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<title>花めぐり花おくり</title>
<description><![CDATA[<p>生きていた母が、もうどこにもいない。そのことに納得がいかず、どうにも心が落ち着かない。仏教では、死者は亡くなってから四十九日の間は「中有（ちゅうう）」「中陰（ちゅういん）」と呼ばれるこの世とあの世の間をさまよっているという。この間に修行を重ね、魂を清めて成仏するのだという。母はいま、どこにいるのか。母の菩提を弔うためにお寺に行きたいと思った。</p>

<p>気がつけばきょうは四月八日。釈迦が生まれたとされる日だ。東大寺では「仏生会」と呼んでいる。「花祭り」という呼び名も一般的だ。死者の菩提を弔おうと思った日が、誕生の記念日。そのことの不思議を思う。生は死と、死と生とつながっているのか。<br />
<a href="http://ryomichico.net/diary/2008-04-08_daibutuden.jpg"><img alt="写真：桜咲く大仏殿境内" src="http://ryomichico.net/diary/2008-04-08_daibutuden-thumb.jpg" /></a> <a href="http://ryomichico.net/diary/2008-04-08_syaka.jpg"><img alt="写真：東大寺大仏殿前に設置された花小堂の誕生仏" src="http://ryomichico.net/diary/2008-04-08_syaka-thumb.jpg" /></a> <a href="http://ryomichico.net/diary/2008-04-08_hanakui.jpg"><img alt="写真：花びらを食べる鹿" src="http://ryomichico.net/diary/2008-04-08_hanakui-thumb.jpg" /></a></p>

<p>東大寺大仏殿の前には、馬酔木と椿の花で飾った小堂があった。そこに「天上天下唯我独尊」と天と地とを指さしている金色の小さな仏さまが納められていた。「誕生仏」と呼ばれるかわいらしい仏さまだ。その仏さまの頭から、小さな竹のひしゃくで甘茶を注いで供養する。「竜王がお釈迦様の誕生を祝って甘露の雨を降らせた」という伝説にちなんだものとも言われている。<br />
<a href="http://www.todaiji.or.jp/index/hoyo/bussyoue.html">http://www.todaiji.or.jp/index/hoyo/bussyoue.html</a></p>

<p>千葉の実家の庭は七十坪ほどあり、父の丹精した樹木や草木が所狭しと植えられていた。母の葬儀の日には、桜や椿が咲き、白と薄紅の馬酔木の花がたっぷりと咲いていた。地面にはいたるところに水仙が花を開いて、芳しい香りがしていた。</p>

<p>あの庭の花々が、いまこの誕生仏の小堂に飾られているような錯覚に陥る。</p>

<p>甘茶を注ぎ、甘茶をいただく。お砂糖とは違う、不思議とさっぱりした、けれどもくっきりとした甘みが傷んだ心を潤してくれた。</p>

<p>大仏さまは巨きかった。いつ見ても「ああ巨きい」と驚く心がある。きょうはその巨きさが、そのまま慰めとなった。その大きな掌で、死者の魂が救われる気がした。<br />
「どうか、ママがいいところへ行けますように」<br />
心からそう祈る。</p>

<p>帰りがけ、興福寺の境内を通ると、南円堂の前にも誕生仏の小堂があり、そこでもお参りさせていただく。こちらは、色とりどりの花が飾られていた。そこに見た顔を見つけた。詩人のあこ米ちゃんだった。久しぶりに奈良の知った顔に会ってほっとする。</p>

<p>これでもう家に戻ろうと思い、帰りがけに八百屋さんに寄る。金時人参を手に取ると、見知らぬおばさまが「それ、甘くておいしいわ。炊くときは、お砂糖いれんでいいくらいやわ。わたし、大好きやわ」と話しかけてきた。身なりのいい山の手婦人のような姿だが、下町っ子のような人なつこさだ。</p>

<p>レジでお勘定をすると、もう半月以上顔を出していないというのに「こないだ来た時、お水取りに行くって行っていたけれど、見られた？　何時間待ったの？」と、声を掛けてくれた。ああ、覚えていてくれたんだと、心底うれしくなった。「きょうは、三条通の浄教寺でも花祭りを盛大にやってはるわ。見に行ったらええわ」と教えてくれる。さっき話しかけてきたおばさまは「今晩は新薬師寺さんでお松明があるんやで」と教えてくれた。みんなみんな、どうしてこんなに人なつこくやさしいのだろう。</p>

<p>ちょうど、銀行に行く用事があり、その向かいが浄教寺だった。門前に誕生仏の小堂が置かれていたので、ここでもお参りさせていただく。</p>

<p>境内にみごとなしだれ桜が咲いていて、思わず入ると、いつもは開いていない本堂の扉が開いて、ご本尊が見えている。外から拝んでいると、お坊さんがいらして「どうぞ中へ」と誘ってくださった。広い本堂の畳の間で、きちんとした身なりの小さな男の子が一人、盛んに側転をしている。「こちらのご住職の跡取りになる坊やです」とお坊さんが教えてくださった。やんちゃな坊やを寛容に見つめるお坊さんと仏さまがそこにいた。</p>

<p>ご本尊の阿弥陀如来は、実に美しい端正なお顔立ちで、衣のドレープの流麗なことといったら息を飲むほどだ。「運慶の作と伝えられています」とのこと。お坊さんは、お寺の由来などいろいろ話してくださり「どこの宗派でもいいんです。通りがかりでもかまいません。お参りなさるといいでしょう」とおっしゃってくださった。そして「きょうは阿弥陀さまとよい結縁を持たれてよかったですねえ」とやさしい声でおっしゃった。</p>

<p>こんなふうに、見ず知らずの人にやさしくしてくれるのが奈良だ。その温かさが、今日は一段と身にしみる。</p>

<p>家に戻り、事故の後遺症のリハビリのため病院に行って戻ってくると夕方の六時半になっていた。七時から新薬師寺のお松明だ。こうなったらもういっそ新薬師寺も行こうということになり、相棒と二人で出かける。自転車で行けば、すぐそこなのだ。</p>

<p>夕暮れの新薬師寺。青く澄んだまま暗くなった空に、美しい屋根瓦が映える。本堂の扉が開いて、ご本尊の薬師如来が金色に輝いた。美しく荘厳された本堂には、灯明がいくつも灯され、なんともいえない美しさだ。その背後に、十二神像がぐるりと薬師仏を取り巻いている。こんな場所から、こんな景色を見られることなど、滅多にない。それだけでもう、胸がいっぱいになった。</p>

<p>松明は静かに灯され、静かに移動していった。桜の花満開の下、きょうは、新薬師寺の修二会なのだ。十一本の大松明が奉納される。一本の松明の後、一人の僧侶が歩き、本堂へと入っていく。燃えあがる松明の炎に、薄紅色の桜の花びらが照らされ、暮れていく闇のなか、なんとも言えぬ微妙な色合いに浮かびあがる。</p>

<p>母を思った。死の床で、医師の言うことなど聞かず、好きなものを好きなだけ食べさせてやればよかったと、そのことばかりが頭に浮かんで涙が出てきた。</p>

<p>母はどうしているだろう。毘盧舎那仏や阿弥陀さまや薬師さま、あちこちから手を差し伸べられてとまどっているだろうか。</p>

<p>あれはいつだったか、母を老人福祉施設に見舞いに行ったとき、母がいきなり「願わくば花の下にて春死なんその如月の望月の下」と言ったので、驚いた。母は、普段、歌をそらんじるような人ではなかった。西行法師のこの歌を、一体、どこで読んだのか。わたしは「ママ、何を言っているの。奈良で暮らすんでしょう。春にはいっしょに吉野の桜を見ましょう」と言った。</p>

<p>いまはその春だ。母は自分の言葉通り、桜満開の季節に旅立った。今年の桜は、まるで母の願いに寄り添うがごとく、いつもより早く開花したのだ。</p>

<p>桜が咲いている。至るところに咲いている。大仏殿にもいっぱいの桜。浄教寺にも新薬師寺にも、そしてその道々にも桜だらけだ。大仏殿の脇の側溝に溜った桜の花びらを、前足の膝を折って、一心に食べる鹿がいた。花を食べる鹿。こよなく美しい生き物。まるで祈りの姿。</p>

<p>母の葬儀は自宅で行い、無宗教で「花葬」にした。色とりどりの花をいっぱいに飾り、いらしてくださった方々にも一輪ずつ花を手渡して、母に供えていただいた。その花をみな柩に入れて、花いっぱいのなかで見送った。母の柩は庭の桜の木の下を通り、花のなかを運ばれていった。そしてきょうは、花に囲まれたお寺巡り。どのお寺も自転車で十分圏内で移動できるからこそできる贅沢だが、母に導かれての花巡りだったように感じる。</p>

<p>花の季節になると、これからはきっと、いつもいつも母を思い出すだろう。花に囲まれて微笑みながら永久の眠りを眠っていた母を。</p>]]></description>
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<pubDate>Tue, 08 Apr 2008 23:59:59 +0900</pubDate>
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<title>ハハキトク　ハハシス</title>
<description><![CDATA[<p>3月18日朝、東京に住む妹より電話、相棒が受ける。「眠いから、後でかけるって言って」というと「緊急の用件」というので出たら、千葉の老人福祉施設で暮らしている母が入院したとのこと。<br />
「今回はもう、病院から出られないってお医者さまに言われたの。持って２週間ぐらいでしょうって」<br />
いっぺんで目が覚める。</p>

<p>4月には、父と母を奈良に呼び寄せていっしょに暮らすべく用意を進めていた。千葉の病院からの紹介状も奈良の病院に渡し、現在の主治医から「千葉から奈良へ新幹線での移動も大丈夫」と太鼓判を貰っていたのに。まさか、そんな……。</p>

<p>焦ったが、すぐには動けなかった。連載の原稿が仕上がっていない。50枚のところ、まだ10枚しか書けていない。お水取り取材三昧で執筆が進んでいなかったのだ。これを仕上げなければ出られない。ああ、こういう時のためにも、連載原稿は一ヶ月分書きためしておくべきであったと思うが、元来そういうことのできるわたしではない。ともかく書かなければと、丸２日で必死で書き上げる。因果な商売である。しかし、その商売を優先するわたしがいる。死にそうな母、よりも、締め切り優先の薄情な娘なのだ。夜中の二時まで仕事をして仕上げ、朝五時には起きて、20日の朝一番の列車で千葉へ向かった。</p>

<p>昼前に千葉に着き、すぐに病院へ。母が意外と元気なので一安心した。横にはなっているが、話せるし、意識もしっかりしている。妹も病院に泊まりこんではいないと言う。</p>

<p>母の病気は肺繊維症。自己免疫系の疾患で、自分で自分の肺の組織を攻撃して繊維化してしまうという難病だ。にもかかわらず、母は発病から15年以上も小康状態を維持してきた。奇跡的なことだ。それが、ここへ来て突然、悪くなったという。「急性増悪（ぞうあく）」という症状で、レントゲンでも肺が真っ白になり、こうなると回復の見込みがほとんどないと医師から聞かされた。そう聞かされても、肌の色つやもよく、79歳の誕生日を迎えたというのに、皺もあまりない母の顔を見ていると、ほんとうに死が間近に迫っているとは、どうしても思えなかった。もし、医師の言うことが本当だとしても、長丁場になると信じて疑わなかった。</p>

<p>面会時間は夜8時まで。それを過ぎると帰らざるを得ない。後ろ髪引かれる思いで病院を後にして、からっぽの実家に一人で泊まった。</p>

<p>医師は予告した。酸素を吸っているので、血中の酸素量は充分足りているのだが、二酸化炭素を排出できない。血中の二酸化炭素量が増えると、脳に影響を与えて、幻覚幻聴妄想を引き起こす、と。</p>

<p>わたしが駆けつけてから三日目、入院した日から起算すれば五日目、医師の予告通り、母は徐々におかしなことを言いだした。最初は、平和な妄想だった。病院のアラーム音を「ラクダの鳴き声」だと思いこんだのだ。</p>

<p>「夕べの雨と風で、原っぱのラクダが逃げちゃってね、おかあさんの部屋のすぐそこまで来たんだよ。それで目の覚めちゃった人がうろうろして、大変だったの」<br />
「お医者さんの息子さんがね、そのラクダを飼っているのよ」<br />
「美千子もラクダの面倒を見ているんでしょう」</p>

<p>確かに夕べはひどい雨と風だった。病院は、菜の花の咲く美しい川沿いにある。そうか、原っぱのラクダか、と思いながら、わたしは母の言うことを否定せずに、うんうんとうなずいていた。</p>

<p>急な入院で個室が満室で、母は４人部屋にいた。母のベッドは窓際で、広い空がよく見えた。すると、母はその空を見つめ、おかしそうに笑いながらいうのだ。<br />
「ふふふ。ほらあの空のところにオルガンがあるでしょう。そこにおかしいの、靴が一足だけあるの」</p>

<p>天井から下がるカーテンレールを見て、こんなことも言った。<br />
「お父さんがね、シジミを一生懸命とって、いっぱいそこに並べてあるの。それがあったかくなると自然に動きだして困るのよ。ふふふ。ほら、あんなに」<br />
「ここらへんから見ると、みんな白くてきれいに見えるねえ」</p>

<p>こんな平和な幻覚を見ながら、ゆっくりとあちらの世界へ移行できるのなら、それもしあわせな末期だと思いながら、わたしは母の幻覚や妄想につきあっていた。長丁場になると思ってわたしは病院にパソコンを持ちこんで、看病の合間に仕事をしようとしたが、それどころではなかった。母はのべつまくなしに不思議なことを語りかけてくるのだ。</p>

<p>ラクダとシジミの次に出てきたイメージは、母が子どもの頃の思い出だった。山梨県石和の鎮目の実家の話だ。向かいのベッドの患者さんを「お隣のミエコちゃん」だと思ったり、自分が遠縁にあたる人の雑貨店に布団を敷いて寝ているのだと勘違いした。</p>

<p>さらに進行すると、盛んに「ご飯の支度」を気にしだした。「お米をとがなくちゃ」というので「大丈夫、わたしがといでおいたから」と言う。「でも、おかずがないわ」というから「心配しないで、おかずも作っておいたからね」と言うと「そう」とやっとほっとした表情をする。「お弁当作らなくちゃ」とも言う。ああ、この人は長い間「おかあさん」として生きてきたんだな、と思うと、胸がじんとした。</p>

<p>幻覚や妄想はあっても、言葉は通じた。大丈夫だよというと、納得してくれた。その日もまた、後ろ髪引かれる思いで病院を後にした。</p>

<p>翌日の早朝、病院から電話がかかってきた。母が夕べから大声を出して暴れ、一睡もしていないという。早く来て欲しい、今晩は泊まって欲しい、というのだ。昨日、ずいぶんおかしな事を言っていたけれど、そんなにひどくなったのかと慌てて病院に駈けつける。</p>

<p>入院六日目。母は一日中、妄想に苦しめられていた。さまざまなことを口走った。怒った口調で文句を言ったり、怒鳴ることもあった。</p>

<p>母はわたしに向かってこう言った。<br />
「普通にしなさい、普通に。ちゃんと結婚して、子どもを産んで、教育して」</p>

<p>「結婚してるよ。だんなさんも、ちゃんと働いているよ」と言うと「そう」と拍子抜けしたような表情になった。</p>

<p>「あんた、何して暮らしているの」というので「小説や絵本を書いているんだよ。小説家」と言うと「そんなことで食べていけるの？」という。「食べていくんだよ。今までもそうしてきたし、これからもそうするの。大丈夫だよ」と言っても、なお不満そうだった。</p>

<p>「『父は空　母は大地』って絵本あったでしょう。ママ、あの本、大好きって言ってくれたよね。いい本だって。ああいう本を作っているの。だから心配しないでね」と言うと、やっと少し落ち着いてくれた。</p>

<p>そうか、確かにわたしは「普通」じゃなかった。幼い頃から変わった子だと言われてきた。大人になってからも、本を出したり、文学賞をもらったりして、どう見ても「普通」じゃない。「普通」ではないことが、母には気がかりであり、気に入らなくもあったのだ。だから、いくら「奈良においで。いっしょに暮らそう」と言っても、色よい返事をくれなかったのだろう。「普通」じゃないことは、母にとっては恐ろしいこと、将来の見通せない大きな不安だったに違いない。そんな娘に、自分の余生を託したくはなかったのだろう。</p>

<p>だんだんわからなくなっていく母が、空中に手を伸ばす。<br />
「美千子だよ、美千子。ここにいるよ。どうしたいの？」<br />
すると、母が突然、こう言った。<br />
「撫でてやる」<br />
頭を出すと、ごしごしと頭を撫でてくれた。<br />
「硬い髪だねえ」<br />
そう言って、ひとしきり撫でる。</p>

<p>幼い頃から、母に撫でられた覚えがない。抱きしめられた覚えもない。そういう母だった。「おかあさんはね、小さな妹弟がいっぱいいて、子守りばっかりさせられて育ったの。遊びに行くときも、赤ん坊を背負わされた。だから、子どもは嫌いなの」とはっきり口にする母だった。</p>

<p>それが、最期の最期になって、こんなことを言うなんて、反則だ。こんなことで、一生分を埋めるなんて、ママ、ずるいよ、と思いながら、涙が止らない。</p>

<p>「どうして泣いてるの？」と母が聞く。<br />
「うれしくて」<br />
そう言うと、母がちょっとおどけて言った。<br />
「いいおかあさんだねえ」</p>

<p>それから、母の病状は時を追うほどに悪くなり、その晩、母はまたもや一睡もしなかった。見えないものにぎりぎり手を伸ばす。空中から何かを摘み取る。手許に引き寄せ、豆の皮でも剥くような仕草をして、それを口に運ぶ。ああ、何か食べたいんだ。かわいそうに。何か食べさせてやりたい。しかし、医師から禁じられていた。看護士も、医師の許しなしには食べさせてはいけないという。そして、その医師は週末なので、病院にいないという。</p>

<p>わたしがやってきた日から、母は食べたがっていた。<br />
「田舎に行くと、トウモロコシあげるなんて、くれるじゃない。焼いて食べると、おいしいんだよ」<br />
「たくさんじゃない、ちょこっと食べるといいよ」<br />
「何だっけ。よく田舎で、こういうふうなもの焼いて、薄焼きっていって、卵と小麦粉とお砂糖入れて焼いたんだよね。それをおやつにして」<br />
「もう死のうって人が、お腹すいたなんてねえ。オアゾ（入所していた施設）の冷蔵庫に、タクアンが入ってるの。食べたいなあ」</p>

<p>わたしは、母がかわいそうでならなかった。回復の見込みがないと断言しながら、食べることを禁ずる近代医療とは何なのか？　最期なら、好きなものを好きなだけ食べさせてあげればいいではないか。</p>

<p>母は、恐ろしい幻も見ているようだった。一晩中、空中に手を踊らせていた。体力もないこんな病人が、どうしてこんなに動き続けることができるのか、不思議なほどだ。その姿は、先日、博物館で見た古い地獄絵図に出てくる人の姿にそっくりだった。あの手を伸ばす姿、もがく姿は、空想ではなく、きっとこんな病状の人の姿から描かれたものなのだろうと思った。神でも仏でもいい、どうかこんな苦しみから母を救ってくださいと、わたしは祈り続けた。一生で一番真剣に祈った。ベッドの脇にいっしょに横たわって、母を撫で、空中に踊るその手をそっと握って下げる。「大丈夫だよ」「そばにいるよ」「怖いものはみんな美千子が追い払ってあげるからね」「心配しなくていいよ」と言い続けた。</p>

<p>痰が絡む。喉でぜいぜいと音がする。すると、看護士さんが来て、鼻から管を入れて吸引する。鼻の粘膜が傷ついて血の混じった痰が出てくる。それが実に苦しそうなのだ。「手を押さえてください」と看護士さんに言われて、母の両手を押さえる。どこにこんな力があるのかと思うほど、母は暴れもがく。「ごめんね、ごめんね。これで息が楽になるからね」と言いながら、処置の間、母の手を押さえ続ける。母が叫ぶ。<br />
「やめて、やめて。こんなことしたら、おかあさん、死んじゃう」</p>

<p>病状が悪化すると、看護士が来て、心電図を取るための装置を胸につけ、指には洗濯バサミのような、血中酸素を計る機器を取り付けた。「ナースステーションでモニターしていますから」と言う。母がそれを嫌がって無意識に引き抜こうとする。母は「いよいよの時は呼吸器を装着しない」と自ら決めていた。家族も同意している。それを医師にも伝えている。つまり、これ以上の積極的な治療はしない方針だ。それなのに、なんのためのモニター？　こんなに嫌がっているのに。</p>

<p>「その洗濯バサミみたいなものは、はずしてあげてください」と看護士さんに頼んだ。<br />
「モニターできなくなりますよ。それでもいいのなら、はずします」<br />
「いいです。はずしてください」</p>

<p>あまりの母の苦しみを見て、鎮静剤を処方してほしいと看護士に申しでた。強い鎮静剤は、呼吸困難を引き起こすので、処方できないという。軽いものなら、と言うので、それでもいいからとお願いすると、点滴に混ぜてくれた。一瞬、母は穏やかになり、こう言った。<br />
「きょうは楽しみだなあ」<br />
一体、何を楽しみに思ったのだろう。遠足の前の子どものように、死出の旅を楽しみに思っていたなら、どんなにかいいだろう。</p>

<p>けれど、母はすぐにまた恐ろしい夢を見はじめたようだった。母の「もがき踊り」が再び始まった。</p>

<p>母は、なぜこんなに苦しまなければならないのか。酸素を吸わなければ、母はとっくに息を引き取っていただろう。酸素吸入で生き延びたから、恐ろしい幻覚も見るのだ。一口も食べていなくても、栄養点滴をするから、体力が温存され、苦しむ時間が引き延ばされるのだ。第一、母は経口で食事ができないわけではない。食べることを禁じられているだけなのだ。本人が食べたいと言っているのに、食べさせてもらえない。食べたいものを食べて、息が詰まって死ぬなら、それはそれでいいではないか。とさえ思う。</p>

<p>母もわたしも、一睡もできない夜が明けた。月曜の朝八時、ようやく医師の回診がきた。それまでの魔の二日間、医師はやってこず、看護士が医師の言いつけを守って、母の食事を禁じ、水を飲むことも禁じてきたのだ。看護士さんたちは、ずいぶんよく面倒を見てくれたと思う。献身的、と言ってもいい。それでもなお、近代医療とはこれでいいのだろうかと疑問に思わざるを得なかった。</p>

<p>医師から話があるという。病状を説明され、二者択一を迫られた。</p>

<p>「おかあさんは、二酸化炭素中毒による譫妄状態にあります。息が苦しいので、どうしても恐ろしい幻覚を見てしまいます。痛みを除く薬はあるけれど、苦しみを除く薬はありません。この苦しみを取り除くには、意識をなくすという手段しかありません。意識がある限り、おかあさんは苦しまれるでしょう。深く眠る鎮静剤を投与して意識をなくすことで、苦しみからは逃れることができるでしょう」</p>

<p>「しかし、鎮静剤は、両刃の剣なのです。苦しみを取り除く一方で、呼吸する力を徐々に奪うことになります。鎮静剤を投与すれば、二週間以内に、おかあさんは呼吸停止か心停止になるでしょう。それを覚悟のうえで、鎮静剤を投与するか、しないか、です。鎮静剤の投与を開始すれば、その時点から、もう会話は一切できなくなります」</p>

<p>「回復の可能性は、限りなくゼロに近いと申しあげたほうがいいでしょう。しかし、現在、強いステロイド治療を行っているので、万に一つの回復の可能性はあります。しかし、その場合でも、肺のほとんどが急速に繊維化しているので、残された機能がいまよりも多少回復するというだけであり、健康体に戻れるわけではありません」</p>

<p>「鎮静剤を打たず、積極的治療を続けるという選択もあります。しかし、その場合、このような譫妄状態が一ヶ月、二ヶ月続き、その果てにやはり治療の甲斐なくお亡くなりになるということもあり得ます」</p>

<p>もし、わたしが母の状態を見ていなければ、母に生きていてほしい一心で、積極的治療を頼んだかもしれない。けれど、二昼夜眠らず、恐ろしい幻覚を見続け、ベッドで腕を踊らせ続け、恐怖に顔を引きつらせる母の様子を見ていたわたしは、ただもう母を楽にしてあげたかった。</p>

<p>駈けつけた妹と相談して、鎮静剤を処方してもらうことに決めた。</p>

<p>「最期に、母に何か食べさせてやっていいですか」と医師に尋ねた。医師は承諾してくれた。</p>

<p>売店で買ってきたヨーグルトと、わたしが母のためにハチミツで甘く煮たリンゴを潰したものとを、母に食べさせた。朦朧とした意識のなかで「おいしい」といって、一口、二口、三口食べ、母は「もういい」と言った。</p>

<p>こんな状態でも、誤嚥せず、ちゃんと食べられたのだ。ああもっと、母の意識がはっきりしているうちに、食べさせてやりたかった。「おかしいね。死ぬというこんなときに、食べたいなんて」と言っていたときに、存分に食べさせてやりたかった。</p>

<p>3月24日12時。点滴に鎮静剤を入れる。その時点で、母はもう力尽きて、腕を上げることもしなくなっていたが、まだうなされるように何か口走っていた。しばらくして、母はようやく静かな寝息を立てはじめた。母の眠る姿を見て、わたしはほっとした。母はもう、夢も見ないほど深く眠っている。どうかもう苦しまないでほしいと祈るような気持ちだった。ようやく個室が空いて、母は眠ったまま、個室に移った。</p>

<p>それから丸二日、母は眠り続けた。深く眠っているはずなのに、痰の吸引の時は苦しみ、うっすらと目を覚ました。それほど苦しいのだと、かわいそうでならなかった。呼吸がぐんぐん浅くなっていった。</p>

<p>3月26日。昼を過ぎると、母の様子はますます悪くなっていった。わたしと妹は、母の手を握り続けた。時々、呼吸が止りそうになる。妹が慌てて「ママ、ママ、息をして！」と大きな声で言った。わたしは妹に言った。<br />
「もういいよ。そんなにがんばらせなくてもいいよ。ね」<br />
すると妹が「そうだね。ごめんね、ママ」そう言って、母の顔を見た。</p>

<p>息が浅い。<br />
「吸ってぇ」<br />
「吐いてぇ」<br />
体操の時間のように、母の呼吸に合わせて、妹と二人、静かに声を掛けた。うまく息を吸えたり吐けたりすると「いいよいいよ。その調子だよ」と励ました。<br />
「ママ、桜が満開だよ。みんなここにいるよ。美千子も純子も、パパも、常広おじさんも、○○さんも、○○さんも、みいんなここにいて、いっしょに桜を見ているんだよ。きれいだねえ。そよ風が吹いているよ。いい風だねえ。気持ちいいねえ」<br />
母の耳許でそうささやく。</p>

<p>確かに、うるわしい春の日だった。病室の窓を少しあけると、春の息吹の香りのするやさしい微風が吹いてきていた。酸素マスクをしている母に、その春風の香りは届いただろうか。</p>

<p>呼吸は浅くなり、いつ、止ったのかもわからないほど静かに消えていった。まるで、春風に溶けるように。見ると、モニターの心電図がフラットになっていた。<br />
「ママ、ママ！」と妹と二人で呼びかけると、再び心電図が動きだし、微かな呼吸も始まった。それもまた、静かに消えて、心電図がフラットになったきり、もう呼んでも戻らなかった。緊急ボタンを押すと、医師がやってきて、脈を診て、瞳孔を見た。<br />
「ご臨終です」<br />
そう言って時計を見たのが午後1時31分だった。</p>

<p>それから五分と経たないうちに、母の妹にあたる人がやってきて「えっ、死んじゃったの」と大声で叫び、そのとたんになぜか彼女の携帯電話が大きな音でピポピポと鳴り、それからなぜかわたしたち姉妹を思いきりなじる言葉を吐き散らしたので、静かな感慨もそこまでとなってしまった。母の臨終にこの叔母が間に合わなくてほんとうによかった、とわたしは内心思った。でなければ、母はあんな静かな臨終を迎えることはできなかっただろう。</p>

<p>一時は幻覚で苦しんだけれど、娘二人に両手を握られ、静かな穏やかな死だった。亡くなる一時間ほど前、父を施設から連れてきて、母に会わせてあげることもできた。亡くなってすぐ、母の顎が開かないようにと、看護士さんがぎゅっと布でしばってくれた。妹が顔を剃り、わたしがお化粧をしてあげた。にこやかに、ほんとうににっこりと笑っているような死に顔だった。</p>

<p>妹と相談して、母の遺体を自宅に連れ帰ることにした。霊安室から霊柩車に乗せられて病院を出る。振り返ると、親身にお世話をしてくださった看護婦さんが二人、深々と頭を下げていた。</p>

<p>施設に入って1年8カ月、母はようやく住み慣れた自宅に戻ってきた。その晩、父を施設から自宅に連れてきて、柩に入った母と対面してもらった。父は少し困ったような顔をして言った。<br />
「おやおや、おとなしい顔をして」<br />
父にそう言わせるほど、穏やかな表情の母だった。</p>]]></description>
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<category></category>
<pubDate>Mon, 07 Apr 2008 23:59:59 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>お水送り＠小浜／山八神事・弓打ち神事</title>
<description><![CDATA[<p>▼いざ小浜へ！</p>

<p>３月２日午前８時、近鉄奈良駅前のニッポンレンタカー集合。昨晩遅く、Shigeさんがわざわざお電話をくださり「せっかく行かれるなら、午前 11時からの『山八神事』からご覧になったら」とアドバイスをしてくださった。そのため、出発時間を１時間早めた。果たして、奈良から若狭湾の小浜まで、 3時間で到達できるのか？</p>

<p>車を借りて、いざ小浜へ。昨晩、奇跡的に道で遭った奈良女子大の保助教授が、人生での総運転時間が３時間のダーリン松永に替わって、車のハンドルを握ってくださる。ああ、ありがたや！　後光がさしてくる！</p>

<p>保さんのご専門は「松果体」。松果体は、目と目の間のおでこの辺り「第３の目」と言われるあたりにある脳の器官のひとつだ。現在では「痕跡器官」扱いされているが、どうも赤外線を感知する力があるらしい。原始的な生き物である「ヤツメウナギ」では、目と目の間、脳天のあたりにこの松果体があり、なんとそこの頭蓋骨が光や熱を透過すべく薄く透けていて白っぽく見え「ヤツメウナギの９つ目の目」などとも言われているとのこと。「研究用のヤツメウナギを採集するために、琵琶湖にはよく来るんですよ」とのことで、保さん、道もよく知っていらっしゃる。最短時間で小浜に抜ける「湖西道路」を通って小浜へ。</p>

<p>延々と琵琶湖を見ながら走り、山間に入ると、やがて「遠敷川」が見えてくる。川を上流に遡り、11時少し前に「山八神事」の行われる下根来八幡宮に到着。川沿いに立つ小さな小さな神社だ。こけむした階段を上ると小さなお堂がある。その脇に木造の小さな集会場のような建物がある。講坊と呼ばれるその畳の部屋が、神事の場だ。</p>

<p>▼古代の香り漂う「山八神事」<br />
<a href="http://ryomichico.net/diary/2008-03-02_yamahachi.jpg"><img alt="" src="http://ryomichico.net/diary/2008-03-02_yamahachi-thumb.jpg" style="float:right; margin:0em 0.5em;" /></a> <br />
戸をそっと開けると、すでに人々が集まっている。「いいですか？」と小声で訪ねると、入り口そばに座っていた村人とおぼしき人が静かに肯いてくれたので、靴を脱いでそっとあがる。正面には向かって右に「白石大明神」、左に「愛宕大権現」と書かれた軸が下がる。その前で、白い袈裟を身につけた神宮寺のお坊さんと、簡易式の裃を着た村の男たちが囲炉裏を囲んで談笑していた。囲炉裏には、湯のたぎる鉄瓶をかけられている。やがて、11時になり「では、そろそろ」と神事が始まる。</p>

<p>お坊さんが般若心経を読み上げる。さらに「バイ」と呼ばれる棒でみな一斉に畳を打ち、これを放り投げる、といった所作も為される。完全に神仏混淆だ。仏教と、非常に古い土着の宗教とが混ざっている。この神事は、国家神道が称揚され土着の神道が弾圧された明治維新の折も、密かに営まれ続けたという。以下、現地で入手した小冊子「寺誌第一集　お水送りとお水取り　若狭神宮寺から東大寺へ」（若狭神宮寺別当尊護記）より引用。<blockquote>根来八幡宮の講坊（長床）へ講衆が集合し、一和尚兄弟二和尚兄弟三和尚兄弟の六役の最高責任者である一和尚兄弟が主軸になって神事が運ばれるが、まず若狭神宮寺の別当が司祭者となって赤土を御神酒で練った土饅頭を刳抜盆に載せ一尺ほどのゆだの木のバイをつけたのを二盆作り、白石明神の祭壇に供え薬師悔過法によって加持祈祷をし、神事が始められると、手水、香水、洗米が済んでバイにつけた土饅頭の赤土が講衆一同によって舐められる。そして御神酒を講衆一同が一献あってから役頭二人が一和尚から土饅頭の盆を預り、長床の二本の柱に「山」と「八」の字をバイの先に付けた赤土で書きつけるのである。「山八」を書き終わってから弟の若衆が半紙の中心と四隅にバイで赤土を押しつける。その赤土をつけた半紙を四つ折りにして牛王杖に挟み持ち帰り農地に押し立てて方策を祈願するが、この神事の作法は講衆が毎年昇格するに伴い古い講衆から次々と相伝されるので、他に伝承されない秘伝である。</blockquote>というわけで、不思議な古代的な雰囲気のなか、神事が進む。枝付きのカシの葉が差し出され、ここから一枚をもぎ取って息を吹きかけ、破って、手を交叉して、後ろに投げ捨てる。これを、その場に居合わせたみながする。身に宿ったケガレをこれによって祓うのだという。さらに「手水」が出されるが、そのなかには、なにか黒い粉のようなものが沈んでいた。香辛料にも似ているが何だったのだろう。聖なる香水を振りかけられ、生米を数粒いただき、やがて、盆に盛った赤い土饅頭が回ってくる。御神酒で練ったというその土饅頭には、白木の棒がついていて、その先に練った赤土が付けられ、それを指でわずかに掬って舐める。その後に、漆の盃に御神酒が注がれていただく。御神酒は、三度、屠蘇器のような器を傾けて三度目に注がれた。<br />
<a href="http://ryomichico.net/diary/2008-03-02_8noji.jpg"><img alt="山八の「八」" src="http://ryomichico.net/diary/2008-03-02_8noji-thumb.jpg" width="180" height="240" style="float:right; margin:0em 0.5em;" /></a><br />
インドでやはり同じような儀式を受けたときのことを思いだした。聖なる水を振りかけられ、額に米粒をつけてくれる。</p>

<p>御神酒が終わると、いよいよ「山八」だ。講坊のまんなかの柱に、例の棒に土饅頭の粘土で「八」と塗りつける。向かって左の壁の柱には「山」の字。毎年塗り重ねられるらしく、古い土が白く乾いた上に、新たな赤土の文字が描かれる。</p>

<p>この赤土をつけた半紙を持ち帰って田畑に牛王棒で差して豊作を祈るというのだから、これは農耕に関わる神事だったのだろう。</p>

<p>司祭者である和尚さんに「なぜ、山と八なんでしょうか」と尋ねてみた。「山は山のように、という意味、八はたくさんという意味。豊饒を祈るものです」とのこと。</p>

<p>▼お水取り伝説と丹生</p>

<p>御神酒で練った土饅頭を舐めるという神事。「赤土」というところが「丹生」との関連も思わせる。そもそも「お水取り」には次のような伝説がある。<br />
<a href="http://www.todaiji.or.jp/index/hoyo/syunie/mizutori.html">http://www.todaiji.or.jp/index/hoyo/syunie/mizutori.html</a><blockquote>二月堂縁起に「実忠和尚二七ヶ日夜の行法の間、来臨影向の諸神一万三千七百余座、その名をしるして神名帳を定（さだめ）しに、若狭国（わかさのくに）に遠敷（おにう）明神と云う神います。遠敷河を領して魚を取りて遅参す。神、是をなげきいたみて、其をこたりに、道場のほとりに香水を出して奉るべきよしを、懇（ねんごろに）に和尚にしめし給ひしかば、黒白二の鵜（う）、にはかに岩の中より飛出（とびいで）て、かたはらの樹にゐる。その二の跡より、いみじくたぐひなき甘泉わき出（いで）たり。石をたたみて閼伽井とす。」とあり、魚を採っていて二月堂への参集に遅れた若狭の国の遠敷明神が二月堂のほとりに清水を涌き出ださせ観音さまに奉ったという、「お水取り」の由来を伝えています。</blockquote>修二会は、大仏開眼供養の行なわれた天平勝宝四年(752年)に始められたとされている。以来、一度も途絶えることなしに続けられ「不退の行」と呼ばれている。大仏建立の時期と重なることからも「丹生（にう・水銀の原材料となる赤い土）」説は考えられる。というのも、大仏建立には莫大な量の水銀が使用されたからだ。遠敷から奈良へと送られたのは「水」ではなく「水銀」だったのかもしれない。となれば、岩から飛び出した二羽の鵜とは、つまり「二鵜＝丹生」か？　</p>

<p>ネットで調べると「遠敷」とは「大丹生」ではないか、という説もあった。「御丹生」かもしれない。などと推理すると心が躍る。<br />
<a href="http://www.ne.jp/asahi/hon/bando-1000/dust/tan/tan-12.htm">http://www.ne.jp/asahi/hon/bando-1000/dust/tan/tan-12.htm</a></p>

<p>▼弓打ち神事＠神宮寺<br />
<a href="http://ryomichico.net/diary/2008-03-02_yumiuchi.jpg"><img alt="" src="http://ryomichico.net/diary/2008-03-02_yumiuchi-thumb.jpg" width="240" height="180" style="float:right; margin:0em 0.5em;" /></a><br />
その後、川を下り、神宮寺へ。明るく広い境内には、すでに大松明や中松明が用意され、並べられている。大護摩法要をするための木も組まれ、表面には青い杉の葉が被せられてこんもりと緑の山の形になっている。袴をはいているのは、これから始まる「弓打ち神事」と「奉納弓射大会」の人々だ。</p>

<p>やがて「弓打ち神事」が始まった。最初に若者が二射した。この人は素人らしく、指南役の介添えで矢を射ていた。次に紫の装束に身を包んだ人が古式にのっとって四方を祓うと、片肌脱いで弓を引く。こちらは形ができているから、玄人のようだ。そして、奉納弓射大会が始まった。</p>

<p>▼鵜に出会う</p>

<p>わたしたちはここで神宮寺を離れ、遠敷川に沿って河口まで下ってみた。緑の山間を縫って流れる遠敷川。その風景だけ見ていると、すぐそばに海があるとは思えない。どこか、山深いところにいるような気分だ。しかし、その川はすぐに海に注ぐ。山々は、海から直立している。それ故の天然の良港なのかもしれない。古くから、大陸文化の窓口となったのも合点のいく地形だ。</p>

<p>漁港の岸壁で、潮風に吹かれながら持参のおにぎりを食べる。港には、鵜と鳶がいた。やはりここには鵜がいるんだ、と思う。水に潜っては、驚くほど長い時間上がってこない。どこにいるのかと見ていると、遠くの、とんでもない方向から顔を出す。大変な潜水能力だ。この驚嘆に値する潜水能力も「二鵜の伝説」の一因かもしれない。</p>

<p>水から顔を出した時、とても飲みこめないほど大きな銀色の魚をくわえてきた鵜がいた。もたもたしているうちに、そばにいた別の鵜が寄ってきて、横取りしようとしている。争っているうちに、嘴から魚がつるりと落ちた。あっと思ったが、再び潜って、すぐに同じ魚をくわえて戻ってきたようだ。魚はすでに気絶しているか、死んでいるのかもしれない。二羽の鵜は、しばらくそうやって争っていた。こんな姿も「二鵜の伝説」と何かしら関係があるのだろうか。</p>

<p>お弁当を食べ終わり、再び川を遡って、我々は夕刻に「お水送り」の行われる「鵜の瀬」へロケハンに向かった。その先に、新たな「奇跡」が待ちかまえていることを、我々はまだ知らなかった。（つづく）<blockquote>【下根来八幡宮】<br />
午前１１時　　　山八神事<br />
【神宮寺 】<br />
午後１時　　　　修二会<br />
午後１時過ぎ　　弓打ち神事<br />
午後１時半　　　奉納弓射大会<br />
午後６時頃　　　修二会<br />
午後６時半　　　達陀<br />
午後７時頃　　　神宮寺大護摩<br />
【神宮寺〜鵜の瀬 】<br />
午後７時半過ぎ　松明行列<br />
【鵜の瀬】<br />
午後８時過ぎ　　鵜の瀬大護摩<br />
午後８時半過ぎ　送水神事<br />
午後９時過ぎ　　立ち直会</blockquote></p>]]></description>
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<pubDate>Sat, 08 Mar 2008 23:00:00 +0900</pubDate>
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<item>
<title>餅飯殿商店街で神の声を聞いた！の巻</title>
<description><![CDATA[<p>明日は、福井県の小浜で「お水送り」がある。東大寺二月堂の「修二会」は通称「お水取り」と呼ばれているが、これは、小浜から「お水送り」された水が、十日間をかけて地下を通り、東大寺二月堂の「若狭井」までたどりつく、という伝説に基づいたもの。小浜から送られた水を、三月十二日深夜に汲みあげる行事が「お水取り」であり、二週間をかけて行われる修二会それ全体が、人々から「お水取り」と呼ばれて親しまれるようになった。</p>

<p>明日は、キヨシローさま復活の京都コンサート、せっかく誘ってもらったのに、あえてそれを辞退して、わたしは小浜のお水送りに行く。というのも、遷都1300年祭までにはぜひとも「お水取り」の絵本を作りたい、と思っているからだ。今回のお水取りには、画家の小林敏也氏もお招きしている。というわけで、コンサートは涙を飲んで辞退して、明日は小浜へ行くことに。</p>

<p>ここで問題が一つ。電車で行こうと思ったのだが、お水送りの行事が終わるのが午後九時半。それから奈良までは戻ってこられない、ホテルをとろうとしたが、小浜のホテルも旅館も満室。ならば敦賀で、と思ったが、なんとその時間には終電が終わっている。小浜から出られない。どうしたものか？</p>

<p>車なら自由が利く。というわけで、レンタカーを借りて、車で行くことにした。車とは、なんと便利な乗り物だろう。この便利さは、悪魔的だ。</p>

<p>ところが！である！　誰が運転するのか？　わがダーリンは、免許取得以来十七年間、無事故無違反。というのも、十七年間で、ハンドルを握ったのは、合計三時間ほど。（「そんなことない」とダーリンから突っ込みが入る。「四時間か五時間は乗ってるよ」だって！）</p>

<p>というわけで、決死行である。わたしは「やめよう、忙しいし」と言ったのだが、ダーリンが「でも、すごいじゃない。洞穴に水が吸い込まれるって、どういうこと？　見たくないの？　『夢見る水の王国』みたいじゃない。行こう！」と強く主張。とうとうレンタカーを借りて行くことになった。</p>

<p>しかし、わたしは生きた心地がしない。ほんとうに大丈夫だろうか。</p>

<p>GAYOさんたちを近鉄奈良に送った帰り道「餅飯殿商店街」を歩いてわが家に向かうと、向こうからどこかで見たような顔が歩いてくる。<br />
「あ！　保先生じゃないですか！」<br />
先日、奈良女子大の池原教授の退官記念パーティではじめてお目にかかった先生だ。意気投合し、最後までいっしょにカラオケをした。ご専門は「松果体の研究」。ヤツメウナギをお相手に格闘の日々だそうだ。</p>

<p>「先生、お目にかかれるのは、今日が最後かもしれません。実は、明日……かくかくしかじか」とお話しすると、な、なんと<br />
「よかったら、ぼくもいっしょに行かせてもらっていいですか？」<br />
「えっ？」<br />
「ぼくが運転しましょう。『お水送り』ぼくも行ってみたいし。どうでしょう。ぼくの運転じゃ、コワイかな」<br />
「いいえ。ダーリンの運転に比べたら！」<br />
と急転直下話がまとまり、保先生が運転してくださることに。ああ、神さま、仏さま、十一面観音さま、ありがとうございます。</p>

<p>「お水取りの絵本を作りなさい！」という、神の声か？　だからこそ、こんな偶然で救ってくださったのかも！　と思わず餅飯殿商店街の石畳に跪いて、感謝の祈りを捧げたわたしであった。</p>

<p>というわけで、明日、行ってきます。小浜の「お水送り」。あのアメリカ大統領選挙で盛りあがっている小浜市です。乞う、ご期待。</p>]]></description>
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<pubDate>Sat, 01 Mar 2008 22:22:00 +0900</pubDate>
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<item>
<title>パパさんは「マルサの男」</title>
<description><![CDATA[<p>わたしが小学生の頃、父は「マルサの男」つまり国税査察官だった。ある夜、突然「明日は帰ってこないぞ」などという。「どこへ行くの？」と聞くと「壁に耳あり、障子に目あり」といって、絶対に教えてくれない。行く先は、家族にも内緒だった。</p>

<p>翌々日の新聞やテレビをみると、大きな会社が脱税の摘発を受けた、という記事がデカデカと載っていて、父の行く先がわかった。時には、報道写真のなかに、父の姿を見つけたこともある。段ボール箱に帳簿を詰めている後ろ姿の査察官が、明らかに父だった。</p>

<p>戻ってきて「ひどい目にあったよ」と話をしてくれたこともある。</p>

<p>「事務所に入ったら、事務員の女の子がいきなり服を脱いで『助けて〜』って叫びながら、外へ飛びだしていったんだ。査察官に暴行されたなんてって言うんだよ。騒ぎの間に、社長が逃げだしてね」<br />
「社長は、裏口から車で逃げた。くそっと思って走って追いかけたら、その車、運よく信号で止ってね。掴まえることができたんだよ」<br />
「走りだした時、みんな『寮さん、頭おかしくなったのか』って思ったそうだよ。おとうさんは、絶対あきらめないんだ」</p>

<p>めちゃめちゃな格好で戻ってきて「セメントの粉、いきなり頭から浴びせられた」なんていうこともあった。</p>

<p>まさに映画「マルサの女」ばりの捜査だったようだ。あの映画は、さして誇張ではないらしい。当時のわたしは、父が何でそんな目に遭うのか、いまひとつ理解できずにいたが、映画を見て、ようやく納得した。マルサは、みんなから怖がられていたけれど、本人にとっても相当ハードな仕事だったようだ。</p>

<p>先日、実家に戻ったとき、抽斗から古いガリ版刷りの紙が見つかった。クレイジーキャッツの「五万節」の替え歌だった。そういえば、ダークダックスをもじって「テイクタックス」Take Tax　というコーラスグループをつくった、などと話していたことを思い出した。忘年会の宴会芸らしい。</p>

<p>いま見ると、ちょっと差別的な言葉もあったりしてナニではあるけれど、貴重な資料なので掲載する。おそらく昭和三十年代終りから四十年代はじめのものだと思う。<blockquote>　　【査察五万節】</p>

<p>一　学校出てから十余年　今じゃ国税査察官<br />
　　　北の果てから南まで　ガサした会社が　五万件<br />
　　　<br />
二　学校出てから十余年　今じゃ国税査察官<br />
　　　内偵、反面、確認に　乗ったタクシー　五万台</p>

<p>三　学校出てから十余年　今じゃ国税査察官<br />
　　　学校、キャバレー、パチンコ屋　とった令状　五万枚<br />
　　　<br />
四　学校出てから十余年　今じゃ国税査察官<br />
　　　船橋、横浜、八王子　走ったガサバス　五万キロ<br />
　　　<br />
五　学校出てから十余年　今じゃ国税査察官<br />
　　　押入、物置、床の下　見つけた通帳　五万通<br />
　　　<br />
六　学校出てから十余年　今じゃ国税査察官<br />
　　　帳簿、伝票、メモ書類　運んだ物件　五万箱</p>

<p>七　学校出てから十余年　今じゃ国税査察官<br />
　　　病人、後家さん、二号まで　とっててんまつ五万回<br />
　　　<br />
八　学校出てから十余年　今じゃ国税査察官<br />
　　　朝の五時から夜明けまで　超勤したのが　五万日<br />
　　　<br />
九　学校出てから十余年　今じゃ国税査察官<br />
　　　通いなれたる銀行で（注）　泣かせた代理が五万人<br />
　　　<br />
十　学校出てから十余年　今じゃ国税査察官<br />
　　　　　　　　今日は我等のレクリェーション<br />
　　　思い出話に花が咲き<br />
　　　　　　　　飲んだビールが五万本<br />
　　　　　　　　<br />
（注）原文「三井、三菱、富士三和」となっているところを、<br />
万年筆で二重線が引いてあり「通いなれたる銀行で」に直されている。</blockquote></p>]]></description>
<link>http://ryomichico.net/diary/2008/02/index.html#000628</link>
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<category></category>
<pubDate>Wed, 27 Feb 2008 22:54:33 +0900</pubDate>
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<item>
<title>「ストップ！遷都1300年祭」のシンボルマーク？</title>
<description><![CDATA[<p><a href="http://ryomichico.net/diary/stop-hand.jpg"><img alt="赤い手のひらマーク" src="http://ryomichico.net/diary/stop-hand-thumb.jpg" width="180" height="240" /></a> <a href="http://ryomichico.net/diary/STOP-osake.jpg"><img alt="STOPマイナスosake黄色い手のひらマーク" src="http://ryomichico.net/diary/STOP-osake-thumb.jpg" width="180" height="240" /></a> <a href="http://ryomichico.net/diary/2007-08-26_stop-basara.jpg"><img alt="赤い手のひらのお化け" src="http://ryomichico.net/diary/2007-08-26_stop-basara-thumb.jpg" width="180" height="240" /></a><br />
このマーク、みなさんは一目見て、何のマークだとお思いだろう。「立ち入り禁止」「ストップ」「拒否」そう思うのが、ごく一般的な判断だろう。</p>

<p>左側の赤いマーク。なんとこれが、平城遷都1300年祭のシンボルマークなのだ。これを見て、だれが「歓迎のマーク」だと思うだろう。掌は、一般的に禁止や拒否を示している以上、いくら歓迎のマークだと言われても、潜在意識で、どこか拒否されているように感じてしまうだろう。</p>

<p>これは、公募で決まった。だから公平か、といえば、そうでもないらしい。わたしの知り合いの、いくつも賞を獲っている大変優れたデザイナーがこの公募に応募した。しかし、予選落ちであったという。最終選考で選考委員の趣味が反映して賞を逃すことはあっても、彼のようなすぐれたデザイナーの作品を予選落ちさせるなど、言語道断。そして、これを最終案として決定した選考委員はマヌケにもほどがある。「シンボルマーク」の基本のキの字もわかっていない。</p>

<p>このマークの選定になんと１３００万円が使われたという。税金である。いいかげんにしてほしい。</p>

<p>左：平城遷都1300年祭シンボルマーク<br />
中：ストップ飲酒のマーク<br />
右：バサラ祭りでの悲惨なパフォーマンス</p>]]></description>
<link>http://ryomichico.net/diary/2008/02/index.html#000630</link>
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<category></category>
<pubDate>Wed, 13 Feb 2008 20:53:00 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>まさかこれが？！平城遷都1300年祭マスコット</title>
<description><![CDATA[<p><a href="http://ryomichico.net/diary/1300mascot.jpg"><img alt="平城遷都1300年祭マスコット" src="http://ryomichico.net/diary/1300mascot-thumb.jpg" width="180" height="240" style="float:left; margin:0em 0.5em;" /></a><br />
平城遷都1300年祭マスコットが決定、発表された。<br />
<a href="http://www.1300.jp/mascot.html">http://www.1300.jp/mascot.html</a></p>

<p>＞<a href="http://sankei.jp.msn.com/region/kinki/nara/080213/nar0802130308002-n1.htm">新聞記事【平城遷都１３００年祭　協会「走りながら考える」】</a>より<blockquote>　マスコットキャラクターの選考過程にも疑問が残る。公募することもなく、大手広告代理店を通じて選んだデザイナー候補者の中から、すでに昨年３月には１人に絞りこんでいたという。<br />
　国宝彦根城築城４００年祭の「ひこにゃん」を顕著な例として、マスコットキャラクターが大規模イベントに果たす役割は決して小さくない。なのに、なぜ公募もなく約１年も前にキャラクターを内定し、かつ公表しなかったのか。愛称募集でも盛り上がりに欠けることが懸念される。<br />
　デザイン料や著作権料は５００万円。前回の仏の手をイメージしたシンボルマークには１３００万円をかけた。こうした出費の「説明責任」を、関係者は満足に果たしているだろうか。<br />
　　　　　　　　　　　　　　　　＞ 2月13日3時8分配信 産経新聞</blockquote>------------</p>

<p>朝、連れ合いが新聞を見て「大変だ」という。<br />
「すごいもんがマスコットキャラに選ばれた。これはひどい」<br />
一目見て、わたしも絶句。なぜこんなものがキャラに選ばれたのか？</p>

<p>かわいくない、不気味だ、気持ち悪い。<br />
という第一印象は、ひとまず棚に上げてみよう。<br />
「好悪」の感情は人それぞれだから。<br />
しかし、明らかにひどい。その理由を列挙する。</p>

<p>１　マスコットキャラの鉄則は、子どもでも簡単に描けるもの。<br />
　　このキャラは、複雑すぎて、描けない。もっと単純化できるはずだ。<br />
２　県は、これを「童子」と言い張っているが、どうみても「仏さま」だ。<br />
　　白毫とふくよかな耳朶は「仏さま」であることの記号である。<br />
　　仏の頭に角とは、信仰の対象である仏さまにたいする侮辱ではないか。<br />
　　しかも「生えている」ではなくて「突き刺さっている」としか思えない。<br />
　　多くの人が「不快」と思う原因のひとつはここにあるだろう。<br />
３　マスコットキャラであれば、携帯ストラップや着ぐるみなどに活用されるはず。<br />
　　しかし、これで、まともな着ぐるみが作れるのか？<br />
　　角が邪魔にならないストラップが作れるのか？<br />
４　奈良と言えば「鹿と大仏」というのは、<br />
　　日本と言えば「フジヤマ・ゲイシャ」と変わらぬ固定概念。<br />
　　遷都1300年を誇る世界遺産に対して、余りにも安直な理解ではないか。<br />
　　奈良県を侮辱している。<br />
５　この角は、鹿の角ではなく、トナカイの角。</p>

<p>1300年事業協会のコンセプトによると、これは<br />
「悠久の歴史の中で奈良の地を守り育ててきた仁王さまや阿修羅、十二神将、<br />
四天王などの使命を受け継ぎ、現代と未来を結ぶ新しいキャラクター」<br />
だそうだが、であれば、仏の眷属である。「仏ではない」と言い逃れできない。<br />
　　<br />
わたしの加入しているmixiというネット・コミュニティにも、<br />
このキャラの衝撃が走り、日記に「気持ち悪い」と書いた人が続出している。<br />
「こんなのが来たら、子どもが泣く」とも。</p>

<p>結局、すべては利権と金の闇のなかで決まっていくのか？　<br />
それにのっかるデザイナーは、奈良といえば「鹿と大仏」的な発想しかない<br />
人間だということなのだろうか。</p>

<p>荒井知事は「プロに任せた」と言っているが、<br />
作者の籔内佐斗司氏は、優れた芸術家ではあるのだろうが、<br />
マスコットキャラという広告制作物のプロではない。<br />
また知事は「一部変更の予定はない」とも言っているが、<br />
発表当日にそんなことを言うなんて、内部でもよっぽど悪評だったのだろうか。</p>

<p>とりあえずは平城遷都1300年祭の事務局に電話して、<br />
知人のプロデューサーに文句を付けたが、彼は、<br />
この選定の件には一切タッチしていないという。<br />
じゃあ、誰が決めたんだ！</p>

<p>寮美千子は怒ってるぞ！<blockquote>【遷都1300年祭マスコットキャラクターのコンセプト】<br />
平城遷都1300年記念事業協会公式ＨＰより<br />
http://www.1300.jp/080212mascot/mascot01.pdf</p>

<p>交流と創造の舞台として、間もなく1300年の時を<br />
刻もうとしている平城の都。<br />
「平城遷都1300年祭り」のマスコットキャラクターは、<br />
この地で育まれてきたエネルギーの化身として現代に姿を現しました。<br />
その容姿は、奈良の守り神として多くの人々に親しまれている<br />
鹿の角をたくわえた愛嬌のある童子のようないでたちです。<br />
悠久の歴史の中で奈良の地を守り育ててきた<br />
仁王さまや阿修羅、十二神将、四天王などの使命を受け継ぎ、<br />
現代と未来を結ぶ新しいキャラクターの誕生です。<br />
これからは、来たるべき2010年の祝祭に向けて私たちとともに暮らし、<br />
まちのあちらこちらに出没して、訪れる人々を<br />
事の様々な魅力に誘うとともに、<br />
みんなで手を携えて奈良の新たな歴史を築いていく役割を担います。</blockquote></p>]]></description>
<link>http://ryomichico.net/diary/2008/02/index.html#000629</link>
<guid>http://ryomichico.net/diary/2008/02/index.html#000629</guid>
<category></category>
<pubDate>Wed, 13 Feb 2008 20:36:00 +0900</pubDate>
</item>
<item>
<title>お水取りの松明と「竹送り」／京田辺　自転車行顛末記</title>
<description><![CDATA[<p><a href="http://ryomichico.net/diary/2007-03-14_otaimatu.jpg"><img alt="2007年3月14日のお松明" src="http://ryomichico.net/diary/2007-03-14_otaimatu-thumb.jpg" style="float:right; margin:0em 0.5em;" /></a>３月１日から<a href="http://www.todaiji.or.jp/index/hoyo/syunie-open.html">東大寺二月堂の「お水取り」</a>がはじまる。</p>

<p>▼二週間ぶっ続け、１４１本の松明！</p>

<p>二月堂の欄干を巨大な松明を持って童子が走る様子は、毎年必ずニュースで放映されるから、知っている人も多いだろう。東京にいた頃、この映像を見て、松明が焚かれるのは一夜限りのことだと思っていた。お祭りのようなもので、一夜だけ、派手なパフォーマンスがあるのだと思っていたのだ。ところが、まるで違った。</p>

<p>「お水取り」の正式名称は「修二会」。ご本尊である観音さまに人類の罪を懺悔して、その加護を祈願するというもの。<a href="http://www.todaiji.or.jp/index/hoyo/syunie/hongyo.html">三月一日から二週間開かれる</a>。松明は、夜毎に十本焚かれ、十二日の晩には特別に大きな「篭松明」と呼ばれる松明が焚かれるのだ。</p>

<p>つまり、二週間ぶっ続けで合計１４１本の松明が焚かれるというわけ。本来は、行のため二月堂に上堂する僧の足許を照らす明りだったというが、二月堂の長い階段を火が上ってゆく灯りが人気となり、徐々に大きくなって、今日の姿になったという。</p>

<p>その松明の大きさが凄まじい。長さは七メートル半、尖端には直径１メートルほどの木片などの塊がついている。これが燃えると、階段の天井や二月堂の軒を焦がさんばかりの巨大な火の玉になる。毎年見ても、見るたびにその火の勢いに圧倒される。</p>

<p>▼「竹送り」の復活</p>

<p>この松明の材料となる竹は、昔から各地より奉納されていた。奉納された竹を担いだり、大八車に乗せたりして、村落から村落へ、人々が手渡しながら運び、東大寺に届けられたという。運ぶこと自体がひとつのイベントで、運べば功徳があるといわれ、みな競って運んだそうだ。二月堂に参籠できない人々は、この竹にちょうど貯金箱のように刻まれた穴からお賽銭を入れたという。</p>

<p>この<a href="http://www.kyotanabe.jp/zukan/takeokuri_photo.html">「竹送り」の行事</a>は、昭和二十八年頃まで続いたが、その後途絶えてしまい、単に竹がトラックで運び込まれて寄進されるだけになっていた。このことを知った京田辺のアマチュアカメラマンの松村茂氏が、ぜひ復活させたいと力を尽くし、昭和五十一年、人々による「竹送り」が復活された。松村氏は現在、「山城松明講」という講の講社長となり、「竹送り」指揮を執っていらっしゃる。</p>

<p>▼自転車で行く！</p>

<p>というわけで、やっと本日の本題の「竹送り」である。毎年二月十一日、京田辺の竹林で伐採された根付きの竹七本が、二月堂まで運ばれる。奈良東大寺と京田辺の竹林は、２５キロほどの距離がある。そのすべてを人力で引く、というわけにもいかないので、京田辺の竹林から、同地区の観音寺まで人力で運び道中の安全祈願。その後トラックで奈良阪まで運び、奈良坂から転害門を経て二月堂までが、再び人力で運ばれる。</p>

<p>いつか「お水取り」の絵本を作って、その本当の姿をみんなに知らせたい、と思うわたしは、この竹の伐採の場面から取材したいと前々から思っていた。そこへ情報が！　会員制サイトmixiで、竹送りの当日、奈良から参加するチームもあるとのことを、goutさんが<a href="http://mixi.jp/view_event.pl?id=27764398">コミュニティでお知らせしてくださった</a>のだ。</p>

<p>ところが「車で集合」という条件ではないか！　ああ、わが家には車といえば自転車しかないのだ。「大丈夫だよ。奈良坂を越えたら、後は下りだから問題ないよ」と相棒。奈良坂なら、毎月、刑務所まで自転車で行っている。あの坂を越えるのなら、わたしにもできるかも、とうっかり思ってしまい、自転車で行くことにした。</p>

<p>▼竹送りのスケジュール</p>

<p>東大寺のお水取りの松明の竹を、京田辺から奈良東大寺の二月堂まで届ける行事「竹送り」。現地のスケジュールは次の通り。</p>

<p>＞<a href="http://blog.nihon-kankou.or.jp/kankoublog/JTA26211.php?blogid=20">京田辺市観光協会</a><br />
７：４５　　普賢寺大御堂観音寺集合<br />
　　　　　　【竹掘り起こし】根付きの竹を掘り起こします。<br />
８：３０　　普賢寺　ふれあいの駅<br />
　　　　　　【大根焚き　接待】<br />
９：００　　普賢寺　大御堂観音寺（国宝・十一面観音菩薩安置）<br />
　　　　　　【道中安全祈願】<br />
９：３０　　同寺　出発</p>

<p>▼行きはヨイヨイ</p>

<p>というわけで、無謀にも自転車で行くと決めたわたしたちは、朝６時にわが家を出発。まだ日も昇らず、真っ暗ななかの出発だった。一昨日に降った雪は、すでに融けていて、路面凍結もなく走りやすい。奈良坂まで１５分ほど。ここまでは楽勝である。坂を上るのも、毎月していることだから、さほど苦ではない。刑務所を通り過ぎ、般若寺、奈良豆比古神社を過ぎると、道が急に下りになる。楽である。ビュンビュンである。</p>

<p>しかし、ここですでに悪い予感がした。奈良から上ってくるより、下りの方がずっと長いのだ。どんどん、どんどん下るのである。ああ、等高線のある地図をよく見ておくのだった、などと悔やんでも仕方ない。こんなに下ったら、絶対上れない！と思うが、自転車はビュンビュン降りているから、もうしょうがない。</p>

<p>奈良坂を越えると、急に気温が変わった。寒いのである。風景も違う。雪が残っていて、町も畑も、霜でまっ白だ。ああ、こちら側は寒いのだ、と知る。峠ひとつで、こんなに気候が変わるとは！</p>

<p>ぐんぐん降りていくと、やがて木津川の川辺に出た。ここには、立派な自転車道が整備されている。と、聞いていた。確かにそうだったが、この自転車道が非道なのである。絶対に自転車に乗らない人が作ったに違いない。堤防の上の、平らで見晴らしのいい道は、自動車のための道。自転車道は、その脇をひどくアップダウンしながら延々と続く。「体を鍛えよ！」という行政の親心か？　「歩道橋」などというものをつくって「人にやさしい町づくり」をしていると思っているのと同じセンスである。</p>

<p>早朝であり、自動車も走っていないので、坂ばかりの自転車道はパスして、自動車道を走る。堤防の上、広い川原も、町も、山並みも一望できて、実に気分がいい。やがて、青い山並の向こうから、朝日が昇ってきた。ああ、感動！</p>

<p>やがて、堤防の上の道は、未舗装の砂利道に変わってしまった。走りにくい。仕方なしに、自転車道を走る。道は河川敷に降りていって、そこをまっすぐに走っていた。眺望がなくなったのは残念であったが、川原の風景を間近に見ながら走るのも悪くない。ただ、道が所々凍結していて、少し怖かった。川原は、やはりかなり気温が低いらしい。</p>

<p>京田辺は、京都府でも奈良県に近い位置にある。「山城産」と書かれた京野菜が、奈良の八百屋にたくさん出回っているが、この辺で採れたものと納得。</p>

<p>川を離れ、京田辺の普賢寺地域へと向かう。が、ここからがきつかった。川を離れるということは、つまり上りである。ずっとだらだら上りなのだ。普段から体を鍛えていないわたしは、すでに疲れが出始めていた。そこへ、上りだからたまらない。超ノロノロ運転。これじゃ、竹掘りに遅れるのでは、と心配になったが、なんとか現地にたどりついた。時計を見れば７時半。約１時間半で２５キロを走った。</p>

<p>農協の産物を売る「ふれあいの駅」では、もうお接待の大根炊きの支度が始まっていた。奈良から自転車で来たというと、感心されて「大根、食べていきなさい」と勧められたけれど、まずは竹掘りである。「もう何人か先に行っている」と言われて、そこから少し離れた竹林まで行ってみた。が、誰もいない。人の歩いた跡もない。ガセネタであった。</p>

<p>戻ると、幟を立てて「二月堂」の法被を着た一行が大通りをやってくるのが見えた。「あ、あれだ！」と慌てて一眼レフのカメラを出す。旧式のフィルムのニコンだ。ボディも２台用意して、標準レンズと広角を首からぶらさげる。さらに、ポケットに小さなテジカメ。しかし、長い距離走ってきて、指がすっかりかじかんでいて、なかなか思うように用意できない。もたもたしているうちに、一行は竹林へ。慌てて追いかける。</p>

<p>白壁の民家を過ぎ、ぐんぐん奥へと入る。「ほらこれ、シシだよ」と言われて見ると、竹の根本のほうに泥がついている。その下が、沼のようになっていて、ぐちゃぐちゃに踏み荒らされていた。イノシシが泥浴びをするヌタ場だそうだ。</p>

<p>細い笹のトンネルを抜けると、一面の竹林だった。無数の竹が青々と空に聳えている。天空から射す光が青く染まりそうなほどだ。</p>

<p>奈良には、あまりいい竹が生えないという。言われてみれば、奈良の風景には、竹林の印象が薄い。それが、奈良坂を越えて、木津川を走るほどに、立派な竹林が増えてきた。京田辺の普賢地区のこの竹林にも、太くまっすぐな、惚れ惚れするほど美しい竹が無数に生えている。</p>

<p><a href="http://ryomichico.net/diary/2008-02-11_takeokuri1.jpg"><img alt="" src="http://ryomichico.net/diary/2008-02-11_takeokuri1-thumb.jpg" style="float:left; margin:0em 0.5em;" /></a>竹は、根付きのまま掘り起こす。なぜかと言えば、篭松明では、火を燃やす部分がとても重くなるので、バランスを取るため、根元を残しておくのだという。ノコギリで伐ってしまえば、あっという間だが、根から掘り起こすとなると、なかなか骨だ。竹の根はしぶとい。それをスコップで切りながら、数人がかりでやっと掘る。</p>

<p>掘った後が、またむずかしい。密生している竹のなか、倒し、運ぶのは、一通りのことではない。山城講の講社長の松村茂氏が、てきぱきと指示を出している。</p>

<p><a href="http://ryomichico.net/diary/2008-02-11_takeokuri2.jpg"><img alt="" src="http://ryomichico.net/diary/2008-02-11_takeokuri2-thumb.jpg" style="float:right; margin:0em 0.5em;" /></a>そうやって伐りだした竹を、みんなで肩に担いで、山を下りる。そして、さきほどの「ふれあいの駅」へ。ここで大根炊きのお接待があり、参加者にふるまわれる。朝からずっと凍えるような寒さだったので、おいしく煮た大根と揚げは五臓六腑にしみた。</p>

<p>一息ついて、竹は近くの観音寺へと運ばれ、そこで僧侶により「道中安全祈願」がなされる。これが終わると、竹はトラックに積まれ、いよいよ奈良へと向かうのだ。トラックの出発までいては、自転車チームの我々は間に合わないので、祈願の終了を待たずに出発した。９時２０分頃のことだった。</p>

<p>▼帰りはヨロヨロ</p>

<p>「ほんとうに奈良まで走れるのか？」という疑念が湧いた。大根煮で一息ついて体力回復をしたものの、ほんとうに大丈夫か？　最寄りの駅まで行って、自転車を置いて、電車で戻った方がいいのでは？　しかし、いつ誰が自転車を取りに戻るのか？　えーい、行くか。</p>

<p>奈良坂のコースはあまりに上りが続くので、絶対に無理。ならば、高低差の少ない歌姫コースへと迂回し、途中から「ならやま大通り」というバイパスを行くことにした。</p>

<p>ところが、高低差が少ないとはいえ、かなりのアップダウンの連続。ヨレヨレになって泣きながら上り、上れないところは自転車を押して歩き、なんとか奈良坂の般若寺の辺りに到達。しかし、時すでに遅し。そこにはもう誰もいない。トラックはとっくに到着して、竹引きは出発してしまったらしい。とほほ。</p>

<p>時計を見れば、１１時過ぎ。竹送りの一行は、１１時から転害門前で休憩中のはず。転害門では、奉納の太鼓や、お接待のぜんざいもあるというから、まだいるかもしれない。と、期待し、坂を下って転害門へ。</p>

<p><a href="http://ryomichico.net/diary/2008-02-11_takeokuri3.jpg"><img alt="" src="http://ryomichico.net/diary/2008-02-11_takeokuri3-thumb.jpg" style="float:right; margin:0em 0.5em;" /></a>いたっ！　太鼓の音がドンドンと響き、お接待のぜんざいのテントの前には人がいっぱい。公式発表では、３５０人ほど集まったという。引かれてきた青竹には、墨で「家内安全」などの祈願の言葉が書かれ、門の前に置かれている。</p>

<p>撮影をしてから、ぜんざいの列の後ろに並ぶ。ところが、わたしのすぐ目の前で「もうお餅がありませーん」の声。「小豆だけでいいならどうぞ」というので、餅抜きのぜんざいをいただいた。ちょっと、とほほ。</p>

<p>並んでいるときに、goutさんが、わたしたちを見つけてくださった。mixiのコミュニティ「奈良きたまち＊そぞろ歩き」の管理人をなさっていらっしゃる方で、この日が初対面。「オレンジ色のコートを着ていて、自転車」とお知らせてあったので、あの人混みのなか、わざわざ見つけてくださったのだ。感謝。</p>

<p>竹送りは転害門を出発。少年野球団の子どもたちの肩に担がれたり、大八車に積まれたりして、南大門を経て、二月堂へと向かった。</p>

<p>自転車で、先回り先回りしながら、写真を撮影。goutさんとも、行く先々でごいっしょする。よく晴れて、汗ばむほどの気候。幟を立て、竹を担ぎ、みんな、実に楽しそうなのだ。</p>

<p>昔は、もっともっと大きなイベントだったのだろうなあと思う。信仰心もあったから、別な意味での盛りあがりもあっただろう。竹は、今も昔も、京田辺だけではなく、あちこちから集められる。昔、よその土地から運ばれてきた竹が、京田辺を通るころには、お賽銭をいれるところがすでにいっぱいになってしまっていたと、松村さんが話してくれた。お賽銭を入れ、引かれていく竹を見送りながら、手を合わせた人々が、道々たくさんいたのだろう。</p>

<p>大仏殿再建時の柱引きもそうだが、無償で手伝った人々がたくさんいた。それは「使役された」というのではなくて、いまでいうボランティアだった。柱引きはお祭りのような騒ぎで、引けばご利益があると言われ、我も我もと引いたのだそうだ。その楽しげな様子が描かれた絵巻物を見たことがある。竹送りも、きっとそのようなものだったのだろう。</p>

<p>それにしても、松村茂さんという方がいらっしゃらなければ、この行事は消えたままだったのだ。それを思うと、背筋が寒くなる。そして、松村さんという方がいて、ほんとうによかった、と思う。伝統は、途切れてしまえばそれっきりだ。それを復活させ、未来へとつなぐのは並大抵のことではない。復活には、多くの人の力が必要だが、それとて、きかっけとなる最初の一人がいなければ、どうしようもないことなのだ。松村さんと、京田辺の人々に感謝！</p>

<p>というわけで、竹は無事二月堂の下に到着。なぜか「万歳三唱」でお開きとなった。</p>

<p>竹のやってきた道のりを、自転車ではあるけれど、わが脚で往復したのは、大変きつかったけれど、よかった。ああ、昔の人は、この距離を歩いて、人の手から手へと渡して運んだのだなあと、体に浸みるように実感することができた。</p>

<p>電子記録装置によると、走行距離は往復で５２．３km、走行時間３時間３８分、平均速度１４．３km/hであった。いままでの最長走行距離が一日で３５キロだったから、記録大更新だ。５２歳にして自己記録更新である。エライ！</p>

<p>▼すてきなおまけ</p>

<p>終わってから、goutさんが「わが家でコーヒーでも」と誘ってくださった。goutさんはご主人とお二人で「奈良倶楽部」という小さなホテルをなさっている。以前から、前を通りかかることがあり、こじんまりとしたすてきなホテルだと思っていた。そのラウンジで、コーヒーを、とおっしゃってくださったのだ。</p>

<p>喫茶の営業はないので、ふらりとコーヒーを飲みに行く、というわけにはいかない。これはいいチャンス、とばかり、お言葉に甘えて<a href="http://www.naraclub.com/">「奈良倶楽部」</a>へ。</p>

<p>道々、東大寺の講堂跡や正倉院の裏を通る。初めて通る道だった。そこから見る大仏殿の美しいこと、鹿たちの和やかなこと。いま、テレビでかかっているドラマ「鹿男あをによし」の原作小説では、この講堂跡ではじめて鹿に話しかけられる設定だそうだ。正倉院も、塀の隙間から見えると、はじめて知った。実にいい道だった。</p>

<p>「奈良倶楽部」は思った通り、というより、想像以上にすてきなホテル。まさに「cozy」という言葉がぴったり。すっきりしていて、細部にまで細やかな心遣いとすてきな趣味が息づいていて、実に居心地のいい空間だった。「お腹すいたでしょう」とおいしいシチューまでごちそうになってしまい、恐縮。恐ろしい自転車行のあと、すばらしい時間を持てた。感謝。</p>

<p>▼ヨレヨレ</p>

<p>というわけで、わたしは本日もヨレヨレ。脚は意外と大丈夫だったけれど、昨年事故で痛めてリハビリ中の首が、バリバリに。この頃、多少よくなったので、先日の雪の日に、自主的にバス停の雪かきをした。老人の乗り降りが多いので、滑ってはいけないと思ってのことだったが……。以来、痛かった首が、さらにバリバリ……イタタタタ。過ぎたるは、及ばないよりヒドイ。結果的には、反省である。</p>]]></description>
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<pubDate>Mon, 11 Feb 2008 23:59:00 +0900</pubDate>
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<title>『父は空　母は大地』著作権侵害裁判　初公判</title>
<description><![CDATA[<p>１１月６日、元参議院議員・岩井國臣氏による『父は空　母は大地』著作権侵害問題の初公判が、東京地裁にて開かれた。</p>

<p>裁判は初めてなので、出席しようと思ったのだが、公判の１回目は、互いの主張を述べ、確かめ合うだけとのことで、上京してまで出席する必要はない、と言われ、弁護士さんにお任せすることに。</p>

<p>ところが！　被告側は本人訴訟ということで、岩井國臣氏ご本人が出席。そうか、岩井氏ご本人が来られるのなら、わたしも行けばよかったと、ちょっと後悔。</p>

<p>というのも、本人と会うと、実に多くの言語化できない情報まで受け取ることができるからだ。一体、どんな人物なのか、どんな雰囲気を纏っているのか、それを知ってみたい気がする。</p>

<p>被告の主張は「著作権侵害が疑われている件の文章は、友人である中村幸昭氏（鳥羽水族館名誉館長）からもらったもの。わたしは、寮美千子という人も知らなければ、その本も見たことがない。よって著作権侵害には当たらない」ということだったそうだ。</p>

<p>しかし、岩井國臣氏は、中村幸昭氏からもらったという紙を、証拠として提出していない。提出されたのは『阿蘇をサカナに川を語ろう』（全国川サミット　白川スペシャル実行委員会編）のみで、そのなかには『父は空　母は大地』の引用は掲載されていない。この時に、同時にもらったプリントに『父は空　母は大地』の文章が掲載されていたという。そして、そのプリントは、家のどこかにあるかもしれないが、どこへいったかわからない、そうだ。</p>

<p>さて、鳥羽水族館名誉館長の中村幸昭氏（当時は館長）は、どのような形で、この文章を引用し、配布したのだろう。</p>

<p>裁判長より、被告側に「この文章を友人から教えてもらったというが、その友人はどこで知ったのか、寮さんの本なのか、調べてほしい」旨の指示があり、岩井氏は抵抗したが、結局１２月６日までに調べた結果を文書で提出してもらうことになったとのこと。</p>

<p>昨日、早速その文書が提出され、わたしもファクスで見たが、内容は驚くべきものだった。ぶっとびである。ここで公開していいかどうかわからないので、弁護士に相談の上、公開可能なら、公開したい。</p>

<p>さて、誰からどんな形でこの情報を得たのか、ということがいま、問題となっているが、私が思うに、本来の問題はそこにあるのではない。問題は「活字にして出版するときは、引用の原典が何であるのかを調べ、明記する」という基本的態度が、岩井國臣氏に欠けていたということだ。</p>

<p>引用をするときには、原典をはっきりと明記すること。これは、文章作法の第一歩である。個人から個人へと手渡されるコピーや、個人的なメールでも、本来はっきりさせるべき事項である。原典の明記のない言葉は、いつ改変されてもわからないし、間違った情報を流布させる可能性もある。最悪の場合は、デマの原因となる。</p>

<p>いわんや出版物をや、である。活字にして、広く世間に流布するときは、必ず引用の原典を明記しなければならない。岩井國臣氏がいかに不注意であったとしても、自分の著作物に掲載するわけだから「誰々からもらった情報だが」という但し書きは必要だった。岩井氏の文章には、それさえ記載されていないのだ。「誰々からもらった情報だが」という但し書きを書けば、そこで「ところで、本当に本当の原典はどこに？」という疑問も生じてきたことだろう。</p>

<p>岩井氏の主張を信じるなら「故意に著作権侵害をしようというつもりはなかったが、結果的に著作権侵害になってしまった」ということになる。しかし、だからといって罪がないわけではない。これが無罪だとしたら、「故意ではなかったが、結果的に事故を起こしてしまった」という交通事故など、全部無罪になるだろう。</p>

<p>とどのつまりは岩井氏が「引用の原典をはっきりさせる」という基本的な手順を踏まなかったことに原因している。簡単にいうと「不注意」ということだ。交通事故が、不注意が原因で起きるのと同じである。故意ではなかったから、被害者の損害賠償には応じられない、などという道理が通るはずがないだろう。</p>

<p>引用元は、調べようとすれば、いまやとても簡単なのだ。インターネットで『父は空　母は大地』と検索すれば、それだけでわたしの著作にたやすくたどりつける。その簡単なことすらしなかった、しようという気すらなかった。これは完全に「リテラシー」の欠如だ。京都大学出身で、元建設官僚であり、当時現役の参議院議員ともあろう人が、文章の書き方に関して、こんな基礎的な教養もないとは、どういうことだろう。</p>

<p>岩井國臣氏は、こちらが６月に『父は空　母は大地』の著作権侵害の旨の内容証明を出しても、一切の謝罪はなく、その後、弁護士を通じて警告書を発しても、返答すらしなかった。致し方なく、提訴。公判の１回目でも、尚「知らなかった」と主張、謝罪の言葉もない。</p>

<p>内容証明の時点、あるいは警告書の時点で「すいませんでした」とひと言あれば、何も提訴する必要までなかったのである。</p>

<p>岩井氏は「著作権」ということを理解していない。前参議院議員でさえ、こうなのだ。日本全体での認知度は、いかばかりだろう。</p>

<p>いま生きている著者の権利を守ることさえできていないのに、国は、著者の死後の著作権保護期間を延長しようとしている。現在、著作権は既に著者の死後５０年間、保護されることになっている。充分すぎるほどだ。それをさらに２０年延長しても、著作者本人にとっては、なんの利益もない。何しろ、著作者は死んでいるのだから。そればかりか、社会としては大きな損失だ。こんなあきれた法律を作ることに腐心するくらいなら、もっと生きている著作者をきちんと守ってほしいと思う。</p>

<p>とうわけで、次回の裁判は１２月１１日。「弁論準備」といって裁判官の部屋で机をはさんで話し合いを行うという形式で、傍聴はできない。わたしが出向くのは、その次か、次の次になりそうである。その時は、ぜひみなさんにお知らせしたい。傍聴に来てください。</p>]]></description>
<link>http://ryomichico.net/diary/2007/11/index.html#000627</link>
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<pubDate>Tue, 06 Nov 2007 21:16:27 +0900</pubDate>
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<item>
<title>祝開店！ 書肆アラビク</title>
<description><![CDATA[<p>▼<br />
夕刻より、京都のメディアカフェで著作権問題に関する講演。その前に、大阪に寄って、画廊と古書店をはしごした。奈良を出発して、大阪、京都、と一日で回れるなんて、なんだか夢のようだ。異なる文化を一日にして巡れるとは、関西とはなんとぜいたくな場所だろう。</p>

<p>▼<a href="http://edge-web.net/">gallery & books edge</a></p>

<p>梅田のそばの中崎町にあるgallery & books edgeは以前、門坂流氏の個展を開催した画廊。今回訪れるのは２度目。店主の今牧さんが、古くから門坂作品のファンで、昨年脱サラで画廊を開店した。この日は、大山記糸夫氏の「ブックオブジェ展」の最終日。相棒が、奈良県の「図書修理マイスター」の講座に通い、製本技術を勉強中なので、興味を持って行ってみた。</p>

<p>言葉と美術と本の合一。大変興味深い。いつの日か、門坂氏の版画に、わたしの言葉、相棒の室芸を生かした製本で、特製の限定本を作ってみたい。</p>

<p>▼<a href="http://arabiq.jugem.jp/">書肆アラビク</a></p>

<p>わたしの作品の読者でもあるcakeさんもまた、脱サラをして11/3に、古本喫茶を開店した。このお店「珈琲舎　書肆アラビク」は、なんと、ギャラリーエッジの目と鼻の先。</p>

<p>古い民家を改造した古書喫茶、というので、どんなところだろうと半分心配、半分期待しながらいったところ、びっくりするほどすてきなお店だった。まず、その古い長屋風民家がすばらしい。昔は商売をしていたらしく、大きな硝子の引き戸があり、中がよく見える。それがまた、いい。大通りからちょっと引っ込んで、隠れ家のような安心感があるのに、閉塞感がない。こんなところなら、度々立ち寄りたい、と思わせられる風情だ。</p>

<p>店主の趣味を貫いて選ばれた古書や新刊も、独特の雰囲気を醸しだしている。盟友・七戸優氏の本が目立つところに置かれていたのがうれしい。そして、その絵が、とてもよくこの店に似合うのだ。</p>

<p>金子國吉のリトグラフが壁にかけられている。もちろん、売り物である。天井からぶら下がる古風なシャンデリアや硝子の照明器具が、レトロでいい雰囲気だ。</p>

<p>珈琲もおいしい。滅多にない水だし珈琲が五百円は安い。絶品だった。</p>

<p>居心地はいいし、古本などめくりながら、長居したくなるようなくつろげるお店だ。夜は９時までだが、お酒も飲めるという。ほんとうなら秘密にしておきたいようなすてきなお店だ。</p>

<p>中崎町界隈には、このほかに、やはり古本の読める喫茶や、画廊喫茶が相次いで開店。ちょっと昔のソーホーというか、勢いのある文化の町になろうとしている。これからが楽しみだ。</p>

<p>写真は、書肆アラビク。<br />
店内：店主さんとわたし<br />
店の前：店主さんと奥さま</p>]]></description>
<link>http://ryomichico.net/diary/2007/11/index.html#000626</link>
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<pubDate>Mon, 05 Nov 2007 17:09:32 +0900</pubDate>
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<title>ガンを覚悟した２４時間</title>
<description><![CDATA[<p>連載原稿を半徹であげ、友人の壮行会に出席、深夜まで飲んで戻り、目覚めてトイレに行くと、なんと、便器がまっ赤に染まっていた。下血だった。 </p>

<p>実は、二週間ほど前からおかしかった。相棒に相談すると「トマトの色だよ」という。確かに、大好物のチリトマトビーンズを鍋いっぱいに作って食べていたから、そうかもしれないと思った。内心、どこか変だとは思いながらも、そのせいにすることにした。連載の原稿もできていなかったし、その方が都合がよかったからだ。 </p>

<p>一般に人間というものは、予兆があっても見逃しがちだ。自分が大変な病気だなんて思いたくないし、喉もと過ぎれば熱さを忘る方式で、症状が収まれば、なかったことにしてしまう。わたしも、おかしいと自覚しながら、わざと見逃していた節があった。 </p>

<p>しかし、今回は申し開きのできない有様。痛みもないのが、余計に不気味だ。これはまずいと思い、医者に駈けこんだ。 </p>

<p>２時間ほど待たされて診察。触診では異常なしという。その時点で、そうか、まずいことになったぞ、と思った。痔とか、そんな簡単なもんじゃないんだ、とわかったからだ。 <br />
「指は６センチまでしか入りませんから、その先に何かあってもわかりません。原因が奥の方にある可能性があるので、大腸ファイバーで検査しましょう」と医師。 <br />
「この検査で、毎年２〜３人の人から、大腸ガンが見つかります」とも。 <br />
翌日、検査をすることになった。 </p>

<p>出血するほどの状態であれば、ガンならばかなり進行しているはず。であれば、余命は長くあるまい。 </p>

<p>まず、頭に浮かんだのは「連載中の原稿を仕上げる時間があるだろうか」ということ。すべての予定をキャンセルして、ともかく原稿だけは仕上げたいと思った。書きかけであの世に旅立ってしまっては、物語世界に申し訳ない。なぜななら、その世界は「既に存在している」のだから。そして、その世界への地図を指し示せるのは、この宇宙でわたしだけなのだから。 </p>

<p>次に思ったのが、残される相棒のことだった。作品の次、というところがわたしの薄情なところだ、と我ながら思い、相棒に申し訳ないような気持ちになった。 </p>

<p>相棒とは丸７年いっしょにいる。昨年、籍を入れたばかり。このまま、ずっといっしょに人生を歩んでいくのだと思っていた相手に突然死なれたら、きっとずいぶんとショックだろう。そう思うと、かわいそうで涙が出てきた。 </p>

<p>でも、彼は若い。これから、もうひとつの人生を送ることができる。わたしは彼に言った。 <br />
「わたしが死んだら、再婚して、子どもも持ってね」 <br />
そして、こう付けたした。 <br />
「セント・ギガに書いた詩を、本にしてね」 <br />
ああ、わたしは、なんと業の深い女だろう。やっぱり作品のことで頭がいっぱいなのだ。 </p>

<p>書きたい作品は、まだまだある。アイヌの絵本ももっと作りたいし、奈良の絵本も作りたい。「お水取り」や「元興寺のがんごぜ」「薬師寺のふたつの塔」など、すでに企画書も書いた。 </p>

<p>ところが、である。それら未来に生まれるべき作品に関して、わたしは意外と淡白だった。そうか、これでおしまいか、と思っただけだった。「詩集」と「夢見る水の王国」の二つを仕上げることができたら、それでいいと思えたのだ。 </p>

<p>実際に、それ以上の時間がないので、あきらめざるを得ない、ということもある。けれど、それだけではなくて、なんだか妙にさっぱりしている自分がいた。「ラッキー！」とさえ思っているらしかった。 </p>

<p>「これで、出していない確定申告の書類も、もう書かないでいいんだ」とか、「この先、どうやって食って行こうか。相棒は稼ぎがないから、この先もずっとわたしががんばらなくては」とか、「最近、不眠でつらい」とか、「地球温暖化を食い止めるにはどうしたらいいか」とか、そういう諸々の憂いからすっかり解放されると思ったのだ。弱っている親よりも、自分のほうが先に逝ってしまうと思うと、親を看取るという重圧からも解放されるような気がした。つまり、すべての責任を免除されるような気がしたのだ。なんという奴だ、わたしは。 </p>

<p>そして、思ったのだ。「奈良に来て、ダーリンと二人でいっぱい散歩をできて、楽しかった。人生の最期の一年を、こんなに楽しく暮らせたなんて、しあわせだった」と。 </p>

<p>わたしは、自分の「生」への執着のなさにあきれた。やっぱり、根本的に人生を愛していないのかもしれない、とも思った。 </p>

<p>「生きる気力」のある人が、病気とよく戦い、生還できる、という話をよく聞く。生き抜くためには、生きることへの執着が大切なのだ。「もういいや」と簡単に手を放すどころか「ラッキー！」などと思ってしまうわたしは、すんなりとあの世への橋を渡ってしまうような気がする。 </p>

<p>そういうと、相棒が言った。 <br />
「言っとくけど、そんなに甘くないよ。病気になったからって、ポックリ楽に死ねるわけじゃないんだから。闘病生活があるんだから」 <br />
うーむ。言われてみれば、確かにそうだ。 </p>

<p>さて、翌日、検査のため病院へ。 </p>

<p>検査前の浣腸はきつかった。吐き気までした。そして、検査本番。「麻酔とか、かけないんですか」と聞くと「すぐに終わるから、そんな必要はないですよ。ちょっと我慢してくださいね」とのこと。うーむ。 </p>

<p>大腸ファイバーを入れる。苦しい、というかショック。わたしは、過去に開腹手術をしているので、腸の一部が癒着し、そのために余計に苦しい。恐ろしい検査だった。 </p>

<p>検査終了。医師が映像を見ながら説明してくれた。 <br />
「きれいなもんですね。心配ありません」 <br />
「えっ？　じゃあ、なぜ出血が？」 <br />
「入り口付近、触っただけではなにもなかったし、血も付かなかったけれど、ここに小さな傷のようなものがあるでしょう。これですね。腸が少し荒れていて、固い便で傷ついたんでしょう。でも、痔と呼べるほどのものじゃない。だいじょうぶです」 <br />
「お薬は？」 <br />
「必要ありません」 <br />
「座薬とか？」 <br />
「必要ありません」 <br />
「でも、血が……」 <br />
「便秘したり、便が固くならないように注意してください。規則正しい生活が第一です」 <br />
「は、はあ……。ありがとうございました」 </p>

<p>というわけで、キツネにつままれたような気分。なんでもなかったのである。ほっとしたというより、肩すかしを食らった感じだった。すべての責任から逃避できると思ったら、そうではなかった。まだまだ、やるべきことが山積み。引っ越しの荷物さえ、片づいていないのだから。やれやれ。 </p>

<p>一旦は「死」を覚悟し、２４時間で「生還」した。「死」を意識したら、世界が驚くほど美しく見える、とよく言われるが、そのようなことは全くなかった。もしかしたら、わたしには普段から、世界がかなり美しく見えているのかもしれない。それが、わたしに物語をかかせるのかもしれない。死はいつも隣にいる。それが、いつ自分に訪れてもおかしくないと思っている。 </p>

<p>病院からの帰り道、お腹が痛い。腸を引っかき回されたショックから立ち直れない。自転車を引っ張っりながらろそろと行くと、駐車場の隅に生えたビワの木に、ビワがたわわに実っていた。生命力溢れるオレンジ色が、実に美しい。 </p>

<p>思わず歩みよると、相棒がいった。 <br />
「絶対に、取っちゃだめだよ。手を伸ばしてもだめだよ」 <br />
「うん」 <br />
ビワの木には「立ち入り禁止」と札がかかっている。わたしは、食い入るように、重そうに垂れ下がったビワの実を眺めた。 </p>

<p>すると、ガラっと向かいのアパートの窓が開いた。叱られるのかと思ってぎょっとすると、老人が顔を出してわたしに言った。 <br />
「取っていいよ。手前のは、小さいけど、奥の木には、大きなのがなってるから。好きなだけ持っていきな」 <br />
「ありがとうございます」とわたしは大きな声でお礼を言って、ビワの実をもいだ。生まれてはじめてのビワ狩りだった。うれしさが、心の底から湧きあがってきた。 </p>

<p>町を歩いていて、ビワの実をもいでいいなんて言ってもらえたのは、うまれてはじめてのことだ。奈良は、なんていいところだろう。あのアパートのおじいさんが、ビワの木の持ち主なのかどうかは、多少疑問ではあるけれど……。 </p>

<p>家に持ち帰り冷やして食べてビワは、野趣溢れる味で実においしかった。 </p>

<p>あれ？　「生への執着」はさしてなさそうだけど、どうも「食べることへの執着」はあるらしい。もしかしたら、わたしを行かす原動力はそれ？！ <br />
</p>]]></description>
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<pubDate>Tue, 19 Jun 2007 03:55:11 +0900</pubDate>
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<title>リトル沖縄・元遊郭＠大阪</title>
<description><![CDATA[<p>７月に沖縄へ移住する写真家・勇崎哲史氏の壮行会が大阪で開かれた。 </p>

<p>会は昼過ぎから。我々は、午前中に集まり、 <br />
「勇崎氏とともに歩くリトル沖縄＠大正区ツアー」へと出かけた。 </p>

<p>元は川の砂州だったという大正区には、 <br />
港湾労働者として働くために、沖縄から多くの人が移住してきたという。 <br />
そのため、町には「リトル沖縄」と呼びたいほど、 <br />
多くの沖縄料理屋や、沖縄系の食材店が軒を並べている。 <br />
こんな地域があるとは、東京にいるときには、露ほども知らなかった。 </p>

<p>壮行会の会場は大正区の「うるま御殿」という沖縄料理屋。 <br />
昔の演芸場のように、広い座敷があり、正面には小さな低い舞台がある。 <br />
ゴーヤーチャンプルーをはじめとする おいしい沖縄料理が山のように出て、 <br />
店主自らが蛇皮線を弾き、歌ってくれた。 </p>

<p>最後は、カチャーシーといって、沖縄の踊りをみんなで乱舞。 <br />
といっても、沖縄舞踊を知る人ばかりではないから、 <br />
阿波踊りのようになったり、ゴーゴー（古い）になったりと <br />
みんなかなりテーゲーな踊りではあったが、実に楽しかった。 </p>

<p>昼過ぎから開かれた会は夕方に終わり、 名残りを惜しむ我々は、そのまま大阪散歩へ。 <br />
大正区から、西区九条へと歩いた。 </p>

<p>何やら趣のある料亭の建ち並ぶ通りへ来たと思ったら、 何か様子が違う。 <br />
どの店も、入り口に、きれいにお化粧をした女性が、ピンク色のライトに照らされて座っているのだ。 <br />
その様子は、アムステルダムで見た「レッドライト」そのもの。 つまり「飾り窓」というわけだ。 </p>

<p>そこは「松島新地」という元遊郭街だった。 <blockquote>【松島新地の歴史】 <br />
明治元年（1868）７月15日、建て前上外国人居留者による性犯罪の予防を主眼とした対外国政策、新地開発、一向に減らない散娼の整理を目的として遊郭の設置が提案され、同年12月15日に設置の許可が下り、木津川と旧尻無川に挟まれた九条村町を筆頭に約四村をを合わせ、松島町(松島の由来は松ヶ鼻と寺島の地名を合せたものである)として新しい遊郭地の設立が始まった。（中略） </p>

<p>　昭和21年（1946）２月20日、ＧＨＱの指令で名目上公娼制度は廃止されたが、暫定措置として特殊飲食店として地域を限って売春が許容され、カフェーや待合を有する赤線地域として営業を継続。 <br />
　その後売春禁止法（昭和31年（1956）5月に成立。昭和33年（1958）施行）の成立により、『料理組合』を結成。後の風営法成立時には料亭、待合として届けを出し、遊郭から料亭と変貌を遂げた。かつては280軒を数えた大遊廓も現代は、その3分1の100件あまりが軒を連ね、大人の遊興地として18歳未満お断りの料亭営業を行なっている｡ </blockquote>いまも、町の街灯には「松島料理組合」と看板が掛かっている。 <br />
しかし、実際には「18歳未満お断りの料亭営業＝遊郭」だ。 <br />
日本に、こんな場所が、こんなふうに残っているのかと驚いた。 <br />
どのように法をかいくぐっているのだろう。 <br />
あのピンク色の光に浮かぶ女性たちは、 どのような人生を経て、そこに座っているのだろう。 </p>

<p>リトル沖縄といい、松島新地といい、大阪はワンダーランド。 <br />
何が出てくるかわからない。 <br />
関東に住んでいれば、恐らく一生知ることのなかったこと、 見ることのなかった風景が広がっている。 </p>

<p>生な人間社会の姿に軽いショックを受けた大阪散歩となった。</p>]]></description>
<link>http://ryomichico.net/diary/2007/06/index.html#000623</link>
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<pubDate>Sun, 17 Jun 2007 02:08:33 +0900</pubDate>
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