▲2003年09月の時の破片へ


■29 Aug 2003 とうとうダウン


連日の疲れが出て、ダウン。きょうもアイヌ文化啓発普及セミナーを休んでしまった。皆勤賞ならずに残念。最後でヘタるところが、我ながら情けない。きょうの内容は以下の通り。
「デザインをとおしてアイヌ文化を見たとき」19:00〜20:30
貝澤珠美(デザイナー)

■28 Aug 2003 建石修志展@渋谷東急文化村


建石修志展「月の庭を巡って―幻想文学とともに―」
七戸優氏にレセプションに誘われて、出かける。七戸氏も作品を展示しているのだ。

もともとは雑誌「幻想文学」の終刊を記念して開かれた展覧会。長年、表紙を飾ってきた建石氏の絵を中心とした、大規模な回顧展だった。編集長の東雅夫氏、石堂藍氏にも久しぶりにお目にかかることができた。

建石氏の絵の力量には脱帽だ。はっきりいってダントツだ。そして、絵が強い。ひと目でぐっと人の目を引きつける力がある。さすがに、長年雑誌の表紙などをやってきただけあると感心した。建石氏の絵は、書店の本の渦のなかにあっても、そこだけ異彩を放って輝いて見える。

しかし、長時間会場にいるうちに、少し息苦しくなってしまった。というか、目が絵の表面を滑ってしまって、なかなかその奥に入っていけない。どうやら、わたしは建石氏の絵にあたってしまったらしい。時間というものが、これほど絵に作用するということ如実に知ったのは、はじめてだった。もう少し見ていたら、どうなるだろう。あるいは、毎日見ていたら。そんな思いを胸に、会場を後にした。

▼アイヌ講座休む
きょうもアイヌ文化啓発普及セミナーがあったのだが、建石氏の個展会場を去り難く、休んでしまった。イオマンテに関係した話だけに、残念である。きょうの内容は、以下の通り。
「熊送りの考古学」19:00〜20:30
佐藤孝雄(慶應義塾大学文学部助教授)

■27 Aug 2003 アイヌ文化啓発普及セミナー8


「アイヌときどき日本人」19:00〜20:30
宇井眞紀子(写真家)

和人の写真家としてアイヌの人々のなかにはいっていった宇井さんの体験談。必要以上にへりくだるでなく、かといってしゃしゃりでるでもなく、自分が「写真」という、ある意味暴力的なメディアを持ってアイヌの人々に接近しているのだということを忘れない宇井さんのスタンスに好感を抱いた。

ただ『アイヌときどき日本人』という写真集のタイトルは、どうしてもピンとこない。このタイトルを見たとき、わたしは宇井さん自身がアイヌなのだと勘違いした。アイヌ自身がそういうなら、わからないでもないが、いわゆる和人がアイヌの人々を撮った写真集に、このようなタイトルをつけることに、どうしても違和感を感じてしまったのだ。アイヌと日本人とが、ふたつの重ならない対立概念で、あたかも二者択一のように語られているように感じることが、違和感の原因かもしれない。つまり、民族と国家という概念の混同が、わたしを混乱させる。

けれどもまた、それが混同されているところに、現在のアイヌの人々の問題も立ちあがってくるのかもしれない。「民族としての日本人=国籍としての日本人」という世間一般の概念の混同が、アイヌや在日朝鮮人・在日中国人などを排除している。普段、何の気なし使っている「日本人」という言葉を改めて考えさせられた。

■25 Aug 2003 火星観測@裏の公園


ブックス・アミの加藤さんご夫妻と、東逸子さんといっしょに、裏の公園に望遠鏡を設置して大接近中の火星をのぞく。極冠の白い部分が、ずいぶん小さくなっている。火星はいま、夏。みるみる極冠の氷が融けているのだそうだ。こんな遠くから、火星の季節が見えるなんて、なんて不思議で素敵なことだろう。静かに語り合いながら、火星を見る時間。この上なくぜいたくでうれしい時間だ。

■24 Aug 2003 泳ぐ


暑い。36℃を超えている。スポーツクラブのプールで泳ぐ。

■23 Aug 2003 「ヒバクシャ」上映会宣伝パーティ


午後6時より、町田市民フォーラムにて「ヒバクシャ」上映会の宣伝のためのパーティがあり、スモークチキンなど作って持参し、参加する。リクエストがあったので『父は空 母は大地』を朗読させてもらった。いろいろな人が集まっている。鎌仲さんもきて、会はずいぶん盛りあがっている。みんなみんな「いいこと」がしたい。人間のなかには「いいことしたい欲」があるのだと感じさせられた。人のため、世界のためになにかしたいのだ。このエネルギーを空費しないで、ほんとうにいい方向に持っていけたら、きっと世界は少しずつよくなると感じた。

■22 Aug 2003 アイヌ文化啓発普及セミナー7/岡本太郎写真展


「アイヌ民族と国際人権法」13:30〜15:00
相内俊一(小樽商科大学商学部教授)
「アイヌ語を普及するには!」15:10〜16:40
萱野志朗(萱野茂二風谷アイヌ資料館副館長)

▼相内俊一氏講演
人権問題から考えると、いろいろなことが実にすっきりをわかりやすく見えてくる。それと同時に、近代社会というものが、もともと人間性を疎外して成立しているものだと感じないではいられない。この観点から考えることもとても重要だと感じた。

▼萱野志朗講演
小学校でアイヌ語を教えるようにしよう! NHKの語学講座にアイヌ語を! という萱野さんの主張。なるほどど思う反面、そのようなトップダウンの考え方だけでは、言葉は生きないのになあとも思う。やはり、どんな小さな場面でもいいから、日常に滑りこませることが大切だ。「萱野さんは、日常のなかでアイヌ語をお使いになる場面はありますか。ご家庭ではいかがでしょうか」と聞いてみると、まったくないとのこと。

「家のなかでアイヌ語をしゃべる人間が、少なくとも二人はいないと会話は成立しない。だから、無理です」

あの萱野茂氏を父に持つ萱野志朗氏宅ですら、そうだとしたら、どこに生きたアイヌ語が生き延びていけるのだろう。うーむ。

▼岡本太郎写真展@渋谷パルコ
札幌の勇崎さんが誘ってくださったので、岡本太郎写真展のレセプションに出席させてもらう。岡本太郎の写真はいい。「いい写真を撮ってやろう」という邪心がないのがいい。自分が驚いて、その驚きのままにシャッターを押しているように感じられる。彼が、何を見て驚いたのか、心を惹かれたのか、美しいと思ったのか、それが生々しく伝わってくる。わたしはその時、きっと岡本太郎の目玉を借りて、世界を見ているのだ。その見え方が、美しい。世界は、すてきなところなのだと感じさせられる。岡本太郎が、博物館の展示室に鎮座している縄文土器の美しさに目を見開いた瞬間も、きっとそんな感じだったのだろう。彼は、世界のなかにきれいなものを発見する「世界再発見家」として最高の力を持っている。

人々がみんな、そのレッテルやラベルに関わらず、こんなふうに世界を見ることができたら「現代美術」なんていうジャンルでいま流行している作品などは、すぐに零落するだろう。世界は、それと名づけられないままに、すばらしいものを発信し続けているから。

その岡本太郎の作品に、わたしがなぜ少しも感応しないのか、謎である。どうしてなのか、よく考えてみたい。


岡本敏子さんを囲む懇親会に、松山賢氏という新進のアーティストが来ていた。彼は、岡本太郎の作品を見て、いたく刺激され、自分もアーティストになりたいと思ったという。出発点が岡本太郎だというのだ。

そういう人もいるのだと知って、驚いた。だとしたら、岡本太郎の作品は、一人の人間の人生を変えるほどに機能しているのだ。しかし、その作品自体なのか、作品に付随するすべての情報を含めてなのかは、定かではないけれど。

しかし、もし周辺情報を含めての岡本太郎に感激したのだとしても、それが全体として世界に影響を与えたことには変わりない。そこで、目が開かれる思いがした。なるほど、そのようなゲイジュツがあってもいいのかもしれない。それがなんであろうと、芸術作品として自立していようといまいと、いまここにある世界に働きかける存在。

なるほど。だから現代美術を英語で「Temporary Art」というのか。いや、違う「Contemporary Art」か。

Contemporary Art の接頭語 Con は、同じ、という意味。同時代の、時を同じくして生きる人々のアート、という意味だ。一方 Temporary には、仮の、束の間の、という意味がある。つまり、恒久ではない、ということだ。

縄文土器は、その時代のさなかには Contemporary Art であったはずだ。芸術という概念はなく、ただ祈りの形であったとしても、それはやはり芸術だ。そして、時を経たいまも、芸術でありつづける強さを持っている。そこに付随する意味をすべて剥奪して尚、人々の心を捕らえて離さない造形だ。

いまある Contemporary Art に、果たしてそのような力があるだろうか。それは、いまだけしか有効でしかない Temporary Art ではないか。そんな気がした。そして、それが例え Temporary Art であったとしても、それが人に生きる力を与えるなら、すばらしい。けれど、 Temporary Art のみがもてはやされ、永遠性をもった真実の作品が一向評価されない時代であるとすれば、それはやはり貧しい時代としか呼べないだろう。

■21 Aug 2003 アイヌ文化啓発普及セミナー6


「ピウスツキとアイヌ文化」13:30〜15:00
井上紘一(北海道大学スラブ研究センター教授)
「アイヌの精神文化」15:10〜16:40
葛野次雄(静内アイヌ語教室講師)

▼葛野次雄氏講演
ざっくばらんな葛野氏のしゃべり口が魅力的。学者さんのアイヌ話とはまた違う、生きたアイヌ文化の香りを満喫することができた。イオマンテの話などでも、本音と神話が無理なく同居しているさまがありありと感じられて新鮮だった。絵本作りの上でも、とても参考になった。葛野さんのファンになってしまった。

■20 Aug 2003 アイヌ文化啓発普及セミナー5


「近代日本とアイヌ −「旧土人保護法」をめぐって−」13:30〜15:00
麓 慎一(新潟大学教育人間科学部教授)
「考古学からみたアイヌの生活」15:10〜16:40
森岡健治(平取町教育委員会文化課埋蔵文化財係長/沙流川歴史館学芸員)

■19 Aug 2003 アイヌ文化啓発普及セミナー4


「アイヌ民族と自然とのかかわり」13:30〜15:00
内田祐一(帯広百年記念館学芸員)
「アイヌ文化と北海道観光」15:10〜16:40
秋辺日出男(北海道ウタリ協会阿寒支部長)

▼内田祐一氏講演
久しぶりに内田さんに会う。百年記念館で、自然科学の学芸員の方と組んで、植物観察会を開催。そのなかで、実際に植物を見て、その特性を知ることにより、アイヌ文化の多くの謎が解けることを知ったという。例えばヨモギ。アイヌ神話では、世界のはじまりに生える草とされているが、実際にヨモギはパイオニア植物。山を切り開いた荒れ地に最初に生えるのがヨモギだという。

コタンコロカムイとよばれるシマフクロウもそうだ。深い山の巨大な木の洞に住むシマフクロウは、猛禽類。いまは数が減り、天然記念物となっている。そのシマフクロウが、なぜ「コタンを護る神」なのか? 長年疑問に思っていたけれど、動物行動学を知って疑問が氷解したという。シマフクロウの棲息領域は、本来視界の開けた、川沿いの土地。体が大きく、開けた場所でないと猟ができないからだという。そんな場所はまた、人間が住むのにも適していた。自然が豊かだった時代、集落のそばには、必ずシマフクロウがいたので、コタンコロカムイと呼ばれるようになったという。現在では、森は破壊され、棲息できるところがかなりの山奥になってしまったので、遠い山の鳥という印象が強くなってしまったそうだ。

アイヌは自然を観察して、そこから文化を生みだした。アイヌ文化を理解するためには、自然理解が欠かせないはずだ。机の上だけでは、解決できないことがある。アイヌ最後の狩人姉崎等さんの話を聞いてもそう思ったことがある。自然を知り尽くしている姉崎さんは、熊の本当の生態を知っている。それだけ、熊にシンパシーを持ち、狩人でありながら、というより狩人だからこそ、熊を愛し、熊の命に敬意を払っていた。姉崎さんはいっていた「学者先生にいってやるんだ。机の上に熊はいないでしょってね」

専門の領域だけ見ていると見えないことが、他分野と協力することでわかる。学際的な方法の大切さを、内田さんの研究は示している。感激した。

▼秋辺日出男講演
秋辺氏は、阿寒湖のアイヌコタンでの生まれ育ち。いわゆる「観光アイヌ」である。同じアイヌのなかでも、そのようなスタイルで生活する人々を「観光アイヌ」とさげすむ傾向があるということ、それゆえの悩みを秋辺氏の話をきいて実感した。ひとくちに「アイヌ」といっても、それぞれの立場から、いろいろな見え方があるものだと、改めて感じる。

アイヌは昔、日本交通公社(現JTB)と大喧嘩したことがあるそうだ。外国人向けの北海道ツアーのパンフレットに、英語で「Hairy People」という記述があり、それが問題となったという。Hairy という単語は、日本語訳すれば単に「毛深い」となるけれど、英語では主に動物に使う言葉だということで、問題視されたという。

それゆえ、徹底抗戦したのだが、結果的にやりすぎてしまい、相手から謝罪を得たものの、その後、交通公社のツアーからアイヌ関連の観光ははずされてしまい、いまもはずされたままだという。「触らぬ神にたたりなし」方式で、触れるのを恐れているらしい、とのこと。

「アイヌの悪いところは、物事をはっきりさせるのはいいんだけれど、やりすぎちゃうところなんだよねえ。喧嘩していいけれど、喧嘩したあとになかよくなれるようにしなくちゃねえ。ちゃんと話せるようにならなくちゃ、だめだ」と秋辺氏。

アイヌ関連の観光を復活させるために、いま、新しい組織作りをしているという。アイヌに関したツアーを組んだとき、パンフレットや宣伝の言葉遣いや扱いなどに問題があると困る。だから、それをチェックできるような組織を作ろうというのだ。そこに聞けば、正しい表記などを知らせてもらえる。そうすれば、安心して宣伝ができるということだという。

一案だとは思う。しかし、待てよ、とわたしは思う。へたをするとそれは「検閲」になってしまいはしないか。「権威」になってしまいはしないか。さまざまあるアイヌ文化の、どれが正しいということはない。そのどれもが正しいのだ。それをもしも「これが正しい」と一つにまとめると「標準アイヌ」ができてしまう。そんな危険もはらんでいる。

いいアイデアだけれど、危険な側面も持っている。ほんとうは、そんな組織に頼らなくても、いろんなところでアイヌの人々と交流できて、そのなかから正しい認識が生まれてくればいいのになあと、夢のようなことを考えてしまうわたしだ。

▼ハオリンのお店で
講演の後、受講生の一人である浩林さんの実家の四谷の中華料理店にて内田さんを囲んで宴を持つ。楽しかった。

■18 Aug 2003 青春18きっぷで帰る


青春18きっぷを使って丸亀から相模原まで帰る。朝の9時09分に丸亀発。相模大野着が夜9時19分だから、ちょうど丸半日の旅だ。普通列車で半日でついてしまうのだから、日本はそんなに広くないと実感する。しかし、疲れた。

■17 Aug 2003 ヤノベケンジ講演@猪熊弦一郎美術館


▼88ステージ
相棒の家のご近所の「88ステージ」というファッション・スポットを散策。帯広の「北の屋台」のファッション版、という雰囲気。鉄道廃材を敷き詰めた広い中庭では、地元出身でニューヨークで活躍中というファッション・デザイナーのショーの準備中だった。レコードを使ってのディスクジョッキーの準備もしている。ここは、地元の若い人々の文化発信基地になっているらしい。人で賑わっていて、活気がある。地方都市が、こういうふうに活気づいていけばいい。

▼宇多津散策
車で宇多津の細い道に入ってみると、昔ながらのいい家並みが残っていた。古いおまんじゅうやさんもある。買いたいと思ったけれど、午後三時にもならないというのに、もう売り切れだそうだ。毎日、必要な分だけつくって、売り切れたらおしまい。こんな、欲のない商売がやっていける土地は貴重だ。

▼ヤノベケンジ講演@猪熊弦一郎美術館
午後3時から、ヤノベケンジ氏が講演するというので行った。若い人々の熱狂的支持があるらしく、会場は若者でいっぱい。ヤノベ氏が、大阪で開催中のヤノベ氏の展覧会を中心に話を進めた。「太陽の塔」を占拠した「目玉男」を探しだしてのインタビュー。
そして、自らが「太陽の塔」に忍びこみ、例の放射能防御服「アトムスーツ」を着て目玉に立つというプロジェクトを敢行、その一部始終を録画したドキュメント・フィルムを見せてくれた。

「目玉男」は、いまは北の小さな町で、アダルト・グッズの店を開いているという。そのチープでキッチュな店の構えのなかで、彼は実に真面目に政治の話をし、真剣に自己を語っていた。真面目な、誠実な人なのだ、世間から逸脱してしまうほどに、と感じさせられる人柄だった。個として確固と立つ毅然とした姿勢に胸打たれた。

一方、ヤノベ氏の太陽の塔侵入作戦は、何人もの人を使ってのチームプレイ。トランシーバー(携帯かも知れない)を使って執拗なまでに連絡を取り合いながら、警備の人の目をかいくぐる。目玉に上ってからも、命綱がついているにかかわらず、壁にへばりついてへっぴり腰なところが、おかしかった。高いところが恐くても、このような無様な姿をさらす勇気があることだけはわかった。

ヤノベ氏のテーマは「サバイバルからリバイバルへ」と変わってきたという。大阪万博に未来の廃墟を見た少年は、チョルノブイリに代表される核時代を生き延びることを考え続けてきた。それが、たとえば、放射能防御服である「アトムスーツ」であり、人間のために酸素を供給する植物を入れたガラス球や、サバイバル用品を入れたガチャポンである。

しかし、ここのところにきて「生き延びる」ことから、さらに一歩進み「再生」への興味が湧いてきたという。先日取り壊されたエキスポ・タワーの展望室には、風に自然と運び込まれた土埃に種が根付いて、羊歯植物が生い茂っていたという。それを見たヤノベ氏は感銘を受け、これを採集して、人間のための酸素供給の象徴するものとしてガラス球に入れた。そして、今回の個展では、それをミニ列車に乗せて会場内を動かしているという。

世間の人には、これが現代美術として「おもしろい」らしいが、わたしには、どうもよくわからない。というか「幼稚」に見えて仕方ない。子どもがノートに思い描く思いつきの未来想像図以上の何ものではないように感じられてしまう。それこそが実はヤノベ氏の持ち味で、そのチャチさが人気の秘密なのかもしれない。しかし、わたしとしては、それしきで、現代美術業界はそんなにはしゃいではいけないのではないか、と違和感を感じる。

例えば、人間一人の消費する酸素を賄うために、実際どれくらいの植物が必要なのだろう。それを実際に目の前に見せてくれたら、それだけでかなり「日常感覚」や「認識」に揺さぶりをかけることができるはずだ。ガラス球のなかの植物など、模型以下でしかない。そこに「エキスポ・タワーに生えていた羊歯」という物語を付与することで、なにか勿体をつけているけれど、それがなんだとわたしはいいたい。そのような実に狭い範囲の「物語」に依存してしか成立しない美術とは、なんだろう。

ヤノベ氏の感じている危機感を、もっとつきつめ、考えていけば、たとえばバックミンスター・フラーの仕事に通じる仕事が可能かもしれない。そこまでやってほしい、とわたしは思う。そこまでやってこそ、単なる思いつきや子どもの落書きではなく、より深いものになるのではないかと。

会場で、ヤノベ氏に直接そういってみたが「ぼくはフラーみたいに頭が良くないから」とかわされてしまった。

作家も、鑑賞者も、顎が弱くなっている。離乳食しか受けつけない世界。それでいいのだろうか。というようなことを考えさせてくれるということで、ヤノベケンジとそれを取りまく状況は、きわめて現代美術チックなのかもしれない。

■16 Aug 2003 浮世絵の子ども展@香川県歴史博物館



再び、高松へ。貸し自転車で、灯台と埠頭に行く。世界初のガラスの灯台だそうだ。赤いガラスでできていて、青空によく映える。夜にまた見に来ることにして、博物館巡りに出る。

▼浮世絵の子ども展@香川県歴史博物館
香川県歴史博物館の特別展。子どもが出てくる浮世絵の展覧会というユニークな企画だ。当時の子どもの生活風景が見られて楽しい。こういう切り口での展覧会はすばらしい。学芸員の腕の見せ所だ。

こんな浮世絵を、そのまま子ども雑誌に載せられたらなあ、と思う。「むかしの子ども」というページをつくって、浮世絵をそのまま見せる。子どもでも読めるような解説もつける。解説というよりは、絵本の文章といった感じで。そうすれば、歴史を知ることになるし、日本の伝統的な絵画に触れる第一歩にもなる。

しかし、今の日本で、そんな企画を受けいれてくれる出版社はなかなかないだろう。単行本なら。なんとかなるかもしれないけれど。もっと足許の文化を大切にすればいいのに。昨今の「声に出して読みたい日本語」ブームで、齋藤孝氏がNHKの子ども番組で古典を音読する企画をやっているが、あれはいい。善戦している。もっと広がりが生まれればいいなあ。

▼ヒーローズ展@高松市歴史資料館
成田亨と小松崎茂のイラスト展。成田亨はウルトラマンと怪獣たちのキャラクター・デザインをした人だが、イラストは意外とヘタで、絵を見ただけではイメージが膨らまない。きっと造形の高山良策がすばらしかったのだろう。

小松崎茂は、いまみても面白い。なんだかわくわくしてしまう。あのわくわく感は、いったいどこから来るのだろう。技術=アルチザンのすばらしさと、本人のセンス・オブ・ワンダーが一体化したところから生まれるに違いない。心のこもらないアルチザンはからっぽで無惨だし、逆に心だけ先走ってアルチザンのないものも見るに耐えない。その両方があってこそだ。そして、小松崎茂にはその両方がある。これにごたくをつけて「現代美術」と称したとすれば、充分に通用するだろう。現代美術で、ここまできちんとアルチザンを追求しているだろうか?

▼新光工芸
帰りがけ、こじんまりとした漆器店を見つけて入ってみる。新光工芸といい、いままで見たどの漆器店よりも高品質の漆器が並んでいたので驚いた。特に、蒟醤(キンマ)がすばらしい。ご主人と話しているうちに、ご本人も蒟醤職人だとわかる。代々、蒟醤の工場を経営されているそうだ。

そのうち話がはずみ、娘さんが、イラストを描いているという話になって、見せてもらった。少女を描いた緻密な幻想絵画だ。やがて、ご本人も降りてきて話していると、なんと七戸優氏の友人と判明。相変わらず世間は狭い。というか、奇縁だ。こんな不思議な縁は、大切にしたい。

http://www.ne.jp/asahi/secret/label/

■15 Aug 2003 音丸耕堂展@高松市美術館


▼貸し自転車
相棒と二人、電車で高松へ。高松駅で貸し自転車を借りる。このシステムが相当に出来がよくて、たった百円で一日中借りられる。放置自転車を再生し、きちんと整備して貸し出し用にたっぷり用意してあるのもいい。働いている人も、自慢げで誇りを持っているのが感じられた。このシステムをつくって、高松市は駅前から放置自転車をなくした。見習いたい。

▼「ヘンリー・ムーア展」
高松市美術館へ。ちょうど開催中の「ヘンリー・ムーア展」を見るも、少しも感心しない。もっとたっぷりした量感を感じさせる存在感のあるものだとイメージしていたが、全然そう見えない。顔も手足の造形も、概念的でマンガのよう。家族の情景も、すこしも温かさを感じない。これなら、トルコで見た、掌に入るほどの古代の地母神の像のほうが、ずっと大きく、あたたかく、存在感もあった。なぜこのような作品が、高く評価されてきたのだろうか。

首を傾げて見ていると、新聞記者が話しかけてきた。がらがらで、他に客らしい客もいないので、明日の新聞記事のために、写真を撮らせてくれというのだ。承知すると、学芸員の人もやってきた。

▼香合鑑定
実は、学芸員の方に見てもらいたいと思って、香合をひとつ持参していた。箱書きに、玉楮象谷作であるとの但し書きのついた「忘れ貝の香合」だ。相棒の家のお蔵にしまわれていたという。思い切ってそのことを聞いてみると、学芸員の川西弘一氏は、快く鑑定を引き受けてくださった。

別室に通され、手袋をして丁寧に箱から出す。じっと見て「少しお待ちください」と、写真と香合をひとつ持って現れた。高松の松平家に献上された本物の「忘れ貝の香合」の写真と、その息子が製作したというかなり正確なレプリカだ。

持参した「忘れ貝の香合」と比較すれば、一目瞭然、その違いがわかる。持参した物も、かなりの手になる出来のよい物ではあるのだが、やはり彫りのシャープさが格段に違う。香合の高さもデザインも微妙に違う。全体に、本物にはうならされるような美しさと調和があるが、贋物にはそれがない。細かい細工でよくできてはいるけれど、見入ってしまうような魅力がないのだ。やはり本物は違う。本物を見なければ目が肥えない、ということも実感した。

ハズレでも気持ちよく対応してくださった川西さんにも感謝。さすがである。もうひとつ、相棒の実家には象谷の銘の入った料紙箱と文庫があるのだが、こちらはどうだろう。相棒の祖母が「どうせ贋物やろ」と普段使いにしているのだが、全面に鳳凰模様の彫漆されたそれは、なかなかに美しく魅力的だ。しかし、普段使いにこそふさわしいカジュアルな雰囲気もある。象谷作ではなく、象谷一門の手による象谷ブランドのものかもしれない。この鑑定は、またの機会に楽しみにしよう。

▼音丸耕堂展
高松市美術館では彫漆で有名な「音丸耕堂展」も開催中だった。実は、きょうの最大の目的はこれ。日本伝統工芸五十年記念展で音丸耕堂の作品を見て、その美しさ、フォルムの新鮮さに仰天。いつかその作品をもっと見たいと思っていたので、今回はほんとうにいい機会だった。やはり、驚きの美しさだ。ここでは、アートとアルチザンが極めて高度に融合している。人間の手技で、ここまでぴしっと歯切れのいい美しいものが作れることに驚きを感じないではいられない。

▼香川県漆芸研究所
美術館前の「かな泉」でうどんを食べた後、工芸高校の敷地内にある、香川県漆芸研究所を訪れる。この春、奈良で螺鈿の漆芸師樽井禧酔氏に出会ってからというもの、相棒は漆芸にぞっこん。とうとう漆芸をやりたいといいだしたのだ。象谷のいた高松は漆芸の本場。この研究所では、伝統工芸を絶やさないために、一年に十名だけを研究生としてとって、漆芸の存続に努めている。入所のための選抜試験など、詳しい話を聞きにやってきたというわけだ。

試験は、デッサンと小論文と面接。一人前になるまでに十年ほどかかるので、入学資格は三十歳までに制限されているが、情熱次第ではその限りではないとのこと。入学時に十一万円が、個人の道具代として必要だが、それ以後三年間の履修中、授業料も材料費も一切かからない。専任講師のほかに、人間国宝の漆芸家たちが教鞭を執りに来る。世の中に、こんなに恵まれた学校があるだろうか?

入学希望者はその年によってさまざま。芸術系の大学を出てから入る人もいれば、まったく違うジャンルからやってくる人もいるという。授業には、漆芸の基本だけでなく、デッサンなどの時間もたっぷりとられていて、職人養成講座というよりは、むしろ作家養成のための学校のようだ。しかし、実際に作家として独り立ちしていける人は、一学年にひとりいればいいほうで、卒業して結局、漆関係の会社に就職して職人になる人もいれば、サラリーマンになってしまう人もいるという。やはり「作家は食えない」というのがネックになっているとのこと。松平家のようなパトロン大名の存在がなくなってしまってから、日本の漆芸界は相当の苦戦を強いられているようだ。

説明の後、所内を一巡して見せてくれた。これはもう工房である。資料室も開いて見せてくれたが、驚いた。象谷、耕堂をはじめ、錚々たる作家の作品が揃っている。美術館や博物館でも、これだけのものを一度に見られる場所は、そう多くないように思われる。

入所試験は来年二月。十一月には、文化祭があって先輩などもやってくるという。研究生の作品展示もあるとのこと。相棒は、十一月に再び来ることを即決したようだった。


研究所から五分ほどのところにあるしげる叔父の家を訪問し、古本屋に寄って丸亀に戻った。アートどっぷりの濃厚な一日だった。香合が贋物と聞いて、相棒の母上は「ほっとしたわ」と笑顔。いい家族だ。

■14 Aug 2003 草間彌生展@猪熊弦一郎美術館


猪熊弦一郎美術館に、草間彌生展を見に行く。彼女の作品は、断片的には知っていたが、これだけの規模でまとめてみるのははじめて。もっと病的な、おどろおどろしいものを想像していたが、意外に明るく楽しい雰囲気だった。仕上げの雑なところがチープで気になるが、それも子どもの工作をそのまま大きくしたような楽しさがある。「なあんだ、遊園地みたい」とはしゃいで見て戻ったのだが、実はそう簡単な話ではなかった。

家に戻ると、あの無限増殖するパターンが瞼の裏に灼きついて離れない。強い温泉の成分にでもあたったかのように、具合が悪くなってきた。そのまま寝込んでしまったが、うなされて眠ることもできない。あれはどうも、相当に神経にくるらしい。うっかり油断して、してやられてしまったようだ。面白いが、気持ちのいいものじゃないと痛感。

■13 Aug 2003 丸亀へ移動


ここにくるといつものことだが、なぜか台所に立ちっぱなしだ。皿を洗い終わると、朝日がのぼるところだった。みんなは倒れている。わたしはやけくそで朝日を見に行った。山を真綿のように覆った霧が美しかった。

森本雅樹氏の車に送ってもらって上郡へ。電車に乗って、鞄を一つ忘れてきたことを思い出したが、もう遅い。あるのは電話で確かめられたのでほっとした。

相棒の実家である丸亀へ。

■12 Aug 2003 佐治晴夫公園@西はりま天文台


佐用着12時36分。ありがたいことに、天文台長の黒田武彦氏が駅まで迎えにきてくれた。忙しいのに恐縮。黒田さんおすすめの店で、待望のホルモンうどんを食べる。天文台に行くと、川合慶一氏が先に到着していた。夕べ日付が変わってから平塚を車で出発して、朝にはもう西はりまに着いていたという。そんなことなら、いっしょに乗せてもらえばよかった。

午後六時すぎ、佐治氏の講演が「宇宙の研究が教えてくれること〜星のかけらとしての私たち〜」はじまる。それに引き続き、日本フィルの西森光信氏によるファゴット・コンサート。神戸から、女優スガノも恋人のパスカルといっしょにかけつける。ファゴットの音色が、やさしい。

観望会をして、そのあとロッジで大宴会が朝まで続いた。入れ替わり立ち替わり、いろいろな人が部屋にやってくる。

■11 Aug 2003 伊福部玲氏個展/高尾山ビアマウント


銀座の画廊「るたん」に陶芸家の伊福部玲氏個展を見に行く。はじめて見たのだが、ざっくりした作品。その力強さに驚いた。深い緑色の織部の大角皿を一枚、手に入れる。パーティで映えるだろう。会場でSilicaさんに会う。これから高尾山だというと、買ったお皿を預かってくれた。感謝。

その足で小学館へ。社長の相賀昌宏氏とそのお仲間の高尾山登山とビアパーティに誘っていただいたのだ。高校の遠足以来の高尾山だが、意外に山が深いので驚く。歩いていて気持ちいい。ちょうど心地よく疲れた頃、山腹のビアホールに到着。ビールがおいしい。夕陽が沈むのを見て、家路につく。

準備してあった荷物とお弁当を持って、一路小田原へ。「青春18きっぷ」(5回分11500円)で相棒と二人、夜行の各駅停車で西はりま天文台に向かう。明日、佐治晴夫氏の講演と、夜を徹しての夏の大観望会があるのだ。「ムーンライトながら」は、指定券が取れなかったので通路に座ることになった。昨年まで自由席だったもう一本の列車が全席指定になって指定券無しで乗れなくなったため、指定券の取れなかったすべての人が「ムーンライトながら」の、小田原から自由席になるたった六両に殺到したため、大変なことになっている。こんな混雑は、インドの二等列車の夜行以来。参った。

相模大野23:25−0:30小田原 520円
ムーンライトながら 小田原 1:06− 6:56大垣 4号車か6号車に乗る
普通列車網干行き   大垣 7:01−11:06姫路
普通列車上郡行き   姫路11:34−12:07上郡
智頭急行線智頭行き  上郡12:17−12:36佐用 470円

■ 7 Aug 2003 アイヌ文化啓発普及セミナー3


「古代蝦夷(えみし)から見たアイヌ社会」19:00〜20:30
工藤雅樹(福島大学名誉教授)
今回のセミナーで、いちばん申し込みが多かったという会だ。受講者の顔ぶれも、いつもとは雰囲気が違う。いわゆる「古代史ブーム」の一環としてやってきた人々が多いらしい。講義も、古代史の視点からのもので、和人から見たアイヌ観という香りがした。

講座後の雑談で、小野小町が実はアイヌの血を引いていたという話を工藤氏から聞いて、興味深かった。父親が東北在任中、土地の豪族の娘と結婚して生まれたのが小野小町だという。その彫りの深い顔立ちに、都人は驚き、美人伝説のもとになったという。もっとも日本的な小野小町のイメージが、アイヌと重なっていることに驚きを覚えた。日本の古層には、このようにして知らぬ間にアイヌのイメージがかなり入りこんでいるのかもしれない。

■ 6 Aug 2003 アイヌ文化啓発普及セミナー2


志賀雪湖(千葉大学非常勤講師)
実際に耳で聞く口承文芸。音を聞くだけで、その文芸がどの形式で語られたものかわかることを実感。このリズムと抑揚を生かして、日本語に置き換え、日本語とアイヌ語の両方で語ることはできないだろうか。いつか、挑戦してみたい。

⇒アイヌ文化セミナー2003要約2/アイヌの口承文芸――語りの形式 志賀雪湖(Review Lunatique)

■ 5 Aug 2003 アイヌ文化啓発普及セミナー1


「私とアイヌ語」19:00〜20:30
菅原勝吉(静内町生活相談員/北海道ウタリ協会静内支部事務局次長)
青年期になってから、アイヌであることを自覚して活動に目覚めた菅原氏。そこに至る道筋を素直に語る姿がとても好ましく、感動を覚えた。そのように、人生の途中からアイヌに目覚めた人を「アイヌに関する基礎知識を有する人」を対称としたセミナーの講師として迎えなければならないのも、アイヌ文化が迫害され、その文化に関わる人間が極端に少なくなってしまっているからに他ならない。そのことを思うと、胸が痛む。

⇒アイヌ文化セミナー2003要約1/わたしとアイヌ語 菅原勝吉(Review Lunatique)

■ 3 Aug 2003 望遠鏡初のぞき


望遠鏡が到着してから、ようやく晴れた。さっそく、望遠鏡をヴァルコニーに設置して火星を眺める。驚き! 空に浮かぶイクラ。といっても色が白と赤、逆だけれど、白い極冠がかなりはっきり見えた。うっすらと運河の模様も見える。こんなによく見えるなんて!

■ 1 Aug 2003 町田天満宮骨董市


町田天満宮の骨董市に行く。いつもアジア雑貨を売っているおじさんのところで、絹のスカーフを買う。まるで金色に光を放っているような鮮やかな色。夏に帰省する相棒の母君へのおみやげにちょうどいいと買い求める。見ているうちに、わたしも欲しくなってしまった。同じ色が一枚しかないのが残念。二枚あれば、一枚はわたしのにしたのに。

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