「物語の作法」雑談板 (0013)


物語の作法ホームページへ ▼「物語の作法」掲示板へ うさぎアンテナへ
使い方(20 May. 2001) ⇒このログの目次スレッド毎の目次 ⇒ログ一覧検索 ⇒新規投稿

杉井武作 感想ありがとうございます 2003年02月28日(金)20時16分50秒
あのときの しょうがない子は 別れれば 見習うところ いくつもあった への応答

僕の作品は女性には生理的にあまり受け入れられないタイプのものも多いのではないかと思います。その意味でも奥野さんが僕の作品でなにか感じたことを伝えてくれるのは大変貴重だし、有り難いことです。そして、自分の狙いと違う解釈をしていることも勉強になります。自分の作品に込めた意味をいちいち説明するのはダサいですし、そのまえにこの授業では他の人がどんな解釈をしたのかを知るほうが勉強になるから避けてたのですが、感想を頂いたことですし短歌に込めた意味をいくつか説明したいです。

>うんことか、おしっことか、日常の無駄話としては、最高に私も好きなネタなんだけども、
>「短歌」になると、恥ずかしい気持ちになっちゃうのはなんでだろう?
>杉作君は、「うんこ」にコダワリがあるのかなあ。

とくにそういう性癖は・・・(笑)でも、「うんこ」って面白くないですか?ただ単発で言っても下品なだけですが、短歌という一見畏まった形式に落とし込むことで、ギャップが生まれます。特に型を破る笑いというのはある種の羞恥心を伴います。「なぜ短歌に?」と思わせることは狙いです。そこで恥ずかしい気持ちになるか、「なぜ短歌に?」を一歩引いた目で見て、くだらなさを笑いへと昇華してもらえるかは人それぞれですけど。

「対他的うんこ」
1 打ち解ける 壁壊す音 紛れ込む ピンクの糸が 切れてくノイズ

>性行為のシーンでしょうか。

性行為のシーンのつもりではないのです。女の子と会話するとき、一線を超えて相手の相談にのりすぎたり、逆に自分のことを話しすぎると、友達になってしまって恋の対象になり得ない可能性がでてくる。お互いある程度ミステリアスな部分を残しといたほうがいいかなと。「ピンクの糸=男女の関係」の意味です。そういう短歌です。

2 わからない もてあましてる 変態性 隠す境界 さとしておくれ

>「さとしておくれ」と言うのが、面白い。でも、変態性なんて、さとっちゃったら、
>つまらないかも。わからなくって、もてあましてるから楽しいのでは。

「自分の変態性を客観視して、外に出す部分は押さえたほうが偏見持たれないから得だとわかっている。なのに押さえきれていない」という意味です。悟らないほうがおもしろいかどうかは人それぞれですね。僕は人によってどこまでさらけだしていいかを判断して、使い分けて楽しみたいです。いやらしいですけど、そのほうがいろんな人と知り合えるんで。

3 ぼくキミと そんなに親しかったっけ? 勝手に心 許すな重い

>ショック!これは、言われたら、もう、泣いちゃうよ。とっても、
>ショック!これだけ、ショックを受けたと言うことは、作品として良かったんだろうけど、
>ショック!

これはひねりが全くないしリズムも悪いから不採用にしようと思ったのですが、「ショックを与えられるかな」と思って載せてみたら、なんと三人もこの句が印象的と言ってくれました!思いきって載せてみてよかった^−^

4 誉めてくれ  俺を認めて もっとスゴイ 誉められるほど もっと誉めてよ

>さっきも書いたけど、これは、杉作君が良く表れていると思います。ホメテ!ミトメテ!って、確かに褒められたいし、認められたいよ。でも、誰に向かっての句なんだろう。余計なお世話だけど気になる。

う〜ん、自分の心情をそのまま吐露するような作品は、僕は基本的に書きたくないんです。それじゃ日記ですから。書くとすればそれが人にどんな印象を与えるかを考えてから書いてるつもりです。中島みゆきの「うらみ・ます」を彼女の私小説だと嫌悪する人もいるけど、あれだけ支持されてるのはやはりだれもが抱えてる人の心の闇を的確に捉えているからでしょう。この句は自分のことも指してますけど、誉められたい、認められたいという気持ちは、どんな人にもあります。僕は人の心の知られたくない内側に興味があるんだと思います。
まえに書いた「持て余す 若い貴方の いいところ ガラスケースに いれてあげたい」は逆に、いいところに誰も気付いてあげてなくて、世間の常識に無意識のうちに押しつぶされそうになってる貴方を認めてあげたい、という句です。

「思春期うんこ」

1 ぼろ猫が いつのまにやら なついてる また捨てなきゃな めんどくさいな

>認められたいのに、捨てたり重いと感じたりするよね。杉作君の性格や、思想が全て、
>この短歌に反映しているか、わからないし、書いてあること=杉作君なんて強引には
>思わないようにするけれど、誰かを傷づけることによって自分の存在が認められるような
>気がすることってありますか?

えらいヘヴィーな質問ですね(笑)ありますよ。「サイクリング」の「猫」には僕のそういった側面を出しました。「鏡の果実」もそれが大きなテーマのひとつですね。
作品に作者の影が見え隠れし、それによって作者の人間性をあれこれ推論するという楽しみ方も文章の醍醐味のひとつでああると思います。でも、そのことを作者に尋ねるのはタブーなのではないかとも思われます。作品として加工することで、だれにも教えられないけど、発散しないと救われない自分の内面も恥部をさらけだしてる人もいるし、そこは大変傷つきやすいデリケートな部分だから・・・作品は作品として割り切って読むのが、そういった人への思いやりというか、ルールのような気がします。書く側は書く側で、なに言われても仕方ないという責任を持たなきゃいかんような気もしますが。
僕の場合、「一般に恥ずかしいと思われる部分」をあえてさらけだすことで、人の自意識を刺激したいといういやらしい意図がありますから、僕の作品を見て嫌な気持ちになる人は、実は自分の恥部を責めてる・・・・・・のかもしれない(笑)。

2 前よりも ごく冷静に この関係 位置付けられる いいことだよね?

>2は、羨ましくて。いいことかどうかわからないけど、人と人との関係を冷静に見られるって羨ましい。とくに恋愛に関しては。わたしは、いつも冷静じゃない。情熱だ。間がいちばんか!

「冷静と情熱のあいだ」じゃん(笑)これは冷めてしまって情熱的に恋愛できない、男女関係のマンネリを嘆いてる句です。あるいは、大人になってしまって甘い恋愛よりも現実を見ざるを得なくなった悲しみについての句です。

3 あたしたち そんなヘンタイ? 深い傷 埋め合う儀式 しているだけよ

>3は、ヘンタイって言葉に引っかかって。ヘンタイかあ。ヘンタイって何でしょう?

ここでは性行為がアブノーマルという意味です。この句はリズムがすごく好きなので、そんな深い意味は込めてないです。どんな「儀式」か想像して怖がってもらう狙いでした。

「うんこヴィジュアル系」
貴方へと 溺れる深み この刃 押し込めてゆく 殺して気付く

指先に 触れては痛む あの人の 死顔白く 染まって消えた

君埋める 雪さえ溶けて 逝くけれど 絶えた笑顔は ココロを滑る

>「死」がテーマですか?

いや、失恋の短歌です。耽美派ヴィジュアル系の世界では「失恋=死」なんです(笑)
1は、「好きになればなるほど相手を傷つけてしまう。気付いたときは一人だった」という意味。
2は、「もう僕の前にはいない君のことを思い出すとつらいけど、雪が君の幻影を白く消してくれる」という意味。
3は、「そんな雪もやがて溶けるね。春がくれば君の笑顔も良い思い出になるだろう」という意味です。
ヴィジュアル系って「音楽を無視して見た目だけでそういうジャンルとして括ってしまう差別用語のひとつ」だとラルクのtetsuが言ってました。でも世間はそう見てるから仕方ない・・・そんな皮肉もこめてこの言葉を使いました。僕はヴィジュアル系大好きですけど。

「うんこ風刺系」

愉快犯 人の心を また荒らす 「理屈」という剣 振りまわしては

>愉快犯と理屈の結びつきが良くわかりませんでした。ちょっと、これも、
>むずかしい。

これは、理屈だけ言って人の心を動かすことを生きがいにしてる人のことです。正しさだけじゃ伝わらないことがあるし、そもそもこの世に「正しい」ことなんてないのに・・・。洗脳教育への批判の句のつもりです。

>こうやって流れを作って作品を提出するのは大事だと思いました。

本当は流れを作らないほうが、一行ごとにギャップがあって好きなんですけど、第三者にはこのほうが見やすいかなと。うんこってカオスのかたまりじゃないですか。食べ物の様々な不純物がひとつになって流される。なのに、「うんこが分別されてる」というギャップの面白さも、狙いのひとつなんですけど・・・わかんないですよねそんなの(苦笑)

>俺の書くものはうんこ級!みたいなのは、つまらないと思う。
>うんこって言っておいて、中身はスゴイ!とかの方が、より
>うんこが引き立つのでは、と思いました。うんこに甘えちゃ駄目だ!

「うんこって言っておいて、中身はスゴイ!」実はそのつもりで書いたんです。自分の中で、割とよくできた自信があったから、あえて皮肉ってやろうかなと。
作品は排泄物であるという考え方には、自分の嫌なところをさらけだす醜い自己満足という否定的な意味もある。でも人は排泄をしなきゃ死んじゃう、自分の弱い部分と向き合っていきくために作品を書くという前向きな意味もあるような気がします。たかがうんこ、されどうんこなのです。
作品がうんこだなんて、表現者であるならはあまり認めたくないものです。そこをあえて開き直ることに美意識と面白味を感じるんです。真面目なテーマを込めて書いてるものも、それすら崩して笑い飛ばすくだらないギャグも、自分の中では等価なんです。自己満足なのかもしれないですけど・・・。

作品やその感想を見てて本当に面白いと思うのが、男性と女性って本当に価値観が違うんですね。こういった違った価値観同士の意見を比べることこそが、批評をする授業の醍醐味であると思います(別に僕が男性代表、奥野さんが女性代表ということではないですが)。その観点で作品を見ていくと、いくつも興味深い発見があります。作品そのものもですが、その相違を見るのもまた一興だと思います。

水落麻理 ホーリーホールボーンの感想 2003年02月27日(木)20時33分08秒
▼掲示板:奥野美和 1D「ホーリーホールボーン(1)」(仮) への応答

甘酸っぱいです!なんか微笑ましくて、細部の設定とか、やたらリアルでかわいくて。これって奥野さんにしか書けなそう!とか思いました。雰囲気がほんとにかわいい。細ももに着地らへんは読んでて顔がにやけちゃった!たまんないね☆ほんとコーラしか飲まない男の子ってたまにいるんだよね。早く続きが読みたいです。

水落麻理 えっと、 2003年02月27日(木)20時20分35秒
どうもありがとう。 への応答

下のは杉井武作君が書いてくれた感想についてです。↓↓

水落麻理 どうもありがとう。 2003年02月27日(木)20時18分17秒
水落麻理「月の虫」感想 への応答

いやいや、そんなことないです。ありがとう。何も考えないで書いちゃったりするから、自分の作品ってそんな感じなんだー、って言われて初めて思った。私も、夜や月や海はいっつも気になってしまうもの達です。こんないっきに使っちゃって、ちょっとずるいよね。自然の中にあるものにはどうしても心ひかれるもんだねー。
段落ごとの意味性ってこの作品については正直あんまり考えてなかったです。あはは。自分の心の中に浮かんだ光景をそのまま言葉にしてみた、という感じで・・・。夜は月だけが明るいし、虫がよってきそうだなって思って書いてみたら意外と想像力かきたてられる文になったので。虫が何かなどは読んだ人の想像で楽しんでもらおうかな、なんて思ってました(笑)読んでくれてありがとう。

東條慎生 「ドン・キホーテ」またはかくも誇らかなる狂人の騎(奇)行 2003年02月25日(火)15時54分09秒

・前書きとして

 「名声はすなわち無理解、それもおそらく最悪の無理解なのだ。」
   ホルヘ・ルイス・ボルヘス(岩波文庫「伝奇集」67頁)
 
 花田清輝も「ドン・キホーテ」という作品が知名度に比して読まれていないことを考え、「『ドン・キホーテ』注釈」(講談社学術文庫「復興期の精神」所収)を書いた。実際、その本編が前篇と後篇に分かれていて、全部合わせて文庫にして六巻(岩波文庫の牛島信明訳では)にもなる長さだということもあまり知られていないのではないだろうか。誰もがドン・キホーテやサンチョ・パンサ、ロシナンテという名前は知っているし、風車に突っこんでいく愚かな騎士の物語であることも非常に有名である。だが、その全体像を皆が知っているかと言えば疑問が起こる。ドン・キホーテが騎士道物語の読み過ぎで頭がいかれた男であり、自らも騎士となるため旅に出るという序盤の展開ですら、明確に知らないのではないか。少なくとも私は知らなかった。その為、ドン・キホーテの序盤を読んだときにとても驚いたのだ。虚構の様式を現実に投影するというねじれた関係に興味を引かれたためだ。そして、作品全体が騎士道物語というジャンルに対する模倣と批評によって書かれていることがすぐに明らかになる。ドン・キホーテは自らが読んだ騎士道物語を基準として、それをなぞるように、虚構の空間を現実に現出させんとして行動する。この小説は大変面白い小説である。「古典」として評価されていて、なんだか距離が遠いように思われても、そんなことはない。牛島氏(つい先頃亡くなられたが)の翻訳は平明であり、作中のほとんどを占める饒舌な台詞も調子よく、全六巻を苦もなく読み通すことができた。私は始め、前篇の三冊だけを購入し、面白ければ続きを買えばいいとたかをくくっていたら、見事に後日前篇を読み終える前に後篇を揃えようとして本屋を渡り歩く羽目になった。ここでは、自分が読んでいくうちに気づいたことがらのいくつかを覚え書きとしてまとめてみる。

   一 「虚構化される現実」あるいは関係性のグロテスクな変奏

・村の郷士の変身
 ある名も知れない村の郷士は、騎士道物語ばかりを読みふけり、田畑を売り払ってまでその種の本を渉猟した挙げ句、気が触れてしまう。ひとまずこれがドン・キホーテ・デ・ラマンチャというキャラクタの素性である。彼は騎士道物語を何よりも愛好し、その騎士の実在を信じたために狂気に侵されてゆくのである。彼にとっての世界の前提が、その時点で変更されている。騎士は実在し、魔法使いは勇敢な騎士の邪魔をし、騎士には愛を捧げるべき姫がいて、城では騎士を歓待するという騎士道物語の約束事がドン・キホーテにとってはあり得べきことになる。

・フィクションの模倣
 つまり、彼の「狂気」はいわばフィクションのなかに世界を溶け込ませようとするものといえる。または、フィクションを世界に投影しようとしている。ドン・キホーテは「自分が考え、目にし、想像することのすべてが、かつて愛読した騎士道物語のなかで語られていることからなり、すべてが同じように生起するという妄想」に駆られている。妄想、狂気などと呼ばれる彼のその性質はしかし、かなり自覚的に行われている部分がある。彼は基本的に現実を騎士道物語だと「見なし」、旅籠を城だと「思いこみ」、娼婦を貴婦人と呼ぶ気の狂った人間として描かれている。ドン・キホーテはそのようにして現実の世界を虚構化していく。しかし、妄想に犯されたその時から彼は騎士だったわけではない。彼がまず行ったのは、自らの名にドンの敬称を付け、故郷であるラマンチャという地名を名前に含めることで自らの本名を捏造することだった。そうして出来上がったドン・キホーテ・デ・ラマンチャという名をそれ以降名乗り、アロンソ・キハーノという本名はそれ以降ほとんど出てこない。また騎士には恋慕すべき姫君が必要だとの騎士道物語の基準に従い、数度見たことのあるだけのトボーソ村の女性にドゥルシネーア・デル・トボーソという名をつけて勝手に彼女を姫だと言い張る。ここで彼は意識的な手続きによって自らを騎士に近づけている。それは彼が変更したのは世界の前提であって、自らの出自などにはその狂気は及んでいなかったことによる。彼が騎士になるのは、旅籠の主人に自らの叙任式を執り行うように頼み込み、気の触れた男に対しては従順になるのが良策だと考えた主人によってである。この叙任式が正統な式ではないことは明白で、彼はそのような虚偽と愚弄の儀式により騎士となる。そのようにして、ドン・キホーテは現実のなかで虚構であるところの騎士道物語を模倣し続け、現実を虚構の模倣と見なすような狂気によって動いている。「ドン・キホーテ」の筋を引っ張っていくのはこの、現実と狂気の醸し出す滑稽味にあり、ここから喜劇性が発生する。

・サンチョの変質
 一度旅に出、従士の必要性を感じたドン・キホーテは村に帰りサンチョ・パンサを同行の士として連れて行くことにする。サンチョは正直者であるが愚か者であるとされ、ドン・キホーテが皇帝になった暁には領土をくれてやるという彼の口約束に乗せられて旅に出る。サンチョは基本的にドン・キホーテの狂気に感染してはおらず、はっきりとした意識を保ち、ドン・キホーテの突っ込み役として機能する。前篇においてはそのボケと突っ込みの関係が笑いを引き起こす。が、領土で楽して暮らすという約束を信じてしまっているサンチョは部分的にドン・キホーテの狂気に足を突っこんでいる。その為、正気である他の人々からサンチョも狂気に浸されていると思われるのである。サンチョはそのようにして、一般人とドン・キホーテの狂気との中間に位置する。旅のあいだにはドン・キホーテとサンチョの噛み合わないことの多い対話の相手となることで、両者を相対化する視点が形成される。典型的な凸凹コンビである。それがだんだんサンチョもドン・キホーテの狂気の側にすり寄っていく。自分の屈辱的な体験や、都合合わせで捏造した事柄を、ドン・キホーテのいう魔法の仕業にしてしまったり、ドン・キホーテの強弁に言いくるめられてしまう。そうして彼ら二人は騎士道を貫く狂人と領土を貰えると信じ切っている即物的な俗物のコンビという、一般人からかけ離れた妄想のなかに身を沈めていくことになる。

 「サンチョよ」(中略)「どうやらお前は、わしよりも正気というわけではないらしいな。」(岩波文庫「ドン・キホーテ前篇(二)123頁」)

・演技によって現れる虚構空間
 「ドン・キホーテ」に侵入してくる狂気、騎士道物語という虚構は、作品のなかの現実のリアリティを浸食しかねない部分がある。普段は相当な知識と教養を持ち、皆が聞き込んでしまうような説教をいくらでも発することの出来るドン・キホーテだが、こと話題が騎士に及ぶと途端に皆の理解を超えてしまう。後篇でより強調される彼の正気と狂気のこの交錯。ドン・キホーテにとっての現実も妄想一辺倒とは言い難い部分がある。ドン・キホーテの狂気は騎士道物語のすべてを事実であると思い込んでいるところに端を発するのだが、彼は騎士道物語を現在に復活させようと言う意図も持っている。後者の意図は、厳しい現実認識のもとにはじめて現れうる認識である。彼は過去に栄華を誇った騎士道を今の腐敗した世に復活させようという強い意志に駆られている。そのような現実的な認識と妄想が共存しているために、その現実的な認識を共有する一般人にとってドン・キホーテの行動は不可解な、異様なものに映る。しかしサンチョ以外にはその妄想、狂気は共有されることはなく、逆に彼の狂気を理解する一般人によって、ドン・キホーテにとって都合のいい現実が捏造される場面がある。前篇の後半部分はドン・キホーテと出会う人々が彼を治療するために、とある王国の王女とその連れが国の巨人を退治してもらいたいと贋の依頼を捏造して、彼を故郷のラ・マンチャに連れて行こうとする。この策略にドン・キホーテはまんまと騙され、牛車の檻のなかに閉じこめられてしまう。そこにはドン・キホーテと、彼の狂気につき合い演技を続ける人々とのあいだに共犯関係が生まれ、ドン・キホーテの望む虚構化された現実が現れる。大勢がドン・キホーテの狂気につき合い、皆が揃って嘘の演技を続ける喜劇的な場面のなかで、ひとりサンチョだけは騙されず、ドン・キホーテに演技をばらすのだが、ドン・キホーテが信じ切っているために説得することはできない。前篇の物語はそうして騙して故郷にドン・キホーテを連れ戻すことに成功したが、もう一度ドン・キホーテが旅立つだろうというところで終わっている。
 なお、「ドン・キホーテ」の有名な作中作「愚かな物好きの話」は自分の妻の貞淑を確かめたいという友の願いによって、妻を誘惑するという演技を行うことに始まっている。そして話は演技に演技を重ねた演劇的空間を提示してくることになる。一件無関係に見える作中作も、そのような形で作中のことがらに関係している。セルバンテスの演技するということへの執着(それは虚構を描くということとパラレルな関係にあるだろう)がここに現れているとも思う。
 そう言えば、「ドン・キホーテ」の正式なタイトルを書き忘れていた。前篇の正式なタイトルは「機知に富んだ郷士ドン・キホーテ・デ・ラマンチャ」であり、後篇の正式なタイトルは「機知に富んだ騎士ドン・キホーテ・デ・ラマンチャ」である。

・虚構=現実

 「これらのからくりのいっさいが実に真に迫っていて、実に巧みに演じられたものだから、その芝居と現実のあいだにほとんど違和感が生じなかったのである。」(岩波文庫「ドン・キホーテ後篇(三)352頁」)

 後篇においてはその虚構化された現実という奇妙な空間がより強烈に現れてくる。まず序盤でドン・キホーテが知るのは、彼の物語が出版されており、非常な人気を博しているという驚くべき事実である。「ドン・キホーテ」の「前篇」が、つまりついさっき読者が読み終わったまさにその作品が、後篇においては物語のなかに溶け込んでおり、物語の前提となっている。ドン・キホーテの物語という「虚構」が実際に本となり、多くの人が読んでいるという「現実」が、もう一度「後篇」という「虚構」のなかに取り込まれている。「虚構」と「現実」という概念は以上のように「ドン・キホーテ」のなかでは、二重三重ではすまされないほどグロテスクにねじれていくのである。後篇はまさにそのモチーフによって貫かれている作品である。
 後篇では、ドン・キホーテのみの妄想であった騎士道物語の虚構空間(以降、この語はドン・キホーテが騎士であるという妄想が現実として成立している空間を指す)が、最大限に展開される。後篇の中盤から現れる公爵夫妻は、「ドン・キホーテ前篇」を読んでおり、彼の狂気をからかって楽しもうとしている。ドン・キホーテと出会った夫妻は彼を城に招待し、上にも置かぬ歓待を繰り広げるのだが、その時、そこには騎士道物語の虚構空間が確かに現れている。

 「彼はその日はじめて、自分が空想上の騎士ではなく正真正銘の騎士であることを認め、確信するに至った。」(岩波文庫「ドン・キホーテ後篇(二)108頁」)

 上記の部分では彼の狂気の原因とされる、「自らが騎士であるという妄想」が、皆の演技によってそこに現実として確かに現れている。さらにはサンチョが公爵夫妻のいたずらの計らいにより実際に島の領主として就任する事態まで起こるのである。ここにはまた後篇での新たな展開、ドン・キホーテの正気と狂気の交錯とパラレルになっている。演技によって現出するその虚構空間はしかし、ある現実性を持ち始めるし(島の領主として実際に裁判や法律の制定を行うサンチョ)、それが演技という条件によって限定されているはずのその空間を抜け出しもする(サンチョの妻に届けられる領主からの手紙)のである。正気=現実と狂気=虚構の関係がねじれ続けた挙げ句に境目が溶けだして、前篇でドン・キホーテたちが幻視していた世界が現れ、さらなる暴走を起こしていく後篇の中盤はそれゆえ、作中最も危険な部分としてその面白さを提供してくれる。

 「自分ひとりで勝手に狂人になり、自分の狂気のなかに閉じこもっている分にゃ、それほど悪いことでもなかろうさ。ところが、お前さんの狂気には、お前さんと接し、付き合う者たちをも巻きこんで、阿呆にしてしまうという、変な力があるんだ」(岩波文庫「ドン・キホーテ後篇(三)231頁」)

 後篇には、演技のなかで作られた空間のなかで彼が知らずにからかいのネタにされていることや、騎士らしく振る舞おうとするさまをを嘲笑することなど、ドン・キホーテの行動をまわりから見て笑っている人々がいる。演劇空間として現れた虚構空間でのドン・キホーテたちの振る舞いを愉楽と共に享受している演技者たちには、前篇を読んでいる読者を重ね合わせることも可能だろう。ここでは前篇と読者の関係そのものも取り込まれている可能性がある。

・パロディ狂想曲
 虚構と現実の境目がどんどん変形されていくという面白さが「ドン・キホーテ」には満ちている。しかし、このグロテスクな展開を駆動しているものはいったい何か。それはおそらくパロディという、模倣と批評の自覚的な試み、後藤明生の式に従うところの小説の定義が有効な説明になるのではないか。

   二 「メタフィクション」もしくは文学史に最も遅れて現れたジャンル

・パロディによって支えられた作品構造
 この作品を一読してわかること、その序文を見てもわかることは書くことに対する自覚が非常に強くセルバンテスに働いていることだろう。序文には序文をどのように書けばいいのかという問いとともに、当時の序文を皮肉り、デタラメな詩が延々と続き、最後には馬ロシナンテと騎士道物語に出てくる馬との対話が置かれている。執拗なパロディの応酬がすでにこの時点で始まっている。
 物語のプロット自体はもっと強烈なパロディである。ドン・キホーテは騎士道物語の読み過ぎで気が狂った男として描かれている(これ自体がすでに読者への諷刺とも言える)。そして彼は、騎士道物語を現実に実行しするために、あらゆる騎士道物語から何をすべきかを学び、模倣していくのである。前篇の序盤(一章から六章)それ自体が独立している一篇の中篇であったと言われているが、その部分を支えているのは、騎士道物語を模倣するドン・キホーテが現実に起こす珍妙な出来事の喜劇性である。この部分はその当時に流布していた騎士道物語のパロディという方法によって成立している。その内実は、騎士道物語を模倣するドン・キホーテと、その妄想の邪魔をし嘲笑する現実の対立にある。模倣と批評とはここではそういうことになる。
 それを考えつつ作品を眺め返してみると、作品全篇がそのようなパロディ精神によって貫かれていることが読みとれる。序文をパロディにした序文、前篇序盤は騎士道物語のパロディ、後篇は前篇それ自体をもパロディとして取り込むのみならず前篇の小説構造それ自体(前述「虚構=現実」の節参照)をも取り込んでいるし、さらには前篇の「続篇」としてアベリャネーダなる者の手によって描かれた贋作さえも作中に取り込み、贋作の登場人物(贋のドン・キホーテに出会ったという人物)を自作に登場させるというアクロバティックな試みすら行われている。
 「ドン・キホーテ」の構造はそのような不断のパロディの意識、既存のものを貪欲に取り込みつつも、それを批評的に見ることを忘れないセルバンテスの目によって支えられていると言える。そしてその批判の目は自作の正統性そのものへも向けられている。というのは、「ドン・キホーテ」という作品の前後篇ともに、セルバンテスが書いたものではなく、モーロ人と呼ばれる当時の外国人で宗教を異にする、どちらかというと嫌われ気味の人々のひとりであるシデ・ハメーテ・ベネンヘーリという者によって書かれたものを、翻訳しているだけだとされているからである。セルバンテスはそれを偶然発見したというプロセスを前篇の序盤で挿入し作品を中断させたり(勝敗を決する瞬間という最も劇的な場所で)、さまざまな場所で記述を省略した旨を告知したり、これが翻訳しているものだということを何度もほのめかしたり、後篇ではとくに「作者の語るところでは」という枕詞を章の頭に挿入することを忘れない。セルバンテスが自身をこの作品の継父であると言うように、これは継子といういかがわしいテクストなのである。そのようにして、セルバンテスはいつも自らの作品に対する批評精神を忘れない。自身を批判的に見る目が前章で扱ったような関係のグロテスクな変形の契機として働いているのではないだろうか。

 「その名に《シデ》という敬称が冠せられているところからして著者はモーロ人である、そしてモーロ人からはいかなる真実をも期待することはできない、なんとなれば、彼らはいずれも嘘つきで、いかさま師で、策士だからである」(岩波文庫「ドン・キホーテ後篇(一)58頁」)

・メタフィクションの試み
 メタフィクションという概念を簡潔に説明することはむずかしい。おおよそフィクションについてのフィクション、小説の小説、自己言及、作中作、大きな脱線、書くということについて書くことや、その他さまざまなものがいわゆる「メタフィクション」と呼ばれている。これらをどう説明するか難儀して
いたが、ネット上で検索したら簡潔に要約したものが見つかったので引用及びリンクしておく。

 「小説の制度性=虚構性を取り扱うような虚構はメタフィクションと呼ばれる。たとえば、虚構世界を今まさに構築している現実世界の「作者」が虚構世界に登場する場合、区別しつつ同一視されている虚構/事実の境界線が浮き彫りにされ、無効化されるだろう。その内部で完結しているはずのテクストに他のテクストが浸食してくる場合(すなわちパロディ作品の場合)、「独立に完結している」という虚構の制度性が暴かれるだろう。」サトウタダヒコ
http://www.orange-books.jp/bookguide/028.html

 要約すればつまり、虚構の虚構性を露呈する手法及びその作品などをメタフィクションと呼ぶようだ。とすれば、「ドン・キホーテ」はまさにメタフィクションと呼びうる作品ではないだろうか。以下、「ドン・キホーテ」において用いられている手法をいくつか挙げてみる。
 前篇においてはドン・キホーテの妄想が打ち砕かれたり、逆に勝ってしまったり、その妄想が破られるか否かのサスペンスと、サンチョとドン・キホーテのコンビによる対話の喜劇性によって作品の主軸は支えられていた。もう一つ、作中登場する人物が揃いも揃って自らの経歴、過去、因縁を饒舌に語るという脱線も大きな要素を占めている。そして前篇の後半には筋の展開とはまったく関係ない作中作が出現する。一篇の短篇小説としてきっちりと完結しているその作品は、旅籠に置き忘れられたカバンのなかに入っていたもので、登場人物がそれを朗読するという形で「ドン・キホーテ」に挟み込まれることになる。このような脱線は一見奇妙なものに見えるが、もともと「ドン・キホーテ」という作品自体がほとんど脱線の連続で出来ているともいえる。ドン・キホーテが狂気に駆られ旅に出るという以外、はっきりとした目的を持たず、放浪しているだけの彼のもとにさまざまな人物が現れ、それぞれの身の上話を語ることで作品の大部分を占めているこの作品にあっては、脱線それ自体が作品の主題ともなっているのである。最後には大団円を迎えるさまざまなサブストーリーは本筋にはほとんど関係せず、その本筋もドン・キホーテが村を出て帰ってくる以外、話の展開はない。
 もっと大きなメタ的な試みは、後篇に見られる。後篇では「「前篇」が騎士道物語に依拠していたように、「後篇」は「前篇」を下敷きにしている」と後篇の訳者解説にあるとおり、後篇には前篇そのものが印刷され、出回っていることになっている。作中人物もその素早い出版と二人だけの会話に至るまで克明に書かれていることに驚くのだが、それは魔法使いか賢者のせいと言うことで一応納得する。しかし、ドン・キホーテたちの冒険と時間をおかず出版された前篇は、いったいどうやって書かれたのか。確かにベネンヘーリというモーロ人が書いたことにはなっているのだが、セルバンテス自身が翻訳したことになっている「ドン・キホーテ」が出回っていると言うことは、どうしたってセルバンテス自身が後篇のなかに出現しているとしか考えられない。そこの辺りは記述になく、魔法使いが書いたのだというドン・キホーテたちの言に従うしかないのだが、ではベネンヘーリが魔法使いと言うことなのだろうか。そこは書かれていない。
 また、後篇終盤にはセルバンテスが後篇執筆中に突如現れた贋作についての言及がある。後篇のみならず、その当時のほとんど最新の時事問題、ことに自作の前篇の贋作について言及するとはただごとでない。さらに、ドン・キホーテたちは、贋作のなかのドン・キホーテたちがサラゴサへ向かったと知り(また、ドン・キホーテは贋作をいろいろ具体的な事例を挙げて批判している)、自らが本物であることを証明しようとしてまったく違う場所へ赴くことを決める。さらには前述のように、贋作のドン・キホーテに出会ったという贋作のなかの登場人物に対して、「我々が本物である」ことを誓願させているのである。「贋作」という虚構のなかにあったはずの人物が、真作である「後篇」のなかに、「実在」の人物として現れるという、ねじれ、反転をはらんだ関係の突端がここにある。
 虚構性それ自体をも弄ぶ、パロディ精神の横溢。それが「ドン・キホーテ」にはあると考えるのだが、それがまた前章で扱った虚構と現実の関係にも繋がっていることは明白だろう。
 前章で引用した二つの文章、また、それ以外にも本文を読むときにいつも頭をよぎっていたのは、ドン・キホーテの妄想とはどこまで狂気でどこまで意識的なものだったのかということである。再度引用するが、ここにある記述は、彼の狂気が非常に不安定な者であることを示唆している。

 「彼はその日はじめて、自分が空想上の騎士ではなく正真正銘の騎士であることを認め、確信するに至った。」(岩波文庫「ドン・キホーテ後篇(二)108頁」)

 「サンチョよ」(中略)「どうやらお前は、わしよりも正気というわけではないらしいな。」(岩波文庫「ドン・キホーテ前篇(二)123頁」)

 自らを狂気であると認識している狂気とは一体いかなるものか。夢を夢であると認めつつ、それを見ている明晰夢のようなものなのだろうか。ここに、セルバンテスの虚構に対する意識を見るのは果たして可能だろうか。世界のなかに虚構を生み出すという点では、セルバンテスとドン・キホーテのあいだには言ってみれば違いはない。自らそれを嘘であると認識しつつ嘘を本物のように語り/騙り続ける、その行為がドン・キホーテという形象をえて、自らを相対化する視点のもとに生み出された作品、それを「ドン・キホーテ」だと考えることもできるだろう。

・喜劇=分裂=もう一つの目
 「ドン・キホーテ」の喜劇、それはドン・キホーテの妄想が場違いに現実に現れてきているからである。しかし、それが喜劇となるにはそれが相対的な条件の下に置かれているという条件を必要とする。ドン・キホーテの妄想、つまり現代に騎士道をよみがえらせようと言う所作が喜劇的なのは、それが現実の認識を失っている部分にある。現実にはあり得ず、虚構のなかにしかない騎士道を現実の行為として実践しようとすることは、必然的に現実の厳しい嘲笑に遭う。しかし、その現実も自身の安全を確信することはできない。喜劇である。現実と狂気がそれぞれ相克し、相対的な位置にあり、互いに互いを嘲笑する、特異な位置関係。現実と虚構はそれぞれ、セルバンテスにとっての現代と、騎士道物語との関係とパラレルな関係にある。またそれはドン・キホーテの現実認識の正確さと狂気の妄想、サンチョ・パンサとドン・キホーテの対話など作中のさまざまな要素に適用することもできる。「ドン・キホーテ」にはこのような分裂の関係が氾濫しており、喜劇性を支えているとともに、その作品の全体的構造を決定してもいる。作品の構造は、前述のように現実と狂気の対立もしくはそのような関係の多様な変奏にあるからだ。そしてこの関係を前章の最後で一度召喚したもののいまだ現れてこない後藤明生によって解説してもらおう。武田泰淳の「司馬遷」を読んだ後のことを後藤は以下のように書いている。

 「それまで円形(一つの中心)だとばかり思い込んでいたこの世界が、実は楕円形(二つの中心)であることを知った。すなわち、相対し互いに否定し合う他者同士が、同時に共存しているということ、それが他ならぬこのわれわれの生きている世界なのだ、ということである」(白地社「小説は何処から来たか」273頁)

 そしてそれが「わたしの文学の原理になった」と後藤は書く。またそこから以下のことも導かれる。

 「楕円の目は当然二つであり、その視線は垂直ではなくて水平となる。また一方的ではなくて可逆的であり、それは、ドン・キホーテとサンチョ・パンサという主従関係においても、決して例外ではない。二人の視線は相互影響的であるばかりでなく、その主従関係は、時として逆転さえ可能である。」(白地社「小説は何処から来たか」262頁)

 ドン・キホーテとサンチョ・パンサの関係は確かに相対的で、両者が同一平面上にあるという印象を受ける。後篇になってサンチョが連発する諺の洪水のなかで、ドン・キホーテ自身も諺を繰り出し始めるのだし、なによりその対話の関係は、狂気のなかにあるドン・キホーテと、それに突っ込みをいれるサンチョとして捉えられる。その、狂気と正気の関係というのがこの作品のなかでは縦の絶対的上下関係ではなく、互いに入れ替わる平面上の関係であることは前述の通りである。
 「ドン・キホーテ」という作品は、楕円の関係で構成されている。狂気と正気、現実と虚構、ドン・キホーテとサンチョ・パンサ、演技と非演技、贋作と真作などなど、さまざまである。そのどれもが、互いを浸食し合う関係のなかにあり、どれ一つとしてその位置に安住できる者はいない。それが「ドン・キホーテ」の作品の構造であり、喜劇性の本質である。
 セルバンテスの目は、その両者を共に捉えている。そのような関係を構築することが可能なのは、その分裂を分裂として、楕円の世界として表現しようという方法にも関わってくる。その該博な知識、詳細な引用の連続など、セルバンテスは明らかに騎士道物語に対して没入した人間だろうと思われる。伝記的事実は確認していないので、好悪は不明としても、騎士道物語にかなり踏み込んでいることは確かだ。そして、その騎士道物語に対する批判の目もまた重要なものだったのだろう。騎士道物語という狂気と、機知に富んだ教養のもたらす覚醒と、その分裂が分裂のまま現れたのがドン・キホーテという人物でもあり、作品それ自体でもある。そしてその関係をいつも批判的に吟味する、反転やパロディの連続は、自分自身を相対化していく果てしない運動でもある。自作を取り込み、自らの作品をもその旺盛なパロディ精神のもとに取り込むその運動は、自身を裁断し批判し、再検討する働きを含むからだ。そして、書くことを自ら見つめるもう一つの目の存在が確かに立ち現れてくる。二つの目に支えられた喜劇という構造を、「ドン・キホーテ」のなかに見ることができるだろうと思う。
 ここまで来て私が考えたのはこういうことだ。メタフィクションと呼ばれる形式手法は今世紀の概念だが、「ドン・キホーテ」には明らかにその萌芽が見られる。過去の小説を今の概念によって読み替えているのかも知れないとも思ったが、考えを逆にしてみると、つまり、小説とはもともとメタフィクション=パロディの方法意識によって生まれたのではないか、騎士道物語をパロディにした「ドン・キホーテ」はそれゆえに近代小説の祖となったのだし、自らを批判する目を排除せずにそのまま分裂の形式として表現することで、近代小説は生まれたのではないかと言うことだ。そしてこの考えは私のなかで後藤明生の小説論とオーバーラップしていった。

   三 「小説は何処から来たか」そして過去としての未来

・後書きとして
 後藤明生は「ドン・キホーテ」の書かれた1605(後篇は1615)年を「近代小説元年」と呼んでいる。「ドン・キホーテ」という作品がそれほど文学史のなかで重要視されている理由は私にはまだよく分からない。自身の読後の感想と、文学史のなかでどのように評価されるかは別問題だろう。後藤明生は、十七世紀のケプラー説が生んだ、世界は太陽を中心とした円=一つの中心をもった世界ではないという発見を、ラッセルの「西洋哲学史」から引きつつ、それが「近代」の成立の条件だとしている。とすれば、「ドン・キホーテ」が「近代世界のモデル」とか呼ばれているのも理解できる。
 それは置くとして、後藤明生の「小説は何処から来たか」は面白い本だと思う。私は偶然にも池袋のジュンク堂で、もはや品切れとなっているこの本を見つけたが、この文章を書きながら折に触れ拾い読みをしてきた。本自体は後藤明生のこれまでに書いた小説論の寄せ集め=集大成なのだが、後藤明生のいつものエッセイの書き方で書かれ、それぞれの書かれた時もバラバラなこの切り張り細工のような本がそれでもある統一感を持っているのは、彼の方法が一貫しているせいだろう。実際、いかにも繰り返しが多く、書物としての再構成さえ行われていないこの本は、個々の文章はまったくバラバラで、内容の重複もある。しかし、小説に対する問題意識、方法論がそれに一貫性を与え、どこからでも読めて、どこまででも読める本になっていると思う。
 後藤明生はこの本のなかで宇野浩二、牧野信一、後藤明生、日本近代の作家たち、「笑いの虫」という線によって繋ごうとしている。私も、この文章を書きながら頭に浮かんだいくつかの作品を挙げてみる。
 ボルヘスの「円環の廃墟」は楕円の関係や、円という往還の運動などさまざまに以上の文章と交錯する部分を持っている。「おのれもまた幻にすぎないと、他者がおのれを夢みている」末尾のこの部分には、夢とリアルの交錯する境目を溶解させる。また、テキストからテキストを生み出す方法論のなかで、「ドン・キホーテ」もその作品の素材にしている。少し読み返して思ったのだが、ボルヘスにつきまとう難解さというイメージは、実は鼓直の訳のせいではないかという気がしたが、どうだろうか。
 横光利一の「機械」もまた後藤明生自身が触れているが、中心の絶え間ない移動と、関係の反転を繰り返すなかで自意識がバラバラと解体していく奇妙な作品世界を形成している。後藤は「機械」にしか触れないが、おそらく同じ企図を持って書かれた短篇が私の知る限り後二つある。「鳥」と「時間」である。前者は恋愛関係が三角四角と反転と変形を繰り返していくうちにどうにもならなくなっていく話だったと記憶している。「時間」もまた関係の反転と変形を繰り返す話である。三作がともに収録されている本はないと思うが、「機械」は岩波と新潮と講談社文芸文庫の横光の短篇集に、「鳥」は講談社文芸文庫に、「時間」は新潮の短篇集にそれぞれ入っていたが、今でも手にはいるかは微妙なところだと思う。
 ここまで来て、あまりうまく繋げないので、やめにする。後藤明生の本は小説とは何かを考える際に非常に原理的な部分について書かれているので、そういうのに興味のある人は是非読まれることを勧めたい。ただ、もうすでに手に入らないのだが。でなければ、講談社現代新書から出ている「小説」という小説論なら手にはいるだろうと思う。後藤明生の小説に対する問題意識はとても有益であると思うし、面白い。つらつら書いてきた「ドン・キホーテ」についての文章もほとんど後藤明生的な図式で読んだだけである。いや、「ドン・キホーテ」を読むなかで後藤明生を思い出し、後藤明生の小説論を読みながら「ドン・キホーテ」について考えていたといった方が正しい。頭のなかでそれこそその二つがぐるぐる回っている時に書いたのが以上の文章である。
 後書きじみた文章を延々書き続けるのも飽きたので、最後に後藤明生の小説論の核心部分を引用する。前章で私が思い起こした後藤明生の小説論である。

 「小説は何処へ行くか、と問われるときは、小説の危機か衰弱か、相場はだいたい決まっている。そしてその問いは、小説は何処から来たか、という問いとほぼ同じである。衰弱した小説とは、小説は何処から来たか、というジャンルとしての自己反省を忘れた小説だからである。また、混血=分裂による超ジャンル性すなわち「いかがわしさ」の自意識を忘れた小説だからである。つまり、小説の未来は小説の過去にある。」(白地社「小説は何処から来たか」22頁)

横田裕子 久々に 2003年02月25日(火)11時19分16秒

新作です。自分とこのHPにもアップしてあるやつなんですが訪問者数が少ないんでこのままにしとくのがもったいなくて。あ、HPはでこの検索エンジンにも登録してないので検索してもでてきません。

飲み会・・・オールでもいいんだけどこれをやると翌日の早朝バイトに直行・・・。

奥野美和 あのときの しょうがない子は 別れれば 見習うところ いくつもあった 2003年02月13日(木)11時22分27秒
▼掲示板:杉井武作 23A「おれのうんこフルコースあついうちにたべろ」 への応答

が、いちばんすきです。
「しょうがない子」と、そういえば男の子に言われたことが
よくあったっけ。その時は、そうかなあと思ってたけど、
今は言われても嬉しくないな。本当に駄目な子、とか、
しょうがないなあ、なんて言われて口のまわりを拭いてもらったり、
して、いた、なあ。でも、そんなの、もういいや。


では、杉作君の作品について。

「うんことか おしっこだとか ちんことか もっといいたい ハタチになれば」
「誉めてくれ  俺を認めて もっとスゴイ 誉められるほど もっと誉めてよ」

この2つが杉作君の作品、全体をよく表わしていると思います。でもさ、うんことか、
おしっことか、日常の無駄話としては、最高に私も好きなネタなんだけども、
「短歌」になると、恥ずかしい気持ちになっちゃうのはなんでだろう?
その恥ずかしいっていうのは、そんな下品なこと口に出せない!とかじゃなくて、
あえて短歌で、うんこ?というか。うんこだよ、だって。うんこ。
みたいな、気持ちになる。うんこで5 7 5 7 7!?

杉作君は、「うんこ」にコダワリがあるのかなあ。

うんこ話で大好きなのが電気グル−ヴの『メロン牧場 花嫁は死神』。
あれは、くだらないなあ!ほんっと馬鹿だなあ!と思って、
こっちも、うんこの話に、うんこなりの姿勢で読める、かなり愉快な本なので
お薦めです。大好きな本!

そして、今回は「対他的うんこ」「超越的うんこ」「思春期うんこ」「うんこヴィジュアル系」「うんこ風刺系」「ただのうんこ」にわかれているんだよね。
じゃあ、この6個に分けて、私も感想を書きます。


「対他的うんこ」
1 打ち解ける 壁壊す音 紛れ込む ピンクの糸が 切れてくノイズ

2 わからない もてあましてる 変態性 隠す境界 さとしておくれ

3 ぼくキミと そんなに親しかったっけ? 勝手に心 許すな重い

4 誉めてくれ  俺を認めて もっとスゴイ 誉められるほど もっと誉めてよ

1は、性行為のシーンでしょうか。なんか、どうしても杉作くんの性の描写は、
どちらかの力が大きい、とか、やる、やられる、みたいな力関係が浮ぶなあ。
「打ち解ける」と言いつつ、打ち解ける感覚がない。むしろ、「打ち解かしてやる」
「打ち解かしてよ、おねがい」って感じがします。これは、2にも繋がるかな。
「さとしておくれ」と言うのが、面白い。でも、変態性なんて、さとっちゃったら、
つまらないかも。わからなくって、もてあましてるから楽しいのでは。
わたしも、このわからない感じ、もてあましてる感じがとても好きです。

3 ショック!これは、言われたら、もう、泣いちゃうよ。とっても、
ショック!これだけ、ショックを受けたと言うことは、作品として良かったんだろうけど、
ショック!

4 さっきも書いたけど、これは、杉作君が良く表れていると思います。ホメテ!ミトメテ!って、確かに褒められたいし、認められたいよ。でも、誰に向かっての句なんだろう。余計なお世話だけど気になる。ちなみに私は、本当に好きな子には自分がエライ事したな、と思うと「褒めてくれ!」と言います。(男女問わず!親にも!兄にも!

:::たまにはさ 褒めてくれてもいいのにな あたまなでてよ イイコになるよ:::

「超越的うんこ」
さっきから そのことばかり 気にしてる 知らなきゃよかった ヒゲ剃り残し

なんとなく、ああ、わかるなあと思う。女の子でも、そういうことはありうるのでね。
ヒゲじゃなくても、タイツのデンセンとか。あと、わからんちんな洋服着てきちゃった時とか、
失敗したなあってそのことばっかり考えちゃう。あと、髪がはねてたり。鼻かみ過ぎて、
鼻の下の皮がむけたり。眉毛書くの忘れたり。

:::お座敷で気付いちゃったよ靴下の穴かくすため正座でいます:::

「思春期うんこ」

1 ぼろ猫が いつのまにやら なついてる また捨てなきゃな めんどくさいな

2 前よりも ごく冷静に この関係 位置付けられる いいことだよね?

3 あたしたち そんなヘンタイ? 深い傷 埋め合う儀式 しているだけよ

認められたいのに、捨てたり重いと感じたりするよね。杉作君の性格や、思想が全て、
この短歌に反映しているか、わからないし、書いてあること=杉作君なんて強引には
思わないようにするけれど、誰かを傷づけることによって自分の存在が認められるような
気がすることってありますか?

:::君のこと傷づけたいよそうしたら僕の存在気付いてくれる?:::

2は、羨ましくて。いいことかどうかわからないけど、人と人との関係を冷静に見られるって羨ましい。とくに恋愛に関しては。わたしは、いつも冷静じゃない。情熱だ。間がいちばんか!
3は、ヘンタイって言葉に引っかかって。ヘンタイかあ。ヘンタイって何でしょう?


「うんこヴィジュアル系」
貴方へと 溺れる深み この刃 押し込めてゆく 殺して気付く

指先に 触れては痛む あの人の 死顔白く 染まって消えた

君埋める 雪さえ溶けて 逝くけれど 絶えた笑顔は ココロを滑る

あんまり現実味が無くて、難しい。
「死」がテーマですか?わたしは、最近宇野千代の「私死ぬ気がしないんですよ」
という言葉にびっくりしました。宇野千代さんは、本当に可愛らしく、
タフですがすがしい。
私はまだ、「死」は、わからない。
感想も書けないや。ごめんなさい。

「うんこ風刺系」

愉快犯 人の心を また荒らす 「理屈」という剣 振りまわしては

愉快犯と理屈の結びつきが良くわかりませんでした。ちょっと、これも、
むずかしい。

「ただのうんこ」
1 本日の 女(タレ)とのプレイ なんかより 昨日のビデオの ほうがいいじゃん!

女ってタレって読むんですね!しらなかった!

::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
最近、短歌や俳句などを意識して読む様にしていたので、
杉作君の作品も、丁寧に読もうと思って感想書かせてもらいました。
こうやって流れを作って作品を提出するのは大事だと思いました。
見習います。
でも、しつこいけど、うんこっていって、
俺の書くものはうんこ級!みたいなのは、つまらないと思う。
うんこって言っておいて、中身はスゴイ!とかの方が、より
うんこが引き立つのでは、と思いました。うんこに甘えちゃ駄目だ!

でも、とっても面白かったです。私も頑張ります。











杉井武作 飲み会企画(重要) 2003年02月11日(火)21時37分04秒

「物語の作法」で飲み会を企画します。

日程 : 2/21(金)・22(土)・23(日)・28(金)・3/1(土)・2(日)のいずれか
会場 : 相模大野の予定

みなさん18日(火)までに、以下のことを杉作までメールでお知らせください。
アドレスはこれです→ mind_joker@hotmail.com

・出欠

参加希望の方は
・携帯の番号とアドレス
・上記の日程内でダメな日
・オール(夜通し)参加OKかどうか
・その他希望などあれば

参加しない人も確認のためメールください。
それでは。

杉井武作 滝 夏海「あおいろ」感想 2003年02月11日(火)21時36分50秒
▼掲示板:滝 夏海 12A「あおいろ」 への応答

こちらは、意味性とつながりによってはっとさせられるほど美しい作品になっていると思いました。発想の勝利ではないでしょうか。滝さんの作品は、プロットを構築させてゆくというよりも、頭のなかでイメージが浮かんだら、そのまま具体化させていく書き方をしているように感じます。「少ない言葉で完成された作品」には毎回感心しています。面白いイメージをいっぱい持っているんですね。

杉井武作 水落麻理「月の虫」感想 2003年02月11日(火)21時36分39秒
▼掲示板:6A 月の虫 への応答

僕、水落さんの作品はどれも好きなんです。人を惹き込む独特の空気感があると思います。穏やかな描写が切ない心象風景をより浮き彫りにする。中でもこの作品は言葉の並べ方がとても綺麗ですね。タイトルのセンスも光っていると感じます。「虫」とは砕かれた心の欠片でしょうか?冬・夜・月・海。いつまでも僕の心をセンチメンタルにさせる魔法です。

ところで、これを一読したときに「段落ごとの意味のつながりが判然としない」というモヤモヤがありました。しかしよく考えれば、詩というのは意味を露骨に出さないイメージの集合体だから、必ずしもつながりを気にしなくても成立するんですね。自分の書くものは、意味性を重視して字面のイメージがおろそかになっていると感じたことがあるので、この作品でひとつ勉強させて頂きました。

奥野美和 ありがとう 2003年01月28日(火)23時26分43秒
はっぴいな色とことば への応答

そう、オーガニックカフェ。
あのお店のズッキーニと、魚(なんだっけかな)の
フリッターみたいなのが、とても美味しかったんだけど、
期間限定だったみたい。今度行きましょう。
カフェって言葉を、あえておしゃれな小道具にはしたくなかったんだけど、
難しいね。あとオリーブ少女もね。なんか、まあ、出てくる物が
自分の趣味で、その趣味がオリーブ少女っぽいもの?に、
思われてしまうのであろう。が、しかし、私の生活も
そんなおしゃれな物ではないしなー。でも、きちんと調査した
場所設定で物を書きたいと思っているので(そうじゃないと自分が混乱する)
いろいろ歩いて書いてみようと思います。変にずれてる物は嫌いなので。
あー美味しいご飯が食べたい!ついでにお酒も。

読み返すと、本当に小説の組み立てが下手だなー、
トレイニングだなあ、修行だなあ、と思います。
頭にラストまで浮かんでいるのにな。
(変わるかもしれないけど)


ちなみにイラストレーターDEデザイナーの
小田島等の展覧会があるってよ。
宮田さん好きそうだから、もう知ってるかしら。
チェックしてみてください。あなたの好きなあの人も参加みたいです。
(でも、間に合うかなあ。。。私も今日知ったの)
下にURL書いておきます。


http://www.alterope.co.jp/splash/odajima_appel.gif

宮田和美 はっぴいな色とことば 2003年01月26日(日)03時22分10秒
▼掲示板:奥野美和 1D「ホーリーホールボーン(1)」(仮) への応答

こんにちわ。
奥野さん、改めて感想を書きます。
やっぱり、色彩の鮮やかさがとても印象的だなあ
と、感じました。
この空気の色、とてもすきです。
春という季節と女の子のハッピーなきぶんが重なって
しあわせなにおいがします。

あと、鮮やかだなって感じたのは
登場するモノたちに統一性があるからかもしれん。
中目黒のカフェ、駒沢公園、古着のTシャツ、サトシのボーダー、『チアーズ』、「恋人」、ポラリスなどなど。
(恋人、っていうことばを聞くとサニーデイサービスを思い出します)
この女の子はきっと、オリーブ少女だろうな、って思った。
これにあとなにか、もう一歩ふみこんだ、って言ったらへんだけど、
この作品だけの、オリーブには載ってないような、
でもアリな何かがでてきたら、さらにビビッドになるのではないでしょうか。

ところで、中目黒のカフェ、
というのはオーガニックカフェのこと?
私、高校生の頃、何度もあそこに行こうとして
なんどもなんども迷子になりました。
いまだ一度も行けてません。

そういえば、原宿の「木石」というジャパニーズなカフェが
もうなくなるらしいです。渋かったのに。

はなしがそれた!戻ります。
ストーリーの流れについて、書きたいです。
きれいな流れだとおもいました。
わかんなくて戻ったりしなかったし。
出だしの
「コーラは飲みすぎないで。」
というひとことに引きつけられました。
こういう、ぱっと見、意味不明なことばを唐突にだして
読み手をひきつけるわざを
物語のとちゅうにもちょくちょく使ってみたら
読むほうもそのたび刺激されて、引き込まれたりするかしら
って思いました。

つづき、まってます。私もかこーと










奥野美和 いろいろありがとうございました。 2003年01月21日(火)00時04分19秒
奥野さん 削除しました(丸囲み数字も直しました) への応答

以後気を付けます!

松永洋介(アシスタント) 奥野さん 削除しました(丸囲み数字も直しました) 2003年01月20日(月)01時19分20秒
松永さん への応答

削除依頼のあった投稿を削除しておきました。

あと、○で囲んだ数字は、ウィンドウズ以外のコンピュータで見ると
別の記号に見えてしまって意味が通じないので、括弧に直しておきました。

ローマ数字(I II III IV ……)が一文字になってるやつも同様なので、
使いそうな人は気をつけてくださいね。

奥野美和 松永さん 2003年01月19日(日)18時08分34秒
▼掲示板:奥野美和 1D「ホーリーホールボーン(1)」(仮) への応答

奥野美和 1D「ホーリーホールボーン(1)」(仮) 2003年01月19日(日)01時54分59秒
を削除して頂けますか?たびたびすみません。

奥野美和 勝手に連載形式で 2003年01月19日(日)02時22分01秒
▼掲示板:奥野美和 1D「ホーリーホールボーン(1)」(仮) への応答

ごめんなさい。続く、とか言って。ちょっと偉そう。
かきたいことがあって、どうしても書きたくて。
長くなりそうだから、でも私、女王バチ級だから、
(文章を組みたてる前に気持ちが走る!)
少しずつ書きたいと思います。
モチノロンで、短歌も書いていくのですが、
宮田さんに見習いプロットを立てて書いてみようと思いました。
ちょっとレコード屋に行くと言う感覚+がむしゃらに書きます。

奥野美和 感想エトセトラ 透明な色 2003年01月19日(日)02時14分02秒
▼掲示板:宮田和美 39A  への応答

面白かった。なんだか以前の作品より細かく、繊細に、透明な色がついて良かった。
気持ちが入っているのがわかった。今までで一番スキかも。やっぱり気持ちが入っているものは
素敵だと思う。そしてやりすぎてないから良かった。言葉使いも。

これからも、バンバン書いてね。楽しみにしているから、書いてね。書こうね。
私も書くさ。「ありがとう」だなんて、こちらこそ。

ラストもいいね。希望があるものはとても好きよ。女の子は希望に満ち溢れてる。
男の子は、よくわからないけど、男の子もそう、だと思いタイ。



 

宮田和美 書けました 2003年01月18日(土)04時14分55秒
▼掲示板:宮田和美 39A  への応答

よい作品とか駄作とか、そういうのはわかりません。
けど、今まで書いたどの作品よりも書けてよかったって思えました。
なんとなくもう書けない気がしてたから。
私の新しいやつ、よかったら読んでみてください。

それと、奥野さんありがとう。

なんかしらぬまに漫画トークに花が咲いてますね。わたしも漫画好きよ。
雑誌はスピリッツが好き。
谷川文子!なつかしい。
南Q太、いいよね。なにげいちばん好きかも。あーでも岡崎京子かなあ。
吉川こずえが土屋アンナ。うん、なんかわかる。
あとやまだないとは西荻夫婦が。バナナフィッシュ、読みたいのにまだ読んでない。
岡田あーみんすきなひといませんかー?
サユリ一号の作者の、多分デビュー作の『はるの/よるの/ようだ』はすごい印象に残ってる。あのひとほんといいよねえー。

『ねじ式』のつぐみちゃんって、もっきりやで男のひとにいたずらされてる役?
なんか友達が、そのいたずらされてる女の子が松浦亜矢に似てるって言ってて、だから別人だってわかってるのに松浦亜矢がテレビに出るたびに「この子はあんなにつらいことがあったのにこんなにがんばってるんだ…」って思うらしい。

あ、あと『害虫』、わたしも結構すきです。

ではまた



寮美千子 狂気をさらに過激に研ぎすませよう 2003年01月17日(金)14時14分09秒
▼掲示板:石黒美穂 3?2?A/愛哀 への応答

あたしは幸せですよ?
貴方が犬が可愛いなんて言わなければ。
思わず絞めて埋めてしまいそうになります
あたしは素直で可愛い娘。

あたしは幸せなの
貴方が帰るなんて言わなければ。
つい仮病をつかって拘束してしまいました
あたしはおちゃめで愛らしい娘。
この部分の狂気、もっともっと過激に研ぎすませていけば、もっと素敵になると思います。最初は穏やかに、だんだん過激になり、最後は……。う、怖い。どうなるんだろう?

杉井武作 6C・6D「鏡の果実」 8D「楽しかった屋久島の思い出」 2003年01月16日(木)03時40分07秒
▼掲示板:松永洋介(アシスタント) 16日の授業で扱う作品 への応答

書きましたので間に合えばこれも合評に加えて頂ければと思います。

奥野美和 ありがとう! 2003年01月15日(水)23時35分08秒
実写版キャスティング への応答

今度、漫画喫茶で読んでみる。岡崎京子は好き。
いろいろ読んだけど、タイトル忘れちゃうんですよね。
Pinkは読みました。初めて読んだ、岡崎作品。
「パノラマガール ジオラマボーイ」をこの前読み返して面白かった。
やまだないとは、宮田さんも好きですって。
わーいろいろ読んでみよう。

わたしは、おかざき真理と、谷川史子以外はね、
コジコジ・・・。あと、南Q太の最近のとか。
大久保ニューも、絵は変だけどわかる気がした。
あと、高野文子も好き。るきさん。
あと、なななんきりこの新しいやつ。

あ、吉田秋生、ラヴァーズキスが
映画化ですよね。大好きな市川実日子が出るので楽しみです。


今日、山田詠美の文庫新刊を読みました。
面白かった。恋を書くのが上手だなあ、と思った。
あと、江国香織と山田詠美の対談を読んだのですが、
これまた面白かった。

石田衣良、天ない完全版の後書き、かいてますよね!
(漫画ネタで〆)

明日、会えると嬉しいなあ。話しましょう!!

越智美帆子 実写版キャスティング 2003年01月15日(水)02時26分08秒
つぐみちゃん ジョージ朝倉 への応答

で、思い出したのですが、吉田秋生の『BANANA FISH』もかなりお勧めです。ハードボイルドですが。これは結構有名な作品なので、御存じの方も多いのでは。で、私もキャスティングを勝手に考えるのが好きなんですよ。例えば、『BNANA FISH』だったら、主人公のアッシュは故リバー・フェニックスかエドワード・ファーロング、アッシュの親友の英二は山田孝之、とか。注目作品『へルタースケルター』の主人公、りりこは神田うので、りりこの後輩・吉川こずえは土屋アンナとか。考えるのは楽しいですよね。
 昔、まだ『GTO』がドラマ化される前に、主人公の鬼塚は誰がいいかと考えてて、やっぱり反町でしょ、と思ってたら、本当に反町が演じることになって驚いた記憶があります。
 
 そう言えば、芥川賞と直木賞の候補作品が発表されましたね。大ファンの石田衣良さんが直木賞にノミネートされてて、かなり嬉しかったです。それと、注目してた『半落ち』も。どの作品が受賞するか楽しみです。

越智美帆子 漫画 2003年01月15日(水)02時05分35秒
つぐみちゃん ジョージ朝倉 への応答

 漫画マニアなんですよ、私。しかも、好むのはワイド版のマイナーなもので、一人暮らしの家には200冊弱のワイド版の漫画ばかりが部屋を占領しています。

 奥野さんが好まれる、おかざき真理や谷川史子は可愛らしい感じの漫画ですよね。最近、おかざき真理の『セックスのあとの男の子はハチミツの匂いがする』たしかこんな感じの題名の作品を読んだのですが、おもしろかったです。
 私がお勧めの漫画は、たぶん、奥野さんの苦手のジャンルになるのではないかと思われる、グロくてどろどろしてて、何でもありの漫画だと思うのですが。なので、なるべく(それでも苦手なジャンルだったらごめんなさい。。)爽やか系で、なるべく血とか飛び散らないのでお勧めの漫画を幾つかあげてみます。
 まず、私が好きな漫画家の作品から。やまだないとの『ビューティフルワールド』『コ―デュロイ』、岡崎京子の『愛の生活』『pink』、鳩山郁子の『月にひらく襟』、小野塚カホリの『我に五月を』『NICO SAYS』『そどむ』、楠本まきの『T.V.eye』、高橋留美子の『人魚の森』『人魚の傷』、よしながふみの『西洋骨董洋菓子店』、松本大洋の『GOGOモンスター』安野モヨコの『ジェリーインザメリーゴーラウンド』。
 ギャグ四コマ系では『モンキーパトロール』『B.B.joker』『ペケ』。
 メジャーな作品では、『海猿』『キリコ』『昴』『20世紀少年』『ピアノの森』『め組の大吾』『GTO』『337ビョーシ!』『I’ll』『欲望バス』『純粋培養閲覧図』『チョコレートダイアリィ』『裸足めぐり』『キス』。
 さらに、私の趣味(グロい系)でお勧めの漫画をあげるときりがないので、このへんにしておきます。多分、上記した漫画は結構読みやすいと思います。ちなみに、私が今一番注目してる漫画は、岡崎京子の『へルタースケルター』です。でもこの作品はかなりグロいので。
 よければ、奥野さんのお勧めの漫画も教えていただけると嬉しいです。

奥野美和 つぐみちゃん ジョージ朝倉 2003年01月14日(火)23時01分27秒
害虫 への応答

越智さん

読みました!ハッピーエンド。
痛快でしたよね。なんか、暗いような明るいような、
ニオイのする漫画でした。でも、個人的に
ゲロとか、液体系?(←ごめんなさい。ニュアンス受けとって!)が苦手なんです。
でも、うん。面白かった。大塚英志が編集なんですよね。
「ネームを見る」ですよね。

越智さんは漫画好きですか?
おすすめどしどし教えて下さい。

やまだないと。「東京座」しか読んでないや。
おかざき真理も好き。あとは谷川史子ね。わたしの基本。
あと村上かつらの「サユリ一号」が面白いです。
早く続きが読みたい。

つぐみちゃんは。そうそう「ねじ式」、凄かったですね。
「贅沢な骨」は、まだ観てなくて(この前TVでやったみたい)
早くチェキって観ようと思います。確かにつぐみちゃんは、
年齢より若い役を自然にこなしますよね。

「害虫」、そうなんですね。わたしは、いまいち
ウーンでした。なんでだろう。わたしも、ミーハーなだけで
映画とか詳しくないのですが、塩田監督のは、
キラキラした場面にきゅんとはなるのですが
全体を通してみると、あーよかった!と言う気持ちを
味わったことがないような気もします。

どうでもいいことなんですけど、
最近キャスティング好きという事に
気付きました。
武者小路実篤の「友情」、
村上かつらの「サユリ一号」
などの実写版のキャスティングを
友達とわいわい言いながら決めて盛りあがっています。
これからも。このネタで盛りあがって行くでしょう。

越智美帆子 害虫 2003年01月14日(火)19時50分21秒
塩田明彦 への応答

 塩田作品の『どこまでもゆこう』『月光の囁き』『害虫』は、三作品とも見たことあるんですが、私は古内さん、奥野さんとは違って、『害虫』が一番好きです。しかも、結構邦画は見てるつもりなのですが、『害虫』は自分の中でかなりの上位に位置する作品だったのですが…。私はナンバーガールも宮崎あおいも知らなくて、予告編に惹かれて見たのですが、ひさびさのヒットだと、見終わったときに思いました。ベタのシーン、鉄筋の上で追いかけっこする二人、おせっかいなクラスメートなど、主人公に共感できるシーンや新鮮さがあっておもしろかったです。
 『月光の囁き』に出演してるつぐみさんですが、この人の演技がすごいなあと思ったのは、監督は違いますが『ねじ式』『贅沢な骨』です。実年齢よりかなり若く見えるのが、この女優さんの魅力の一つでもあると思いました。

 奥野さん、ジョージ朝倉の『ハッピーエンド』お勧めです。爽快な漫画です。
 私は最近、やまだないとの『girls Friday』を読んで切なくなり、『モンキーパトロール』と言う、作者は忘れましたが、四コマ漫画を読んで自分とかぶるキャラに大笑いし、一丸の『おかみさん』を読んで相撲にはまり、毎日初場所を見てます。小説では、嶽本野ばらさんの『ミシン』を読んで、新しいタイプの小説に触れることができたのでいろんな意味でおもしろかったです。

 
 

奥野美和 月光の囁き 2003年01月14日(火)09時36分16秒
塩田明彦 への応答

観るの忘れてしまいました!!保存版にしたかったのに。
わたしはあの映画の前半が良いと思っています。後半は、
ちょっと勢いに欠ける、というかキラメキに欠けます。

なぜあの映画が好きかと言うと、すごく紗月と拓也の気持ちが
わかるし、二人の距離感がとても好きなんです。キスをする場面、
初体験の場面。

触れられそうで触れられなくてもがきながらすれ違って行く。
それでも求めて合ってしまう気持ち。

でも!!この俳優、この原作なら、
もっともっと面白くつくれたような気もします。惜しい!
もったいないです。

原作も立ち読みしたのですが、
絵がちょっと受けつけなかったんです。今なら読めるかも。

ところで塩田監督も、月光の囁きの音楽をとても気に入っているようで
雑誌のインタビュー(シナリオ99年12月号)でも、そのような事を
言っていました。主題歌はスピッツの「運命の人」なんですよね。
ぴったりと言えばぴったり。


そして、「どこまでもゆこう」と「害虫」。
「どこまでもゆこう」は、あの小学生が大きくなったら
「月光」のようなカップルになるんだろうな、という
イメージで作ったそうです。わたしは、「月光」の方が
好きなんですけど、ユーモアがあってワクワクして面白いです。
一方、「害虫」は……。音楽、ナンバーガール、主演、宮崎あおい
だから楽しみにしていたんですけど、つまらなかったです。
パンツを覗く場面がキュンとしましたが。あとは、あおいちゃんが
可愛いだけでめちゃくちゃでした。なんでしょう。
言いたいことはなんとなくわかるけど……って感じでした。


最近、漫画をよく読むのですが
ジョージ朝倉の「少年少女ロマンス」←凄いタイトル
が、かなり面白かったです。

■一つ前の過去ログ:「物語の作法」雑談板 (0012)


管理者:Ryo Michico <mail@ryomichico.net>
Powered by CGI_Board 0.70