「物語の作法」雑談板 (0008)


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東條慎生 あえて真面目に、を真面目な顔で 2002年11月05日(火)22時31分39秒
「空の上のサイクリング」評論、ありがとうございます。 への応答

古内さんが作品をあえて真剣に論じると書いていましたが、それだったら「あえて」の部分を
書いてしまわず、本当に真面目な顔してやった方が面白いんじゃないかという考えからあの評論
を書いたわけです。
という訳で、アレはタイトルの大仰さ(キザなタイトルや、副題に杉井武作「試」論とつけた
ものの、サイクリングしか話題になっていなかったり)や、文章が居丈高だったりとかなり意識
して学者文のパロディをしてたり、読んでもいない高橋源一郎に触れたり、ほとんど無理矢理
レーモン・ルーセルの話に引っ張ったり、フロイトについてみんな知ってますねといった口ぶり
で書いてみたりと、適当やってます。
だから記述に怪しい部分が結構あるので、話半分で笑い飛ばしてください。
とは言っても、読み返して文章を書きながら、実は構成がしっかりしていることや、克服の物語
であるよりは終わりのない現実と逃避の揺れの物語である点などがちゃんと考えて書かれている
ところは、表層をジャンクでまとっているのに目を奪われて気づかなかったところを気づかされ
てとても面白かった。

だから、幻想と現実の対立を無自覚に肯定しているとか言う記述はそれっぽい文章を書くために
書いた典型的な意味なし文なので、ちゃんとした考えがあって書いたのではないです。思いつき。

現実逃避という言葉は私は使いませんね。これには二つの理由があって、現実と非現実を端的に
分けてしまうことで、絶対的優位の現実と絶対的悪の非現実(幻想)を仮構してしまうのが一点。
(基本的にさまざまな二項対立というのは、善悪の判断を伴うことが多いと思います)
それに逃避と付けることで、その行為そのものを断罪している言葉であるという点。
(読書、ことに小説を読むことを指してこの言葉は使われることがありますね)
この言葉は私の嫌いなシニカルさに繋がる認識を示しているように思われるので、留保ですね。

ルーセルについてはリンク先を参照して頂ければ。
この人は、現実なるものを徹底的に否定しようとする妄執にとりつかれた人で、その情熱は
凄まじい物があります。訳者が書いた、「郵便配達夫シュヴァルの理想宮」という河出文庫から
出ている本も、そういう、現実を否定し自分のなかにある理想を三十年だかかけて建築として
実現した人について書かれています。
二人は現実逃避という言葉では表せない、強烈な物をもった人たちです。

終わりについてはアレくらいが良いのかも知れませんね。
私は9章の記述を結末の淡泊さから逆算して、闇の中が自分の居場所だと確認して、それから
光の中へ吸い込まれてしまう(目覚めてしまう)ことから、夢の世界に残りたがっている場面と
解釈しているのですが、光の方に自分の居場所を見つけている描写にも取れる。
結末も彼女の心境らしき物ははっきり書かれていないので、どうなったかは分からない。

まあ、お楽しみ頂けたようなので、以上。

talk0007.html#talk20020722205740

杉井武作 題名がいいネ! 2002年11月04日(月)23時03分44秒
▼掲示板:12C「サンキューガーベラ」 への応答

毎回思うんですけど、内容もさることながら、題名が素晴らしいですよねー。
その発想力いいなあ。
「あやとび」は、腕を交差させて、戻して、を繰り返しながらする縄跳びでしたよね。
交差させたまま跳ぶのは、「こうさとび」。

杉井武作 みんなの意見、ありがとうございます。 2002年11月04日(月)22時57分10秒
自己を表現することと先人から学ぶことの往還運動/杉作くんの質問に答えて への応答

僕のメールが独り歩きして驚いてます。皆さんの言葉、大変参考になりました。
僕の先生の言葉は、ろくに本も読まずに、深く考えずただ自己表現という行為に酔いしれてる学生に対しての警告であり、「表現が無意味」と断定するものではないです(たぶん)。
なるほど「個性」うんぬんのまえにまず己を知るために自己表現をするんですね。
寮先生の反復になってしまいますが、自分を見つめても、外側に目を向けられなければ独りよがりになります。僕ももっと本を読まねば・・・。最近は古内さんのように、構えずに難しい本を読んで「楽しむ」ことができるようになってきたかなーなんて思ったり。
逆に、ただ知識を身につけても、自分を知ってそれと照らし合わせなければカスカスになってしまいます。本を読んでいても、自分と照らし合わせることができなければ、人の心を揺り動かせる文章は書けないと思います。僕が自分を掘り下げた苦しみがただ本を読んだ行為と等価では切ないですしね。やっぱり表現は大切なのでしょう。
そしてその車の両輪が噛み合うと、どっちもさらに面白くなってくるんでしょうね。

おわりに、あんま関係ないかもしれませんが。
表現をする人はどこかに満たされないものある。内面を掘り下げるのは痛い作業です。自分を必要以上に見つめなくても生きていける人間もいます。ただ、僕はそんな人間には味わえない種類の幸せをもらってるような気がします。そして、自分以外の何かに人生を掛けている人も、それなりの何かを抱えてるのでしょうね。
サラリーマンだろーがアーティストだろーが、人生は苦しみも喜びも平等、何となくそんな気がします。

杉井武作 「空の上のサイクリング」評論、ありがとうございます。 2002年11月04日(月)20時35分03秒

こんな駄文に驚きととまどいと喜びでいっぱいであります。
僕は、壊すことが好きなんでしょうね。テーマ性があるものでも、それをそのまま書いてもダサいし、それこそ先人の焼き直し以外にならないかもしれない。テーマが真剣でも、それ自体を鼻で笑ってしまうようなニュアンスにできたらと思います。
なんちゃって、実はホントにテキトーなだけかも。普通に誤字脱字多いし!(笑)あぁ、こんなモノを超細かく分析してくれて後ろめたいったらないです。東条さんの評論はその意味で超ハイレベルなギャグです(笑)。古内さん東条さんごめんなさい。そしてありがとう。
ジャンクのオブラートに包んでも、本質的なテーマを見抜いて、これほど細かく分析くれるのは至福の極みです。これ以上嬉しいことはないですよマジで。
二人の評論で「それは違うぞ」と思うところはほとんどなかったです。というか、東条さんに至っては「そうなんだ!うんそれそれ!俺ってスゲー!」って思うことがありまくり(笑)。ルーセルって誰ですか?


>爺さんが「ためしに舐めてみるか?」と迫る部分が非常に怖かった…。

僕も書きながら吐きそうでした(笑)。これは僕が実際に、「見知らぬババァに尻をつきつけられて『座薬を入れろ』とせがまれる。んで入れようとしたら『尻の骨にヒビがはいっとんねん!』と怒られる」夢を見たので、使ってみました。文中の「ホビ」というのは間違いです。ごめんなさい。


>この作品自体は幻想への逃避を批判的に見ているのだが、逆にそのような形で幻想/現実という構図を強固なアプリオリのものとして措定してしまう錯覚に寄与してしまう。

そうですね。現実と幻想を明確に分けすぎかもしれませんね。でもそのことを押し付けてるつもりはないです。僕が批判的に見てるというよりは、この少女の場合における現実逃避を描写して、そこから読者が批評的なものを導き出せたらなと。逃避が必ずしも悪いものとも思いませんし、哲学的に突き詰めれば誰も現実を生きてないかもしれない。「現実逃避」という否定的なニュアンスの言葉は、危機感を抱かせられるという点で良い言葉だとは思います。


>今回は表層部分のジャンクさについては触れられなかったが、これがひとつの現代的兆候であることは指摘しておいていいだろう。(中略)それが前作においては破綻を破綻として楽しむことのできる側面を創り出したのだが、今回においては性的な象徴という側面を重視したために破綻を期待することはできない。しかし、これらが両立しないと言う訳でもあるまいし、これからに期待したい。

前作というのは「ねればねるほどストーリー」のことですよね?もう、ああいったのは作らないかもしれません(笑)。確かに、あれと今作は表層的なスタイルは似てますね。でも、前作は思い返せば小説の定型を壊す意図があったような気がしますが(笑)、今回は基本的に頭に浮かんだものを書いただけです。


>この作品は彼女の現実と非現実との不毛な行き来という円環を断ち切ることができないというアイロニカルな物語として、オーソドックスなファンタジーという成長物語への批判として読むことができる。

非常に鋭い、重要な指摘ですね。この後で少女がどうなったか。開き直ったのか、前向きに現実を受け入れたのか、その判断を読者に委ねられるような書き方をしたつもりです。そのまま飛び降り自殺をしてしまったという結末が自分好みですが、そう捉える人は少ないでしょうね。はじめ僕は、9章で連想されるような少女が前向きになったと思われる描写を入れるつもりはなかったんです。しかしそれではあまりに読者に委ねる割合が多いし、テーマ性のないまとまらないものになってしまうのでやめました。しかしそれでも、東条さんのような解釈をして頂けたのなら、このくらいのバランスで良かったのかもしれませんね。



文中で用いられたビートルズの歌の歌詞を掲載しておきます。

I don't know how you were diverted (なぜ君は男の慰みものになってしまったんだ?)
You were perverted too (堕ちるところまで堕ちた君)
I don't know how you were inverted (なぜ君はそんなに倒錯してしまったんだ?)
No on altered you. (誰もきみを警戒なんでしていなかったのに)
I look at you all see the love there that's sleeping (きみたちを見ていると愛は心の中で眠っているようだ)
While my guitar gently weeps (僕のギターはひそかにむせび泣く)
I look at you all... (君たちを見ながら・・・)
Still my guitar gently weeps. (僕のギターはひそかにむせび泣く)

宮田和美 こわい 2002年11月04日(月)20時01分45秒
▼掲示板:プロットなんか考えてみたり。 への応答

プロット考えてみました。
魚喃キリコの『blue』っていう、
映画にもなる有名な作品をパクらせていただきました。
とかいってまだ途中なんですけど。
感想聞かせてください。
こわいけど。


宮田和美 旅立ちの日はセンチメンタル 2002年11月04日(月)18時07分29秒

旅にでます。今晩から。
熊野那智奈良京都、とか。
一週間なので、次の授業はおやすみします。

またこんど

杉井武作 チラッ (^-^|壁 2002年11月02日(土)11時01分01秒
誰かおれに への応答

あはははは。

東條慎生 誰かおれに 2002年11月02日(土)10時34分42秒

つっこんで。
あの、付け髭ヅラでパイプふかしながら君君それは違うよこれこれこういうことだよ
君もわからん人だねえとふんぞり返って煙を吹き散らすはた迷惑なエセ学者風の、書き込みを。
せっかく人が長文でボケ倒してるのに放置プレイ?

奥野美和 読むのも書くのも楽しいな 2002年11月02日(土)09時05分42秒

皆さんの作品の感想も早く書きたいです。
東条くんと古内くんのは、
見てやるぞ!読んでやるぞ!の意志で。

すぎさくくんのすごいですな。

古内旭 『記憶のゲバルト』読んでくれてありがとう 2002年11月02日(土)06時32分11秒
古内旭3A/いいですねぇ〜やっぱ好きです への応答

杉作君、読んでくれてありがとうございます。投稿した作品にこうして反応があるのは嬉しいものです。僕が「アポロン的」かどうかは別としても面白いと言ってくれるのは大変嬉しい。
遅くなりましたが、いただいた質問への返答をします。
まず、学生運動についてですが、別に何でもいいといえばなんでもよかったのですが、ただ、我々の親ぐらいの世代で多くの若者が熱中し、かつ命の危険を伴ったものは学生運動かな、と思ったのです。もともと学生運動には興味があったので(自分が参加するという意味ではなくて)、小説に書きたいとも思っていました。きっかけは『マークスの山』でしたが、三田誠広も好きでした。あとは登場人物が作家くずれなので、そういう背景があるとよいかと思ったわけです。学生運動経験者の作家、あるいは作家くずれというのも多くいるでしょう。
モーツアルトとショスタコーヴィチは、クラシック音楽の中で対極をなすほど作風の違う作曲家です。しかし、モーツアルトのうんちくも、ショスタコのうんちくも、たれてしまえばただの耳障りな押し付けなのだという点で同じということです。
時間軸については、基本的に2つの話が交互しているのですが、最後でまた時間に関する概念も奇妙なねじれを見せますね。確かに。登場人物たちの中身も、ぐるりと入れ替わってしまいます。この話は、要はアイデンティティの崩壊を描いたもので、これまでこうだと思っていたことがこうではなかった、ということなのです。ディック的かもしれませんね。


東條慎生 「回り続ける円環」/杉井武作試論  2002年11月01日(金)00時02分07秒
▼掲示板:7A「空の上のサイクリング」 への応答

 序論
武井氏の作品にはいつも二面性が隠されている。それは表層的なジャンクで徹底的にB級的な設定や展開と、性的なものを象徴とする手法である。ここでは新作である「空の上のサイクリング」を題材としてその物語批判的な表層と、性的な象徴の意味を探ってみたい。


 本論 (番号は章番号に対応している)

1.導入部である。ここでは非現実的な状況とそれを難なく受け入れる主人公の姿がある。ここに指摘できるのは、主人公である女性のなかにある男性への指向と非現実への欲求が同居しにくいものとして現れている点であろう。

2.この作品の主要な登場人物である大きな男根を持っている猫が出現する重要な場面である。この猫というキャラクタはそのまま作品自体の要約ともなっている。それは、過酷さを持たない「かわいい」猫と、グロテスクで攻撃性を内包する男根が同居しているということに見て取れる、「現実と非現実の望まざる混淆」である。そして、彼女はそれを最初否認することから始まっている。それは一章の延長にあることが指摘できる。

3.猫の関西弁、これは後半登場するじいさんのキャラクタとの類似を指摘できる。つまり、性的に攻撃されるという恐怖がここでは関西弁という一見親しげな要素と結びついている。それはそのまま猫と男根もそうであるように、良い物と悪い物の結合というこの作品の重要なモチーフに関わる。
また、ここでは女性のキャラクタの性格が読者に明示される。それは、他者の承認を一心に得ようとする一種病的なメンタリティであり、その裏には自分が承認されないことへの恐怖が抑圧されている。その為、自分自身を演じながらもそれに無自覚でいようとする性格が立ち現れ、盲目的な恋人へのストーキングが拒絶されるとインターネットや繁華街での行動へと繋がっていく。この性格設定はそのまま、現実否認を行いながらも現実に逆襲されるという作品モチーフの重要な変奏だろう。
なお、ここに突如無意味に挿入されるビートルズの歌の平仮名による記述は、作品のなかに他者の言語を取り入れ文体の多様さを指向する現代文学的試みのひとつと言えるだろう。

4.なぜかここで突然漫才コンビになることになる。それは登場人物によっても明確に意識された突然さで、それは始まるのだ。これは、後藤明生の「挟み撃ち」を例示するまでもなく、小説の自然な筋の推移という制度への批判であり、必然によって進行されうるべきであるという固定観念の打破を指向していることは間違いない。それは武井氏の前作を見れば分かるように、小説の筋は混迷を極めた展開をなし結末への収束や発展ではなく、突然の寸断、いきなりの場面転換などに様々現れている。なお、ここには言葉遊びによるコンビ名の考案という興味深いプロセスが提示されている。しかし、言葉の異化を目指し、新たな造語を創り出すということは面白いのだが、惜しむらくはそれがルーセル的な展開をせず、単に「ぐろちうず」というコンビ名としてしか使用されないことにある。これがルーセルであれば、逆に「ぐろちうず」から、この短篇ひとつ分の物語を捻り出すくらいの芸当をしてみせるのであろうが。

5.主要な場面である。劇場という舞台設定は非常に興味深いところであり、ここから様々な意味を読みとることができる。ひとつは主人公が漫才を演じる(ここで非常に重要なのは、コントと違い漫才は演じているという語を当てるには不適当だと思われる向きもあるかも知れないが、あれは漫才というコントを演じているのである)ことが現実への帰還のトリガーをなすということである。彼女は前述したように演技的な人間である。人に承認されることを熱望し、それによって被る悪感情(「やりにげ」という言葉)を否認し続ける。ここでは現実のなかで演技することにより非現実へ到達したという関係が、そのなかで演技することにより現実への回帰を促すというアイロニカルな関係性を露呈させている。この種の関係の反転は相対立する要素の結合と密接に関わっている。
猫と男根が切り離されることにより現実へ回帰するという場面は、この作品を象徴する重要なシークエンスである。現実と非現実の奇妙な混淆のなかにいた彼女は、それを切り離してしまうことで現実の象徴である男根に飲み込まれ、現実へ向かうことになる。その望まざる混淆とは、彼女が何とか自分を維持するために必要な要素であった。現実を否認しつつ非現実の世界に逃避するという彼女の性質の象徴である猫、その猫の現実と非現実を自ら切り離してしまうということはそのまま彼女が現実へ向かい合うという反吐が出るような回想へと引っ張り込んでしまう。これはフロイトが「抑圧されたものの回帰」と呼んだ現象であることは読者諸賢御承知の通りである。

6.7.8.性質が共通しているためにこれらを一纏めにする。ここに現れているのは彼女の過去の記憶である。ここには彼女の受けた抑圧されていた記憶が現在から過去へ遡行する形で回想される。6では人に認められないことと認められることのモチーフが再度現れ、猫に指摘される現在の生活の予兆が示される。それは、認められないという恐怖からの脱出を望む余り、自分の価値を非常に偏った形で信じ込むという状況である。事実憧れの人間から一度は容姿で拒否されたことをかわいいと言われたときには忘却している。この様な性質はそのまま、相手の承認を第一義に置いてしまい、自分の位置を見失うことに繋がっていく。つまり、相手から否認されることを極度に恐怖する余り、相手の言いなりなってしまうという陥穽が彼女を待ち受けていると言うことである。7は6の状況とは逆である。始め認められているという状況から認められない状況への変化は、6での彼女の行動を準備するものであると言える。8は彼女の非現実のなかの猫になぜ男根がついていたのかということの解明になる。彼女の幼少の頃の男性への恐怖、それが男根というものに形象化され、それが現実のメタファとなっている。しかし、ここでは男根が象徴物となる重要な切っ掛けとは言えない。じいさんは明らかに性的成熟期をとうに過ぎており、彼の嫌がらせがすなわち男根への恐怖と繋がるとは言いにくいのだ。ただ、祖父の振るまいが、性的衰えへの感情的な反発にあり、その代替物として少女への性的嫌がらせを行うという事件はひとまず、その背後に男根という価値観が存在しているとは言えるであろう。

9.現実への回帰へ向かうかと思いきや、ここでは再度幻想空間を通過している。闇とは幻想の謂いであり、彼女はここでも現実否認の行為を続けていると見ることができる。次章は目覚めの章であり、目覚める前の場面において彼女がそこを自分の居場所であると確認していると言うことは、古内氏の「ファルスの克服」説と衝突するように思われる。

10.彼女は目覚め現実へ帰還する。しかし、その帰還は果たして成長であったろうか。ここの記述からはそれと逆の結論を導き出すのではないだろうか。ここでは彼女は何も幻想世界から持ち帰ってはいない。末尾での詠嘆は辛うじて彼女に何らかの変化をもたらしたヴァリアントだということはできるかも知れないが、そこにあるのは自己の空虚さの認識でしかないのではないか。この場面は彼女の恋人らしき人間が彼女の元から去ったという状況を想像させる。そしてこの作品の幻想部分がそれからの逃避であったということが分かるのである。そして、その幻想部分とは彼女の逃避が現実によって阻害されると要約できるのであるが、彼女は末尾でその逃避の不毛さを認識しているようには見えない。空は広いという詠嘆に実はそのような意味が与えられているかも知れないがそれを明確に読みとることはできない。つまり、この作品は彼女の現実と非現実との不毛な行き来という円環を断ち切ることができないというアイロニカルな物語として、オーソドックスなファンタジーという成長物語への批判として読むことができる。断ち切ることのできない円環、それは自転車をいくら漕いでも車輪の動きは永遠不変であるように、いつまでもサイクルされ続ける。

 結論及び補足
今回の作品では武井氏は成長という物語への批判を導入していると思われる。また前作が徹底して少年(と未分化の性)の物語であったのに比べて今作は一挙にその小説的世界を広げることに成功している。さらに性はその位置するところを明確にされており、世界の構造は格段に整理されている。しかし、そのように現実と幻想が明確に区別されうるかどうかについてはひとつ留保をしておく必要があると思われる。この作品自体は幻想への逃避を批判的に見ているのだが、逆にそのような形で幻想/現実という構図を強固なアプリオリのものとして措定してしまう錯覚に寄与してしまう。
今回は表層部分のジャンクさについては触れられなかったが、これがひとつの現代的兆候であることは指摘しておいていいだろう。高橋源一郎がその小説内にドラえもんやジョン・レノンなどのポップカルチャーを意識的に取り込んでいることはつとに知られているが、この作品もそのような小説という権威への破壊姿勢を打ち出している。それは前作においてより顕著だが小説的自然さという制度への身体的反発として現れ、それはなかば必然的(設定において漫画との親和性を指摘できる)に少年漫画的な破綻したストーリーを招き寄せ、通常の小説の展開から激しく逸脱することになる。それが前作においては破綻を破綻として楽しむことのできる側面を創り出したのだが、今回においては性的な象徴という側面を重視したために破綻を期待することはできない。しかし、これらが両立しないと言う訳でもあるまいし、これからに期待したい。

また、この論は徹底的にジャンクであることを意図する氏の意向に添った、読み返しをしない書き飛ばしであり、ジャンクとして書かれたものであることを読者諸氏には銘記して頂く。
なお、今数えてみたところ、武井氏の本編は七千文字強、私の小論は四千文字強と、およそ本編の半分を超える分量の論を書いたことになる。流石に本編の分量を超えることは叶わなかった。

古内旭 杉井武作をあえて真剣に論じる 2002年10月31日(木)04時40分08秒
▼掲示板:7A「空の上のサイクリング」 への応答

杉作氏のメールは雑談版で1つの話題となっていますが、さてそこで杉作氏の新作『空の上のサイクリング』の登場となったわけです。まず最初に分量はどれぐらいなのかな、と思って下の方を見ていくと、これはとんでもないものだと分かる。作者自ら「ネタが低俗」と書いている通りなのですが、この話はほとんどセリフで、主人公以外は低俗なことばかり言っています。
この話は「謎の世界に迷い込んだ主人公の少女が、妙なネコに出会い、特殊な経験をしてのち、リアルを見据え現実世界に帰還する」といったものですね。一言で言うなら成長物語です。非常に分かりやすくその辺りは書かれています。最初は青い世界に溶け込んでしまいたいという現実逃避的思考があるにも関わらず、最後は現実を受け入れて「空は広いなあ」なんて言っていたりするわけです。
この話を論じるうえでメインとなるのは男根の存在です。一見可愛らしい子ネコに、「はちきれんばかりの成人男性並のモノが隆々と」あるわけです。この子ネコの主体はネコそのものではなくて、男根側にあります。フロイト、ユングはさておき、とりあえずヴァイニンガーを持ち出すと「女にとって男性器は名前の分からないイドである。女の運命はその中にあり、それから逃れられない」ということになります。すなわち、『空の上のサイクリング』において、子ネコ=男根とは、主人公をとらえるもの、そして同時に強く求めるものです。この話では、劇場での漫才の果てに、その男根は主人公の手刀により切り落とされます。そして、男根が主人公を飲み込んでしまう。その中には、隠されてきた、あるいは目を背けてきた現実そのものがあります。そしてそれを乗り越え、主人公はある意味でのファルスの克服を達成するわけです。

なんて。こんな風に論じてみたり。
しかしまあ、何はともあれ、爺さんが「ためしに舐めてみるか?」と迫る部分が非常に怖かった…。というのが感想です。

奥野美和 腕を交差して飛ぶ方法 2002年10月30日(水)21時16分23秒
あやとびの謎 への応答

縄跳びです。
わたしは運動が苦手です。
幼い頃ジャイアンな性格ながらも
トロかったのですが、
縄跳びとドッヂボールだけは得意でした。

私の縄跳びは早いはずなのに
遅く見えるそうでよくからかわれました。

こつは、空気をつかむこと、です。


いつも、短歌のタイトルに困っています。
でも、なんかちょっと楽しいのですが。


なんだか、褒められて嬉しいです。
でも、本当に、なんだか、
もっともっと遠くに行けるような気がします。
頑張ります。

奥野美和 なるほど なるほど 2002年10月30日(水)21時04分37秒
杉作氏のメール、『はてしない物語』、難しいものについて への応答

「見てやるぞ、とか読んでやるそ、という主体的な気持ちでいわゆる難解なものに臨むと楽しくなってきます。」

なるほど。ありがとう。古内くん。

でも、簡単に「難しい」なんて言葉を使ったけど
私にとっての「難しい本」ってなんでしょう。
自分の中にはあるけれど、うまく言葉に出来ません。
もっと考えます。言葉にできますように。
でも、杉作くんの先生の難しい本と
わたしの難しい本って違うんだろう。
当たり前か。

興味があったり、なかったり、
やっぱり興味のないものを手に取らなきゃ
いけなくて(勉強とかね)
それを、見てやるぞ!って挑めたら、
きっと世界は広がるのでしょうね。
今の私は、うーんと唸って逃げてばっかりです。

古内旭 杉作氏のメール、『はてしない物語』、難しいものについて 2002年10月30日(水)07時07分25秒
わたしの考え(21歳奥野美和 今の時点で) への応答

杉作氏のメールに書かれたその先生という人の話を実際に聞いていないので、何ともその真意は計りかねる部分はあります。おそらく話の流れでぱっと漏らした言葉なのでしょうが、そうであるなら、東條氏の様なストレートな批判があるのはもっともだろうと思います。いくらなんでも自己表現を不毛というのは、単純に考えても「そんな…」という感じですね。しかしナルシスティックで独り善がりの自己表現に陥っては、それこそ例の先生に反論できないので、そうならぬよう、寮先生の仰る往還を心にとめておかねばなりません。

ところで、1つ気になる文章をかのミヒャエル・エンデ『はてしない物語』から引用します。

「ごくありきたりの人たちの、ごくありきたりの一生の、ごくありきたりの事がらが、不平たらたら書いてあるような本は、きらいだった。そういうことは現実にであうことで十分だった。何を今さら読む必要があっただろう? まして、何か教訓をたれようという意図に気付くと、腹がたった。事実、その種の本というのは、それがはっきりわかるかぼやかしてあるかは別として、常に読者をどうかしようという意図で書かれているものだ。バスチアンの好きな本は、手に汗をにぎるようなもの、愉快なもの、呼んでいて夢のあるもの、話の中の人物たちが途方もない冒険をするもの、あらゆる場面を思い描いてみることができるもの、そういう本だった。なぜなら、想像すること、それがバスチアンの得意なことだった。」

むむむ…。これはただ単に主人公のバスチアンの個人的な趣向によるもので、それが正しいか間違っているか、という議論は避けておくべきでしょうが、考えてしまいますね。余談ですが、僕はある程度歳をとってから読み返したとき「それは俺のことを言っているのか!いや、違うんだエンデ。俺はあなたのことが大好きなんだ!」と思ったものです。

さて、話は変わって、「難しい」とは何でしょう。マイナス要素の言葉ではないような気がします。「難しい本」なんて実は存在しないのかも。勉強の本で難しいのはたくさんあるけれど。物理とか。そういうのは何というか辞書としての役割。あくまで道具、手段としての難しさ。そういうのを別にしてみると、いわゆる文学とか芸術とか呼ばれるもの(その評論もふくめ)に「難しい」とか「難解」という表現はほとんどあてはまらないのではないかと考えます。例えば、キューブリックの代表的なSF映画『2001年宇宙の旅』は初めて見た時はサッパリ分からなくて「何だこれは。つまらぬ!」と思ったものですが、世間的に評価が高い。で、よくよく考えながら見てみると、つまり主体的に見ていくと、これはこういうことなのかも、とか、これはこういう表現なのね、と分かってきます。「これは、こうこうこういうことを象徴しているのだ」とか言ってみたり。そういうのが、とても楽しい。見てやるぞ、とか読んでやるそ、という主体的な気持ちでいわゆる難解なものに臨むと楽しくなってきます。ラカン派の哲学者スラヴォイ・ジジェクは僕も愛読していますが、それも色んな理論をつかって批評なり評論なり分析していて、「そんな見方をするのか。面白いな」と思うわけです。ジジェク的な考え方で作品を読むとまた違って見えて面白かったり。なんだか結局、表現とか文学とかいう方向のもので考えていくと、「難解」なんてものは「面白い」要素の一部分かな、なんて思ったりもするのです。
僕はあまり「難しい」ことを考えずに「難しい」本を読んだり映画見たりするのが好きです。やっぱり面白いから。
でもそれはそれで勉強になります。だって、「面白い」とか「共感」とかそういう感情を得る経験なのだから。自分の作品にも、表現にも、ついては生き方にも、自然とそれは返ってきます。

寮美千子 あやとびの謎 2002年10月30日(水)02時14分13秒
▼掲示板:11C「あやとびの工夫」 への応答

「あやとび」とは?
腕を交差して飛ぶなわとびのことかしら。
それとも、あやとりと関係がある?
「大辞林」には載ってなかったなあ。

ところで、先日童話作家でエッセイストで旅行作家の馬渕公介氏に会ったところ、
この「物語の作法」掲示板を読んでくれているとのこと。
「奥野美和、いいねえ」と誉めていました。
「あれでね、あと1センチ、話をおおげさにしたら、もっとよくなるのに」とのこと。

なるほど、と思う反面、
わたしは、技巧的に話をおおげさにしない美和ちゃんの等身大の言葉、
素直でいいなあとも思ったのでした。

わたしとしては、おおげさにするのではなくて、
その素直さのまま、ほんのすこし言葉に磨きをかけると、
すべてがもっとくっきりと鮮やかに浮かび上がってくると思っています。
センスは抜群。がんばろう!

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Desert/8863/index.html

寮美千子 プリントは20枚 失敗作もOK 2002年10月30日(水)02時01分49秒
寮先生へ 質問です への応答

>これは、もう駄目!
>という作品も発表した方が良いでしょうか?

ホントにダメなら発表しなくていいけれど、いまひとつ思っていることがすっぱりと言えない、どう工夫していいのかわからない、みんなに聞いてみたい、ということであれば、勉強になるので、持ってくるといいでしょう。その時は、その作品のどこが気に入らないのか、ほんとうはどうしたいのかを、自分でよく考えてきてください。

>いつも何枚プリントしてますか?

20枚刷ってください。教務課の隣の印刷室で、「物語の作法 寮美千子」と申込票に書いて、印刷してきてください。わからなかったら、印刷室の人にきいてくださいね。


奥野美和 寮先生へ 質問です 2002年10月29日(火)20時23分14秒

これは、もう駄目!
という作品も発表した方が良いでしょうか?
授業では、気に入っているものを
ピックアップした方が良いでしょうか?
あ、でも、それじゃあ勉強になりませんね。。。

わたし、縦書きにしてプリントアウトして行きます。
いつも何枚プリントしてますか?

よろしくお願い致します。

奥野美和 わたしの考え(21歳奥野美和 今の時点で) 2002年10月29日(火)20時14分12秒
自己を表現することと先人から学ぶことの往還運動/杉作くんの質問に答えて への応答

難しい本をたくさん読んで実って、どこに行くのでしょう?
確かに、もう今、完璧に「新しいもの」は産まれないかもしれない。
手垢のついた表現を模倣しているのかもしれない。
しかし、いま、わたしたちが、この空気と時代に生きる事、
そして表現すると言うことは誰にも真似は出来ません。

先人の極めたもの(極めるの限界とは如何に!)
を吸収し、飲みこみ自分の栄養源にしていく。
そう言うことじゃないのでしょうか?

わたし個人は、小説も雑誌も音楽も映画も
いろいろな表現物(という言い方も変)から
力を魅力を貰っている。
自分の事を考える良いきっかけにもなる。

自分の事を考えるのを「疲れる」なんて
感じたら進めない。

ただ、「難しい本」を読むのが苦手で
興味のない本は、読まなかったりするので
それは、読む練習をしなくては、と思う。
(卒論もありますし)

あと、皆に発表していく、ということ。
最近、改めて感じた。
わたし以外の人の体をちょっとでも
くぐれたら、と思う。

最後に。
わたしにとって表現とは?
なんて、まだまだわからないし
見えないけれど、今のわたしにとって表現とは
夢中になれること。唯一。


いやしかし、寮先生と、東條くんの意見を読んで、
なるほど、なるほど、と思いました。
それそれそれよ!と思いました。

東條慎生 私的な感想 2002年10月28日(月)19時07分49秒
自己を表現することと先人から学ぶことの往還運動/杉作くんの質問に答えて への応答

悪い教師の典型みたいな事を言いますね。個人的にはそんなことをいう人から何かが学べるとは
思えません。それは単なる権威主義的な盲進にしかならない。それに、今何を書いたところで
それは先人の二番煎じにしかならないとかいうようなシニシズムにまみれた創作論をぶつ人間は
人を教えることを辞めたらどうだと思う。今何かを書く際にまとわりつく空気のひとつが、そう
いった既にすべては書かれているという諦念だけれども、私はこの考え方には徹底的に抵抗する。
その種のシニカルな態度を気取っていれば時代に乗っていることができるという姿勢を私は拒否
する。確かに、さまざまなことは既に書かれてしまっていて、今何かを書くという行為をやる人間は、
それこそその種の歴史的推移を無視した、内輪だけで完結するようなナルシスティックな
ものに向かう傾向はあるかも知れない。まともに向かい合おうとすれば何も書けなくなるという
困難な時代であるということはよく言われている。最近の作家志望は本を読まないと言うことも
それと関係したことなのだろう。才能はもう他のジャンルに流れてしまっているとも言う。
しかし、だからといって小説が終わったということにもならない。(この種の「終わった」とい
う概念を使う人間は要注意だと思う)
個性の発揮なんて奇抜さと混同したグロテスクな代物を生み出しただけだし、他人と違わなけれ
ばならないという強迫観念を植え付けたに過ぎない。個性の追求なんてやる暇があるなら、
難しい本を読んだほうがマシだ。
あとはだいたい先生(あまりこの言葉は使いたくありませんが)の言うことの重複になるので繰り
返しません。

面白いのは、先生の言う読むことと書くことの往還というのは、私が知っている他の理論とも重
なって来ることです。杉本ゼミで扱ったバルトや構造主義をベースにするテクスト論の本も
同じ趣旨だし、先日書いた後藤明生も読むことがすなわち書くことであるというような小説論を
書いています。わたしもこれに大いに賛同する次第です。
ちなみに、テクスト論の本はロバート・スコールズ「テクストの読み方と教え方」岩波書店
後藤明生は講談社現代新書「小説-いかに読み、いかに書くか」
書き忘れたけど、「挟み撃ち」は講談社文芸文庫
いつも通り纏まらない話だけど、以上。

寮美千子 自己を表現することと先人から学ぶことの往還運動/杉作くんの質問に答えて 2002年10月28日(月)13時37分55秒

杉井武作くんから、メールでこんな質問が来ました。
ある先生が言いました。
「学生の考えることなんて、もう既になんらかの形で先人が極めてる。自己表現なんてしても本当の個性なんて創造できないし、結局ナルシスティックな独り善がりに終わって不毛なだけだ。自分のことなんて考えてるから疲れる、もっと外に目を向けて、難しい本とかいっぱい読んだほうが実りがある。」
僕には先生の言ってることがよくわかります。
でも、自分を見つめずに生きることなんてできない・・・。そこにともなう痛みとやりあっていくために、自己表現は僕にとって必要です。それがあるから今の僕がいる。表現活動をしてなかったら僕はだめになってたかもしれません。
先生は表現活動の意義をどう考えますか?
その先生は「外」に目を向けて、結果としてどんな「自分」を手に入れたんだろうか? 大量の知識の鎧に囲まれ守られたその中心部分は空洞、なんてことはないんだろうか。ちょっといじわるに、そんなふうにも考えてしまいました。

結局「自分の頭で考えない奴」「自分の心で感じない奴」が世界をダメにしているんだというのが、わたしの考えです。だから、自分の中に目を向けることはとても大切なことだと思う。表現しようとすると、さらに正確に、微細に、深く、見つめざるを得ない。より深く自分を知ることになる。だから、表現しようとする心はとても大切だと思うのです。表現は、他者にみせびらかすための「個性の発揮」の手段なんかじゃない。まず、自分で自分を知るための手段。そして、次にそれによって他者とつながるための手段だと思うのです。

その先生は「個性ある表現」というすばらしいものが、どこかにあって、それに近づくこと、そのハードルを越えることが大事だと思っているように思えます。わたしは、そんなことは二の次だと思う。それは副次的な産物。結果としてそうなるだけであって、まず、自分と対話することが、表現の第一の意味だと思うのです。

しかし、そうやって自分の中にだけ沈潜していっても、独りよがりになってしまう。すると、それは泥沼の迷路にしかならない。それを独りよがりにしないために、大切なことが二つあります。

ひとつは「発表」すること。他者から意見をもらうことです。すると、独り合点していた部分が明らかになる。他者に伝えるために、何が必要かがわかってくる。他者に見せることは、自分を、そして自分の表現方法を客観視する力を鍛えるための、とても有効な手段です。

もうひとつ、大切なのは、先人の知恵を学ぶこと。つまり、その先生が大切だといっている「難しい本をいっぱい読んだりする」ことです。別に、難しいことだけに価値があるわけじゃないから、難しくない名著でもいいんだけれどね。

ここで陥りやすいのが「難しい本をいっぱい読んでいる自分」に自己満足してしまうこと。こういう奴らがいちばんバカだとわたしは思っちゃう。本を読まないバカより手に負えない。というより、本を読まない人の方が、よっぽど賢かったりする。自分の頭で考えるから。

大切なのは、いつも自分の内面と照らし合わせること。最初はわからなくてもいい。けれど、いつも自分の内面にきちんと目を向けて、何かを探そうとしていると、本を読んでいるときにはっと「あ、これわかる!」とか「そうか! このことだったのか」とか、腑に落ちたり、心に響いて理解することができます。

つまり、自己の内面を掘りさげていくことと、先人の知恵に学ぶこと、この二つの往還運動が大切だということ。この二つを行ったり来たりすることで、自己は掘りさげられ、知識を本当に実のあるものとして自分のものにしていくことができるのです。どっちかひとつだけでは、そのどちらを選んだとしても「独善的」になってしまう。

その意味において、表現を否定するその先生は、わたしは独善的だと思います。

そんなわけで、表現は大切。でも、先人に学ぶことも大切。車の両輪のように両方をがんばろう! そうしたら、思ってもいなかったくらい遠くへ行けるかもしれないよ!

東條慎生 改行なさ過ぎで読みにくかろうと思われますが、そんなことは知りません。 2002年10月26日(土)19時32分47秒
▼掲示板:5A「塵のように無数の」(連作「水」4) への応答

だいたい「水のエンパイア」と似たようなものになってしまいました。
単に観念の操作でしかないようなモノローグ小説からそろそろ方針転換したいところですが、
このようなものしか取り敢えずは書けないので御容赦。
本来、もう少し違った形で書く予定だったのですが、完成しなさそうなので、このまま出します。
これ自体は二月前にだいたい書き終わっていたのですが、最近ある小説を読んで驚きました。
島尾敏雄の「夢の中での日常」という作品の末尾に、体中がかゆみに襲われる描写があって、
まあ、似ているわけではないんですが、その符号にびっくりした訳です。

気がつく人が何人居るかは分かりませんが、このなかにもいくつかの作品が引用もしくは参考
として出てきます。「水のエンパイア」では安部公房やエッシャーが、「雨の日」ではマグリット
が背景にあるように、どうやら私の構想そのものが模倣に多くを因っている点は改めて
思い知っているところです。あんまりやると衒学趣味でいやらしさしか残らないわけです
が、これをどう受け取るかは読者の判断を待ちましょう。
ここで後藤明生が思いつく訳ですが、「挟み撃ち」はやっぱり面白いです。
模倣と引用、二重化と同一性の宙吊り、語りの構造の複層化ともう超前衛。
それでも読みやすい小説なのはいい。
私のはそこまでの方法論的な手法ではないのがダメですね。

宮田和美 こんちわ。 2002年10月24日(木)23時16分39秒

みやたです。

おくのさん、短歌がんばってますね。
すごいです。
電柱のうた、部屋で泣きたい、あのころの・・、とオトメのうたがすきです。
川上弘美ね。うん、みょうちきりんダ。
わたしあのひとのエッセイすきです。
長編は読んだことないや。よんでみます。ありがとう。

滝さん。
スケッチよみました。
意外な一面を見たってかんじがしました。
滝さんのもつ、よわさっていうか、
脆さみたいなのが垣間見えたようにおもいます。
ちょっとおどろいて、ちょっと滝さんに近づけたなあっておもいました。
よかったです

プロットを考えようと思って、
ビデオを借りました。
害虫
東京日和
東京ゴミ女
のさんぼん。
一ばん興味ぶかいのが「東京ゴミ女」で、
同じマンションに住む憧れのひとが出すゴミを盗んで部屋にコレクションしてる女のひとのはなしです。
あと、借りてないんだけど、女の子がホームレスみたいにダンボールの中で暮らすっていう話もあった。

「お隣さんのゴミを盗んでコレクションしてる女の子と、彼女が部屋の中にダンボールで家をつくるカップルの話」っていうのはどうでしょうか。

害虫の宮崎あおいちゃんはかわいかった。
生まれ変わったらあおいちゃんになろうっと。

滝 夏海 感想どうも、これからも頑張ります。 2002年10月24日(木)00時29分00秒
素敵です への応答

奥野さん>
うわ、どうもありがとう。
投稿しようか止めようかと迷っていたものだったから、余計に嬉しかったです。
奥野さんの作品投稿、実は日々の密かな楽しみになってます。私自身毎年正月と誕生日に「毎日何か書こう」と日記のような物を、新品のノートまで用意して決意するのに、もって2週間、早くて5日でした(3日ぼうずよりはマシ?)
これからも頑張ってください。

滝 夏海 本の紹介ありがとうございます 2002年10月24日(木)00時20分19秒
言葉のスケッチ への応答

寮先生>
クラフト・エヴィング大好きです。この前の展示会は、違う友達を連れて計3回行ってしまいました。でもやっぱりお気に入りはクラウド・コレクター。
「アリス〜」の方は新聞で紹介されていたのを見た事があります。メモをとる前にちり紙交換に出されて、凹んだ覚えがあります。これでやっと買う事が出来ます!

文章は、小物ではなく友人や自分の撮った写真から引き出すという作業に挑戦。只今、全敗中です…。

横田裕子 はぁ・・・ 2002年10月22日(火)21時50分24秒

叔母が使ってるPCから、ようやく掲示板への書き込みができました。
ほっ。

展示会の後に、花祭を見てきました。
・・・踊りました・・・踊ってしまいました。こっぱず。

斉藤さんとこが学祭で作るクレープって、ラム酒をふりかけたクッキーとジャムとクリームが入ってるやつですか?あれ、大好きで・・・じゅる。
うちのサークルはうどん屋やります。伝統ってことで。

寮美千子 感想を掲示板に! 2002年10月22日(火)00時58分52秒
祝!展覧会開催! への応答

「夢の標本箱」展、見た人はここに感想を書こう!
よろしくね。

斎藤多佳子 祝!展覧会開催! 2002年10月21日(月)16時02分11秒

夢の標本箱搬入の皆様、お疲れ様でした。そして行けなくてごめんなさい。
準備日はバイトでした。熊のぬいぐるみの中に入ってました。本当にごめんなさい
今学校なのでこの書き込みの後に展覧会に行ってみようかと思います。
ああ、なんかドキドキですね。

学祭が近いため何かと慌しい日々が続いてしんどい毎日ですががんばります。
学祭ではクレープ焼いてます。もしよければ食べに来てください(宣伝?)
それではまた、木曜日



奥野美和 「自分のこと アイヌ」 2002年10月21日(月)09時59分08秒

アイヌ、たのしみ。踊ろう。
そういえば、以前高校生の時、本多勝一さんの
本を読んだな。教科書にも載ってた。


自分書いたもの、たくさん出しても
気に入るのは、いまのところ本当に少しで、
どうしたらいいんだろ。
と思っていました。

写真を撮っているお友達に話したら
彼女も240枚撮っても、気に入ったのは
30枚だったよ、と言っていました。

とにかく、書いて書いて書いて行こうと思いました。

うん。

奥野美和 「宮田さん」 2002年10月21日(月)09時51分33秒

川上弘美もみょうちきりんじゃないですか?
関節がずれたような。
「溺レる」を読んだんですが面白かった。
参考になるかどうかわからないけれど、ふと思いました。

奥野美和 素敵です 2002年10月21日(月)09時48分36秒
▼掲示板:8A「言葉のスケッチ:その3」 への応答

読んでいって最後に世界が広がるところが
素敵だと思いました。
短い言葉の中に広がるイマジネーション。
これからも、言葉のスケッチ楽しみにしてます。

滝さんの言葉は、いつも美しく、なんか
気持ち良い空気を感じます。

寮美千子 言葉のスケッチ 2002年10月20日(日)21時40分32秒
▼掲示板:6A「言葉のスケッチ:その1」 への応答

▼滝さん

「言葉のスケッチ」ストレートでいいですね。
気になる言葉の断片を書き溜めるのも、大切なことだと思います。
どんどんやってください。

「夢の標本箱」に寄せた滝さんの作品は、秀逸でした。
オブジェも、ひと工夫があって、本人が楽しんでいるのが感じられてよかった。

もっともっとアイテムをふやして、
オブジェと言葉の小冊子、なんていうのもつくったら、楽しいかもしれない。

最近では、筑摩書房からでてきるクラフト・エヴィング商会の本なんかが
ちょうどそんな感じのもの。

それから、わたしがとても気に入っているのは
「アリスの不思議なお店」(フレデリック・クレマン著 紀伊國屋書店1997)
という本。
人食い鬼の乳歯とか、白雪姫の口紅とおしろい入れとか、
野性のピアノ狩りの使う塩入れ、とか、もう不思議なものが満載。
滝さんなら、こんな本をつくれるかもしれない。
がんばってね。

寮美千子 11/16 アイヌの歌と語り 2002年10月20日(日)21時27分11秒

11/16 アイヌの歌と語り

正式な授業として扱うことにしました。
つまり、大学に申請を出して、参加費を出してもらい、
フィールドワークとして扱うことにしたのです。

11/14 の授業で、北海道でアイヌ文化を研究している山田雄司氏に来てもらい、
「バッタキ」という踊りを練習。
アイヌ文化についての簡単なレクチャーも受けます。

また、ライブ当日は安東ウメ子さんの指導により、
アイヌの口琴ムックリを習うことになりました。
ムックリの費用も、大学に出してもらう予定です。

つまり、参加費+ムックリ代がタダ!
参加しない手はない!

生きた口承文芸に触れる絶好の機会でもあります。
参加しないと、ムックリは支給されません。
みんな、来るんだ! 来いよ!

滝 夏海 言葉のスケッチその1〜3 の補足 2002年10月20日(日)18時11分38秒
▼掲示板:6A「言葉のスケッチ:その1」 への応答

持ち歩いているメモ帳(というかネタ帳)に、思いつくたびにちょこっとメモしているちっちゃなちっちゃな詩のような物を、荒削りのまま連続投稿してみました。
きちんとタイトル付けてそれぞれ独立した物にしてあげたいけど、まだぴったりはまる題名が見つからなくて。
それにしても、捻りも何もない思ったままの文章はこっぱずかしいです。はい。

追伸、メールアドレスが変わりました。

奥山伸太郎 アイヌ 2002年10月20日(日)14時24分08秒
夢の標本箱/アイヌ への応答

アイヌイベント、やっぱり自分も参加することにします。バイトは休みをもらいました。なんかだんだん、行かなきゃもったいないような気がしてきて。

タイミング的にお金が出るようになったから参加するみたいですけど(笑)、ちがいますよ。

寮美千子 夢の標本箱/アイヌ 2002年10月19日(土)03時29分35秒

いよいよ本日、搬入です。
梅根記念館に、午後1時に集合!
来られる人は、みんな来るべし!
自分たちの展覧会なんだから。

ところで、先日お話しした11月16日のアイヌ音楽のライブ。
正式にフィールドワークにしようと思います。
つまり、野外授業扱い。
参加費も大学に申請して出してもらうよう手配したいと思います。
14日は、大学の授業でアイヌの踊り「バッタキ」を練習します。
みなさん、必ず参加しましょう。

70歳のアイヌの古老の民話の語りと歌と踊り。
生きている口承文芸を体験できる数少ないチャンスです。
友だちも誘ってぜひ!

宮田和美 はああーい。 2002年10月16日(水)23時43分56秒
プロットを作ってみよう! への応答

プロットかぁ。そしてながい文章かぁ。
書いたことないからどきどき。
できるかしら。
いんや、やります。がんばりマッスル。

杉井武作 古内旭3A/いいですねぇ〜やっぱ好きです 2002年10月16日(水)21時43分29秒
▼掲示板:3A「記憶のゲバルト」 への応答

盛り上がってるところ失礼します。古内さんの作品の感想です。
若干女の子の園の中を土足で踏み込んでる気分ですが(笑)

前2作もですが、やはりとてもテンポが良くて読んでいて心地がよかったです。
たぶん古内さんの描く「アポロン的(?)」な文章と僕の相性がいいということもあるのでしょう。自分がとても感覚的な人間なもので、淡々と進めてゆく、感情描写すらもどこか理性的な視点で描く展開が心地よいのです。自分が論理的な人間になったような気がしてるんでしょうか。それを差し引いても、無駄の無い構成と描写の上手さは素晴らしいと思います。

内容はわからないところが多かったです。学生運動をモチーフにする必然性は?何故主人公はモーツァルトではなくショスタコーヴィチが好きになったのか?時間軸の点も謎が多かったです。
気楽なB級ホラーとして楽しむには説明不足な気がしますし、かといってそれを解き明かす気を起こすほど入り組んだストーリーでもない。その謎は奇妙なものとして楽しむより釈然としない感じが残る、整然とした文体が裏目に出て、怖さがない・・・そんな印象でした。
でもなんか独特の世界があるんですよね。

寮美千子 むくんだこころ 2002年10月16日(水)01時56分44秒
▼掲示板:5C「むくんだこころ」 への応答

奥野さん。

まず「むくんだこころ」っていうタイトルからして魅力的。
それに、書けば書くだけ、鋭さと魅力を増している。すごいです。

  >本当にうそが上手な男の子どこかにいたら恋人になって

意味深でいい

  >ひとつぶのミルキーふたりで食べたのは静かで暑い夏の日でした

どうやってひとつぶをふたりで? 想像させられちゃう。色っぽいかも?

  >退屈な5限日本史それよりも君のレキシが知りたいのです

歴史がカタカナなところがすごくいいです。

寮美千子 プロットを作ってみよう! 2002年10月16日(水)01時51分13秒
▼掲示板:27A 日々のかけら への応答

宮田さんの、微妙な心の動きが手に取るようで、すごくいい。
すごくすなおに等身大の女の子しているところがいいです。

このよさをより生かすには?
うーん、いろいろあるけれど、ひとつには大きな構造物のなかに入れてみること。
そのためには、構造物の設計図が必要。

物語の「あらすじ」をぜひつくってみて。
大きなうねりのなかに、こんなきらきらしたかけらがつまってたら、
ほんとうにすてきなものになると思うよ。

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管理者:Ryo Michico <mail@ryomichico.net>
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