寮美千子ホームページ ハルモニア Cafe Lumiere (No.0041)

寮美千子/軽い話題の掲示板

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パルステラ  うっとりして、絶句したレス! 2004年02月13日(金)05時14分31秒
月の心 花の心 へのコメント

>月のハート
これぞ誰かに贈りたいロマンティックな美しさですねぇ。
一体どんな現象なのでしょう。雲が作ったのかな?

>花のハート(Bleeding-Heartだって!!!)
あの、秘すれば花と言うくらいでございますから、ハートの下方は閉じてたほうが・・・。

寮美千子  星兎の「シャコンヌ」 2004年02月12日(木)23時45分43秒

きょう2月12日朝日新聞夕刊に、バッハの「シャコンヌ」が、実は亡き妻を悼む曲だったのでは、という説が載っていました。
「シャコンヌ」は、組曲「無伴奏バイオリンのためのパルティータ第2番二短調」の最後を締める曲。1720年、バッハが最初の妻マリア・バルバラを亡くした年に誕生した。
 ドイツの音楽学者ヘルガ・テーネ氏は、この「シャコンヌ」に、死や復活をテーマにした協会コラール旋律が隠されていることを、独自の方法で読み解こうと試みた。妻の死に目に会えなかったバッハが、哀悼の思いを透明な響きにこめようとした、との論拠だ。
だとすれば、わたしが『星兎』のラストシーンに「シャコンヌ」を持ってきたのは、直感的にとても正しかったんだなあと、自分で納得。確かに、どこまでも透明な哀しみ、手の届かない遠い人へ届けと願うばかりの切実さが、あの曲にはあります。

この新解釈に共鳴したクリストフ・ポッペン氏(ドイツの指揮者にしてバイオリニスト)が、バッハのパルティータとコラール旋律を組み合わせて新たに編曲・構成し、なんとわたしの大好きなヒリヤード・アンサンブルと組んでCDを出しているとのこと。『モリムール』がそれ。さっそく注文しました。

Eliちゃんが「もうすぐ『シャコンヌ』を弾けるようにするから、待っていてね」と、先日の朗読会でいってくれました。うーん、相当長生きしなくちゃならないかな。なあんてね。Eliちゃん、待ってるからね。

寮美千子  長生きって素敵!「伊福部昭先生卒寿記念祭」に寄せて 2004年02月12日(木)21時49分07秒
徳島県北島町で開催する《伊福部昭先生卒寿記念祭》にご注目ください へのコメント

▼小西昌幸さま
いいなあ。徳島北島町の創世ホールの「伊福部昭先生卒寿記念祭」。わたしも絶対に行くつもりでしたが、急にインドへ取材に行くことになり、行けなくなってしまいました。インド行きのばたばたで、先日の「伊福部昭 文化功労者顕彰 お祝いコンサート」にも行けなかったし、インド憎し!です。みなさんの熱気の中に、ぜひいっしょにいたかったと、行けないことがとても悔しく思われます。リトさんや伊福部玲さん、みなさんにどうかよろしくお伝えください。

テレビ作品「北の交響曲(シンフォニー)〜映画音楽[ゴジラ]のもう一つの顔〜」は、わたしもビデオで見ました。伊福部少年の子ども時代、ムックリの音色に魅せられるシーンでは、確か安東ウメ子さんが、大きな木の下でムックリを奏でていらっしゃったと思います。とてもいいシーンでした。

森林官として厚岸の深い森の中でひとりで暮らしていた青年時代。森の中へやってきたパリでのコンテスト入賞の知らせ。東京の新聞社の人が記事を書くのに「で、入賞者はだれ? え? 住所は厚岸だって? 何かの間違いだろう」と話していたシーンが印象的。そうやって、ほんとうに驚くような場所から、伊福部音楽ははじまったんだなあと、映像を見て改めて実感しました。

伊福部昭氏18歳。札幌で出会った同じ18歳の早坂文雄のエピソードも忘れられません。天才作曲家と呼ばれた早坂文雄は、黒沢明の「七人の侍」などの映画音楽などを多数手がけ、わずか41歳の生涯を駈け抜けました。生きていて、伊福部昭氏と語り合うことができたら、どんなにすばらしかっただろう。

やっぱり、長生きはそれだけでひとつの芸術です。それも、伊福部先生のように毅然と美しく老い、いまもなお作曲活動を続けていらっしゃることは、ほんとうにすばらしい。ただそこにいらっしゃるだけで、あたかも観音さまのように微光を放っているようにすら感じられます。

長生きなんて、全然視野に入っていなかったわたしだけれど、伊福部先生を見ていると、長生きっていいなあとつくづく思います。伊福部先生のように歳を重ねるのは至難と思いますが、わたしも少しでも近づきたいと思います。

「伊福部昭先生卒寿記念祭」ご成功、祈るまでもなく間違いないと思います。遠くガンジスの河口から、日のいずる東方の空を眺め、ご成功をお祈りしています。

創世ホールイベント案内 http://www.infoeddy.ne.jp/kitajima/hole/event/20042.html
創世ホール文化ジャーナル http://www.infoeddy.ne.jp/kitajima/hole/bunka/200402.html

▼勇崎さま

伊福部先生に関するエッセイの掲載、ありがとうございます。何度読んでも、心のなかで自分自身を問い直すきっかけとなる、すばらしい文章です。ことに、この一節は勇気を与えてくれます。
権威と保守性に裏付けられた日本の音楽教育最高の牙城に颯爽と現れた先生は、終戦直後の食うや食わずの時代というのに、ダンディな蝶ネクタイ姿で、開口一番「定評のある美しか認めぬ人を私は軽蔑する」というアンドレ・ジイドの言葉を引用され、「芸術家たるものは、道ばたの石の地蔵さんの頭に、カラスが糞をたれた。その跡を美しいと思うような新鮮な感覚と心を持たねばいけない」とか「ブラームスは第一交響曲を24年かかって書きあげた。パラキレフは32年かかった。真の創作とは、このように息の長いものだ」というような、まことにショッキングな発言をされた。
まだだれも「美」と認めていないもののなかに美を発見する力、新しい美の形を作り出していく力。けれどもそれは、なかなか世の中に認められない。ほとんどの人は、新しい物が何であるかを自分で判断する力がないから、見たことのあるものしか受けつけないからです。新しい美を創造するものは、いつもこの頑固な世間の眼差しと戦わなくてはならない。真の理解を得るには、長い年月もかかる。

作品を出版しようとするとき「詩は売れないから」と断られたことが、何度もありました。「詩」というカテゴリーでしか見てもらえない。そこにほんとうに何が書かれているのか、理解してもらえない。「詩は売れない」とひとくくりにされてしまう。でも、めげずに頑張りたいと思います。うおっす!(掛け声)

『血液と風土−伊福部昭、その創作史の瞥見−』 片山杜秀
『伊福部先生の人と作品』 黛敏郎

※掲示板のタイトルは、何が書かれているか、なるべく一目でわかるものにしましょう! 「ほろ酔い」なんてタイトルは粋だけれど、せっかく転載した文章のこと、わからなくなっちゃってもったいないよ、勇崎さん。

小西昌幸(北島町立図書館・創世ホール館長)  徳島県北島町で開催する《伊福部昭先生卒寿記念祭》にご注目ください 2004年02月11日(水)08時42分30秒

■徳島の小西です。ご無沙汰していました。やっと伊福部先生卒寿記念祭の当日プログラムのメドがつきました。何しろ2日連続の催しのため10頁分の版下を作らねばならず、この1週間ほどは家でもずっとその仕事をしていました。何とか落ち着いてきたので、これから各掲示板にお邪魔して宣伝してゆきます。お目汚しかもしれませんがなにとぞ友情に免じて、お許しください。私の企画者人生約10年の総決算的イヴェントです。燃え尽きるかもしれません。いや、マジで。
■北海道の山田さんは小西宅で3泊されます(確定)。勇崎さんは日程のメドつきましたでしょうか。

《伊福部昭先生卒寿記念祭》
■日本音楽界の大巨人・伊福部昭(いふくべ・あきら)先生は音楽を独学で修め、芥川也寸志・黛敏郎・三木稔などの音楽家を育て、映画音楽の世界でも「ゴジラ」等で大きな足跡を刻み、熱狂的な支持者を獲得してこられました。先生は、2004年5月に90歳・卒寿を迎えられます。当館では先生の卒寿記念イベントを行ないます。研究家の講演と、箏曲演奏で伊福部ワールドを探求します。29日の野坂先生演奏会には、はるばる神奈川県厚木市から伊福部玲さん(伊福部昭先生ご長女、陶芸家)がおこしになるほか、北海道・東京・岡山・香川等の愛好家から問合せが殺到中です。絶大なるご支援をお願いいたします。
主催◎北島町立図書館・創世ホール 電話088・698・1100
協賛◎伊福部昭アーカイヴス、ゼブラプラネッツ、東京音楽大学民族音楽研究所、生田流箏曲《松の実會》、北海道音更(おとふけ)町ほか
後援◎朝日新聞徳島支局、徳島新聞、NHK徳島放送局、四国放送ほか

【協賛企画】伊福部昭先生映像資料特別上映会
北の交響曲(シンフォニー)〜映画音楽[ゴジラ]のもう一つの顔〜
日時◎2月21日(土)14時から
   2月28日(土)11時から
   2月29日(日)14時から
会場◎2階ハイビジョン・シアター 入場無料
ドラマ脚本・演出・編集◎吉雄孝紀 ドキュメント演出◎松木創
制作著作◎北海道文化放送  出演◎高橋和也、織本順吉ほか
原作◎木部与巴仁『伊福部昭・音楽家の誕生』 1997年9月13日放映 65分
■協賛企画として、1997年に北海道・東北地方ほかで放映されたテレビ作品「北の交響曲(シンフォニー)〜映画音楽[ゴジラ]のもう一つの顔〜」の特別上映会を開催。これは原作者・木部氏と演出家・吉雄孝紀氏、北海道文化放送の特別のご厚意によるものです。

【伊福部昭先生卒寿記念祭その1】 
伊福部昭・時代を超えた音楽〜木部与巴仁講演会
日時◎2004年2月28日(土)14時から
会場◎3階多目的ホール 入場無料
講師◎木部与巴仁(きべ・よはに 作家、著書に『伊福部昭・音楽家の誕生』『伊福部昭・タプカーラの彼方へ』等。現在『伊福部昭・時代を超えた音楽』を準備中)
特別出演◎戸塚ふみ代(ヴァイオリン)、木須康一(ピアノ)
演奏予定曲目◎「ヴァイオリンとピアノのためのソナタ」「盆踊」(「日本組曲」より)

【伊福部昭先生卒寿記念祭その2】
伊福部昭の箏曲宇宙〜野坂惠子演奏会
日時◎2004年2月29日(日)18時30分から
会場◎3階多目的ホール
出演◎野坂惠子(二十五絃箏)、小宮瑞代(低音二十五絃箏)
入場料◎前売/小学生以上1,000円(当日1,500円) 電話予約もできます。お気軽にどうぞ。電話088・698・1100
演奏予定曲目◎「胡哦(こが)」「蹈歌(とうか)」「二十五絃箏甲乙(カンオツ)奏合交響譚詩」「二十五絃箏甲乙奏合七ツのヴェールの踊り〈バレエ・サロメに依る〉」「琵琶行(びわこう)」


寮美千子  月の心 花の心 2004年02月11日(水)04時06分40秒
ヴァレンタイン・レス。 へのコメント

パルステラさま、すてきなハートをありがとう。
パルステラ姫のハートはやっぱり謎めいているなあ。
わたしも真似して、ヴァレンタインのハート・ハンターになってみました。

月のハート
http://www.bitwaste.com/wasted-bits/archives/heart-moon.jpg
花のハート
http://www.heilmandesigns.com/Bleeding-Heart-41003.jpg

パルステラ  ヴァレンタイン・レス。 2004年02月11日(水)03時13分48秒
へんなレス へのコメント

>ところで、これはなんレスか? ------------by勇崎さま
>★THe Valentine Nebula 2
>http://www.godandscience.org/images/valentinenebula.jpg
                              
もしかして、恋するミジンコ、はたまた新種のミトコンドリアかも。
マクロもミクロも今週はハートフル・れす。

勇崎  ほろ酔い 2004年02月09日(月)22時55分02秒

きっと、誰の目にも、僕がほろ酔いだとわかるでしょう。
約8ヶ月、ちょっとなんだったのが、ようやく溶け始めて、ようやくハイです。
調子に乗って3連発で、ほど良い、とは言えず非難GO!GO!
ほろ酔いかげんもいい加減。
まもなくバレンタインで・デスので、世のご婦人がたへ、
もうひとつ大好きな伊福部評論を投稿します。

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『血液と風土−伊福部昭、その創作史の瞥見−』 片山杜秀

 伊福部昭の名が広く内外に認められたのは、『日本組曲(ピアノ組曲)』(1933年)と『日本狂詩曲』(1935年)によってである。この2作で伊福部の打ち出した作曲家としての立場は、つまりは民族主義ということだった。民族主義的作曲とは、自民族の伝統的音感覚を前面に出し、民謡や祭り囃子や、その他種々の伝承音楽のイディオムを、積極果敢に創作に用いる態度と実践を意味する。
 こうした民族主義的自覚をもって、伊福部は先の2作を世に送った。その自覚の強さのほどは、2作共に曲名に「日本」の2文字を入れているところにもうかがえる。
 が、その2作品に対する内外の批評は、恐らく伊福部にはやや心外なものだった。たとえば、12音音楽の啓蒙家でブーレーズの師でもあったルネ・レイボヴィッツは、パリの音楽雑誌にこう書いた。「伊福部は日本の青年作曲家の中で最も興味ある存在である。彼の独創性のうちには、日本固有の民族性ではなく、ある種の植民地的民族性が感じられる。」
 ここでの「植民地的」とは「多民族雑居的・雑種的・混血的…」というくらいの意だろう。つまりは純日本的民族主義には感じられぬとの批評である。東京の楽壇の反応も、まあ、これと大差なかった。
 こうした批評は、もっともだったかもしれない。『日本組曲』と『日本狂詩曲』に用いられる旋律・音型のみをとりだせば、それらは大方、日本伝統の5音音階の上に乗っかってはいる。しかし、それらの旋律・音型が反復・敷衍され、音楽的持続が作り出されてゆく際の手管、そこでの息の長さと強さは、本州以南の日本人の感覚------狭い平地でせせこましく田んぼを作ったりしてきた民族の伝統的感性------とは、確かに異質なのである。伊福部の音楽に認められるのは、言わば日本人離れした肉食的な迫力であり、また、島国的なせせこましさでなく大陸的な懐の深さなのだ。そのことは、『日本組曲』や『日本狂詩曲』を、この時代の他の日本人作曲家による民族主義的作品(たとえば清瀬保二『日本祭礼舞曲』や渡辺浦人『野人』や小山清茂『信濃囃子』や……)と聴き比べてみれば、たちまち了解されるだろう。
 ともかく伊福部は、『日本組曲』や『日本狂詩曲』への世評をふまえ、作曲家としての自身の姿勢に幾分の変更を迫られたようだ。つまり、『日本狂詩曲』までの伊福部は、日本民族の一員としての血液の自覚(※普通なら血の自覚とか言うところだろうが、伊福部は血よりも血液なる言葉を愛するので、それに倣う)に基づき作曲していたつもりだったのだが、そこに新たに風土的自覚を加えねばならなくなったのだ。
 伊福部にとっての風土的自覚とは、無論、北海道に生まれ育った人間としての自覚の意に他ならない。具体的にすれば、地理・気候的に、本州以南よりも満州やロシアにシンパシーを抱いてしまう感覚や、単一民族国家としての島国、日本に閉じこもるよりも、アイヌとの雑居の経験等を媒介に、北アジア、ユーラシア大陸へと自身を自然と開いてゆける感覚を、前に出してゆくということだ。
 こうしてリニューアルされた伊福部像が如実に示された作品が『土俗的三連画』(1938年)となるだろう。この曲では、3つの楽章のうち2つにアイヌ語のタイトルが付けられ、音楽の中身も、東北民謡風の日本的音型からアイヌの古老のうたった旋律までが、まさに北海道的、「植民地」的、北アジア的に雑居している。ここで伊福部は、日本一民族の歌声を奏でようとする作曲家から、日本を含みこむアジア諸民族の歌声を代弁する作曲家へと、要するにより大スケールな芸術家へと、自覚的変貌を遂げるのである。
 そして、この次に登場するのが、太平洋戦争期初頭に発表された『ピアノと管絃楽のための協奏風交響曲』(1941年)となるのだけれど、ここで伊福部は更なる新境地を開拓している。初演プログラムに掲載された作曲者のコメントを引こう。
 「血液の審美と現代のダイナミズムの結合が、この作品の主体である。またこれらに何等かの色彩を得たとすれば、それは私の個性と北方感覚の参加に他ならない。」つまり、この作品では、日本民族の血液と北アジアの風土に根ざした音感覚に、「現代のダイナミズム」を重畳することが企てられているのだ。
 土着的、土俗的な美意識と、現代文明、科学文明のイメージ。両者は、一見、相対立するとも思われる。が、実は両者は、狂おしいまでに粗暴になりうるとの一点のみでは鮮やかに結ばれうるのだ。伊福部はここに注目し、日本的、アジア的に雄頸な旋律美に、第2次大戦を巻き起こすまでに至った科学文明の凶暴なヴァイタリティを象徴する、メカニックな変拍子や不気味なポリリズムや暴力的トーン・クラスターを結びつけ、『協奏風交響曲』を書き上げたのである。結果、この作品は、1940年代までの日本のオーケストラ音楽で、突出して過激な楽曲となった。
 が、伊福部は、こんなモダニズムへの興味をたちまち失い、現代文明、科学文明を土俗的美意識の破壊者として糾弾するようになる。その転機となったのは『交響譚詩』(1943年)だ。この曲で伊福部は、北アジアの土俗感覚をひたすらノスタルジックに歌い上げ、そこには現代文明礼賛の志向はもはやない。そして、この『交響譚詩』の路線上に、戦後の伊福部の音楽はほぼ築かれてゆく。この路線転換とその継続には、戦争の悲惨な経過への絶望感や、科学者だった兄、伊福部勲の放射線障害による死、あるいはやはり科学者でもあった伊福部昭自身の、これまた放射線障害による闘病体験が、大きな影を落としていよう。(※因みに伊福部が見限った『協奏風交響曲』のコンセプトを戦後に継承したのは、伊福部の弟子の黛敏郎だったと、筆者は考える。)
 とにかく伊福部は、このような紆余曲折の末、アジアのノスタルジックなうたごえの擁護者としての立場にしっかり腰を据え、戦後作曲界のモダニズム的諸潮流------たとえば、観念的にとらえられたアジアの精神を、前衛的な音楽技法で表現することに活路を見いだそうとした、かつての盟友、早坂文雄や、その後継者の武満徹、湯浅譲二らの音楽------と、鋭く対立していったのである。
<1997年「伊福部昭音楽祭」プログラムより全文無断転載>

勇崎  へんなレス 2004年02月09日(月)22時24分44秒
カフェ・ルミエールに愛を込めて*Happy Valentine* へのコメント

ところで、これはなんレスか?
★THe Valentine Nebula 2
Hubble Space Telescope reveals a newly discovered planetary nebula(IC418.5).2002
http://www.godandscience.org/images/valentinenebula.jpg
自然界のハートレスか?
これがわからないぼくはハートレスかな。

勇崎  目々美々 2004年02月09日(月)22時17分09秒
カフェ・ルミエールに愛を込めて*Happy Valentine* へのコメント

視覚的美味茶色之麗糖謝々。
そういえば、以前に、バレンタインデーに一度もチョコを貰ったことがないと投稿していたおじさんがいたけど、そのごの収穫はあっらのかな。

パルステラ  カフェ・ルミエールに愛を込めて*Happy Valentine* 2004年02月08日(日)01時25分59秒

自然界にも楽しいハートがありました。

チョコレートはないけれど、せめてお目目に美味しいこんなハートはいかがでしょう。

★The Valentine Nebula 1
http://www.darkskyimages.com/ic1805.html

★THe Valentine Nebula 2
Hubble Space Telescope reveals a newly discovered planetary nebula(IC418.5).2002
http://www.godandscience.org/images/valentinenebula.jpg

★The Kirlian Photo (キルリアン写真より:おまけ)
http://www.desnetti.fi/kirliankuva1.jpg

寮美千子  「ジニーとシリア 自然保護に捧げた生涯」今晩放送! 2004年02月07日(土)19時44分55秒

北の大地の人々が大活躍のカフェルミエール。またひとつ、北からの知らせが届きました。こんどはなんとからアラスカです。

アラスカで写真を撮りつづけている土岐帆氏が手がけたテレビ番組が、今晩、放送されると、土岐氏ご本人からお知らせいただきました。かつてNHKハイビジョンで放送された110分番組を、90分の短縮版にした番組とのこと。舞台は、ブッシュ大統領のアラスカ油田開発計画をめぐり議会で激しい攻防が続いているアークティック・レフュージ。ここで自然の価値を訴え続けた二人の女性、シリア・ハンターさんとジニー・ウッドの生涯を紹介したものだそうです。おふたりとも、故・星野道夫氏と深い交友関係にあったことはよく知られています。

2月7日(土)夜10時〜11時半 NHK教育 【763262】
ETVスペシャル
「アラスカ、わが愛〜ジニーとシリア 自然保護に捧げた生涯」
土岐帆氏からのメッセージ
86歳になったジニーと同行したアークティック・レフュージの北極海岸で、ホッキョクギツネの子ギツネたち出会ったときの彼女の子供のようなはしゃぎ顔がいまでもぼくのこころに焼付いています。番組、ご覧になった方はご感想お寄せください。
土岐帆氏のホームページはこちら。

http://members.aol.com/izurutoki/

山田  あ〜いあ〜いごむていらぁ〜 2004年02月05日(木)22時18分49秒
黛敏郎さんの曲の歌詞 へのコメント

コーラス部分は伊福部昭『ギリヤーク族の古き吟誦歌』(46)より第1楽章『アイ アイゴムテイラ』の出だしのコーラスだったと思います。作詞・伊福部昭。02年の米寿記念演奏会に行かれた方はオーケストラ編曲版で聴かれています。これ合唱したんですか…。「おどろのしたをはろばろとぉ〜」

で、氏の卒寿記念演奏会がサントリーホールで5/31。チケットぴあに出てました。

勇崎  黛敏郎『伊福部先生の人と作品』 2004年02月05日(木)21時31分18秒
黛敏郎氏『伊福部先生の人と作品』/イオマンテ絵本近況 へのコメント

寮美千子さま>
「イオマンテ」イヨイヨ出るんですね。最終的にどんなテキストになったのか、楽しみです。それから、お言葉に甘えて、黛敏郎氏のテキストを投稿させていただこうと思います。全文の引用ですから、著作権に触れることは明かです。しかし、伊福部だけではなく、故・黛敏郎氏の知られざるお人柄をも知っていただく機会になるはずですから、問題にされ、咎められることはないと確信しています。つまり僕は確信犯。

silicaさま>
初演時のビデオを持っていたはずなのですが、なぜかありません。7年前の番組制作関係者に渡したままなのかも知れません。お応えできず、ごめんなさい。リトくんなら、わかるかも知れません。

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『伊福部先生の人と作品』 黛敏郎

 伊福部昭先生は孤高の人である。その音楽を聴き、その風貌に接し、その生涯を思うとき、他のいかなる作曲家との類似点にも、私は思い当たらない。
 北海道に生を享け、林学を修め、林務官として勤務されてのち作曲家に転向という経歴からして、他に例を見ぬ特異なものだが、その人柄が発する強烈な個性は、経歴の如何を問わず、まことにユニークなものである。
 昭和21年の秋、東京音楽学校(現在の東京芸術大学)に、管弦楽法の教官として赴任してこられた先生の最初の授業を、私は今でも忘れることが出来ない。
 当時は、終戦直後の混乱期で、戦前、日本音楽界の指導的地位を占めていたドイツ・アカデミズムに代わり、池内友次郎先生や安川加寿子女史に象徴されるフランス・アカデミズム‥‥ともいうべきものが、ようやく根を下ろし始めた時期だった。いずれにせよ、権威と保守性に裏付けられた日本の音楽教育最高の牙城に颯爽と現れた先生は、終戦直後の食うや食わずの時代というのに、ダンディな蝶ネクタイ姿で、開口一番「定評のある美しか認めぬ人を私は軽蔑する」というアンドレ・ジイドの言葉を引用され、「芸術家たるものは、道ばたの石の地蔵さんの頭に、カラスが糞をたれた。その跡を美しいと思うような新鮮な感覚と心を持たねばいけない」とか「ブラームスは第一交響曲を24年かかって書きあげた。パラキレフは32年かかった。真の創作とは、このように息の長いものだ」というような、まことにショッキングな発言をされた。そして当時、他の先生の教室では、ほとんど話題にされることもなかったストラヴィンスキー、パラコフィエフ、ショスタコーヴィチ、マルヴィチ等の作品が、情熱的に論じられたのである。
 多感な青年たちにとって、こうした言葉が何と魅惑的にひびいたことか、芥川也寸志、奥村一、矢代秋雄、私‥‥など、その教室の生徒たちは、忽ちにしてこの師に心を捉えられ、大きな影響を受けることになった。芥川氏などは、即日、はるばる日光の先生の寓居にまで、おしかけて行ったほどである。
 この日以後、決して大袈裟でなく、芸大作曲科の体質は大きく変化することとなった。いやもっと正確に云えば、変化したのは独り芸大にとどまらず、先生が昭和20年代から30年代にかけて矢継早に発表された諸作品により、日本作曲界全体の潮流が大きく変わったのである。松村禎三、石井真木、池野成、三木稔‥‥その他多くの逸材が、こうして伊福部門下から輩出した。その影響の大きさは、今に至るも絶えることなく、つづいている。
 先生はしかし、徒党を組んだり、派閥を形成することを好まれない。もとより、世俗的名声を得ることにも興味を示されない。後年、先生が東京音楽大学の学長に就任された事情を、私は詳しく知らないが、恐らく、その人柄の大きさと、誠実さに魅せられた大学当局が、三顧の礼を尽くして、ムリやりに近い形で先生を学長に推戴したものと、私は想像している。
 学長になられてからも先生は、毎年1月2日の晩になると申し合わせたように先生のお宅に集まり、夜を徹して音楽を論じ人生を語る。いつも変わらぬ若々しく情熱的な先生の言葉に、若者のように上気して耳を傾けるわれら弟子どもと痛飲することを、心から楽しんでおられるだけである。私たちはこうした師をパリ郊外アルクイユに隠棲して、隠然たる影響力をパリ楽壇に与えつづけたエリック・サティになぞらえ、自分たちでアルクイユ派を気取ったこともあった。
 先生の音楽は、その人柄と同じく、強烈な個性に貫かれている。それは単に、日本的、民族的という表現だけでは当てはまらない、もっと大きな個性である。誤解を招く危険を恐れず、敢えて云うならば、スラヴ的とでも云うべき哀愁を秘めたリリシズム、時として童心を喚起するような根源的‥‥いやむしろ子宮的とでも云うべきか‥‥ノスタルジア、それらが原初的、躍動的なリズムを伴って、執拗なオスティナートの上に展開する。それは疑いもなく北国の風土を思わせる慄然たる厳しさに貫かれている。
 よく整理され、周到に計算された、それでいて眩いばかりに色彩的なオーケストレイション。リムスキー・コルサコフやストラヴィンスキーがモデルとしても、先生のそれは更に精緻で、細かい神経と配慮に満ちている。一体、独学で‥‥ごく短い数日間の指導をチェレプニンに受けたことはあっても‥‥札幌の学生オーケストラでヴァイオリンを弾いていたという実地経験だけで、かくも見事な、練達の極致ともいうべきオーケストレイションの技術を、どうやって会得されたのか、全く謎としか云い様がない。
 更に先生の音楽の一大特徴は、対位法を欠除していること、そして主題の有機的展開が全く見られないことである。
 17世紀来の西欧の音楽が、最も特長としたこの二大要素を欠いていることが、先生の音楽をヨーロッパの美学とは全く異なるもの‥‥例えばインド、ペルシャ、アフリカ、或いは中国のような、非ヨーロッパ文化圏のものに近づける。それらの音楽と同じく、先生の音楽は、一元的、平面的、単細胞的であり線が太い。
 これらは20世紀前半のヨーロッパの現代音楽とは、まさに正反対の特長であり、その意味から先生の音楽は、既に今世紀後半の時代を先見し、先取りしていたことになる。私たちが、いま先生の音楽を聴くとき、それが半世紀近くも昔に作られたことを全く感じさせぬほど、新鮮で、力強く聴こえるのはそのためなのだ。
 最後に、先生の音楽の特筆大書すべき特長、それはヒューマンな味わいに溢れているということであろう。
 昭和59年2月21日、簡易保険ホールにおけるコンサートの劈頭、手塚幸紀氏の指揮による東京交響楽団の「交響譚詩」の最初のパッセージが流れ始めたとき、不覚にも私は、涙が滂沱と頬に伝わって流れるのを禁じ得なかった。
 かつてこの曲を初めて聴いた30数年前の若き日への追慕の涙であったかも知れない。しかしそれ以上に、あの音楽の持つ、人間存在の根源から揺さぶり起こすような、不思議な力とエネルギーに、眠っていた魂が呼び覚まされ、それが思わず涙となって噴出したのである。
 こんな現代音楽が、他に果たして存在するだろうか! 私も、死ぬまでにただの1ページでも良い、こんな音楽が書けたらなあ、作曲家冥利に尽きるだろうにと、つくづく思ったのである。

まゆずみ・としろう<キングレコード●K28G7189「交響譚詩/バレー音楽・日本の太鼓・ジャコモコ・ジャンコ」LP解説リーフレットから全文を転載>

silica  黛敏郎さんの曲の歌詞 2004年02月05日(木)09時41分50秒
笑顔の想い出 へのコメント

あの・・・すみません。
私は演奏会で聴いた伊福部さんのモチーフによる黛敏郎さんの曲の歌詞は何て言っていたのだろう、とずっと気になっています。耳をこらしたのですが、演奏しながら歌われていたオケの方々の声は鮮明には聞こえなかったのです。
指揮者のかたが「ご存知のかたはいっしょに歌ってください。」とおっしゃったあの歌詞はいったいどういうものだったのでしょう・・・? こちらもお差しつかえなければ、どうぞ教えてくださいな。

寮さんのイオマンテ絵本が動き出して、嬉しいです!

寮美千子  黛敏郎氏『伊福部先生の人と作品』/イオマンテ絵本近況 2004年02月04日(水)23時49分48秒
笑顔の想い出 へのコメント

伊福部さんのコンサートに行けなかった無念、やさしく慰めてくださってありがとう。なんだか、伊福部先生に笑顔で「それは偉かったねえ。僕もできればいっしょにそちらに行きたかった」といっていただけたような気がしてほっとしました。
黛敏郎氏による『伊福部先生の人と作品』(70年代か80年代の執筆)を僕はワープロに清書しています。もし、ご希望があって、ご許可いただけるなら、コピペしてこの板に投稿したいと思っています。by 勇崎氏
ぜび、お願いします。著作権問題が大丈夫なら。

絵本『イオマンテ―めぐるいのちの贈り物』の打ち合わせ、昨日パロル舎ですることができました。すでに原稿をお渡してあった画家の小林敏也氏が、文字の組み見本もつくってきてくださいました。今回は、文字数がかなり多くなります。だからといって、小さな文字にして押しこめるのではなく、むしろかなり大きな文字で組もう、と小林さんから提案がありました。文字自体を重要なデザイン要素として作っていこう、という姿勢です。文字の美しさと読みやすさを生かすために、縦組みにしようというアイデアもあります。また、新しい形の絵本ができる予感がします。じりじりと、五体投地のようなスピードではありますが、前に進んでいます。そろそろ、原稿をネット公開しようかとも考えています。よろしく!

山田  伊福部さんの新作です 2004年02月03日(火)09時03分54秒
伊福部昭様 文化功労者顕彰 お祝いコンサート  へのコメント

『日本狂詩曲』(ピアノ版)・新作
71年作の『リトミカ・オスティナータ(2台のピアノ版)の初演
以下、音更在住の川上敦子さんのHPより

http://www2k.biglobe.ne.jp/~critique/atsuko/index.htm

勇崎  笑顔の想い出 2004年02月03日(火)03時11分37秒
伊福部昭様 文化功労者顕彰 お祝いコンサート  へのコメント

silicaさま>
心の伝わるレポートありがとうございました。
僕は、業務という情け無い日常の事情から、同日の上京が結局叶わず、告白すれば、あなたの温かいレポートに、恥ずかしいほどウルウルいたしました。silicaさんに向けられた伊福部の笑顔の表情は、その場にいずとも、どんなだったかは脳裏に映ります。
silicaさんが書かれていた伊福部門下の作曲家ですが、故・芥川也寸志氏は最初の授業を受けた日に伊福部に感動し、そのまま日光の自宅までついて行き、3泊4日帰らず、音楽への想いと疑問を伊福部にぶつけたことや伊福部映画音楽の第1作目『銀嶺の果て』で芥川氏がピアノを弾いて収録したことなど、伊福部ファンには定番?のエピソードの持ち主です。
芥川氏と同じ日に同じ教室にいた故・黛敏郎氏についてですが、後に12音主義や前衛音楽(伊福部はこれらヴァイタリティ〜生命感の欠如した音楽の風潮を、姿形は命が生まれる鶏の卵だが、やがては腐ってしまう“無精卵”に喩えた)に埋没し伊福部と離反した同氏に、伊福部は「黛くん、早くこっちに帰ってこいよ」と新聞でのインタビューなどを通じて呼びかけ、やがて師のもとに戻った氏の献辞『伊福部先生の人と作品』は、僕の中で最も好きな伊福部論のひとつとなっています。

寮美千子さま>
僕が小学生だった40年以上も昔の1961年の4月のことですが、札幌の市民会館で、伊福部が作曲し自らが指揮を振った『北海道賛歌』の初演発表会がありました。僕はその日、伊福部本人を生まれてはじめて目にすることになりますが、リハーサルとゲネプロは会場で聴けたのですが、家の留守番をしなければならず、兄とそれをバトンタッチしたので、本番は聴けませんでした。特別なお金持ちだった家は別でしょうが、当時は今のように家に外から鍵をかけることは出来ず、誰かが家の中にいて留守番をする必要がありました。
その晩の打ち上げにはバトンタッチしてもらえたのですが、本番の話で盛り上がっていて、その場にいれなかった僕は、悲しい気持ちにさせられてしまいました。そんな雰囲気を察したのでしょう。伊福部は幼い僕に声をかけてくれました。留守番のため本番を聴けなかった、後ろめたい気持ちを伝えたら、伊福部は「それは偉かったねえ」と笑顔で僕を褒めてくれました。その笑顔は、ほんとうに子供を褒めるときの大人の顔でした。
長い前置きになってしましましたが、寮さんが田村すず子先生の最終講義に出席され、知里真志保氏の未亡人らとウポポを踊ったり、漂着物学会の石原元氏とお会いされていたことを、伊福部なら「それは偉かったねえ。僕もできればいっしょにそちらに行きたかった」と笑顔で褒め、心底羨ましがったと思います。

追伸
黛敏郎氏による『伊福部先生の人と作品』(70年代か80年代の執筆)を僕はワープロに清書しています。もし、ご希望があって、ご許可いただけるなら、コピペしてこの板に投稿したいと思っています。

寮美千子  田村すず子教授最終講義/漂着物学会ML 2004年02月03日(火)00時11分23秒
伊福部昭様 文化功労者顕彰 お祝いコンサート  へのコメント

silicaさん、伊福部昭氏の祝賀コンサートの模様、お知らせくださってありがとう。よろこばしい光に満ちた時間をお裾分けしていただいて、とてもうれしい気持ちになりました。わたしも、ほんとうは行きたかったんだ! 寮美千子は、1月31日の山梨県立科学館の「ラジオスターレストランへようこそ」再演にも行かず、2月1日の伊福部昭氏の祝賀コンサートにも行かず、何をしていたか? 

1月31日は『アイヌ語沙流方言辞典』を編纂された早稲田大学言語教育研究所の田村すず子先生の最終講義に出席。そのすばらしいお人柄に触れることができました。女性の学者として、りんと背筋の伸びた姿がほんとうにお美しかった。70歳の定年とのことですが、わたしもあんなふうにりんと年齢を重ねたい。懇親会では、知里真志保氏の奥さまの指導でみんなでウポポを踊ったりと、とても楽しい時間を過ごすことができました。田村先生にも、知里先生の奥さまにも、そして中川裕先生にも、制作中の絵本「イオマンテ めぐる命の贈り物」の原稿をお渡しさせていただくことができました。絵本、また一歩前進です。

2月1日は、藤沢で、漂着物学会の石原元氏にお目にかかっていました。石原氏は、ガンジスの河口付近で淡水エイの学術調査をしてきたというご経験があり、そのお話をお伺いしに行ってきたのです。

というのも、「楽園の鳥」の主人公ミチカに、ガンジスの河口を見せてやりたくなってしまったからです。ヒマラヤ山中で、氷河から溶けだしたガンジスの源流を見てきたミチカの物語をきちんと終わらせるためには、やはりガンジス河口を見せなければ。そう思い始めると、もうどうしてもそうでなくてはならないような気がしてきて、ついにインド行きを決意しました。

気がせいて、2月4日の便を押さえていましたが、さすがに仕事が片づかなくてキャンセル。2月末の便に振りかえました。出発までに終わらせなければならない仕事がいくつかあり、それに邁進しているところです。(というわりにはぐずぐずしてもいるけれど)

石原氏が調査に行かれたのは、ダイヤモンドハーバーという河口から少し上った港。田舎の、のんびりしたところだったとのこと。少なくとも、都市部よりは治安もよく、人もやさしいときいて、少し安心しました。どこでもそうだけれど、都市部の貧困と荒廃はひどいものです。田舎はのんびりしていて、人情も厚い。

しかし、そこから先のことは、いまのところ詳しい情報がありません。やはり、行ってみなければわからないということが、よくわかりました。作中に出てきたフランス領植民地「チャンドラナガール」もそうでしたが、日本人観光客がほとんど足を踏み入れていないような場所です。というか、外国人観光客もほとんど訪れないらしい。

お話の後、石原氏に案内していただいて鎌倉の材木座海岸へ。B−PALのビーチコーミングの取材で、湘南近辺の漂着物学会MLのメンバーが結集しているというのです。実はわたしも漂着物学会MLのメンバー。MLでいつもお名前は拝見しているけれど、はじめての方々にお目にかかれ、その「お宝」も拝見できて、楽しい時間を過ごせました。東林間のグリム書房でいつも接近遭遇未遂のケマさんにも、はじめてお目にかかれてうれしかった。

イギリスはヨークシャーからいらしているというエマさん(ケマさんとは別人)は、この日、わずか15分の間に「馬の歯」を10本も拾われたとのこと。見せていただくと、これがすごい。骨董の象牙のように美しいのです。鎌倉で馬の歯が拾えるとは聞いていたけれど、こんなに拾えるなんて! 武士の合戦の名残か、それとも、ここに根付け細工の工房があったというから、その廃棄物か……と、みんなの推理がまた面白い。わたしも馬の歯を求めて、また来ようと心に決めました。でも、いまのところ時間がないな。うーむ。

ガンジスの河口でビーチコーミングしたら、やっぱり人骨とか歯とか、拾っちゃうんだろうか。むむむ。

今年は、元旦に朗読ライブを決めてからというもの、いきなりインド行きを決意したり、大車輪。昨年は一冊も本を作れなかったし、今年こそ実り多き年にして、みなさんに手渡したいと思っています。がんばります。

寮美千子  リト氏の「いきなり寮美千子論」 2004年02月03日(火)00時00分05秒
リト氏の掲示板は自爆しました へのコメント

開始から一ヶ月ちょっとで、またもや閉鎖されてしまったリト氏の掲示板。やっぱりリトは「日本で1番掲示板運営に向いていない男」(自称)か。それもよし。実はそこに、リト氏の「寮美千子論」が掲載されていたのでした。感動でありました。用心深いわたしは、いつ閉鎖されるかわからないから、ちゃんと記録を取っておきました。リト氏の了承を得て、転載させていただきます。
いきなり『寮美千子』論 
投稿者:リト(日本で1番掲示板運営に向いていない男)  
投稿日: 1月16日(金)09時39分30秒

寮美千子〜作家・詩人。いきなりであるが彼女の作品を論じてみたい。寮美千子の魅力はどこにあるか。
1・メシがうまい〜寮宅で出される料理のうまさは絶品である。
2・かわいい〜ダンナ(オレと同い年)がうらやましい。
3・部屋でよく眠れる

じゃなぁ〜〜い!!

まじめに書く。札幌在住のオヤジギャグの天才社長から寮美千子の存在を知ったオレはまずその人の作品を知らないと何にしても失礼になると1冊の絵本を注文した。『おおきくなったらなんになる』(作・寮美千子 絵・はた こうしろう すずき出版)である。寮美千子との出会いで幸福だったと思うのは作品に惚れたことに他ならない。いまだにこの短い絵本を時々読み返している。

「おおきくなったらなんになる?」と少年と少女のやりとり。「ライオンになりたい」「でもこの野原はライオンには小さすぎるね」「だからたんぽぽのままでいいわ」という童話特有の繰り返しが続く。正直ここまではそれほどピンとこなかった。衝撃を受けたのは16ページから。それまでと一気に展開が変わる。「クレヨン クレヨン」。まるでそれまでのやりとりを破壊するかのように、少年と少女はクレヨンで自分の世界を作り上げる。そこには「野原」という「制約」もない。ライオンになりたい。だからライオンになる。クレヨンは野原を小さく書くことはない。どこまでも大きく書ける。ライオンはどこまでも走り続ける。「おおきくなったらなんになる?」の一言で絵本は終わる。

自分はいつも「クレヨン」を求めていた。今でも。死ぬまで。その心の線に触れて思わず目が潤んでしまった。

『星兎』(パロル舎)は長編童話であるが読後感はほとんど夢野久作『ドグラ・マグラ』のあの感動に近い。「あの日」はいつなのかわからない。主人公ユーリとうさぎが出会った日から何日かという時間感覚が混迷してくる。うさぎは一体どうしてここにいるの。じゃぁ人間の君は?答えようがない。ただ空が青いってこと。寮美千子は難しい言葉をほとんど使わない。本当に人間の原点ってことを読み手に問いかける。夢野久作が正木博士の犯罪を通して読者に切迫的に「人間ってどっから来たんだよ」というのとは対照的に優しく、本当に限りなく優しくでも同じことをずばりと問いかける。

寮の新作の詩(17日ポエトリーリーディングで発表・下記アドレス参照)は易しい言葉でしかし人間の原点を問う傑作である。星を書きながらも一級の反戦詩である。こういう反戦詩がもっとほしい。「互いの人生にかかわりもない人間同士が国家権力のために殺し合いをする」この人間史最大の矛盾をありとあらゆるオブラートでごまかしてきたのが国家とその腰巾着文化人とそれに洗脳された民衆である。人間を見据えよ。難しいことじゃない。政治論よりも利害関係よりもヘンなプライドよりも人間らしく生きるってことにみんな誠実になるべきだ。「遠くを見よう」。この言葉は『星兎』にも出てくる。その意味を原文でぜひ確認してほしい。

生の寮美千子女史とは何度もお会いし長時間お話しているのだがなぜか話題は共通の友人の巨顔コピーライター氏の話題で終わってしまう。今度こそ創作論についてじっくりお話したいものだ。
(あぁ今日も四国ネタを書かなかったぁぁ!)

DORONKO  四国行きは無理でも…。 2004年02月02日(月)12時48分02秒 http://8410.teacup.com/fauve/bbs
リト氏の掲示板は自爆しました へのコメント

……あれこれの前後のイキサツをツユほども知らず、一人タワムレテ
おった私、ドロンコでありました。ようやくにして、あたりの景色も
見えてまいりましたが、リトさんの掲示板が消えてしまったのは、
いささか心淋しいですね。
でも、その分、ここに登場してもらえばよいのかも知れず、やはり、
ものは考えようでしょうか。

昨日、ぼくは取材の仕事が入ってしまい、うかがうことができません
でしたが、伊福部先生をお祝いするコンサート、silicaさんの
レポートで、まるで自分も行ったかのような気になれました。
いつもバーチャルだけで済まそうなどとは思いませんが、ともかく
今回は(も?)silicaさんに感謝!です!

でも、四国までは、ぼくはちょっと行けそうにないなあ――。

silica  伊福部昭様 文化功労者顕彰 お祝いコンサート  2004年02月01日(日)23時40分53秒
伊福部先生祝賀コンサートが2月1日に! へのコメント

第一生命ホールで催されたお祝いコンサートへ行ってまいりました。

ヴァイオリン、筝、声楽と打楽器、室内楽、オーケストラと、とても盛りだくさんな内容で、伊福部昭さんの世界を堪能
いたしました。 この演奏会は、指揮者、奏者の方々おひとりおひとりが会場の中央の席におられる伊福部さんへ
心からの演奏を届けることに忠実でいらっしゃいました。演奏している方々の表情、音からもそれが感じられて、
ひじょうに気持ちの良い演奏会でした。

伊福部さんは杖をついておられましたが、お顔も言葉もとてもお元気でいらっしゃいました。
会場の拍手へ応えるために何回か立ち上がる場面ができてしまったのですが、向きを変えてまで深々とお辞儀をして感謝を体で表してくださる伊福部さんにこちらがもっともっと頭を下げたくなる思いでした。

1988年に9人の門弟の方々が伊福部さんの叙勲を祝う会のために作曲された「伊福部昭のモチーフによる讃」という曲が演奏される前には「このうちの4人はすでにもういないことがつらいものです。」 「私はまだこうして悪魔に呼ばれないでおります。」とお話なさいました。私は一番最後に演奏された「絃楽オーケストラのための日本組曲」(1988)を聴きながら、伊福部さんは音楽の中で悪魔を飼い慣らしていらっしゃるかもしれないなあ、と思ってしまいました。

壇上でのご挨拶の時に故芥川也寸志さんの奥様が花束を渡されました。アンコールでは、芥川さんと故黛敏郎さんの曲が再び演奏され、それは「ゴジラ」の響きがいっぱいのもので、伊福部さんを思いきり慕う茶目っ気のようなものが感じられました。このおふたりは子供の頃に毎週のように見たテレビの音楽番組で知っていましたので、突然よみがえってきて、涙がポロッと出てしまいました。

伊福部さんは今も新しい曲に取り組まれておられると聞きます。5月に卆寿を迎えられる伊福部さんの創作意欲がご健在であることが何より素敵なことだと思います。まだまだ悪魔よりも伊福部さんの地上への愛のほうがまさっていらっしゃる、と感じました。伊福部さんのそばにはお着物を着た玲さんがずっと付き添われておられましたので、ご挨拶をさせていただきました。今回はついに会場で購入した楽譜にサインをいただいてしまいましたが、伊福部さんが向けてくださった笑顔がとても魅力的で、帰りの電車の間中思い出しながら味わっておりました。


山田  リト氏の掲示板は自爆しました 2004年02月01日(日)09時22分48秒
ウメ子さんの新作CD! へのコメント

のでドロンコさんの暑い、いや失礼、熱い文章はどうかまた書いてくださいね(超失礼)。

ウメ子さんのCDはとっくに(去年の冬だっけ?)に出てます(レコ屋にあるって)。去年は少し体調を崩されたときき心配だったのですが、ジャケのいつものウメ子さんのお姿を拝見して心温まったというところです。あれ?昨日OKIさんと東京でライヴじゃなかったかなぁ。

あとアイヌ語入門書として有名な『エクスプレス・アイヌ語』(中川裕・中本ムツ子共著)の別売りカセットテープがCDになりテキストとセットで新装発売されました(白水社)。おむすびの祈りさまが聴かれた『アイヌ神謡集』で歌ってらっしゃる女性こそ、このテープでスキットをやられている中本ムツ子さんです。

それと2/28、29徳島県北島町創世ホールで開催される『伊福部昭先生卒寿記念祭』の告知を畏れ多くもK西さんをさしおいて私が書いてしまいました(下記アドレス)。行かれる方、本当に行ってほしいと思います。木部さんの語り、野坂さんのあの壮絶な筝演奏には鳥肌立つの間違いないです。でわ〜。

http://ryomichico.net/bbs/planets0005.html#planets20040201090101

寮美千子  きょう岸田秀・鈴木勁介氏最終講義 2004年01月31日(土)13時47分57秒

きょう、和光大学の名物教授、岸田秀氏と鈴木勁介氏の最終講義があります。
午後2時30分から和光大学J401教室にて。
お近くの方、ぜひ!

http://www.wako.ac.jp/for_students/e_fn_041116_02.html

DORONKO  ウメ子さんの新作CD! 2004年01月31日(土)13時35分36秒 http://8410.teacup.com/fauve/bbs

昨日、タワーレコードの情報誌「bounce」(多分、最新号だと思います)を
パラパラと見ていたら、その104ページに安東ウメ子さんの新作CDの情報が
載っているのを見つけました!!タイトルは「ウポポ サンケ」。これは
もちろんアイヌ語で、「自然に歌が出てくる」という意味だとのこと。
詳しくはリトさんの掲示板に書きましたので、どうか、以下をご覧あるよう!

http://6015.teacup.com/shimayama25/bbs

左近充円  子持ち銀河 2004年01月30日(金)21時17分10秒 http://www3.synapse.ne.jp/kouko/

昨夜から今朝にかけて、空がとてもきれいだったので、子持ち
銀河を撮影しました。
二つの銀河が衝突する寸前で、見かけでは子どもを持った銀河
に見えます。二つの銀河の間で、重力の綱引きがあるのが見て
とれます。
位置はりょうけん座。北斗七星の柄杓の柄から西に少しのところ
です。


http://www3.synapse.ne.jp/kouko/51.htm

鳥海  井上冬彦写真展 「サバンナに"いのち"輝く」 2004年01月29日(木)21時33分16秒 http://6004.teacup.com/michio/bbs

  ご無沙汰しています。
  過日のリーディング・ライブ、聴きたっかたなぁ。
  まだ、言ってます(笑)。
  この場をお借りして友人の井上冬彦さんの写真展の案内をさせてください。
  短い期間ですが関西方面の方は是非ともお出かけください。

  17歳の手塚少年は、終戦の告げられた8月15日に梅田の焼け野原に立ちながら、
阪急百貨店のシャンデリアがパーっとついているのを見て、
「ああ、生きていてよかった」と思ったそうです。
そのときに”いのち”を感じたことが「人生の最大の体験」であり、
その後の創作の原点になったそうです。
戦争や教育をめぐって不穏な足音が聞こえる現在にあって、
彼ならどんな風にこどもに語りかけるのでしょうか。
『ぼくのマンガ人生』(手塚治虫,岩波新書)には
今にこそ十分に通用する手塚治虫の肉声が綴られています。

約60年前には焼け野原だった阪急百貨店の向かいの阪神百貨店で、
井上冬彦さんの写真展がいよいよ始まります。
医師にして写真家の井上さんもまた
   ”いのち”の多様性を伝えてくれています。

●井上冬彦写真展 「サバンナに"いのち"輝く」
期日:1月29日(木)−2月4日(水)
時間:10時〜20時,最終日17時,2月2日(月)18時
会場:阪神百貨店9階・阪神美術画廊
ミニトーク:1月29日(木)13時,31日(土)&2月1日(日)13時,15時
問合せ先:阪神百貨店 06−6345−1201

http://www.fuyuhiko.jp/

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管理者:Ryo Michico <mail@ryomichico.net>
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