寮美千子ホームページ ハルモニア Cafe Lunatique (No.0032)

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寮美千子  たまには泣き言をいわせてくれー! 2004年02月16日(月)04時24分57秒

あるところで、わたしがある発言をしたら、ある人々と決定的に意見が食い違い、全然話が噛み合わなく、噛み合わない原因は、よって立つ場所が全然違うからで、相手がその違いを無視して細部に食らいついてくるので、ますます話が混乱し、わたしの立場からすればどんどん枝葉末節としか思えない話になり、閉じた集団の中での閉じたメール合戦はますます混乱し、罵詈雑言が裏で回っていたりもして、それは困るからなんとかわたしのよって立つ場所とその思想を理解してもらおうと、掲示板でのやりとりを提案したところが、寮美千子は話のレベルが低すぎるから嫌だといわれ、ともかくもまずわたしの立場を伝えなくてはどうにもならないと思い、しかし、わたしが日常当たり前と思っていることを、なぜそれが当たり前かを伝えるのは至難の業で、たとえば自転車の乗り方をすべて口頭で説明するようなもので、でもここでそれをやらなかったら、世の中の歯車は悪い方へとかくじつにひとつカチャリと進むわけで、それはやっぱり嫌だから、やるだけやって理解してもらわなくちゃと、相手にもわかるようになんとか伝えようとしたら、自己紹介からはじめなくちゃならなくて、誠実に逐一やったら、昨日と今日であわせて400字100枚もの長大な文章になり、もうすぐインドでそのまえに仕上げなければならないものがあるのに、ぜんぜんできてなくて泣きそう、という泣き言を言ってみたくなりました。

DORONKO  羽根があったような気がした…のは遠い昔です。 2004年02月15日(日)15時45分06秒
瑕だらけの天使 へのコメント

「引っ込みがつかなくなった」というのが正直なところです。
……「天使みたいな奴」は、ぼくには似合わないと思います。
小学生の頃だったら、自分でも相当イケてるんじゃないか?と
思うようなボーイソプラノだったので、その気にもなったかも
知れませんが、今は、アワレ、ただのムクツケきオッサンに
成り下がってしまいました――。

「児童館」のことは、危険がないわけではないし、それだけで
万々歳というわけには行くまいと承知しております。
ただ、「児童館」の館員とかだったら、うえやまさんのことを
冷静に受け止めてくれるような相談相手になれるのじゃないか
――というのが何よりの眼目でした。で、その相談相手の目の
届く範囲の中でなら、子どもたちと遊んでみるのもよいのでは?
と思ったのでした。

うえやまさんの復帰を待ちつつ、このテーマについては、今後も
折りにふれて考えてみたいと思っております。なかなか、すぐに
勉強もして……というわけには行きそうもありませんが。

寮美千子  瑕だらけの天使 2004年02月15日(日)05時46分44秒
ほんのちょっとの勇気を(1) へのコメント

だからドロンコって奴はさあ、とどのつまりは心根のやさしい天使みたいな奴なんだよなあ。ちょっとアワテ者なのが玉に瑕だけど……。

小児性愛者であることを悩んでいる人に対して、児童館の学童保育みたいなところへボランティアにいったらいい、というアイデアは、実に画期的なすごいアイデアだと思いました。ドロンコ氏でなくては思いつかないすごい手だ。

が、しかしほんとうにそれでいいのか? という危惧もあります。触れてはイケナイと思って抑圧するほどに幻想が強くなるから、いっそ飛びこんで子どもに慣れちゃって、相手がただのガキに見えるようになるようになるまでガンバレ、という趣旨だと思うけれど、リスクも大きすぎるようにも思います。

このアイデアをきいたご本人は、どう思うんだろう。わからない。

もしも小児性愛がひとつのアディクションだとしたら、問題はそのアディクションを起こす物質(子ども)のほうじゃなくて、うえやまさんに内在する原因のほうかもしれないという気もしますが、これもわからない。もしかしたら、うえやまさんは、自己評価がすごく低いのかもしれない。わたしもそうだけれど、それゆえ「嗜癖」みたいなものにはまりやすい。これは、治すのはとてもむずかしい。

むずかしいけれど、そのエネルギーをプラスの方向に導くことで「社会の迷惑」から「社会の役に立つ」人になれる可能性もあるのかもしれないとも思っています。作家が作品を書くなんていうのも、いわば「嗜癖」のエネルギーで、そうせざるを得ないという部分もあるかもしれません。わたしが文章を書くのも、少なからずそんな部分があると思います。

わたしを救ってくれたのは、書くという行為によって人とつながれたということかもしれません。作品を評価され、作品によって励まされたという声を聞くことで、少しずつ自分のなかの困ったものが解けていくような気がします。自分が励まされます。そして、いまもその途上のように感じています。

孤独にならないで、語りあえる場を持つということ、まずそれが大切だと思います。

DORONKO  ほんのちょっとの勇気を(1) 2004年02月13日(金)14時06分23秒
非常〜〜〜〜〜に深く考えさせられますな。 へのコメント

うえやまさん、お元気ですか?
まだ、この掲示板を見てくれていますか?
どうやら、いつの間にか意地悪オジサンのようになってしまっていた
ドロンコです。ぼくは、当年とって「人生50年」。
会社の中などでは、威張っているか、申しわけなさそうにしていたり
する人間が多い年代かも知れません。
自分ではそれほど老け込んだとも思ってはいなくても、
やっぱり齢とともに、アタマも固くなったりするのだろうと思います。

さて、うえやまさんのようなケースについて、
あまりウカツなことも言えないので、ニワカ勉強ぐらいはしてみようか
と思って、一昨日、近くの図書館に行ってみたのですが、どうも、
これというほど参考になりそうな本はありませんでした。
書店にはあったのですが、それはとても大きくて高価な本で、
プロでもないぼくが、気軽に買えるようなものでも
ありませんでしたので――。

……結論から言ってしまいますと、うえやまさんは、自分で自分のことを
「私のようなロリコンであり、かつ精神異常者であっても」
とおっしゃっていますが、たしかに「ロリコン」ではあるのかも
知れませんが、ぼくには、うえやまさんが「精神異常者」で
あるとは、ちっとも思えません。
だから、といったら少し飛躍のしすぎかも知れませんが、ぼくは、
うえやまさんは「大丈夫」だろうと、少なくとも、すぐに何かの
事件を起こしたりすることはないだろう――と思いました。
これは、当たっていますよね?

ただ、問題なのは、やはりご自分でおっしゃっているように、
「いつ『現実に』子供に手を出してしまうかもしれない」という
可能性が、まったくないわけではないということですね。

――でも、ここでお聞きしたいのですが(といっても、ここで
そのまま答えることには支障があると思いますので、“胸の内だけで”
答えてもらえば十分ですが)、うえやまさんは「何の抵抗もできないような、
いわゆる弱い女性=『幼女』にしか性的興奮を覚えない」とおっしゃって
いますが、少なくともこれまでは、そうした「幼女」=幼い女の子に、
“現実に手を出した”ことはないのですよね?

――もし、すでに「手を出して」しまったことがあるなら、まず、
「どのようにそのつぐないをするのか」についても考えてもらわなければ
ならないと思うのですが、もちろんうえやまさんは、その相手の女の子を
殺してしまったりなんてしてはいないでしょうし、おそらく、何かした
ことがあるとしても、「抱き上げてみた」とか、「抱きしめてみた」
ぐらいじゃないのでしょうか?
…だとすると、その女の子は、よくワケもわからないので、かなり
「ビックリした」のはたしかでしょうが、おそらく、ずっと心に残る
ような傷(いわゆる“トラウマ”)は受けていないだろうと思うのです。
つまり、かりにこれまでに何か「してしまった」ことがあるとしても、
上述のようなことで済んでいたとすれば、“かろうじて”だろうとは
思うのですが、うえやまさんに罪はありません。
そして、今後当分の間、「自分は大丈夫」ともっと自信が持てる
ようになるまでは、その「同じ女の子」には近づかないように注意
するべきでしょう。

DORONKO  ほんのちょっとの勇気を(2) 2004年02月13日(金)14時02分55秒
非常〜〜〜〜〜に深く考えさせられますな。 へのコメント

(長いので分割しました。(1)から読んで下さい。)

――ところで、問題はこれからです。

上の、あくまでも推測での話ですが、幼い女の子を「抱き上げ」たり、
「抱きしめ」たりすることって、それは、その子のお母さん=母親がするの
だったら、イケナイことであるどころか、むしろ、ぜひ「そうして
やるべきこと」だったりしますよね?これは、お母さんに限りません。
父親だって同じようなものでしょうし、母親の友だちであるオバサンとか、
近所のオバサンやお姉ちゃん、親類の年上の従兄姉とかでも、これは
“ごく自然な行為”と見なされるに違いないと思います。
でも、これが、「どこの誰かもわからない」、見知らぬオジチャンや
お兄ちゃんになると、そこに、急にバリアーでもできたかのように、
「近寄らないで!」という無言の声が響くことがとても多い……という
のが、この国でごく普通に観察できる現象ではないかと思います。
かりに、そのオジチャンやお兄ちゃんが、「危ない人ではなさそうだ」と
見えたとしても、その幼い子(ここではとくに「女の子」)の母親は、
「決していい顔はしない」というケースが大半ではないでしょうか。
――みなさんにもぜひ考えてみてもらいたいのですが、これって、
いったい“何”なのでしょうか?……おそらく、これはとても根が深い
問題なので、簡単に説明はつかない(たとえば、「それは母親ってものの
本能なんだよ」とか)とぼくは思うのですが、一つ、はっきり言えるのは、
こうした現象の中には、明らかに「関係性の病い」というべきものが
露呈している、ということです。

そもそも、人と人との「関係」はどのようであるのが「正しい」のか
というのもとても難しい問題で、ぼくのような素人が、その「正しさ」の
規準をここで提示してみせたりなどというのは、とてもできない相談
です。――しかし、かなり日常的にあちこちで観察されるに違いない
上述のような事態の中では、人と人との「関係」は揺らいでいて、
適切な「距離感」というものが見失われており、ほとんど「暴力的」な
ものになろうとしていると、ぼくは思うのです。そして、多くの
若いお母さんたちも、そこでとっさに「適切な関係」を構築したり
するような訓練はまるで受けてもいないので、とても「自分一人の
手におえるようなことじゃない」という気持が先に立つのでしょう。
ほとんどの場合、その場での「関係」を受け入れるよりも、「無関係」で
あろうとすることを選択している(それが、上述の“バリアー”です)
――というのが実情なのではないでしょうか。

……何が言いたいのか、みなさんにもわからなくなってきたかも知れませんが、
ここでうえやまさんのことに話を戻せば、たとえうえやまさんが何らかの
「病気」だとしても、それは、決して「器質性」のものではなくて、上述の
ような「関係性の病い」に他ならないとぼくは思う、ということです。
そして、「関係性の病い」は、簡単ではないにしても、決して治せない
ようなものではないと、ぼくは思うのです。おそらく、あまりに重度では
難しいだろうと思うのですが、うえやまさんはかなり理性的な方である
ようですし、自分の趣向についても、かなりよく自覚してらっしゃると
思いますので、きっと、そこから抜け出すことができるのじゃないかと
ぼくは思うのです。

DORONKO  ほんのちょっとの勇気を(3) 2004年02月13日(金)14時00分33秒
非常〜〜〜〜〜に深く考えさせられますな。 へのコメント

(長いので分割しました。(1)から読んで下さい。)

……「でも、どうやって?」というのは、とても難しい問題で、ぼくの
ような素人で、かつ、当事者としての経験があるわけでもない人間に、
適切なアドバイスができるとも思えないのですが、何と言うんでしょうか、
うえやまさんにはまず、幼い女の子を「怖がったりしなくてもいいんだ」
と思ってもらいたいと思うのですよ。
――うえやまさんが、「『幼女』にしか性的興奮を覚えない」というのは、
「性的に」という以前に、うえやまさんのような青年にとって、「幼女」と
接点をもつことが社会的なタブーと見なされるという風潮があって、
逆にそれだけ「幼女」が魅惑的な存在であるように感じられるという
心のトリックというのか、メカニズムのようなものもあると思うのですよ。
だとすれば、そのタブーの壁を、少しでも低くして、風通しをよく
してみる――というのも、一つの方法ではないかとぼくは思います。

具体的には、まず精神科に行け――では、いかにも自分が病人の
ようで、気が進まないことでしょう。かといって、児童相談所など
では、いきなり「犯人」扱いされそうな気もします。
……で、これは思いつきなのですが、もしうえやまさんが住んでいる
自治体に「児童館」のようなものがあるならば、そこに行って、
まずそこで子どもたちの面倒をみている人間に自分のことを話してみて、
その人間の許可なり同意を得た上で、そこに来ている子どもたちと
遊ばせてもらうのです。――ぼくの知っている例では、杉並区など
では区内のあちこちに児童館があって、そこに来るのは小学生ぐらいの
子が大半で、比率でいえば男の子の方がずっと多いのじゃないだろうか
とは思うのですが、もちろん、女の子がゼロなんてことはないでしょうし、
そうした場で、いわば、「ソフトに監視してもらいながら」、子ども
たちと遊んでみれば、子どもは決して「怖い」存在なんかじゃなく、
可愛いし面白かったりもする存在(生き物?)だってことが、無理なく
感じられるようになると思うのですが――。
で、うえやまさんのようなケースでは、やはりまだ危険もあるので、
この「ソフトに監視してもらいながら」ということがとても重要なので、
決して、「一人で(遊んで)いる幼い女の子」に近づいたりはしない
ように注意すべきでしょうね。

それと、もう一つは、気候も風土も、人と人との関係のあり方も、
日本とはまるで違うような国に、ちょっと長めの旅行にでも
行ってみてはどうか?――とも思います。唐突なようですけど、
たとえば、ブラジルのような、ちょっと、ぼくたちの常識なんか
通じそうもない国とかに――。ただ、その場合も、最低限の会話
ぐらいはできるように、1年間ぐらいはその国の言葉をしっかり
勉強してみる……ぐらいの努力はすべきだと思いますが。

……でも、上に書いたことは、あくまでも素人であるぼくの思いつき
にすぎません。専門家には「冗談じゃない!」と叱られてしまう
可能性も大いにあると思います。でも、うえやまさん自身に「面白
そうだな?」と思えるようなら、やってみてもいいんじゃないかとは
思うのですが――。

で、さらに具体的に相談したいようであれば、先に寮さんがここで紹介してくれた、
【過ちを繰り返したくない子ども性暴力加害者のためのBBS】
(下からどうぞ!)
に行ってみることをぼくもお勧めします。これは「えにし」さんという人が
開いている掲示板ですが、少し目を通してみて、彼はとても頼りになるなあ、
と感心しました。

ひとまず、ぼくから申し上げられるのは、こんなところですね。

 それにしても、もっとよく読んでくれたらなあ、と泣きたい気持ちです。
                              by寮さん
――済みませんですね。いつも、お泣かせしてばかりで……。

http://jbbs.shitaraba.com/sports/5578/

寮美千子  反論は相手の意見をよく読んでから! 2004年02月12日(木)22時25分30秒
また後で。 へのコメント

……あまりに文字数が多いので、読む前に戦意喪失し、何とか斜め読みだけでやり過ごそうとしてきた、というのが実情だったようです。by ドロンコ氏

DORONKO  また後で。 2004年02月10日(火)19時27分58秒
振り返りつつ。 へのコメント

今日、改めて過去ログにざっと目を通してみましたが、どうもぼくは
他のことに気が行っていて、寮さんが論じていることをしっかりとは
読めていなかったようですね。
……あまりに文字数が多いので、読む前に戦意喪失し、何とか斜め読み
だけでやり過ごそうとしてきた、というのが実情だったようです。
で、読み直してみれば、寮さんが言っていることは、おおむね至極
もっともだと、ぼくも思いはするわけで――。

じゃあ、ぼくはこの問題についてどう考えるのか、というのは、今すぐ
はキツイので、後ほど、改めて書きたいと思います。

[もう無視はできないと覚悟するに至ったとでも言いましょうか――。]

DORONKO  振り返りつつ。 2004年02月09日(月)04時38分07秒
DORONKOさんへ へのコメント

まず、傍観者的であることを承知で、結論から言わせていただきます。
うえやまさんの投稿を正面から受け止めて、それを発展させてゆくとすれば、
以下の、望ちゃん(「さん」とすべき?)のような述べ方が、ほぼ理想的な
ものじゃないかと思います。
ただ、これは本当に資質の違いというものだろうし、ぼくにはぼくなりの
事情というものもあって、今のぼくには、うえやまさんから提起された
「ロリコン」というテーマについて、望ちゃんほどに「思いを潜めた」
上で論じることはできません。無理に議論に加わろうとしても、やはり
粗忽になってしまうだろう。だったら、自分は、外から眺めるだけに
させてもらおう。――それが、ある時点からの、ぼくの態度です。

その「ある時点」の前に、たしかにぼくは寮さんに、このテーマについては
「あまり深追いはしない方がよいと、ぼくは思います」というメールを
出しました。ぼくは、このメールの文面は、自分では十分に控えめに
書いたつもりだったので、それが、これほどまでに寮さんからの反発を
受けることになるものとは思っていませんでした。「控えめに」では
何がなにやらわからないかも知れませんが、要するに、ぼくには、
この最初から今に到るまで、自分の意見や考え方を寮さんに押しつけよう
などという気持はちっともないということです。ただ、「ちょっと
注意してはどうか?」ということは、言わないよりは言っておいた方が
よいのではないか?と思ったからであるのは間違いありません。

それは、大長老がおっしゃるように、年端も行かない未成年などではない
寮さんに対しては、まったくおカド違いのお節介でしかなかったかも
知れませんが、それにしても、ぼくは、それほど出過ぎた真似をした
とまでは思っていないのです。――まあ、女性の友人というのはそれほど
いませんので、たしかに、女性に対して今回のような言い方をしたことは
ほとんどなかったかな?とは思うのですが、友人に対して軽く注意を
促したりということまで禁忌するという気持はぼくにはありません。
「人間は他人のサゼッションなんて受けたくないもの」だというのは
至極もっともなことで、ぼく自身、どちらかといえば、他の人間から何と
言われようと、自分で納得の行かないことには従わないというスタンスで
生きてきた人間なのだろうな、と思いますし。

……その後のことは、時間の流れに沿って整理しないと、寮さんが求める
だけの正確さには到達できないだろうと思うのですが、「でも、なぜ、
このテーマに関してだけ?」ということに関しては、明らかに誤解が
あったのではないかと思います。その点についてのこれまでのぼくの
返答は、たしかに十分に親切なものとは言えなかったと思いますが、
それは、最初の最初から、「このテーマだから」ということでは全く
ありません。ぼくは、寮さんから問われたので、「各人各様に、おのずと、
テーマが集約されているような掲示板の方が『ぼくの好み』」であると
いう言い方もしましたが、ぼくには「テーマに広がりがあるのは一概に
悪いことなどではないにせよ、その広がりには、やはり限度というものが
あった方がよい」という趣向があることは否定できないことで、今回、
このテーマが現れたときに、ぼくは、その「限度に達した」、あるいは
「達してしまうのではないか?」という思いがあったようです。
もちろん、これはぼくの好みなり趣向であって、それを他人に押しつける
つもりなんて、ぼくにはまるでなかったのですが。
また、寮さんにしてみれば、これだけ「ないがしろにすべきではないテーマ」
について、単なる形式上の趣味の問題に還元しようとするなんて、ちょっと
フザケテいるようにも取れるのでしょうけれども――。

具体的には、今回の「ロリコン」というテーマそのものについては、
「これは、そう簡単じゃないぞ」とは思ったものの、ぼくは、「どのみち
下らないことだ」とか、「論じるに値しない」というようなことは、
一切言ったおぼえはありません。それは、「どんな場合なら、ぼくは
コミットするのか」に言及していることだけでも明白だろうと思う
のですが――。
ですから、寮さんが「嫌悪を感じるのはまっとうな反応だと思います。
けれども、その嫌悪故に、ロリコン問題をなかったことにしたり、
見ないふりをする、というのは、問題だと思うのです」というのは、
ぼくを指して言っているのだと思いますが、これについては、すでに
述べたように、とても自分のことだとは思えないわけです。

でも、こんな釈明、やっぱり面白くも何ともありませんよね?
寮さんにも、どれだけわかってもらえるものか、いまだに自信なんて
持てませんが、このへんまでにしておきましょう。

勇崎さんのフォローにも、直接のお答えにはなっていないと思います。
どうかご容赦下さい。

そして、うえやまさん。ぼくのこれまでの言い方が気にさわったのだと
したら、申しわけなかったと思います。でも、ぼくは直接にあなたを
非難したりしてはいないということは、あなたにはわかるだろうと、
ぼくは思っていました。ですから、元気でいるのならば、どうかこの
掲示板を見捨てたりせず、また戻ってきてみて下さい。
お願いします。
ぼくはあなたのことをケアし続ける――というお約束はできません
けれども。

寮美千子  傷つきやすいやわらかな心を失わないまま強くなる 2004年02月09日(月)02時54分25秒
犯罪から自身に線を引くことと、思い遣ることの違い。 へのコメント

望ちゃん、ありがとう。心からの言葉と気持ちで、まっすぐにうえやまさんに語ったのは、ほかでもない望ちゃんだと思いました。この掲示板で誰もできなかったこと、わたしにもできなかったことを、望ちゃんはしたのだと感じました。自分の痛みを引き受けながらも「加害者予備軍」と自称するうえやまさんを思いやる望ちゃんの心の深さに、涙が出る思いでした。
私は被害を受けたことで、それが加害・被害を含め多々起こっていることにもかかわらず、自分自身が「世の中的な」タブーになってしまったことを知りました。
加害・被害にかかわらず、それをタブーにしないことがきっと「予防」につながり「救い」になっていくのだと、わたしは思っています。

けれど、何よりいちばん大切なことは、望ちゃんのようなまっすぐな心。人の深いところにきちんと届く言葉。確かに誰にでもできることではないし、誰にでもそうせよといえるものではありません。けれど、それがとても大切だと、わたしは感じています。
人によっては私の知ろうという姿勢こそが私の病を深めている原因だとも言います。私もそうかもしれないとは思います。(中略)先人のやっていることで充分だから君は誰かにまかせて忘れて幸せになりなさい、とか言われそうだけど、私は意固地なのです。このうえ幸せになってやるぜ、という勢いですよ。
しあわせになって! しあわせになろう! しあわせになれるよ! 傷つきやすいやわらかな心を失わないまま、思いやるやさしさを失わないまま、きちんと強くなること、きっとできるはずだと、わたしは思っています。そうやって得たしあわせは、きっと何ものにも傷つかないダイヤモンドの輝きを宿していると信じます。

  犯罪から自身に線を引くことと、思い遣ることの違い。 2004年02月08日(日)22時59分28秒 http://www.h4.dion.ne.jp/~eulalie/top.htm
七生養護学校&ロリコン問題/タブーを超えて へのコメント

望です。
ちょっと長くなります。


以下、うえやまさんの投稿
「非常〜〜〜〜〜に深く考えさせられますな。」
http://ryomichico.net/bbs/cafe0031.html#cafe20040130212228
よりの引用

> 一番こわいのは、
> いつ「現実に」子供に手を出してしまうかもしれない、
> 私自身の「異常性」です。

(中略)

> 今は、かろうじて「理性」で欲望をおさえてはおりますが、
> いつ「現実」に行動を起こしてしまうのではないかと、
> 自分自身、心の中で、はらはらしております。
> もし、いつか、自分が、このような惨事を起こして、幼く、かつ尊い人命を奪うような
> ことがあった場合は、潔く死刑になって、罪をつぐなうつもりではいます。
> あくまで理性のある今の時点は、です。
> ただ、危険な情勢ではあります。
> 私のような犯罪予備軍が、実際に「手を出す」ことのないように、
> 「予防」することが必要なのです。


 うえやまさんは、

寮さんのReview Lunatique
「■傷つけるな・殺すな/長崎の少年による幼児殺害事件と自衛隊のイラク派遣」
http://ryomichico.net/bbs/review0007.html#review20030712170440

 の中に書かれている、寮さんの身近で実際に被害にあった子どもの話のくだり
を読んで、心を痛め、自分自身の中にある加害者になる可能性について考えずに
はおられず、その果てに書き込みをされたようですね。
アクションを起こされたこと、快く思います。

 重複になりますが

> 私のような犯罪予備軍が、実際に「手を出す」ことのないように、
> 「予防」することが必要なのです。
> 実際に事が起きてからでは遅いのです。

 という訴えが、
 自分でもどうしたら良いのかわからずこの場所へ投げかけられた、
 ひとつの真摯な問いでもあると受け止めています。


 それはそれまでの
長崎の少年の幼児殺害事件
大阪の宅間被告の児童殺傷事件
への、寮さんの意見や私たちの書き込みの流れの中にある投稿だと思います。


もしも殺人衝動や無力な相手への性的な衝動をおさえがたく自分の中に持つこと
になった人間が、そこへ踏み切る、あるいは自らを投げ出す、
そのまえに緩衝材になるものがあるとすれば、
それはいったいどんなものなのか。

いろんなひとがいれば、
大きな事から小さな対処まで、いっぱい知恵は出し合えると思います。



一連の記事を、思い悩みながら眺めていました。
私の立つ位置からでは
心の中にいろんな感情が噴出して
個々の発言の真意を読み取って行くのが難しかったからです。

何のきっかけだったか、歌をうたって子どもが服を着替える番組の話になって私
が「懐かしいー」と言っていたら友人が「あー、小児性愛者御用達の番組ね」と
いうようなことをさらっと言って、当時の私はそれを考えもしなかったものなの
で本気でポカーンとして、かなりヘコんだことを覚えています。

友人は男性だったのですが、むしろ私ががっくりきていることのほうに驚いてい
ました。そういう見方をしている人がいるという認識のほうが、彼にはポピュラー
だったのでしょう。

私は、20歳以前にそういう話題を耳にしたとしても、ふーんそんな人もいるの
ね、程度に聞き流して自分にとって目前のものである毎日の生活や学校の勉強や
部活動のことで手一杯だったことでしょう。
あえて、なにかを自分の前にもってきてそこに据えて考えるには、年齢にしては
幼すぎ、忙しすぎ、意味もなく疲れて、学校と家の往復だけをきっちりと守って
生きていました。

性的なこと、
そうした被害・加害のことを考えつづけ、それを自分の前に据えつづけて言葉を
探そうと真剣に思いはじめたのは、自分が一九歳の終わりの秋に、人にうまく説
明することのできない、
同情されない出来事に遭遇してからのことです。

それは私にとってひどく不可解で、納得できない事件で、それを抱えきれなかっ
たことと、周囲の人の助けを必要なだけ得られなかったことで、その後長い時間
(2、3年)をかけて私の心身とそれまでの価値観と人間関係は少しずつ壊れて
失われて行きました。

そのバラバラな世界から私が「ここ」へ帰ってくるのに、どうしてもバラバラな
世界をあらわす「言葉」が必要でした。
私を理解できないとして去った人、私を傷つけた当の人間、通りすがりの人にさ
え、聞こえる言葉を得なければ私はもう人々の安心や安全の世界には渡ることを
許されないんだというのが、当時の自分の実感でした。

私は被害を受けたことで、それが加害・被害を含め多々起こっていることにもか
かわらず、自分自身が「世の中的な」タブーになってしまったことを知りました。

そのために私は「それ」について知ろうと思いました。
自分自身の症状を見つめ、決め付けないようにしながら似た症状の書かれた本を
読み、医者を探し、必要な場合は薬も処方してもらっています。

そしてその過程で社会のなかに、あまり知られてはいないけれども存在している
自助グループや専門家がいるらしいことも一応知りました。
(私自身はその中に閉じることを恐れ、自分自身を保っていたいという保身のた
めにそこへは向かいませんでした)


まず自分を知らなければ、例えば見当違いな批判からでさえ、誰も守ってはくれ
ません。それはなにも周囲の人間が特別冷たかったからではなく(まあ少しは冷
たかったですけれど)、私の陥った状態が表面的なイメージでしか世の中に知ら
れていなかったためです。

人によっては私の知ろうという姿勢こそが私の病を深めている原因だとも言いま
す。
私もそうかもしれないとは思います。
5年経った今でもそうしたことの書かれている専門書を読んでいて気分が悪くな
るし、ほんの時々憑かれたように性被害の記事を追ったりします。
もしも私という人間が別のなにか世の中的に健全だと思われている方法で身体や
心に折りたたまれてねじれたものを発散できたなら、それはそれでいいです。
けれど私は知りたい。
そしてそれを何らかの形で、同じように苦しむ誰かに手渡せるものとして、置き
換えたいと思っています。
先人のやっていることで充分だから君は誰かにまかせて忘れて幸せになりなさい、
とか言われそうだけど、私は意固地なのです。
このうえ幸せになってやるぜ、という勢いですよ。

> 一番こわいのは、
> いつ「現実に」子供に手を出してしまうかもしれない、
> 私自身の「異常性」です。
> そうなってしまえば、当然、その時点で警察に捕まり、私の人生は終わりです。
> そのくらいの「現実」は私程度の人間でも理解はできます。
> こわいのはその後、です。
> 今のストレス社会の中、重圧に押しつぶされて、いつ、精神の「タガ」がとれて、
> 私みたいな異常者が、「実際に」行動を起こさんとも限らんのです。
> 現に私もその候補者なのです。
> 蒸し返すようで申し訳ないのだが、大阪の「池田小」事件もその類のものなのです。

わたしはまずうえやまさんに、自分を異常だと責めることをやめてほしいと思います。
正直言って私は被害にあってから、自分の中に子どもに対する嫌な視線があるこ
とに気がつき、自分も衝動的に加害者になるのではと考えたことがあります。
そういうときに、自分を「異常者め」と責め出すと、逆に追い詰められ、自分自
身や他者への行き場のない衝動は増すばかりです。

自分を責めないととてもじゃないけれど居たたまれませんが、
居たたまれないー居たたまれないー、と思っていたほうがまだましです。

自分と似た傾向をもつ人が犯罪を起こしたとき、恐怖で流されないでほしいと望
みます。最後の最後、で意志を持っていてほしい。
犯罪を起こすのは私たちの中の異常性ではありません。
異常性に乗っ取られた私自身の手です。

それから、できれば潔く死刑にはならないで下さい。
死は償いにはならないと私は思っています。

立場生き方違うかもしれませんが、
これを縁と思って
一緒に考えて行きませんか。

勇崎  “希望”が逃げ出さぬように 2004年02月08日(日)04時47分30秒

インターネットが現れる以前、入手(受信)できた情報は、他者の判断を経て、その後公開されるというプロセスがありました。例えば、出版物は執筆者(発信者)からの情報を編集者が取捨選択し、さらに出版社が選択したものだけが書店の書棚に並び、それを受信者が選択して入手する、という出現以前にいくつかの眼に“試される(洗練)”というプロセスです。

インターネットでは、他者に“試される”というプロセスが全く割愛され、発信者からの情報をダイレクトに受信できる。つまり、書店に出向いたら、編集者や出版社に嗜好やクオリティなどを“試されて”いない本が無限に近いほど、無数に並んでいる状態です。しかもその書棚に、それまで受信者だった自分の“本(発信)”も並べられる。

インターネットは、通信メディア《個から特定個、もしくは特定多数》と広報告知(パブリシティ)メディア《個から特定多数、もしくは不特定多数》、出版・発行(パブリッシング)メディアといった、複数のメディア特質が混成された、かつてない、いわば夢のメディアなのかもしれません。この夢が、まさに“人類の夢”なのか、“悪夢”なのかは、使い方、使われ方しだいであり、それが“試されれて”いるのが、“いま”という時代なのだと感じます。

そこで、“悪夢”とは、どのような状況なのかを考察すると、インターネットによるグローバル化は、“バベルの塔”であり、他者に“試される(洗練)”というプロセスの割愛は“パンドラの箱”なのでは?、といった警戒心を僕自身、抱いてしまいます。

誤解が生じるといけないので、意味を規定しておきます。
いうまでもなく“バベルの塔”は旧約聖書に記述されている逸話です。一般的には「実現の可能性のない架空的な計画」の意として使われていますが、僕は別の意味を感じ取っています。“バベルの塔”のあらすじでは、ノアの大洪水の後、人々が天にも達する(神の存在する場所を越える)ような高い塔を築きはじめ、神は「人間たちが同じ言葉を使い始めると神をも怖れぬ僭越なことをするようになる」と怒り、人々の「言葉を混乱」させ、工事を中止させた、とあります。これは、地球上(地域ごと)にたくさんの異なる言語が存在する根拠を神話的に伝える逸話でもあります。

インターネットによるグローバル化は「人間たちが同じ言葉を使い始める」状況の構築であり、“バベルの塔”の逸話に、人間自身が読み解くことが出来ない人間の本質的な“悪夢”があるとすれば、「人間たちが同じ言葉を使い始める」その未来が心配になり、警戒心を抱いてしまいます。

ちょっと余談ですが、911で最初に感じたことは、ある宗教観を持った人たち(旧約聖書はユダヤ・イスラム・キリストの各教派に共通する聖典)が、WTCビルをグローバリゼーション(英語の世界言語化)を象徴する“バベルの塔”的建造物と考え、神にかわって崩壊させるという大義だったのでは、ということでした。

“パンドラの箱”も、いうまでもなくギリシア神話に出てくる話です。広辞苑によると“パンドラ”は「ギリシア神話に見える地上最初の女。天の火を盗んだプロメテウスを罰するためにゼウスがヘファイストスに造らせた」とあり、“パンドラの箱”は「ゼウスがパンドラに、あらゆる災いを封じ込めて人間界に持たせてよこした箱。これを開いたため“不幸”がとびだしたが、急いで蓋をしたため“希望”だけが残ったという」とあります。(文中の“”マークは強調のため僕が勝手につけたもの)
前述の「書店に出向いたら、編集者や出版社に嗜好やクオリティなどを“試されて”いない本が無限に近いほど、無数に並んでいる状態」にアクセスするということは、“パンドラの箱”を開ける状況に似ているように思うのです。

複数のメディア特質が混成された、かつてないメディアとしてのインターネットの本質を論理的に解析する能力のない僕は、非論理的な聖典や神話などの引用からしか、今のところ、この状況をとらえることしかできません。しかし、千年単位のスパンで取捨選択され、生き残っている逸話でもあり、それらに盲目的に服従しているわけではありませんが、“教訓”の一部として、考察や提起の下敷きにしてもよいのではと思っています。

寮さんとDORONKO氏の対話状況は“パンドラの箱”の蓋を、いつどこで閉じるのか、というタイミングの感じ方の違いのように思います。寮さんもDORONKO氏も、いずれも「“希望”につながる」ようにするために、意志を表明されていることは確かだと感じます。DORONKO氏は〜“パンドラの箱”なのだから、すぐに蓋をしないと、“不幸”や“災い”がより多くとびだしちゃうんじゃないか〜と心配し、寮さんは〜もし、“パンドラの箱”だったなら、いま蓋をすると、“希望”が飛び出せないで残したまま閉じこめちゃうことになる〜と語っておられるように感じます。

僕自身の姿勢を述べる必要がありますが、「社会における反社会性」を語り合うことは、語り合うための下敷きとなる情報も得やすく、アクセスしやすいのですが、「個人の嗜好における反社会性」を語り合うには、専門的でディープな情報も必要となり、その困難に躊躇してしまいます。ですから、DORONKO氏に近いのかも知れません。この件については当初に投稿したように、自分の経験をノー天気に語り、お茶を濁すのが精一杯です。

ただいえることは、このような困難に果敢にチャレンジされ、開かれたものにしようとされている寮さんに、この板の“希望”を見いだすのです。

希望が毀れたり、逃げ出さぬよう、アンガージュし続けたいと思っています。

吉木克実  よっ!大統領!! 2004年02月07日(土)23時55分49秒
DORONKOさんへ へのコメント

じゃなかった、大長老。
ふむふむ。
納得です。
さすがです。


大長老  DORONKOさんへ 2004年02月07日(土)21時34分30秒

この掲示板で起こしてトラブルはずーっと、ずーっと同じパターンですよ。

同じ事が繰り返し顕現するのは、その背景に当人の本質的なるものが潜在するわけですね。
なんでしょうかね。
あたしはこう推測いたします。

あなたの善意や老婆心がその本質の正体だと。
あなたは一般的尺度でいってしまえば、善意の方なんだとあたしは認識しております。

じゃなぜ、その善意がとどかないのか。
いや、届いてます。届いて多くの方々から感謝されてます。

自動車を手配してくれて有難う、と。
つまり、身体的善意の表出には四国遍路における「お接待」のかたちになるのだと。

だが、しかし、掲示板の書き込みになると、これは言葉ですから、
「お節介」
になってしまう。
大人ならわかるでしょう。人間は他人のサゼッションなんて受けたくないものなのです。

サゼッションの正しい仕方は、限定的です。
相手が尋ねてることに絞り込んで、さらに尋ねてる時にしぼりこんでのみ
発信されるべきでありましょう。かき言葉の場合はね。

できることなら、名指しで尋ねられた時だけ答える。
そのぐらいを心してるのが、ちょうどいいあんばいだと考えます。
例外はもちろんあるけど。
とにかく、相手の質問の核心に注意を払う。限定的に答える。
まあ、ここらへんは、あたし自身にもよくよく言い付けてるんですけど。

ところで、DORONKOさんの掲示板ではトラブル起こりませんよねー。
寮さんがしきりに書き込んでてもなんら問題はおきてない。
http://8410.teacup.com/fauve/bbs

これはなぜか。
これはあたしにもわからない、謎です。

でもDORONKOさんならわかるかもしれない。寮さんならわかるかもしれない。

あらら、あたし、サゼッションしてますねー、DORONKOさん。
こまったもんです。とほほです(汗)

DORONKO  どちらもホントのつもりで……。 2004年02月07日(土)09時03分06秒
深呼吸はするけど、代弁は必要じゃない へのコメント

みなさん、相済みません。
とりわけ吉木さんには、ご心配をおかけしましたね。

ぼくは、誰かに代弁してほしいとも、していただくことになろうとも
思ってはいませんでしたが、「寮さんやここに参加しているみんなが
消耗するのを心配したんじゃないかと」というのは、ほぼ当たりです。
まったくその通り、と言いたい気持です。
それにしては、言い方が稚拙すぎたようですが。

で、改めて、ちょっと言わせてもらうことにします。
寮さんは、ぼくの態度について、「恐らく、そこに、このような問題を
避けようとして、その結果隠蔽・抑圧してしまう『世間一般』に通じる
心理のメカニズムがあると思ったから」とおっしゃってますが、実の
ところ、ぼくに「避けたい」ものがあるとすれば、それは決して今回の
テーマそのものではないのですよ。MOKUMOKUさんの投稿には思わず
反応してしまったことからもわかってもらえるんじゃないかと思ったの
ですが、ぼくはこのテーマが嫌いじゃなんかないし、むしろ好きなの
かも知れず、ということは、当然、(とくに社会的に)無視できない
問題だとは思っているのです(このことは、最初から明言したつもり
だけれど?)。

でも、何といえばよいのか、今回のようなテーマについて論じるならば、
もうちょっとクールな方がいいというか、あまりに同情心でいっぱいに
なったりするようだと、誰も助からなくなるとか、出口がなくなって
しまう――ような気が、ぼくにはするのですよ。

それにしても、昨日のニュースでも、所沢の方では小学生がいきなり
殴られるという事件が続発していたり、津田沼のあたりでは売物の
ランドセルが大量に切り裂かれたり、そうした暴力にとっては「弱者」
以外の何物でもない子どもたちを直接間接に対象とするような事件が
報じられない日はないような毎日で、ということは、今ぼくたちが
生きているこの社会が、そうした事件の要因となったり、あるいは
それを誘発するような要素をどれほどたっぷりとかかえ込んでいる
のかということを、よく考えてみなければならないと思わされますね。
それは、たとえば、明らかに「ロリコン的な趣味」を助長するの
ではないかと思われるようなアニメのビデオ(最近ではほとんど
DVD化している)が驚くほど大量に流通=氾濫しているということで
あったり、高校生はもちろん、小中学生までもがケータイを持っている
のが当り前のようになって、ほんのささいな好奇心から「出会い系」の
サイトにアクセスしたりする子どもも少なくない……というような
状況であるわけで、こうした現状については、とにかく規制を強化
すればいいのだ――ということで済むとは思わないけれど、ぼくは
決して喜ぶことなんかできないし、やっぱり、こんなに「何でも
あり」のような状態っておかしくないか?と、つくづく思います。

でも、そもそもが、いたるところで「家庭」というものが崩壊して
しまっているのだとしたら、きっと、有効な対応策なんて出てきや
しないだろうと――悲観するしかなくなってしまったりもして。
(もちろん、みんながみんな、そんなにコワレテしまってばかりじゃ
ないとは思っているけれど――。)

……そんなワケで、いろいろ矛盾したようなことも言っているようでは
あるけれど、ぼく自身は、どちらもホントで、とくにウソを言った
つもりでもないのでした。
「ほかに大事な問題が」というのも決して単なる口実ではなく、
今朝も小論文めいた長いメールを出した後だったりして、とっても
ヘトヘトなのです。「一応、ここまで書いときゃいいだろう」と
思ったので、その余力で、こんなことを書いてみたわけで――。

吉木克実  なるほど、わかりました 2004年02月06日(金)17時54分21秒

僕がこの問題に直接触れないのは、
自分の中でどこまでを小児とするのかの線引きがあいまいなのと、
小児を性的対象とする、あるいは、
しなければならない心理がいまひとつ理解できないからです。

小児の定義を棚上げして、大雑把に「子供」としますね。

「子供しか相手にできないなんて、それこそ子供じゃないか」
といってしまえば、それもそうなのですが、
同世代あるいは大人の相手に本当に性欲を感じないのか、
そのあたりが疑問として残るからなのです。

僕にとって軽くは論じられない命題なのです。
寮さんが軽く扱っているわけではないのはもちろんわかっています。
まあ、確かに僕がドロンコ氏の代弁(になるかどうかはしらんけど)なんて、
確かに余計なお世話でしたけどね(^^ゞ

それにしても、うえやまさんはあれいらい書き込まないけど、ROMしてるんかしら・・・



寮美千子  深呼吸はするけど、代弁は必要じゃない 2004年02月06日(金)16時26分45秒
とりあえず、深呼吸でもしません? へのコメント

吉木さん

吉木さんのやさしいお気持ちはわかります。けれど、代弁は必要ありません。わたしは、彼の言葉で彼の気持ちが聞きたいだけ。そして、どんな稚拙な言葉でもいいから、一生懸命自分の気持ちを話そうとすることが、まっとうなコミュニケーションをする基本だと思っているのです。

「ぼくちゃんはほんとうは、こんなことをいいたかったんでしょう? 違うかしら?」って横からいうのは、一見やさしく見えるけれど、ほんとうのやさしさじゃない。それは甘やかしです。おかあさんのスカートの陰からしか、物をいえない人を育ててしまう。ましてや、大人にそんなことする必要はない。本人の言葉を待てばいい。
ただ、ぼくと同じようなことを感じた人間がほかにもいたようだということは、せめてもの救いだなと思っています。by ドロンコ氏
わたしは、ドロンコ氏がこんな書き方をしていることにも、実は納得がいきませんでした。「特定個人を攻撃しているのではない。そういう考え方自体に異議を申し立てたい」という表現のつもりで、わざと「いくつか」というぼやかした書き方をしました。「ぼくだけが攻撃されている」と誤解されたくないと思ったからです。けれど「深追いするな」というメールは、ほんとうはひとつしか来なかった。(ただし「びっくりした」というメールはいただきました)

その配慮を「それみたことか。そう思ってるのはおれだけじゃない」式の言い方で受け止められてしまったことに、わたしはとてもがっかりしてしまった。わたしの読みが甘かったということでもあるんだけれど。

たったひとりでなんの後ろ盾もなく自分の意見をいうというのは、勇気の要ることです。でも、わたしはそれが大切だと思う。人はいつだってそこに立ち返るべきだと思う。「自分の気持ち」を大切にしてほしい。そこからしか、真実の対話は生まれない。

わたしがドロンコ氏にきびしくいうのは、ママになって育てようとしているからではありません。彼と対等に対話したいと思っているから、まっとうな対応をしようとしているのです。

吉木さん。吉木さんも、だれかの代弁じゃなくて、自分の意見を言ってほしい。わたしは、深呼吸するから。



吉木克実  とりあえず、深呼吸でもしません? 2004年02月06日(金)15時50分08秒

親愛なる寮さんへ

ドロンコ氏の心情を代弁できていないかもしれないけれど、
一言いわせてね。

ことが小児性愛となると、性的嗜好以外に倫理観、常識論まで論点が広がって、
あらぬ方向に議論が行ったきり収拾がつかなくなる予感があったんじゃないかな?

寮さんのなんでも正面からまじめに受けてたつ態度はすごく好きだし、尊敬するけれど、ドロンコ氏は、
今回の件で寮さんやここに参加しているみんなが消耗するのを心配したんじゃないかと思うんだけど・・・

ドロンコさん違ってます?

寮美千子  本心で語ってほしい/ごまかしが世の中を悪くする 2004年02月06日(金)13時13分23秒
ぼくは100%自分を把握してなんかいないけれど――。 へのコメント

だから、なんでこの話題に限って「深追いするな」とご忠告をくれたのか、その理由をのべてほしいと再三いっているのです。

話題がばらける掲示板が「ぼくの好み」ではないという。だけど、それだけじゃないはず。それなら、この掲示板にはほかにもいろんな話題が登場するわけで、なぜ「ロリコン問題」とわたしが呼んだこのことにだけ、ある意味過剰に反応しているのか。その底に、どんな心理があるのか。それを教えてほしいといっているのです。恐らく、そこに、このような問題を避けようとして、その結果隠蔽・抑圧してしまう「世間一般」に通じる心理のメカニズムがあると思ったからです。そのメカニズムが、問題を抱えた人間を孤独に追いやってしまい、その結果犯罪をより起こしやすい土壌を作ってしまうことに加担しているのではないか。わたしたちは、そこのところしっかり自覚すべきだと思う。

結局、ドロンコ氏は答えない。明らかに矛盾した言い訳をつけてごまかしている。たぶん、それだけ強いタブーが働いていて、適当な言い訳をつけて自分で自分をごまかそうとしているのかもしれない。そして、いまも自分の本心から目を逸らし続け、言い訳をいい続けている。

「ぼくの真意についての寮さんの推測は、まるで見当違いです」といいながら、その「真意」についてはついに一言も語ろうとしない。あげくに、自分に時間がないことを議論に参加しないことの言い訳にしている。あなたが参加しないのはあなたの自由です。けれど、それはわたしに「深追いするな」なんていうメールを出す理由にはならない。わたしはあなたにこの議論への参加要請なんか最初からしていないんだから。

「深追いするな」というから、その理由を尋ねただけです。そして、あなたはそれに正面から答えようとしない。はぐらかすだけ。

不誠実だと思います。一言でいい、本心を語ってくれればいい。「異常性欲者とかかわると、きみの身に何かの危険があるかと心配になった」でもなんでもいい。ほんとうのことをいわないで、はぐらかしの空虚な答弁ばかりするのは、不誠実です。それではコミュニケーションは成立しない。わざわざ掲示板に書き込む意味がない。

わたしは前から何回もこの掲示板でドロンコ氏にいっているけれど「あなたの気持ち」を聞かせてほしい。世間がどういっているとか、ほかにも同じ忠告メールを出した人がいるとか、そういうのはどうでもいい。今回はきっと「深追いするな」があなたの気持ちだったのだと思います。けれど、じゃあ何でそう思うのか、尋ねられたら一歩自分自身に踏み込んで考えてほしい。ごまかしたりしないでほしい。ごまかすくらいなら、黙って逃げた方がずっとマシです。断固として「語りたくない」という姿勢を示すことになるから。掲示板は自由参加なのだから、誰も強制しない。

ただ、答えるからには、きちんと実のあることをいってほしい。わたしは「本心を避けて、ごまかしの理論で通す」ことが、この世界を不幸にしていると思っている。ブッシュ大統領も、小泉首相もその意味では同じだと思っています。そのような匂いに、個人個人が敏感になることからしか、世界はまともにならないんじゃないかと感じている。だから、本心できちんとコミュニケーションしようよ、といいたい。

ただひとつ、今回のことでわかったのは、この件に関するタブーがそれだけ強いということかもしない。自分自身で自分に踏み込めないくらいタブーが強い。ドロンコ氏は、言葉では語っていないけれど、頑ななその態度でそれを語ってくれた。だからこそ、この問題は根深いのだとも思いました。そして、同じように感じている人々は、ドロンコ氏の背後にもきっとたくさんいることでしょう。これを機会に、ぜひ自分の気持ちを見つめてほしい。

タブーを超えて、本心を語りあいましょう。そこからしか、打開できないこともあるはずです。

DORONKO  ぼくは100%自分を把握してなんかいないけれど――。 2004年02月06日(金)10時48分39秒
ロリコン問題/なぜ忌避するのか、自分の気持ちを見つめてほしい へのコメント

残念だけれど、ぼくの真意についての寮さんの推測は、まるで見当違いです。
かといってぼくは、自分のことは自分が誰よりもよく知っている、それこそ
100%、自分は自分を把握しているのだ――なんて言うつもりはありませんが。

理由はごく単純です。ぼくには無限の時間があるわけではなく、ぼくには
ぼくの大切な問題があるので、今回のような問題には関わっていられない
ということです(能力的にも適性があるとも思えないし)。

でも、寮さん、ぼくは貴女に「指図」などしているのでしょうか?
一応、友人のハシクレであるとは思うから、サジェスチョンはさせてもらった
とは思うけれど、「指図」は、ちょっとひどいんじゃないだろうか?
――ともかく、貴女は、もう走り出しているわけだから、ぼくはこれ以上
何も言いません。好きにやって下さい。

なお、MOKUMOKUさんの投稿は、とても適切なものだと思います。
そんな分際ではないかも知れませんが、ありがとうございますと言って
おきたいと思います。MOKUMOKUさんがお書きになっているように、
われわれが通常用いている「ロリコン」という言葉は、かなり漠然と
していて、「小児愛的傾向があること」とか、「そのような傾向の
持ち主」のことを指しているのでしょう。それが徹底、あるいは昂進
すればpedophileになるのでしょうが、おそらく、国民性の違いということも
あって、ぼくたちが日常の会話の中で話題にするような「ロリコン」は、
いわば「ソフトなpedophilia」の域を越えないものが大半ではないかと
思います。ただ、明らかにpedophileによるpedophiliaであると見てよい
ケースも、あまり明るみには出ないまでも、きっとこの国でも相当数
あるのだろうなと思います。そうした、いわば「ダークな」領域にも、
今後はもっと目が向けられなければならないのでしょうね。
しかし、その方面についてこれといって専門的な知識も持たないぼくが
理解できることは、このへんまでです。これ以上は、どなたかに
おまかせするしかありません。

吉木克実  さらに簡単に 2004年02月05日(木)18時37分03秒
ごく簡単に。 へのコメント

括弧つきは、ちょっと強調しすぎだったと思います。
以上

寮美千子  ロリコン問題/被害者の存在 2004年02月05日(木)18時31分56秒
ロリコン問題/自助グループの存在 へのコメント

▼加害者と被害者が語り合う場としての掲示板
【過ちを繰り返したくない子ども性暴力加害者のためのBBS】に、ロリコン被害者からの投稿が載っていました。被害者は、自分の体験を怒りとしてぶつけることで、加害者ないし加害者予備軍に、それがいかにひどいことなのかを伝えようとしています。

重たい問題だと思います。被害者は、単にその時ひどい目にあった、というだけではなくて、その後何年もの間、心の平衡を失い、精神科通いが続いたり、時には入院、また自殺未遂や自傷などに悩まされていることもあります。時には、加害者にそのようなことを「許した」自分を「許せなくて」、罪悪感を自分自身に向けて、責め続けるようなことにすらなってしまいます。

ロリコン、正確にいえば小児性愛を実行することは、それだけで一人の人間の心や人生を壊してしまうひどいことなのだということ、被害者の生の声を聞いて理解することが、加害者予備軍には必要なのだと思います。そして、それを自覚することが、小児性愛者がそこから真に脱しようと思うきっかけとなり、助けになるとも思います。

上記の掲示板では、加害者と被害者のそのような交流がなされ、機能しているように感じました。

一方で、被害者側から「このようなサイトが存在するだけでも不快」という指摘があり、加害者側の主催者として、掲示板や日記の閉鎖を考えているとのことです。

しかし、あらたな被害者を出さないためにも、このような交流の場はぜひとも必要だと感じました。掲示板主催者には、ぜひともがんばってほしいと思います。

▼真剣なサイトが必要
そのような真剣なサイトが存在する一方で、チャイルド・ポルノのサイトは、当たり前のようにして大量に存在します。アニメのなかにも、小児性愛を助長するような表現が満ちあふれています。それが「当たり前」のことのような風潮があるのは、確か。

余りにも犯罪的なものは別ですが、それを一概に規制しろとはいえない。安易な情報統制はいかんと思うからです。けれど、そんな愚劣なものが当たり前な世界だからこそ、真面目に語り合う場は確保されなければならない。安易なポルノサイトに比べて、真面目に語り合うサイトのいかに少ないことか。

一般掲示板に、ロリコン者として加害者になるのではないかと恐れているような人が入ってきたら、やっぱり安易に拒否したり忌避したりしてはいけない。フラットに語り合える環境づくりこそ、犯罪を未然に防ぐことに役立つのだと思います。

けれども、一般世間にはやっぱり忌避の気分があるらしい。その原因は何なのか、わたしたちこそが、自分の心のなかに問いかけることが必要だと思うのです。

寮美千子  ロリコン問題/自助グループの存在 2004年02月05日(木)17時42分58秒
非常〜〜〜〜〜に深く考えさせられますな。 へのコメント

▼うえやまさま
小児性愛からの脱却を望んでいる人のための、自助グループがあるようです。下記の小児性愛者の掲示板でも紹介してもらえるようです。また「赤城高原クリニック」でEメールによる相談の受けつけや、自助グループの紹介も行ってもらえそうです。もう、ご自分で調べているかもしれないけれど。

ひとりでドツボにはまるより、同じ悩みを持つ者同士の情報交換、専門家の示唆などが有効かもしれません。アルコール中毒と同類のアディクションという説もあります。ともかく、抑圧しないで語ることが大切だと思います。大変だとは思うけれど、がんばってくださいね。

寮美千子  「ロリコン」という用語/小児性愛から回復するためのサイト 2004年02月05日(木)16時13分26秒
ロリコン へのコメント


「ロリコン」という言葉、MOKUMOKU氏のご指摘の通り、適切な用語ではないかもしれません。うえやま氏の告白の中で括弧付きではありますが使用されていたので、そのまま引き継いで使用してきました。わたし自身も、用語として考えるべきであるとは思ってきましたが、暫定的に使ってきました。

日本とアメリカでは、「ロリコン」という言葉からうける印象が大部違うと思います。日本では、単に若い女性に恋愛感情を抱きがちな傾向があるということから、小児性愛にいたるまで、すべてを含めて「ロリコン」と呼ばれています。

うえやま氏の場合は、日本で一般的に言われている「ロリコン」というより「小児性愛者」と限定した方が、話が正確であると感じていました。しかし、ロリコンという言葉がこれだけ一般化しているので、その言葉で語ったほうがいいかも知れないとも思っています。迷うところです。


「小児性愛」で検索をかけると、様々なサイトがあがってきました。小児性愛を助長するようなものから、小児性愛から抜け出したいと切に願っている人のサイトまで、様々です。

【小児性愛からの回復】
回復を願う小児性愛者の日記 被害者から、このような日記があること自体不快であるとの指摘を受け、閉鎖を考慮中とのこと。本人は日記の継続を望んでいる。

【過ちを繰り返したくない子ども性暴力加害者のためのBBS】
上記の日記執筆者が開いた掲示板。

【ロリペドやめる友の会】
「ロリコン・ショタコンなどの小児性愛(ペドファイル)をやめたい人のためのサイト。小児性愛をやめるための情報を掲載」とのこと。本人が何故小児性愛にはまったかについての考察が参考になる。

以上のサイトは、どれも切実さを感じました。


このサイトの中で、小児性愛者が「性の自己決定権」の意味を歪めて解釈し「子ども自身が望み、快感を得て、幸せを感じているのだから悪いことではないのではないか」として、自己肯定をしていたが、それは間違いであると気づいた、と告白していました。

小児性愛者の中には「ほんとうに愛しているのだから犯罪ではない」「互いに愛しあっていた」という肯定の言い訳もあるようです。

そのように自己肯定する人々にとっては、それを禁止されることは「ロメオとジュリエット」になった気分かもしれません。

当事者になると、そのような落とし穴があるのだなと、サイトを読んではじめて実感しました。想像力の欠如かも知れませんが「子どもに性行為をする」ことに、このような自己弁護があるということを、なかなかイメージできませんでした。子どもと性行為をすることは「子どもの人権無視」だというのは自明のことであると思っていたからです。

自明ではあるけれど、一旦関係性の中にはいってしまうと、そのような錯誤があるということがよくわかりました。そのような閉じた関係のなかでの不当な自己肯定に陥らないためにも、ネットでの意見交換は有効であると思いました。確かに、被害者感情もあるだろうけれど、その被害者を出さないためにも、意見交換の場は大切。日記も、閉じないで頑張ってもらいたいと思います。

MOKUMOKU  ロリコン 2004年02月05日(木)14時22分04秒
ロリコン問題/なぜ忌避するのか、自分の気持ちを見つめてほしい へのコメント

この問題にかんして、ここに述べておきたいことが二つある。
その第一は、「ロリコン」、「ロリータコンプレックス」ということばをつかうことが適切かどうかということ。
ごぞんじのように、LolitaはVladimir Nabokovの小説であるが、題材が問題になり、1950年代アメリカでは出版できなかった。1955年パリのオランピア・プレスから出版され、当時賛否両論があり、Lolita=ポルノグラフィ―という印象が強く、その映画化の際にも大問題になった。ここでその経過を書くことが目的ではないから省略するが、ナボコフの死後、彼の作家としての評価はますますあがり、現在では今世紀のもっとも文学としての純度の高い作家としての地位が定着している。Lolitaは20世紀の古典になっている。数年前、ニューヨーク市立図書館でのナボコフ展では、連日大勢の訪問者があった。私事にいたるが、アメリカでは入学志願者の高校生が志望大学にエッセイを書いて送る。わたしの長男は、コロンビア大学にナボコフのLolitaにかんするエッセイを書いて送った。日本で高校生がロリータに関するエッセイを書いて大学に送ったら問題かもしれないが、サイードが比較文学のヘッドであった大学に、ロリータについて書いたエッセイを高校生が送っても全く問題にはならない。

いわゆる「ロリコン」というのは、pedophilia(子供を対象にした性愛)である。(註:幼児愛傾向をもつものはpedophile)。
小児〔性〕愛、小児〔性〕愛者がより正しいと思うが、他人に強要するするつもりはない。わたしは、ロリコンということばは決して使わない。

二番目はpedophileの実情。
Lolita映画化のさい、pedophileによる連続殺人事件がおこったイギリス、ベルギーでは上映反対運動がおこった。アメリカでは永久に上映できないと思われていたが、1998年、ケーブルテレビで放映されてからは、なしくずしに一般公開されるようになった。

ここでお伝えしておきたいことは、数年前テレビでみたpedophile関連の調査報告である。もう何年も経っているので、詳細は記憶していなが、わたしのコメントを加えず、報告の内容だけを書いておく。
それは、国際(犯罪)組織による、幼児の誘拐および金銭による売買である。その組織は、誘拐または買った北欧およびアジアで幼児をアメリカの富裕なpedophileに高額で売るのである。対象となる幼児は男児のほうが女児より多い。売買された幼児は、大金持ちのpedophileたちによって性的虐待を受けるのであるが、わたしがショックを受けたのは、性的虐待を繰り返したあと、「最終的には幼児を殺す」というところであった。殺すという行為も性行為の一部である。

寮美千子  ロリコン問題/わたしの憂慮はコミュニケーションの欠如です 2004年02月05日(木)14時21分25秒
ロリコン問題/なぜ忌避するのか、自分の気持ちを見つめてほしい へのコメント

ぼくは、掲示板というものがいかに自由な論議の場でありうるとしても、あまりに「何もかにも」になることは、好きではないのです。各人各様に、おのずと、テーマが集約されているような掲示板の方が「ぼくの好み」なのです。by ドロンコ氏
っていうけれど、うえやまさんの発言は、長崎の少年による幼児殺害事件に触れたわたし自身が書いたレヴューに応答する形の投稿でした。つまり、わたし自身による問題提起への応答です。ドロンコ氏は、それをわかったうえで、いっているんだろうか?

うえやま氏は、わたしの意見に応答してくれた。けれど、ドロンコ氏は、わたしの意見を無視しているも同然。どちらがより交流的か? コミュニケーションとして成立しているか、といえば、当然うえやま氏です。問いかけがあり、答えがある。

しかし、このようなデタラメな対応をドロンコ氏がするのには、きっと理由があると思う。ドロンコ氏が自分でも気づかない何かがあって、それを忌避してよそに無理矢理理由を見つけだそうとするので、こんなつじつまの合わない話になってしまうのだと思うのです。

そして、きっとこれはドロンコ氏だけの問題じゃないと思う。「ロリコン問題」を読んで、なにがしかの嫌悪を感じた人すべての心のなかに潜んでいる問題だと思う。

嫌悪を感じるのはまっとうな反応だと思います。けれども、その嫌悪故に、ロリコン問題をなかったことにしたり、見ないふりをする、というのは、問題だと思うのです。繰り返しいうけれど、それはロリコン者を孤独にし、隠蔽抑圧し、結局は犯罪を誘発することになりかねない。心のなかのタブーを超えて、語り合うことが大切だと思います。

うえやま氏の応答の発端となったわたしのレヴュー「傷つけるな・殺すな/長崎の少年による幼児殺害事件と自衛隊のイラク派遣」の一部を転載します。
勿論、親にも責任はある。しかし、親だけの責任問題ではない。これは、わたしたちみんなの問題なのだ。わたしのように「子どもの本」に関わっている者は、なおさら考えなくてはいけない。

「命の尊厳、という抽象論ではなく、傷つけるな、殺すな、という具体的なことを、子どもたちに伝えなくてはならない」と文部科学大臣がコメントした。

わたしはいいたい。だったら、イラクへ武装した自衛隊を派遣するなと。殺される危険のみならず、殺す側に回る可能性もあるというのに。

アメリカのイラク攻撃や自衛隊派遣を支持する政治家を選ぶことは、すなわち「自分と家族の命を大切にしないこと」であると、より多くの人に気づいてほしいと思う。

12歳の少年にも、少年の親にも、責任がなかったとはいわない。しかし、そんな世界をつくったわたしたちひとりひとりにも責任があるということをしっかりと受けとめたい。

寮美千子  ロリコン問題/なぜ忌避するのか、自分の気持ちを見つめてほしい 2004年02月05日(木)12時52分48秒
ごく簡単に。 へのコメント

ドロンコ氏の書き込みは「何を憂慮しているのか?」という質問の答えになっていません。なぜ、ロリコン問題をここで取りあげたくないのか? わたしに深追いするなと忠告までするのかの答えは、ひとつもありません。まるで「先ほどの答弁ですべてお答えしました」という政治家のようだと感じました。
ぼくは、掲示板というものがいかに自由な論議の場でありうるとしても、あまりに「何もかにも」になることは、好きではないのです。各人各様に、おのずと、テーマが集約されているような掲示板の方が「ぼくの好み」なのです。
とのことですが、第一ここはあなたの掲示板じゃない。わたしがこの問題について語ろうとしているのに、あなたに指図されるいわれはない。

百歩譲って、参加者の嗜好も考慮するとして、だったらあなたは一体、ここで何を討議したいのですか? 何に話題を集約させたいのでしょうか? 集約させたい話題のために、積極的に討議に参加していますか? 「この話題はやめろ」と否定的な忠告をするのではなく、「この話題を語ろう!」と自分の意見を言って積極的参加をしているといえるでしょうか? わたしにはそうは思えません。

積極的参加もないのに、どうしてわざわざこの「ロリコン問題」に関して、深追いするなといわなければならないのか?
寮さんの書き込みが、「うえやま」氏に対してというよりも、あまりに急に「みんな」に対して発されているようで、ぼくは、そうした声の発し方では、かえって当の「うえやま」氏に届きにくいのではないだろうか――と感じたのかも知れません。
意味不明です。ドロンコ氏は、うえやま氏の発言に対して「フェイクではないか?」という疑念を表明しました。それがゆえに「深追いするな」とわたしにメールをくれました。だったら、どうして「うえやま氏に届きにくい」なんていうことを心配しなくちゃいけないのだろう? 理屈になっていない。

それから、わたしはうえやまさんの書き込みが真実であろうがなかろうが、語るに値する、語り合うべき問題だと捕らえていると、再三書いています。うえやまさんに対してだけじゃない。積極的に「みんな」に発信する意義を感じている。それのどこが悪いのか、わたしには理解できない。

ドロンコ氏は、わたしの「急発信」に関して、違和感表明をしたかっただけなのだと思います。しかし、なぜ違和感を感じたのか? なぜこれを話題にしないのか? に関して、ほんとうはもっと直接的な答えがあるはずと思う。「憂慮」に関しても、もっと具体的な何かがあるはずだと思います。それをまっすぐに語れないところにこそ「ロリコン問題」の問題点があるのだと、わたしは感じました。なぜだかわからないけれど、タブーを感じる。自分でもそうと感じないままに、実は心の深いところで嫌悪して忌避する感覚がある。それこそが、この問題をより隠蔽し、抑圧し、ロリコン者を押さえつけてさらなる犯罪を誘発することになると思うのです。

うえやまさんを、単に「ロリコン」というネタで寮美千子をからかおうとしている「荒し」じゃないかという疑念もあるでしょう。だったら、そういえばいい。そういわないのは何故だろう? 問題は「荒し」の部分じゃないように思う。やはり「ロリコン」という性的なことが語られているというところに、ドロンコ氏は(自分でも気づかずに)何か拒否反応のようなものを感じたのではないかと思います。

その「何か」がわからないから、返答もはっきりとしない、何かはぐらかすような、最近の政治家の答弁みたいなものになってしまったんじゃないか。とわたしは推測します。

うえやまさんの名前を漢字表記したことに関しても「寮さんは、ぼくに対して過度に警戒心を発揮しているのじゃないか?」というドロンコ氏の感想ですが、わたしが警戒心を発しているのはドロンコ氏に対してじゃない。いわゆる「弱者」に対して、居丈高な態度を取る人々に対しての警戒心であり、嫌悪です。他意がなかったとドロンコ氏はいうけれど、わたしにはとてもそうは思えない。漢字で名前をあげつらうことで、正直に告白した相手にさらなる痛手を与えようとしているように感じられる。

そして、もしそれがわたしの思い過ごしだとしても、やはり問題だとわたしは思います。「他意はなかった」のであれば、それは単なる無神経です。確かに、投稿が実名でなく内容も虚偽である可能性もあります。しかしその一方で、すべてが事実である可能性もあるはずです。

もし、事実だったらどうするか。勇気を持ってそのような告白をした人に対して、配慮は必須です。事実が知れればあからさまに差別の対象になることがわかっているロリコン者に対して、何の配慮もしないというのは「強者」のおごりです。わたしは、このような奢りを最も嫌います。だからこそ、わざわざ漢字表記すること、しかもカギ括弧つきで、ということに、強く反応したのでした。わたしは、ドロンコ氏に、思いやりを持ってほしい。わたしのことを心配してくれるのはわかるけれど、心配の余り、おずおずと告白してきた弱者を痛めつけるようなことをしてほしくない。

もし、うえやま氏が「荒し」だとしたら、わたしだって撃退します。「荒し」というのは、コミュニケーションしようとしない人々のことです。目的がコミュニケーションではなく、別にある。だから、こちらが何をいっても空振りしたり、揚げ足を取られるだけ。そういう書き込みは困る。

けれど、うえやまさんの書き込みはそんなんじゃなかった。恐らく、長崎の少年による幼児殺害事件を検索していて、わたしの文章に遭遇したのだと思います。その感想を、そして自分の思いを、自分の言葉で述べてくれた。わたしには、そのように感じられました。自分の心を隠し、一見もっともらしい空虚な言葉を重ねる人々に比べ、わたしはうえやまさんの書き込みに誠実さを感じたのでした。そう感じたからこそ、わたしはこの問題に対して、真剣に考えたいと思ったのでした。

ドロンコ氏がこの話に参加したくないなら、参加しなくて構いません。これ以上、答弁する必要もありません。ただひとつ、なぜこの話題を忌避したいのか、ほんとうの自分の気持ちをきちんと見つめてほしいと思います。自分が感じた違和感を、投稿者のせいや、わたしのせいなど、自分の外側にだけ押しつけるのではなく、自分の心のなかのどこかに原因があるのではないかと、それをまず見つめてほしいと思います。

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