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五十嵐 舞 課題5/評論代表者のからのお願い・・『蝶の名前』編・・ 2003年05月26日(月)13時28分05秒

 課題5は滝夏海さんの『蝶の名前』の評論や感想です。
今回から評論代表者を立てて論議を進めようとしています。
(まだ実験段階ですから皆様のご協力が必要です。)
先週の授業に出ていない方も含め皆さんに、ここにお願いいたします。
少なくとも火曜日中には評論と感想は、掲示版に書いて下さい。
私はそれを見た上で私の評論のプリントを別に作りたいなと思っています。

 この時点で書かれていない場合は私の評論する項目などにいれられないので、
授業で各自発表して下さい。(まあ、それはそれで構わないのですが・・・)

 ◎ 滝 夏海 ⇒『蝶の名前』のついて・・・
  
  ☆登場人物や場面設定はどうなのか・・・
  ☆作品全体の印象は・・・・
  ☆手直しがほしいところ&よくわからないところ・・・
  ☆ここがすばらしいと思うところや関心したところなど作者へのお褒めのお言葉 etc
                                           
  
 と上記のようなことを考えております。ここに加えたい議題?(内容について)がありましたら、各自に掲示版上にお書き下さい。(検討いたします。)
 では、早めの投稿をお願いいたします。
                        滝 夏海 ―蝶の名前―の評論代表者より
 


圓山絵美奈 課題5/蝶の名前を読んで  2003年05月26日(月)16時12分08秒
滝 夏海 作品1A「蝶の名前」 への応答

正直、すごく難しい作品だと思いました。滝さんの世界観がすごく
個性的で強くて、全部理解しようとして読むと難しい気がします。
それとちょっと宗教的な匂いもかんじる作品だと思いました。
例えば「人は歯車。世界を構築する物の一つに過ぎない。
けれども世界とは何かしら?一体何の事なのかしら?」
らへんのシーン。また、この作品での考え方自体がすごく独特なかんじですよね。
もちろん共感できる所もありますが。
でもこういう作品って頭がいい人(勉強ができるできないではなく)
じゃないと書けない気がします。あと個人的には
「分かっていることを知るのが怖い」というかんじの文があったと思うのですが、
それはすごく共感できます。私も詩を書いているのですが、
これと似たような詩があって、同じことを感じている人がいるんだなあと
少し嬉しくなりました。女の子との質問や回答の会話シーンは
自分自身に言い聞かせているような所があるのでは、と解釈したんですけれど、
違うでしょうか?このシーンは一番好きです。


今回本当は皆さんの評論を読んでから、投稿しようと思っていたのですが
時間等の関係により一番目の投稿になってしまいました。
失礼に感じる事があったら本当にすみません。
私の読解力不足な所もあると思うので。
とりあえず素直に正直に書いてみました。






五十嵐 舞 課題5/評論代表  ―蝶の名前―の批評・感想 2003年05月27日(火)14時42分15秒
滝 夏海 作品1A「蝶の名前」 への応答

 
 下記の通りにまとめました。
 
□場面・登場人物の設定
 キャラについてはないのですが、場面の設定についてはsideCの世界の存在がどこにいち するのが今一歩分からないです。
sideAはこの主人公が現実だと信じている世界で、sideBは謎の少女が存在する白昼夢のような世界であることは分かるのですが、sideCはAとBがリンクしている(もしくは重なっている)世界なのだろうか・・・・どういう位置付けなのかもしくは意図的に曖昧にしているのか、
また、sideAなどの表記はわざわざする必要があるのでしょうか(あれば分かりやすいのだが・・・台本ではあるまいし。)

□作品全体の印象
 この作品はとても哲学的な感じがする作品だ(圓山さん→宗教的と言っていましたが)と思います。前の作品らが恋愛ものだったので、より毛色の違いが際立って新鮮な感じをうけました。しかし、この作品は読みにくい作品で一回読んだだけでは理解しにくいところは欠点であり長所のような気がします。ですが読み応えはあることは、読み手に考えさせるようなというかもう一度読み返したくなるところはすごいなと思いますし、読めば読むほどこの作品の世界にはまっていく感じがします。
特に感情や色をはっきりと描いていなく、淡々した印象を受けたのがひとつは最初に述べた哲学的に表現に表れているのだと思います。
そして、【人は歯車にすぎない】特に歯車という言葉がこの作品には何度も出ているのですがこれはたぶん作者自身の感じ方というか世界の見方が表れている印象を受けます。(違うかもしれませんが・・あくまで推測というか憶測です。)

□分かりにくいところ
 sideA&Bのところの【解放】の意味が私には分かりにくいです。(・・・なんとなくしかね)

□ここがすばらしい・または気に入っている文章(言葉)
 ★私が一番気に入っている言葉(文章)
 >「真実は、関係ない。本当の事など、どうだって良い。信じていればその間だけは必ず存在する」
 ★この作品自体を表しているな〜と思う部分で重要な部分だと思う言葉(文章)
 >「誰もが認識する世界。
   誰も認識しない世界。
   どちらも同じ世界。
   今、あなたは此方側を見ている。
   今まで、あなたは彼方側だけを見ていた。
   ただ、それだけ」
□その他
 名前(タイトル)の蝶の表現が作品中にないのに、この名前を付けたところがすばらしいと思う。でも、私はこのタイトルを見たとき、すぐに中国古典作品の『胡蝶の夢』を思い浮かんだ。それを意識したのなと思った。でも、個人的にはとても好きな作品です。

 以上、このようにまとめました。もしかしたら、別にレジメを作れないかもしれません。その時はこれをもとに内容を進めますので、ご了承下さい。では、授業で・・・

外島理香 課題5/滝 夏海 作品1A「蝶の名前」の感想 2003年05月27日(火)22時19分29秒
滝 夏海 作品1A「蝶の名前」 への応答

 <side:C>における、<side:A>の語り手と<side:B>少女との会話は、哲学的な存在論であるように感じた。(五十嵐さんも哲学的だと書かれてましたが。)自己と世界の関係付け、そしてお互いの世界像の再構築…。
 
 <side:A>は世界的自己の表現・世界であり、<side:B>は個人的自己の表現・世界である。
 しかし、その二つ・二人は切り離されておらず、私は<side:A>の語り手と<side:B>の少女は表裏一体という印象を受けた。一人の人間の中に一緒に存在するもののような。
 つまり、例えば<side:B>の少女は、「少女」であり、無垢、夢の象徴、自己を中心とした世界像を持つものであり、<side:A>の語り手、(恐らく)大人は、規律、現実社会の象徴、世界を中心とした世界像を持つものである。この二つ・二人の象徴も世界像も相反するものであるが、しかし人の心に共に存在しうるものである。
 その相反した両者の葛藤が<side:C>における<side:A>の語り手と<side:B>の少女の会話である。そして最終的には<side:A>の世界へと再び戻ってくる。それは夢から現実へ戻ってくるということなのか、子供から大人への成長なのか、それとも「歯車」となってしまったら、現実へ戻るとしかないのか…。

 私が良いと思った箇所は、「…その内何人かは気付いただろう、群れの中にほんの小さな隙間があることに。流れに逆らい移動するような、空気の点があることに。けれども一人として気が付きはしないどろう、その点を避けるように己が動いていることに。すべての人がそうであることに。」というとこ。
 この感性が<side:A>の世界に入っているからこそ、<side:A>の語り手は、<side:B>の世界へと行けたのではないかと思う。

 それから<side:A>の語り手が、<side:B>の少女の声が聞こえないということが間々あるが、これは意図的に聞こうとしていないのか、本当は聞きたいのか、気になるところ。



東條慎生 課題5/「蝶の名前」 2003年05月27日(火)23時16分07秒
滝 夏海 作品1A「蝶の名前」 への応答

すべて現在形で書かれ、簡潔で短いなセンテンスを連ねた速度感のある文章で書かれており、その速度と、イメージだけを連ねていくやり方が非常に映像に近しい性質を示しています。舞台となるのは日常の出勤風景で、そこには人びとがうごめき、各所に流れ込み、まるで一つの流動体であるかのようなおもむきを持っています。それはビル街のなかに重ね合わされ、それ全体が無機質であるかのような乾いた感覚をもって書かれ、そのなかで主人公と突如挿入される断片の少女だけが浮き上がった色彩を持っています。主人公は夢の中で見たヴィジョンに引きずられるように動いていて、sideBという形で(おそらく)夢の中での光景が映し出され、sideA&Bで、両者は重なっているようです。ただ、このsideA、B、Cという区分は鮮やかに分けられているわけではないため、読者にとって不親切になってしまっている部分があると思います。sideCは、sideAと同じ時系列、つまりsideAとsideCは連続していると思うのですが、sideCとして語られている部分では、ビル街の人混みは消え、孤独であることが強調されていることが、違うsideとして意味を与えられているのではないでしょうか。sideCにはまた、少女との邂逅という役割を持たされていて、多少非現実の方向へ向かっていることも特色でしょう。sideBはおそらく全部夢の中の出来事で、主人公が通常忘れている記憶なのだと判断しました。
そういう風に考えてみると、この作品の主題なるものもいくつか抽出できます。ひとつは、個人個人が全体の歯車であるというイメージ。しかし、全体と個の関係として何度も言葉にされているものの、私には今ひとつ明瞭には見えませんでした。単発の言葉だけが散らばっているようで、個々の関係性が見えず、使われた言葉のイメージが残るだけになってしまうのです。私としてはここの部分は、つまり、世界には自分しかいないという独我論の前提として受け止め、この作品全体の構造を、独我論からの脱出=解放として見ていきたいと思います。二人の対話を主軸として展開される後半部分では以下のようなセリフが出てきます。プリントでは三枚目上段部分。

「俺の世界に俺が居る。君の世界に君が居る。それで充分じゃあないか」
  「でも他の人は居ない。それが怖かったんじゃないの?」

無機質な世界として展開される出勤風景の中では、主人公のみが独立した、意思ある存在です。彼はまったくの孤独であり、誰かと会話を交わすことも、誰かを個人として見ることもせず、ただ外界をひとつの無機物としてみているのです。その彼には夢の中からの声が聞こえず、少女の呼びかけはいつでも忘れ去られてしまいます。夢と現実の分裂は、そこにたった一人しかいない世界、AとBふたつのsideとして現われます。独我論という主題がつまりはこの構成の骨格として機能しているのだと考えられます。それが溶け合う場所として、sideCがあるのでしょうか。そこで二人が見いだす答えとは、

「真実は、関係ない。本当の事など、どうだって良い。信じていればその間だけは必ず存在する」

というものです。プリントでは四枚目上段。現実と夢という古典的な問題。現実がもしかしたら一炊の夢ではなかろうか、という懐疑がおそらく底部に流れているのではないかと思います。
現実には私一人しかいないのではないかも知れない(独我論)。しかし、それを確かめることはできない(不可知論)。ならば、現実が本当は何であるか、それを考えることを一端放棄し、他人の存在を「信じる」ことでそれを乗り越えようとする。そのようにまとめることが可能かも知れません。今作を読んだ時に頭に浮かんだのが、バートランド・ラッセルの言葉なのですが、ラッセルの本を読んだわけでもなく何かで聞き知った言葉なので、参照する当ても見つからず、具体的な言葉を思い出せないばかりか検索しても出てこないので、ここに書くことができません。大意は、現実が嘘か真か判断することができない以上、われわれはそれを嘘かも知れないと思いつつも、そこに生きていくしかない、というような感じだったと思うのですが、誰か御存知ないですか? 

そういった袋小路に陥りがちな(思春期の子供のような問いであると一端冷笑されるとおり)問題を設定していることは確かでしょう。そして、一瞬、それは乗り越えられているように見えます。しかし、夢から覚めたように主人公はそのことを忘却している。

  「きっとまた、私は迷い、あなたを呼ぶ。
   あなたは私を忘れる。夢だと思う。
   けれどまた、答えをくれる」

ラスト付近に置かれたこのセリフは、決着しない問いに対して、信頼を対置するというこの作品の性質を最もよく表している部分ではないでしょうか。

最後に置かれたこの文章。

 俺は世界の夢を見る
 世界は俺の夢を見る

これをよく考えていくと、世界と個の関係について書かれた部分が分かりそうな気がしますが、とりあえずはsideAとBの関係について書かれたものだと理解しておきます。

そういえば上記の文章でボルヘスの「円環の廃墟」を思い出したのでさっき読み返してみたのですが、どうもぜんぜん違う感じです。あんまり内容を話してしまうと面白くないので一文だけ引用しますが、それは以下のようなものです。

一個の人間ではなく他人の夢の投影である―想像を絶する恥辱! 困惑!(ちくま文庫『ボルヘスとわたし』68P)

これは岩波文庫にも入ってますが、訳文はちくまの牛島信明訳の方が良いと思います。ちなみに岩波文庫版も手元にあるので引用します。

人間ではなく、べつの人間の夢であること。これにくらべられる屈辱、困惑があるだろうか!(岩波文庫『伝奇集』78P)

作品のトーンとしてはかなり違っていますが、上記の文章を面白く読んだ人なら面白いのではないかと思います。


滝さんの作品全体に関して言えば、非常に映像的でシャープな場面を連ねているのですが、それを言葉として小説の形として書いた時に、非常に分かりにくくなってしまっているのではないかと思います。全体を貫く論理をもう少し明確にして、それに則って動かした方がいいのではないか。個人的には歯車云々と世界に一人であるというふたつのモチーフがどうもうまく噛み合ってないように思われるのです。それが作品全体を不必要に難解にし、読み通した時にイメージの分裂を来してしまうのではないでしょうか。今作の難解さは、主題そのものの難解さというよりは、主題の展開の仕方にあるのではないでしょうか。未だに私には世界と個の関係と、この作品の展開の関係がうまく見えないのです。

しかし、抽象的な作品であるため、個々の読者によってまったく解釈が異なる場合がありえます。その人それぞれにとって今作がどのような感じでもって受け止められたのか、興味があります。

と思ったら外島さんの投稿がありました。
細かい部分は措くとして、少女と主人公が表裏一体であるという解釈は頷けるものがあります。それとは別に質問です。「世界的自己」と「個人的自己」という言葉、これらの単語は聞き慣れないもので意味がよくつかめないのですが、教えて貰えないでしょうか? 世界と個という作中の言葉に即して使っているとは思うのですが。

高橋阿里紗 課題5/蝶の名前・感想 2003年05月28日(水)04時00分52秒
滝 夏海 作品1A「蝶の名前」 への応答

最初に読んだ印象だと、正直読みにくいと感じました。
私自身があまり読みなれていない形態の文章のせいだと思いますが、文章全体に雰囲気があり、かなり好きです。

<side:A>を読んだ時、この人が男なのか女なのか、少しの間解らなかったです。
この作品全体に色をはっきりつけて、区別をしたら良いんじゃないかな〜と思いました。
<side:A>はカラー。<side:B>はセピアという風に。
もう少し<side:A>側に生活感をもたせて、現実味を持たせるのはどうでしょう?
例えば、朝起きたらまずテレビをつけて、ニュースを見るでもなく流すとか、朝食を作って食べるが、少し残すとか。
彼自身が<side:B>の世界を引きずっているから、このままでも良いといえば良い気がしますが…;;
読んだ印象だと、<side:A>はモノクロの世界のように思え、境界線があやふやで、混乱してしまいがちでした。
徐々に境界線をあやふやにしていく形を取った方が読みやすいのでは…?と思いました。
いや、単に私が頭悪いだけなのかもしれませんが…;;

「答え」を持っていたのは彼だったんですよね?
「答え」を待っていたのは少女で。
読んだ印象だと、「答え」のキーを持っているのは少女のように思えていたのに、そのギャップが面白いな〜と思いました。

全体的に淡い印象を受けますが、最後にキッパリと終わらせてるあたり、滝さんの性格が窺えます。
文章自体がしっかりしているので、難しい内容にも耐えられるんだな〜と感じました。
この手の雰囲気のあるお話しは、個人的に大好きなので、もっと読みたいです。
癖のある書き方を完璧にモノにした時、きっと化けるんだろうな〜と、今から期待大です。



瓜屋香織 課題5/蝶の名前を読んで 2003年05月28日(水)14時29分25秒
滝 夏海 作品1A「蝶の名前」 への応答

私はこの作品を読んで、言っていることはなんとなくわかるのだけれど、なんとなくしかわからなくて、難しいなって印象を受けました。
滝さんの世界観になかなか読み手が、入っていくのが難しいような気がします。
好きな人はすごく惹かれるかもしれないけれど、分からない人にはわからないままで終わってしまう所が、読み手を選んでしまう気がして、もったいないです。

心に残った言葉は
「真実は、関係ない。本当のことなど、どうだって良い。信じていればその間だけは必ず存在する」
という一文です。
ああ、この作品は、この一言が言いたいがために作られたのかなあと思いました。

室橋あや 課題5/「蝶の名前」批評。 2003年05月28日(水)15時12分33秒
滝 夏海 作品1A「蝶の名前」 への応答


私は個人的なつきあいから、大分前にこの作品を読ませてもらっていました。
初めて読んだときにイメージ重視な内容だったので正直分かりづらかったのを覚えています。
でも本人の趣向や人となりを知っていくうちに、内容も少しずつ頭で流れ始め、
面白くなったのと同時に、まったく知らない人に伝えるには難しいだろうなと思いました。

文章の形態がすべて現在形で進むと、大きな滝を上から下まで見下ろしているような展開の早さを感じます。なので途中喉ごしの悪い文章があるとすぐに引っかかってしまうとても無防備なところがありました。最初の方の内容はとても現実的で、主人公の行動の描写から入り、そこからだんだん主人公の目から見た世界観の話しにになって、解放のところから一気に世界が交わってしまうところは3度目に流して読んだときに気がつきました。
この作品は、読み手の立ち位置次第でかなり見方が左右してしまうような気がします。

あと、”待たれる理由はさておき、お帰りなさいと言われる覚えはない〜”
がいきなり現実に立ち戻ったツッコミになっているので、最後まで世界に呑み込んで欲しかったなと思いました。

越智美帆子 課題5/感想 2003年05月29日(木)00時30分13秒
滝 夏海 作品1A「蝶の名前」 への応答

 率直な感想は、難しかった、です。全体的に白のイメージがあり、デカルトの思想を取り入れた哲学的な話なんだなと思いました。
 「我思うゆえに我あり」、つまりコギト・エルゴ・スム。これは裏を返せば、思うことで存在するので、思わなければ存在しない、ということになります。パスカルだったと思うのですが、「人間は考える葦である」と言い、人は葦のように弱い生き物だが、考えるという特性を持っているから偉大であるということを説きました。デカルトとパスカルの共通点は、人間は考えるからこそ存在意義があるのだと言っている点です。では、考えなければ意味がないのでしょうか。この物語は考えるということに重点を置いて進んでいきます。それぞれのイメージが途中で交錯したり、解放という言葉が出て、また別れたり、最後には世界と主人公が同等の立場において考えています。ここがわかりづらいところでもあり、より深く読める箇所なのかもしれません。
 いろいろ考えているうちに、私も何を考えたいのかよくわからなくなってきてしまいましたが、滝さん本人の言いたかったこと等を聞いて、もっとこの物語を理解したいです。

島本 和規 課題5/「蝶の名前」を読んで 2003年05月29日(木)04時35分47秒
滝 夏海 作品1A「蝶の名前」 への応答

 この作品を読んでいると、連続した写真をスライドで見ているような感じがしました。
そしてとても難解でした。スライドのたとえを続けると、肝心の部分がぼけしてしまっているようにも思った。少なくともぼくはこの作品のストーリーをスクリーンに上手く投影することができませんでした。ようするによくわからなかったというなのですが・・・
 
 この作品は、読んでいて内容をうまく捉えることができていなくても、スラスラっと読めてしまう不思議な感じであるけれど魅力的な文章だと思いました。何度か読んでもやはりよく理解できなかったのですが、わからなくても飽きさせずに作品を読ませるだけの文章的な魅力が、この作品にはあったと思います。特にプリント1枚目の主人公の男のちょっとした行動についての描き方が細かくて丁寧で、読んでいてうまいなぁと思いました。
 
 内容をよく理解できていないので、たいしたことは言えないのですが、最後のsideAで主人公の男が、少女との出来事などの記憶をはっきりと認識できないまま、日常、いつもの同僚のところへ戻って行くというのが、乾いた感じがして好きでした。
 

古内旭 課題5/世界が邂逅する可能性とその認知の不可能性〜『蝶の名前』 2003年05月29日(木)04時44分44秒
滝 夏海 作品1A「蝶の名前」 への応答

思い切って簡単に要約してしまうならば、この話は、2つの世界の邂逅の可能性を提示するも、それは偶然の産物であり認知は出来なかった、というものでしょう。勿論、主人公(=語り手)は無意識の知らざる部分において何かに気付いている、ということは言うことが出来るかもしれません。

具体的には、sideA〜Cの3つの世界が存在しているようです。
Aで語られるのは、男の出勤風景。ここでの話は一応完結しています。朝起きて、電車に乗ったりビル街を歩いたり横断歩道を渡ったりしています。時折何やら主人公の考え方が続いたりしますが、最後には会社に着いたのかエントランスで同僚と出会っています。
Bは、少女の踊り。しかし、踊り終わって語り手に近付いてきたところでぷっつりと終わっています。
Cは、どうやらAから連続し分岐した異世界です。ある予感に襲われた語り手が走り出し、少女と出会います。そしてデカルトを引き合いに出して存在論を交わします。

重要なモチーフは、「個」と「全体」ですが、それぞれを語り手と少女が担っています。「語り手=少女」とするのは、個が全体であり、全体が個である、とか、全体と個が表裏一体である、という作中の理論によるものです。「個」は「俺」と「私」を表し、「全体」は「世界」を表す言葉でもあるようです。とすると、世界と自分が等価となるわけです。
しかしそのどちらも存在を証明できません。
世界は本当に存在しているのか、という問いかけはそれこそ小説でも映画でも多くの作品で扱われた内容です。自分は本当に存在するのか、というのも同じです。世界も自分も全部虚構かもしれません。

A世界とB世界が「解放」され邂逅することは、何を意味するのか。
それは、世界も自分もちゃんと存在しているんだとささやかながらに確認しあった瞬間です。


ところで、果たしてこの作品は小説なのでしょうか。脚本のように無機質な現在形の描写が続くかと思えば、詩のようにかなり言葉を選んだ表現が現われたりもします。一人称小説風(ハードボイルドでないにしても)の語り手のぼやきみたいなものも書き込まれていますね。


管理者:Ryo Michico <mail@ryomichico.net>
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