「物語の作法」課題提出板の検索

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千田由香莉(.)*作品(.)*(檸檬|ばらの花|あめ色の坂道|忘れ霜) の検索結果(ログ39-43)


千田由香莉 作品2/檸檬 2004年07月03日(土)16時37分52秒

「レモン、って漢字で書ける?」

 4月。私は大学生になり、これまでの生活は一変した。
 知らない建物、知らない顔、知らない景色、知らない匂い。これまで見ていたものからは、遠く離れた場所のような気がしていた。
 入学式の帰り道は、新しさを主張するかのように薫る桜の匂いを、複雑な気持ちで嗅ぎながら歩いた。

 駅の改札。ピンコン!と道を閉ざされた。赤いランプの横で、”NO”と受け付けてもらえなかったのは高校のときの定期券。うっかりしていた。慌てて新しい定期券を探した。鞄にはない。焦ってポケットに手を突っ込むと、発見。あった。突き刺さる沢山の視線と溜息が背中に注がれた。
 行き先は以前とは全く逆方向。未だ乗り換えには慣れず、やたらと人の多い列車に足をもたつかせながらなんとか乗っている。 逃げるように改札を潜り抜け、定期券を新しいものに入れ替えた。

 話は戻る。

 「緊張」という二文字を額に貼り付けて、私は初めての「講義」に挑んでいた。広い教室…いや、講堂という未知の空間に、自分という存在を小さく感じながら座っていた。話し声や雑音がやたらと響いて聞えた。
 声の感じからして男の子。恐る恐る目を向けると、見事に的中。彼は出席表をトントン、と人差し指で叩いて答えを促していた。
「…書け、ません」
 彼はふうん、と言った別段興味がないかのような顔をし、机に向き直った。…何?意味のない質問を投げかけられながらも、何だか段々と話し掛けられたのが嬉しくなって、何とか会話を繋げようと必死に”つなぎ”を搾り出した。友達を増やすチャンス。勇気を振り絞った。そして、

「バラ、は書けますか?」

 彼は「?」という顔をした。しまった、すべった。瞬時に体から全身の血が引いていくのが分かった。不思議ちゃんと思われたに違いない、穴があったら入りたい。そして、数十秒沈黙を置いた後、彼は真剣に考えた様子で答えた。
「…書けない」

 回ってきた出席表に目を落とした。彼は「梶井」と言うらしい。そして、同じ一年生だという事が分かった。私はその隣に自分の名前を書き込んだ。

 講義は何だか難しい話を延々聞かされているだけのものだった。寝ている人、机の陰に隠れてメールをしている人。ふと、隣が気になった。気付かれないように横目で見てみると、…彼は寝ていた。しかも、私が見た瞬間は決定的で、頬杖が見事にかくん、と外れて、それはそれは漫画のように、それはそれは強力な頭突きを机にお見舞いしていた彼の姿。私の数えた限り、合計3度。尋常な戦数ではない。
 終業ベル。「長かった〜」と誰もがベルと同時に帰り支度を始めた。そんな言葉を聞きながらそうかな?と首を傾げた。私は不思議と退屈していなかった。

 以来、この授業が始まると、決まって彼は私の視界に存在していた。
 私は彼の目の先にあるものを追いかけた。彼の興味の対象は様々で飽きなかった。あくびする猫、きらり、と光る先生の頭。天井、無造作に描かれた机の落書き、窓の外。そして、彼はペンを器用にくるくると回す癖があった。それは決まって講義が中盤に差し掛かる頃で、それが合図であるかのように眠りに落ちていった。

 今日は何を見ているだろう。私から3列前の左斜め前。いつものように彼の視線を辿っていくと、ある一点に定まった。それを目にした瞬間、心臓が激しく飛び上がった。
 視線の先にあったのは、女の子。彼女の手には、梶井基次郎の「檸檬」あと少しで読み終わる残り少ないページを丁寧に彼女はめくっていく。指の綺麗な女の子だった。その日、彼の横顔は机に戦いを挑むでもなく、ただ一点を見つめていた。

 今日の授業はやたらと長かった。ベルと同時に誰よりも先にこの部屋を出ようと出口を目指した。と、私より先に誰かの手がドアノブに伸びた。
「あ」
梶井君だった。
「ああ、」

 私たちは特に話すでもなく坂を下った。彼は、ちょっと待ってて、と駐輪場へ向っていった。
「荷物のせる?それとも乗る?」
そう言って現れた彼の右横には自転車が。何でもない姿なのだけれど、どうしても彼が”自転車”というイメージとは程遠く、その異様なコラボレーションに笑えた。
「これで毎朝来てるの?」
「うん、そうだよ」
「あんまり…似合わないね」
「何だよぉ」
噴きだす私を前に、そう言って彼は照れくさそうに笑った。

 自転車の後ろに乗るのは何年ぶりだろう。まずは乗り方に困った。あんまりもたもたしてもいられないから、脳内シュミレーションでの試行錯誤の末、結局、とある映画を真似て横に座ることに決めた。
「いくよ」
彼は蹴りだした足を、すぐ元に戻した。
 何でだろう?と、思うより先に、はっとした。
「あっ、重い?」
今更、ダイエットしておけばよかった。そんなどうしようもない事を考えた。そもそも、こんな場面に遭遇すると分かっていたなら、もう少し考える事が出来たのに…微かに自分を呪いながら降りようとした。
「ん、いいや、そうじゃなくて。ちゃんとつかまってないと落ちるよ」
彼の目線は私の手元に落ちていた。サドルの下を掴んでいた手を、彼の背中に近づけた。
「そうそう、いくよ」

 私には心臓の音しか聞えていなかった。
 地面を蹴り上げると、景色が流れだした。加速していく。景色は流れていくのに、時間は普段の3倍くらいゆっくりと息を潜めながら流れていくように感じた。私は手に少しだけ、力を込めた。
「梶井君…」

「バラ、って漢字で書ける?」

 風が前髪と袖を揺らしていく。背中越しに、彼が笑った。
「書けない」
「…じゃあ、レモンは?」

多分、数十秒。車輪の音だけになった。

「書けるよ」

…知ってるよ。
 彼の視線の先には、「檸檬」と彼女がいたのだから。通り過ぎた風に夏の匂いを感じた。気がつけば春は終わりを告げ、景色は綺麗な青に染まっていた。
 生温い風を受けながら、速度を上げて坂を下ってゆく。何だか心地よい匂い。風も、景色も、何もかもが鮮やかに彩られて見えた。

 
 駅が見えてきた。今は迷うことなく歩ける。

千田由香莉 作品3/「ばらの花」 2004年09月01日(水)14時57分34秒

………ジー、カタカタ、…ブッツ…
「あ、あ、えー、えーあー、…あ?えっ?はいっちゅう?」
きゃはは。
 暗い画面から、音声のみが姿を現した。やがて光が入り、整然と並ぶ学生服の集団が映し出された。一人づつ代わる代わる映し出されていく。照れ笑いを浮べる奴、おかしな事をしだす奴。髪をやたらいじる女子。僕らの14歳が、此処にはあった。


 「高知市立桜丘第二中学校」と印刷された茶封筒が届いたのは3日前の事だった。僕はすっかり忘れていたのだが、封を開けて中から出てきた一本のビデオテープをみるなり、ぼやけきっていた記憶が、風にのってカーテンを揺らした青葉の匂いと共に蘇えってきた。
 ちょうど10年前。シューメーカー・レビー第9彗星が木星と衝突した年、僕らは行事の一環で、10年後の自分に向けて手紙を送った。いわゆるタイムカプセルってやつだ。
僕らのクラスは誰が言い出したのか、「ビデオレター!」という発言によって、テンションのバロメーターがMAXまで上がった。撮影当日、僕ら男子は上下関係の厳しい中学における最大の禁忌である詰襟のカラーを抜いた。そして一方女子、翌日の彼女たちの髪型はきれいさっぱり変わり、髪型だけならアイドルとそっくりになっていた。
 さて、意気揚揚、狂喜乱舞、ついに挑んだ集合映像。そこに映ったのは、背伸びした詰襟も髪型も全く関係ないほどに、緊張を絵にかいたようにひきった笑顔だった。

 そしていよいよ集合場面から、一人一人の手紙の内容に挿し代わる。…はずだった。
「えっ、と……真田響です。」

 巻き戻してみた。

「真田響です。」

 今度は早送り。

 彼女、真田響が話し終えたと同時に、ビデオはガチャン、と終わりを告げ、暗転した。
「真田…?」
 僕は茶封筒を手に取り、宛名を確認した。…ちゃんと僕宛だ。
「………真田ぁ?」
 僕は、鬱陶しく高々と積み上げられた卒論の資料の上に、それを放り投げた。
「って、誰だよ」

 翌日、実家からアルバムを送ってもらい、ようやく分かった。
真田響、彼女は中1の初めに東京から越してきたのだが、病気持ちで学校も休みがちだった。そして、中3の新学期が始まる頃、彼女は2学期を迎えることなく突然、転校してしまったのだった。だから、彼女の印象は無いに等しく、言葉を交わしたことがない奴もほとんどだった。そんな彼女の事を、僕の級友に話したとしても、薄い反応しか返ってこない事は明白だ。事実、かく言う僕も、このビデオレターとアルバムの二つを要さなければ、彼女の記憶を呼び戻す事は出来なかったのだから。
 古い映像。ノイズ混じりのビデオレター。彼女は、10年後の自分に微笑みかけた。肌の色がやたらと白く、綺麗に切りそろえられた短めの前髪から、彼女が人の2倍も幼く見えた。僕は初めて真田響を正面からみた気がした。
「まてよ…、ってことは俺のビデオは真田が持ってるということか?」

―――――――― 間。

 瞬間、僕はすぐさま受話器を手に取り、アルバムの後方に書かれた電話番号を頼りに真田の家へ連絡をとることにした。冗談じゃない。俺の、こっぱずかしいだろうビデオレターを他人に見られてたまるか!!ダイヤルする指先がこの上なく速くボタンの上を駆け回った。が、真田は出なかった。仕方が無いから、卒業以来寄り付くことの無かった学校へダイヤルすることにした。
「はい、高知市立桜丘第二中学校です。」
 無愛想な第一声。多少は怯んだが、僕は丁寧に事のあらましを伝えた。
「あの、96年度卒業生の狩野言います。94年に埋めたタイムカプセルのビデオレターが間違うて別の人のが届いてしまったんですが、真田響さんに連絡をとりたいんですけど、電話番号、または住所の変更先教えてもらえませんか。」
 受話器から、ふうん、という鈍い溜息が聞えた。暫くして、小声のひそひそ話が聞えた。
「何やビデオレターがどうのって。連絡先教えてとか言いよる…。ストーカーとかいいよるあれやないろうか…。」「ええ?怖いわぁ。」
 僕は肩が一気に重くなるのを感じた。

 散々疑われて、散々尋問を受けた割には、どうにもならなかった。僕は重い気持ちで受話器を置いた後、自分の存在意義について考えさせられてしまった。そっちの事務ミスだろうが!困っているのはこっちだー!!と強く言えればよかったのだが…逆におばちゃんの小言や嫌味に撃沈された。
 そもそもだ。何で真田の手紙が僕にくる?出席番号も近くなければ、話したことも無い。面倒な事この上ない。僕は真田の悪口を考えようと頭を巡らせたが、自分のなかに彼女の記憶が無い事を改めて気づかされただけだった。何ともいえない気分になって、その日は早急に寝てしまう事にした。明日また考えてみよう…。僕は眠りに落ちていった。
 

 自態は、実に簡単な方法で活路を照らした。僕宛に実家から小包が届いたのだ。
 開けてみると、中から僕のビデオと共に、淡い桜色の便箋が添えてあった。「狩野奏汰様」
えらく達筆な字のおかげで、僕の名前が数段は高価な響へと変えられていた。母さんの字はこんなに上手くないはずだ。僕は首を傾げた。手紙には、間違えて届いていた事を詫びると同時に、左記の住所にビデオを着払いで構わないので、送って欲しい。という内容だった。最後の一文に、差出人の正体が書かれていた。
 ”真田響の母・真田久子。”
 後から気づいたのだが、留守電に実家の母からメッセージが残されていた。「家にあんた宛に来たやつ、そっち送ってやったからね。」――――― それならそうとはやく言ってくれ。
 ふう、と息をつき、伝票の差出人の住所をみた。「東京都国分寺…」…そんなに遠くない。少しの安堵と同時にやがて少しの憤慨を覚えた。自分で送ってこいよ、真田。
 僕は明日、直接尋ねて行く決意を固めた。ひとこと文句を言わねば気がすまない。


 「ここ、か?」
 蝉時雨が耳をつんざくように夏を主張する最中、住所を頼りに辿りついた場所は、学校から丁度二駅先のところにあった。緊張する指先を落ち着かせ、呼び鈴を鳴らした。
「はぁい」
 柔らかい声と共に、着物を着た品の良い初老の女性が姿を現した。が、僕を見るなり明らかに「?」を浮べた表情で、小首を傾げた。門を挟んで、僕は歩を半歩進めた。
「突然失礼致します。私、狩野奏汰と申します。」
 女性の表情が和らいだ。
「あら…お暑い中わざわざ?どうぞ、さ、お入りになって。」
 懐かしい匂いがした。

 招き入れられた畳の部屋は綺麗に片付けられていて、お香の匂いが微かにした。おばあちゃんの家の匂い…ぼくは匂いの記憶にたどり着くと同時に、心地よさをおぼえ、くすり、と笑った。 程なくして、冷たく汗をかいた麦茶と茶菓子を運んできてくれた。
「高知から、わざわざありがとう…。」
 申し訳無さそうな表情で頭を垂れた。僕は慌ててそれを制し、言葉を繋いだ。
「いえ、こっちの大学に今通ってるんです。近かったものですから、直接来てしまったのですが…こちらこそ、突然お邪魔してすみません。」
 初老の女性は微笑んだ。
「狩野、奏汰君…。」
「はい?」
 飲みかけたお茶をテーブルに戻した。
「あ、いいのよ。飲んで頂戴。」
 僕は緊張というより、むしろ居心地のよさを感じていた。
「狩野君は…響の事は、覚えてないかしら…。」
 そんなことないですよ、と言ったかもしれない。普通なら。でも、この人の前では、素直に答えてしまう、そんな空気があった。
「正直…はい。」
「そう。」
 表情を少しも曇らせることなく、女性の目は温かさに満ちていた。
「…そういえば、響さんもこちらの学校に通っているんですか?あ、もう働いてるか…僕一浪だし。」
 そう言ってお茶に手を伸ばそうとした時、僕はとんでも無い事を聞いてしまったと、後々後悔した。その人の目が、初めて微かに曇ったのだ。
「…あの子ね、死んだの。ずうっと前にね。」
 これまで黙っていたように感じていた蝉が、一気に鳴きだした。
 クーラーの冷気が頬にあたる。
「…え?」
「ほら、あの子病気ばっかりしてたでしょ?…かなり遅くに生まれた子でね。それがいけなかったのかもしれないわ…」
「あの…響さんは、いくつの時に…?」
「15歳の…ちょうど今ごろ。こんな風に暑い日。」
 初老の…おばあさんにみえたその人は、真田響の母、久子さんだった。あの達筆な。そう言って窓に目を向けるお母さんを前に、「すみません…」という言葉の発し方を瞬時にして吹っ飛ばしてしまった僕は、何もいえず、直視できずに俯いてしまった。そんな僕に気づいてか、久子さんは「いいのよ。そんな顔しないでちょうだい?」と微笑んだ。
 風鈴が涼やかにりん、と風の来訪を伝えると、久子さんは「そうだ。」と言って茶封筒を手にとって言った。
「あなたも一緒に観てくれない?」
 真田響のビデオレター。
「…観て、って。恥ずかしくないですか?」
「誰が?」
「響さんが…。」
 久子さんは笑みを深めて、柔らかく語りかけた。
「あなただから、観て欲しいの。」
ビデオがセットされると、デッキがゥウィ―ンと唸り声をあげた。時間を遡る準備は整った。
 集合映像を終え、ザラザラ…ブッツ、という音と共に、僕が見たあの冒頭の映像が流れ出した。
「えっ、と…真田響です」
 ジー……
 彼女はもじもじしながら、少し大きめなセーラー服の襟を気にしながら、少しはにかんで見せた。
「真田さん、ほら、」
 先生の声だ。小声でもばっちり入り込んでいる。僕たちは顔を見合わせて微笑んだ。
「えっと…私は、…10年後…何をしていますか?」
 真田響は再びはにかんだあと、今度は制服のスカーフを気にした。そして、意を決したように、繋いだ。
「私は…やりたいことがたくさんあります。言い出したらきりが無いので、ひとつだけ。いいます。一番なりたいのは、お嫁さんです。恥ずかしいから、誰にも言いません。秘密です。」
「聞いちゃったー」
 先生の声。真田は「あっ!」と頬を赤く染めた。
そう言って笑った彼女は、あまりにも幼く、あまりにもあどけなく、目の温かな光は母親譲りであることを知った。
 ブッツ、ザ―――――…

 僕たちは画面の砂嵐を眺めたまま、しばらくそのまま動かずにいた。あまりにも短い再会を自らの手で終らせる事はできなかった。しばらくして、ビデオのテープが自ら終わりを告げ、画面が黒く塗り潰された。
 僕は畳に目を落とし、天井を仰ぎ、仏壇に目を向けた。そこには案の定、彼女の幼い笑顔があった。ふと左横を見ると、久子さんが画面をみたまま微笑んでいた。ぼくの視線に気づいた久子さんは、微笑んだ。すごく穏やかな顔で。
 僕は喉とまぶたが熱くなるのを感じると、俯いて深く息を吸い込んだ。


 気が付くと、僕はかなり遅くまで真田家に滞在してしまっていたようだった。すっかり日も暮れた頃、久子さんは僕が断るのを振り切って、お土産を準備してくれた。玄関先で靴を履く僕の頭に柔らかい声が降った。
「実はね、ビデオが間違えて届く前から知ってたの。あなたのこと。」
 顔を上げると、久子さんの手に黄ばんだ一枚の紙が握られていた。受け取ると、下手な見覚えのある字があった。僕のだ。
「持ち主のところへ返さなくちゃね。」
 久子さんの笑みは真田響と瓜二つだと思った。僕は紙を握ったまま、記憶を辿ろうとしたが、そろそろ行かねば。歩きながら考えるとしよう。
「今日は…」
 そう僕が言いかけると、久子さんがそれを制した
「ありがとう。本当に。ありがとうね。」
「…ありがとうございます。」
「…ビデオが間違えて貴方の所に届いたの…きっと、あの子の悪戯よ。」
 僕も笑った。
 お土産を手に、僕は帰り道を辿った。久子さんは玄関外まで僕を見送ってくれた。
「よかったらまたいつでも来てね。」
 そんな嬉しい言葉を何度も言ってくれた。

 
 電車に揺られながら、いつの間にか僕は眠りについていて、夢を見た。

 そこは夕暮れの教室だった。中2の春休み最後の練習の日。部活が終って着替えようとロッカーを開けようとした。が、僕のロッカーが無い?よくよく考えると名札が消えていることに気づいた。
「何ちやー?…やちがないなぁ」
 僕はロッカーを不思議に眺めたあと、振り返った。
 そこには真田がいた。
「あれ?お前も今終わりか?」
「…ううん。私部活入ってないから。」
「ふうん…外暗いし、気ぃつけていぬれよー?」
「うん。」
 真田が笑った。

「吉祥寺―」
 飛び起きた。
 発車のベルが鳴り響く中、必死に辺りの状況を把握すると、電車を飛び降りた。
 電車を見送ったあと、人気もまばらになったホームに残された僕は家路を目指した。ポケットに手を突っ込んだ瞬間、かさっ、と何かが指先にあたった。取り出してみると、さっきの名札だった。
「さっきの…。」
 じっと名札を見つめていると、風がホームを横切った。瞬間、僕のおぼろげな記憶は、電子回路が完成し、電気が一気に巡るように、繋がった。
 真田が転校する前、僕は彼女と言葉を交わしていた。そして、春休みに関わらず真田があの時教室にいた理由は…僕の考えが自惚れでないのなら、分かる気がする。今なら。
 幼すぎたのはきっと僕のほうだ。


 家に着いて電気をつけるよりも先に、早速「僕」のビデオを観ることにした。
ガタガタ、―――――ジー…ブッツ。
「あーえっ、あーっ、1年3組、狩野奏汰。」
ピース。……まさかと思ってはいたけれどここまでとは…。とてもじゃないが直視できない。
「10年後の俺、えっと…えーっと…」
 そこには詰襟姿の、延々考え込んでいる僕の姿があった。あー、うー、と言いながら、ピースだけは欠かさない。
「狩野くん、ビデオ切れちゃうよ」
 先生の催促の声。
「えっ?!ばっさり!」
 我ながらハラハラさせられる。
「俺の夢、宇宙飛行士!ほいで……」

 切れた。
 ザー…
「…何だこれ、途中で切れてるし」

 僕は文系大学に進学した。宇宙飛行士、そうか、そんな夢もあったような気がする。
ビデオをデッキから取り出し、テープに悪態をついた。黒いテープは、そこに残された僕の14歳の瞬間を切り取っていた。夢の途中、その先の言葉を僕は一体、何て言おうとしたのだろう。あの日、命掛けで抜いた詰襟のカラーや、少し背伸びした髪型は、僕たちを誇らしげに見せていた。
 あの日僕が抱えていたものを今の僕はひとつも継いじゃいない。それでも歳を経る度にその事を忘れないようにと、丁寧にしまい込んできたつもりだった。でも、いつだって気づくのは、失ってからだった。それと引き換えに残った小さな破片がつけた傷跡によって。
 茶封筒に書かれた黒字の宛先の上に「住所変更」の赤いスタンプが押されていることに気がついた。ちょっとだけ息が苦しくなった。赤字を指でなぞり、その中に14歳の僕の欠片を残し、引き出しの奥にしまい込んだ。
  
 明日、便箋を買いに行こう。もういない君に、10年後の返事を書くつもりだ。

千田由香莉 作品5/「あめ色の坂道」 2004年10月14日(木)14時00分24秒

 南口の改札を抜けて、緩やかな坂道を真っ直ぐ下っていくと、若者向けに新しく改装された店舗が立ち並ぶ。それと同じならびに一軒だけ古びた古書店があった。そこは、まるでその一角だけ昭和30年代から切り取ってきたみたいで、そこだけ別の時間が流れているような感じがした。その店の出で立ちは、時代遅れだとかそういった類の雰囲気を微塵も感じさせないで、凛としていた。どんよりとした雲が空を覆ったあの日、私は、その店に吸い寄せられるようにふらりと立ち寄ったのだった。
 
 引き戸を開き、足を踏み入れると、床板が、ぎしりと鈍い音をだす。かび臭い匂いと、小さな窓から入り込む光を反射した埃がちらちらと舞う。狭い店内に窮屈そうに立ち並ぶ本棚が、私の行く手を阻む。未開のジャングルに踏み入る感じ。身体を上手く捩りながら店の奥を目指す。やっとの思いで潜り抜けた先には、セピア色の景色があった。
 この景色は何処かで見たことがある気がする。何だろう、映画だっただろうか。と、しばらくの間惚けていたら、店の人と目が合ってしまった。あっ!と思うと同時に、すぐさま近くにあった本を掴み取り、咄嗟に本を探している風を装った。私の陳腐な考えを見抜かれないように必死に読むふりをする。店主の視線が外れたのを背中で感じ取ると、本の隙間から、ちらりと様子を伺ってみた。本の隙間、セピア色の中に浮かび上がったのは、くたっ、としたアイボリーのシャツ。さらにゆっくりと目線を上にずらす。首、顎…と、パズルを完成させてゆくように慎重に。やがて、店主の顔のパーツがすべて揃った。
(?!)
 驚いた。昭和を切り取った世界に佇んでいたのは、おじいさんではなく、見たところ23歳くらいの若い青年だった。私は、驚きと好奇心から彼を食い入るように見た。
 客には見向きもせずに本をうつむき加減で読んでいる。彼は、首を少し右に傾けたスタイルで、淡々とページをめくっていく。指は細いくせに節がごつごつとしていて、長めの前髪の奥から時折覗く涼しげな目に、ちらちらとした睫毛がたまにゆっくりと動くだけだった。ふいに、彼が動いた。瞬間、私はむせ返り、どうしようもない焦燥感に襲われた。急いで本を棚に戻し、逃げるように店を出る。息の仕方を忘れた。頭や他の感覚は真っ白なのに、胸だけがばくばくと音をたてて私の足を動かす。坂を駆け下り、曲がり角を曲がったところでようやく止まることが出来た。そして、ようやく息を吹き返してはじめて思った。何で走ったんだろう?

 次の日も、また次の日も同じようにその店へと向かった。というよりも自然と足がそこを目指している。相も変わらずタイムスリップしたような空気が漂う店の奥には、相も変わらず客に見向きもしない店主がいた。そして、相も変わらずその睫毛が動くのを、本の隙間から横目でちらちらと覗き見る私がいた。
雨が降った日のことだった。私はいつものようにその店に吸い寄せられていた。今日はいつもより授業が早く終わったせいもあって、少し早めに駅に着いたのだけれども、いつもの時間に合わせるために、店の近くにあるミスタードーナッツの2階で時間を潰すことにした。窓側の席に腰掛け、2階から見下ろす見慣れた街は、赤や紺、黄色、様々な色がまばらに彩っていた。灰色の空も悪くないと思いながら、オールドファッションをかじった。あの独特のもそもそとした食感の中から、ほのかに甘い味が口いっぱいにひろがった。夕日が傾く。私は、横に立てかけていた赤い傘を侍のように右手に持ち、席を立った。

 密林を潜り抜けると、彼はいた。雨のせいで、かび臭さの中に湿った雨の匂いも混じって、秘密の場所はさらに怪しさを増し、湿気を帯びた木造の柱は、時代をさらに5年くらい古びてみせていた。
 いつものように彼を見る。本を探すふりをしていつもの棚に辿り着く。ここからが一番よく見えるという事が、何度も通った結果、唯一わかったことだった。彼はいつもの格好でセピア色の中で本を読んでいた。今日は灰色のシャツだ。思わず店の外に目を向けて、空と彼のシャツの色を見比べた。そっくり。私は、ばれないように本に隠れてくすり、と笑った。笑いをおさめて視線を戻した瞬間、目が合った。合ってしまった。あの日以来、再び私は空白の中に突き落とされた。真っ白だ。私は店を弾丸のように駆け抜け、逃げた。坂道を一気に下る。曲がり角を曲がるとき、横目にあの店主が、彼の姿が映った。
(何で?!)
 私はさらに速度をあげて走った。雨が頬にあたる。水溜りを踏んだ足元やスカートの裾は鈍い色に変わり、重たい。
「あっ!」
 ようやく事態に気づいた私は、びたっ、と足を止め、道の真ん中に立ち止まった。
(傘!)
 振り返ると同時に、赤い傘をリレーのバトンのようにして走ってくる彼を見つけた。

「君、足…はやいね」
 私の前に辿り着くなり、がっくりと頭を垂れた彼は、大きく息をついた。
「あの、すみません…ありがとうございます」
「おーい、って呼んだんだけど、この雨だろ?」
 彼は顔をあげて、不器用に笑った。そして、はい、と傘を手渡した。
「それから、これは返してね」
 何のことやら?と彼の指先を辿ると、本がしっかりと私の左手に握られていた。
「えっ?…あっ!すみません!」
 彼の手から傘を受け取り、本を返した。恥ずかしすぎるうえにあまりに無様で目が見れない。
「盗ろうとしたわけじゃないんです。本当です」
「うん、あんなに堂々と盗る人いないしね」
 彼は、ははっ、と声に出して笑った。初めて聞いた彼の低めの声を耳に受けるたびに、私の胸はじんわりと波紋を描いた。それじゃあ、と傘をさした瞬間、お互いの「あ」という間の抜けた声が雨音の中に響いた。傘はべこっ、と見事歪な形に変形し、本は雨の中の激走の末、ぐしょぐしょに濡れていた。顔を見合わせ、しばらくの沈黙の後、ぶっ、と噴き出した。

「悪いね。傘壊しちゃって」
 タオルと温かいココアを器用に右手に持ちながら、左手でドライヤーを持った彼は、申し訳なさそうに言った。店の奥、彼はいつもの居場所の横に小さな椅子を置いてくれて、私をそこへ座らせてくれた。タオルとココアを受け取ると、甘い匂いが鼻を掠めた。彼はドライヤーのスイッチを入れて、その熱を本に吹きかけた。ドライヤーのごぉー、という音がセピア色の中に響いた。
 かび臭い匂いがする店内をぐるりと見渡すと、今までにない発見がたくさんあることに気づく。黄ばんだ本の背表紙が不揃いに前ならえをしていて、旧漢字で表記されたいかにも難しそうな哲学の本の横に、「素敵な奥様今晩のおかず」なんていうカラフルな料理本が並んでいる事。壁にえらく達筆な厳つい文字で貼られた「本は友達」という手作りの標があるという事。
「それ書いたのじいちゃん」
 彼は、視線を本から離さずに言った。その涼しげな目は、周りを見ていないようでしっかりと見ている。カップを持つ指先が熱くなる。顔を標語に向けながらも、私には彼の動作が手に取るようにわかる。彼は、あの華奢でごつごつとした指でドライヤーを小刻みに揺らしながら続ける。
「つい最近、死んじゃったけど」
 思わず彼を見た。
「頑固でさ、いつもむすっとした顔でここに座ってたんだ」
 彼は今まで以上に柔らかく笑った。横顔が凛として見えた。私は、何か言葉を探そうと地面に視線を泳がせ、焦点が合った先の柱に、落書きを見つけた。下手で稚拙な落書き。古びた柱の低い位置に小さく青いマジックインクで描かれた絵は、しわしわの誰かの顔。時が経つにつれ色が褪せたのだろう。所々消えかかっている。私は、そこに彼の欠片を見つけた気がした。
「よし、乾いた」
 かちっ、という音に振返ると、彼はドライヤーを片手に顔をしかめてしばらく本を睨んでいた。本は、めくるとバリバリッ、と煎餅を砕くような音が出るほどハードな仕上がりに変身していた。彼は、苦笑いを浮かべて「これじゃあ売れない」と肩をすくめ、リザーブシートの下に、細長い身体を屈めて一冊取り出し、私の前に置いた。
「お金はいらない。これと同じ本なんだけど、こっちのは改訂版だから、削られてる箇所がいくつかあるんだ。だから内容が微妙に違くなっちゃってるんだけど」
 煎餅本と新しい本を並べ、交互に見比べながら彼は説明した。私は、しばらくほうけていたが、言葉の意味を理解すると首を横に振った。
「そんな、いいです」
 新品同様の綺麗な本の隣に、あの不細工な本が、飴色の照明にさらされた。微かにつく陰影が、本を浮かび上がらせる。彼は、ドライヤーを持ったまま不細工な本を軽く撫でた。その指先を見ていたら、息が苦しくなった。
「よかったら…これ、ください。こっちがいいです」
 彼は驚いたような顔をした。そして、私と本を交互に見ると、本を指先で軽く弾き、キリンのような首を撫でながら嬉しそうに微笑んだ。
 店を出て、傘をさした。彼は、「やっぱり傘も弁償する」と言ってくれたのだが、私はそれをどうしてもと断った。灰色の空にぽっかりと浮かび上がった歪な赤い円を誇らしげに掲げて、それじゃあ、と緩い坂道を数歩、駅へと進んだ。
「…あの」
 振り返ると、彼は「?」を浮かべた顔で私を見た。どうにかして言葉を吐き出そうとした瞬間、息の仕方を忘れた。まるで、あの日のように。彼は、「ん?」と、言う感じで、なかなか切り出さない私の言葉を、傘もささずに待ってくれていた。身体が熱い。傘の柄をぎゅう、と握りしめ、少しだけ爪先立ち、心なしか前屈みになる。口を開いた。

 雨が降る。彼は、「え?」と、聞き返した。ばたばたと傘を叩く雨粒の音が耳に響く。アスファルトが、鈍い光を反射した。私は、彼の顔をはじめて真っ直ぐにとらえ、深く頭を下げると、緩い坂道を歩きだした。傘の先から滴る雨粒が、風をきる私の後方へと流れていく。景色に、仏頂面で本をめくる彼の姿が浮かんだ。思わず口元が緩むと、鞄に詰めたかび臭い匂いと、微かな温かさが、悪戯に胸をくすぐった。

千田由香莉 作品6/「忘れ霜」 2004年10月14日(木)14時06分39秒

 小さな頃、私はお姫様だった。というより、正確に言うと、そう思い込んでいた。
 自分は多分、何処か遠い国の姫の生まれ変わりであるに違いない。当時私たちの間で流行っていた「魔法使いサリー」を見た瞬間、私は自分の運命に気づいてしまったのだ。理由や根拠なんて一切ないのに、そう信じて疑わなかった。
 いつだっただろう。普段使っていた黄色いアヒルの絵が描いてある傘が突然壊れてしまい、近くのスーパーに母と二人で新しいものを買いに行った。売り場に着くなり、私は、迷うことなく、あるひとつの傘を指差した。
「傘はピンクのレースがついたやつじゃなきゃ駄目なの。あれがいい」
 黄色い鞄をたすき掛けにした園児が、生意気そうに口を尖らせる。母は、傘の大きさと私を見比べて、「ちょっと大きいわよ」と言った。でも、私の意思は揺らがない。それでもこれじゃなきゃ、だって私はお姫様なんだから。

 西永福〜
 はっ、として辺りを見回した。開け放たれた扉は、誰もくぐることなくぽっかりと、ただ無駄に風を吸い込むだけだ。しまった!の、「し」の字が浮かんだ時点、鞄と資料の入った茶封筒を、まるでタイムサービスに目の色を変えた主婦のように、がっしと掴んで、転げるようにホームへとダイブした。お姫様の生まれ変わりなんかじゃないと気づいたのは、いつだっただろう。重たい足を引きずりながら、行きすぎた駅を引き返す。不様だなぁ、と階段を上る音が、ぼてっぼてっ、と気だるそうに虚しく響いた。
 
 坂の下にある1DKのアパートが私のお城。日当たりは、まぁまぁ。上京して3年。大学へ通うのに借りたのは良いけれど、電車で乗り換え込みで6駅はかかる。電車通学に思いを馳せたのは最初だけ。今考えると、どうして徒歩圏内にしなかったのだろうと、この選択を悔いている。階段を上るたびに近づいていた「希望」は、最近はまったく逆で、上るたびに遠のいていっているような気がする。最近は学校に行くことさえ、はぁ…
「めんどいのよねぇ」
 手荷物をベッドへ放り投げた。散らばった鞄と封筒を見下ろしながら、黄昏ている頭の隅で、「あぁ、ご飯を食べなくては」と、思った。こんな自分に嫌気がさす。現実は映画みたいにはいかないんだ。そういえば、完璧な主人公の映画を見るのが嫌いになったのは、いつからだったか。シンデレラって、あれは何だ?私は、冴えない日常を繰り返す主人公の映画のほうが好き。というよりも、安心できる。そう言う傍で少し後ろめたいのはきっと気のせいじゃない。
 じゃがいもがあったはず。今日はカレーにしようと決めた。正確には、今日“は“ではなく、今日から一週間ぐらいは毎晩カレーになる。すべて余ってしまう。一人じゃ食べきれないカレーも、一人じゃ使い切れない時間も。私は、一体いくつのものを無駄にしただろう。いっそのこと、足らない人にあげられたらいいのにと思う。私の持て余してしまった何かを。伸びきった気分を、なんとか奮い立たせて、芋を剥くために台所へと向かった。
 じゃがいもの皮を剥く音とテレビの音が部屋に響く。丁度ニュースの時間で、「闇金業者悪徳手口その全貌」などという特集がやっていた。あの、ものまねでよく見る「音声を変えて」ってやつ。モザイクの。あれが聞こえた。「本当にびっくりしましたぁ」と、被害者の割には随分と張り切って応答するモザイク声に混じって、私の携帯の「三分間クッキング」音が、モザイク声と同じくらい間抜けに鳴り響いた。
「誰、これ」
 携帯を覗きこむと、知らない番号が表記されていた。あまりにしつこく鳴るものだから、包丁を片手にしばらく考えてしまったけれど、やっぱり無視することに決めた。しばらくすると音が止んだ。胸をなで下ろし、背を向け、じゃがいもに意識を集中させた瞬間、再び「三分間クッキング」が鳴り響いた。
「びっくりしたぁ!何?今度は誰よ」
 再び覗きこむと、さっきと同じ番号が。思わず息をのんだ。あの軽快な「三分間クッキング」のメロディが、「ゲゲゲの鬼太郎」のテーマソングのようにおどろおどろしく、恐怖じみて聴こえた。通話ボタンに親指をかざす。知らない番号と、固まったままの指先を交互に見つめ、親指をゆっくりとボタンに押し付けた。
「もしもし」
 尋常でない心臓音の中、それとは裏腹に、歯車が動く音がした。しばらく耳にしていなかった、ずっと聴きたかった音。わざと遠ざけていた音。
「もしもし?あの、封筒。君、封筒間違えて持ってない?」
 冷静な口調の割には慌てたような感じで、声の主は唐突に話を切り出した。
「は?封筒…?」
 男の人だ。私も、何故か彼につられて慌てて部屋を見回した。ベットの上に視線を定めると、中身の紙が出かかっている茶封筒が飛び込んできた。電話を片手にそれに近づき、中身を確認した。
「…あ」
「あった?」
「はぁ…」
「よぉかったぁ〜」
 彼は、風船の空気を一気に抜いたように情けない声をだした。
「これ、どうしますか?」
「あー…どうしようかな。君は今何処にいるの?」
「家です」
「あぁ、井の頭?」
 そうです、と言おうとした瞬間、耳に入ってきたテレビの音が、怪談話をする時のような声で、「あなたの側にも恐怖の手が忍び寄っているかもしれない」と、言い放った。その言葉にはっ、とする。
「っていうか…何で知ってるんですか?そうだ…番号だって…何で?!」
 胸がきりきりする。不穏な音に目がくらむ。そんな心境など構わずに、声の主はあっさりと言った。
「君の封筒が僕の手の中にあるんだよ。手がかり探す為に、履歴書見せてもらっちゃったけど。悪いね」
 絶対、悪いと思ってない。私は声を低めて言った。
「井の頭公園駅で待ってますから。早く来て下さい」
 世の中は随分と物騒になったもんだ。私は、靴をはいて勢いよく玄関を飛び出した。

 井の頭公園駅は人通りが少ない。私は、敵地に乗り込むアクションヒーローのように、街灯が照らす夜道を駆け抜けた。声の主と思われる人は見当たらない。仕方がないから駅前のコンビニを眺めて暇を潰した。
 やがて、いくつか靴音が聞こえてくると、音の数だけ人が私の横を通過していった。少し遅れて切符が改札を通過する音が聞こえた。茶封筒が目印。顔をあげた。男の人が一人、方々に、きょろきょろと目を泳がせていた。私がしかめ面でちょい、と片手を挙げると、その人は小走りで駆けてきた。
「寒くて暗い中、悪かったね」
「いえ、別に」
 スーツを身にまとったその人は、人懐っこそうな笑みを浮かべて、「申し訳ない」と、封筒を差し出した。
「どうぞ、草野薫さん」
 嫌味ったらしく返答した私をみた彼は、肩をすくめて、くすくすと笑いながら
「見たんですね、履歴書」
 と、小学生のように口を尖らせた。

「お礼に何かご馳走するよ」と、彼は言った。警戒心を剥き出しにする私に、彼は困ったように笑った。
「先に間違えて持っていったのは君だよ」
 歩きながら、ささやかな反抗と言った感じで彼は言った。この時間、店は何処も閉まっていて、なかなかご馳走にありつけない。
「社会人なら普通それくらいわかりますよね…」
 何軒ものシャッターを巡りつづけた末、遠い目で呟く私に、彼は、申し訳なさそうに「ごめんなさい」としおれた。恐縮して少し丸まった背中があまりにも哀しそうに見えたので、さすがに私も何だか哀れに思えてきてしまった。
「じゃあ…肉まん奢って下さい」
 私の声に、彼は、背中を向けたまま、親指を肩からひょこっと立てて小学生のように笑った。あぁこの人は、仕事が出来なくてきっと解雇されたんだろうなと思った。

 ブランコに腰掛けながら肉まんをかじる。湯気が冷えた鼻をくすぐる。鼻をすする音が二人分、公園に響いた。
「君さ、就職するの?」
 彼は唐突に切り出した。
「えぇ、まぁ」
 言った後に、何だか噛み砕けない異物がある気がした。
「美大通ってるんならさ、やりたいこととかあったんじゃないの?」
 ブランコを軽く揺らす。きぃきぃと、変に甲高い錆びついた情けない音がする。私は言葉を探すふりをした。本当はすぐに浮かんだくせに。
「叶うわけないし」
 飲み込んだ言葉の代わりに肉まんを頬張る。温かさが胸に痛い。彼は、ブランコを揺らしながら言った。
「俺は、ウルトラマンになるはずだったんだ」
 はぁ?と笑いそうになった。でも、何処かくすぐったい。照れ笑いを浮かべながらも目をきらきらと輝かせている彼は、「本当だよ」と呟いた。
「それを言うなら、私なんか、遠い国のお姫様の生まれ変わりだったんだから」
 冗談に本音を委ねた。笑われると思った。でも、彼は「うん」と頷いて微笑んだ。それを見た私は、何だか後ろめたくなって、俯くことしか出来なかった。
「って、思い込んでただけだけど…自分は特別なんだって。根拠もないのに」
 馬鹿みたいに、まっすぐに信じていた。小さなことですぐに怯えて眠れなくなるくせに、それだけは恐れることもなく、疑いもなく信じていられた。
「俺もだよ」
 私の横から柔らかい声がした。遠くのほうで虫が鳴いている。彼は、言葉ひとつひとつを選ぶようにゆっくりと口を開いた。
「どうせ出来るわけないし」
 押しこめた言葉を掘り起こされた気がして、指先が少し動いた。
「って思って、去年なんとなく就職したんだ。でもさ、どんなに頑張っても、良いことがあったり、上手くいっても、気がつくとふと思ってた。もしも、って」

 ふと、あの日のワタシが浮かんだ。手には壊れたアヒルの傘を持っている。あの傘は、壊れたんじゃなくて壊したんだ。私が。お姫様になるために。すると、手のひらの感覚が急に鋭くなったように、突然冷たさを感じた。手を開いて見てみると、ブランコの赤茶色い錆びが泥遊びをして、しばらくたった時のようにかさかさとまばらについていた。鉄の匂いがする。
「履歴書ってことは、再就職するんですか?」
 私の問いに、彼は誇らしげに微笑んだ。
「そうだよ」
「…M78星雲ですか?」
 彼は、くっ、と笑って、繋げた。
「それよりもっとすごい星をみつけるんだ」

 彼と別れ、夜風に触れながら家路を辿った。ふと、視線を感じて振返ると、あの頃のワタシがついてきていた。街灯に照らされた幼いワタシを見つめた後、空を見上げた。東京の空も、見上げればこんなにも数え切れないほどの星が輝いている。そんなことに、今更気づいた。その半面、途方もなく、黒く広い空が恐ろしくも思えた。
 深く息を吸いこみ、向き直る。私は、私をただ睨みつけるだけのあの頃のワタシに、相槌をうつと、微かな光を頼りに、再び歩き出した。

管理者:Ryo Michico <mail@ryomichico.net>
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