寮美千子 死者の遺してくれたものをより大きく育てるために必要なこと 2003年11月30日(日)21時04分03秒
星野道夫は、たしかに「ロマンに生きた」と形容してよい人だとは思うけれど、だからといって、彼が「科学」というヒトの営みを軽視したりしたことは、最後までなかったに違いないとぼくは思っています。by Cafe Lumiere ドロンコ氏投稿よりわたしがユリイカ12月号に寄稿した「神話になった少年」に対して、このような反応が戻ってきました。ドロンコ氏は「彼が「科学」というヒトの営みを軽視したりしたことは、最後までなかった」ことについての具体的な論拠を述べていません。ですから、一体何を指してそういっているのか、わたしにはわかりません。そのため、単なる「印象論」のように感じられてしまいました。
門崎●それはそうですが、羆との共生には人身の保安が前提です。それが実現しない熊との共生は説得性を欠く空論になります。ところで、8月(1996年)にカムチャツカで動物カメラマンの星野道夫さんが無防備のまま、ヒグマに食い殺されたという事件がありましたが、これは起こるべくして起こった事故だと私は考えています。現場のクリル湖には私も1993年に熊の調査で行ったことがありますが、あそこはカムチャッカの南部で最も熊の多い所で、とても無防備で入る地域ではありません。ほんとうに熊とのよき関係を結ぶためには、門崎氏のような科学的姿勢が必要だとわたしは思います。星野道夫を襲った熊は、その後「駆除」されました。事故を回避できれば、襲った熊も殺されずにすんだかもしれません。
福田●星野さんは、無防備でも動物と分かり合えるという信念を持っていたようですが、私も大いに共鳴するものがあります。
門崎●そういう考え方は己本意の解釈で、熊には全く通用しませんよ。熊の棲場に入る時には、やはり相応の防備(自衛)は絶対に必要です。
福田●防備はしても、防具は持たないくらいの気持ちでいるほうが、本当の意味で野生動物と接することができるような気がするのですが…。
門崎●それはあまい考え方だと思います。人を襲うクマの存在率は二千分の一以下ですが、そういう熊に出合うかどうかは確率論の問題です。ただ野生はそんなに甘くない。星野さんも〃餌が豊富な熊は人を襲わない〃という熊観を信奉していたあまり、不幸な結果を招いてしまったと思いますよ。もし〃鉈(なた)〃で もあれば助かった可能性が高いし、その熊も殺さずに済んだと思います。人間は自分のエゴイズムで野生に多大の迷惑をかけているという現実を絶対に忘れてはいけません。
「科学」の鬼子のようなテクノロジー(近代の物質優位の思考とその産物)があまりにもに蔓延し、「自然」も変容され、「人間」自体までが破綻しそうになっているという「勢力地図」のようなものを考えてみれば、彼に深い危機の意識や焦燥があったことは容易に想像できるし、それが、一見、「反科学」とも見えるような言説となったということは十分にありうるだろうと思うけれど。by Cafe Lumiere ドロンコ氏投稿より確かに、そういった側面もあるかもしれません。「目に見えるもの」に重きを置きすぎているこの社会に平衡を取り戻そうとするあまり、軸足が性急に「目に見えないもの」に寄りすぎ、それを語る言葉が「半科学」に見えるようになったということもあるかとも思います。
DORONKO
批判の自由は当然あってしかるべきだと思います。
2003年12月01日(月)01時45分29秒
▽死者の遺してくれたものをより大きく育てるために必要なこと へのコメント
おむすびの祈り
リン・スクーラーの「ブルーベア」を是非読んでください。
2003年12月01日(月)20時31分27秒
▽死者の遺してくれたものをより大きく育てるために必要なこと へのコメント
寮美千子
ナチュラル・ディスタンスの狂い/二者択一ではない思想へ
2003年12月02日(火)00時15分45秒
▽批判の自由は当然あってしかるべきだと思います。 へのコメント
その上で、敢えて言いますが、彼を死に至らしめたカムチャッカでの事故についての寮さんの考えと、そのネタになっている門崎さんのご指摘には、ぼくも、ほぼ同感です。ただ、この一事だけで(ただしそれは、まさしく「致命的な」一事でしたが)「星野道夫の思考や行動には科学的な態度が決定的に欠けていた」かのように断定するとすれば、それはちょっと性急すぎるのではないか?と、ぼくは思ったわけです。by ドロンコ氏ここでお断りしておきますが、「星野道夫の思考や行動には科学的な態度が決定的に欠けていた」という表現はユリイカのわたしの文章のどこにもありません。このように括弧付きで、あたかも引用のように書かれると、まるでわたしがそう書いたかのような誤解を生む可能性がありますが、わたしはそのような書き方はしていません。
「心=神話的視点」の車輪に重きを置き、「現実=科学的視点」をおろそかにしてしまったのではないか。しかし、文脈のなかで理解してもらえばわかるように「科学的態度が決定的に欠けていた」という一方的な意味ではありません。なんども語ったように「目に見えるもの」「目に見えないもの」のどちらかを選ぶという二者択一の思想ではなく、それを融合し止揚することについて語ろうとするための言葉でした。その微妙な部分を表現したいがために、五〇枚という紙数を費やす必要があったわけです。
批判というものが批判の名に値するものであるためには、十分に慎重で周到でもなければならないだろうとは思いますが――。by ドロンコ氏ありがたいこのお言葉、熨斗つけて返してさしあげます。
DORONKO
お詫びです。
2003年12月02日(火)14時57分23秒
▽ナチュラル・ディスタンスの狂い/二者択一ではない思想へ へのコメント