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星野道夫 の検索結果


寮美千子  死者の遺してくれたものをより大きく育てるために必要なこと 2003年11月30日(日)21時04分03秒

星野道夫は、たしかに「ロマンに生きた」と形容してよい人だとは思うけれど、だからといって、彼が「科学」というヒトの営みを軽視したりしたことは、最後までなかったに違いないとぼくは思っています。by Cafe Lumiere ドロンコ氏投稿より
わたしがユリイカ12月号に寄稿した「神話になった少年」に対して、このような反応が戻ってきました。ドロンコ氏は「彼が「科学」というヒトの営みを軽視したりしたことは、最後までなかった」ことについての具体的な論拠を述べていません。ですから、一体何を指してそういっているのか、わたしにはわかりません。そのため、単なる「印象論」のように感じられてしまいました。

いずれにしても、ユリイカに書いた文章に対して、どこからかこのような反応がくるだろうことは、予測していました。一般に日本では、死者に対して、その人がしてきたことを批判したり、間違いや欠けていた部分を指摘したりすることに、強い拒否反応があります。近年亡くなった人であればなおさらその拒否反応は強く、さらにその人が「善人」であるとみんなが思っている人に対する指摘や批判は、タブーであるとさえいっていいかもしれません。

しかしながら、完全なる人間はいないわけで、であれば、死者が完全なる人間であったはずもありません。どこかに失敗があったり、欠点があったり、誤謬があったりすることもある。時に、その誤謬が、その人を死に導く要因だった可能性もあります。

そんな時、死者を美化するあまり、また死者の尊厳を傷つけたくないあまり、その誤謬から目を背け、なかったことにして、その人の優れた部分のみ語ろうとすることは、世間にはよくあることです。そして、それが死者を悼む心ある方法であると思われている節もあります。

けれども、ほんとうにそうだろうかと、わたしは思うのです。その人の間違いや欠けていたこと、誤謬を指摘するのは、死者の尊厳を傷つけることにならない。むしろ、その人が遺してくれた善きものを、さらによい形で継承し、大切に育てていくためには、その人の間違いや誤謬などをきちんと検証し、それを正し、補完していくことが必要不可欠だと思うのです。それでこそ、死者が遺してくれたものを、わたしたちは確かな形で守り、受け継いでいくことができると思うのです。それこそが、死者への最大の手向けであると、わたしは思っています。

間違いや誤謬を指摘したからといって、その人間を否定したことにもならないし、その人の仕事を否定したことにもならない。その人がわたしたちに与えてくれた神話的イメージを否定することにもならない。ユリイカにもそこのところはきちんと書きましたが「熊に食べられて大地に還っていった」という神話的イメージは、なんら損なわれることはない。わたし自身も、星野道夫の死を、そのように受けとめたい。

しかし、その一方で、現実的な視点も忘れてはいけない。熊の研究をし、熊との共存を目指す学者が、熊による死亡事故について子細な検討を加えています。熊が人を殺せば、殺した熊はまた人を襲います。ですから、虱潰しに探されて「駆除」されます。つまり、人間に殺されるわけです。「熊と人、どちらが死ぬか」というぎりぎりの選択ではなく、熊も人も命を落とすことになる。実に悲しい出来事です。そんなことが起こらないようにするためにはどうしたらいいのか。その予防のための心構え、知識が必要になってくる。

星野道夫の事故は、その意味において「防げるはずの事故だったのではないか」と、『ヒグマ』のなかで門崎允昭氏は語っています。門崎氏は、本の論旨と同じことを「北海ぽすと」1996年10月号のインタビューで語っているので、その部分を再録します。
門崎●それはそうですが、羆との共生には人身の保安が前提です。それが実現しない熊との共生は説得性を欠く空論になります。ところで、8月(1996年)にカムチャツカで動物カメラマンの星野道夫さんが無防備のまま、ヒグマに食い殺されたという事件がありましたが、これは起こるべくして起こった事故だと私は考えています。現場のクリル湖には私も1993年に熊の調査で行ったことがありますが、あそこはカムチャッカの南部で最も熊の多い所で、とても無防備で入る地域ではありません。
福田●星野さんは、無防備でも動物と分かり合えるという信念を持っていたようですが、私も大いに共鳴するものがあります。
門崎●そういう考え方は己本意の解釈で、熊には全く通用しませんよ。熊の棲場に入る時には、やはり相応の防備(自衛)は絶対に必要です。
福田●防備はしても、防具は持たないくらいの気持ちでいるほうが、本当の意味で野生動物と接することができるような気がするのですが…。
門崎●それはあまい考え方だと思います。人を襲うクマの存在率は二千分の一以下ですが、そういう熊に出合うかどうかは確率論の問題です。ただ野生はそんなに甘くない。星野さんも〃餌が豊富な熊は人を襲わない〃という熊観を信奉していたあまり、不幸な結果を招いてしまったと思いますよ。もし〃鉈(なた)〃で もあれば助かった可能性が高いし、その熊も殺さずに済んだと思います。人間は自分のエゴイズムで野生に多大の迷惑をかけているという現実を絶対に忘れてはいけません。
ほんとうに熊とのよき関係を結ぶためには、門崎氏のような科学的姿勢が必要だとわたしは思います。星野道夫を襲った熊は、その後「駆除」されました。事故を回避できれば、襲った熊も殺されずにすんだかもしれません。

星野道夫は「銃を持たずに山にはいること」について、何度も書いています。読めば、その気持ちもとてもよく理解できる。共感もできる。しかし、いざというとき「銃」でなくても熊を反撃できる可能性について、星野道夫は書いていない。「銃を持つか否か」の二者択一になってしまっている。そこが問題であったとわたしは感じています。

このようなことを認めるのは、つらいことです。けれど、このつらさを引き受けて、間違いを正さない限り、起きなくても済んだはずの熊との事故はまた起きる。事故を教訓として、熊とよりよき関係をつくっていくことこそ、死者へのはなむけであると、わたしは思います。

そして、このような「客観的事実(=科学的側面)」があったとしても「主観的事実」(=神話的側面)は損なわれない。星野道夫が、熊に食べられるという形でその命を失い、もう一つの世界へと旅立っていったことは、神話的解釈を呼び起こさずにはいられないことです。

ユリイカでも書きましたが、このふたつを共存させる心の強靱さを、わたしたちは持たなければならないと思います。それは、とてもむずかしいことだけれど、そのふたつとふたつとも「事実」として受け入れることが、世界をより豊かなものにしていくのだと確信します。科学的な観察に基づく現実だけでは、心が貧しくなる。だからといって、神話的現実だけを見ようとすると事実を無視することになり、平衡を失うことになる。時に、危険な領域に足を踏み込むことにもなりかねません。
「科学」の鬼子のようなテクノロジー(近代の物質優位の思考とその産物)があまりにもに蔓延し、「自然」も変容され、「人間」自体までが破綻しそうになっているという「勢力地図」のようなものを考えてみれば、彼に深い危機の意識や焦燥があったことは容易に想像できるし、それが、一見、「反科学」とも見えるような言説となったということは十分にありうるだろうと思うけれど。by Cafe Lumiere ドロンコ氏投稿より 
確かに、そういった側面もあるかもしれません。「目に見えるもの」に重きを置きすぎているこの社会に平衡を取り戻そうとするあまり、軸足が性急に「目に見えないもの」に寄りすぎ、それを語る言葉が「半科学」に見えるようになったということもあるかとも思います。

しかし、ユリイカにも書いたように「目に見えるもの」「目に見えないもの」を二項対立として捉えている限り、問題は解決に向かわないとわたしは感じています。晩年の星野道夫には、そのような二項対立的思考があったように思えてなりません。生きながらえていけば、彼はそこを抜けて「目に見えるもの」「目に見えないもの」をひとつにまとめあげていったかもしれない。「目に見えないもの」を深く感じるとば口に立った星野道夫が、その後どこへ向かって歩んでいったのか、その姿を見られなかったことは、悔やんでも悔みきれない残念なことです。

そして、そのように残念なことになった一因に、熊に関する科学的態度の欠如があったかもしれないと思うのです。また、ユリイカには書きませんでしたが、アラスカに挑む彼の態度のなかに「それはあまりに危険だ」「こんなことしていたら、いつか死んじゃうよ」と思うことが多々ありました。それも、ぎりぎりのところで選択されたものではなく、事前に回避できる危険をわざと選択しているように感じられることがありました。それをひとつひとつあげつらうようなことはしたくなかったので、あえてユリイカ誌上では触れませんでしたが、そのように危険を自ら選ぼうとする星野道夫という人の生き方に「客観的事実」よりも「自分のなかの物語」を何よりも優先する匂いがつきまとうことも事実です。「自分のなかの物語」を生かしながらも「客観的事実」をきちんと受けとめる道も、ほんとうはあったはずです。自分のなかの物語を成就させるためには、まず自分が生きていることが先決であることを思えば、客観的事実をきちんと受けとめ、危険を避けることがどうしても必要です。しかし、それをしようとしない性急さを、わたしは彼の行動に感じてしまう。そこにも、物事を二項対立として捉えようとする星野道夫を感じてしまうのでした。

彼がわたしたちに手渡してくれた「目に見えないものを大切にする心」を大事にしていくためにも、それを現実に反映していく智慧が必要だと思います。星野道夫を美しい神話のなかにだけ回収してしまってはいけない。星野道夫とその仕事を愛するがゆえに、そうしなければと強く思うのです。

しかし、その気持ちは簡単には通じなかったようです。きっと、わたしの書き方にも問題があったのかもしれません。星野道夫とその仕事を愛する人々から反感を買わず、きちんと通じるように語るにはどうしたらいいか。今後の課題にしたいと思います。

DORONKO  批判の自由は当然あってしかるべきだと思います。 2003年12月01日(月)01時45分29秒
死者の遺してくれたものをより大きく育てるために必要なこと へのコメント

最初におコトワリしたように、ぼくは誰の文章も精読はしていませんし、
すぐにじっくり読むということもできかねる状況なので、「言った」
「言わない」というようなやり取りはできませんし、したくもありません。
だから、寮さんには「単なる『印象論』のように」感じられた――という
のはもっともなことです。

ただし、ぼくは、星野道夫に対する「指摘や批判は、タブーである」などとは
まったく思っていません。それは、誤解してほしくはありません。もちろん、
およそ批判というものが批判の名に値するものであるためには、十分に慎重で
周到でもなければならないだろうとは思いますが――。

その上で、敢えて言いますが、彼を死に至らしめたカムチャッカでの事故に
ついての寮さんの考えと、そのネタになっている門崎さんのご指摘には、
ぼくも、ほぼ同感です。ただ、この一事だけで(ただしそれは、まさしく
「致命的な」一事でしたが)「星野道夫の思考や行動には科学的な態度が
決定的に欠けていた」かのように断定するとすれば、それはちょっと性急
すぎるのではないか?と、ぼくは思ったわけです。根拠を示せと言われると
困ってしまうのですが――。

ともかく、他の論者の文章や対話も読んでみたいし、今はこれ以上のことは
言える状況ではありません。どうかご理解のほどを。


おむすびの祈り  リン・スクーラーの「ブルーベア」を是非読んでください。 2003年12月01日(月)20時31分27秒
死者の遺してくれたものをより大きく育てるために必要なこと へのコメント

ユリイカ拝読させて頂きました。
寮さんは星野道夫の死について学ばなければいけないと思われているのでしたら
リン・スクーラーの「ブルーベア」のカムチャッカでの事故の部分を是非読んでください。
寮さんの意見を全て否定するつもりは有りませんが(今この本は自分の手元にないので記憶違いが有るかもしれませんが)
あの事故はドキュメント番組を制作するスタッフの心無い行為が引き金になっているようです。(番組で良いシーンを撮ろうと野生の熊に餌は絶対与えてはならないのに与えてしまった事)
以前CWニコルさんの著書でもドキュメント番組の制作時の危うさについて怒りの言葉を読んだ記憶があります。

寮さんが言いたかった事はこれが全てだとは思っていませんが
この部分とても気になったので投稿します。

おむすびの祈り


寮美千子  ナチュラル・ディスタンスの狂い/二者択一ではない思想へ 2003年12月02日(火)00時15分45秒
批判の自由は当然あってしかるべきだと思います。 へのコメント

▼ナチュラル・ディスタンスの狂い

熊は人と自然な距離感を保っていると、アイヌの猟師である姉崎さんから話を聞いたことがあります。どちらかといえば、熊は人間に遠慮しながら暮らしていると。その距離感が狂うことの要因は、もっぱら人間側の事情にあるとのことでした。熊とて、できれば人間のいる場所には出てきたくない。それがわざわざやってくるのは、林業のために広葉樹林を伐採されてしまい、食料の少ない針葉樹の森になってしまったり、開発によって彼らの生活区域である森を奪われたりすることで、熊が食糧不足に陥っているからだと姉崎さんは語りました。また、心ないハイカーや登山者が残飯などを捨てたりすることで、熊がその味を覚え、容易に食料を得られるからと、人を襲うということもあるそうです。

しかし、他人という訳の分からない人々と組んで熊の撮影の仕事をするのなら、そのようなナチュラル・ディスタンスの狂いがあるかもしれないことを、視野に入れる必要もあるはずです。そして、たとえナチュラル・ディスタンスの狂いがないと確信できる場所であったとしても、二千分の一の確率でも熊に襲われる可能性があったなら、銃とはいわないまでも、護身用の斧や鉈を用意することは大切な心構えではないでしょうか。

熊と素手で向き合いたい。そうすることによって対等な関係を結びたい。命をやりとりするぎりぎりの関係性を持ちたい。という考え方は、わかります。そこに銃が入ってくれば、互いの力の均衡が破れる。それもわかる。だから、銃を持たない。それもわかる。けれど、それはイコール素手なのか。熊との対等な関係を維持したまま、もっと現実的に対処する方法はないのか。それが、斧や鉈という第三の選択だったのではないか。「銃を持つか持たないか」「熊を信用するかしないか」という二者択一ではない方法があったのではないか。

星野道夫の事故について、それ以前に同じ地を訪れたテレビ局の心ないクルーが、よい映像をとるために熊に餌付けをしたという話を聞いたことがあります。それはそれで、ほんとうにひどい話です。どんなに責めても責め足りないくらいの話です。しかし、わたしはユリイカではあえてそのことに触れませんでした。不確かな情報を元に見知らぬ他人を責めることはできない。そして、そんなひどい人間がいたとしても、いなかったとしても、星野道夫本人が万が一を想定して護身用の斧や鉈を用意していれば、あの事故は防げたかもしれない。その可能性がほんのわずかでもある限り、やはりそのことが何よりも残念でならなかったからです。

星野道夫がいま生きていて、わたしたちにどれだけのものを手渡してくれたかを思えば、その死を悼まないではいられない。彼を直接知っている人も知らない人も、いまもなお、どれだけ大きな傷を抱えているかを思えば、やっぱりなにがなんでも生きていてほしかった。荒ぶる熊からも、心ない馬鹿な人間からも、自分で自分の命を守ってほしかった。そう思わずにはいられません。

▼二者択一を超えて

星野道夫の死の衝撃が深いだけに、その話題に触れると、あたかもわたしがそのことだけに焦点を当てているように思われてしまいますが、決してそうではありません。それ以外の多くの話題にも触れ、またクィーンシャーロット島のトーテムポールを崩れるに任せていいのか、という疑問をきかっけに「目に見えるもの」「目に見えないもの」のどちらかを選ぶという二者択一の思想ではなく、それを融合し止揚することが必要だったのではないか、と提言しているのです。

さて、ドロンコ氏はわたしのユリイカの文章を精読していない、ということを前提として、このような発言をしています。
その上で、敢えて言いますが、彼を死に至らしめたカムチャッカでの事故についての寮さんの考えと、そのネタになっている門崎さんのご指摘には、ぼくも、ほぼ同感です。ただ、この一事だけで(ただしそれは、まさしく「致命的な」一事でしたが)「星野道夫の思考や行動には科学的な態度が決定的に欠けていた」かのように断定するとすれば、それはちょっと性急すぎるのではないか?と、ぼくは思ったわけです。by ドロンコ氏
ここでお断りしておきますが、「星野道夫の思考や行動には科学的な態度が決定的に欠けていた」という表現はユリイカのわたしの文章のどこにもありません。このように括弧付きで、あたかも引用のように書かれると、まるでわたしがそう書いたかのような誤解を生む可能性がありますが、わたしはそのような書き方はしていません。

また、ユリイカを読まず、ドロンコ氏の文章だけを読んだ掲示板読者諸氏は、わたしが星野道夫の事故死を取りあげて、その一事により星野道夫の非科学性をあげつらっているかのように思われるかもしれませんが、ユリイカ本文を読んでいただければ、まったくそのようなことではないということをおわかりいただけると思います。ドロンコ氏のように、精読しないで反論する人に、このような丁寧な反論をする必要はないのですが、誤解を招く投稿をそのままに見過ごせば、わたしの人格が誤解されかねないので、あえて説明することにします。

確かに、以下のような文章があります。
「心=神話的視点」の車輪に重きを置き、「現実=科学的視点」をおろそかにしてしまったのではないか。
しかし、文脈のなかで理解してもらえばわかるように「科学的態度が決定的に欠けていた」という一方的な意味ではありません。なんども語ったように「目に見えるもの」「目に見えないもの」のどちらかを選ぶという二者択一の思想ではなく、それを融合し止揚することについて語ろうとするための言葉でした。その微妙な部分を表現したいがために、五〇枚という紙数を費やす必要があったわけです。

繰り返しますが、ユリイカを読んでいたければわかるように、わたしは星野道夫の死ということだけを問題にし、それによって彼の行動のすべてを判断しているわけではありません。そして、その死については、鉈を持っていなかったということで星野道夫その人を責めているのではなく、むしろ、その事実から目を覆い、彼の物語を「美しい神話」のなかにだけ回収しようとする人々に対して「それでいいのでしょうか」と異議を唱えているのです。それでは、ほんとうに「供養」にならないのではないか。いま、わたしたちが星野道夫から現在形で語りかけてもらえなくなったその原因を直視すべきではないか。そこから学び、未来に生かすべきではないか。そうしなければ、あの死は無駄になる。そういいたいのです。

敬愛する人間のすべてを肯定したいという気持ちは、きっとだれにでもあるものでしょう。けれど、一歩間違うと、それが正しい方向を見失う原因になってしまうこともある。そこに、実像ではなく虚像ができあがってしまう。それでは、本当にその人を愛したことにならない。すばらしいところは、すばらしいといい、間違いは間違いと認めること。そうすることが、その人を生身の人間として、ほんとうに愛することになるのではないか。そして、そのように愛したからといって、その人間の深い神話的側面が少しも損なわれるわけではないのです。

星野道夫の死について、そして晩年、彼が神話的世界へと軸足を急速に移動したことについて言及したため、わたしがあたかも、完全なる星野道夫像をぶち壊そうとしているように感じる読者もいるかもしれません。そのために、むっとする人も多いと思います。自分が大切に思う人のことを、少しでも悪くいう人がいたら、その文脈にかかわらず(ほんとは悪くいっているわけじゃないのに)不愉快に感じてしまうのは人情です。そして、不愉快さ故に、本来の文脈を読みとることさえ心が拒絶してしまうこともあるでしょう。その心情は、とてもよく理解できます。わたし自身にも、往々にしてそのような面があると感じています。そして、一旦マイナスの感情を抱いてしまうと、相手の真意を理解することはむずかしい。

それを避けるために、細心の注意を払おうとしましたが、ユリイカのわたしの文章では、まだその配慮が足りなかったように感じています。これは、単にわたしの性急さと文章力のなさのせいでしょう。情けなくも繰り返しますが、わたしは星野道夫を貶めようとしているわけでは毛頭ありません。ユリイカのなかでも書いたように、彼の神話的側面を傷つけるつもりはないのです。そして、わたしが何をいっても、彼の神話的側面は傷つけられるような軟弱なものではないのです。わたしの文章は、星野道夫が遺してくれたものを、よりよく継承していくためにはどうしたらいいか、それについて自分なりに一生懸命考えた結果の言葉です。一見否定的に見える言葉の表面にとらわれず、真意をくみ取っていただければと思います。

次の機会には、彼が遺してくれた神話的側面、そのすばらしさについても、もっと語りたいと思います。ちなみに、わたしがもっとも好きな彼のエッセイは『アラスカ風のような物語』に収められたエッセイ「あるムースの死」です。(星野道夫著作集2 二四〇〜二四二頁)

▼ドロンコ氏へ

自分の印象や気分を述べるのは自由ですが、わたしの文章への誤解を招くような書き方はやめてください。気分や印象を書きたいなら、わたしの文章を引き合いに出さずに、ご自分の意見としてお書きください。
批判というものが批判の名に値するものであるためには、十分に慎重で周到でもなければならないだろうとは思いますが――。by ドロンコ氏
ありがたいこのお言葉、熨斗つけて返してさしあげます。

▼ユリイカ12月号はこちらで入手可

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4791701135/harmonia-22

DORONKO  お詫びです。 2003年12月02日(火)14時57分23秒
ナチュラル・ディスタンスの狂い/二者択一ではない思想へ へのコメント

 このように括弧付きで、あたかも引用のように書かれると、まるでわたしが
 そう書いたかのような誤解を生む可能性がありますが、わたしはそのような
 書き方はしていません。                   by寮さん

これはおっしゃる通りです。引用符の使い方があまり適切ではなく、軽率だったと
言われても仕方がありません。寮さんの意図や書き方について、どうか誤解しないで
いただければと思います!

遅ればせながら、ぼくは、「ユリイカ」の論で、寮さんがとても大事な問題提起を
していると思っています。それは、「ユリイカ」の特集を読んでもらえばわかること
だから、別にぼくがここで言わなくてもいいだろうと思っていたのです。そして、
「晩年、彼(=星野道夫)が神話的世界へと軸足を急速に移動した」(丸カッコの
部分を除いて、これは寮さんの書き込みそのままの引用です)という寮さんの指摘も、
ほぼ(というのは、ぼくはこの点に一番関係がありそうな『森と氷河と鯨』を読んで
いませんので)当たっているんじゃないかなと思っています。
……じゃあ、何がいけないんだ?と言われると困ってしまうのですが、晩年の星野道夫が
ワタリガラスの伝説に強く魅かれ、それに没頭するようになっていったのはまぎれも
ない事実だとしても、ぼくは、それは彼がかなり意識的・自覚的に取り組んでいた
ことであって、いったんその世界に入ってしまったら、もう戻ってこれない――という
ようなことではなかったんじゃないか、あの事故で命を失うようなことがなければ、
やがて彼自身でその「旅」を振り返って、あの魅力あるやわらかな言葉で、ぼくたちに
また新たな物語を聞かせてくれたに違いない、と思っているわけです。

この点も、寮さんと、ほとんど違いはないみたいだけど――。
でも、寮さんの方が彼の死を惜しむ気持が強くて、ぼくには「生きている
星野道夫」のイメージの方が強いということかな?と。
やっぱりぼくは、相当にノーテンキなんだろうか、と思ってしまいますね――。

とにかくみんな、「ユリイカ」12月号を買って読みましょう!
これはぜひ、手元に置いて読み返す価値のある一冊です!

管理者:Ryo Michico <web@ryomichico.net>
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