ハルモニア Review Lunatique:「楽園の鳥」完結記念朗読ライブ

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■「楽園の鳥」完結記念朗読ライブ/坂田明&寮美千子 朗読原稿1「楽園の鳥」抜粋

Mon, 15 Apr 2002 16:54:31

1■夢の大気
 夢を見ていたのかもしれない。夢の大気は水よりも濃く、ねっとりと粘りついて、肌にまつわりついてくる。わたしの動きは緩慢になり、起きている時間と眠っている時間の区別もつかない。
 眠りが浅ければ、覚醒もまた浅い。そのあわいは溶け、夢と現実の境目が不確かになる。
 けれども、ずっとこんなふうだったわけではない。もっと遠い時間、子どものころには、何かが違っていた。すべてはもっと澄んで、はっきりと見えた。
 いつからだろうか、風景がこんなにもひどく歪みはじめたのは。
 少なくともここ数年間、わたしは強い夢のなかに棲んでいる。それが耐えられなくて、夢さえも見ないほど深い眠りにつきたいと、何度願ったことだろう。安定剤と睡眠薬が手放せない日々。それさえも役に立たず、いっそすべての電源を切ってしまいたいと思った。
 よく晴れた美しい日、わたしは十一階のヴェランダから宙釣りになった。片手は完全に虚空に放たれていたのに、もう一方の手は、手すりから放せなかった。
 駈けつけたパトカーが、玩具のように小さく見えた。人々が、あわただしく動いている。それが、音のない映画の一場面のように感じられた。
 わたしは眼を閉じ、顔を空に向け、光を感じながら、残された手の力を抜いた。
 そのとたん、誰かがぐっとわたしの腕をつかんだ。それが警官だったのか、誰だったのか、思いだせない。覚えているのは、空だけだ。まぶしい空の、青。
 あのころに比べれば、わたしは少しだけ癒され、少しだけ目覚めているかもしれない。
 それでもなお、深い夢のなかであることに変わりはない。幾重もの夢の箱。ひとつの箱を開けても、次の箱が待っている。すべては相変わらず夢の文法にゆだねられ、脈絡のない出来事が深い水脈でつながる。
 わたしはどこにいるのだろう。どこへ行こうとしているのだろう。いつから夢を見ていたのだろう。もしかしたら、ずっと夢のなかに棲んでいたのか。生まれた時から、いや生まれる前から。
 だとしたら、その夢はどこから来たのか。目を見開いたこともない胎児の、無垢なはずの脳に浮かびあがる夢の風景は、一体どこの風景なのか。
 円くうずくまる胎児が、淡く光る羊水にぽっかりと浮かんでいる。
 いや、あれは月だ。満月。もう何時間も地平線すれすれにいて、沈みそうで沈まない太陽がようやく沈んだのと入れかわりに、東の水平線から満月が昇った。月が昇ったぶん、世界は沈んでいく。ゆっくりと、希薄な、水の、なかに……。

85■混沌の闇
 はじめてカルカッタに足を踏みいれたあの夏の日、飛行機は最終便だった。空港から一歩外に出ると、濃い闇が広がっていた。タクシーは、なにも見えない闇のなかをひたすら走っていった。どこまでも深い闇の底に降りていく、わたしはそんな錯覚に襲われた。
 時折、道路沿いにともる灯りが、人と牛と山羊と背の低い泥の壁をぼんやりと照らした。それが、闇を一層濃く見せる。墨を流したような闇のなかから渾然とした匂いが滲みだしていた。腐った花の匂いのようにも、牛や山羊の匂いのようにも、そして闇のなかで狂おしいほど旺盛に繁る植物のなまめかしい吐息のようにも思われた。その匂いと得体のしれないねっとりした闇が、毛穴からじわじわと浸みこんでくる。
 街が近づくにつれて道路沿いの灯りが頻繁にともるようになった。わずかな灯りにふと見える人影は意外なほど多く、闇のなかすべてにびっしりと人がうごめいているようにすら感じられた。それは、葉の裏に隙間なくこびりついた虫の卵を連想させた。
 走馬燈のように現われては消える映像は、まるで記憶の深い闇から湧きあがってくる地霊たちの姿のようだ。埋葬したはずの遠い祖先の記憶を無理矢理呼び起こされているようで、わたしはいわれのない不安に襲われた。濃い闇が、それを一層増幅して、吐き気を覚えた。

 翌日、光のなかではすべてがもっとはっきりと見えた。底なしの闇と違って、そこには見えるものしか存在しなかった。
 しっかりと目を見開いて受け止めればいい。見えている、それだけしかない。想像力のなかで増幅された恐怖に比べれば、その方がずっと楽だ。すべては眩しい光のなかに、くっきりと存在していた。栄光も悲惨も、過去も現在も。
 未来だけが見えなかった。

113■手風琴の男
 通りはすでに喧騒に満ちていた。朝の光のなか、それは猥雑というよりも、むしろすがすがしい。
 道端の井戸で人々が体を洗っている。布を腰に巻きつけたまま、石鹸を勢いよく泡立てて体中を洗い、頭から盛大に水を浴びる。水しぶきが、気持ちいいほど派手に飛び散る。
 大きな皮の袋に井戸水を汲んでいる男もいる。袋がみるみる膨らんで、やがてぱんぱんに張りつめ、山羊の形になる。山羊一頭分の皮を縫いあわせてつくった水袋。男がそれを背負うと、たわわに膨らんだ山羊の足が、男の背中で力強く弾ねた。
 昨日、疲れきった灰色の大気のなかで暮れていった街が、いま、生まれ変わったように透明な光のなかにある。闇のなかでうごめいていた者たちが、力にみなぎって目を覚ます。路上で暮らす子どもたちや、足のない物乞いでさえ、輝いて見えるのは、心がもうこの街に順応しはじめているせいだろうか。たったひと晩、街の空気を吸いながら眠っただけだというのに、カルカッタはもう、わたしのなかで呼吸しはじめている。

191■石の祭壇
「ねえ。早く、生贄の山羊を見に行こうよ」
「よし、いよいよ生贄の祭壇だ」
 人波に流されるように街を漂流していたわたしたちは、はっきりとした意志を持って祭壇に向かって歩きはじめた。
 人で埋まった、神具と花を売る小さな店が並ぶ細い通りを抜けると、ふいに中庭のような場所にでた。小さな通りに満ちていた虫の羽音のような喧噪がふっと抜け落ち、ざわめきともどよめきともつかぬ、重い声や深い呼吸が、そこを支配していた。そこに、生贄の祭壇はあった。
 それほど大きな場所ではない。六畳ぐらいの四角く囲まれた場所で、地面から三十センチほど低く掘りさげられた石の床だ。祭壇といえば、地面より高いものと思いこんでいたので、意外だった。
 しかし、理由は考えなくともすぐにわかった。四角い石の床は、すでに一面が血の海だった。祭壇の一方の端には、二股に分かれたしっかりした木の幹が、十字架のように台座から直立している。
 祭壇の血があらかた洗い流されると、三人の男たちがやってきた。ひとりは、大きく重そうな斧を持っている。一頭の山羊が、人に引かれて祭壇に歩み入ってきた。

192■色彩の海
 山羊の首には花輪がかけられ、額には赤い色の粉がつけられている。それだけみれば、なんともかわいらしく飾られた山羊だ。まるで、おとぎ話の主人公のように。
 けれども、山羊は生贄として首をはねられるためにここに連れてこられた。わかっているのかいないのか、山羊は祭壇に入るのを後込みし、頭をさげて、後ろ脚で踏んばる。山羊の口から、鳴き声が洩れる。血の匂いもすれば、突き刺さるような周囲の眼差しも異様だ。山羊だって、それを感じないはずがない。
 祭壇にいた屈強な男が二人がかりで、動こうとしない山羊を強引に祭壇に引きいれる。
 だれもが、次に起こることを息を飲んで見守っている。祭壇のある中庭の空気が張りつめ、急に澱んで重くなる。この中庭から見える空。その空に至るまでの大気がすべて、透明な水になって肩にのしかかってくるような重さだ。
 祭壇の男たちの身体は、不思議な力にみなぎっている。緊張感が身体を内側から輝かせている。斧の刃が光り、隆々とした筋肉が汗で光る。
 二人の男が、祭壇に立てた木のところに山羊を連れてきて、力ずくで押さえこみ、木の股に山羊の首を挟む。しっかりと挟んだのを確認して、二人の男は、一人一本ずつ山羊の後ろ脚を持ち、体重をかけて引っぱった。
 木の股に挟まれて、山羊の首が長く伸びる。山羊の脇で、斧を持った男がきっちりと場所を決めて立つ。どこかで、太鼓の音が夢のように響いた。
 と思ったとたん、男は大きく斧を振りあげた。振りおろされた軌跡が、青い空をよぎる銀の翼のように見えたのは、一瞬の錯覚だろうか。
 斧は正確に振りおろされ、長く伸びた山羊の首を一撃ですっぱりと斬り落とした。
 木の股に引っかかっていた山羊の首は転がり落ち、足を持って引っ張っていた男たちは、そのままもんどり打って後ろに倒れた。
 血を噴水のように噴きあげながら、首のない山羊が宙を舞う。そして、祭壇の柵にぶつかり、鈍い音を立てて床に落ちる。
 首のなしの胴体が大きく波打ち、脚を激しくばたつかせる。そして、ふいに動かなくなった。
 夥しい量の鮮血が石の床にまき散らされ、首からはまだ血が流れつづける。
 なんてきれいな色なんだろう。わたしは茫然としながら、そう思っていた。なんてきれいな色なんだろう。

313■世界の果て
 そこがもう尾根だ。助かった。そう思って、膝に力を入れ、ぐっと身体を持ちあげたとたん、足がすくんだ。
 尾根だと思ったその向こうは、いきなり百メートルも落ちこむ断崖だったのだ。蹴り落とした小石が、吸いこまれていく。途中で石や砂を巻きこみ、谷の底で小さな地滑りになって砂煙をあげる。恐ろしさに足が震え、思わずへたりこんだ。
 目を閉じ、息を深く吸い、気持ちを落ちつける。
 ゆっくりと目を開けた。目の前には信じられない光景が広がっていた。アンナプルナに連なる山々から流れだしてきた氷河が合流してできた、途方もなく巨きな谷。巨きい。それが何であるのか把握できないほど巨きい。
 わたしがいるのは、その巨大な谷の縁だ。小高い丘だと思ったのは、氷河が流れていく時に、巨大な力でめくれあがらせた地面だった。わたしは、幅がわずか五十センチほどの、その縁の上にいるのだった。前は断崖、後ろも急勾配の、とても降りられそうにない坂だ。
 なんてことだろう。ひとりっきりで、どうすればいいのか。縁にまたがるようにしてへたりこんだまま、わたしは茫然と身動きもとれなかった。

314■永遠の青
 誰も、わたしがこんなところにいるなんて知らない。いま死んでも、日本には知らせはいかないだろう。ここはきっと、世界の果て。
 そう思って谷を覗くと、思わず吸いこまれそうになった。重力だけではないその不思議な力に必死で抵抗して、谷底から目を逸らした。
 すると、目の前に広がる風景が見えた。巨大な谷。その谷を囲むようにして山々が高くそびえている。左手背後には、その麓を迂回してきたヒウンチュリ。その隣りに圧倒的な大きさのアンナプルナ南峰。護衛のようにそびえるもう一つの山の奥に、アンナプルナ主峰が白く輝いている。その頂まで、標高差なんと四千メートルの大岩壁がそびえている。そこから、六千メートル、七千メートル級の山々が大屏風のように峰を連ね、ぐるっと頭を回らせれば、右手背後でマチャプチャレが一段と険しい峰を屹立させる。
 山々は、空の、永遠の深さを思わせる青につながっている。この惑星の裸体は、こんなにも美しい。天に通じる山々に囲まれた聖地。それがこの谷だとしたら、わたしはいま、その縁にいる。人の領域と神々の領域の境目に立っている。
 と、突然、肝が潰れるような大轟音が鳴り響いた。大地が割れるような音。音は、誰もいない山の谷のひとつひとつに響きわたり、巨大な谷をどこまでも木霊しながら、ゆっくりと消えていった。
 茫然として谷を眺め、しばらくして、ようやくそれが、氷河の割れた音だと気づいた。
 強い日光に晒されて氷河が融け、崩れて音を出す。南峰から押しだされるように張りだした氷河の先端からは、一筋の水が絶えず流れ落ちていた。
 この水が、川になるのだ。せせらぎを駈けおり、吊り橋の下をくぐり、人々の渇きを癒し、美しい段々畑を隈なく潤し、村から町へ、ポカラからカトゥマンドゥへと流れてゆく。
 豊かな畑、頬を輝かせる人々。ここは確かに、純白の衣を纏った豊穣の女神の座なのだ。
 モディ川は、そのまま平原を南西へと流れ、国境を越えてガンジスになる。ガンジスは支流を集めながら、西ベンガルの肥沃な三角地帯へと流れ、無数に枝分かれしてベンガル湾へ注ぐ。その河口のひとつに、カルカッタがある。
 カルカッタの雑踏が、耳の奥で甦った。

315■走馬燈
 死ぬのかもしれない。人は、死ぬ前に生まれてからのことを走馬燈のように思い出すという。ならば、わたしはここで死ぬのかもしれない。
 そう思うほどに、いままでの旅のすべてが、一気に心に溢れかえった。カトゥマンドゥ、カルカッタ、バンコク……。見てきた物すべて、出会った人すべてが、次から次へと重なるように明滅し、幼い日の光と闇の一瞬までもがそこに重なる。
 回る、回る空。笑い声。木洩れ陽。まぶしい。まぶしいよぉ。こぼれる光が、天井からぶらさがる電灯になる。影が大きくぐらりと揺れる。振りあげられた腕。やめて。やめて、ママをぶたないで。泣きながらしがみつく巨人の腕。やめて、やめてアーロン。振りおろされた腕がまっ黒な影にめりこむ。うめき声をあげ、脱兎のごとく逃げる影。祭りのざわめきのなか、ドゥルガーの女神の千本の腕がふるふると震える。だいじょうぶだよ、もうだいじょうぶだ、ミチカ。アーロンの大きな背中。それが、いつのまにか父の背中になる。花の降る午後。舞いおちる白い薔薇。まっ黒な地面に落ちたとたんに、みるみる真紅に染まっていく。まっ赤な花びらで埋まる庭。流れだす花びら。あれは、血だ。花輪で飾られた生贄の山羊。ひと声鳴くと、冠物をつけたラバになっている。ラバを追い越して山道を登る女の裾が翻ったかと思うと、空に翻る経文の旗になり、バンコクの裏通りを案内する黒人の原色の服の裾になる。薄暗い路地。洋館。青い水の底で眠るディオン。振り向いてわたしを見たその目がみるみる遠ざかり、チャンドラナガールの雑踏に紛れていった男の碧眼になる。置き去りにされた血。走るリキシャ。川沿いの道。小舟とイルカ。アッシムと見上げる巨大なバニヤン樹の向こうから、切り立ったマチャプチャレが顔を出す。夜だ。山の稜線の向こうにきらめく星々。巨大な満月。月に襲われるように光に飲みこまれ、まぶしさに思わず目をきつく閉じる。
 目を開けると、そこには空があった。どこまでも青く、透明な光。聴こえてくるのは、氷河の軋みと水の音だけ。もう死んでいるのかもしれない、と思うような静けさが世界を満たしていた。
 どれくらい、そうしていただろう。動かなくては。そう思ったが、足がすくんで動けない。
 ああ、生きている。生きているから、恐い。自分がまだ肉体を持ち、生々しい恐れの感情を持っていることが、不思議だった。
 いざるように少しずつ前に進む。いくら進んでも、一ミリも進まないような気がするほど道は遠い。こんなことでは帰りつかない。しびれを切らせ、とうとう立ちあがった。ふと蹴り落とした小石が、遥か下に転がり落ちていく。
 恐くない。わたしは歩いていける。自分に強くそう言い聞かせ、谷の縁を歩いていった。

325■摩耶夫人像
 何もない。門もなければ塀もない。棒杭に錆びた有刺鉄線が張られただけのその向こう、蜜色の夕暮れの光のなか、荒野に横たわるようにして、くすんだ色の遺構と小さな池があった。
 それが、釈迦生誕の地ルンビニの宮殿跡だった。腰ぐらいまでしかない煉瓦積みの遺構が一面に並んでいる。風がざわめきを消し、夕暮れの饒舌な光さえ声を潜めている。釈迦が産湯を使ったという池の水も、鏡のように静まりかえっている。
 階段があった。かつてはどんな豪奢な空間へと続いていたのだろう。いまでは暮れなずむ空へと通じるだけの階段。人々に踏まれ続けたせいなのか、自らの重さに耐えかねたのか、褶曲する地層のように、その階段は歪んでいた。
 それは、時の流れに崩れた、というより、雨に打たれ光に溶けて、徐々に大地へと染みこんでいったもののように見えた。

326■永劫の楽園
 空は深く澄み、大地では色が鎮まって、遺構も土も樹木も、ひとつの闇の塊になろうとしていた。
 その時、突然、菩提樹から鳥が飛びたった。無音だった世界に、一斉に響きわたる羽ばたき。躍りでた鳥たちの羽根の色の鮮やかさが、砕けた蒼穹の破片のように、空を埋めた。
 鳥たちは旋回したかと思うと、梢の強い磁力に吸いつけられて墜落するかのように、急激に墜ちてきた。ばらばらと枝に止まる。色彩の乱舞が、一瞬にして鎮まる。
 湧きあがるさえずり。かしましい鳥たちの声が、菩提樹の空間を埋め尽くす。刻々と濃くなる闇の気配のなか、菩提樹の、張り巡らせた迷路のような枝のすべてが、鳥の重さで撓み震える。
 そしてまた、何かの拍子に一羽が飛びたつと、追いかけるように一斉に羽ばたいて、暮れ残る空の光に、一瞬鮮やかな羽根の色をきらめかせた。旋回し、やがて小さな黒い影絵となって、赤く燃える地平線の彼方へと消えていく鳥たち。
 後には、がらんどうになった菩提樹だけが残され、再び、死のような静けさが遺跡を満たす。
 鳥にさえ去られた、楽園の黄昏。
 かつて、枝を撓ませていたのは、執拗にさえずる鳥の群れではなく、光のように咲きほこる花々だったはずだ。満ちていたのは、死より深い静謐ではなく、燃え盛る命の歓び。栄華は一瞬で、滅びの時間は永劫に等しい。
 煉瓦の宮殿や庭園でさえ、そうなのだ。人間ひとりの命の、なんと短いことだろう。この命がわたしという形をして目覚めていられるのは、永劫の時の流れのなかの、ほんの一瞬に過ぎない。
 しかし、その一瞬の、なんと長きことだろう。苦しみに満ちた長き旅路。
 けれども、いつかは帰っていける。この永劫の静寂のなかに。砂や石、土や水、木や草や鳥や獣とともに、必ず帰っていける。
 その深い安らぎが、わたしを満たした。
 すると、地上であがく自分の姿が、頭蓋でふいに、飛びたった瞬間の鳥の姿に重なった。羽ばたきながら、一瞬見せた美しい羽根の色。
 鳥は知らなくとも、その鮮やかな色を、いつも抱いている。そっと卵を抱くように、羽根の下に。

336■彼方
 わたしは、雑踏に立ちつくしたまま、ダンの消えた道の果てを眺めていた。
 ダンは帰っていった。アッシムも帰っていった。みんなみんな、帰ってゆく。けれど、どこへ帰っていったのだろう。
 わたしは帰らない。いまはまだ帰れない。たとえここが世界の行き止まりでも、ここで正気で狂気を抱えていたい。目覚めたまま、夢を見たい。
 街の喧噪が、わたしを包む。荷車が車輪を軋ませ、散乱した素焼きの器を割りながら通る。井戸水が光にきらめき、子どもたちが歓声をあげる。
 命のざわめきが光になって、去っていった者たちの痕跡を一瞬ごとにかき消していく。
 楽園のただなか、わたしは思わず、眩しさに目を閉じた。

■「楽園の鳥」完結記念朗読ライブ/坂田明&寮美千子 朗読原稿2「光の音楽」

Mon, 15 Apr 2002 16:51:02

2000年5月、若葉繁る頃に、ジャズの名プロデューサーだった大橋邦雄氏が亡くなりました。青木マラカイ氏とともに「プロジェクト21」を主催してきた大橋氏は、坂田明氏とも、わたしとも古いつきあいでした。これから生命が繁ろうとするこんないい季節に、なぜ、独り逝ってしまったのか。この季節が訪れると、それを思わずにはいられません。いっしょに年をとりたかった。ライブの最後に、大橋氏へ捧げる詩を、坂田氏のサックスとともに読ませていただきました。ここに、再録します。

(光の音楽 大橋邦雄に捧げる)

消える
あなたが消えると
あなたのなかの 
空が消える
海が消える
太陽と月が消える
幼いころ かけめぐった渚の感触や
少年という生き物になって まぶしげに見あげた雲の遠さ
はじめて聴いたコルトレーンに 
止まらなかった涙の記憶が 消える
あなたのなかにある
まだ若かった頃の わたしたちの面影さえ
あなたとともに消え
ひとつ またひとつと
ともにつくっていった
音楽のうねりが消え
音楽を 光のように放って輝いていた
地上の星々の思い出が消える

そんなにも明るい五月の緑のなかで
どうして逝ってしまったのか
あなたは 
あなたのなかのすべての記憶をさらって
乱暴に去っていった
あなたのいない この地上に
わたしたちを 置き去りにして

あなたが消えると
あなたのなかの 
空が消え
海が消え
太陽と月が
まばゆい星々が
無数の記憶が
わたしが
消える

けれども
消えない
あなたの記憶は
わたしたちのなかに
強く刻印され
いつの日か 
わたしたちが この地上を去る日がきても
音楽は流れゆく
あなたがつくった河を
果てしなく 彼方へと

そして
消せない
あなたのあの笑顔は
だれよりも無垢な あの笑顔は
だれも 消せない
いつまでも 空に響きつづける
光の音楽のように

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